ふたりの王(初出2014.3.15/ビーズログ文庫)
.幕間
「フィグネリア、こっちへ来い」
ディシベリア帝国皇帝、エドゥアルトは五つになる娘へ笑顔で両手を伸べる。聞き分けのいいフィグネリアはうなずいて言う通りにしてきて、軽い体を抱き上げる。
娘の横顔は、はっとするほど母親の面影が見える。彼女と娘の表情が時々重なる度に、胸に苦いものがこみあげてくる。
「父上?」
古傷と言うにはまだ新しい傷に自ら爪を立てていたエドゥアルトは、娘を自分の腕に腰掛けさせるような体勢へと、抱き方を変える。
「帝都がどこか分かるか?」
地図を見せると、四つの頃には広大で煩雑に入り組んだ全てを覚えきったフィグネリアは躊躇わずに一点を示す。
「父上、地名が書いているので見れば分かります」
こましゃくれた物言いをする娘に、エドゥアルトは喉を鳴らして笑う。
「それなら、マシュケの銀を帝都まで運ぶのに使う最短の運路とその理由は?」
娘はすぐさま目で帝都の遙か東のマシュケを見つけ出し、見た目では同じ距離に見える三つ道筋からひとつを選び出す。迷いはほとんど見られなかった。
「サール街道からマルッダ街道をけえゆして通ります。平地が多く、整備がもっとも行き届いているから、です」
経由を上手く言えなかったり、たどたどしいところもあったが、正解だった。
「よし。よく覚えているな」
エドゥアルトは娘を褒めて、満足げに笑む。
健康であれば有能とまでいかなくてもいいと思っていたフィグネリアは、期待以上の出来だ。教えたものはあますことなく覚えていく。
まだ自分が望むものは全部手に入ると思っていた頃に、思い描いていた夢の欠片が今、この腕にある。
「俺は、変えてみせる。理想を理想で終わらせはしない。そのために必要なことをお前には全て教える。フィグネリア、お前になら俺と同じものが見えるはずだ。俺が思い描いたものが必ず」
まだ五つの娘はきょとんとした顔を最初にしていたが、それからすぐに頬を紅潮させて瞳を輝かせる。
「はい! 私も父上のようになりたいです」
フィグネリアが無邪気に望んでいた言葉をくれて、エドゥアルトは安堵する。
理想の君主としての姿を見せ続ければきっといつかこの娘が自分の望みを叶えてくれる。
そのために自分が得た知識や手段を全部与え、いずれ帝位につかせるのだ。
「エドゥアルト様、フィグを迎えに来ました」
そう言って部屋に入ってきたのはオリガで、彼女の後ろでは息子のイーゴルが末娘のリリアを抱いて立っていた。
そういえば今日は皆で裏の森に遊びに行くと言っていたと思いだし、エドゥアルトは自分より頭一つ半背の高いイーゴルに、フィグネリアを渡す。
「父上、では行って参ります!」
すっかり逞しくなった息子は馴れた仕草で軽々と妹ふたりを抱えて、楽しげに言った。娘ふたりとも兄に抱かれてうきうきとした顔でいる。
嫡男であるイーゴルは、自分に全く似ず武人としての素養を持っているが、オリガとよく似た純粋さと素直さでは君主として不利すぎる。
この息子の武人としての才を生かせる道も作ってやらねば。
(父上のようにはなるものか)
先帝である父は、剣も弓も人並み程度で賢しいばかりの自分のことを嫌っていた。そして、自分も九公にいいように扱われる父を軽蔑していた。
分が悪いとみて最後まで向き合うことなく玉座を降りた父の死にに覚えたのは虚無感。 自分で手を下していたらまた違ったのか、それとも死なせなければよかったのか、答を知る術がもうない。
「おとうさま、いってきます!」
「いってまいります」
娘ふたりが兄を真似て声を揃え、エドゥアルトは楽しんでこいと微笑む。末の娘は病がちだったが、この頃はすっかり元気になってきてほっとしている。
「エドゥアルト様は本当にご一緒できないのですか?」
オリガが息子達を先に行かせて、あどけない表情で問うてくる。
「俺は、政務があるからな。子供らと一緒に楽しんでくるといい」
「……エドゥアルト様、お疲れではありませんか? このところ毎日遅くまでお仕事をされていますし、お休みをとられた方が」
エドゥアルトは純粋無垢を絵に描いたような妻の頭を軽く撫でる。十六年前、自分は彼女との婚姻は望んでいなかった。
三十を越えた今でも十五の少女の時と変わらず頬を染めるオリガに、当時覚えたのは同情だった。
それは年を重ねて緩やかに愛情に変わっていったけれど、彼女が望んでいた類の甘いものではないだろう。
「オリガ」
「はい?」
「今、幸せか?」
オリガは戸惑いをみせた後に、ふわりと微笑んだ。
「……エドゥアルト様と子供達が幸せならわたくしは幸せです」
偽りなくそんな言葉を告げられて、エドゥアルトはもう一度彼女の頭を撫でる。
それならきっと、今彼女は不幸だ。
これだけ愛おしいものがあまりありながら、自分はまだ満たされていなかった。
なくしてしまったものへの執着が捨てきれない。
「そうか。夕餉は一緒にとる。あとで土産話を楽しみにしておく」
「ええ。イーゴルが狩りもするから、お話し以外にもお土産ができますわ」
オリガがいってきますと背伸びをして、頬に口づけを残し部屋を出て行く。
「……すまない」
閉じた扉を見つめて、エドゥアルトはそう零した。
.1
フィグネリアは政務の書類をぱらぱらとめくって概要だけ確認していく。
内乱騒動の報告と謝罪を兼ねてアドロフ公家に来て、さあ帰ろうかとしたところで神殿内での銃の暴発事故に巻き込まれて早四日。
神殿の騒動は潜んでいた密偵が同じく潜んでいた密偵に事故を装って殺害されたもので、帝都への帰省予定も大幅に遅れている。
そして今日、事件の担当官となるザハールが必要な資料の他に、不在の間の政務も持ち込んできた。
「……そう面倒なものもないか」
一通り目を通して、フィグネリアはペンを取る。
ペンを走らす手を止めることなく、次々と記名を入れあるいは別紙に指示を書きと彼女の手は止まらない。
頭の中に蓄えられた知識と刻まれた経験が、自然と手を動かしてくれる。
その間は感情的な思考など皆無だ。
インクが掠れて、ふっと空白が産まれる。
そこに滑り込んでくるのは、現アドロフ公であるパーヴェルに言われて胸に抱いた不安だった。
このまま、クロードと同じ関係でいられるのか。
政務になると私情を切り離す自分と、全部が感情的になりやすいクロードとの間でずれが出てくることが恐い。
誰よりも自分が彼を傷つけることにならないだろうか。
フィグネリアはゆるりと頭を振って、自分に大丈夫だと言い聞かせて再びペンを走らせ始めていた。
***
政務を終えた後、フィグネリアは広間へ戻ってクロードとニカ、ザハールと合流する。
クロードが落ち着かない様子で視線を向けてきて戸惑った。たぶんもう彼は自分が何かを隠そうとしていることにきづいている。
(嘘が下手になったのか、クロードの察しがよくなったのか)
どっちだろうかと考えつつ、フィグネリアは今は事件の方へ意識を持っていく。
「現状報告はすんだな。頼んだものは全て揃えられたか?」
ザハールに問うと、彼はうなずいて資料を示す。
「まず、密偵の死亡の原因となった銃ですが皇女殿下の推測通り、旧式で銃身に多量の火薬を詰め込まれていたことが銃の爆発を引き起こしたと思われます」
報告書と図解をざっと見てからフィグネリアは銃の出所を確認する。
「旧式銃三丁は回収済みとあったが、実際は一丁は破損し現地で廃棄したことになっていたのか。そうなると銃は一丁のみでもうなく、見つからなかった火薬も使い切ったということでよさそうだな」
強行に出られなかった大きな理由のひとつである銃の有無が分かって、フィグネリアはひと安心する。
これで対応が少しはしやすくなった。
「それで、ルスラン大神官長様からのお返事は?」
そしてもうひとつの憂いはそれだった。
神殿への介入は政府が大神官長から同意を得ねばできない。ルスラン大神官長に関しては比較的協力的だが、彼の一存で全てが決められるわけではない。
多くの神官達は俗世の欲の絡む政府に神殿へと踏み込まれたくはない。
フィグネリアはあまり期待せずに書簡を開く。
「駄目、ですか?」
妻の表情の険しさに、クロードが不安そうに首を傾げる。
「審議中、ということだ。まだ情報が少なすぎて判断できないということだ。……だが、このままであれば神殿内で処理するということになりそうだがな」
フィグネリアは頬杖をついて表情を曇らせる。
「薔薇の件が厄介だな……」
同じように思案顔でザハールがつぶやく。
第一の真実の女神リルエーカが力を貸り、咲き続ける薔薇達。彼らは皇太后でありアドロフ家の息女であるオリガを待っている。
「ああ、そうだ。薔薇達は母上の祈りが叶うのを待っているらしい。ここへ戻ってくる途中、リルエーカ様と遭遇した。アドロフ公にも母が何かを望んでいたかと問われたから、アドロフ公もリルエーカ様と接触されたのかもしれん」
フィグネリアはそれを話すのを忘れていたと思い出す。
「祈り……ああ、そうか。あの感覚はそれなんだ」
クロードが思い当たる節があるらしく首を縦に振る。
「皇太后様の祈りとはなんですか?」
ニカが問うのにフィグネリアは分からないと答えて口を引き結ぶ。
あの人が望むものなど、自分には見えない。
ゆらゆらと不安定になりそうな感情を、フィグネリアは瞬きの間に鎮めておく。
「どちらにしろ、薔薇には散ってもらっては困るわけですが、もう大半が散ってしまっているのですよね」
現在、神殿より先の薔薇は全て散って実を膨らませ始めていて、神殿からアドロフ家までの薔薇は半分以上散っている。
花びらをまったく散らさないのは、この城のみだ。
「ええっと、薔薇と密偵の件は今の所無関係ですけど、密偵が死んだ時と、薔薇が力尽きて散り始めた時期が重なっちゃってるのがまずいんですよね。密偵がいたから薔薇は実をつけなくてって周りが思い込んでる……」
クロードが少し考える間を置く。
「それで、今は神官長様を中心に銃を暴発させた密偵を隠してる……だから、薔薇が散ってしまったら、神殿側は完全にもうひとりの密偵の味方になってしまうから駄目……?」
クロードがたどたどしく言うのにフィグネリアはうなずく。
死亡した密偵が領民に薬を処方する役目についていたことが判明し、領民から証言をとるさいのことだった。神官長が意図的に、密偵ふたりが同じ役目についていたことを隠そうとした。
現状神殿側は密偵は死んだひとりだけだと思わせたがっている。
「それで皇女殿下、神官長が密偵を匿う理由は、密偵に脅されているか、神殿側の意思かどちらだとお考えですか? 前者ならばまだ入り込める猶予があると思うのですが」
ザハールの問いかけにフィグネリアは顎に手を当てて考え、銃に関する資料を眺めた。
おそらく彼もすでに同じ結論に達していて、意見が一致するかの確認のための質問だろう。
「……後者の可能性が高いと見ている」
「根拠は?」
「隠蔽の杜撰さだ。死んだ神官が密偵であることを隠さず、他に密偵がいないと見せかけるにしても、情報の出し方が下手だ。エリシン、密偵の手記を」
フィグネリアはニカから死亡した密偵のものとみられる手記をもらい、ザハールが持ってきた資料を見比べつつ先に銃に関しての見解に移る。
「銃に関しては、隠すべきものとみせるべきものも分からないので、あるもの全部出している様相だった。細工をした者が指示したのなら、火薬はいくらか残しておいて、火薬を押し込んだ形跡が残らないようにする。いくらこちらに銃の知識がほとんどないと思っているとはいえ、これが事故とばれては元も子もない」
最も慎重に隠すべき場所が隠されていない。
「そして手記だが、記録の始まりの日付は四年前だが、資料と付き合わせると一年足りない。他にも所々いくらか足りないな……どうした。もう少し仔細が必要か?」
クロードとニカが目を丸くしてきょとんとしているのが見えて、フィグネリアは首を傾げる。
「フィグ、今、手記の方はほとんど見てなかったですよね」
「別に適当に見たわけではないぞ。手記の方の内容は一字一句覚えている。資料も時系列にまとめられているからそう確認に手間取ることもない」
手記は別に見る必要はなかったが念のためだ。
「……先帝陛下が早々に皇女殿下に期待をかけたのはそれでしょうね。記憶力だけでなく、必要な時に記憶したものを即時引き出せる能力。僕も話していてたまに驚かされる」
珍しくザハールの口から褒め言葉を聞いて、フィグネリアは曖昧な表情をする。
父は様々なことを自分に教えた。年を重ねるごとにその量はどんどん増えていって、期待に応えるためにも、居場所を護るためにも必死に飲み込んだ。そして父の要求することは際限なく大きくなっていった。
冷静になって考えれば、父は己の持つ全てを注ぎこまんとしていたのかもしれない。
フィグネリアはパーヴェルから先帝が帝位をイーゴルではなく、自分に継がせる気だったのではと言われたことを思い出しかけてやめる。
今の本題は、密偵についてだ。両親については関係ない。
「……それより、だ。帝都に提出された資料と、密偵の手記が噛み合わないのも気になる。全てが計画通りならば、こんなすぐにばれる偽装はしない。密偵死亡後の全ての隠蔽にもうひとりの密偵が関わった形跡がまるで見られないのはなぜだろうな」
話を戻すと、ザハールが手記など証拠の数々を見直しておもむろに口を開く。
「被疑者が準備したのは銃の暴発の仕掛けのみ、といったところでしょうか。密偵の存在を明らかにすることと、仲間を殺すことだけが目的だった」
「ああ。その目的をなした後の行動の痕跡が途絶えている。神殿側は密偵死亡の事態に対処しきれていないところを見ると、計画が実行されることは知らなかったのは確実だ。銃の仕掛けについて知っていたのか否かはどちらとも言えんな。しかし、被疑者について隠そうとしている。逃亡したのならここまで面倒なことをする必要もなさそうだが。とにかく、隠蔽の指示ができる者がいないところをみると、密偵の数はふたりで確定してよさそうだな」
「そうですね。それで被疑者も指示ができない状態なのかもしれません。死亡した密偵と同じく神殿側で罰を与える内に誤って死なせてしまったか、それならばどうにか細工をして遺体を出せばすむ話か」
フィグネリアとザハールはお互いの思考を、一繋ぎにするように間を置くことなく言葉を連ねていく。
「神殿側が手を下したことを隠せない死に方だった可能性もあるが、神殿の法には絶対不可侵である以上は、隠し立てができないこともないからな。結局、意図が掴めん。なぜ殺害する必要があったのか。神殿からの資料に不審な所もないから、密偵として潜んでいることを知られたくないわけでもなく、内乱騒動の今頃になってとなると急だな」
「資料の提出が契機かも知れません。どうしても、口を塞がなければならない事態になった」
「神殿側も被疑者が知っていることを外に漏らしたくない可能性もあるか。被疑者と神殿に共通する隠し事、そしてどうあっても表に出せないとなると……」
フィグネリアはクロードとニカが口を挟む隙もなく固まっているのに気づき、そこで一度言葉を止める。
「君達、ちゃんとついてきているか?」
ザハールの挑発的な質問に、主従がこくこくとうなずいた。
「どうにかついて行ってますけど、フィグもザハールも喋るの早いです」
「お互い何を考えてるか分かってらっしゃるんですね……」
ニカが感嘆した後に、気まずそうに主君であるクロードを見る。
「大丈夫、同じことができないのはよく分かってるから」
クロードの言い方は卑屈なものでなく、自分の力量をきちんと把握したものだった。
「密偵を殺した人……被疑者は事態の隠蔽に関わってなさそうってことですよね。それなら、被疑者は今、何をしているのか、神殿側からどう扱われてるのかっていうのがよく分からない……えっと、でも被疑者に指示されてないなら、神官様達が人質にとられる可能性は低いってことでしょうか」
クロードが聞いた話をまとめた上で、自分の考えを自信なさそうに述べる。
「君にしては上出来だ。銃はなく、神官方は被疑者の支配下にない。これで面倒事がいくらか排除された。皇女殿下、どうしますか。ルスラン大神官長様からの介入の許諾はまだ得られていませんが、それを待っている猶予もないとないかと」
「クロード、薔薇もそう長くは保たないのだろう」
フィグネリアが問うと、クロードも悲しげな顔で肯定する。
「もう、かなり無理してますから。リルエーカ様の力添えでもたぶん二、三日中には全部散ってしまうと思います」
あと二日中にはなんとかせねばならないようだと、あまりにも短すぎる期間に部屋の空気は重たくなる。
「……許諾なしで動くしかないな。ここで逃すわけにはいかん」
フィグネリアはそこで一度口を噤んでため息をひとつ零す。
「我々は、神々に萎縮してばかりだな。なにか異変があると不興を買ったかもしれないと、憶測だけで不安になる」
自分とて薔薇の件が無関係だという確証を得ていなければ、二の足をふんでいただろうと思うとやるせない。
一年の半分を雪に閉ざされ厳しい環境に置かれるディシベリア帝国は、気まぐれな神霊の恩恵への依存が強い。そして神や妖精が近しい故、人々は自分達で知恵を絞ることもなく、ただ与えられるものを受け入れるだけだ。
そのせいで技術力は南隣のロートム王国から遙かに遅れ、このままではディシベリアは衰退していく。
この現状を変えるには神を畏れるばかりではいけないと分かっているのに、一歩踏み出すのが難しい。
「この件を上手く運べるかどうかですね。強行をよく思わない人間も多くいるでしょうが、事が上手くいけば神々を意識しすぎずに動くことに対して、少しは考える余地が産まれる」
フィグネリアと同じく技術革新を望むザハールが真摯な表情で言う。
「ああ。今は考えることすらしない者が大半だ。ここを動かさねば改革は進まん」
凪いだ水面に一石を投じる絶好の機会であることは、フィグネリア自身も考えている。
「…………どうするんですか? 神官長様と直接話し合って、被疑者を隠してる理由を聞くのは無理ですよね」
クロードが悩みながらも答が出せずに、小首を傾げた。
「密偵がまだ他に潜んでいることを神官長に告げて動向を探る。糾弾するのでなく、ザハールの到着によりもうひとり密偵が潜んでいることが判明したので注意してほしいと言うだけだ」
フィグネリアが言うのにザハールが悪くないといった顔でうなずく。
「これだけ隠蔽に手間取っているなら、何かは出てくるでしょう。時間もないのですぐさま書簡を届けたほうがいいですね。名代は皇女殿下よりマラット殿の方がよいでしょうか」
「そうだな。そちらの方がもっともらしい。問題はご協力いたけるかだが……もうマラット殿へは挨拶はすませたか?」
「滞りなく。本当にご挨拶のみなので、機嫌のほどは不明ですが。そういえば、アドロフ公と皇女殿下が話していることは知らない様子でしたね」
ということは今頃にはパーヴェルと話したことは伝わっていて、事後報告にへそを曲げている可能性がおおいにある。
「どちらにせよ動くのに報告はしておかねばならんからな。行くぞ」
フィグネリアは行動は迅速な方がいいと、気が進まないながらも立ち上がった。
***
予想通りマラットは話を始める前から不機嫌そうだった。
クロードはフィグネリアとザハールが今後の策を話すのを聞きながら、そろそろくるだろうと身構える。
「神殿を謀るつもりかっ!!」
そして予測通り怒声が響いた。マラットの反応は分かりやすいものの、今の所できる対処は動じないことぐらいしかない。
「しかしながら、このままでは我々は手出しができなくなってしまいます。密偵をこのまま神殿に留め置くことだけはできません」
フィグネリアの言うことに、マラットが眉を顰める。
「薔薇が散らなかった原因が分かるまで待て。下手に動いてリルエーカ様の機嫌をこれ以上損ねるわけにもいかん!」
「薔薇が散らない原因が本当にリルエーカ様の不興からくるものと、判明したわけではありません。仮にそうだとしても、密偵を捕えることに関わりはありません。いくら神殿が庇い立てようと、諜報活動をしあまつさえ仲間を殺害した危険人物を野放しにすることだけはしてはならないのです」
間髪入れずに返すと、マラットがぐっと押し黙る。
彼とて今言ったことは分かっているはずだ。だがその思考に神殿への、ひいては神霊への畏れが歯止めをかけている。
「私も、こればかりは皇女殿下と同意見です。神殿への政府の強行的な介入はできるだけ避けるべき事態でしょう。ですが、それは我々の信仰に基づいた思考です。密偵は薔薇の実を発芽出来る状態で他へ持ち出すという禁忌を、いとも容易く行える異なる信仰の者です。我々の信仰を乱す者を、神殿に置いておくというのは非常に危ういことかと」
ザハールの加勢にマラットの表情はますます険しくなる。そして返答が来る前にフィグネリアが口を開く。
「神霊方のお考えは私達には予測できるものではありません。畏敬の念を忘れることはなりませんが、勝手な憶測を元に国家の危機を見逃すというのは愚かです。ここで動かねば、神霊方を疎かにするロートムにつけいる隙を与えるばかりになります」
理論武装するふたりの静かな波状攻撃に、クロードはひっそり戦々恐々としつつザハールを見る。
(打ち合わせとかほとんどしてなかったのに、いいなあ)
フィグネリアとザハールはそれぞれこれまで集めた資料を確認して、最低限のやりとりしかしていない。
それだけでザハールは己がなすべきことも、フィグネリアがしようとしていることも把握して動いている。
あの位置につけるまでに自分はいったいあとどれぐらいかかるのだろう。
(うー、今は協議に集中、集中)
果てしなく遠そうな未来に気が向き始めていたクロードは、協議の方へ意識を戻す。
今はとにかくふたりを見て学ばないと、望むものは遠ざかるだけだ。
「皇家、そして九公家筆頭たるアドロフ家が動くことに意義があるのです。ご協力をお願いいたします」
フィグネリアがぐいぐいと攻め込むが、マラットの表情は渋いままだ。
「……これが失策でないと言い切れるか」
「己が信じられない策は講じません」
短いながらも強く響くフィグネリアの声の後沈黙が産まれる。
ただ聞いているだけのクロードだったが、張り詰めた緊張感に息が詰まりそうだった。
そして渋面のまま、マラットが腕を解く。
「お前に同調する気はないが、密偵を放置しておけんのは事実だ。すぐに書簡を神殿に送る」
そして同意が得られて、クロードは思わず安堵のため息を零しそうになる。
だがフィグネリアとザハールが態度を崩さないのを見て、どうにか気を抜くのをこらえる。
「フィグネリア、ひとつ聞くが父上と何を話した。ザハールが到着するより先に、話し合うことなどあったのか」
マラットの問いかけに、クロードは少し不安な心持ちでフィグネリアを見る。
自分もまだ詳しくは聞かされていなくて、アドロフ公の元から戻って来たフィグネリアの様子が少しおかしかった理由が気になっていた。
「……私に帝位を継ぐ意思があるか否かを」
先ほどまでとは違いフィグネリアの返答は歯切れの悪いものだった。
「父上はお前を次期皇帝に認める気か!」
「いいえ。そういったことではありませんでした。ただ私の覚悟を知りたいというだけです。マラット殿に先に相談する必要もないほど、取るに足らないことでしょう」
「お前は、帝位を継ぐ気か」
「現在、帝位の継承権を持つのは私ひとりです。その時がきたならば引き継ぐ心づもりはありますが、どうあっても帝位につくという意思はありません」
フィグネリアがそう答えて、マラットは不審そうにしながらも協議は終わった。
(それだけ、じゃないんだろうな)
クロードは妻を見ながら眉宇を曇らせる。
彼女が現皇帝である兄のイーゴルやその嫡子と争って、玉座を手に入れるなどありえない。今さらそんなことを確認されたぐらいで揺らぐはずがないのだ。
(終わって、後のことをまとめて最後、だな)
きっと彼女はふたりきりになるまでは話してくれないだろうから、確認できるのはまだ先だ。
クロードは始終、そわそわとしながら協議の終わりを待った。
だが、その日の内にはフィグネリアからは何も聞き出せなかった。少し、自分の中で整理してから話したいが、今は事件に集中したいので全てが終わったらということだった。
***
「ニカ、おはよう」
翌日、クロードは眠い目をこすりながら、すでにしゃっきりと身支度をすませている侍従に挨拶する。
昨夜はフィグネリアのことが気になってよく眠れなかった。
「おはようございます。皇女殿下はどうされたのですか?」
いつもは一緒にいるはずのフィグネリアがおらず、ニカが首を傾げる。
「ザハールと今日のこととかで話してる……俺はふたりがくるまでニカと待機でいいって」
それに関してはフィグネリアが自分とふたりきりになりたくないため口実なのだろうが。しかしなんだろうとこの寝惚けた頭では、ふたりのやりとりについていける自信はない。
考えてクロードはため息を落とす。
「……話し合う事ってなんでしょうか」
「ううん、どれだけ神殿に強く出られるかとかそういうんじゃないのかな。……神殿が隠したいことってなんだろうな」
密偵と神殿が共謀する理由はいくら頭を捻っても出てこない。
「神官方のお考えは自分には図りかねます。ですが薔薇の種を持ち出すことをする上に、神子様に銃口を向ける者と神官方が共謀するというのは、自分にはとても思えません」
「この国の人達にとって、神官様って絶対に悪いことはしないって認識でいいんだよな」
「ええ。絶対的に正しいのが神官様です。俗世の事柄には常に傍観者であり、だからこそ自分達はどんなことでも神官様にお話しすることができるのです」
ニカが以前フィグネリアから聞かされたのと同じことを言うのに、クロードはますます分からなくなってくる。
「ナルフィス教だと悪いことしてる司祭様とか普通だけどな……。やたら人が多かったり、聖堂の装飾が凝ってたり派手だと、何か裏があるんじゃないかって侍女が噂してるの聞いたことがある」
「……我々の認識ではそういった神殿ほど神官方がご立派なんだということになります。あとは装飾に関しては神霊様のお好みというのもあるので」
「本当に真逆だよな。俺はここの信仰のそういう所好きだけど……でもそれなら神官様にとって悪いことじゃなくて、密偵に都合のいいことってなんだろう。あ、なんか混乱してきた」
どう頑張って考えたって、両者の意見が一致する事柄など見当たらない。
「やっぱり、神官様も悪いことしてるってことはないのかな? 薔薇を持ち出したり情報を渡す協力をする代わりに見返りを貰った、とか」
ひとまずナルフィス教寄りに考えを持っていくと、ニカが渋い顔をした。
「見返り、と仰っても、神官方は私欲を持たないものです。それに神霊様の機嫌を損ねることをなさることも、まずあり得ないことです」
つきつめていくとやはり信仰の違いで躓いて、クロードは行き詰まってしまう。
「じゃあ、神官様達にとっていいことってなんだろう……」
密偵だった神官がひとり殺され、実行犯も消息不明。
これでやましいことがないと考えるのは不自然だろうと思うのだが。
「……分からないことだらけだな。俺、今自分がすっごく頭悪い気がしてきた。うん、元々からっていうのもあるけど」
昨日からいろいろ悩んではいるものの何ひとつ答が出ない上に、フィグネリアやザハールとの差を感じるばかりで気が滅入る。
「学び初めて一年足らずで何を仰っているんですか。無茶を言って、勝手に落ち込まないで下さい」
「……ごめん。とにかく、密偵のことだけでも先に早く片付いてくれないと……」
「他に何か気がかりなことでもあるのですか?」
ニカが訊ねてくるのに、クロードは言葉を濁す。
「ちょっと、フィグのことで心配事が一個。……フィグのこと、たくさん分かってるつもりでもまだちゃんと分からないことも多いから」
ずっと一緒にいて微妙な変化に気づくことまではできても、なかなかその奥を見透かすことは難しい。
自分とフィグネリアもまた真逆だ。
クロードはまたため息をついて、運ばれて来た朝食をニカと一緒にとる。そうしている間にフィグネリアとザハールもやってくる。
「君達はずいぶんのんびりしてるな」
「殿下と自分も事件について話していたんです」
ザハールが肩をすくめるのに、ニカが反論して同意を求めてくる。
それに応答しながら、クロードはフィグネリアの様子を見る。もう普段と通だったが、視線が合うとふたりの空気はどこかぎこちないものになってしまっていた。
***
神殿に向かう馬車の中、クロードはまだ眠気はしつこく残っていあくびをしてしまう。
そしてフィグネリアの気遣わしげな視線が一瞬向けられて、すぐに逸らされる。
そんなふたりの微妙な空気に、一緒にいるニカとザハールも朝からのふたりの雰囲気に居心地悪そうで、だだでさ狭い空間がなおさら窮屈だ。
そして神殿にたどり着いて外へ出ると四人同時にほっとした顔になる。
「……お待ちしておりました。お話したいことがあるのでこちらへ」
礼拝堂に入ると神官長に硬い表情で出迎えられた。他にいる神官達もどこか緊張気味だった。
(書簡の効果はあったのかな。向こうから話してくれて穏便にすむといいんだけどな)
クロードはフィグネリアの横顔をなんとなしに確認しつつ、神官長の後についていく。通された応接室には控えている神官もなく、樫のしっかりとしたテーブルの上に置かれた一枚の折りたたまれた紙が気になった。
「これは?」
ソファーに腰を下ろしたところで、フィグネリアへその紙が差し出される。
「あなた方がお探しの神官の遺書です」
フィグネリアが怪訝そうな顔で遺書を開いて確認し、クロード達へとそれを見せる。
「……薔薇が、散らないからって。暴発を仕組んだ密偵は改宗してたんですか?」
文面を読み取ったクロードはきつく眉根を寄せる。
もうひとりの密偵は薔薇が実をつけないのは、リルエーカの不興を買う真実を持ち込んだ自分達の責任として、死をもって償うとのことだった。政府への対応も後に書かれている。神殿側は何も知らなかった、と主張できるようにだ。
(お礼と謝罪の言葉もいっぱいだ…………)
迷惑をかけることへの詫びと、受け入れてくれた神殿への礼が文書のあちこちに散見されて、文書につくりものめいたところが見られない。
(こういうのは、嫌だな)
胸の中がぐじゃぐじゃして落ち着かなくなる。
「この遺書を残した密偵は死亡したのですか?」
フィグネリアが淡々と尋ねるのに、神官長がうつむく。
「二日前に……。自害を図ったものの、その場に神子様がいたので一命はとりとめていたのですが、残念ながら」
「遺体は?」
「すでに埋葬しました。どうか、これでおさめていただけないでしょうか。彼は一神官として地母神様の元へと行ったのです」
いつも穏やかで落ち着いた雰囲気の神官長の声は切羽詰まっていて、罪悪感めいたものをおぼえてしまう。
クロードはもう一度遺書に目をやって、それから自分と同じ居心地の悪さを感じているニカと視線が合う。
ザハールは神官長を見ながら、何か考えている様子だった。
「自決に及ぶまでの詳しい経緯をご説明頂けるでしょうか」
フィグネリアの問いに、神官長が首を縦に振る。
「内乱騒動の後、大神殿より俗世と繋がりを持つ者が入り込んでいるので細心の注意をし、俗世へと戻すようにとの御触れがありました。我々は困りました。改宗した者と、改宗していない者。片方を俗世に戻せばもう片方も必然と戻さなければならなくなるのです。それで、先に身罷った神官、薬品庫二十六番を修練させることになりました」
修練というのが罰のことだろう。しかしながら、ずいぶん前から神殿側は密偵のことを知っていたらしかった。
フィグネリアは一度最後まで聞くのか、何も問わない。
「そのうち、大神殿から奉納の記録を提出するよう御触れがありどうするべきかと迷っていましたが、結局出さないわけにもいかずにその時点で、改宗した神官……薬品庫十八番は還俗すると言いましたが、我々もできるだけ彼を留めてやりたい思いで説得していました。その矢先に薔薇が散らなくなり、神子様が妖精の異変に気づいて思い詰めたあげくにあんなことに……」
神官長が言葉を詰まらせて、深々とため息をつく。
「被疑者……薬品庫十八番の神官様が改宗した時期はいつですか?」
「彼がこちらへ来て一年近くほどですから、四年前です。彼は自ら密偵として入信したことを告白し改宗しました。元より祖国の信仰に疑念を抱いていたそうです。ちょうどその頃に薬品庫二十六番が当神殿にきました。薬品庫十八番より、その旨を伝えられましたが、そのことは見て見ぬふりをすることに決めました」
「四年も前から知っていて放置されていたのですか」
フィグネリアの言葉は責め立てるようなものではなく、落胆するものだった。
神官長は視線を遺書に向けて、悲しげに目を細める。
「まことに申し訳ありません。大神殿へも事実を報告し、私は然るべき処罰を受けるつもりでございます。どうか、彼を一神官として終わらせてやってはくれませんか。彼はまだ二十三という若い身空でこれほど追い詰められるほどに、敬虔な若者でした」
必死に懇願する神官長に対して、フィグネリアもザハールも厳しい表情でクロードは遺書に目を向ける。
全部真実ならばそれでおさめてしまえないのだろうか。
今得た情報の中では、被疑者は十分に責めを負い神官長もこれから厳しい処分が下ることになる。
「少し、考えさせていただけないでしょうか」
フィグネリアがそう言って、神官長は弱々しくうなずいた。
その様子が見ていて傷ましく思えて、クロードは目を伏せた。
「……楽士様、神子様がお話をしたいとのことで、奉納の後に来て頂けるでしょうか」
ふと呼ばれて顔を上げ、フィグネリアに目配せしてどうするか問う。そして特に問題はなさそうで同意する。
「私も同行してもかまわないでしょうか?」
そして、フィグネリアがそうつけ加えて神官長が困り顔になる。
「神子様も楽士様とならとのことで……」
「そうですか。ならば侍従は同行させてよろしいでしょうか? この者の役目は夫の側に控えることですので、できるだけ共に行動させたいのですが」
あっさり引き下がったフィグネリアが視線を向けたニカに、神官長は緊張と戸惑いをみせる純朴そうな少年を確認して、渋々といった様子で認めた。
(神子様に聞かなきゃならないことがあるんだろうな。ニカも一緒なのは安心するけど)
クロードは神子と話すことを決めた時のやる気を萎ませながら、フィグネリア達と一度礼拝堂に戻ることになった。神官長は先に神子の所に行くらしく、別の廊下を進んでいく。
「フィグ、これからどうするんですか? 遺書自体は偽物に見えなかったんですけど」
「本物だと私も思う。だが殺害した理由がない」
フィグネリアの返答に、クロードはそれはと考えて目を丸くする。
「そっか、密偵だって知らせたいならわざわざ殺さなくたって方法は他にもあったはずですよね。拘束されてたりしてないなら、自分で神殿を出て知らせることだってできたはずだし」
「……自決の印象が強すぎるのと、遺書の真偽を図るのに気を取られすぎて頭が回りませんでした」
そう言うニカと、クロードも似たような状態だった。遺書を読んだ後はどう受け止めていいか心の整理をつけるのに精一杯だった。
「クロード殿下はともかく、エリシン君もか。なぜ口を封じる必要があったか、昨日話をしたばかりだろう。そこを念頭に置いておかないと話を聞く意味がない」
ザハールの厳しい指摘に、すっかりそのことが頭から飛んでしまっていた主従が揃って縮こまる。
「次から気をつけます……。じゃあ、まだ神官長様は何か隠してるってことでしょうか。でも、被疑者がもう亡くなってるんじゃ」
「どうだろうな。生きている可能性はまだある」
フィグネリアがきっぱりと言い切って、三人は一斉に彼女を見る。
「あるんですか……?」
どことなくほっとしながら、クロードは首を傾げる。
「神官長様が亡くなったのは二日前、と言っていたが疑わしい。それより前に神殿の様子が変わっていた。アドロフ公がお倒れになった日、神官長様や神官方はずいぶん落ち着いた雰囲気だった。被疑者の容態が安定したのかもしれん」
クロードはその日のことを思い出してみるが、神殿の雰囲気までは覚えていなくてニカとも顔を見合わせるが、彼も同じく記憶してないらしい。
ザハールがその傍らでわざとらしくため息を吐く。
「もう少し彼らに先に必要なことを教えておいた方がいいですよ。……それは後にしておくとして、死んだのならわざわざ日付を誤魔化す必要はありませんね。生きていてもらわないとこちらとしても不都合だから、皇女殿下のお考えが正しければよいのですが」
「そこは神子様と接触して探るしかないな。神官長様も側にいるだろうから、被疑者についてもっと聞きだしてくれ。それと密偵殺害の時の仔細も頼む」
フィグネリアに言われて、クロードは二度うなずく。
「神官長と神子様の話で矛盾がないかですね。あとは被疑者についてはナルフィス教徒で信仰に馴染めなかったっていうあたりから入っていけば大丈夫ですか?」
「ああ。神官長も話しやすいだろう。ただ、向こうもお前に共感を得てもらおうとするだろうから、流されないように十分に気をつけろ。エリシンも、クロードを頼む」
ニカが硬い表情で御意と返答して、クロードは心強く思う。
だが気が進まないのは変わらなかった。これ以上は立ち入らない方がいい所へ、無理矢理入り込んでしまう気がするのだ。
(ああ、もう流されちゃってる。駄目だな)
いけないと分かっていても、あの遺書の文面の謝罪と礼ばかりが胸に重く残っていて、上手く冷静に話を聞き出せる自信がまるで湧いてこなかった。
***
笛の奉納が済み、クロードとニカが迎えに来た神官長と共に神子の元へ向かうのを見送ったフィグネリアは長椅子の上で腕組みする。
礼拝堂の中にすでに人はまばらでフィグネリアのいる辺りは誰もいない。
「あのふたりだけで大丈夫でしょうかね」
隣にいるザハールが小さな声で言うのに、フィグネリアは返答を渋る。
「……仕方ない。私やお前ではどうしても警戒される。クロードが聞き出すのが適任だ」
「適任といえば、適任ですが、すでに向こうに同情気味になっていましたよ。上手く言いくるめられなけれいいのですけれどね」
話を聞いている間ずっと湿っぽい雰囲気だったクロードを思い出すと、不安になってくる。
「良くも悪くも共感しやすいからな。だからこそ、本質を見極めることができる。エリシンがある程度はとどめておいてくれるだろう」
クロードのあの特性は人を惹きつける面もあれば、逆に取り入られる危険もある。
自分自身で上手く気持ちを制御しきれていないのが、裏目にでなければいいのだが。
(昨日、はぐらかしてしまったのもまずかったか。集中しきれないかもしれない)
アドロフ公との会話の内容を聞かれ、後回しにした時のクロードの困ったような寂しそうなような顔が思い出されて、フィグネリアは眉根を寄せる。
どこから何を話すべきか自分でも整理がついていなかったのも、今は密偵の件について意識を集中させていたいのは本音だ。
自分は全部後回しにしてしまえるが、クロードはまだそれができない。
やるべきことも、気になることも多すぎて彼はいろいろと持て余し気味だ。
「皇女殿下、それで被疑者は生きていたとして簡単に神殿が引き渡してくれると思いますか?」
「理由に寄るだろうな。改宗したのが事実となると神官方も結束して匿うだろうな。やったことはともかく、殉教者扱いだろう」
「殉教する意思が真実だとしたら面倒ですね。ただの美談ですんだら、民衆に危機感も与えられない。神霊様の意思を勝手に憶測し、凶悪な密偵を取り逃す寸前だったという方がいい。技術革新への足がかりを得るのにこれ以上ない機会を逃すのは惜しい」
本当に煩わしそうなザハールに、フィグネリアは表情を陰らす。
「そうだな。それに、政府が介入する余地を作れる前例も欲しい。人の領分と、神霊様の領分の境界も定めなければな」
以前の内乱騒動では神霊が黒幕だったあげく大神官長交代で、なし崩しで神殿の意向を優先することになった。そして事後対応にも大幅に遅れが出た。
だが他国に神殿の特異性を利用されるようになった今、状況に合わせた対処をとれる規律を定めなければまずい。
「密偵と神殿が揃って隠そうとしていることが判明すれば、交渉の材料になるでしょう。クロード殿下が上手く引き出してくれればいいのですが、あまり期待はできないか」
ザハールの口調は飄々としているものの、その表情は険しいままだ。
「なんにせよ、まずは密偵の生死を探りあててもらわねばな」
「どちらの可能性が高いと思いますか? 私は生きていると思うのですが」
「私も期待含めて生きている方だな。神殿側が口を封じておきたいだけなら、さっさと遺書と遺体を見せればすんだ話だ。必死に取り繕う理由はない。交渉の余地があるのも薔薇が散るまでか」
事情がなんだろうと密偵を差し出させて、こちらに都合のいい状況を作り出さなければならない。
(クロードは、どう考えるだろうな)
フィグネリアは心なしかうつむき気味になって、膝の上で両手を祈るように組み合わせる。
そして自然とリルエーカ像に目を向けてしまい、苦々しい思いで瞳を伏せた。
***
「あの、神官長様。えっと、薬品庫十八番の神官様ってどんな方だったんですか? 俺と同じでナルフィス教には馴染んでなかったんですよね」
フィグネリアに見送られて礼拝堂から廊下へと出たクロードは、神官長の背中にたどたどしく問う。
「ええ。彼は生い立ちがずいぶん複雑だと話していました。産まれた時にはすでに父親がなく、母親は彼の叔父……つまり実父の弟と再婚しそのうち父親の違う弟ができると家での居場所がなくなっていったそうです」
神官長はわずかばかり躊躇いに似た間を置いて、再び語り始める。
「彼の実父は元は司祭だったのですが、家の事情で還俗し妻を取った後に亡くなったということです。元より彼の母親は家名と結婚しただけで、彼の実父に対して特別思い入れもなく、彼を護るよりも再婚した新しい夫の機嫌を取ることを優先したと。それから心の拠り所は教会でしかなく、しかしその教会の教えでも彼の心は救われなかったと言っていました」
とつとつと語られる内容に、クロードはどんな表情でいていいか分からなかった。
悪い密偵を捕まえるつもりだったのに、どうしてこんな話を聞くことになってしまったのだろう。
クロードは一歩後ろにいるニカをちらりと振り返る。
彼は気まずそうな顔で小さく首を横に振って、入り込みすぎるなと目で訴えてきた。
(別に、全部鵜呑みにしてるわけじゃないけど……)
それでも神官長の言葉には胸に迫るだけのものがあった。話していて声に悪意や敵意も見つけられなければ、人を騙そうとする意思の嫌なかんじもまったくしない。
「……彼は神に縋りたいのではなく、司祭だった実父を求めていたのだろうと言いました」
一瞬、神官長の声が詰まったようになる。彼は失礼しましたと咳払いして、続きを言葉にする。
「そして、養父に密偵として神殿へ潜り込むように命じられ、この国に来たそうです」
「……そんな扱いでも、その神官様は密偵としての行動をしてたんですか?」
厄介払いでしかないのに、それでも忠実に国に従っていたのか疑問だ。
「ええ。しばらくは密偵として俗世の情報を集め、薬の製法や効能なども調べていました。しかし、彼にとってはこの神殿の方が故国よりよほど居心地がよく、そうして信仰のあるべき姿も見いだせたそうです。あちらの教会というのは俗世と密接していて、神は人の都合のいいものでしかなくなってしまっていると」
そこで神官長が振り返る。
「彼はここに自分の居場所を見つけたそうです。それは、あなた様の方がお分かりになるのでは?」
クロードは小さな声でそうですね、と答える。
(生きてるんだろうな)
それと同時に確信も得てきていた。神官長の話すことに切実さはあっても、悲嘆には暮れていない。
相手の思惑を図る一方で、気持ち的にすっきりしなくて気分ががもぞもぞする。
(フィグなら、こういう時は自分の気持ちはきっちり区別できるんだよなあ)
一旦政務につけば、フィグネリアは一切感情的にならず常に冷静でいる。淡々と正確にものごとをこなしていく姿をずっと見てきているが、まだまだあんな風にはいかない。
(でも、その分危なっかしいところもあるけど)
フィグネリアは驚くほど自分自身の感情に鈍感で不器用な時がある。大抵そういうときはとても疲れていたり、傷ついていたりしていて、彼女が自分自信で気がつけない分はちゃんと見ていないといけない。
(結局、アドロフ公と何話したんだろう…………また他のこと考えてる)
自分の思考が現状と関係ない方向へ行きかけて、クロードは床に向いていた視線を神官長へと戻す。
そしてたどりついたのは中庭へと続く扉だった。
扉が開かれると同時にそよぐ芳香に、クロードは目を瞬かせる。
「散ってない……」
神殿の中庭の薔薇達は全てが満開に見える。神殿周囲はほとんど散ってしまっているのに対して異様な光景だった。
「神子様、楽士様をお連れしました」
中央にある四阿へには黒髪の三十前後の女性がいた。クロードが彼女の側に寄ると、ニカが膝をついて控える。
神子は目を惹くような派手さはないが、よく見れば目鼻立ちの整った人だった。
「お忙しいのに無理を言ってごめんなさい。どうしても、あなたにお目にかかりたくて」
初めて聞く女性の柔らかい声音はなぜか懐かしいものがあって、クロードは引き込まれた。
「……初めまして。あの、俺にお話しって?」
問うと、神子はなぜだか困った顔で微笑んだ。
(母上だ……)
神子の笑い方の印象が母と重なって、クロードは目を瞬かせる。顔立ちはそれほど似ていないはずだが、醸し出される雰囲気がよく似ている。
「話したいことは思いつきませんでした。ただ一目、お姿を拝見したかったのです。今は感慨ばかりで……」
クロードはうっすらと瞳に涙まで浮かべる神子に動揺しながらも不思議な感覚がしていた。内側の妖精達が揺れ動いて、周囲の妖精もつられて揺らめく。
風が柔らかくそよいで薔薇の香りも一層強くなる。
「妖精達が」
神子が目を丸くして周囲を見渡す。
これは少しどころでなくまずい。
「あ、あの! どんな風に妖精の存在を感じているんですか……? いや、信じてないわけじゃなくて、純粋に興味があって」
クロードはどうにか妖精達を抑え込んで、その場を誤魔化そうとする。
「そうですね……言葉にして説明するのは難しいですが、五感の一部を共有しているというのでしょうか。蜘蛛の糸に触れたことはありますか? 目には見えないけれど、指先にまとわりつく感覚はあるのです」
「すごく、分かりやすいです……」
感じ方はほとんど一緒で、彼女はじぶんと同じ妖精の存在を感じられる人間なのだと今さら共感が湧いてきた。
大神殿の大神子はあくまで神を降ろすための器で、妖精を感知する能力は低いらしい。彼女の身の周りを世話する神子達もだ。
なので妖精の存在が分かる人間とまともに会話できるのは、今回が初めてだった。
「妖精が喜んでいたり、悲しんでいたりとかは?」
「私達と同じような感情、というのが妖精にあるのかまでは分かりません。いい揺らぎか、悪い揺らぎなのかをぼんやりと知るだけです」
喜び、怒り、悲しみ、言葉は交わせずとも感情的なものはが分かる自分とはその辺りは違うらしい。
だが感じているものは本当にとても近い。
(俺の遠い血縁)
ふっと頭に浮かんだことに心臓が早鐘を打つ。再びざわざわと動き始める妖精達を宥めながら、クロードは質問を重ねる。
「子供の頃から分かっていたんですか? その感覚の正体が妖精だって、どうして分かったんですか?」
「……雪が降ることや、薔薇の開花。そんなことが事前に気づくのです。それは妖精を感じているからだと周りから教わるのです。私は五つの時からここに住んでいます」
異端視される要素をごく自然に周囲が受け入れて教えることに、クロードは改めてこの国が妖精や神霊と共存していることを実感する。
(どうしよう。こっちもすごく気になるけど、今は事件のこと優先させた方がいいかな)
自分が知らないこの力についての手がかりが掴めそうだが、どうするべきかとクロードは迷う。
「楽士様、妖精達の様子をもう一度確認したいので、よろしければほんの少しでいいので、また笛をお聞かせ願いたいのですが」
そして考えている内に先に神子に頼まれてクロードは躊躇いつつも、笛を取り出して組み立てる。
「あの、何か……?」
ふとクロードは神子の視線が気になって小首を傾げる。彼女はとても
「いえ。知りませんが、何も感じないのです。妖精は万物に宿っています。音楽を好むこともあって、楽器などには強く妖精を感じるのですが、そこだけ無なのです」
「え?」
クロードは改めて笛を見る。そして意識を向けるまでもなく、笛になんの妖精もまとわりついていないこと初めて気づいた。
(すっごい、盲点だった)
今の今まで笛に妖精がいるなど考えもしなかった。だいたい笛を吹いている時は妖精達が近寄ってくるので、そちらにばかり気を取られていた。
ひんやりした笛の感触はなおさら冷たく感じる。
「妖精がいないって、どういうことでしょう」
「笛を、貸していただけますか?」
クロードは素直に笛を渡してみる。そして神子が笛に触れた瞬間だった。
ちりりと頭の中で鈴の音が鳴り響く。澄んだその音はありふれたもののようで違った。
『クロード、今日からこれはあなたのものよ』
ふっと母の言葉が記憶に上ってくる。
母からみっつに連なった銀の鈴を手渡されたのはいつだったか。あれはいつの間にかどこかへなくして、母に泣いて謝ってから気がついたら手元に笛があって。
「これ、あれ?」
笛を見て、クロードは呆然とつぶやく。
鈴がなんで笛になるのだろうか。まったく意味が分からない。
「楽士様?」
笛を持ったままのクロードは、慌ててぱっと笛から手を離す。神子は訝しげにしながらも、両手に笛を乗せて瞳を閉じ、視覚以外で何かを感じようとする。
「私の気のせい、というわけではありませんね……。ここだけ妖精の気配が完全に消えています。こんなものが存在するなんて。でもなぜかしら、この笛のことを知らないのに、知っている気がします」
不可解そうに言って神子がクロードに笛を返す。
一族の繋がりの名残なのかもしれないと思いつつ、戻って来た笛を改めて眺めてみる。
「ここだけ、妖精がいない」
口にするとぞわぞわとして落ち着かないものがあった。試しにそっと風の妖精を動かして、笛に近寄らせてみるが彼らは笛自体には一切興味を示さない。
(な、何、これ?)
物心つく前から持っていた笛が途端に得体の知れないものになって、クロードは目を瞬かせる。
「えっと、ひとまず吹いてみますね」
実際音を出すとどうなるかも、確認したいのでクロードは笛に口をつける。
笛に意識を集中させると、妖精の気配が宿るのが分かる。
(妖精。だけれど、風でも雪でもない。知らない妖精だ。お前、誰だ?)
気配はそこにあるだけで何の反応も示さない。音が膨らむと一緒に膨らみ、跳ねるとあわせて躍動する。
(音楽に、妖精はいないよな。音は、風の妖精達が作るんだ)
では、なんなのだろうか。音を奏でていくうちに、煌めきを感じるようになってくる。
(金色、これは俺の瞳の色……? この妖精は、俺自身……)
ふっと浮かんだ思考に、クロードは音を乱す。甲高い音を旋回させて口を離すと、神子の見開かれた目と視線がぶつかる。
「……あ、すいません。ちょっと、緊張しちゃって」
笑って誤魔化そうとしてみるが、神子は深刻な雰囲気でどうにかなりそうにない。
「楽士様、その笛はどこで手に入れられたのですか」
「えっと、母の形見です。俺の遠い祖先はこの国にいたそうです」
「そうなのですか。あなたは異国より巡り巡ってここへ帰ってきんですね。私の祖先も渡りの楽士をしていて、そのうちここの近くの村に居着いたらしいです。どこかで楽士同士、巡り会っていたのかもしれないと思うと、不思議ですね」
神子が小さく笑って、クロードはつられて笑う。
「神子様、もうよろしいでしょうか」
少し離れた所でいた神官長が落ち着かない様子で、神子に問いかける。
「待ってください。あの、どうしても思い出したくないならいいんですけど、神官様が亡くなった時の様子を教えて、もらえません、か?」
言っている間に神子の顔色がどんどん失われていって。クロードの声も萎んでいく。
「神子様、ご無理は……」
「いいえ。大丈夫です。あの朝、薔薇達が騒いでいたんです。それで様子を見に庭へ降りてきたのです」
神子が小さく頭を振った後に、周囲の薔薇へと視線を向ける。
「ここに来る途中に大きな音がして、庭に出た時にはすでにひとりの方があそこで亡くなっていました。そして、彼はあの辺りで自刃しようとしていました」
神子が最初に指差す所が遺体のあったとされる場所で、自害の場所は初めて中庭へ来た時に、蔓についた血痕を見つけた場所だった。
「神子様が短刀を取り上げようとして、即死は避けられたのですが残念ながら……」
神官長が神子が口を開く前に説明する。神子は肯定も否定もせずに微かに傷ましげに眉根を寄せた。
ただふたりともやはり、悲しんではいないかに見える。
「神官様が中庭を選んだのは音を外に響かせやすいからだと思うんですけど、自刃までには間が空いていますよね」
神子が音を聞いて駆けつけるまでには少し時間が合ったはずだが、もうひとりの密偵は何をしていたのか疑問に思った。
「薔薇と別れを告げていたんだと思います。彼の国には薔薇に話しかけると、花が喜んでより美しく咲くという言い伝えがあるそうです。それで、彼は毎日薔薇に語りかけていました」
皇太后とそれは同じだと思って、クロードは周囲の薔薇を見渡す。
遺書の中には中庭を血で穢すことへの詫びもあった。
(もしかしたら、ここの薔薇はその密偵を待ってるのかな)
密偵が死んだ日、薔薇の妖精が騒いだのは神子を呼んで助けてもらうためで、今も咲いているのは彼が再び声をかけてくれるのを待っているのからだろうか。
ここの薔薇達はオリガの願いが叶うことだけでなく、彼に再び声をかけてもらえるのを待っていて散らないのかもしれない。
実際に繋がってみたいがそれは無理そうだと思い、クロードはひとつ疑問を持つ。
(どうして薔薇が喜んでくれるって話ができたんだろう)
薔薇の妖精が話しかけられるのが好きだというのは、妖精の感情を感じ取れる妖精王ぐらいなはずだ。
そんな言い伝えは故国のハンライダでは聞いたことがなかった。
「あの、それ具体的にどんな言い伝えなんですか?」
クロードが訊ねると、神子は詳しくは知らないと答える。
「あなた様は聞いたことはありませんか? 彼が言うには、異教の教義が元になっているそうです」
代わりに答えたのは、神官長だった。
「ナルフィス教の? すいません、本当に合わなくて基本的なことしか知らなくて……」
心底驚いた顔で神官長は目を瞬かせる。
「学ぶのも厭うほど、ですか。だからこそあなた様はすぐにこの国の信仰に馴染んだのですね」
「……そんなところです。神官長様は詳しい事を聞いたんですか?」
ナルフィス教を学ばなかったことび関しては適当な返事をして、クロードは神官長を見上げる。彼は少し迷う素振りを見せたが、伝え聞きですがと最初に断っておもむろに口を開いた。
「妖精はけして見るべからず。語りかけるべからず。その存在を認めなければ人に害悪を与える力も弱る。だが妖精はそこに存在する。完全否定はすなわち唯一神の否定」
神官長の声音と抑揚が変わる。
「妖精は否定しなければならないが、しかし神の存在を信じるためには否定してはいけないというのは難しい話ですね。これは己にとって唯一神とはなんであるかを考えるための、ものです。答はそれぞれ違うでしょう。しかしただひとつだけ同じことを最後に思うはずです。我々にとって神は絶対であると」
クロードは神官長の語る言葉に息を呑む。
礼拝堂で講説する神官長の自然と聴き入ってしまう語り口に覚えた、既視感の正体が見え始めていた。
「ディシベリアの信仰に似ているところも見られますね。人が神を望むのは国が違おうと変わりません。しかしながら、彼の国の神とは人にとって絶対的な味方でなければない」
何かを考え込む顔をして、神官長が苦笑する。
「……すみません。話が逸れましたね。そして旧い昔にひとりの司祭が薔薇をひとつ例に出してみたそうです。今目の前にあるのは薔薇である。声をかけてみよと。その時自分は何を見ているか。その時に薔薇を褒め称えていたひとりの旅人の青年が、薔薇が喜んでいるのが見えると答えたそうです」
それは何世代か前の妖精王かもしれない。ディシベリアに限らず各地を放浪していたらしいのでありうる話だ。
「彼は目の前にあるのは薔薇以外のなにものでもないと答えて、去っていたそうです。そしてその翌年に薔薇はより美しく咲き、それから薔薇に話しかけるといいという言い伝えができたそうです。そして旅人は唯一神の使いではとも言い伝えられているそうです」
伝え聞きとは思えないほど滑らかに語り終えた神官長にありがとうございます、とクロードは小さく答える。
「あの、本当に神子様も辛いことを思い出させてしまってすみません。ご協力、ありがとうございました。帰りはひとりでも大丈夫ですから」
クロードはそれを言って、ニカと共に中庭を去る。
「殿下、大丈夫ですか?」
そして、扉が閉まってニカが青ざめたクロードの顔を覗き込む。
「ちょっといろいろありすぎて、頭がごちゃごちゃしてる。笛のこととか俺の血縁とかちょっと分かったし……」
「血縁というのはやはり神子様、ですか」
「たぶんそうだと思う。後でフィグ達にも報告するからその時、詳しく話す。それから……」
クロードはそこで言い淀んで、口を引き結ぶ。
予想はたぶん当たっている。だけれどその後のことを考えると、言葉がつっかえてしまう。
「殿下?」
ニカに呼ばれて、クロードは後ろを振り返る。
「……神官長様もこの国の人じゃないと思う」
そして、本当に小さな小さな声だったがやっとその答を口に出せた。
.2
フィグネリアはアドロフ公家の離れに戻り、クロードが話すのを硬い表情で聞いていた。
「思わぬ所で、笛のことが分かったのか。それと、神子様が血縁とはな。だが納得いくといえばそうだな」
妖精の気配を感じられる神子と、妖精を従える妖精王。
どちらも妖精と接することができる人間だ。どこかで繋がっていても不思議ではない。
「各地を放浪して、後を継ぐことのない人がその地に残って、ときどきその中から神子様になれる人が出てくるんじゃないかと思います。それと、笛、もとは鈴でした。このあたりはまだよくは思い出せてないんですけど、妖精がいないこととかやっぱり特別な笛みたいです」
「まあ、元は鈴だった時点で明らかに普通ではないが」
フィグネリアは言いながらも、いまひとつ信じ切れない思いでいた。しかしクロードがそう言うなら信じるより他ない。
「冬籠もりの祭事の時、鈴を鳴らす習慣があるがそこからきているのかもしれないな」
ザハールが言ったことを、ちょうどフィグネリアも思い出していた所だった。
神霊をその身に降ろす大神子が年に一度大神殿から出てくる冬の祭事で、祭場へ向かう渡りに合わせて民衆が鈴を鳴らすのだ。
他にも神事で鈴が鳴らされることもある。
「笛ではなく、鈴について調べた方が何か出てきそうですね」
ニカがそう言ってから一瞬気遣わしげにクロードへと目を向ける。
何か困ったことでもあるのだろうかと、フィグネリアは夫の表情を見る。表情が先ほどより強張っている。
「君のその笛についてはひとまずこれでおいておいて、肝心の密偵の方はどうだったんだ?」
ザハールが問うと、クロードがしばし迷ってから口をおもむろに開いた。
とつとつと被疑者の生い立ち、死亡時の様子や神殿の中庭の薔薇が咲いていたことなどを話していく。
(だいぶ、引込まれているな)
フィグネリアはクロードの悲しげな表情や重たげな口調に、胸が軋んで苦しくなってくる。
夫につられて被疑者に同情しているわけではない。
これから自分がなそうとすることで、さらにクロードが気落ちすることを考えると辛い。
「それで、他には?」
フィグネリアは表情は崩さないまま、もたついてきているクロードを急かす。
彼が自分達がまだ知り得ない何か気づいていることがあるのだろう。ニカは先に聞いているのか始終心配そうだ。
「時間がないんだ。早くしてくれ」
ザハールがきつく言うと、クロードは下げていた視線をあげる。救いを求めるような琥珀の瞳と視線がぶつかる。
「神官長様もロートムの人だと思います。講説の時の話し方が、司祭様と一緒なんです。ナルフィス教の教義の話し方も、最初に聖典の一説を出してそれから教義を始めるっていうやり方と、独特の口調が一緒だから元は司祭様だったかもしれません」
クロードがひと思いに喋って、フィグネリアは唖然とした。
さすがにそれは想定外だった。どう見ても神官長はどこにでもいる模範的な神官で、なんの違和感もなかった。
「……自決した密偵の実父は元司祭だったか」
驚きながらもフィグネリアは冷静に先にクロードから聞いた話と結びつける。
繋がらなかったものがこれで一気に整然とする。
「赤の他人というには、できた偶然だな。君の憶測が正しいとして、これなら不明な点もつじつまが合うわけだ。皇女殿下、神官長の素性は?」
「マラット殿に簡単なことは聞いているが、十年前に大神殿からこちらへ派遣されて神官長になったぐらいしかな。神官方の経歴はご本人にしか分からん。密偵の実父の死因は聞いていないだろう」
フィグネリアはクロードがうなずくのを確認して続ける。
「密偵が二十三、神官長様が五十前後で年は合うな。銃に対処しきれなかったのも、二十年以上前にロートムを出ているなら、分からなくて当然か。過去の密偵の動向の情報も得られるかもしれんな」
捕えた密偵から神殿へと潜りこむ計画が始まったのは五年前だという情報は得ている。過去に遡っては同じ計画があったかは実害も確認されていないので今は調べようがない。しかし、神官長がその過去の事例だとするならこれ以上ない手がかりだ。
「……殺された密偵が気づいたのなら、口を塞がれる理由はできる」
「神官長が密偵を引き渡さないのも、保身と息子を護るためか。他の神官方は知っているのか。君が見た限り保身と、我が子可愛さどっちが強いと思う?」
ザハールの問いかけに、クロードはしばし悩む。
「保身っていうのはあんまり感じなかったです。一生懸命、息子さんのこと話してたし、大神殿側からの処罰も受けるつもりでしたし」
憶測の域をすぎない返答だが、クロードはこの辺りの機微には敏い。
フィグネリアはやりやすいといえばやりやすかいかと、考える。
「皇女殿下、そのあたりから追い込んでいけそうですが、どうしますか?」
「追い詰めすぎると死なれそうだからな。……息子の方の身の安全を強調する方向で行くか。保身の意思が薄いなら容易だろう」
「後はもう少し、神官長がロートムの人間である確証があればいいのですが。ある程度はったりでどうにかなるでしょうか」
「現状で相当焦っているからな。クロード相手だったからというのもあっただろうが、自分の素性に繋がる話をしてまっているしな。そこはお前は任せる」
「まあ、皇女殿下がやるより私がした方が効果的でしょうね」
ザハールとある程度方策を決めた所で、フィグネリアは物言いたげなクロードに目を向ける。
「……何か疑問はあるか?」
「結局、神官長様も密偵も捕まえるんですか? 情報だけもらって、あとはもうそのままにしておいても十分じゃないですか?」
疑問というより願望めいた口調でクロードが言うのに、フィグネリアは首を横に振る。
そして全部言っておくべきかどうか、逡巡する。
しかしどうせ後で分かることなのだと隠し立ては諦める。
「神官長様は、密偵側の人質にするので神殿に留め置く。密偵は捕え、保身のために同胞を殺害し神子様を人質にとって神殿を従わせていたとする」
「でも、悪いことしようとしたわけじゃないのに……」
クロードが目を見開いて動揺した様子でいてフィグネリアは、声を穏やかにする。
「私達の目的は密偵から情報を得るだけでなく、先のための前例作りもある。そして後者の目的の方が大きい。神霊様を過剰に恐れることに対しての問題提起、そして今回のような事案の時に神殿の法と政府の法の境界を定めるための前例。先延ばしにはできないし、手段は選んでいられない」
神殿に両者を残しておける手立てはあるが、今回はそれは選択できない。
「他に、何か方法とかは……ないんですよね」
クロードが言い募りながらも、無理に呑み込んでうつむく。
「君は可哀相な密偵親子の身の上話ばかりに気が行っているが、両者ともディシベリアに損害を与えたことを忘れるな。密偵の活動記録は一年だけだとしても確かにあった。そして、神官長は密偵の存在を隠した。仲間を殺したのも、父親を護るためと言えば聞こえはいいが、所詮は自己満足にすぎない。君はディシベリア国民としてはもちろんだが、それ以上に皇族として、国益を第一に考えるんだな」
ザハールの容赦ない言葉に、フィグネリアは静かに彼をねめつける。
そこまで言わずともクロード自身もよく分かっているはずだ。
「…………ちょっと、外で頭冷やしてきます」
クロードがひどく悩んだ様子でふらりと席を立つ。
フィグネリアはその袖を引いて止めようとするが、上げかけた手を止める。今は自分が側にいても彼をさらに悩ませるばかりだ。
「あの、自分は殿下に外套を届けに行ってきます」
ずっと落ち着かない様子だったニカが立ち上がって許可求めてきて、フィグネリアは首を縦に振る。
「ああ、頼んだ」
ニカは言われるなりすぐに自分とクロードの分の外套を手にして、急いで追い駆けて行った。
「まったくお前は余計なことを」
フィグネリアが半ば八つ当たり気味にザハールに文句をつける。
「皇族として考える、ということができていないのは事実でしょう。あなたはもう少しその辺り含めて教えておいた方がいい」
「まだ一年足らずだ。学ぶだけではなく、実務をこなす内に自ずと身についてくるものだろう」
「彼の場合は十七年もあのお気楽な価値観で過ごしてきたのだから、最初に矯正しておくべきだったのでは」
フィグネリアとザハールは急にふたり同時に黙り込む。
「……なぜ、あなたとこんな子供の教育方針について揉める夫婦のような会話をしなければならないのでしょうか」
「不毛だな。まったくもって不毛だ。それより、マラット殿の所に報告に行くぞ」
お互いやれやれといった顔で重い腰を上げる。
(エリシンがいるから問題ない)
このままクロードの様子を見に行きたい衝動にかられてフィグネリアは頭を振る。
それでも外に出ると近くにクロードがいないかつい探してしまう。
「皇女殿下、行きますよ」
つい足が鈍っていたフィグネリアはザハールに急かされて、歩調を早める。そして結局一度だけ振り向いてしまっていた。
***
「……頭冷やすっていっても、寒すぎた」
離れの裏手近くまで歩いてきたクロードは、じわじわと体にしみ込んでくる冷気に身をすくめる。追い駆けてきたニカが持ってきてくれた外套を着ていてもまだ寒い。
「殿下、中へ戻りましょうか?」
「もうちょっとだけいる。……皇族としての自覚が足りないのは俺でも分かってるし」
そしてザハールに言われたことを思いだしてむくれる。
そんなこと自分が一番分かっている。
目の前のことでいっぱいいっぱいになって、先のことについて考えが足らないことも、そのせいでフィグネリアを困らせているのも、全部分かっている。
「自分はそれで殿下に救われたので、必ずしも悪いとは思いませんが。なにより殿下は皇女殿下のことを一番に思っています。それは国のためになるのではありませんか?」
「うん。俺はフィグの味方だし、フィグのためにできることはなんだってしたい。……気持ちはありがたいけど、寒い」
クロードは離れの壁にもたれかかる。すると風の妖精達が寄り添ってきて頬や鼻の頭が痛くなる。
「でも、難しい。頭ではまだちゃんと理解出来るのに、気持ちがついてかない」
フィグネリアがなそうとしていることも、それがどれだけこの国の将来のために重要なことかは飲み込める。
だけれど密偵のこともなとかしてあげたいと思う自分がいる。
「ニカは、こういうときどうする?」
「自分もあまり、私情を分けるというのは得意ではありません。結局、考えないとしか。殿下もいずれはある程度は切り替えられるようになると思いますよ」
いずれはいつ来るのだろうと、クロードは白い吐息を零す。
「ザハールにも聞いた方がいいのかな」
「イサエフ二等官はあれはあれで特殊な部類では。……皇女殿下に直接相談はされないんですよね」
「うん。フィグに相談する以外の解決方法も見つけないと。そうやって積み重ねていったら、フィグにもっと、頼ってもらえるだろうし。それに状況に合わせた相談相手とか見つけて、本当にフィグと相談しなきゃならないことの判別もつけられるようになると思う」
全部が全部フィグネリア頼りだと、彼女に負担もかけるし心配もさせることになる。
ふたりでないと解決しないことはたくさんあるだろうけど、自分自身でも解決しなければならないことはもっとあるはずだ。
「……今の所相談相手って、ニカかザハールしかいないけど」
ザハールもなんのかのと言いつつ、質問にはまともに答えてくれる。嫌味の棘付きのことも多いが。
なかなか信頼できそうな相手というのも見つけられない。
「できるだけ自分が侍従としてお手伝いさせて頂きます。イサエフ二等官に悪影響を及ばされるのは全力で阻止したく思います」
「大丈夫。俺、絶対にああはなれないから……」
ザハールの能力に追いつきたい気持ちはあるが、あの性格にはなりたくないしなれもしないだろう。
「だから寒いから」
また風の妖精達がまとわりついてきてクロードは、彼らを宥める。
「今日は風の妖精の様子が違いますね。いつもはもっと騒がしく書類を飛ばしたりしているのに……」
風の妖精のいたずらを普段目の当たりにしているニカが首を傾げる。
「ん。そうだな。今日はちょっと大人しいっていうか行儀いいな。ああ、そうだ。神霊様の前だとこんなだったかな」
冬の祭事の時を思い出して、クロードは妖精達の気配に意識を向ける。雪の妖精達もいつもより品がよく、あまり自己主張していない。
感じる妖精達全てが、そんな風だ。
「妖精達にとって殿下が従うべき相手ではあるのなら、普通だとは思うのですが」
「そういえば俺って一応妖精達の王様だったよな。……ああ、俺っていうかあの金色の妖精がそうなのかも」
「笛に宿った妖精ですか?」
「うん。今まで全然気づかなかったけど……神子様と会ったから、気づけたんだな」
クロードは自分と遠い血縁だろう神子の母と似た笑みを思い出す。
肉親の縁に薄い自分にとっては、どれだけ血の繋がりが薄かろうが妖精の話が少しでもできたことが嬉しい。
「不思議だな。俺にとって縁もゆかりもない国だと思ってたのに、ちゃんと繋がってるものがあるなんて」
話や書物で見聞きしてきた時でも驚いたが、実際に血縁となる人と出会うとやはり違う。目の前にある確かなものに感動と高揚を覚えて、気づいたあの瞬間を思い出すと胸が熱くなる。
「殿下は戻るべき所に、戻ってこられたんでしょうね」
ニカが感慨深そうに言うのに、クロードは力強くうなずく。
「きっかけはなんでも、ここに来られたのはよかったな。大事なものもも好きなものもいっぱいできたし。この笛とあの金色の妖精のことがもっと分かればいんだけど」
後ほんの少しで、妖精王としての秘密に手が届きそうなのにもどかしい。
「神霊方はその妖精については何も仰らなかったのですか?」
「それが不思議だよな。神子様は妖精がいないってすぐに気づいたのに、神霊様から笛のことはなんにも言われたことがないんだ。あんな妖精がいるなら何か言ってくれていそうだけどな」
なににも属さない妖精。神霊ならばすぐに正体を見抜いて、妖精王の力のことも察していそうなものだが。
「神霊方にも分からない妖精というものがいるのでしょうか」
「うーん。なんだかなあ。神霊様がよく知らないっていうのも何か変だよな。普通はさ、妖精を同じように操るなら、お互いもっと話し合っててもいいと思うんだ。神霊様達とご先祖様、まったく接点がなかったわけでもないのに」
神霊達は祖先と会ったことがある口ぶりだったし、少なくともラウキルに追い駆け回されたときに地母神に協力してもらって国外に逃げたのだ。
ある程度は話ができる間柄にあったはずなのだが。
「ギリルア様、はうーん。あれだけど、アトゥス様あたりはある程度までは分かってた。あえて話さなかったならなんだろう」
「ルーロッカ様も、殿下を味方に引き入れようとなさっていましたし、妖精に対しての影響力は殿下の方がお強いのでしょうか。一応は殿下が勝たれましたし」
ニカが自分が巻き込まれた件を思い出して唸る。
確かにルーロッカはリスという合わない器で思うように力を振るえていなかったものの、自分は打ち勝って妖精達を自分のものとした。
「神霊様と俺とじゃ妖精の使い方が違うんだよな。神霊様は本当に命令して従わせるだけど、俺の場合は一体化して俺自身が妖精の一部になるようなものだから。……やっぱりあの金色の妖精が全部の答を知ってるんだろうな」
妖精王の瞳と同じ色の印象をもたらす妖精。
自分が王たる所以はきっとそこにあるはずだ。
「でも、俺全然王様らしくないよな。一応王族産まれなのに」
「殿下が自らをらしくないと思うのは王というものがなんなのか分かっているからでしょう。それならば自分が王としてなすべきことができるはずだと、自分は信じています」
ニカに力強く励まされて、クロードはうつむき気味だった顔を上げる。
「できるといいな。できたらもっとフィグのためになれるし……」
クロードはそう言ってくしゃみをする。どうしてこういう時に自分は格好がつけられないのだろうと、少々情けない。
「……殿下、中に入りましょうか」
侍従が苦笑するのに、指先がすっかり冷え切っていたクロードは今度は素直にうなずいて、離れへと戻っていった。
***
マラットの執務室へと行くと、長椅子にパーヴェルが座っているのを見つけてフィグネリアは必要以上に体に力を入れようとしてしまう。隣にいるザハールも珍しく緊張を見せて挨拶をしていた。
フィグネリアも挨拶をした後、パーヴェルの顔色を窺う。
「アドロフ公、お体は……」
しゃんと背を伸ばしているパーヴェルの顔色はそれほど悪くないが、そう見せていないだけかもしれない。
「問題ない。ことは進みそうか」
パーヴェルの問いかけに答えつつ、マラットに憮然と席を勧められるままにフィグネリア達も長椅子に腰を下ろす。
そして神殿でのことを報告する。
パーヴェルの無言の圧力の元、マラットが声を荒げることもなく淡々と話し合いは進んでいく。
「明確な確証がない。状況証拠だけで神官長様を糾弾するつもりか。知らないと言い切られたならどうする」
ひととおり聞き終えたパーヴェルの質問にフィグネリアは応答する。
「言い切ることはできないと思います。隠蔽工作をした上、遺書を出してさらに情に訴えと密偵を庇う意思があるのは明白です」
「殉教者として扱われる者を罪人に貶めることは、神殿の神聖を穢さぬ行為だと考えるか?」
「神聖を保つためでもあります。これを殉教とするにはいささか私情が克ちすぎるかと考えます。それに、殺害自体は私情以外の何物でもありません」
「それを国の利益に利用するのは、俗世の欲を神殿に持ち込むことにはならないのか」
パーヴェルの切り返しに、フィグネリアは沈黙する。
「ならば、アドロフ公は人と神の領分をどこで分けるべきとお考えですか?」
両者の静かな睨み合いに、場の空気は緊張しきっていた。
「それは人が決めるべき区分ではない。神々にとって人の作った境界など無意味だ。どれほど人がそこまでと定めようが、神々は踏み越えてくる」
「ええ。それでも、人は定めなければなりません。人が人としてなせることをなすために」
神々を畏れ本来ならばできるはずのことまでしないままではいけない。
そして神霊達は人のためにはうごいてくれるものではない。
彼らが人に関わるとき、悪意はもちろん善意すらない。
大神官長のそんな言葉を思い出して、フィグネリアはふと今降りてきているリルエーカのことを思う。
ならば、かの女神はどうなのだろう。
「フィグネリア」
パーヴェルに名前を呼ばれて思考を逸らしかけたフィグネリアは意識を戻す。
「お前が見定めた境界に迷いはないな」
「ありません」
そこでパーヴェルが少し身を引く。
「……お前の婿も異論はないのだな」
痛いところを突かれてフィグネリアは押し黙る。
「伴侶ひとり納得させられずに民に己の意思を押し通せるものなら、してみるがいい」
パーヴェルにさらに追い打ちをかけられて、返す言葉は何もでてこなかった。
目の前で迷うクロードに何も声をかけられなかったのに、まともに言い返せるはずがなかった。
そしてそのまま退出することになってしまった。
「思わぬ所で足を引っ張られてしまいましたね」
ザハールの軽い口調にフィグネリアはきつく眉根を寄せる。
「……クロードのせいではない」
「十二分に弱みになっていると思いますが、あなたはかといってこれで引く気もないでしょう」
「ああ。決めたことはやる」
多少揺るがされたぐらいでは引かない。決断したなら、けしてひいてはならないというのが父の教えだ。
そして覆せない決断がどれほど重いものか、思い知らされている。
「クロードには、このことは言うな」
「しませんよ。これ以上じめじめと鬱陶しくなられても困りますからね。ですがご夫婦で一度は話し合った方がよいかと思いますよ」
ザハールが言うのに、フィグネリアは分かっていると小さく答えた。
***
「父上、フィグネリアの策は危険では?」
フィグネリアとザハールが立ち去った後、パーヴェルは不服そうなマラットにそう訊かれた。
「お前は他に良策をもっているのか?」
「……判断としては悪くはないとは思いますが、あれの神殿に対するやりかたは危うすぎる。神々に支えられたこの国の根底を壊しかねません」
マラットが苦々しく言う。
「ならば戦え。お前のあれに対する敵意は芯が定まっていない。アドロフ家の血統を重んじるのはいい。だがそれだけでは足りん。あの娘はお前より遙かに狡猾だ。多くの者を自らに従えるだけのものがなければ、容易には潰せんぞ」
すでに先帝によって血統至上主義は崩壊を始めている。さらにフィグネリアが帝位につけば、それは加速するだろう。
「父上は俺がフィグネリアに劣るというのですか!!」
マラットが青筋を立てて、窓硝子がびりびりするほどの声を轟かせる。
馬鹿でかい産声を聞いて五十二年。今さらこの程度の声で怯むことはないパーヴェルは動じることなく半眼を伏せる。
「お前はフィグネリアにどう対抗するつもりだ」
「まだ軍はイーゴルが掌握しています。血統と武力によって築かれるディシベリアを取り戻すのはフィグネリアがまだ小娘である内にやるしかないのです! リリアの所から養子を取れば、例えイーゴルに嫡子がなかろうとアドロフ家の血統は護れる。賛同する者は他にも多くいます」
そこでマラットはじっと睨んでくる。
「父上、家督をお譲りください。政務も滞りなく行い、一族の統率もなせるのになぜですか」
先ほどとは打って変わった静かな物言いだった。
確かに政務も一族の統率も二十年も前に代替わりしていてもいいほどには、こなせている。
だがこの直情的な所は直らず、血の気の多い根っからの軍人気質の者はよく従えさせられるが、とても先帝と対抗できるほどの冷静さがなかった。
九公家の他の当主に対しても、渡り合えるかといえば怪しい。
「……そう急かずとも近いうちに家督はお前の手に渡る」
老いて骨と皮ばかりの手を見ながら、パーヴェルは静かに告げる。
この手で築いたものは息子に全て譲り渡すつもりだが、どうしても気質が違いすぎて全ては与えられない。
我が子に全てを残してやれた先帝が時折妬ましく思える。
(なぜ、それがオリガの子ではなかった)
パーヴェルは杖を支えに立ち上がり、無言で部屋を出る。
我が子ではない赤子を抱いて、愛おしげにその頬を撫でて幸福そうに微笑んでいた娘の姿が眼裏にある。
『恋は叶わなかったけれど、愛していただけたからそれで幸せなの。あの子のお母様になりたいと陛下にお願いしたのもわたくしなのよ』
ふわふわと夢の中で生きていた娘は、いつまでたっても愛することが全てのようだった。
イーゴルも、リリアも娘と似すぎているぐらい似ている。
パーヴェルは目の前でじっと自分を見ている侍女に目を止める。
彼女が神霊をその身に降ろしているのはとうに気づいていた。声を待つが、神霊は何も言わずにそのまま横を通り過ぎた。
***
その夜、クロードはニカと一緒にザハールの部屋を訪ねた。
「お邪魔します」
自分とフィグネリアの部屋より少し狭いだけの部屋のベッドの上で、ザハールは明日のための資料を見返していた。
「本当に邪魔だな」
資料から顔も上げないザハールにすげなく返されて、クロードはすごすごと帰りたくなる。
「どうしても、邪魔ならいいですけど……」
実際仕事中なら仕方ないという思いもあってそう言うと、ザハールはサイドテーブルに資料を置いた。
面倒くさそうにため息を吐いているが、どうやらいてもいいらしい。
「それで、ふたり揃って僕になんの用だ? それと扉は早く閉める」
ザハールがベッドを降りて、いつまでも戸口で外の冷気を入れる主従をテーブルセットの方へ促す。
「明日のことでいろいろです」
クロードはニカと並んでちょこんと席について、ザハールと向き合う。
「皇女殿下に訊けばいいだろう。納得いかないから僕にどうにか説得してくれとか言うつもりじゃないだろうな」
「納得、は全部しきれてないです。でも、フィグが決めたことならちゃんと自分なりに納得したいと思って……今すぐは無理かもしれないですけど」
今から明日までに全部を理解して気を落ち着かせられるとは思っていない。だけれども、ほんのちょっとでいいからこの苦しい気持ちから抜け出すものが欲しい。
「君なりに考えていることは考えているのか。皇女殿下本人とは話し合わないのか?」
少し態度を和らげてザハールが首を傾げるのに、クロードはこくりとうなずく。
「フィグを困らせたくはないんです。それに、これは自分で解決しなきゃならないものだと思うんです」
「と、言いつつ君は侍従付きで僕の所に来ているわけだが」
「う。いろんな人の意見を聞くのも手段のひとつです。ザハールはフィグと考え方にてるけど、ちょっと違うと思うから何か参考が欲しいです」
怯みがちになりながらも、クロードは真剣な眼差しをザハールに向ける。
至極嫌そうな顔をしつつも、ザハールが椅子に深くもたれかかった。そして深い藍色の瞳で見返してくる。
「それで君が納得いかないのは一体どの部分なんだ? 密偵を捕えること自体か、密偵を悪人に仕立てることについてか。それとも両方か?」
クロードはうん、と考える。
「両方、だと思います。密偵を捕えること自体には、納得はしてます。それについては、助けられる人が目の前にいたら助けたいって後先考えてない自分に、なんだかもやもやします」
感情的にはなっていけない。ひとりの動きから、誰がどう動くかを考える。
マラットとの最初の会談でフィグネリアにそう教えられた。
このことも同じで、目の前で起こっていることが後にどんな影響を及ぼすのか考えなくてはならないのに、感情ばかりが先走る。
「君は感情的な分、他人の感情にも敏感だからな。自覚があるなら問題ない」
「ないんですか……?」
いいのだろうかとクロードは半信半疑で首を横に傾ける。
「いい結果も悪い結果も産むが、そこに侍従がいるんだから悪い方向に行きそうなら手綱は握ってもらっておけばいい。自覚があるならそのうち自分で踏みとどまれる……なんだ、その目は」
「うう、なんか、ザハールがまともだと変です。な」
隣で静かに聞いているニカに同意を求めると、彼も首を二回も縦に振る。
「失礼だな。僕はいつでもまともだ。エリシン君も、自分の侍従としての役目は分かっているだろう」
「はい。クロード殿下をお護りすることです。身の危険はもちろん、誤った道を歩むときもまた同じく。いかなる時も、主君が我が命と心得ています」
ニカがはきはきと答えるのに、クロードは唖然とする。
「…………ニカ、重い」
そしてぽつりと零すと、侍従にじっと見据えられる。
「このディシベリアで膝を折り、忠誠を宣言するというのはそういうことなのです。自分はけして安易に殿下の侍従となったわけではありません。殿下のために命を捨てる覚悟もあります」
「いや、捨てなくていいから。そういうのは将来の大事な人にな。……やっぱり恋人のひとりぐらい作っても誰も文句は言わないと思うけどな。ほら、侍女の」
「人が真剣に話してるのにそっちの方向へ持っていかないでください!」
ニカが誤魔化し半分、怒り半分で赤くなって怒るのでクロードはひとまずそこまでにしておく。
「……君達、本題はどこへ行ったんだ」
ザハールが冷めた声で言うのに、クロードは居住まいを正して頭を下げる。
「すいません。ニカは頼りになるんですけど、俺、踏みとどまれるようになるんですか?」
「ならなければ、学習能力のない馬鹿だ。自分がそこまで馬鹿だと思うなら、皇女殿下と離縁すればいい。僕が遠慮なく次期皇帝の夫の座はもらってあげるから」
それだけは絶対に嫌だとクロードはぶんぶんと首を横に振る。
「そこまで馬鹿になりません! フィグの旦那様は俺だけです。……だから、俺が一番頼れる人にならないと駄目なんです」
言っているうちに意気消沈していく。
フィグネリアが困ったときに、一番最初に目を向けてもらえる相手になりたい。だけれど思い描く理想はまだ遠すぎる。
一歩進むのがあまりにも緩やかな自分が情けなくて、苛立たしくなってくる。自分自身に腹が立った時どこにぶつけていいか分からなくて、なおさら苛々する。
「君は本当に浮き沈みが激しいな。それで、密偵を悪役に仕立てるのにも納得がいっていないんだろう」
ザハールのどこまでも冷淡な声に、冷や水を浴びせられた気分でクロードはうなずく。
「…………ザハールは、後ろめたさはないんですか?」
「ない。ディシベリアにわずかでも損害を与えたのなら、それ相応の報いは受けてもらうのが道理だ。命は取らずに穏便にすますのだから、むしろ向こうには温情感謝してもらいたいくらいだ」
傲岸不遜な返答に、クロードはニカと目を合わせて微妙な顔をする。
この考え方はたぶん自分には一生できないだろう。
「でも、嘘なんですよ。その密偵の気持ちとか、全部なかったことにしちゃうんですよ」
それはすごく、悲しい気持ちになるのだ。
「君はどうして、まだきわめて確証に近いとはいえ、本人から直接確認したわけでもないのにそこまで感情移入できるんだ。僕にはそこが全く理解できない」
ここはお互い絶対にわかり合えない領分らしい。
「……ずっとどこにも居場所がなくて、ようやく自分が居たいって思える場所を見つけられた気持ちはよく分かるから、他人事の気がしないんです。神官長様が話した密偵の話は、嘘に思えなかったし」
上手く説明はできないけれど嫌な人間は分かる。子供の頃から争いごとを避けるのに必死だったので、敵意や悪意には人一倍敏感だ。
「そこは僕も皇女殿下も、策に踏み切るための重要な情報として扱うぐらいには信頼しているがな。君はもっと区分しなければならない」
「それが上手くできないから、訊いてるんじゃないんですか」
感情をもっと分けなければならないのは、分かっているのだ。どうやって仕切りをしたらいいのだろうか。
「あいにく、そういうことを考えたこともないからな。それこそ、君が自分で見つけるしかないんじゃないのか?」
ザハールが面倒くさそうな顔になって、クロードは考え込む。
答は自分の中に。
そしてフィグネリアに言われていた言葉を思い出す。
(見つけられるかな。違う。見つけないといけないんだ)
クロードはそう考えて、ならばと明日の策についての細かなことをザハールに訊ねる。
彼はわざとらしく眉をひそめつつも、そのままいろいろ教えてくれた。
当然の如くたっぷりと棘と毒も含まれていたものだったが。
***
クロードはどぎついザハールの講義をニカと一緒に受けた後、精神的に疲れ切って寝室に戻る。
ずいぶん遅くなったし、フィグネリアはもう寝ているだろうと思ったが、彼女の姿は暖炉前のソファーにあった。
「フィグ、ただいま……」
声をかけている途中で微動だにしない妻に気づいて、側に寄ってみると彼女は座ったまま眠っていた。
「待ってたのかな?」
ガウンを着て膝掛けもありで防寒はできているが、このままの体勢で眠るのは疲れも取れないだろう。
クロードはそう考えて、フィグネリアの寝顔とベッドを交互に見る。
「…………筋力欲しい」
できれば起こさずにベッドに運びたいのだが、あいにくフィグネリアを抱えて歩けるだけの力はない。
大柄なディシベリア帝国民の体型に合わせて作られたソファーは、この国の女の子としては小さめのフィグネリアにはベッドぐらいの大きさはある。そっと横たえて、毛布を掛けるのが無難だろう。
「えっと、どうすればいいかな」
それはそれで大変だとクロードはフィグネリアの掌を、ひとまず自分の掌に乗せる。次の動作をどうするか決めかねて、指先まで綺麗な彼女の掌をぼんやり見つめた。
それから無防備な寝顔へと目を向ける。
暖炉の灯を受ける伏せた長い銀の睫は艶やかで美しく、わずかに開いた桜桃色の唇から漏れる寝息はあどけない。
そんな彼女が無性に愛おしくなって、重ねた手を軽く握ってクロードは目を細める。
起きているときもこんな風に穏やかで居させてあげられたらいいのに。
欲張りすぎだと自分でも思うほど、この頃はやりたいこともなりたい自分もたくさんある。
そしてその全部が行き着く先にあるのは、フィグネリアだ。
自分が得たもので彼女を支えられるといい。
「ん……、戻ったのか」
クロードが手を離して横たえようとした時、フィグネリアは目覚めてしまった。
「ごめんなさい。起こしちゃいましたね」
「いや、いい。ザハールに意地の悪いことは言われなかったか?」
まだ寝惚け眼で目をこすりながらそんなことを言うフィグネリアに、クロードは苦笑する。
「大丈夫ですよ。俺、フィグに心配させてばっかりですね」
フィグネリアが目を瞬かせて首を横に振る。
「そんなことはないぞ。やはり、ザハールに何か言われただろう」
「言われてません。寝るならベッドの方行きましょう。一緒に寝られるし」
クロードは眠たげなフィグネリアの手を引いて立たせて、そのまま手を繋いだままベッドへ向かう。
「ああ。そうだな。お前が帰ってくるのを待っていたのだが、ついうとうとしてそのまま寝てしまった」
言いながらフィグネリアがあくびをかみ殺す。
「フィグ」
クロードはベッドのすぐ側で立ち止まって、眠たげなフィグネリアを見下ろす。
「明日、密偵と話すことになったら、それ俺に任せてもらえませんか?」
「大丈夫か?」
また心配そうな顔を向けてくるフィグネリアに、クロードは微笑む。
彼女を抱えることはできないけれど、こうして並んで歩めるぐらいになるには必要なことだ。
「大丈夫です。よし、それじゃ明日のことはこれで終わりですっと!」
まだ物言いたげなフィグネリアの細腰を抱いて、クロードはそのまま仰向けに倒れ込む。
「何をやっているんだお前は。だから、ザハールと一体何を話してきたんだ」
クロードの胸の上に乗った状態のフィグネリアが、軽く上体を上げてまだ文句を言いたげにする。
「ベッドじゃ仕事の話は終わりです」
不満げな頬を撫でると、フィグネリアはくすぐったそうにして肩口に顔を埋めてくる。
彼女はそれから何も言わずにじっとしているだけだった。
沈黙は居心地悪いものでもなく、クロードは滑らかな銀の髪を指先で梳く。
体にのしかかる重みと温度が夢のような幸福に現実味を与えてくれる。何気なく彼女の手を取って指先に口づけてみる。
「……クロード」
フィグネリアが顔は上げずに名前を呼んでくる。
「なんですか?」
「いや、うん。もう寝るか」
たぶん、言いたいことは別だろうが追求はせずにクロードはフィグネリアを自分の体から降ろす。
それから毛布を引っ張り寄せてフィグネリアと自分にかける。
「おやすみなさい」
囁きと一緒に頬に口づけを落として、クロードも眠りについた。
.3
翌日、クロード達は狭い部屋で神官長と向き合っていた。
「私にお話とはなんでしょうか」
クロードは神官長が縮こまって言う姿を見つつ、ザハールへと目を移す。
「神官長様、こちらですでにあなたについても密かに調べを進めてきました。そして昨日、クロード殿下により確証が得られました。あなたは、ロートムの出身ではありませんか?」
八割ぐらいが嘘だというのに、ザハールの態度はまるで嘘に見えない。
そして静かに問いかけながらも、否定の言葉は一切受け付けない異様な圧迫感があった。
(ニカが恐いって言ってたの、これか)
以前ザハールから取り調べを受けたニカが反射的に肩をすくめるのが見える。確かに狭い部屋で、このザハールとふたりきりなら軽く心の傷になりそうだ。
「……はい。もう知られていましたか」
神官長は無気力にそう答えた。思ったよりもずっと簡単に認めたのは、保身の意図は欠片もないからだろう。
今しばらくはザハールに任せるらしく、フィグネリアはじっと神官長を見ている。
「二十四年近く前にこちらへ来たでよろしいですか?」
「はい。密偵をしろと命を受けサムルの神殿に潜り込みました。最初こそは国の命を果たそうと思いましたが、半年ほどで考えが変わりました。私は、元はナルフィス教の司祭を務めていましたが、以前より教会の在り方に疑念を持っていました。クロード殿下なら知っておいででしょう、教会の腐敗を」
それほどナルフィス教とは深くは関わっていないにも関わらず、司祭の不祥事は度々耳にしたことあるクロードは首を縦に振る。
「政争に荷担したり、無駄なお金稼ぎしてたりですよね」
「そうです。私は中流貴族の次男に産まれました。教会に入ったのも自分の意思ではなく、派閥争いで優位に立つために父に命じられたからです。清貧を説き、慈悲の心を尊べと言いながら、俗世のありとあらゆる汚濁に自ら染まっていくのを見て育ち、やがて兄が急逝すると家を継ぐために呼び戻されました」
神官長がとつとつとここにくるまでのいきさつを語り始める。
家に戻ったはいいが、父親が政争で負け側になってそのうち密偵としての命を受けたということらしい。そして妾腹だった下の弟が引き取られと、とにかくごたごたと厄介な状況らしかった。
「神殿に入って私は真の清貧と慈悲の心を知りました。信仰のあるべき姿をここに見つけたのです。そしてそのままここへ来て半年で故郷を捨てました」
それから神官としての勤めを黙々とこなす内に大神殿へ修練に呼ばれ、十年前にはこの神殿へ神官長として派遣されたということだ。
「私を罰したいというのならかまいません。還俗して望むままに」
粛々とそう言う神官長の言葉には安堵が滲んでいる。
もうひとりの密偵のことから話題が逸れたからかもしれないと、クロードはついうつむきそうになる。
(感情的に、ならない)
今は冷静にフィグネリアとザハールを見ていなければならないと、どうにか前を向いたままでいる。
「神官長様にはこの神殿でいて頂きたく思います。代わりに、ご子息を引き渡してくださいませんか?」
ザハールがさらりと言って、神官長の表情が強張る。
「あなたが自決したと言った密偵は、ご子息ですね。わざわざもうひとりを殺害したのもあなたの正体が知られることがないようにするためでは」
「まさか、そんな。知らないはずです。彼には私のことなど一言も教えてはいません」
神官長は愕然とした後にに沈黙し、そんなともう一度つぶやいて両の掌で顔を覆った。
彼もまた自決という結果に意識をとられて、もうひとりのの殺害については考えてもうなかったのだろう。
神官長が今何を思っているか考えるとまた気持ちがぐらついてくる。
クロードは表情ひとつ変えずにいるフィグネリアを見て、ゆらゆらとあまりにもおぼつかない感情を抑える。
「ならばなおさら、神官長様はここに残るべきでしょう」
長いような短いような沈黙の中、そう口を開いたのはフィグネリアの方だった。
ザハールと比べて柔らかい口調だ。
「私は息子を差し出してまで立場を護るなどはしません」
もはやすでに死亡したという嘘を通せていないと気づいていないほど、思考がまともに回っていない神官長が顔を上げるとザハールが彼を見据える。
「我々には神官長様と密偵、ふたりとも拘束できます。大神殿への通達もすでにすんでいます。お二方ともこちらで裁定の後、ロートムに送り返して向こうで処罰してもらうことも考えています。あなたなら、その先がどうなのかお分かりでしょう。ご自分の築き上げた地位、信頼、命、そしてご子息の命。全て失う」
ザハールは冷ややかに、最悪の結果を示す。
ロートムは密偵のことなど知らないと言い張りつつ、同胞を殺し命に背いた国家反逆罪としてふたりを密やかに処分するだろう。
「神官長様」
苦痛に耐えるかのような顔をする神官長を、フィグネリアが穏やかな声で呼ぶ。
「ご子息が命をかけて護ろうとしたものは、あなたです。私どもとしても、あなた様が異教の方だったとは思えないほどに俗世を捨て、正しく神々に仕えてきたのは分かっております。あなたさえここに残り、私どもの言うことを聞き届けて下さったのなら、ご子息は政府で裁定の後、数年はかかるでしょうが、大神殿へと預けたいと考えます」
そして一呼吸をおいた後、フィグネリアが真摯に大神官長へと訴えかける。
「どうかご子息の思いを護るよいご決断を。私達はしばし礼拝堂にいますので、その間に返答をお決め下さい」
フィグネリアが席をたち、クロードは神官長をちらりと見る。
苦悩と、後悔と、迷い。
背を丸めうっすらと涙を滲ませている彼から感じ取れるものは、そんなものばかりだ。
「……後少しで終わりですね」
クロードは部屋を出た後、フィグネリアの横顔を見下ろす。
「ああ。思った以上に手間が掛らなかったな」
「そうですね。もう少し粘ってくれた方がやりがいはあったのですがね」
実につまらなさそうにザハールが所感を述べる。
やり方としてはザハールが叩き落として、フィグネリアが妥協案を穏やかに進言するという手を取ると聞いていたのだが。
(ザハールの方が嫌な役回りと思ってたけど、本人は全然そんなことなさそうだな。むしろフィグの方がそうかな)
クロードはもう一度落ち着いた雰囲気の妻に視線を向ける。打算しかない優しさを口にする時、彼女は何を考えていたのだろうか。
(ううん、フィグなら段取りのことしか考えないか。神官長様の様子を見て、頃合を見計らって……)
そんなところだろうかと考えていると、フィグネリアと視線がかち合う。
「……本当に密偵と話をするつもりか?」
問われてこくりとクロードはうなずく。
「俺、相手の感情に目を瞑るより全部知っておきたいんです。それからじゃないとたぶんいろいろ考えられないと思うんです。すごく、回り道だけど、今の俺にはこういうやり方しかできないと思うんです」
区分だとか自制だとか言われても、あれこれ考え込むばかりで答えにはたどりつけない。
目を逸らすことをしてはいけないしできないなら、全てを見ているしかないのだ。
「そう危険もなく、彼が対応方法を学ぶにはちょうどよい相手でしょう。エリシン君も控えさせておけばいい」
ザハールが珍しく後押しをしてくれて、クロードは感謝の意を伝えようと顔を向けて表情を引きつらせる。
深い藍色の瞳は何かやらしたら分かっているかと静かに脅してきていた。
(ちょっとでもへまやったら後が恐い)
クロードはぎこちない表情のまま気を引き締める。
「……ということで、頑張ります。話をさせてもらえればいいんですけど、神子様の時みたいに渋られないといいんですけど」
「話ができる状態かどうかによるな。神官長様の様子からそれぐらいは回復していそうだが」
フィグネリアがそう言う頃に礼拝堂にたどりつく。
リルエーカ像の近くで四人は腰を下ろしてじっと待つ。周囲では神官達と領民達のごくごく普通のやりとりが繰り広げられている。
たわいない天候の話、色づき始めた薔薇の実の話、体調に関する相談。すでに彼らは穏やかな日常に戻りつつある。
(今、何が起こっているのか正確に知っているのはほんの一握りだけなんだ)
何も知らないふりをして口を噤んでいればこの穏やかな時間はそのままだったはずだ。
そしてこの平穏を揺り動かすものは真実でない。
(だけど、この嘘の先にフィグがやりたことがあるんだよな)
クロードはリルエーカ像を見上げて思わずため息をついてしまう。フィグネリアがそれに気づいて気遣わしげな顔になる。
大丈夫と、苦笑すると彼女もリルエーカ像へと向き直った。
やがて神官がひとり来て、神官長が呼んでいるとやってくる。
彼からの返答はフィグネリアの望むものだった。
***
クロードは神官に案内された部屋の前に、ニカと共に立っていた。
神官長は改めてフィグネリアとザハールと共に今後について、話し合いをしている。
「こちらです。安定しているとはいえ、重傷を負っていたのであまり無理はさせないようにお願いします」
神官はひどく心配そうにしていて、クロードはもちろんとうなずく。
そうして扉を開いて小さな部屋に入る。暖炉の側に置かれたベッドの上にひとりの青年が上体を起こしているのが見える。
「あの、初めまして。少しだけお話しをさせてもらいます。体が辛いならすぐに言って下さい。そこですぐにやめますから」
クロードはニカを扉の側に控えさせ、密偵の側に置かれている椅子に腰を下ろす。
「……大変、ご迷惑をおかけしました」
そう言う神官の青年は透明で儚げな印象だった。
元からそんな雰囲気だったのだろうが、まだ全快とはいえない彼の肌は抜けるように白く、窶れて細った体がなおさら痛々しく見える。
これといって特徴のない面立ちだが、意識してみればどことなく神官長と似ている
「いいえ。もう訊いていると思うんですけど、俺はあなたをここから出して、悪い人になってもらわないといけないんです」
クロードはそう前置きして、ここまでの状況を説明する。神官は黙々とうなずいて全てを受け入れている様子だった。
「アラン・マーレイ、というのが私の俗世での名です。この神殿へは別の偽名で入りましたが、そちらはもう忘れてしまいました。名を預けなかった私は、元より俗世とは切れていなかったのです」
アラン、と名乗った青年は淡く自嘲する。
「でもアランさんは立派な神官さんだと思います。あの、どうして名を預けなかったんですか?」
「神官長様がそれでいいと。……ここへ来た時は復讐心がありました。父を奪った邪教徒に一矢報いると。そんな決意がなければ、異国へ追いやられることに耐えられなかったからかも知れません」
ですが、とアランは続ける。
「役目をもらい、それを黙々とこなす日々はとても穏やかなものでした。真実の清貧と慈悲に邪教と呼ばれるのはナルフィス教の方ではないかと、考えが揺れていました。その時に神官長様に密偵としての役目が見つかりました」
「その時はまだ、父親だって気づいてなかったんですか?」
「はい。その後にはまだ。ただ長く話す内に司祭様と話している気になって、それで少しだけ神官長様が父が派遣された神殿にいたと聞いて、もしやと思いました。それで私の生家の話をしたとき、ひどく動揺されたのを見て確信しました」
そこまで話しきって、アランが深呼吸をひとつして胸に手を当てる。傷口は心臓近くと聞いていたので痛むのかもしれない。
「無理はしなくていいですよ。誰か、呼びましょうか?」
クロードがニカに人を呼ぶようにしてもらおうかと考えていると、アランはゆっくりと首を横に振った。
「ご心配なく。こんなに長く話すのは久しぶりで、少し息が切れただけです。……父がこの国に派遣されたとき、母が懐妊していることは知らなかったんです。だから、とても驚いたでしょうね。私は、問い詰めることもしませんでした。司祭だった父が信仰を変えて家を捨てた気持ちが分かりましたから。気づかないふりをして、このまま自分も国を捨てここで父と神に仕え生涯をまっとうすると決めました」
思い出に幸せそうに微笑むアランに、クロードは表情を取り繕えず動揺する。
望んでいた幸福をようやくここで見つけことを、本人の口から聞くと想像以上に同調してしまう。
「ですがそれからすぐにロートムより密偵がまた送り込まれて来ました。私は俗世との繋がりが絶てなくなってしまったのです。私はこの平穏を保つためには、いつか彼を殺さねばならないと無意識の内に考えたのでしょう。旧式銃の回収命令が来た時、とっさに破棄したと返答しました」
淡々とした口調ながらも、アランの手は膝にかけられた上掛けをきつく握りしめていた。
「それから半年前の騒動です。すでに国との連絡を切っていた私は、計画を全く知らされておらずに驚きました。薬品庫二十六番……密偵も私が裏切っていることは気づいていたので、何も言いませんでした。大神殿から密偵についての伝達があったとき、神官長様をはじめ他の神官方は私を匿ってくれると言って下さいました」
そしてアランは迷いつつも、神官長の決定に従うことにしたらしい。そしてもうひとりの密偵は薬を盛って眠らせ、その間に地下牢へと移したということだ。
「……その密偵は、神官長様がロートムの人間だっていつから気づいていたんですか?」
「一年ほど前です。やはり私と同じく、神官長様の講説が司祭様の教義に似ていると気づいて調べていたそうです。牢に入れたとき、神官長様も密偵だと彼は言いましたが、誰も信じませんでした。大神殿の通達ではここ五年の内に神官になった者、というものでしたから。二十年以上前の密偵については、ロートムでも当時突発的な計画で記録がまともに残っていない状態で、幸い親子であることまでは知られませんでした」
それでも恐怖だっただろうとクロードは思う。
調べが進めばいずれ明るみに出るかも知れないのだ。そして殺害の計画を練るまでに追い詰められていったのは想像できた。
「それで奉納の記録の提出と、薔薇が散らないことがきっかけで実行してしまったんですね」
問うと、アランはええ、とうなずく。
彼は牢からもうひとりの密偵を助けてやると中庭まで誘い出し、中庭に隠してあった銃を持って彼に向け、わざと隙をみせて銃を奪い取らせて考える暇なく引き金を引かせたということだった。
「このままでは父の身が危ういと思いました。そして薔薇が散らなくなったんです。神の怒りを目の当たりにして、私はやらねばならないと決心しました。なのに、生き延びてしまったのです」
後悔と自責の声が苦しい。
この国の人間と同じように神霊や妖精の存在を信じていることが分かるだけに、なおさらやりきれない。
「正直なところ、俺、まだ迷ってるんです。あなたが、神官長様を護ろうとした方法はいけないことだと思います。だけどその気持ちまで、なかったことにしてしまうのはなんだかすごく嫌で……」
胸にわだかまっているものを吐き出すと、アランが顔を上げて目を瞬かせる。
「あなたは私を見逃したいのですか?」
問われてクロードは答えに詰まる。
「……できるならしたいかって聞かれたら、そうしたいって我が儘言っちゃうと思います。というかもう言って、フィグ……奥さん困らせました」
昨日のことを思い出して、クロードはうなだれる。
「奥方は、皇女殿下ですね」
「はい。だから大変なんです。俺じゃなくて奥さんの方がです。今、起こってることも、これから先のこともいろんなこと考えなくちゃならなくて。俺はちょっとでも助けにならなくちゃいけないはず、なんですけど…………すいません」
話を聞くつもりがなぜ当の本人に相談しているのだろうと気づいて、クロードはしょぼくれる。
「私は父が護られるだけで十分です。それ以上は望みません。あなたが、この思いを大事にしてくださるというのなら、とても嬉しく思います」
柔らかく微笑むアランに、クロードは情けない表情のまま顔を上げる。
「それでいいんですか?」
「私は罪を犯し、罰せられる。それは当然のことなのです。あなたが悩むことも迷うこともないのです」
そうは言われても、ますます考え込んでしまう。
実際に話してみれば手紙の印象よりずっと穏やかで優しい人で、罪悪感ばかりが増してくる。
「……死んだ彼には私と違って、帰りたい故郷がありました。待つ人もいました。私は彼の望みも、故郷で彼の帰りを待つ人の希望も全て奪ったのです。残忍ともいえるやり方で。彼の遺体は確認しましたか?」
静かにアランが告げることに、クロードは息を呑む。
密偵の遺体はまともに直視できなかった。それでも血と焼け焦げた匂いと共にまざまざと思い出せる。吐き気を覚える程に。
青ざめたクロードに、アランが目を伏せる。
「あなたは他国からいらしたのでしたね。奥方を大事にされて、とても幸福そうに見えます」
「……はい。とても。だから、アランさんの気持ちは」
よく分かると言いかけて言葉を止める。
共感しやすい方がたまたま彼だった。そちらにばかり意識が向いて、殺された密偵のことについてはほとんど何も考えなかった。
「罪は罪なのです。どんな理由があろうと、生き残った私は罰せられなければならない。罪が罪たる理由をお考えになれば、あなたの苦痛は和らぐのでは?」
アランに諭されて、クロードはどうだろうと考える。
「痛いのも苦しいのもあんまり変わらないと思います。それでもアランさんのこと、どうにかならないかって気持ちはあるし」
自分の胸に手を当ててその中の靄を手探りしてみても、相変わらずいろいろなものがはっきりしない。
クロードは扉の側で心許なさそうな顔で見守ってくれているニカに目を向ける。救いたいと思って、なんとか彼の道を開くことはできた。
少しは誰かのために自分にできることがあるのを知った以上、何かしたいと考えるのは思い上がりだろうか。
「あなたは神官に向いていそうですね。最も俗世の汚濁が凝る場所にいるのは辛いでしょう」
アランが苦笑する。暗に皇族として生きるには向いていないと言われた気がした。
「でも、そこが俺がいたい場所なんです。何があってもフィグの側にいたいんです」
どんなに苦しくて辛くてもフィグネリアが隣にいて、穏やかに微笑んでくれれば耐えられる。
そしてどんなことからも逃げないで、目を逸らさないで、彼女が笑顔でいられる時間をたくさん作れるようにならないといけない。なのに目に前の現実に迷うばかりで、フィグネリアを困らせている。
「ならば私のことは気にかけないで下さい。私はあなたの護るべきものを壊しかねないのです」
アランの声は相変わらず優しく穏やかだった。
「少し、疲れました。休ませていただいていいでしょうか」
そして退出を促されクロードは部屋を後にする。
「殿下……」
ニカに声をかけられて、クロードはうんと声を返す。
「見えてなかったものが、ちょっと見えたと思う。答は簡単に出ないけど、俺は平気だから心配しなくていい」
また気分は沈んでしまったけれど、自分の気持ちを整理する手がかりは得られた気がする。
クロードはうつむかずに前を向いて緩やかに礼拝堂への道を進んでいった。
***
礼拝堂にクロードが入ってきたのを見つけたフィグネリアは、隣にいるザハールを置いてひとり席をたつ。
自分の元まで戻ってくるまで待っていられなかった。
「話はできたか?」
ニカが一礼してザハールの所へ行って、フィグネリアはクロードへと声をかける。
「はい。神官長様が護られるのならそれでいいって言ってました。……話できてよかったです」
夫はまだ考え込んでいる様子だったが、あまり暗いものを感じずにフィグネリアはほっとする
「クロード、アドロフ家に一時身柄を預けることになったが、明日にでも移送できそうな状態だったか?」
神官長との話し合いの中で帝都まで行けるほど怪我が癒えるまでは、アドロフ家で拘束することに決定した。傷を理由にいつまでも引き渡されなくなると困るので、ある程度回復しているなら後の治療はアドロフ家の薬師が診ることになった。
「まだ顔色は悪かったですけど、長く話せるぐらいには回復してるみたいです。神官長様との話し合いも上手く行きました?」
「ああ。他の神官方の説得もして下さるそうだ。後は、薔薇か」
フィグネリアはリルエーカ像を見上げてため息をつく。
「神殿の中庭の薔薇は、アランさんに最後のお別れをさせてあげたらすぐに散ると思います。他も、明日にはたぶん……」
クロードが声をすぼませて、明日、とフィグネリアは唇だけを動かす。
薔薇が散ってしまうのはもう問題ない。
(だが、母上の祈りはまだ見つけられていない)
見つけられる気もしなくて、フィグネリアは表情を曇らせる。
いつもふわふわとした雰囲気で微笑んでいた母の姿ばかりが脳裏に蘇って、それ以上は何も見えてこなかった。
「フィグ、今日だけは皇太后様のこと考えませんか? 一段落ついたし、俺が……」
クロードが何か言いかけて、ザハールの方をちらりと見る。
「いや、俺は大して事件の後始末は手伝えないけど、ザハール居るし」
自分で言いながら落ち込んでいるクロードに、フィグネリアは苦笑してああとうなずく。
「後で、少し考えてみる。あれは……?」
ふとフィグネリアはリルエーカ像の前に立っている人物に目を止める。降ろした黒髪と平服にすぐに気づかなかったが、リルエーカの器となっている侍女ではないだろうか。
「今、どっちでしょう」
クロードが話しかけてみるかどうか目で問うてくる。行くだけ行ってみるとか、フィグネリアは彼と共に侍女へと歩み寄る。
「私はこんな顔でしょうか?」
神妙な雰囲気でいた侍女は像を見上げて小首を傾げた。
「…………あくまで想像上のものですから」
何かとても深いことを考えているように見えたのに、肩すかしを食らったフィグネリアはしばし絶句しつつなんとかそう返す。
「えっと、初めまして。リルエーカ様? どうしてここに?」
クロードがおずおずと挨拶すると、リルエーカはにこりと微笑んだ。
「ここへ来たのはこの器の意思ですが、私が降りてきたのはあなた方が近くにいたので。もう薔薇達も耐えきれない」
「それは、クロードも気づいています。母の祈りとはなんなのですか? なぜ今頃になって……」
リルエーカが透明な瞳でじっと見つめ返してくる。
「最後だから。薔薇が花を咲かせて彼と過ごせるのはこれが最後」
告げられた言葉に一瞬、頭の中が真っ白になる。意味をきちんと自分の中で咀嚼するのにいくらか時間がかった。
「それはアドロフ公がもう、一年と保たないということですか」
ディシベリアの柱がまたひとつ折れてしまう。
国政を建て直した父が死に、九公家の安定を司るパーヴェルが倒れたならもはや確固たるディシベリアの支柱はなくなる。
そう遠くないうちにその時来るとは分かっていてある程度は考えていたが、あまりにも早過ぎる。
「ええ。明確な時は分かりかねますが、彼の命は尽きかけています」
リルエーカの口からはっきりと宣告されて、いずれが目の前に迫ってきていると重くのしかかってくる。
現状はやっと九公家派と反九公家派の対立に落ち着きが見え始めたところだ。表面上はまとまっているが、少しのことですぐに大波が立つ。
パーヴェル亡きの後の九公家の制御に着手できる余裕まではない。
「神霊様や妖精達は、人の生死が見えるんですか?」
クロードがフィグネリアの手を握り問うのに、リルエーカは曖昧に視線を動かす。
「……人も花が枯れかけていれば分かるでしょう。それと同じことです。そろそろ私も戻ります。あまりいるとこの人間の命を削ってしまう」
そう言って、リルエーカが瞳を一度閉ざす。
その後にはきょとんとした少女の表情が現れた。
「こ、皇女殿下!? え、あれ、あたしいつの間にさっきまで座ってお祈りしてたのに……」
混乱した侍女の肩を叩いて、フィグネリアは疲れているのだろうと適当なことを言って、その場を誤魔化す。
侍女はまだ困惑したまま丁寧にお辞儀をして近くの席に着く。
「フィグ……」
クロードが強く手を握りしめてきて、フィグネリアは縋るように握り返しそうになったが、そのまま大丈夫だと小さくつぶやいて、指を解いてしまった。
.4
密偵については滞りなく進んでいるとマラットに報告の後、完全に人払いして四人は離れの広間に籠もっていた。
「一年足らず……」
クロードは隣にいるフィグネリアの焦りを含んだつぶやきを聞く。
神殿で彼女にしては珍しく感情が露わだった。ただし悲しみなどではなく、感じたのはもっと緊迫した棘のあるものだった。
(もう、フィグは次に移ってるのに俺はまだ考えている。……だから、かな)
クロードは神殿で解かれた手を握りしめる。
密偵の件を淡々と進めているフィグネリアと違い、自分はまだずるずると引きずっている。
「神霊様や妖精に人の死期が分かるというのは、また厄介ですね。まさかアドロフ公の死期を知らされたのが、自分達だけでよかった」
部屋に入ってからずっと険しい顔でいるザハールが言う。
「そうだな。しかしまずいな。九公家への対抗策を固めるにしても時間がない。ガルシン公はマラット殿と懇意にしていたな」
「ええ。伯父上はアドロフ家の威光をそのまま利用する気ですね。ラピナ家は皇女殿下に肩入れして内乱騒動を起こした嫡男の処分を未だしないままで、九公家内でも爪弾きにされかけているので問題ないでしょう。後はどこが優位に立つか。まだどこも息を潜めていますから、アドロフ公が倒れるまでは尻尾を出さないでしょう」
「徹底的に対抗して団結させておくか、それとも崩せそうな所から取り込むか。何をやるにしても時間が足りない。せめて、あと二年はいる」
フィグネリアとザハールが会話を進めていくのに、気持ちがついていけずクロードはニカと顔を見合わせる。
ふたりの会話の重点はアドロフ公亡き後の国のことで、アドロフ公の死に対する感傷は欠片も見当たらない。
「まだ皇家は九公家に対抗できないんですよね……」
どうにかふたりと同じ先のことへと考えを移して、クロードはそう口にする。
「そういうことだな。先帝陛下が崩御されてからの皇家は知っての通り、後ろ盾を持たない皇女殿下に、政の駆け引きがまったくできない皇帝陛下と不安定だ。そこで九公家の結束が崩れれば、今より政争は酷くなって改革が進まない」
「ですが皇女殿下に命を捨てる覚悟まで持つ者は多くいます。内政の潤滑化も進み、中立派も皇女殿下に傾き始めています。これは後ろ盾とはならないのですか?」
ニカが言うのに、ザハールがため息を吐く。
「九公家派を取り込めるぐらいにならなければ足りない。九公家の地盤は君が思っているよりずっと硬い。ちょっとやそっとついたぐらいじゃどうにもならないよ。先帝陛下でさえ、二十年以上かけても抑えきれなかったんだ」
クロードはザハールの言葉に、フィグネリアの瞳が一瞬揺れるのを見つける。
「……だが父上は下地は築いている。それを私が生かさねばならない。とはいえまだ維持するだけで精一杯だな」
「とはいえ、維持できるのは皇女殿下しかいない。私も改革のために出来る限りのことはしますが、迂闊に伯父上を敵に回すと厄介ですからそう大きくは動けない。ラピナ公家の嫡男という最大の手駒を使い切れなかったのが大きな痛手でしたね……君に睨まれても恐くはないぞ」
フィグネリアの過去の過ちを責めるザハールに批難の目を向けるものの、すげなくあしらわれてしまう。
「過ぎたことは仕方ないじゃないですか。それにタラス殿は手駒とかじゃありません」
それでもクロードは食い下がる。
フィグネリアの幼馴染みでもあったタラスは、彼女にとっては大事な理解者のひとりだった。彼に道を誤らせたことを、フィグネリアが悔やんでいることはよく知っている。
けして手駒と呼ぶ都合のいい存在ではなかった。
「クロード、いい。私がなすべきことをなせなかったのは事実だ」
フィグネリアに窘められて仕方なくクロードは引き下がる。
「……俺がもっと役に立てたらいいんですけどね」
そして結局結論はそこに至る。
フィグネリアの背負うものはあまりにも重たすぎるのに、まだろくに支えることもできていない。
「君は確かにまったくの役立たずだが、仮に君が使えたとしてもひとり分では足らないな」
「役には立っている。クロードは密偵の調査を進展させた」
「……そういえば、神官長様が司祭だと気づいたのは彼でしたね。まったくというのは撤回しましょう」
ザハールは役立たず、というのはそのままにしておく気らしかった。クロードもそこは認めるので、反論はでなかった。
「あの、薔薇達のことはどうするんですか? フィグだって、このまま散っちゃったら嫌ですよね」
そしてクロードはそれを訊ねる。
自分もこれだけ頑張って咲いている薔薇達が、このまま望みが叶わず散ってしまうのは嫌だ。
それにフィグネリアもきっとこのままだと後悔する。
オリガのことを気にかけている様子があったのに、ずっと密偵のことを優先して彼女は動いていた。
それが次期皇帝であるフィグネリアとしては当然のことだろうが、彼女自身のオリガへの思いが犠牲になることにだけはさせたくない。
「ああ、そうだな」
ふとフィグネリアは泣き出しそうな顔で笑みを作る。
「今日の所は他にやることもないですし、今後のことも王宮に戻ってからがよいでしょうね。エリシン君、僕らは休ませてもらおうか」
ザハールが返答も訊かずにニカを連れて退出する。
「……フィグ、ここで座って考えるより外にでませんか?」
「今日は寒いが大丈夫か?」
「フィグが一緒なら平気です。行きましょう」
クロードは立ち上がって笑顔でフィグネリアに手を差し伸べる。彼女も戸惑い気味だったが、手を取ってくれた。
***
陽射しが傾いて薄い灰色の雲に空が覆われて、外は思った以上に冷たかった。
「雪、降りそうですね。もう暗くなるし、皇太后様のお気に入りの場所から周りましょうか」
クロードは真っ白な息をひとつ吐いて、傍らのフィグネリアの手を握る。手袋越しでも少しは暖かさが違う。
「……すまないな。お前も考えたいことがあるだろうに」
フィグネリアがぽつりと零すのに、クロードはむっとする。彼女自身というよりも、そう言わせてしまっている自分の方に苛立った。
「駄目です。フィグのそういう変な所で謝るの、俺、嫌です」
「すま……」
また謝りかけたフィグネリアが口ごもる。
「本当は俺がフィグが自分のこと考えられるだけの余裕を、持たせられるようにならないといけないんです。なのに、まだ俺自身のことでいっぱいっぱいだし」
「お前は十分に助けになっている。ザハールの言うこと気にするな。焦ることはなにもない」
クロードは歩みを緩めて、フィグネリアを見つめる。
「誰かに言われるからじゃなくて俺が嫌なんです! 焦って仕方ないのも分かってるけど……ごめんさい。また困らせてる」
フィグネリアが戸惑いを見せるのに、クロードは顔を逸らして口を引き結ぶ。
こんなこと、彼女に言ったって余計な心配させるだけだ。これぐらいの気持ちすら自制がきかない。
だけれど今まで知らなかった、自分自身への苛立ちやもどかしさをどうしていいか分からない。
「……フィグ、皇太后様のお気に入りの場所、どっちですか?」
無理矢理話題を変えて、クロードは広すぎる庭の方向を訊ねる。
「……あちらだと思う。よくおひとりで向こうへ行っていた。他の場所へはリリアや私を連れて行って下さったが、必ずひとりになる時があった」
薔薇に彩られた雪道を歩き、四阿をいくつか横目にしながらふたりは奥へ奥へと進んでいく。
アドロフ家の荘厳な岩城の背面がどんどん押し迫ってきて、妙な圧迫感がある。あいにくの空模様でただでさえ薄暗いのに、城とそれを囲う高い壁によってあたりはいっそう暗く寒々しい。
日当たりが悪いせいかこの辺りは薔薇が見当たらず、ひょろりとした木々が所々に見えるぐらいだ。
「なんか、寂しいところですね」
「ああ。母上はこういう所は苦手なのだがな」
不思議そうなフィグネリアの疑問の答はそれからすぐに出た。
城の高さが変わって陽射しが入り込みやすくなった所に薔薇がまた咲いていた。他の場所より無造作な印象で、足を休める四阿もなく客人を迎える場所ではないだろう。
「こんな人気のない所で何をしてたんでしょうね。俺は庭の妖精と話すときは絶対に人が近づいて来ない場所でしてたけど、皇太后様はそういう必要がないから、内緒話?」
故国では半ば存在を忘れかけられていた自分の所に、常時人がついていることはなかったが、念には念を入れて巨木の影になる場所などを選んでいた。
ここは内緒話をするのにはちょうどいいかもしれない。
「長年の友人にしか話せないことか…………駄目だな。私にはやはり母上のお心は分からない。お前は妖精とどんなことを話していた?」
「うーん。その日にあった嫌なこととか、夕食は好物が出るといいなとか、くだらないことばかりですね。花とか木の妖精は風の妖精みたいにおちょくらずに話聞いてくれるから、とりあえず何か喋りたいこと喋るだけ喋るってかんじでって、参考にならないですね」
悩みひとつなかった頃の自分を思い出すと、どうにもいたたまれない気持ちになってくる。
だが聞いているフィグネリアは少し楽しそうに、口元を緩めていた。
「妖精に話せるというのも楽しそうだな。そうだな、母上が嫌なことを話しているのは聞いたことがなかったな。悲しいこともだ。そういうことを、この薔薇達は知っているんだろうか」
フィグネリアが薔薇に触れると、妖精達が揺れ動く。
なんとなしに呼ばれている気がして、クロードは背後の城を振り仰いだ。そうして三階の窓辺に人影を見つける。
「アドロフ公、じゃないですか?」
薄暗いので姿ははっきりと見えないがおそらくパーヴェルだ。
「アドロフ公の部屋のすぐ側だから、母上はここを選んだのだろうか」
「そうかもしれません。どうしましょう、あんまりここにいるのも……リルエーカ様?」
ふっと薔薇の妖精達の気配が濃密になる。風の妖精達が緩やかに舞い踊り、雪の妖精達も落ち着かない様子でいる。
そしてそんな彼らに寄り添う力の流れを感じる。
おそらくリルエーカだろう。
「クロード、これは何が起こっている?」
フィグネリアが目を見張って周囲を見渡す。
薔薇達がそっと花を閉じ、その色は紙縒がインクを吸い上げるように橙から緑へとゆっくり変化していく。
やがては硬い蕾になり瑞々しい緑一色へと薔薇は時を戻した。
クロードは妖精達の気配を注意深く手繰る。実際に薔薇が時間を遡ったのではなく、そういう風に見せかけているだけだ。
目をこらせば開花した薔薇の姿が重なって見える。
『妖精王、少し薔薇達にあなたの中の妖精の力を分けて下さい』
クロードはリルエーカの声が耳に直接届いて躊躇するが、悪意はなさそうで妖精達からも力を求めてくるのを感じて半眼を伏せる。
「クロード、何をする気だ?」
淡く黄金に輝くクロードの瞳に、フィグネリアが不安そうに首を傾げる。
「問題はないと思いますけど、念のために俺の手、離さないで下さい」
フィグネリアが言われるままに手を強く握り替えしてくる。
クロードは内側の妖精達を周囲の妖精と繋いでいく。
世界が塗り替えられる。
あぶり出しのようにじんわりと、だが確かに過去へと。
***
目の前の景色が初夏に変わり、フィグネリアは隣にいたはずのクロードの姿まで見えなくなってびくりとする。
だが、片手には確かに手を握っている感触があった。
体は覚醒しているのに、意識だけが夢の中にいる感覚によく似ている。なんとも奇妙で落ち着かない状況だが、クロードとまだ繋がっていると思うと気休めになった。
「母上か?」
フィグネリアはしゃがんでいる幼い少女の姿を見つける。
緩やかにうねる銀髪に檸檬色のドレスを纏った五歳ぐらいの少女の面立ちは、妹のリリアと似ている。
「あのね、お兄様達がひどいことを言うの。お母様は地母神様の所から帰ってこないって。そんなことないわ。お母様はいつも一緒にいてくれるもの。絶対に帰ってくるもの」
まだ蕾すらつけていない薔薇にオリガがそう話しかけていた。これは病で母を亡くした後らしい。
「だからこの場所なのか」
フィグネリアはしゃくり上げ始めたオリガに、つられて泣きそうになりながらつぶやく。
ここは母を亡くしたオリガが悲しみを癒やしにきた場所だったのだ。そして父親とも近い場所。
多忙な父親に甘えられず、その代わりを薔薇に求めたのかもしれない。
「私はオリガにかまう余裕がなかった。いや、どうしていいか分からなかったのかもしれん」
憶測を肯定するようにパーヴェルの声が聞こえる。気がつけばオリガを挟んだ真向かいに彼は杖もなく立っていた。
「アドロフ公……」
フィグネリアはパーヴェルと向き合い、クロードと繋がっているはずの手を硬く握る。
もうすぐこの人の天命は尽きる。
だのに、本人を目の前にしても感情は動かない。彼を祖父として慕う兄と妹が悲しむだろうこと考えてやっと辛く思う。
自分自身にとってパーヴェルは身内ではなく、敵対者であり政治的に生きていてもらわねばならない人物でしかなかった。
「神霊様はお前と私に何をさせたいのだろうな」
パーヴェルはこの状況の全てを悟っているらしかった。
「分かりません。私には神霊様のことも、皇太后様のことも何も分かりません」
目の前のオリガが少し成長するのを見ながら、フィグネリアは首を横に振る。
十になるかならないかのオリガはもう泣いてはいなかった。いつの間にか薔薇達は蕾をつけ始めている。
「もうすぐ綺麗な花が咲くわね。真っ白いお庭であなたたちが宝石みたいにきらきら光るのが好きよ。お父様とあの窓から見るのが楽しみだわ」
オリガが指差す先はパーヴェルの姿が見えていた窓よりも、ひとつ隣の場所だった。
「……私の執務室がある。薔薇が咲くといつも真っ先に来て上から眺めたがった」
過去の娘の姿に目を細めてパーヴェルが言う。これまで見たことのない穏やかで優しい表情だった。
フィグネリアはパーヴェルの姿に、なぜか自分の父を重ねて見ていた。
隙ひとつなく対峙する者を圧倒する雰囲気を纏いながらも、我が子には穏やかな側面を見せる所が似ていたせいかもしれない。
薔薇の花が八分咲きになって、オリガも年頃の少女としての美しさを零し始める。
「今日、皇太子殿下にお目にかかったの。お父様が選んで下さった方だから素敵な方だと思っていたけど、想像していたよりもずっと、ずっと素敵な方だったのよ」
翡翠色の瞳を煌めかせたオリガが、思い出してほうと熱に浮かされたため息を吐く。
「立派な方って聞いていたから、お兄様方みたいにご容姿もお声もとっても大きい方なのかしらと思っていたけど、違ったの。お兄様方みたいに大きくはないけれど、立ち姿がとても綺麗で立派に見えるの。お声も目も優しいのに力強くて、まだ胸がどきどきしているの」
無邪気に恋するオリガはまだ何も知らない。皇太子、エドゥアルトに望まれていないことも、自分が政略の手駒であることも。
「何も分からないなら、それはそれでもかまわんと思った。むしろその方が使いよいとも考えた」
苦々しくパーヴェルが言って、フィグネリアは屈託ないオリガの笑顔に痛みを覚える。
花が綻んで満開になると、オリガの姿は自分の記憶にあるものにずいぶん近くなっていく。
しかしその顔は見たこともないぐらいに沈鬱で、翡翠の瞳は曇っていた。
「少しだけ、恐いの。エドゥアルト様がわたくしの所にもう帰って来こない気がして……。でも、いいえきっと大丈夫。大丈夫よね」
必死に薔薇に語りかけて、自分に言い聞かせるオリガの年は二十半ばほど。
父が側妃を迎えた頃だと気づいてフィグネリアは彼女を直視していられなくなる。片手にかかる力が強くなって、側にクロードがいることを思い出した。
彼にも同じものが見えているらしく、ひとりではないことに安堵する。
だけれどオリガを見続けることはできず目を逸らした先でパーヴェルと視線が合う。
「私はよく分かっているつもりです。あの方がどれほどの思いで、私を受け入れたか。だけれどあの方の望みを叶えるどころか、その望みがなんであるかさえ分かりません」
自分にできることなら、なんでもしたいのに何をすればいいのかが見えない。
母が幸せだと勝手に信じていた自分の愚かさに嫌気がさす。
「母上……」
そして七年前の母の姿が見えて、フィグネリアはオリガを呼ぶ。
自分が知っている母がそこに居た。オリガがふわりと微笑んで薔薇達に優しい眼差しを向ける。
これが薔薇達と彼女の最後の思い出。
「お父様、足が悪いって仰ってたけど、思ったよりお元気そうでよかったわ。お顔にはあまり出さないけれど、リリアとイーゴルに会えて嬉しそうだったのよ」
でも、とオリガがうつむく。
「今日もお父様とフィグはお話ししなかったわ。マラットお兄様も邪魔をするし……あの子もわたくしの娘で、お父様の孫なのに。駄目ね。フィグのお母様ともね、子供達が幸せでいられるようにって一緒に大事にふたりで育てましょうって約束したのよ。……わたくしひとりじゃ無理なのかしら。あの人みたいに賢くもないし、強くもないもの」
寂しそうにつぶやくオリガに、視界が滲んだ。
硬く目を閉じて次に瞼を持ち上げたとき、オリガの姿はどこにも見えなかった。パーヴェルとふたりだけで、彼女がいなくなったからっぽの場所を見つめる。
「まさか、あれは私にお前をイーゴルやリリアと同列に扱うことを望んでいたのか? 馬鹿なことを」
パーヴェルが眉をひそめて悲しげに言う。
それが答だというのならあまりにも単純だが、とても難しいことだ。
フィグネリアは無言でパーヴェルと目を合わせる。けして相容れないとお互い思っていることは明白だった。
頬に冷たいものが触れてフィグネリアは空を仰ぐ。はらはらと雪が降っていた。
「フィグ」
クロードが隣にいて現実に戻って来たのだとフィグネリアは気づく。パーヴェルの姿は近くにはなく、見上げた城の窓辺に翻された背だけがみえた。
***
日が落ちる頃になると雪は勢いを増して降っていた。
「朝になると積もっていそうですね。明日、神殿にいけるでしょうか」
窓辺で外の妖精の気配を探っていたクロードは、ぼんやりと暖炉の火を見つめているフィグネリアに声をかける。彼女はああ、と心ここにあらずといった返答を返してきた。
「……この分だと薔薇は散ってしまうだろうな。どちらにしろ、もう無理だ」
「でも、アドロフ公にフィグのこと認めて欲しいってだけなら、リルエーカ様、わざわざフィグに接触してこないんじゃないんですか?」
クロードはフィグネリアの隣に腰を下ろして問いかける。
パーヴェルがただ単にフィグネリアを孫として扱うだけなら、フィグネリアに祈りを探せという必要性はそれほどない気がする。
「私からも歩み寄らねばならないからかもしれない。それこそ無理だ。私の中でもあの方は身内ではない」
フィグネリアはこれ以上なくきっぱりと言い切った。
「フィグにとってアドロフ公ってどんな人なんですか?」
「……政治的最重要人物。私は父上の近くにいたからな。いかにアドロフ公と力関係の均衡を取るべきかを考えさせられていた。父上自身も一番頭を悩ませていた所だ。アドロフ公と上手くやっていれば、残り八公の相手は必要最低限ですむ。とにかく内政の立て直しが軌道に乗るまでは、アドロフ公に九公家を抑えてもらわねばならなかった」
フィグネリアが悩ましげに眉根を絞る。何かとても不安そうで、揺らいでいるように見える。
パーヴェルとふたりだけで話して戻って来た時もこんな様子だった。
「アドロフ公との話って、結局なんだったんですか?」
訊ねるとフィグネリアが黙り込んでしまう。
困っていたり悩んでいたりしたらなんでもすぐに言って欲しいのに、そうしてもらえないのが寂しい。
クロードはフィグネリアの横顔に目をやって肩を寄せる。うつむき加減だった彼女が視線だけ上げる。
「……父上とアドロフ公には盟約があったんだ」
そして静かにフィグネリアは先帝が帝位を得るためにアドロフ公から出された条件を呑まざるを得なかったことを話し始める。
オリガとの婚姻と嫡子を後継にすること。そのふたつは先帝が取った策となっていることだった。
「逆、だったんですね」
それならばパーヴェルが優位になることはクロードにも分かった。
「父上は全て隠し賢帝として立ち続けた。誰ひとりにも敗北の上に成り立っている帝位だと言えずにいたんだ。……神殿でですら本心を打ち明けられていなかった」
先帝が大神殿に通って隠していた弱音を少し吐き出していたのはフィグネリアに訊いている。そして彼は最後の救いを求めた当時の大神官長であるロジオンに毒殺された。
「それだけ、隠しておかなきゃならないことだったんですね」
この国の人は神殿に絶対的な信用を寄せている。それにも関わらず全てを話せなかったのは、重大な秘匿事項だったのだろうとクロードは思ったのだが。
「いや。違うだろうな。聞かせたくなかったんだ。誰かではなく、自分自身に。負けを認めて受け入れるようで言えなかったのだと思う」
「……フィグは本当に先帝の陛下のことよく分かっているんですね」
感心を含めてそう返すと、フィグネリアが自嘲する。
「分かっているつもりだった。父上のお考えは全て理解しなければならないものだった。だが結局、本心までは気づけなかった。誰よりも一番近くにいたのにな」
フィグネリアが泣き出しそうに顔を歪めて、自分自身に怒りをぶつけるように吐き捨てる。
一番近い家族に置かれている苦境を言えない辛さは、彼女が何よりも知っている。
「フィグ……」
慰める言葉が見つからずクロードはフィグネリアを抱き寄せるために手を伸ばすが、彼女は少し体を離した。
そういえば視線がまだ一度も合っていない。
「お前とのことも少し、言われた」
フィグネリアが言いにくそうにして、クロードは口を引き結ぶ。
「……俺が未熟すぎるから、フィグに考えが足りないとか、そういうことを言われたんですか?」
以前ザハールにも、自分という政治的に有利となるものを持たない夫を側に置いていることで、フィグネリアの判断力の評価が下がると指摘された。
実際にパーヴェルに糾弾される要素になってしまったのかもしれないと思うと、ひどく情けない。
「それは違う。ただ私とお前の考え方違いすぎるのではないかと言われた。……何も言い返せなかった。私のとった選択で、お前が嫌な思いをすることがあるかもしれないと思った。今回の密偵のこともそうだろう」
フィグネリアの言葉に、クロードはうなだれる。
「それは俺の考えが甘かったから。ちょっと感情移入しやすい相手に自分勝手に共感して、無理を言っただけです」
アランと話してつくづくそれは痛感した。あまりにも直情的で冷静に物事を見ていられない。
「お前のそういう所は、悪いことではないと思う。私よりおそらくお前の方が感情的なことに敏感で、あれこれこれ考えず直感で人を見られる。それは助けになった」
フィグネリアがとつとつと言い、だがと重く言葉を落とす。
「お前が親子の情を感じて救いたいと思っても、私はその情がどれだけ枷になるか知っているからこそ、利用できると考える」
「フィグは、その時嫌だって思ったり悲しいと思ったりしましたか?」
訊ねるとフィグネリアは、視線を下に向ける。
「思わないな。物事を判断するときは感情的になるなと父上によく諭された。そして決断した後は後悔はするなと。……悔やむような選択をするなということだ。それだけの覚悟を持てといつも仰っていた」
それは側で見ていてもよく分かる。フィグネリアは命じるときは一切の迷いを見せず、不安と隙を与えることはしない。
そしてその裁量が成功を収めると、彼女への信頼と畏敬は増していく。
だが一度でも誤れば信頼は容易く崩れる。常に正しい決断を下していなければならないという重圧も並ならぬものだろう。
「だが私は大きな過ちも、小さな過ちもしてしまう。かといってそこでいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。決断の猶予を待ってくれない問題は次から次へと増える」
「それは、フィグにしかできないことですね……」
有能な官吏は多くいるがその全ての意見は一致するものでもなく、最後にひとつに取り纏める者が必要だ。
今、政務においてその役割を担っているのがフィグネリアで、こればかりは自分には肩代わりできない。
「自分の選択が正しいかどうかの答はすぐに出ないものもある。数ヶ月、数年、もしかしたら生きている内には出ないかも知れない。それでも国を預かる者として自分の選択が臣民のためになるものだと、信じて決断をしなければならない。その中で、お前が掴んだ情報を、お前が望まない形で利用することはこれからも多くあると思う」
フィグネリアの淡々としていながらも、どこか寂しげな声にクロードは胸が軋む。
「……アランさんにも、俺にとって今の立場は辛いだろうって言われました。でも、俺が一番嫌なのは、フィグの力になれないことなんです!」
必死の想いを伝えると、フィグネリアと視線がやっと合う。
「そのためにもっと俺は強くなるし、賢くもなります! だから、平気です。フィグは不安にならないで、俺のこと信じてくれませんか?」
薄青の瞳が切なげに細められて、じんわりと滲んでいく。こぼれそうな涙を拭おうと近づくと、フィグネリアは小さく首を横に振った。
「……お前のことは信じている。出会った頃に私が疑おうとしてもできなかったのは家族以外でお前だけだったんだ。そんな相手、これから先もいないと思う。だけれど、今の私は自分が信じられない」
フィグネリアの声が上擦る。彼女は一度大きく息を吸って唇を震えさせ、頬に滴を零れさせる。
抱きしめたいのに、彼女が静かに拒むのでできない。
ただ黙って見ているしかできないことに自分まで泣きたくなってくる。
「父上の本当のお心も気づかず、母上のことも勝手に幸せだったと思い込んで、兄上達のことだってそうだ。いつもいつも、私は誤ってばかりだ。この先、お前の気持ちも気づかない内に傷つけるのが恐いんだ」
フィグネリアが最後は嗚咽混じりになって声を詰まらす。
「……すまない。まだ密偵の件が終わってもいないのにこんな話をするべきではなかった」
そして嗚咽を呑み込んで、フィグネリアはソファーから離れてベッドへとひとりで向かう。
「俺だって、分かってない」
クロードは妻に何も声をかけられずに、ソファーの上でつぶやく。
彼女の背負っているものの重みも、これからさらにパーヴェル亡き後に課せられるさらなる重圧も、分かっているつもりになっているだけだ。
だから今、フィグネリアを安心させられることができない。
***
ベッドの端でじっと硬くなっていたフィグネリアは、クロードが上がってくる気配に眠ったふりを通す。
夫の動く気配がなくなったと思うと、またベッドが軋んで彼が近づいてくるのが分かる。触れ合わない距離だが、確かにいると背を向けいていても分かるほど近く。
たったこれだけのことに、どうしてこんなにも安らぎを感じるのだろうか。
まだ嗚咽がこみ上げかけてかけて唇を噛む。
傷つけるのが不安で恐いと言いながらも、それでも側にいて欲しいと思っている自分が身勝手で我が儘な気がしてならない。
(いけない。もっと優先して考えるべきことがまだある)
私事に心を乱している余裕はないのに、いつものようにうまく押さえ込めない。
サイドテーブルでかさりと何か音がしていて、フィグネリアはそっとそちらを見る。
暖炉の火の薄明かりの中で、飾られている薔薇がはらはらと花びらを落としていく。
そして、ついに薔薇は全ての花を落としたのだった。
.5
翌朝、雪は小降りになっていたが城の薔薇もついにほとんどが散ってしまっていた。
雪に埋もれて花びらはどこにも見当たらずに、もはやあの鮮やかな景色が夢幻であったかのようだった。
この雪と神殿内での最終的な調整のために密偵の移送は翌日へと見送りになった。
そしてクロードは報告書を作成するフィグネリアを部屋に残し、ニカと共にザハールの元に来ていた。
「そもそも、俺が無理言い出したのが悪いんですよね。フィグが大変なときに、もっと大変にしちゃって……」
クロードはソファーの上で膝を抱えてどんよりととへこたれていた。
今朝からフィグネリアとかつてないほどぎこちなくて、面目ないやら寂しいやらな上についに薔薇が散り始めて気分はどん底だった。
「エリシン君、主君のこの体たらくぶりは自分でなんとかしてくれないか? 僕の所に連れてこられても迷惑だ」
「……申し訳ありません。自分もお慰めするなり叱咤するなりしたいのですが、ここまで落ち込まれると何も言えず。事情も皇女殿下行き違いがあったとしか話してくれませんし、イサエフ二等官の所に来るのは殿下のご希望でしたので」
ニカが困り果てる横で、ザハールが腕を組んでため息をつく。
「適当にいつも通り罵ってくれていいですよ。むしろそうして下さい。自分で自分に何言ってもいまいちです」
自戒もこめて誰かに思いっきり詰られたくてここに来たのだ。
そういう場合は加減は一切なしのザハール以外に適任がいるはずがない。
「無能、役立たず、愚図、ごくつぶし、貧弱、意志薄弱、鬱陶しい、邪魔、さっさと出て行ってくれないか?」
適当は適当でも本気でどうでもよさげに言われてクロードはむっとする。
「なんでそんなに心に刺さらない罵倒なんですか。いつも通り、血も涙もなく人の心を抉るかんじでいいんですよ」
「…………罵倒しろと言われて罵倒して楽しいわけないだろう。まったく、君は僕をなんだと思ってるんだ。夫婦の問題はふたりで解決してくれ」
苛立たしげにザハールが正面の席に座る。
「今のフィグにはこんな俺が何言ったて、安心感もなんにも持ってもらえないんです」
もっといろいろな物事を手際よく片付けて、フィグネリアの行動を先読みして手を伸べることが出来ない限りは無理かもしれない。
つまるところ不可能、ということだ。
「今と言わずにいつ君に安心感なんてものがあったんだ。だいたい、これからが大変だというときに、皇女殿下に余計な手を煩わすな。君は本当に妻の立場を理解しているのか」
「イサエフ二等官! 本気で追い打ちかけにいかないでください……殿下」
さらに表情を沈鬱にして膝にクロードが顔を埋めると、ニカが心配そうにその肩に手を置く。
「いや、大丈夫。うん。フィグの立場……ザハールもやっぱりフィグに期待、してますよね」
クロードはのろのろと顔を上げてザハールを見る。
「期待していなければ協力などしない。皇女殿下の改革に対する考えも実行能力も評価している。しかし能力があるだけでは駄目だ。そこに付加価値がいる。先帝の思想、能力を引き継ぎ、そして生母は平民出自。それから唯一帝位継承権を持つこと。全て揃っているからこそ、改革への道筋は最短になる」
ザハールの言葉は理路整然としているが、彼が人を褒めるということは少ないので言葉以上にフィグネリアを評価しているのだろう。
そしてさらに多くの人間が彼女に夢を託し命をかける。
「俺にはニカひとり分だけでも、すっごく重いのにな。ごめん、こんな主君で」
いろいろ考えているとニカにまで申し訳なくなってきて、底なしに沈んでくる。
「あなたが未熟なことは承知の上です。それでも膝を折ったのは、自分にとって殿下に仕えることが必ず誇りになると確信したからです。最大の取り柄は無駄な前向きさなのですから、いつまでもそんなに落ちていないで下さい」
ニカの嘘偽りのない真っ直ぐで澄んだ瞳に、クロードは姿勢を正す。
改めて仕えられるという重みがのしかかってくるけれど、この瞳を前に背を曲げているのはいけないと思えた。
フィグネリアはそうやっていつも、真っ直ぐに背を伸ばし毅然と前を見据えている。
「ありがとう。うん、そうだよな。俺、前向きじゃないと本当に駄目だもんな」
前向きなのか後ろ向きなのかよく分からないことを言うクロードに、ニカが力強く首を縦に振る。
「それと鬱陶しいぐらいの皇女殿下への想いです。しかしながら惚気は半分ぐらいに控えていたければと」
「それは無理。だってフィグが可愛いのは言いたい」
いかにフィグネリアが可愛いかはどうしても喋りたいのだ。幸せな気分は時に人に話すとさらに幸福感が増すものだ。
「僕にとって皇女殿下に全幅の信頼を寄せられないのは君のその脳天気さなんだがな」
ザハールがふと雰囲気を変えて先ほどよりもさらに厳しい視線を向けてくる。
「そ、そこは大目に見て下さいよ。一応前向きになってるんですから」
クロードは弱々しく反論してみせる。
「前向きなのはいい。ただし気持ちの問題だけではどうにもならないこともある。確かに君は婿入りしたときには読み書きと簡単な計算しかできなかったと思えないぐらいには、知識の成長は著しい。だが、それで君の年齢でできて当たり前のことができるようになっただけだ。この先、他の人間を越えられる程の能力を得られる確証はない」
ざっくりと言い切られて、ぐうの音も出ない。
「君がやろうとしている官吏の登用制度の改革は、君が思っている以上に重要だ。血統主義の根本を覆し、やり方によっては今以上に派閥争いを乱発させることにもなり得る。皇女殿下はこの重要な改革を、先にそれをやり遂げられるだけの能力を得られるかどうかの確証のない君に一任してしまった。僕からすれば、君が適任だとは言えない」
ザハールがクロード反論する前に立て続けて口を開く。
「それに加えて今回の件だ。改革によって利を得る者がいれば、損をする者もいる。君がどちら側の言い分にも振り回されることも十分考えられる。客観的に見れば不安要素が多すぎる」
「でも、俺は成し遂げたいんです。成し遂げます!」
やっとクロードは声を返せた。
駄目だから、無理だからと言われても簡単に諦めはつかない。自分でも不安が大きいけれども、自分自身で初めてやり遂げたいと思ったことなのだ。
それに。
「フィグが、俺に任せてくれたことでもあるんです。ちゃんと、応えたい」
声に出して、クロードは目を瞬かせる。
「……フィグも、ニカみたいに俺のこと信じてくれてるんですね」
「そういうことになるな。僕にはまるで理解出来ないが。ここでうだうだとしている暇があるなら、身内だけでなくひとりでも多くの人間に認めさせられるようになることだな」
突き放した言い方だが、ザハールの言葉に突き動かされるものがあった。
「……今の俺にできること……したいこと。しなきゃならないこと」
クロードは考えて唸る。
やはりフィグネリアにオリガの祈りを叶えさせたい。それは一番大事に考えたい。薔薇の妖精達の願いもだ。
そうして神官長とアランの親子についても、ちゃんと答を出さないといけない。
「アドロフ公の部屋の側の薔薇がまだ咲いてるか、確認して神殿に行ってきます。アランさんを待ってる中庭の薔薇も気になるし。よし、ニカ行こう」
そうと決まったら善は急げだ。
クロードは立ち上がってまだ底近くにある気持ちを引っ張り上げる。
「御意」
ニカも安心した顔で微笑む。
「事態を引っかき回すことはしないようにしろ。僕はお目付役はしないからな」
主従を見るザハールがやれやれいった顔で息をひとつつく。
「俺とニカだけでも平気です。フィグには心配しないでって伝えておいてください」
そしてクロードは返答も訊かずにニカと共に外へと繰り出したのだった。
***
フィグネリアは報告書を書き終えて他にやるべきことはないだろうかと仕事を探す。
だがひとりでやることは終えてしまい、頭の隅に追いやってきた昨夜のことが首をもたげる。今朝もクロードとは重々しい空気になってしまって、彼の落ち込みきった琥珀の瞳を思い出すと気が塞いでくる。
「薔薇も散ってしまったな……」
ベッドの側のサイドテーブルにはすでに薔薇を生けた花瓶はなく、薔薇を模した硝子細工に変わっている。
フィグネリアは一度頭を振って、部屋を出ることにした。じっくりザハールと今後の九公家への対応を話し合っていれば気は紛れる。
ただクロードとは顔を合わしづらい。
ぐだぐだと悩みながら広間に行きそろりと扉を開き、中を覗き込むととザハールがひとりで資料や報告書の確認をしていた。
「クロードはどうした?」
「エリシン君と神殿に行きましたよ。余計なことはするなと釘は刺しています。本人も心配するなということです」
簡潔に返されたことにフィグネリアは眉根を寄せる。
「止めはしなかったのか」
「これといって理由もありませんでしたので。この後に及んで事態を悪化させるほど馬鹿ではないでしょう。あなたはそんな愚か者に改革の重要な案件を任せているのですか?」
「そんなつもりはない」
きっぱり言い返すと、ザハールが呆れたような顔をする。
「……なんだ」
「いいえ。明確な根拠を示すあなたが、そこまで言い切れのが不思議でならいのですが、賭け事は嫌いではないので乗ってみるのも悪くない気もします」
「意味がよく分からんぞ。まあ、そうだなクロードなら大丈夫だな」
フィグネリアは少々不安になりながらも、ひとまず信じて帰りを待つことにする。
「そういうことで今は彼のことは放っておきましょう。今、あなたが気にかけなければならないことは他にある」
「分かっている。そのことを話に来た。私はこのまま九公家と対立を維持するつもりだ。ばらけて九公同士での足の引っ張り合いまで始まるとやっていられん。ただでさえ王宮内の派閥争いは厄介だというのに」
九公は盤遊びのように王宮の官吏を裏から動かし水面下で静かに争っている。まだ九公家派対反九公家派ほどの目立った動きはそれほどないものの、政務に支障が生じることがままある。
「私もおかげで謹慎をくらいましたからね。また仕事の邪魔をされるのは困ります」
ガルシン公の甥という九公家側の重要人物となるザハールは、不正事件の際に対立す他家の派閥の嫌がらせで謹慎処分となった。
「全ての手綱を握る、というのはままならんな……」
「先々帝陛下が完全に手放してしまわれましたからね。先帝陛下は本当に二十年ばかりでよくもここまで抑え込んだものだと感心しますよ」
心からの賛辞を述べたザハールが、フィグネリアを真摯な瞳で見据える。
「皇女殿下、以前から申し上げていますがあなたはいずれ、ではなく、明確に時期を見据えて即位するべきでは。皇帝陛下に譲位していただくのは簡単でしょう。そうですね、今から十年。その間に下地を整え、帝位につくのが最もいいと私は考えますが」
譲位計画はザハールが以前から進言してきている。政務統括官より皇帝という肩書きの方が改革の旗頭としてはよいだろうと。
「……だがアドロフ公が後、数年はご健在という前提がなければ厳しい。一歩間違えれば本当に内乱になる。武力第一のマラット殿がアドロフ家を継ぐならなおさらだ」
すでに一度大騒動になって、マラットは挙兵も厭わないというほど怒り心頭だった。これで後ろで監督しているパーヴェルがいなくなれば、時代を逆行するはめになる。
「そこは慎重にならねばなりませんね。伯父上の動きは自分がなんとか尽力しますから、それば上手くいけばマラット殿の動きもある程度は抑えられると思います。後はラピナ公の動向ですね。このまま嫡男を廃嫡せず後継に据えるなら、ラピナ家はこちら側に持って行ける」
「あの方が継いでくれればよいのだがな。ご本人は弟君に委ねる気でいるが……私からは口出しできない」
帝位簒奪計画の首謀者を、唯一帝位継承権を持つ自分が安易に便宜を図るわけにもいかない。
「彼もうかつに神に縋るべきではなかったでしょう。技術革新に注力しておきながら、そのもっともたる障害になる神霊方と繋がる大神官長に唆されたのは浅はかだった」
「そこまで追い込んだのは私に責任がある。…………私達はどうしても神霊方に縋らずにいられないな」
ザハールが腕を組んで眉根を引き絞る。彼の生家の持つ財とて、神霊によって得られたものだ。
神霊達は最後には自分達を救ってくれると、誰しもが心のどこかで思っている。
凍てつく実りの少ない中で神霊達より与えられたもので繁栄をなし、今なお神々と近しいこのディシベリアで神々から心を切り離すのは難しい。
「それでも変えるのでしょう。ならば帝位につくべきです。内政の変革準備は先帝陛下が整えている。そしてあなたは神霊方との在り方にも手を入れる気でいる。今が、紛れもなく時代の転換点です。道を先導するのは王でなくてはならない」
先々のことを考えれば、確かにザハールの言う通り即位する利点は大きい。
それに父がパーヴェルに喫した敗北を覆す切り札として命を削り自分に全てを注いだのだというなら、玉座を得るべきだ。
しかしそうなればますますパーヴェルと歩み寄る余地はなくなる。
「迷う必要はないでしょう」
いつまでも返答を渋るフィグネリアに、ザハールが決断を迫る。
「そうだな。迷うべきでもない。だが難所が多すぎる。始めに取りかかるべきは、アドロフ公御健在の間に九公にどう対抗すべきかだ」
フィグネリアは話を最初に戻して譲位に対する明言を避ける。
父の思いも、母の思いも叶えたい。しかし国の威信、臣民の将来が関わる以上は自分は父の望みを優先させる。
(母上、申し訳ありません)
謝罪を述べてフィグネリアは感情を押し殺し、ザハールと将来についての議論に没頭していった。
***
「薔薇、こっちはもう全部散っちゃったな」
神殿へ向かう馬車の中、クロードはすっかり花のなくなった薔薇を見る。
雪はほとんどやんでいるが、ここも夕べのうちに散ったらしく跡形もなく花は消え去っている。
「ですが城のあの一箇所だけは咲いていてよかったですね」
「うん。後少しは咲いていられそうだな」
クロードはニカの言うことにうなずいて口元を緩める。
オリガがお気に入りにしていた箇所の薔薇達はまだ半分ほどが満開だった。まだ希望は消えていない。
「……アドロフ公と和睦とか、協力体制って無理、だよなあ」
フィグネリアとアドロフ公の関係がどうにかなる望みは限りなく薄い。
「ええ。旧体制の維持と九公家の威信を護るアドロフ公と、それを壊そうとする皇女殿下ではけして相容れません」
「だよな……」
ニカが断言するのにクロードは諦めの滲む声を返す。
ふたりが仲良く実の祖父と孫のようになるというのも想像に難しい。それにオリガの願いが本当にそれであるかは引っかかっていた。
近いのだろうが、何かもう少し違うものである気がするのだ。
(そうだ、薔薇が見せた夢。あれがまだ繋がらない)
薔薇達が眠るフィグネリアの意識に介入して彼女の幼い頃の記憶を、夢として見せていた。
不器用でもどかしい義理の母娘の姿。
あれは一体何の意味があったのだろうか。
「神殿の中庭の薔薇も咲いているのでしょうか……」
窓の向こうには白い神殿が見え始めてきてニカが訊ねてくるのに、クロードは思考を一旦止める。
「一番綺麗なときにお別れさせてあげたいから、咲いてるといいけどな」
「殿下、ひとつ気になるのですが、直接話しかけられていない薔薇まで咲いていたのはなぜでしょうか?」
「ん、ああ。妖精達は全部、繋がってるから。感情は一緒って分からないか……」
ニカが不思議そうな顔のままでいるのに、クロードは苦笑する。妖精のことはほとんどが感覚的なものなので、いざ言葉にして説明するのは難しい。
そして馬車が止まりふたりは神殿へと入る。雪の影響もあって今日は礼拝堂に人はほとんどいない。毎日多くの人が詰めていたので、がんどうな堂内はとても寂しく感じる。
「あの、すいません。ちょっとお話、いいですか……?」
クロードは近くにいた神官に声をかける。彼はとても複雑そうな顔でこちらを見る。
「……引き渡しは明日、ということでは?」
「あ、いえ。今日はそのことじゃなくて、えっと……」
どう説明するか考えていなかったので返答にまごつく。
「薔薇が気になって。中庭の薔薇は?」
「まだ、です。もし、散っていなかったら引き渡しはなくなるということでは」
にわかに期待をみせる神官に、クロードははっとして表情を強張らせる。
彼らはアランを引き渡したくないのだ。それだけ彼はこの神殿に受け入れられ大事にされている。
「ごめんなさい。そういうことじゃないです。アランさんが薔薇によく話しかけていたって話を聞いたんで…………もう一度会わせてあげられたらと思って」
別れという言葉を使うのにクロードは迷って結局別の言葉に変える。
目の前の神官に対してとても酷い言葉に思えた。
「そうですか。ええ、よく話しかけていました。お気遣いありがとうございます」
「あ、あの、大丈夫なら俺も付き添っていいですか? アランさんとも少し話したくて。どうしてもっていうわけじゃないんです。体調が悪いなら諦めますけど」
クロードが一生懸命喋っていると神官が表情を和らげて薄く微笑む。
「神官長様にご相談してきますので、少しお待ち下さい」
そして静々と神官は礼拝堂から出て行き、クロードは緊張した体から力を抜く。
「……みんなやっぱりお別れはしたくないんだよな」
ぽつぽつと礼拝堂にいる神官達もどこか寂しげに見えてくる。
神官長との話し合いで親子関係や密偵殺害の本来の目的は伏せたまま、アランは数年俗世に戻され罪人という役を受け持つ罰を受け、その後もう一度神官としての修練を積むことだけが伝えられている。
神官長とアラン本人の説明により他の神官達も承諾したと聞いたのだが、心情的にはそう簡単に承諾できないだろう。
「殿下がそのようにお心を添えることができるから、神官方もアラン殿の先行きに安心できると思いますよ。さっきの神官様も取り次ぎをするのに嫌そうな素振りはありませんでしたし」
ニカが穏やかに言うのにクロードはそれならいいと思う。
やがて礼拝堂に神官長がやってきて真っ直ぐに向かってきた。その後ろに取り次ぎをしてくれた神官が見え、彼は会釈をして己の役目である領民の相手に移る。
「クロード殿下、彼もあなたにお目にかかりたいとのことです。……薔薇の話を覚えて下さったのですね」
一晩ですっかり老け込んだ神官長が目を細めて嬉しそうにするのに、胸が詰まる思いでクロードはうなずく。
「すごく優しい人だったんだろうって思いました。それに薔薇の話で、本当のこと気づいてしまったんで……」
ごめんなさいと言いかけてクロードはこらえる。
自分は自分の役目を果たして、確かにフィグネリアを助けた。それを悔やむ言葉は口にしては駄目だと思った。
「そうですか。そのことについてはどうかお気を病まずに。雪の中わざわざいらしてくださって、彼も喜んでいます」
しかしながら顔にはいろいろ出てしまっていたらしく、神官長に気づかわれてしまった。
「あの、アランさんとはその、ふたりで話したりは?」
そして人気のない廊下に出てクロードは神官長に訊ねる。
お互い親子だと気づいている事実を知ったなら、神官長と神官としてではなく親子としての会話ができたのか気になった。
「いえ。それはよいのです。私達はそれでよいのです」
自分に言い聞かせるように二度繰り返す神官長に、クロードはそのことについて触れるのをやめる。
そして中庭の扉近くにはちょうど杖をついて歩いてきたアランが見えた。
神官長は彼ととほんの少し目を合わせた後に、後はご自由どうぞと去って行った。
「こんにちは。昨日は余計な話にまで付き合わせてしまって、体調は大丈夫でしたか?」
「ええ。この通り歩けるほどには元気です。それに迷える人の話を聞くのは神官としては当然のことです。……とはいえ、もう神官ではないのですが」
冗談めかして笑むアランに、クロードはうつむく。側のニカもどういう顔をしていいか分からないといった様子だった。
「薔薇のことはありがとうございます。最後に彼らに別れを告げられることは嬉しいことです」
アランに促されてふたりは中庭に出る。
雪がちらつく中、薔薇は確かにまだ満開だった。アランがゆっくりと歩くのに妖精達が喜びに震えるのを感じる。
(妖精達からもこの人を引き離しちゃうんだよな……)
人間側の煩雑な事情は何も知らず、無邪気に喜ぶ薔薇の妖精達の気配にまた気が重くなる。
「騒がしい真似をしてしまってすまなかった。今日まで綺麗に咲いていてくれてありがとう」
アランが側の薔薇に話しかけるのをクロードはじっと見つめる。
声をかけられる度に薔薇の妖精は芳香を風に預けて、アランの周りに漂わせる。彼の優しい声は聞いている側も心穏やかになれるものだった。
「実が熟す頃は一緒にいられないが、きっと今年も花と同じで太陽のような美しい実をつけるのだろうな……」
花弁がふわりと一枚落ちる。
そしてまた一枚とゆっくりと薔薇達は花を散らしていく。これから恵みの果実をつけるために。あるいは熟した実も早く見てもらいたいと急いているのかもしれない。
だけれど実を結ぶ頃にはアランはここにはいない。
白い雪と橙の薔薇が混じり合いながら、地面へと落ちていく。
その場にいる三人は幻想的な景色に、感嘆の吐息を零すことすらできずに魅入る。
「私は神に許されたのでしょうか……」
そして花が降り積もる音をかき消さないほどの小さな声音でアランがつぶやく。
「あなたがリルエーカ様のご機嫌を損ねたってまだ決まってません。最初からリルエーカ様は怒ってなんかいなかったのかもしれません」
ニカの時のように力のことは言えないけれど、いずれ大神殿から伝えられるだろうことを先に告げる。
「ありがとうございます。あなたは神官となればよき人の拠り所となるでしょうね」
目を丸くした後に寂しげにうつむいたアランがそう言い、戸惑うクロードを見て苦笑する。
「だけれどあなたが望む場所は対極にあるのでしたね。そしてまだ苦悩の中にあるのですね」
「はい。あ、中、入りますか? 体、辛くなったりしてないですか? えっと、俺は寒いのは本当は凄く苦手で」
自分がこの寒さが少々辛いのは事実で、アランもあまり長くいるのは傷に響いてしまうかもしれない。
そして三人は屋内に戻ることにした。
扉の所でアランが立ち止まって振り返り中庭を一望する。
薔薇はすでに半分散って残るものもすぐに落ちるだろう。これが彼らの今生の別れとなるのかもしれない。
クロードはアランの表情に目を向ける。
彼の瞳は優しく穏やかで幸せそうだけれど、かすかに滲む寂しさがひどく切なかった。
***
中庭近くの暖炉のある暖かな部屋に案内されたクロードは、いざアランと向き合って何を話そうか迷ってしまう。ニカは相変わらず侍従らしく扉の前で控えていた。
自分自身の迷いに答を出すのには、もう一度彼と向き合う必要があると思ったものの言葉が上手く出ない。
「……アランさんは神殿の皆さんに好かれているんですね。俺、今日ここに来て神官様達を見てて思いました」
そしてクロードはようやく、今日また新たに増えた罪悪感に触れてみる。
「神官方には本当によくしていただきました。神官長様に正体が知られた後に、自ら他の神官方に密偵であったことを打ち明けました。彼らはこれより本当に俗世を捨てられるというなら、いてもいいと仰って下さいました」
そしてアランは四年かけてここまでの信頼を築き上げられるほどに、役目に従事してきたのだろう。
「アランさんが神官長様を護ろうとして、神官様達はアランさんを護ろうとしてたんですよね。やっぱり、そういうの全部壊してしまうのは嫌なかんじがします。でも、そうしなければならないっていうのも、分かってるんです」
フィグネリアが目指すもののために必要なことで、自分も彼女が進む道を護りたい。
昨夜の妻の泣き顔を思い出してきて、また気分がぐじぐじしてくる。
(あんな顔はさせたくないのに……)
笑顔でいて欲しいという自分の願いとは裏腹に、ついには泣いているのに何もできずじまいになってしまった。
「それぞれに護るべきもの、護りたいものがあるからこそ、時に人は衝突するものです。私自身も俗世を捨てきれず神官方のお心を裏切ったことには変わりません」
「同じ大事なものがあっても、他にもっといろんなことがあって上手くないこともあるんですよね」
昨日薔薇達がフィグネリアとパーヴェルに見せていた記憶を思い出して、クロードは肩を落とす。
ふたりともオリガを見て同じように心を揺らしているのに、決して相容れないものがある。
「私も神官方に申し訳ないと思いながらも父とこの神殿の立場を護れることに安堵しています。……あなたの大切な方の望みもこれで叶うのです」
間を置いて告げられたことにクロードは口を引き結ぶ。
アランの望みも、フィグネリアの望みも叶うと言われればそうなのだ。まるく収まったところだけを見れば手放しで喜べる。だが犠牲になったものがあると知ってしまっている。
「今のお立場にあるのなら、いずれはあなた自身が選択しなければならない時が来るでしょう。護り通すために、なにを犠牲にすべきか」
アランの言葉は思いの外、重くのしかかってくる。
フィグネリアひとりに重荷を背負わせたりはしない。しかしその時が来て彼女のように迷いを見せず整然と決断を下せるのだろうか。
クロードは膝の上に置いている拳を強く握りしめる。
「俺自身が決めなきゃならないこと……フィグのために、それから俺のこと信じてくれてる人だとかのためにも、自分を信じて決断を下さないと」
だけれどその自分を信じるのが一番難しい。
「俺、まだ知識も全然足らないし、経験ってなるともっともっと足らないから、自分のことあんまり信用できないんです。それがあったら迷わずにいられるんでしょうか」
「……私もさほど自分を信頼できてはいません。誰しもが同じだと思います。迷うのは当然のことでしょう。神殿が人々に必要とされているのはそのためです。しかし神官は答は与えません。人が自らの中にある答にたどり着く手助けをするだけです」
「答は自分の中にあるって、フィグにも言われました。だから探してます……。ああ、フィグはたくさんの知識とかこれまでの経験でちゃんと自分の中に確かだってもの、持ってるから迷ってもちゃんとたどりつけてるのかな」
それにフィグネリアが持っている知識はただの学習の成果だけでなくて、愛して誇りにしている父親から受け継いだものだというのが大きいだろう。
(俺にとっても、フィグからもらった知識は確かなものだ)
そう考えると、どことなく先の自分に安心感が生まれてくる。フィグネリアから学ぶことは必ず自分にとって、しっかりした芯になる。
そして迷わない彼女が今、後悔して、悲しんで自分自身を疑っている。
「俺もフィグにとっての自信にならないといけない……」
クロードは改めて強く思って、そのためにできることはなんだろうと考える。
まだなにひとつフィグネリアと並んでできることなんてない。それどころか自分の気持ちひとつ、きちんと整理をつけられない。
足らないものが多すぎる。
だからこそと思って、クロードはそうだと思い至る。
「……俺、全部覚えておきます。アランさんの思いも、神官長様の思いも、それから神官様達の辛い思いも全部、俺にとっての大事なものにします。犠牲になったもののためにとかじゃなくて、俺自身のためにです。忘れるのが悲しいから、自分だけでも忘れずにいたら楽だってだけのことですけど……」
フィグネリアにとってはあまりにも背負うべきものが多すぎて、全ては抱えきれずに切り捨てざるを得ないことでも、自分ならまだ抱えていける有余がある。
「……とてもあなたらしい答ですね」
アランが泣き笑いのような顔をして、クロードはその表情も言葉も胸に刻みつける。
「アランさんはやっぱり立派な神官様だって思います。ちゃんと俺、答えにたどり着けたから」
「最後に神官としての役目をさせていただいたこと、私も嬉しく思います」
そう言われて悲しい気持ちと一緒に、ぐらつきやすい心に大きな重石がひとつ産まれた気がした。
***
アランに礼を告げて別れた後、クロードはニカと共に神殿の裏手の薔薇園にいた。雪はすっかりやんではいるが、まだ空は薄暗くて寒い。
最初に薔薇が散った一体はすでに実が大きく膨らみ、花と同じ橙色へと色づき始めている。まん丸い実は熟せば宝玉さながらとなりそうだった。
花を散らせた薔薇の妖精達も、華やかな時期を終えて静かに思い出に微睡むように息を潜めている。
「寒い!」
クロードは冷たい空気を思いきり吸い込んで縮こまる。
「殿下、ここでどうされるのですか?」
ニカが問うてくるのにクロードは首を縦に振る。
「いろいろ考えすぎて気が高ぶってるっていうか、なんていうか落ち着かないから。けど、この前みたいに駄目な感じじゃないから平気」
クロードは笛を取り出して口をつける。
そして今ある言葉にならない感情を全て音に乗せていく。
旋律は嵐に似ているが、全てを薙ぎ倒し混沌とする猛々しさはない。音に合わせて風が辺りを流れる。
風が鳴る甲高い音と軽やかな笛の音は混ざり合って、天へ上って広がっていく。
凪が来る。
乱れ千々に散っていたものがすべて均一な音になって、穏やかなものへと変化する。
(またあの金色の妖精)
そして神子の所では笛にしか感じなかった妖精が周囲に満ちていくのを感じる。
(やっぱり知らない。でも本当は知ってる妖精だ……)
黄金の瞳で気配を頼りに不可視の妖精を追うが、まだその正体はつかみ取れない。
クロードは最後の旋律を高く解き放って演奏を終える。
自分の心も周囲の空気と同じように、一定の緊張感と澄んだもので満たされて、明瞭で清々しい。
「すっごい、すっきりした! あれニカ? 俺、妖精達、変に動かした?」
ニカが呆然と自分を見ているのに気づいて、クロードは首を傾げる。
風の妖精達は少々騒々しくはなったけれど、いつものことではあるしそれほど酷いことでもなかったはずだ。
「いえ……。あまりにも素晴らしい演奏で、俺の方が落ち着かない気分です。殿下の笛は本当に奇蹟のようだと思います」
「なんか、それ恥ずかしい。……でも褒められても自分じゃ全然分からないのがあれだよな」
うんと、クロードは照れ隠しにごにょごにょ言って笛をしまう。
「これでいろいろ整理はついたし、お城に戻ろうか。フィグのこと、なんとかしないとな」
まだまだ感情は重たくて苦しかったり悲しかったりはするけれど、自分の中でそれらは大事なものへと変わっている。
そうして大切で愛しい妻の笑顔を早く取り戻したい。
「殿下」
ふっと真剣な声でニカに呼ばれて、クロードは目を瞬かせる。
「自分も、忘れずにいます。殿下が忘れずにいたいものは自分も覚えておきます」
ニカはいつも頑なで揺るぎない。
こんなにも落ち着きがなくて頼りない自分にはもったいない侍従だ。だからそれに見合うぶんの主君にもならねばならない。
「ありがとう」
クロードは笑顔でニカに返す。
これから自分が背負っていかねばならないものも、どんどん増えていくだろうが畏れはもうどこにもなかった。
***
するりと人間の少女に入り込んだリルエーカは体に違和感を覚えて眉根を寄せる。
神界との繋がりが一瞬薄らいだ。
「妖精王が何か……?」
妖精達が騒ぐ気配がするのでおそらくそうだろう。人の体に入ってしまえば、妖精達の動きをつかみ取りにくくなるので、はっきりしたことは分からない。
「……大きな力を使うと母上様に知られるし、この器は使い物にならなくなるし仕方ないわ」
リルエーカは神霊としての力を強めることを諦めて、緩やかに冷え切った岩城の廊下を進んでいく。
「どうして人はすぐにあれほど美しい真実を見つけ出さないのかしら。ルーロッカの好きなあの醜い真実はすぐにさらけ出すのに」
つまらないと唇だけ動かす。
いつもそうだ。希望と絶望は表裏一体だけれど、悪意と失意の真実を司る弟の方が先に手を出す。
「今度は全部、わたしのもの」
腐る直前の果実は一番美味しいからほどよいまで熟させているのに、いつもルーロッカが勝手に枝から叩き落としてしまう。
しかしルーロッカは勝手に騒動を起こし、妖精王にまで手を出し隔離中だから手を出せない。
あのうるさくて頭の悪い妹のラウキルと同じ目にあっているのはいい気味だと思う。
「あの善意の真実はそこそこ綺麗だったかしら……」
自分を祀っている神殿にいる神官長のののは悪くはなかった。しかしながら、やはりこちらの方がいいだろう。
リルエーカはパーヴェルの部屋へと入って行く。
老いて死の間際にいる老人はベッドの上でか細い寝息を立てている。命の力が消えかけている、とても頼りない呼吸。
リルエーカが近づくと、彼は薄く目を開く。
「あなたは、私を迎えに来たのですか?」
パーヴェルの残る生気を全て集めたかのような瞳は、まだ死ねないと強い意思をみなぎらせている。
「いいえ。ですがあなたの生命はまもなく母上様の元へと帰るでしょう。そして彼女の祈りは叶わずに終わるのです」
パーヴェルが苦しげに目を細める。
「あれは、フィグネリアは私の孫ではない」
「…………違います。あなたは思っているものと彼女の祈りは違うのです」
あそこまで見せているのになぜ気づかないのかと、リルエーカは苛立つ。
「ならば一体、オリガの祈りとはなんだというのですか」
「それはあなたが見つけなければいけないものです。そうして、彼女もまた見つけなければならいのです」
そうでなければ意味がないのだ。
リルエーカはパーヴェルの枕元に薔薇の花びらを落とす。
彼はただぼんやりとそれを見ながら、再び目を閉じたのだった。
.6
フィグネリアはひとり離れの外にいた。
ザハールとの議論も堂々巡りとなってきたので切り上げ、本当にやることが何ひとつなくなってしまった。
結局部屋に戻ってもまた気が塞ぐだけなので外に出てみたものの、あまり気分は変わらなかった。
「もうどちらにしろ無理だ……」
つい足がオリガのお気に入りの場所へ向かいかけ、フィグネリアは煉瓦造りの小さな部屋のような四阿の中に入る。
四方を壁で囲まれ、大きな硝子窓のついた中は椅子と壁が一体化していて、中央にはテーブルもある。フィグネリアは椅子の下に置かれた膝掛けを取って、足下の暖を取る。
「やっと散ったな……」
周囲を囲う薔薇は全て散って王冠に似た雌しべが露わになっていた。この庭の薔薇の実全て神殿に奉納される。これで薬が足らないという事態は避けられるだろう。
薔薇果茶はやはり例年より遅れるが取引にそれほどは影響は及ばさないはずだ。
強引に政務へと意識を向けていたフィグネリアは、ふと外にリルエーカの器となっている侍女を見つける。
今はどちらだろうか。
様子を見ていると、侍女と硝子越しに目が合う。透明で落ち着き払った表情でどちらか悟る。
そしてフィグネリアは四阿の外へ出て、リルエーカと向かい合う。
「彼らはまだ待っています。一輪ずつ花を散らしながら、それでも彼らは待っているのです」
リルエーカが手を開くと、花びらが一枚こぼれ落ちる。
フィグネリアはひらひらと足下へ落ちていくそれを目で追って、なぜだか目の奥が熱くなってくる。
「私には母上の願いを叶えられません」
「なぜ? あなたはまだ真実を知らないのに」
リルエーカの言うことにフィグネリアは首を傾げる。
「アドロフ公との和解ではないのですか……?」
「人の目はなぜこうもよき真実が見えないのでしょう。彼女の祈り、望み。そう、妖精王もまた同じものを抱いているのです」
クロードが持っている、と言われても何も思いつかず、フィグネリアは拳を強く握りしめる。
(私はやはり何も気づけていない)
大切な誰かの想いを蔑ろにしていることにまるで気づけていない自分が、たまらなく嫌になってくる。
「そして何よりあなたは己の真実を知らない」
リルエーカが告げる言葉にフィグネリアは怪訝な顔になる。
「私の真実」
口にしてみるとなおさら混乱してくる。
「見つけなさい。あなたが、あなたとして望むものを。そうすれば自ずと見えるでしょう」
ざあっと凍てつく風が吹いて、リルエーカの姿が消える。辺りを見回せばリルエーカどころか四阿も、薔薇も遠くに見える城さえ消えてしまう。
世界から色という色が失われて、辺りは一面真っ白だった。
「これはいったいどうしろというんだ……」
フィグネリアは途方に暮れてため息をこぼした。
***
「フィグ、外に行ったんですか?」
神殿から戻って来たクロードはザハールにフィグネリアの居場所を訊いて、がっかりする。
「もうずいぶんになるし、そろそろ戻ってくるんじゃないのか?」
広間の艶やかで木目が美しい柱時計を見上げたザハールが不可解そうに眉根を寄せ、クロードは胸騒ぎを覚えた。
「どうしたんですか?」
「もう一時間と少しぐらいか。その辺りを歩いてくると皇女殿下は仰っていたのだが遅いな」
周辺を歩いているにしても確かに遅いかもしれない。
「城から出るとは言ってなかったんですよね。それなら皇太后様のお気に入りの場所かな……」
思い当たる場所はそれぐらいで、クロードは探しに行くかどうか迷う。
行き違いになっても困るのでここで大人しく待っているのが一番いいかもしれない。しかしやけに胸がざわついて落ち着かない。
「俺、探しに行ってきます。ニカは待ってていいから」
クロードは側にいる侍従を置いてひとり離れから出る。ひとまず雪の上の足跡をたどってみることにしたのだが、すでの多くの人が往き来した後で、フィグネリアらしき足跡は見つけづらい。
ひとまずオリガのお気に入りの場所へと向かって行くと、足跡はどんどん少なくなっていってやがてはふたつだけになる。
「戻って来た足跡はないからまだ向こうにいるのかな……何か知ってるか?」
妖精達に囁きかけると、彼らはざわめいていてなにやらあまりよろしくない雰囲気がした。
「もうひとつの足跡はリルエーカ様かもしれない」
クロードは焦りを覚えて、歩調を早めて足跡を追う。
やがて煉瓦造の四阿が見えてその周辺の妖精達の気配を強めていた。四阿の硝子窓にもたれかかるフィグネリアの後ろ姿が目に入る。
「フィグ」
中へ入るとフィグネリアは目を閉じて眠っているらしかった。しかしよく見てみれば意識を失っているという方が近い気がする。
「フィグ!」
名前を呼んでみてもまるきり反応がなく、クロードは周囲の妖精達を叱りつけるように宙を睨む。
「リルエーカ様の命令か?」
妖精達が黄金に煌めく瞳にうろたえる空気が伝わってくる。
クロードはフィグネリアを起こそうと試みて、ふっと薔薇が彼女に夢を見せていたことを思い出す。
「入ってみるかな」
オリガに関することなら見ておいたほうがいいかもしれないと思い直し、クロードはフィグネリアを抱き寄せて瞳を閉じる。
近くの妖精達と繋がって、閉ざした眼裏が徐々に明るくなってくる。
「…………あれ、なんにもない」
明るくなってきたのはいいが、あたり一面真っ白で何があるというわけでもなく、フィグネリアの記憶の中というわけでもなさそうだ。
「フィグがいない」
そしているべきはずのフィグネリアの姿も見えず、クロードはきょろきょろと辺りを見回す。
「フィグ!」
名前を呼んでも駄目だった。
「おかしいなあ」
クロードは砂のような雪のような不思議な感触の地面を歩いていく。
「それにしても、本当に何もない。リルエーカ様、何がしたいんだろ」
上を見て横を見ても下を向いても白しかなく、一目で分かりそうな黒い軍装は影も形もない。
「ちょっと寒いし、寂しいな」
こんな所に急に放り出されたフィグネリアは今頃どうしているだろう。
「早く会いたいなあ」
伝えたいことがたくさんあるのに、姿すら見えない。
「フィグ……」
何度目か呼びかけにも相変わらず返答はなかった。この広い空間で声は反響すらせずにすうっと、吸い込まれて消えてしまう。
後には耳鳴りがしてきそうな静寂が残って、寂寥感が胸いっぱいに広がってくる。
クロードは足を止めて、改めて周りをよく見る。しかしやはり白以外は何もない。
「うー、なんなんだろうなこれ。でもどうしてフィグに会えないんだろう」
どこまで歩いていってもこれでは疲れるだけだ。
「フィグには声が届いてないのかな……」
もしかしたらフィグネリアが会いたいと思ってくれていないのかもしれない。
そう考えてクロードはまたひとり落ち込む。
「俺はいつだってフィグの側にいたいんだけどな」
どんなに気まずい雰囲気になったとしても、一緒にいないよりは近くでどうにかその空気を変える努力をした方がいい。
「不安にさせてごめんなさい……はなんか違うか」
クロードは最初に何を言おうかと考えながらまた歩き出す。
足跡すらつかない空間をあてどなく進んでいく。
「もっと、ちゃんと強くなれるって所見せないと」
行き先なんてものは決めなくても、自分が向かう先にきっとフィグネリアがいるはずだ。
「信じてる。誰よりも俺が信じてるから」
語りかけるようにつぶやく。
「フィグが信じられなくても、俺はこの先ずっとフィグの側にいられたら幸せだって信じてるから」
姿を見せて欲しい。
クロードは目を開いたままフィグネリアの姿を思い起こす。
触れると冷たいけれどさらさらと触り心地いい銀の髪。痛いほどの冷気を思わせる薄青の瞳はいつも毅然と前を見据えている。
(だけど本当はすごく暖かい……)
冷えた瞳が柔らかく溶ける瞬間に、ふっとみせる優しい笑顔。
それを見たくて必死にいろんなことを覚えたのが最初だった。そのうちにたくさんの顔をフィグネリアは見せてくれるようになった。
年相応の少女らしく頬を染め、むくれたり、恥じらったり。声を上げて笑うこともあって、全てが愛おしい。
「フィグ」
クロードはもう一度名前を呼ぶ。
そうして会いたい、と声にならない声で強く願った。
***
しばらく白い空間をうろうろしてみていたフィグネリアは、歩き回ることをやめて座り込んでいた。
「今私がどういう状態かだな。歩いても一向に障害物にもあたらないことからすると、意識だけがこの空間にある可能性が高いか。夢を見ている状態だろうか」
することもないので声に出して淡々と状況を分析する。
「問題は体がどうなっているかだな。そのままあの場に倒れているならまずいかもしれんが……。見つけられていても、騒ぎになっていそうだな」
この寒さの中屋外で眠っているとなると確実に凍死しそうな気がする。
「リルエーカ様もさすがに死なせる気はないだろうから問題はないか。クロードが帰ってきていたら、何らかの変化に気づいて動く……大人しく待っているのが妥当か」
さして不安や恐怖もなく、フィグネリアは自分の意識が戻るのを待つことにした。
それにしても寒さが薄らいで暖かくなった気がする。
ほっとする感覚があって、なんだっただろうかと覚えのある暖かさに首を傾げる。
「……クロードか?」
そして思い当たった答にふむとうなずく。これでじきにここから出られるはずだ。
「リルエーカ様の意図はなんだろうな」
果てなく白い空間を見渡しながら、フィグネリアは考える。
こんな何もないところで一体何をしろというのだろうか。
「……私の真実、か」
そうしてフィグネリアはリルエーカに言われたことを思いだしてぽつりとつぶやく。
自分自身のことはよく分かっているつもりだ。
自分が得意とすること、不得手とすること、心理的に身内に対しては感情的になりやすく、冷静な判断ができなくなることがあるので、一度落ち着いてから物事を考え直さねばならない。
政務を行う上で最も気にかけている部分をあげつらって、フィグネリアは首を捻る。
「そういうことではないのか。分からないから、この景色なのだろうか」
何も見えていないというのを暗示しているのかもしれない。
フィグネリアは膝を抱えてうつむく。
「分からない自分か……」
考えて見るとクロードに対する自分自身の反応は予測しがたいものがあるかもしれない。
ドレスを着ることひとつとってもそうだ。
いちいち似合っているかどうか気にかけたり、気恥ずかしくなったり、今までにない自分の反応がある。
容姿を褒められることは子供の頃からなので、そういうものかぐらいだったのに、夫に言われると面はゆくて、けれども気持ちがふわふわするほど嬉しい。
「正直、まだ可愛いは馴れないな」
一番よくもらう言葉だが、聞く度に妙にじたばたしたくなる。
今もクロードのてらいのない笑みと言葉を思い出すと、頬が熱くなってきた。
「…………私は何を考えているんだろうな」
火照る頬に冷たい手を当ててフィグネリアは自嘲する。
そして無性に心細くなってくる。
早くこんな所から抜け出したい。
「クロード」
名前を呼んで、フィグネリアは膝を抱える。
側にいて欲しい。
ふっと心に浮かんだ言葉には既視感があった。最近ひとりになるときに気がつけば思っていることだ。
「ずっと一緒だったからな……」
クロードが側を離れている時、心配するふりをしてただ自分が心細いだけだ。いつの間にか近くにいる口実を探している自分がいる。
もっと昔にもこんなことを考えていた覚えがあって、フィグネリアは首を傾げる。
白い世界が揺らいで王宮の風景が見えてくる。少し古い景色があって、そこにはオリガの後ろ姿がちらついていた、
「母上」
母をを呼ぶ自分の声は今より幼かった。
どんな小さなことでもいいから、母と一緒にいられる理由を探しては見つけられずに、ひっそり落ち込んで父から与えられた課題へ戻っていた。
ものごとを行うのに感情的になってはならないのだ。だから寂しい、ただ甘えたいだけは理由にはならない。
「忘れていたな」
今やそれが当然のことで、なぜ自分が口実を探しているかなど考えてもみなかった。
フィグネリアは遠ざかる母の背をぼんやりと見送る。
そのうち無意識の内にじんわりと視界が滲んでくる。引き止める理由がなくてどうしたらいいか分からない。
不意にオリガが立ち止まって振り返る。
「母上?」
フィグネリアは何かを待っている顔をしている母に声をかけるが、彼女は何も返さずにいる。
「何を待っているのですか?」
問いかけている内にオリガは口を開きかけて、諦めた顔をする。
『フィグは、どうしたいですか?』
その時、クロードの声がした。
フィグネリアは目を丸くして周囲を見るが、彼の姿はどこにも見えなかった。そして母もまた遠ざかろうとしている。
「……行かないでください。母上」
咄嗟に口をついて出た言葉に、オリガが歩み寄ってくる。懐かしい微笑みを浮かべた母が目の前にいて、いつの間にか濡れていた頬に触れてくる。
「母上……」
その胸に顔を埋めると薔薇の香りに満たされる。
そうして次に温度を感じて顔を上げるとすでにオリガの姿はなく、振り返ると自分を抱きすくめている夫の姿が見えた。
***
白い空間が揺らいで見えたフィグネリアの姿にクロードは思わず駈け出しそうになった。しかしフィグネリアの視線の先にオリガがいるのを見つけ、足を止める。
遠ざかりかけてそして振り返り娘を見る母親は、フィグネリアが見ていた過去の夢と重なる。
「あ。そっか、それだ」
クロードは閃いて、フィグネリアの側に寄る。妻には自分の姿が見えないらしい。
声は届くだろうかと、傍らに膝をついて試してみる。
「フィグは、どうしたいですか?」
どうやら聞こえたらしくフィグネリアがきょろきょろする。そして彼女はほんの少し不安そうな顔でオリガを見つめる。
やがて彼女の口から落ちたのは偽りない本心。
クロードはフィグネリアがやっと答を見つけられたことに安堵して、背中からそっと抱き寄せる。
「クロード……」
フィグネリアは半ば放心したように名前を呼んでくる。
「フィグは皇太后様の望みを半分ぐらいは叶えられたと思いますよ」
涙の残りを落としてフィグネリアが目を瞬かせる。
「何が母上の望みだったんだ? それよりまだ半分なのか?」
「フィグの本心を聞くこと。それからフィグの力になりたいとかそういうの。もっと頼って、甘えて欲しかったんだと思います。……俺は最初から知ってたんだ」
クロードはため息をついてフィグネリアの頭に顎を乗せる。
「知ってたのか?」
怪訝そうにする妻にそうと相づちを打つ。
「俺がフィグに望むものと、皇太后様が望んでたものはたぶんほとんど一緒だったんです。……フィグ、俺は平気なんですよ。何があっても、フィグと一緒なら、辛いことも苦しいことも全部大事なものにできるから」
アランと話したことをぽつりぽつりと語っていくと、フィグネリアはただ静かに聞いてくれていた。
「それでお前は本当にいいのか?」
「いいんです。だからフィグの側にいさせて下さい」
訊ねるとまだ駄目なのかフィグネリアがうつむいた。
「結局、私は思い違いをしていたんだな……」
「もう、気にしないでいいんです。俺はフィグが嫌だって言っても一緒にいますから。皇太后様のもう半分の願いは、俺が肩代わりします」
「その、もう半分というのがまだよく分からない」
体重を預けてきながらフィグネリアが少し拗ねたように言う。
幼い反応が自分に心を許してくれている証の気がして、少し嬉しくなる。
「フィグに我慢しないで欲しいってことです。頼られたい甘えたいっていうのは、フィグがちゃんと辛いことを辛いって言って少しでも、楽になってもらいたいって。自分に手伝えることがあったらしたいとか、俺がいつも言っていることですよ」
考えなくてもオリガの願いを自分は最初から知っていたのだ。あまりにも身近すぎて気づかなかった。
「それは、もうちゃんとできていると思ったのだが、まだ駄目だったのか」
フィグネリアがずいぶん気落ちした様子で言うのに、クロードは苦笑する。
「俺にも責任がありますね。フィグが頼ったり甘えるにはまだまだ、俺は頼りないですから。今回のこともいっぱい心配かけてるし、困らせてばっかだったし」
やはり最大の問題はそこだと、クロードは長いため息を吐く。
「それは! う、半分程は心配ではあったし、困ったこともあったが…………」
最初こそは勢いよかったフィグネリアが言葉を濁してついには黙り込んでしまう。
背を丸めてうつむいてしまっているから表情は見えないものの、真っ赤になった耳や首筋で恥じらっているのは見て取れる。
「フィグ?」
クロードは妻のこの反応はなんなのかと首を傾げる。
「…………困っていたのは、だな。ひとりにされるのが心許ないというか、その、寂しいからで、言うわけにもいかないしでな」
もごもごと歯切れの悪いフィグネリアの言葉に、クロードはきょとんとする。
ここ最近、確かに彼女が妙な反応を示すことはあった。
「遅くならないようには、早く帰ってきて欲しいで、一緒に行くは一緒がいいで、そんなかんじですか?」
思い当たる節を上げてみるとフィグネリアは言葉もなく羞恥に、また湯気が吹き出そうなほど耳や首筋を色づかせていた。
うちの奥さんはなぜこんなに可愛いのか。
もはや感動を覚えるほどだと思いながら、クロードはめいっぱいフィグネリアを抱きしめる。
「やっぱり俺も駄目ですね。最近は次期皇帝の伴侶らしくならなきゃばっかりで、フィグの旦那様ってところがちょっと抜けてた気がします」
有能な帝位継承者である以前に、フィグネリアは優しくて少し不器用な女の子だ。
そのことを一番大事にしていると自負しているつもりで、鈍感になっていた。
「……私が身勝手なだけだ。お前にはお前でなしたいことがあるのに、それを無理を言って引き止めるわけにもいかないだろう」
「ううん。でも言ってもらえた方がいいですよ。だったら一緒にいよう、じゃなくて、ふたりの時間を今までよりも、もっと大事にできるように」
だが本気でお願いされたらどうだろうとクロードは妄想でぐらついてしまう。
「クロード?」
突然訪れた沈黙にフィグネリアが首を傾げて我に返る。
「とにかく、今までみたいにずっと一緒じゃないけど、その分はふたりでいる時間で寂しかったこととか全部言いましょう」
「それは努力する。……嫌なことがあったら、それも全部言ってくれ。何もできないこともあるだろうが、知らないよりは知っていたい」
「はい。フィグ、これからのこと、もう信じられそうですか?」
ずっと一緒にいても大丈夫だと、彼女に思わせることができたのか確認してみる。
「……本当はまだ少し恐い。だが、そうだな。それでも私はお前と一緒にいたい」
フィグネリアが不安そうな顔を上げる。
「お互いそう思ってるなら何も心配いらないですよ」
きっと、互いを求める想いさえあれば離れられずにいられる。
フィグネリアがやっと安心したように微笑んで、周囲の景色が変化していく。
過去の空間から真白い景色に戻り、そうして現実へと目覚めていく。
***
パーヴェルは夢を見ていた。
様々な過去が目の前を通り過ぎていく。
いつもふわふわとして危なげで頼りない娘のオリガが、いつの間にか頑なで意思の強い表情を見せるようになっていた。
その傍らにはいつもフィグネリアがいて、批難の視線は自分やマラットに向けられていた。
『あの子もわたくしの娘なのよ』
いつも口にしていたのはそんなことだった。
どう言いくるめてもオリガは譲ろうとはせずに、そう言い続けていた。
『この赤子がフィグネリアです。俺の一番目の妹です!』
ふっと、最初にフィグネリアに会ったとき、イゴールが腕に異母妹を抱いて臆面もなく言った記憶が蘇る。
あの時は自分はきつく叱りつけたのに、イーゴルはまったく理解できないといった顔だった。それから月日が流れれば、フィグネリアはとても賢いと喜ぶ。自分の次期皇帝としての立場を奪われるかもしれないとは、微塵も考えていない様子にほとほと困り果てた。
それから記憶の中に小さな頃のオリガと瓜ふたつな、リリアの姿が浮かび上がってくる。
『お姉様とお揃いじゃないといや!』
アドロフ家に帰ってきた際に駄々をこねていたリリア。晩餐の席にフィグネリアが同じドレスを着てくれないのが不満だったらしい。可愛げのない子供だったフィグネリアが、自分で側室の子として自分から差をつけるのを、リリアはまったく理解していなかった。
いつもリリアはフィグネリアにべったりと甘えてばかりだった。
今ではオリガに似た顔で、フィグお姉様に意地悪しないでと責め立ててくる。
パーヴェルは夢と覚醒の境を彷徨う中で、オリガがイーゴルとリリア、それからフィグネリアと睦まじく一緒にいる姿を見つける。
オリガは幸せそうだった。
「オリガ、お前は、それでよかったのか?」
問いかけが口をついて出て、オリガが自分の存在に気づいて顔を向けてくる。
その表情は薔薇と同じ暖かな色を宿していて、輝いて見えた。
***
夢から覚めたフィグネリアは目を開けても、しばしぼんやりとしていた。
「フィグ……」
クロードに呼ばれてやっと現実に戻って来たのだと、意識がはっきりしてくる。傍らで夫が体を抱き寄せていてくれて、触れ合っている部分は暖かいがそれ以外は寒い。
「四阿……あの時からか」
リルエーカと窓越しに目が合ったときと同じ位置にいるのに気づいて、自分はここから一歩も動かずにいたのだと分かる。
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
クロードの優しげな瞳と目が合って、一気に白い空間でのことが蘇ってくる。
いつ間にか彼はひとりで全て解決してしまった。
思っている以上にずっとクロードは強くあろうとしている。優しいけれど、彼はけして弱くはない。
「フィグ? 体がおかしい所とかありますか?」
「いや。大丈夫だ。ただ少し寒いぐらいか」
様々な想いが胸を満たしていくけれど、どれも言葉にならずにフィグネリアはクロードにさらに身を寄せる。
しっかりと抱きすくめられると、とても暖かくて心地いい。
不安も怖れもまだあるけれど、クロードとなら乗り越えていけると確かに感じられる。
「……まだ皇太后様のお気に入りの場所の薔薇は咲いてるから行きましょう。それにアドロフ公に対しての望みも」
クロードが静かに言って、フィグネリアは顔を上げる。
「アドロフ公と和解、ではないのだな」
「……できれば仲良くして欲しいけど、どそれが無理でもフィグを自分の娘だって認めて欲しかったんだと思います。フィグが甘えてくれない理由に、アドロフ公と先帝陛下の関係にも一因があるって考えたんじゃないでしょうか。皇帝陛下と同じくらい偉いアドロフ公も認めてくれたら、いろんなこと気にせずに甘えられるきっかけができるんじゃないかって」
「母上らしいな……」
フィグネリアは苦い笑みを零す。
母は母なりに懸命に考えてくれていたのだ。それだけ愛してくれていたのに、応えきれなかったことはやはり悔しい。
「今からでも、母上は喜んで下さるだろうか?」
「きっと、フィグが幸せなら」
クロードの言葉に支えられてフィグネリアは立ち上がった。
そして四阿から出てふたりでオリガのお気に入りの場所へと向かう。何気なく目を向けた夫の表情は穏やかに微笑んでいるように見える。
「薔薇の妖精達の様子はどうだ?」
「ずいぶん落ち着いています。これで後はアドロフ公とお話しできたら大丈夫かな」
フィグネリアは静かに佇む薔薇達を見回して微かに感情が波立つ。あまりにもささやかすぎる波は喜びなのか悲しみなのかも判別がつかない。
クロードと手を繋いで言葉もなく歩き続ける。
やがて鮮やかな橙色が見えてくる。
その傍らには杖をついてひとり立つパーヴェルの後ろ姿が見えた。
「アドロフ公……」
フィグネリアから声をかけたのとパーヴェルが振り返ったのは同時だった。
「……夢を見た。お前と最初に会ったときの夢だ。お前はひとつで覚えていないだろうがな」
前を向き直してパーヴェルは静かに続ける。
「イーゴルがお前を連れて来たのだ。オリガとリリアのいる部屋に自分で抱いてな。皇太子自ら侍女のように側妃の子を抱いて正妃の部屋に入るなど言語道断だと私は叱りつけた」
フィグネリアはその時のパーヴェルの心情は察せた。
表向きは補佐という名目ながらも、イーゴルの次期皇帝という地位を脅かすかもしれない存在だとパーヴェルは知っていた。
半分血の繋がった兄妹だろうと、いずれは争わねばならないものとして早い内から立場の差を明確に区分をつけておかなければならないのが道理だ、
「イーゴルは私の言う意味が理解できていなかった。オリガもそれを許して、イーゴルとリリアも幾つになってもお前に対する態度は変わらなかった」
兄妹と違って真ん中でひとりぽつんと母親が違うという事実は疎外感を覚えていたが、それでも寂しくなかったのはふたりがそんなことは気にせずに愛してくれたからだった。
「リルエーカ様は仰った。オリガの祈りはまだ生きていると。おそらくそれはイーゴルとリリアのことだろうな」
パーヴェルの言うことに、フィグネリアはああ、とうなずく。
「ふたりとも、皇太后様によく似ておられます……」
母の無邪気さも優しさも全部兄と妹はそっくりそのまま受け継いでいる。
フィグネリアとパーヴェルの間で言葉がなくなる。
どちらともなにを語るべきか分からない沈黙だった。
「…………お前のその甘さはオリガ譲りか」
先に口を開いたのはパーヴェルで、フィグネリアはただ目を丸くする。
「私とは相容れないが、確かにお前はオリガの子ではあるのだろうな」
フィグネリアが何も返せないうちに残った薔薇が花を散らす。
あまりにもあっけなく一瞬のうちで、力尽きたのかのようにも思いを遂げたのかのようにも思える。
答を求めてクロードの顔を見上げると、彼は首を縦に振った。
これで母の祈りは遂げられたのかとフィグネリアは一度瞬いて、滲んだ涙を目尻に追いやる。
クロードがそれに気づいて、そっとぬぐってくれた。
「皇太后様は、私にとっても大切な母でした」
万感の想いをこめながらお落ち着いた声音で言うと、パーヴェルは振り返る。
「私はそう長くない。お前はこの先いかにする? マラットでは残る八公全ては抑え切れん。お前もまた、戦わねばならない」
言葉とは裏腹に生気と力に満ちた眼光で見据えられる。
「戦います。私は父の理想と私自身のなしたいことのために、戦うつもりです」
すんなりと答が出て、自分自身でも驚いた。
「共に、戦ってくれる者もいます。これからも共に戦える者も見つけていくつもりです」
もうひとりではないのだから、きっと大丈夫だと思える自分がいる。
フィグネリアは自然とクロードと手を取り合う。己の持つ力で自分の道を確かに切り開いていっている彼の存在が何よりも心強く感じた。
「俺は絶対に後悔なんてしません。何があってもフィグの側で支え続けます」
クロードが手を握り返して芯の通った声で宣言するのに、パーヴェルがどこか物憂げな目をする。
「違うのだな。お前は先帝とはやはり違う。私とあの男との戦は五年前にもう終わっていたのだ」
声には悔しさと寂しさが滲んでいて、フィグネリアは理解する。
パーヴェルは父と戦い続けていたかったのだろう。きっと彼にとっても生涯をかけて戦える相手は先帝より他になかったのだ。
「アドロフ公……」
名を呼ぶとパーヴェルは何も答えずに立ち去っていく。
フィグネリアはクロードと並んでその背をただ静かに散った薔薇達と共に見送る。
老いた背はいまだその存在の大きさを物語る威厳をもっていたが、やはりどこか物寂しげであった。
***
城内へ戻ったパーヴェルは自室への階段を一段ずつ昇っていた。足を悪くしても居室を変えなかったのは、意地もあったかもしれない。まだひとりで歩けるのだと。
ここ数年は昇降装置を使うことが大半だったが、時々自らの老いを確かめるようにこうして昇っている。
「父上……」
少し息を上げて二階ににたどり着くと、マラットがまた無理をするとでも言いたげな顔でいた。
パーヴェルは側についている近侍を下がらせて近くの部屋へと入る。
「マラット、もう一度問う。お前は本気でフィグネリアと対抗するつもりか?」
「最初からそう言っています」
不機嫌そうに腕組みしてマラットが答える。
「フィグネリアが気に食わないからか、それとも己の戦う相手として他にない強者として考えるからか」
自分にとって先帝は後者だった。
野心と戦意を漲らせて真っ向から挑んできた少年の姿は今でもよく思い出せる。九公の頂点に立ち力関係を維持しながら、戦意を持て余していた頃だ。初めて会った瞬間から死ぬまで戦い続けられる相手だと思った。
「…………フィグネリアが俺よりも賢いのは承知です。だがそれでも勝ちたいのです。アドロフ家の威信と、ここまで神々の恩恵を受けて築き上げたものを護るべくためにも」
感情的に声を荒げやすい息子にしては珍しく落ち着いた声だった。
ただ今まで最も強固な意志を感じるものだった。
「私は一線から退く。お前が変わりに立て」
もはや自分が戦う相手はいない。フィグネリアとどれほど争ったところで、満たされないことに代わりはないだろう。
これで自分の長い戦は終わりだ。次へと託す機を失ったままでいたのは、マラットの力不足よりも己がまだ最前線にいたいことの方が大きかったのかもしれない。
「父上、なぜ今になって……」
マラットが困惑するのに、パーヴェルは杖を支えにひとりでまた歩き出す。
「いざ背負うとなると重荷か?」
「いいえ。とうにその意は固めています」
すぐさま返ってきた答にどこか安堵する。
憂いはまだある。だがそれでもこれから先を築いていくのはマラットでなければならない。
行く末を見守ることはできないことは惜しいものの、これでもういいとパーヴェルは思う。
先に逝ってしまったオリガの思いをイーゴルとリリアが継ぎ、先帝の遺志をフィグネリアが継いで、世代は移り変わっている。
自分もまた次へと託さねばならない時が来たのだ。
パーヴェルは振り返りもせずに退室する。
扉が閉まる音がやけに大きく耳の中で響いて、自らひとつの時代の幕を引いた実感がじわじわと広がっていく。
満ち足りてはいない。かといって空っぽでもない不思議な感覚だった。
廊下の奥でリルエーカが立っているのが見える。
いつもほとんど表情らしいものを見せない女神がふわりと微笑む。そして彼女は背を翻して去って行く。
向かう先には希望らしきものがあるのかもしれないと安らぎを覚えた。
***
翌日、アランの移送のためにフィグネリア達は神殿にいた。
フィグネリアは兵ふたりと城の薬師に付き添われて出てくるアランの姿と、クロードの表情を交互に見る。
アランがクロードに気づいて淡く微笑んで会釈して礼拝堂から出て行く。
「クロード、後で話がしたいことがあるならしてもいいが」
「アランさんとは話すべきことは話せたって思います。だからもう平気です」
じっとアランの後ろを見続けながらも、クロード言葉はしっかりとしていて無理をしている風ではなかった。きちんと自分の胸の内で彼がけじめをつけられていることに、フィグネリアは安堵する。
「あまり凶悪犯と思える見た目でないのが残念ですね」
ザハールが言うのにフィグネリアはクロードの反応を気にしながらそれはまあと答える。
「露骨に悪人に見えるより、それはそれで効果はあるだろう」
「それも一理ありますが。まあ、後は大神殿から薔薇が散らなかった理由が出されれば一段落といったところですか。そのあたりは皇女殿下にお任せします」
ザハールと後のことをひそひそと話しながら、フィグネリアはクロードの表情を見る。動じた雰囲気もなく、ニカと話していてほっとする。
「フィグ、あれ……」
そうしてクロードに声をかけられて像の方へ目を向けると、その前にはまたリルエーカの器となっている侍女がい立っていた。
どっちだろうかと四人が顔を見合わせていると、彼女がくるりと振り向いた。
「やはりもう少し瞳は大きいと思うのです」
先に声をかけられて、フィグネリアはため息をつく。そしてザハールとニカにアドロフ家の私兵の気を逸らすよう頼んで、クロードと共に彼女と向き合う。
「リルエーカ様、なぜここまでして私達に真実を見つけさせたのですか? あなた様の望
みはなんなのですか?」
たったひとつそれが合点がいかなかった。
まるで宝探しでもさせるように回りくどい手がかりを与えて、自分とパーヴェルに真実を探させていた。
彼女がこんなことをしていたのははたして善意からなのだろうか。
「善意、あるいは希望を抱く真実。それが私の望みです。言ったでしょう。絶望と希望は表裏一体なのです。絶望の淵にあればあるほど、真実は美しさを増すのです」
楽しげにリルエーカが微笑む。
「そうして死の間際にある者が最後に見いだす希望ほどよいものはないのです」
邪気など欠片もない純粋すぎる笑顔にふっとフィグネリアは、リルエーカが薔薇を与えた経緯を思い出す。
病に冒されながらも領民のために祈ったアドロフ家の祖先の少女。死を間近にした彼女の祈りを聞き届けて、リルエーカはこの薔薇達を与えたのだ。もしかしたら、少女が瀕死になるまで待っていたのかもしれない。
フィグネリアは自分の想像に寒気を覚えながら、リルエーカを見る。
「さあ。私も十分楽しんだのだからもう戻らなければ。神界と人間界の歪みが正常になりかけているのですが、妖精王、お気づきですか?」
リルエーカに問われて、クロードはきょとんとする。
「なりかけてるんですか?」
「ええ。昨日から突然。妖精達が大きく動いたのであなたが何かしたのだと思ったのですが。そうですか。どちらにせよ、帰れなくならいうちに戻らねばなりませんね……」
そう言ってリルエーカは軽く頭を下げる。
「では、ご機嫌よう」
そうして後に残されたのは器にされていた侍女だった。彼女はまたもや記憶にない場所にいる自分に戸惑っていたが、フィグネリアがどうにか言いくるめて席につかせる。
「……結局、神霊様が人を救ってくれるというのは幻想にすぎないんだろうな」
フィグネリアはリルエーカ像を見上げてつぶやく。
彼らにとって人というのは所詮自分の楽しみのためのものにすぎず、悪意も善意も本当にありはしないのだろう。
「悪気がないのが一番質が悪い気もしますけれど……でも、歪みが正常になってるって本当でしょうか?」
「心当たりはないのか?」
「……あ、笛かも。神殿でアランさんと話した後に笛を吹いたんですよ。その時にいつもと違うかんじになったから」
クロードが思案して、笛がしまわれている胸ポケットに手を当てる。
「クロード?」
沈黙してしまっていたクロードに声をかけると、彼は目を瞬かせる。
「あの、もう一回だけ神子様と話してもいいですか? 何か分かりそうな気がします」
クロードが言うのに、フィグネリアは向こうが了承してくれればと返す。
そうしている内に神官長がやってきて会釈をする。彼はかしこまった様子でフィグネリアに挨拶をし、クロードへと視線を移す。
「……この期に及んでお願い事をするなど申し訳ありませんが、クロード殿下に笛を演奏していただきたいのです。神子様がどうしてももう一度、楽士様の演奏を聴きたいとのことで。この場でかまいませんので」
願ったり叶ったりな神官長の懇願に、フィグネリアはクロードと目配せをする。
「それなら、神子様の目の前で吹きますよ。ここだとそこまでよく聞こえないでしょうし」
クロードが返答すると、神官長がそれならばと案内の神官を呼ぶ。
「それじゃ、行ってきます。……ニカ、神子様の所で笛吹いてくるから」
そうしてクロードはニカにも声をかけて案内の神官と共に扉の奥へと消えていった。
***
通された部屋で神子とふたりきりになったクロードは笛の演奏を終えた。
「……不思議ですね。あなたの笛の音はどれも懐かしい気がします。それにやはり妖精達が盛んに動いています」
神子が演奏の余韻に浸りながら感嘆する。
「笛に妖精がいないって前に言ってましたけど、今でも感じませんか?」
金色のあの妖精の名残がまだ笛にあって、周囲にもその気配はまだ漂っている。神子はこれに気づいてないのだろうかと、疑問に思う。
「妖精、なのでしょうか。不思議な感覚がします。……楽士様、もしかして妖精の気配を感じられるのでは?」
神子から思いがけぬ質問を投げかけられてクロードは、面食らった顔で固まる。そして誤魔化そうとしても我に返るのが遅すぎた。
「ちょっとだけです! 神子様よりもたぶん弱い感じです。変に悪用しようととか全然考えたことはないですから。誰にも言わないでもらえますか?」
「ええ。あなた様が望むなら。しかし神子とは女性がなるもので男性でというのは初めて聞きました」
必死の取り繕いを信じてくれたらしく、神子が物珍しそうにする。
「そう、なんですか。どうして女性だけなんでしょうか?」
ひとまず信じてくれたことに胸を撫で下ろしつつ、クロードは首を傾げる。
ザハールの推測で引き継ぎは女系なのかもしれないと言っていたが、何か関わりがあるのかもしれない。
「地母神様と同じく、母、になれる者だからという説があります。男性の前では言いにくいのですが、私達神子は月の触りがありません」
神子が伏し目がちに告白するのに、クロードはどう反応していいか分からず固まってしまう。
「だから実際は母とはなれない身なのです。食い違っているようですが、私達は神霊様の慈悲を受け、妖精達の力を借り新たな恵みを産み出す役割を担っているのです。そうして得たものが、後世へと繋がるのです」
分かるようで分からない話だった。
(ああ、でも分かるかもしれない。元々神子様達は妖精王の母になる候補からこぼれ落ちた人達なのかもしれない。その名残みたいなのが今の形になってるのかな)
大きな力を抱えた魂を引き継ぐのには、それだけの素養がいるのだろう。血族がいても引き継ぐのはたったひとり。
(普通の人間とは違うんだな。妖精王も神霊様とある意味同じで『器』になるものが必要ってことかな)
クロードは沈黙が長引いているのに気づいて、少々動揺する。
「あ、えっと。話しにくいこと言わせてしまってすみません……そうだ。ご先祖様のことで何か他に聞いたことがあることとか、この笛について何か……?」
「あまり祖先についても先日お話ししたことぐらいしか。そうですね。あなた様と同時に笛に触れた時、鈴の音を聞きました」
自分が笛の元の姿を思い出したときのことだった。クロードはもう一度試しに神子に笛の片側を示してみせる。
笛を通じて共鳴する音。
軽やかな鈴の音がひとつ、またひとつと増えてみっつが唱和する。
母。鈴の音。胸の内の妖精達がさんざめいて魂に刻まれた記憶が欠片ずつ浮かび上がってくる。
お互い何とも言えぬ複雑な顔で手を離して、無言のまま目を合わせる。
「鈴でしたね……私達には何かこの笛による繋がりがあるのでしょうか」
どうやら鈴の音だけが聞こえているらしい神子に、クロードはどう返すべきかと考える。
「やっぱり楽士同士でご先祖様と繋がりがあるかもしれないですね……」
「ええ。やはりもう一度お目にかかれてよかったと思います」
まだ何か言いたそうにしていた神子が迷いを振り切るように微笑む。
「その笛とご自身の力を大事になさって下さい。とても素晴らしい演奏をありがとうございました」
すっと立ち上がって頭を垂れる神子に、クロードは慌てて立ち上がる。
彼女も神の楽士という核心にあたる部分に気づいたのだろうと直感した。それでも胸の内にしまってくれている。
「ありがとうございました」
そして思いを全てこめて最後に感謝の言葉を神子に告げたのだった。
***
神子の元から戻って来たクロードは呆然というか、安堵というかなんとも不思議な顔でいて、フィグネリアは何があったのか問うた。
そしてとても大事なことなので後で、というクロードの言葉に素直に従って城の離れでようやく彼か話が聞けることとなった。
「えっとですね。俺の中に、神界と人間界の歪みを直す妖精がいるんです。いるっていうとちょっと違うか……。いろんな妖精を取り込んでて、それが歪みを直す妖精に変わるんです」
妖精王としての役目について分かったという前置きの元、クロードがそう説明する。
「……地母神様はお前によって神界と人間界の間に歪みができると言っていたが、それもそのためか?」
最初にフィグネリアが問うて、クロードはうなずく。
「逆なんです、それ。歪みができるから俺が、妖精王が産まれるんです。なんでそうなってるか分からないんですけど、神界と人間界は妖精で繋がっててだけど妖精に干渉できるのは神霊様だけって不均衡なんですよね。だから時々、ねじれて歪んじゃうんです」
それでと組み立てられ笛をクロードがテーブルの上に置く。
一見すればなんの変哲もない笛である。だがこの笛には妖精が宿っていない。
「なるほど、神霊方が干渉できない唯一のものがそれということか」
ザハールが興味深そうにうなずく。
「リルエーカ様は新しくできた妖精について気づいてなかったから、神霊様が感知もできなければ操ることもできない妖精に変える役割も持ってると思います。もし感知できたなら本来の役割はとっくに神霊達に知られているはずです」
「地母神様も本当のことを知らなかったのでしょうか?」
「地母神様は知らないと思う。他の神霊様に知られたらまずいし。ほら、こっちに降りてきて遊びたい神霊様は俺がいるから境界が揺らいでるなら、都合がいいけど逆だとあんまり考えたくないことになりそうだろ」
ニカの質問に答るクロードの言葉に、フィグネリアはぞっとする。
例え妖精達を動かせるとしても、神霊達に本気で命も魂もそうして血族全て根絶やしにされるとなったら抵抗はできない。
話を聞いている他のふたりもことの危うさに顔色が悪い。
「お前の祖先が真っ先に事実を隠さねばならなかった相手は神霊方なのか」
「きっとそうです。だから神殿にも記録を残さなかったし、存在を曖昧にしててんだと思います。地母神様は当てにならないし……」
ついうっかりとか言って、本当の事をぽろっと喋りかねないギリルアの緊張感のない笑顔を思い出してか、クロードは深々とため息をつく。
「君達の話を聞いていて僕の中でずいぶん地母神様の印象が崩れてきているんだが」
唯一ギリルアと対面したことのないザハールが言うのに、残る三人は思わず遠い目をしてしまいそうになっていた。
「それはまあ、気にしない方がいいですよ。とにかく、安定のための妖精の存在に俺が気づいたんで、神霊様が好き勝手降りてくるのは止められそうです」
「それなら助かった。だが、全てを知るきっかけは神子様にあったのか」
フィグネリアが首を傾げるのにクロードも首を捻る。
「はい。元々は妖精達が覚えてるんです。それで本来は母上といることでで少しずつ、妖精達が持ってる記憶を思い出していくはずだったんです。その代わりが、神子様になったんだと思います」
「そうなると、記録にして引き継ぎをするという手はさほど重要ではないのか」
どうやって後世へと伝え残すかが最大の問題だったが、その点もさほど難しくないように思える。
「結局、君の笛はなんで鈴だったんだ」
「ああ、たぶん妖精王を次に繋いでいく母になる人を選ぶためのものだと思います、笛を吹いて妖精を従えられないけど、素養があれば鈴が反応して音が鳴るんじゃないかな。神子様も俺も笛に触ったとき、鈴の音がしたんですよね」
笛に触れ合った瞬間に聞こえた鈴の音は、妖精王であるクロードと血族である神子が引き継いでいるものが相互に反応し合った結果だろうと、クロードが補足する。
「でも結局は笛も鈴もは神霊様や妖精が好きなものだから、この形を取ってるだけで、あんまり深い意味はないんじゃないかと」
神霊や妖精が澄んだ音や音楽を好む。それにあわせて形取っている以外には考えつかないということだった。
「意味はないのか」
フィグネリアが確認するのに、クロードはうんとうなずく。
「特にないと思います。後は隠しやすいとか持ち運びやすいとかそういう単純なことじゃないかと」
「君の一族らしく何かとても適当なものを感じるな」
ザハールが言うのに、クロードが唇を尖らせる。
「いいじゃないですか。なんでもかんでも小難しい理屈があるとは限らないんです」
それにはフィグネリアも面倒なことはなければないほどいいとうなずく。
重要なのはクロードの妖精王としての力の本質だ。そこが紐解かれれば笛のことは些細なことだ。
「そうだ。どれだけ先か分からないけど、神霊様との繋がりもいつかなくなっちゃうかもしれません。歪みが直される度に神霊様が干渉できる範囲も狭くなっていってるんじゃないんでしょうか。この国が最後……信仰の区分はどっちが先なんだろう」
クロードが思案してぼやく。
「神霊方の繋がりが切れたから、信仰の形が変わったのか、あるいは人から離れていったのか。どちらにせよ私達はいつか必ず神霊方とは離れなければならない時が来るのか……」
フィグネリアの声は自然と硬くなっていく。
それは百年、二百年と先のことかもしれない。だが確実にやってくる時でもある。その時にこのディシベリアが確固として維持されるためにも、技術革新は必須だ。
すでに隣国に遅れをとっている現状でもある。
「フィグ? 説明がわかりにくいところとかありました?」
クロードが不安げに問うてくるのにフィグネリアはいや、と返す。
「やはり改革は迷っている暇がないと思ってな。……そのために帝位は必要だ」
最後の言葉は自分に言い聞かせ奮い立たせるものだった。
父のようになれない。だが自分は自分でなすべき道を見つけている。
「ザハール、十年計画を私は実行する。できうるだけ力を貸してくれ」
フィグネリアはまずザハールを見据える。
「ええ。それはもちろん最大限に自分の利益が得られるようやらせていただきます」
彼は彼らしく尊大に言いながら楽しげに微笑む。
「クロード、私は多くの味方をつくるつもりだが、ただそれ以上に多くの敵も作ることになる。お前には共に戦っていってもらわねばならい。覚悟はいいか?」
「それはとっくに大丈夫です。俺もフィグに見合うだけ強くなって、それから自分の味方も増やしていきます。ニカにはこらからいっぱい苦労かけるとおもうけど」
クロードが力強く言って、これから始まることへ期待と興奮を隠し切れずに瞳を輝かせているニカと視線を交わす。
「戻ったら兄上とも話さねばな……アドロフ公のこともあるからリリアも呼んで直接だな」
辛い知らせをしなければならないことは心苦しいが、心構えができるならその方がいい。
兄達がどんな表情をするか思い浮かべてフィグネリアは瞳を伏せる。
「俺も一緒にいますから」
クロードに優しい声にああ、とフィグネリアは答える。
ふたりでなら苦しいことも辛いこともちゃんと分け合えると今はちゃんと信じられるから、とても心強かった。
***
その翌日、予定通り岐路につくことになった。
ゆっくりと遠ざかっていく城をフィグネリアはいつまでも見続けていた。マラットは正式に来月家督を継ぐ報告を兼ねて挨拶をしてきたが、パーヴェルは最後まで姿を見せなかった。
優しい思い出も辛い過去も全てが遠ざかっていくようで寂しさを覚える。
「悔しい、のかもしれないな」
フィグネリアはぽつりと城に目を向けたままぽつりと零す。
「何がですか?」
隣で肩を貸してくれているクロードが首を傾げる。
「ああ。アドロフ公に敵としてみてもらえなかったことがだな。私はあの方の中では父の代わりになれなかった」
どうあがいてもパーヴェルに、そうして父には永遠に届かない。
「悔しいな」
肯定して苦く笑う。
城はやがて見えなくなって街も遠ざかっていってしまう。そうしてまた代わり映えのない雪景色を眺めてゆるゆると家路を辿る。
行きと違ってザハールも増えたせいか、クロードはニカと一緒に宿で雪合戦の再戦を挑んだりして楽しげだった。相変わらず夫は惨敗していた上に雪塗れで、風邪をひかないか心配させられたが問題はなかった。
わずか二日の行程の間に事件のことも何もかも忘れたようにクロードと笑い合えたと思えば、夜にふっと思い出してお互い物思いにふけることもあった。どちらともなく寄り添って無言で心を分け合った。
それから帝都にたどり着いたのはよく晴れた日のことだった。
「フィグネリア! クロード! 大義だった」
城に帰って早速、イーゴルが出迎えてくれた。よく通る声と明るい笑顔が無性に懐かしくて目尻に涙が滲んでしまう。
「ただいま戻りました、兄上」
声に出すと改めて返ってきたのだと実感する。
「フィグ、クロードおかえり! 寂しかった!」
続いてやってきたサンドラにぎゅうぎゅうと抱きしめられて、フィグネリアは幸せを笑顔にして零す。
「はい、私も義兄上と義姉上にとても会いたかったです」
それから、それから何を話そうかとフィグネリアは迷う。そうして兄を見上げてひとつ決める。
「神霊様と妖精に母上のお姿をたくさん見せていただきた。お小さい頃の母上は本当にリリアそっくりでした」
イーゴルが目を丸くした後に、笑顔で頭を撫でてくれる。
「そうか。ならばこんなところで立ち話も何だ。ゆっくりお前の話が聞きたい」
兄の雰囲気に母の面影があって、まるで似ていないようでやはりよく似ているとフィグネリアはクロードと笑みを交わす。
その日は政務含めて遅くまでイーゴル達と過ごしたのだった。
.7
帝都に戻って五日、クロードはフィグネリアと共に大神殿に訪れていた。
「それで、アランさんのこと、何年後か分からないですけど預かってもらえますか?」
ルスラン大神官長へクロードはアランの今後について頼む。
しばらくアランは王宮で軟禁状態にされ、ロートムの情報の真偽や確実性についての助言をする役割を与えられている。彼の持っている情報自体すでに古いので数年で解放されることに決まった。
その後についての交渉はどうしても自分でしたくて、クロードはフィグネリアに頼んで今ひとりでやらせてもらっている。
「ええ。そういうことでしたら。しかし、第三神官長が異国の方でご子息もこちらに来ていたとは……」
ルスランが言うのにそういえばとクロードは思い出す。アランの父は大神殿でも勤めをしていたのだ。知り合いでも全く不思議でない。
「あちらの神官長様の処分はなし、なんですよね」
「ええ。それはこちらで揉めているところでして……彼もまた大神官長の候補のひとりに考えられるほどの方でしたので、その信仰にも偽りはないと分かっているのですが、どうしても俗世からよからぬものを持ち込んだことに厳罰を与えるべきという声もありまして……」
ルスランの言葉は歯切れの悪いもので不安になる。
「まさか破門とかそういうことになるんですか?」
「しばらくは大神殿より監査を置き、数年の内に神官長の役目を終えて他の神殿で一神官として過ごして頂くことになるかと」
「元の神殿には……」
「他の神官を巻き込んでの行いは許されるものではなく、他へ移ることは致し方なきことと」
ルスランに絶対的権力があるわけでもなく、ここは諦めるしかなかった。
できれば思い出の多い地で過ごせればとよかったのだがと、クロードは落ち込みを顔に出さないようにしておく。
「クロード殿下、それと地母神様からお話があるということなのでそちらも宜しくお願いいたします」
ルスランに言われて、クロードは目を瞬かせる。
あれから何度か笛を吹いて歪みの補正を試みていたので、何か勘づかれたのかもしれない。
「は、はい。それじゃ、ご挨拶しに行ってきます。無理ばかっり言ってすみません。ありがとうございました」
クロードはそそくさと部屋を出て外で待っていたフィグネリア達と合流する。
「クロード、どうだった?」
一番最初に長椅子からフィグネリアが立ち上がって緊張気味に問うてくる。
「全部希望通っていうわけにはいかなかったですけど、どうにかです。それと、ギリルア様からの呼び出しです」
「…………何だろうか」
フィグネリアもやはり不安そうだった。
「皇女殿下、せっかくですから私も同行してよろしいでしょうか」
「イサエフ二等官、あまり好奇心のみで動かれるのは……」
事件の担当官として同行しているザハールが言うのにニカが渋面を作る。
「先のことを考えれば、知っておいた方がいいだろう。ということで行きましょうか」
そして結果的に四人で地母神と対面することとなった。
いつもと同じ薄暗い小部屋へと入ると大神子がちょこんと座ってにこにことしていた。
「お待たせしまた……」
クロードが告げると、ギリルアは普段以上に愛想のいい笑顔でいいえと笑う。
「なんだかまたうちの子が勝手に遊びに行っていたみたいですけど、困ったことは特にありませんでしたね。ええ。リルエーカはあまり人間に迷惑はかけない子ですから。他の子達と不公平になるから勝手に遊びに行っちゃ駄目とは言っておきましたから」
なにかものすごい勢いで誤魔化されている気がするが、口を挟む気力はその場の全員になかった。
「それでですね、歪みが正されてきてうちの子達が勝手に降りそうになると、こちらで感知できるようになったのでとても助かります。歪みを正す方法が分かれば私も助力したいとは思うのですけれど……」
ギリルアの申し出にクロードは愛想笑いを浮かべる。
「えっと、いや、俺にもまだよく分からなくてですね。けどいろいろ精神的に落ち着いたからじゃないかなと……。もうすぐ十八だし」
歳は関係ないだろうと思いつつ、誤魔化していると残念そうにギリルアがうなずいてほっとする。
「では、この調子でお願いいたします。子供の数が多いと本当に大変で、全員には目を行き届かせていられないのに、ずっと気を張っているのは疲れるわ。神界で遊んでいる分には勝手にしててもいいのだけれど、人間界に降りると喧嘩になるし、後がややこしいし……」
ギリルアが子育ての愚痴を好きなだけ喋るのをその後しばらく大人しく聞かされて、彼女が喋るのも面倒になったところでやっと四人は解放された。
「…………神霊方に頼るのが相当危険だという再認識ができたな」
階下に降りて地母神との初対面を果たしたザハールの感想はそれだった。
「我々がいかに神霊方勝手な期待を寄せているか身を持って実感させられるな。……それに子供は多すぎても大変だな」
うんと、フィグネリアが疲れ気味にうなずく。
「俺は少なくとも三人ぐらいは欲しいかなと思うんですけど」
「まあ、それぐらいならちょうどいいかもしれないが」
ずるずると話題を滑らせていきながら、四人は神殿の出入り口までやってくる。礼拝堂へ多くの人が往き来していているのが見えた。
ここへ向かう人達はいったい何を祈っているのだろうか。
クロードは開け放たれている礼拝堂の扉の向こうに目を向ける。
一番奥では人々の理想を形取った慈悲深い笑みを浮かべる地母神像が静かに佇んでいる。
「帰るか」
同じように像を見ていたフィグネリアが最初に礼拝堂に背を向けて、クロードはうなずいて彼女の後に続いた。
***
それよりさらに十日の後政府より密偵の殺害の件の仔細が公表された。
それと同時に、大神殿より薔薇が散らなかった原因はいずれと伏せられたものの、事件とは無関係であるとルスラン大神官長より発言された。
フィグネリアが大神殿の返答を待たずに、神殿へと独断で介入したことに反目も多くあった。だが多数の神官と神子の身を護ったことに対する賛辞もある。
どうするのが正しかったのかと議論が交わされ始めている。
大神殿からの通達を待つべきだったのか、いつ降りてくるかも分からない神霊を待つ間に神子や神官に万一のことがあったかもしれない可能性の有無。
知らず内に神霊の考えを決め込んでしまったことは不敬なのか。
議論は尽きない中で、ひと月あまり後に大神殿より薔薇が散らなかった原因が公表された。
薔薇が誰かとの別れを惜しんでいるのにリルエーカが力添えしたためだということを。
人物名が分からず、逝去するまでに薔薇は力尽きたので大きな混乱をきたす可能性があるのでこれまで隠してきた。しかしその人物が誰であったかは不明のままだが、地母神の元へと来たと神霊から話があったので正式に国民に知らすに至ったとルスランが説明した。
そして誰しもが思い浮かべた人物は、それより五日前に逝去した先代アドロフ公、パーヴェル・アドロフだった。
***
パーヴェルの死からひと月半。春が訪れた帝都では彼の国葬が華々しく執り行われた。
埋葬自体は逝去から五日後、儀礼にのっとり皇家からは直接の血縁であるイーゴルとリリアだけが立ち合って、アドロフ公領内の公爵家の墓所ですまされている。
国葬は多くの楽の音に付き添われ、最後にクロードの笛と共にマラットが遺髪を大神殿に納めた後、王宮内の迎賓館で参列した貴族らがもてなされていた。
軍装の左腕に赤い喪章を巻いたフィグネリアは、雑多に入り交じり賑やかな人の輪から抜けて皇家の休憩所となる続きの間のソファーに腰を鎮める。
「まだ、実感が湧かないな……」
国葬の準備に追われて目まぐるしくふた月が過ぎた今でも、パーヴェルが城の窓から薔薇を見下ろしながら生きている気がする。
フィグネリアはつぶやきながら、振る舞われている薔薇果茶の華やかな香りが漂う広間に目を向ける。
喪章をつけた者や一様に黒で統一された女性達のドレスがなければ、ただの華やかな宴にしか見えないほどに賑やかだ。
涙を見せていたのはリリアぐらいだった気がする。イーゴルも涙は見せないものの、弔辞に訪れる者達に悲しげな表情を見せていた。
悲しむふたりの姿を見て、同じ気持ちを共有できないのは少し寂しい。
(だけれど私は、軍装を選んだ)
両親の葬儀は彼らの娘として黒のドレスで参列したが、パーヴェルを見送るには軍装にした。それが自分と彼との関係では最も相応しいと思った。
「フィグ、お疲れ様です……」
ぐったりとしたクロードがニカに付き添われてやってくる。彼は貴族の顔と名前の再確認のため、主従でザハールに面白半分で大広間内を連れ回されていたのだが、やっと休ませてもらえたらしい。
「お前の方が疲れているな。エリシンもご苦労だった。ふたりともゆっくりと茶でも飲んでいるといい。焼き菓子もある」
「いただきます。本当にすごい顔ぶれですよね……九公全員の他にも要人がいっぱい」
「アドロフ公の葬儀だからな。本当は二十人ほど覚えてくれればよかったのだが……」
「奥方とか嫡子とか含めて六十人ぐらい覚えさせられた気がします。明日まで全員覚えてられるかは難しいです」
茶をゆっくり飲みながらクロードは疲れたため息をもらす。
「イサエフ二等官もさすがに全部は覚えきれないと分かってるでしょう……ごちそうさまです。自分は外で控えています」
律儀に夫婦とは別の椅子に腰掛けているニカが、クロードが引き止めるのも丁重に断って部屋の外に行ってしまう。
「エリシンはできた侍従だな」
「真面目すぎて俺、たまに申し訳なくなりますけど。……とりあえず全員覚えて、できる主君になります……あ、リリアさんだ」
ハンカチで目元をぬぐいながらリリアが、夫であるデニスに背を支えられてやってきていた。
「もういや。お葬式では絶対泣かないって思ってたのに。お爺様のこと喋ってると……」
「無理をすることはない。子供らの前ではちゃんと泣かずにいられただろう」
言っている側からリリアが涙ぐんでデニスが慰める。
「リリアは一番アドロフ公に可愛がってもらってきていたからな」
フィグネリアは苦笑して睦まじい妹夫婦に声をかける。
「だから、最後のお別れぐらいは可愛く笑おうって決めてましたの。……お姉様のおかげで子供達の顔、見せてあげられてよかったわ」
今度はぐっとこらえてリリアが寂しげに言った。パーヴェルが身罷る半月前に一度ひ孫を見せに行っていたのだ。
母に一番よく似ているリリアが幸せそうにしているのを、死の間近に見られたパーヴェルは心安らかになれただろう。
「おお。全員集まってるな。皆、ご苦労だった!」
そして最後にイーゴルがやってくる。傍らには今日は黒のドレスのサンドラもいる。
「クロード大丈夫? 初めてで大変だったでしょう」
「義姉上に事前にすごく大変っていうのは聞いてたんで、覚悟だけはできてました」
いろんな人間が入れ替わり立ち替わり挨拶にやってくる大変さを、サンドラからこんこんと聞かされていたクロードが答える。
大がかりな式典行事に子供の頃から馴れている自分が説明するよりも、似た立場であるサンドラから言ってもらった方がクロードも分かりやすくて助かった。
「そう。でも急がしいのが終わってくると急に寂しくなってくるわね。あたしももう一回ぐらいアドロフ公と会いたかったわ」
席についたサンドラがしんみりと言って、イーゴルが寂しげにそうだなとうなずく。
ふたりは立場もありパーヴェルの余命がわずかであると知らされても、すぐに会いには行けなかった。
マラットが家督を継いだことを口実に、どうにか日程を組もうとしていた矢先の訃報だった。
「だが、お爺様が最後にフィグネリアのことを少しでも認めて下さってよかった」
「そうですわね……本当はお兄様もお姉様もみんな一緒でお爺様とお目にかかりたかったわ」
イーゴルとリリアが言うのにフィグネリアはだが、と広間で未だ多くの人間から弔辞を受ける現アドロフ公であるマラットへ目を向ける。
「マラット殿とはこれまで以上衝突することになりそうです」
政策の方向性が真逆なマラットとは、否応なしに揉めるだろう。
「お前と伯父上が真っ向から戦うと決めたなら致し方ない。力の限り戦い抜くといい」
イーゴルが重々しくうなずく。
武人は一度決めた勝負は引かない。そして第三者は止めない。この辺りは徹底した軍人気質の兄らしく割り切ってくれるので助かる。
クロードはこの辺りの頭の切り替え部分がいまだによく分からないらしいが。
「わたくしはお爺様がいたときと変わらない立場でいますわ。うう。もう駄目。子供達に会いに行ってくるわ」
また涙ぐみそうになったリリアがすくりと立ち上がり、王宮の方にいる子供らの所へ行くことを決めたらしかった。
そして妹夫婦が立ち去って、入れ替わりに近衛がマラットが呼んでいるとイーゴルとサンドラに告げに来る。
そしてあっという間に夫婦ふたりだけ残される。
「義兄上達はまだ忙しそうですね……」
「マラット殿も、皇帝陛下が自分側にいると印象づけておきたいだろうからな」
すでに広間は戦場だ。
九公それぞれを中心にして九つの輪が出来上がり、そして自分の周囲にも多くの人々が寄ってきていた。輪の中心にばかりいては全体が見えないので、ここに戻って来たのもある。
この先に九公のいずれかが覇権を取るか、あるいはフィグネリアが先帝と同じ位置に立つのか。人々は勝者が一体誰となるかの探り合いに熱中し、とうにパーヴェルは過去の存在に変わってしまっている。
フィグネリアはそう思って、もう彼はこの世界のどこにもいないのかと、薄ぼんやりとした実感がやってくる。
「皇女殿下。クロード殿下を貸して頂けませんか? 母方の祖母が殿下の笛が大変お気に召して話がしたいと言っていますので」
そしてザハールがやってきて、クロードがあからさまに嫌そうな顔をする。
「なんだ。おばあさまに気にいられるのは悪いことじゃないぞ」
「分かってます。前ガルシン公の奥方で、現ガルシン公のお母上。フィグ、もうちょっと頑張ってきます……」
クロードが茶を飲み干して立ち上がって、フィグネリアはひとりになる。
そして彼女もまた人々の輪に戻って行った。
***
「あれ、フィグどこに行ったんだろ……」
ザハールの祖母とお茶とお菓子を片手に談笑した後、クロードはフィグネリアの側に行こうと思ったが彼女はどこにもいなかった。
ついさっきまでまた多くの人に囲まれていたのに、いつの間にか消えてしまっている。休憩所の方に視線を向けても人垣で見えない。
側に控えていたニカもどこへ行ったか分からないらしい。
クロードは最後にフィグネリアを見た時に一緒にいた相手を見つけ訊ねてみる。
どうやら休憩所の方へと向かったらしかった。
「テラス、かな」
皇家の休憩所のさらに奥には確かテラスがあったはずで、この喧噪から抜けるにはそこまで行く必要がある。
クロードは休憩所にニカを残して目当ての場所へと進む。
女神アトゥスが運ぶ暖かな西風を孕んで大きく膨らんで揺れるカーテンの向こうに、フィグネリアの後ろ姿が見える。
「フィグ」
声をかけると柵に腕を置いて庭園を眺めていたフィグネリアが振り返る。
「どうした?」
「それはこっちの台詞です。どこにもいないから探しましたよ」
クロードは隣に並んで色とりどりの花が咲きこぼれる景色に目を細める。
この国の春も暖かく花がたくさん咲いていて美しい。陽射しのきらきらした光の粉をまとって、どの花も緑も誇らしげに息づいている。
「少しだけ、葬儀らしく故人を偲ぼうかと思ってな。そろそろ戻ろうかと思っていたところだ」
フィグネリアが微笑して言う。
「もうみんな別のことで頭がいっぱいですからね……」
葬儀の場ですでに覇権争いが始まっていて、あの熱気の中では確かに穏やかにとはいかない。
「私もだ。九公家への対抗策ばかり考えている。今確固としてあるのは覚悟のみ、だ。……これからまず十年持ちこたえなければならない」
フィグネリアの表情が決意に満ちたものに変わる。
ここから十年かけて彼女は帝位を手に入れる。その道程は険しいことに違いないとクロードは思う。
あの広間に詰める者達でほんの一部。だけれどすでに誰が敵となるのか、味方となるのかも見極めがつかない。
「そこを踏み越えても、まだ先は長いだろうな……クロード、共に苦労してくれるか?」
フィグネリアは悪戯めいた様子で訊ねてくる。
「苦労でも何でもします。フィグ……」
クロードは妻の手を取る。そうして結婚式で触れた親指にもう一度唇で触れる。
「たゆまぬ愛と幸福を捧げる、か」
結婚式の文言をフィグネリアが言葉ひとつひとつを噛みしめるようにつぶやいて、無垢な少女の笑みを見せる。
あの頃の自分の手には決して手に入らないと諦めていたものが全部目の前にあって、泣きたくなるぐらいに幸せだとクロードは思った。
「一緒にいるだけで愛も幸せも尽きないでしょう」
じゃれつくように軽く瞼にに口づけ、それから頬にも唇を当てる。
「そうだな。尽きそうにないな」
くすくすと笑い声を零す可愛らしい唇を食べて、見つめ合ってまた唇を重ねて。
吐息が解け合う度に、永遠を信じられる。
この先の長い変革の時代の中で、この想いだけは変わらないだろう。
そうして変わっていこうとクロードは強く思う。
これから帝位につくフィグネリアにとって、誰よりも信頼できる腹心となりたい。
「フィグ、愛してます。ずっと、ずっと」
クロードはもう一度愛を誓って、フィグネリアと口づけを交わした。
.エピローグ
婿入りして六度目の春を迎えたクロードは、アドロフ公との十日あまりに及ぶ会談を終えて王宮に帰ってきていた。その隣にはフィグネリアはいないが、後ろには侍従のニカが変わらず付き従っている。
「アランさん、留守役ありがとうございました」
王宮で出迎えてくれたアランにクロードは笑顔になる。
「いいえ。新参者でただ身元を預かってもらっているだけの私がこのような大役を仰せつかってよろしかったのでしょうか」
「だって、待機してもらってる人の中でアランさんが一番まともですし……むしろ面倒押しつけてすいません」
「いいえ。皆様方賑やかで面倒などとは」
穏やかに微笑するアランは半年前に役目を終えたものの、いまだに神官に戻れずに自分が身元を預かることになった。
ルスランが二年前に病で身罷って大神官長が代わり、新しい大神官長は俗世との関わりを嫌っていて約定は宙に浮いてしまっている。
「あ、向こうの神官長様にも会えました。伝言とか本当によかったんですか?」
「かまいません。あなた様の言葉だけで十分に私のことは伝わるでしょう。私のことより、早く皇女殿下の元へご報告をなさってください」
アランに促されてクロードは、廊下の先を進んでいく。そうしているとこの五年で増えた侍従達にねぎらわれてついでにもみくちゃにされて、土産を要求されてしまう。
「殿下はお疲れですので、そのあたりにしておいて下さい! 各自、命令があるまで政務室に待機!」
侍従筆頭としてますます頼りがいが出てきたニカの一言に、侍従達はおおむね素直に従う。
「俺が命令するより、ニカが怒る方が素直に聞くのはどうかと思う……」
「重要局面においてはきちんと聞いているから問題ないでしょう。あとのことは自分が引き受けます。では、自分も政務室の方で控えていますので」
「うん。ありがとう。お疲れ」
クロードはニカと別れていそいそと皇族の居住区へと移る。久しぶりの我が家の景色は初めて来た時から何も変わらず、気分が落ち着く。
この五年、うまくいかないこともあったし、思った以上のものも得られもした。
軍での銃の普及が整い、ロートムとの軍事力の拮抗がどうにか保てる見込みがついて、戦争の危機は多少薄らいで技術革新に弾みがつき始めた矢先にルスランが逝去した。
神殿側のよき理解者であった彼の死後は、何かと神殿との関係がややこしくなってしまっている。
その中で領地に戻っているザハールが去年から国内初の機織りの大量生産に向け、本格的に設備の準備を整えていて半年後には生産が始まることになった。
「後でザハールにも手紙書かないとな。でもまだ認めてはくれないんだろうな」
これで初勝利、というにはまだ遠いだろうがザハールに手が届くところまでは来た気がする。
それに彼から学んだことも多いので礼ぐらいはしておくつもりだ。
「あ、そっか。リリアさん遊びに来てるんだっけ」
フィグネリアがいる大広間に近づくと、賑やかな大勢の子供のはしゃぎ声が聞こえてくる。
「ただいま!」
扉を開くと広い部屋の床で七人の子供達が戯れていて、その中の赤毛の女の子が満面の笑みで駆け寄ってくる。
「父上様! おかえりなさいませ!」
「うん、ただいま。ローザに会えなくて寂しかったぞ」
三年前に産まれた長女のローザを抱き上げて、クロードはふわふわの頬に顔を寄せる。
全体的に柔らかい印象と髪色は自分によく似ているが、性格は利発でフィグネリアによく似ている。
この子が産まれて最初に抱いたとき、鈴の音が聞こえた。それから少し、妖精達の気配を年々感じなくなってきている。妖精王としての役目を終えて、次の代に繋がる準備ができはじめているからだろう。
いずれ妖精達を感じることがなくなると思うと寂しいが、彼らが消えるわけでもなくずっと側に居続けるのだ。その日が来てもきっと悲しくはない。
「クロード、私も寂しかったのだがな」
少し拗ねた声が聞こえて、クロードはローザを抱えたままそちら向かう。
夫の贔屓目とかではなく確実に美しさに磨きがかかっているフィグネリアが、ソファーの上で早くこっちへ来いと急かす。
そのおなかは大きく膨らんでいて、後少しでふたりめが産まれるのだ。
「俺もすっごく寂しかったですよ」
クロードはフィグネリアに口づけて、その隣に座って膝の上にはローザを乗せる。
そして妻の目を真っ直ぐに見て、笑みを浮かべる。
「マラット殿との交渉、上手く行きました。これで目標通り、再来年には試験が実施できますよ」
「よくやった。これからが重要だからな」
会談の目的は官吏登用制度の改革のためだった。この五年様々なことを必死で覚えて人材を増やし、どうにかこうにか具体的な案まで詰めることができた。
そして九公家にも何度も足を運んで、ひとまず少人数ながら官吏を試験で登用できることになった。ゆくゆくは全ての官吏を試験で採用し、最終的には民間からも登用するつもりだが、それはまだまだ遠い。
まずは最初の試験を成功させることに力を尽くさねばならない。
「……後、もう半分になったな」
ローザの髪を撫でながら、フィグネリアが感慨深げにつぶやく。
「この調子でいけば上手くいけそうですけどね」
あと五年でフィグネリアは帝位につく予定だ。
彼女も九公家と渡り合い改革に向けての先導となって、多くの主要貴族達を取り込んでいっている。
九公家派対反九公家派という対立構造も、保守派対改革推進派へと変化してきている。
血統と武力を重要視するのではなく、ありとあらゆる面で国を変えるべきか否かへと人々の意識が変わってきたのだ。
確実に時代の流れはフィグネリアが目指す方向へ向かっている。
「ますます気を引き締めねばな。ああ、そうだ。タラス殿が家督を継ぐことが決まったそうだ。これから謹慎を解いて、正式に公表する」
「よかった。あの人がいるなら助かりますね」
出来のいい嫡男を意地でも手放さなかったラピナ公の粘り勝ちとなったようだ。
「あっちでみんなと遊びます」
ただ膝の上にいるのに飽きてきたらしいローザが六人の従兄達の輪へと戻る。
内訳は五人がリリアの子で、そうしてもうひとりは四年前に産まれたイーゴルとサンドラの子だ。
周囲は相続問題が混乱することに渋面を作ったが、すでに正式にイーゴルが退位と臣籍降下を決め込んでいる。
立場上いろいろ面倒なこともあるが、やっと兄夫婦が待望の子を授かったことに家族全員で喜んだ。
「そういえばリリアさんと義姉上は?」
「ああ。ふたりで兄上とデニス殿を迎えに行った。狩りにでていてな……」
言っている側から馴染み深い足音が聞こえてきて、ふたりで顔を見合わせる。
「クロード、帰ったか! よくやったな。今日は祝いだ! おお、待て待て」
大鹿を持って返ってきたイーゴルに子供達が甲高い歓声をあげてまとわりつく。
「はいはい。みんな静かに! あ、クロードお帰り!」
「クロードお兄様、伯父様の相手大変だったでしょう。旦那様も大きな猪獲ってきましたたわよ。もう調理場に持っていっちゃってるけれど」
帰って早々本当に賑やかだと家族の顔ぶれにクロードは、幸せを噛みしめる。
「やっぱり我が家が一番ですね」
「そうだな……ん、と……」
フィグネリアがおなかをおさえて眉根を寄せる。
「フィグ、あれ、もしかして産まれ、そう……?」
「ああ。そのようだ」
「え、え。ちょっと、義姉上、赤ちゃんが産まれそうです! ど、どうしよう!?」
冷静に切り返してくるフィグネリアの反面で、クロードはあたふたとみんなのお母さんなサンドラに助けを求める。
そうして近くに控えている侍女やら産婆に付き添われて別室へとフィグネリアが連れて行かれたのだった。
***
それからすぐに次女を産んだフィグネリアは、産まれたばかりの娘を腕に抱いてクロードの笛の音に耳を澄ます。
祝福とありあまる幸せで満ちた音が部屋中を転がっていている。春の陽射しよりも暖かくきらびやかで、どんな花よりも鮮やかで美しい音色だ。
「ありがとう、クロード」
産まれたばかりの次女への最初の贈り物である演奏を終えた夫に、フィグネリアは微笑みかける。
「フィグもありがとうございます。それとお疲れ様です。ローザ、ほら妹だぞ」
「妹。私の妹。名前は? 名前は?」
興奮しきっている娘と、さあどうしようかと悩む夫の姿がたまらなく愛おしくて、笑みを絶やせない。
この五年、辛酸を嘗めることも多くあったが、愛も幸福も変わらずにここにある。
むしろ増えているぐらいだ。
「幸せだな」
つい言葉に出して、なんとなく面はゆい気分になる。
「はい。とっても」
そうしてごく自然に返してくる夫にますます幸福にさせられて、フィグネリアは満面の笑みをうかべたのだった。
終
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