第3話

「ありがとうございましたー。またお越し下さいませー」


 背後から店員の定型の言葉を聞きながら、創一は自宅近所のコンビニエンスストアから出た。手に提げたビニール袋には、明日の朝食の為に買ったパンと牛乳、そして夕飯のお弁当が入っている。


 時刻は午後の六時を過ぎたところだ。西の空に太陽は半ば沈み、辺りは夜を兆す夕闇に包まれている。


 絹髪の少女がビルの屋上へ跳び去ってしまった後、創一はさらなる不思議な事態を目の当たりにすることとなった。


 あれほど異形な化け物が跋扈(ばっこ)し、その場にいた多くの人々に危害を加えたにも拘わらず、少し時間が経てば、何事も無かったかのように人々が日々の暮らしに戻ったからだ。いつも通り、大通りには車が通行し、人々が往来した。怪我人を運ぶ救急車が駆けつけることはあっても、警察が駆けつけるような素振りは全くない。その有り様は、まるで人々が起きたことを全て綺麗さっぱり忘れてしまったかのようだった。


 何もかもが、おかしい。何度も自分の常識の方が間違っているのではないかと自問自答したが、どう考えても自分の周囲の方が可笑しいとしか考えらなかった。しかし、それが全くおかしいことではないかのように、日常は今まで通りに過ぎ去っていく。


 創一は、自分が世界から取り残されたような孤立感を覚えていた。


(……とにかく、今日は早くシャワーを浴びて、すぐに寝よう。きっと疲れているんだ)


 自分にそう言い聞かせながら、自宅へ向けて薄暗い夜道を歩き続ける。


(そう言えば、今日は数学の課題のプリントが配られたんだったか。寝る前に、きちんとやっておかないとな。あの数学の郷田先生は、課題をやって来ないと面倒な人だからなぁ……)


 創一はそんなことを考えながら、ぼんやりと自宅に続く道を歩いていた。


 だからこそ、舞台の照明灯を当てられたように、周囲の光景が妙に明るく暖色掛かっていることに気がつくことに遅れた。


「……え?」


 創一は突然の景色の変容に嫌な既視感を覚えて、辺りを見回した。


 おかしい。先ほどまで辺りは夕闇に包まれていた筈なのに、この辺り一帯が昼間のように明るい。しかも、妙にセピア色掛かっている。まるで、暗い部屋で白熱電球を付けたかのような光景だ。


「……おや、人形劇の中で動けるとは、どうやらただの人間ではなさそうです」


 創一は背後から聞こえた声の方へ振り返った。


 道の真ん中に、メイドの姿をした女性と思わしき人物が屹立(きつりつ)していた。身長は高く、その西洋風な顔立ちは、まるで造形物のように綺麗に整っている。等身大のマネキン人形をビスクドールのように愛らしく仕上げたら、そのような姿になるかもしれない。


「なるほど。マスターが目を付けられるだけのことはあります。何やら特殊な体質をしておられるのやもしれません」


 メイドが抑揚の無い無機質な声音で滔々(とうとう)と喋り続ける。


「あなたは……誰だ?」


「これは失礼致しました。申し遅れましたが、私は名をベルと申します。本日は、あなた様をお迎えに上がりに参りました」


「は……? 僕を……迎えに?」


「はい、その通りでございます。あなた様を丁重にご案内するよう、マスターから言い遣っております」


「僕を……誰が? マスターって、いったい誰なんだ?」


「リリア様です。あなた様は本日、リリア様とお逢いになられた筈でございます」


 創一の記憶には、リリアと呼ばれるような人物に心当たりは無かった。そもそも、リリアという西洋的な響きを持つ名前の知り合いなんて一人もいない。


 ふと、創一の脳裏に、とある人物の姿が浮かんだ。今日の昼間、自分を二度も化け物の襲撃から救い、絹髪の少女と闘っていた、金髪の少女だ。


「まさか……リリアって、昼間の金髪の女の子のことか?」


「はい。ご推察の通りでございます」


 ベルと名乗ったメイドは静かに頷いて見せた。


「あの子か……。それで、なんでそのリリア……さんが、僕のことを?」


「誠に申し訳ありませんが、その御質問にはお答えすることは出来ません。ただ、私は、あなた様をマスターのもとへ連れて参るよう御命令を賜(たまわ)りました。どうか御足労をお願い致します」


 ベルはそう言うと、恭(うやうや)しく創一に一礼した。


「いや、そんなことを急に言われても……」


 創一は昼間に起きたことを思い出した。確かに、リリアという少女には何度か命を助けられたことは事実だし、その点に関しては、あの少女に好意めいた信頼を抱いている。


 しかし、人間離れした動きや奇術のような氷の生成――それらの特徴は、あの少女がただの人間でないことの証である。


 そもそも、初対面の――ましてやメイドに扮(ふん)した怪しげな人物に素直に付いていくなど、正気の沙汰ではない。


「もし、僕があなたに付いて行きたくない……と言ったら?」


「マスターからは、あなたを丁重にご案内するよう、仰せつかっております。……しかし、もし何かしらの事情によって支障が生じるようであれば、『多少の実力行使も厭わない』とも仰(おっしゃ)っておられました。穏便に済ませられれば最善で御座いますが、必要とあらば、多少の危害を加えることも致し方ありません」


「なっ……!」


 目の前のメイドは、態度は丁寧であるけれど、暗に自分を誘拐すると言っているのだ。


「どうか、穏便にお願い致します」


 ベルは片手を持ち上げると、小気味よく指を鳴らした。すると、それに応じて、どこからともなく五体のマネキンが現れた。創一が物音に背後を振り返ると、自分の退路を塞ぐように、そこにも五体のマネキン人形が出現していた。どれもこれも、服飾品や髪形が統一されておらず、無機質な眼差しを向けてくる。遠隔操作されているロボットのようには見えない。


 創一は周囲に退路を求める。しかし、前後はベルやマネキン群に立ち塞がれている。側方には高い塀がそびえており、時間を掛けなければ登れそうにもない。試す価値はあるが、恐らく、登っている最中に引きずり降ろされるだろう。


 携帯電話で警察を呼ぶことも考えたが、恐らく、向こうはそんな時間の余裕を与えてはくれないだろう。即座に取り押さえられるのが目に目えている。 


 ベルは一歩一歩、着実に創一との距離を詰める。それに伴い、マネキン人形の包囲網も狭められる。


 一刻の猶予も許されない。


 創一は意を決すると、背後のマネキン人形に対して強行突破をかけようと動き出した――その矢先、


「む……」


 ベルが創一の背後の一点を注視して、微かな唸り声を上げた。


 創一がその行動につられて視線の先を追おうとした直後、背後にいた五体のマネキン人形が深黒の火焔に飲み込まれた。


 創一の眼前に上方から何者かが着地する。それは、大通りで別れた絹髪の少女であった。


 少女は着地と同時に大太刀を右上から袈裟懸けに切り下ろし、返しの刀で右下から逆袈裟に切り上げた。その斬撃に深黒の火焔が十字を描いて打ち放たれる。


 ベルが手を前に突き出す。その動きに応じて、ベルの後方にいたマネキン人形二体が飛び出して、深黒の火焔を受け止める壁となった。深黒の火焔に包まれたマネキン人形は、異臭を発しながら、どろどろに溶け崩れていく。


「ふむ……やはり護衛が付いてしまいましたか。これは難儀なものです」


 ベルは無表情に呟いた。


 絹髪の少女は、大太刀を指先の代わりのようにベルに突き出す。


「あなた……金髪の幻魔の手の者ね。何が狙いで彼を付け狙っているの?」


「それに関しましては、私からお答えする権限は持たされておりません。それ故、どうかご容赦下さいませ」


「……そう。それなら、あなたに用は無いわ。この場で討滅する!」


 絹髪の少女は地を駆けて突進した。少女が握る大太刀に深黒の火焔が帯びるように滾る。


「好戦的なところ申し訳ありませんが、私はマスターから、護衛が付いていたら素直に退けと言い遣っております。それ故、この場を失礼させて頂きます」


 ベルが深々と一礼すると同時、残り三体のマネキン人形がベルの守るように立ち塞がる。


「邪魔よ!」


 絹髪の少女は大太刀を構えると、一体目のマネキン人形の胴体を肩口から斬り飛ばした。続けて、二体目のマネキン人形を横薙ぎ、三体目のマネキン人形を回し蹴りによって側方へ弾き飛ばす。


 絹髪の少女が最後にベルを狙おうと膝を曲げて跳びだそうと構えたが、その頃には、辺りにメイドに扮した女性の姿は無くなっていた。気が付けば、セピア色を帯びていた周囲の光景は、元の夕闇の静けさを取り戻していた。


 絹髪の少女は何度も周囲に視線を巡らせて警戒を続けたが、既に敵の気配が完全に消え去ったと確信したのか、再び奇術のように大太刀を掌中の中へ仕舞い込んだ。夕闇に浮く純白の髪色は、闇に溶け込む黒髪へ戻った。


「……さてと」


 少女が創一の方へ振り返った。


「それで……あなたはいったい何者なの? 幻魔に付け狙われるといい、『セーヌ結界』の中で平然と動けるといい……。歪みを感じないから、術者でもなさそうだけれど」


 少女の口から次々と聞き慣れない言葉が飛び出した。


(いったい何者なのか……なんて、それは僕の方が一番聞きたいんだけどな)


 創一はどこか釈然としない想いを抱いた。


「そんなことを聞かれたって……なんて答えればいいんだ? 僕には、さっきのメイド服の人に付けられる理由なんて身に憶えがないし……。そもそも、君こそいったい何者なんだ? どうして昼間に金髪の子と闘っていたんだ? どうして化け物を見ても平然としていられるんだ? ……訳が分からないのは、こっちの方なんだぞ」


「ああ……昼間のこと、憶えていられたのね。一般人ではなさそう……だけれど、でも、こちらの事情に通じているという訳でもなさそうね。恐らく、霊的体質の持ち主……ということになるのかしら」


 少女はひとりで合点がいったように頷く。


「……なあ、ひとりで勝手に納得しないて貰えないか?」


「ああ、ごめんなさい。私は……そうね、一般人の常識で分かりやすく言えば……魔術師かしら。正確には、無所属の攻魔師だけれど」


 魔術師? 攻魔師?


 その言葉を聞いて、創一の頭の中で真っ先に思い浮かんだのは、ファンタジーゲームの職業だった。


「……ゲームの話をしているのか?」


「いえ、現実の話よ。それも真面目な話。分かりやすい例えとして言っただけよ。」


「魔術師……」


 眼前の少女は、大太刀を軽々と振るって奇怪な火焔を放った。昼間の金髪の少女は、指先や地面から氷を生成していた。先ほどのメイド姿の女性は、変哲も無いマネキン人形を手足のように操った。


 それらの姿は、尋常ならざる魔術師の技を思わせた。


「そう、平たく言えば魔術師よ。私はその中でも……まあ、形の上では攻魔師に属するわ」


「その、攻魔師って、いったい何者なんだ? あの金髪の女の子やさっきのメイド服の人も攻魔師なのか?」


「いえ、全く異なるわ。あいつらは幻魔と呼ばれる存在。人の形をした化け物よ。攻魔師は、その幻魔を殲滅する為に活動する魔術師のこと。一種の警察官みたいなものかしら」


「警察? じゃあ、君は……僕の味方って考えていいのか?」


「まあ……そういうことになるのかしら」


 少女はどこか歯切れが悪そうに言った。その態度は、後ろめたいものがあるというよりは、こちらの言い回しが的を射ていなかったからのようだ。


 確かに、眼前の少女は、先ほどメイド姿の女性――ベルに連れ去られそうになった時、自分のことを助けてくれた。けれど、だからと言って、この少女が本当に自分の味方という証拠にはならないのではないだろうか。


「君の言うこと……本当に信じていいのか? むしろ、君の方が僕のことを何かに利用しようと考えていたりはしないか?」


 創一の疑問を受けて、少女は少しの間だけ呆けた表情を浮かべると、くすくすと笑い出した。


「あははっ、何それ、私があなたを利用しようと考えていると疑っているの?」


 少女はすぐに笑いをこらえたが、その表情には未だ笑みを帯びている。


 創一は少女の緩んだ表情を見て、その年相応の可愛らしさに安堵の気持ちを覚えた。少女が戦闘で見せた戦慄を覚えるような美しさ、強い意志に固く引き締まった相貌、そして冷ややかな声音を受けて、少女に対して畏怖の念を覚えていたからだ。


「わ、笑うなよ。笑わなくてもいいだろう。突然そんなことを言われたって、はいそうですかって納得出来る訳ないだろう? それに……僕はあの金髪の子に何度も助けられたんだ」


 創一はリリアという少女に恩義を感じていた。だからこそ、彼女が眼前の少女に切り殺されそうになった時、身を挺(てい)して守った。


「そうね。でも、それはあなたを向こうが利用しようとしていたから……そう考えられると思うけれど?」


「あっ……」


 創一はリリアに対して恩義を感じているが故に、その点に対して盲目になっていた。確かに、リリアが自分を利用しようと画策(かくさく)していたからこそ、異形の化け物から助けようとしたとも考えられる。


 そう、異形の化け物から――


「あ、そ、そうだ。君に一番聞きたかったことがあるんだ。昼間に突然現れた化け物、あいつらは――」


 創一の言葉は、そこで言い止された。


 昼間よりも黒味を増した曇天の空からは、ぱらぱらと――そして次第に勢いを増す雨粒が降り始めていた。

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