ストラタジェム;ニードレスリーフ

波野發作

巻ノ零 アプライズ

イントロダクション:アンギッシュ

 鈴木春信の朝は早い。


 日が昇ると同時に、春信の一日は始まる。朝、最初にすることは暗いうちに書いた絵の出来映えの確認である。行灯の明かりでは、本当の出来映えがわからないからだ。錦絵をやるようになってからは、尚のこと色使いには気を使うようになった。昨夜のものは、まずまずの出来だった。春信は愛おしそうに自作を眺めると、深く溜息をついた。今日彫り師に渡せば、色付けに戻ってくるまでしばらくこの子たちには会えないのだ。その寂しさを紛らわせるために、春信は今日もまた絵を描き続けるのだった。


 春信は希代の色男であるが、めったに屋敷から外に出ないので世間にはあまり知られていない。外に出ると埃っぽくなるのが嫌であるし、うっかり道端で眠ってしまうとまずいからである。春信は、布団で寝ない。たまに寝床に入ると、すぐに新しい絵のアイディアが浮かんでしまい、飛び起きて画卓に向かってしまうので、おちおち寝てもいられないのである。その代わり、四六時中小刻みに一瞬ずつ眠ることが多い。昨日も色指定の打合せに来た摺り師と話していたが、飛び飛びに眠っていたため、うまく話が通じなかった。摺り師の方では心得たもので、あとはうまいことやると胸を叩いて出て行った。そんな調子であるので、下手に外を出歩くと、歩きながら眠って堀に落ちたりする心配もあるので、いきおい在宅での仕事が多くなったわけである。


 しかし、本人が外に出ないなら出ないで、黙っていても人は勝手にやってくる。春信の絵を見て弟子入りを志願するものは後を絶たないし、美男子だとの噂を聞きつけて物見遊山にやってくる婦女子も一山いくらで集まっている。ここ数年は源内がたいそう春信に惚れ込んで、毎日のようにやってきていた。毎日来ているうちに、春信もまんざらではない感じになっていたし、源内は源内で色絵を刷り出すのに欠かせない『見当』を考案するなど、実に献身的であった。風呂好きの春信に付き合って、源内もずいぶんと長風呂もするようになったと、下女も言っていた。


 春信はたびたび、気づかないうちに眠って夢と現実の区別がつかなくなることがあり、やれ小人が現れただの言い出すこともある。平賀源内が小人がどんな様子か見てみたいというので、絵に書いてみたら大いにウケ、結局一冊に括れるほど描いてしまったという。


 昨夜は、春画をたくさん描いた。これを彫り師に渡せばひと段落だ。じっと自作を見つめる。やはり、かわいい。現実の女子などちっともかわいらしくない。自分の描いた絵こそが美であると、春信は声を大にして言いたかった。しかし、気がふれたと思われるのも堪え難かったし、屋敷にも女子おなごはいて、彼女らが傷つくのは本意でないので、言えなかった。春画か。春信はまた溜息をついた。春画がどんどん幕府の禁書になっていく。丹誠込めて描き上げた作品が、禁書になればもう誰の目にも触れることなく、消し去られてしまう。辛い。先月も二冊禁書になった。きっと回収されて燃やされてしまったのだろう。切ない。あの子たちに二度と会えないなら、自分が生きていることになんの意味があろう。こんな哀しい思いをするぐらいならもう死んでしまおうか。そうだ、もう死んでしまおう。


 舶来の赤絵の具が体に毒だと聞いたことがある。これを一皿も喰らえばんでしまうにちがいない。そうしよう。さらば愛しきわが絵たち。春信は、絵の具を水に溶き、一息に飲み干そうとした。座敷の方が騒々しいので様子をうかがったら、源内が来たらしい。やれやれまたか。朝からなんとも面倒なお方だ。正直、今日は来て欲しくなかった。が、『見当』の礼もせねばなるまい。あれで色絵は一層美しく仕上がるようになったのだから。春信は溜息をついて、赤絵の具を画卓の下に隠し、下男の柿助に源内を当取絵アトリエに呼ぶように言った。

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