薔薇の待ち人(初出2014.1.14/ビーズログ文庫)

プロローグ



 枕元で物音がして、パーヴェル・アドロフは夢から覚める。

 重たげに首をそちらへ向けて見えた銀髪の少女の後ろ姿は見覚えのあるものだった。それにこれは夢の続きなのだろうかと考える。

 彼女はサイドテーブルに飾られた橙色の薔薇の一輪挿しを見つめているらしい。

「……オリガ」

 名前を呼ぶと少女は目を丸くした後に寂しげに目を細めた。

「わたくしはお母様じゃなくてリリアよ、お爺様」

 お父様、という返事を待っていたパーヴェルはああ、と声なき声をもらす。

 ディシベリア帝国第二皇女で、現在は降嫁しバラノフ伯爵夫人である孫娘は見る度に母親に似てくる。違いといえば、勝ち気さが覗くところだろうか。

「マラットがお前を呼んだのか。余計なことを」

「伯父様もお爺様のことが心配なのよ。可愛い孫娘の顔を見たら回復も早くなるわ」

 明るく笑うリリアは、やはり三年前に身罷った娘のオリガによく似ていた。

「……神殿からいただいた薬を飲んで寝ていればすぐによくなる。子供らはどうした」

「ごめんなさい。今日は置いてきたわ。あら、孫娘よりひ孫の方がよかったかしら?」

「そうではない。母親はできるだけ子供の側にいなさい」

 十七の孫娘はすでに五人の子がいる。一番下の双子はまだ赤子で、上の三つ子とてまだふたつで母親がなくてはならない存在だ。

「はい。すぐに戻ります。だけどもう少しだけ、お爺様の側にいさせて」

 傍らの椅子に座るリリアの柔らかな声があまりにも娘に似ていて、パーヴェルは口を閉ざした。

 嫡男のマラットもこの頃はしきりにリリアはオリガに似ていると言う。妹を懐かしがっているだけではなく、浅はかな魂胆が見え透いていた。だからこそ老いさらばえながらも、家督を譲れないのだと息子は理解しようとしない。

「今年は薔薇が咲くのが遅かったのね。庭の薔薇園もまだ満開で綺麗だったわ」

 花瓶に目をやってリリアが言う。

「散らないのだ。その薔薇も五日はそこにある」

 瑞々しく八重の花弁を広げるこの薔薇は二日もすれば散ってしまうものだ。それなのに領内の薔薇たちは咲き続けていた。

 眼裏に焼き付いた記憶が鮮やかな色を湛えているように。

(だから、余計に思い出すのか……)

 リリアをオリガと見間違ったのは、似ているだけでなく、先ほど夢に見たからだった。この頃娘は夢のよく現れる。

「散らないのは困るわね……」

 パーヴェルはリリアの不安げな声を聞きながら再び微睡んでいく。

 夢と現の境目は薔薇の芳香に曖昧にぼやけていった。





 北の大帝国ディシベリアの王宮。皇族の居住区には死者のための部屋がある。

 第一皇女フィグネリアは久しぶりにそこに訪れていた。

 毎日侍女達が二度は手入れをする部屋は、寝台以外の調度品が並び全て白で統一されている。暖炉にも絶えず火が灯されていて、仄かに薔薇の香りが漂う。

 そうして壁には先代の皇帝夫妻の肖像画が掛かっている。

 五年前にここに掛かっていた先々帝夫妻の肖像画は、歴代の皇帝の肖像画が収められる奥の間に移された。変わりに父の絵が飾られて、三年前には夫妻ふたりの絵に変わった。

「……母上」

 フィグネリアは父の傍らでふんわりと微笑む少女に目を向ける。嫁いできたばかりの頃の絵だから、皇太后のオリガはまだ十五ぐらいだろう。

 緩くうねる銀髪に瑠璃色の瞳の母は、ひとつ年下の妹のリリアに似ている。瓜ふたつと言っていい。

 そうして自分は彼女と髪色こそは同じだが、面立ちや雰囲気は似ても似つかない。

 それは当然だった。自分と彼女は血の繋がりがないからだ。十年上の兄で現皇帝のイーゴルが政務に向いておらず、父がその補佐となる子を望んだが、オリガはなかなか第二子に恵まれず、側室を迎えて産まれたのが自分だ。

 しかし、実母は産まれてすぐに亡くなったので、フィグネリアにとって母というのはオリガだけだった。

「何をしに来たんだろうな、私は」

 フィグネリアは自嘲して側にある椅子に座る。なんとなしに来てしまったけれど、とりわけて用があるわけでもなかった。

「フィグ」

 じっと両親を見つめていると扉を叩く音と愛称を呼ぶ声がして、フィグネリアは笑顔の種類を明るいものに変える。

 部屋に入ってきたのは銅色の髪と琥珀の瞳の青年、夫のクロードだった。

「フィグがここにいるのって珍しいですね」

 クロードが傍らに立ってフィグネリアの顔を覗き込む。

「そうだな。うん。お前の母君の話を聞いていると、私も母上が懐かしくなってな」

 ひと月と少し前、リスに降りてしまった第二の真実を司る神霊ルーロッカが、王宮内で騒動を起こした。ルーロッカによってクロードは辛さのあまりに記憶の奥底に封じ込めていた、臨月間近の母親を失った前後のことを思い出さされた。

 彼がその頃のことぽつぽつと話すのに感化されて、フィグネリアも皇太后のことを思い起こす機会が増えていた。

「それに、そろそろアドロフ公から母上に贈り物が届く頃だから、ああ、ただ会いに来たかっただけだろうか」

 自分自身がここに来た理由を見つけ、フィグネリアは柑橘類に似た爽やかさを含む独特な薔薇の香りを吸い込む。

「そういえば、ここの薔薇の香りって皇太后様のご実家のアドロフ公領で作られる薔薇の香水でしたね。亡くなってからもずっと、香水と薔薇果茶を贈ってきてるんでしたっけ」

「ああ。いつも、直筆の手紙と一緒に。香水はリリアが子供の頃よくつけたがっていたな」

「フィグは?」

 肘掛けに置かれたフィグネリアの手に、クロードが自分の手を重ねる。

「私にはこういう香りは合わないだろう」

 それに、自分にはその資格もない。皇帝に次ぐ権威を持つ九公家の中核であるアドロフ公の娘である皇太后が生母の兄や妹と、出自が平民である側室が生母の自分は本来ならもっと区分をつけられるべきだったのだ。

 香水をつけるどころか、アドロフ公から贈られた薔薇果茶に母達と同じ席で口をつけることにすら躊躇いを覚えた。

『……そういう所はお母様似ね』

 少し寂しげに母がつぶやいたのはよく覚えている。ここに実母の絵姿がないのは、彼女自身が肖像画を描かれることを拒んだためらしかった。

「こういう香りもフィグに似合うと思うな。でも、なにもつけてなくてもフィグはいつもいい香りがしますよね」

「こら、くすぐったい」

 後ろからクロードが首元に顔を寄せて来て、フィグネリアは耳元や首筋に掛かる吐息のにくすくすと笑う。

 夫の表情を見ると、彼も同じように微笑んでいた。

「……それにしてもフィグは本当に先帝陛下に似てますよね。肖像画を見るまで先帝陛下は義兄上そっくりなのかなって思ってたけど」

 クロードが先帝の姿に目を向ける。

 若干二十で、国を傾ける先々帝を玉座から引きずり落とし、再建と同時に九公家中心の体制を変えていった賢帝エドゥアルト。

 彼はイーゴルほど大柄でなく、むしろ細身のクロードの体格に近い。整った面立ちと涼やかな目元がフィグネリアとよく似ていた。

「フィグは先帝陛下に似てて、リリアさんが皇太后様に似てて、義兄上は雰囲気がふたりに似てますよね。優しそうな感じと強そうな感じ」

「義兄上のお姿はアドロフ家の血が強いからな。前にも言ったが、アドロフ公の御嫡男に会えばすぐに分かる」

「あともう少しですね……。義兄上達はすんごく叱られたみたいだし、俺もすごく怒られそうです」

「私はともかく、お前はお叱りを受けることはないと思うがな」

 すでに気が引けているクロードにフィグネリアは苦笑する。

 四月前の九公家派対反九公家派の内乱騒動の報告のため、双方の会談の準備がやっと整った半月前にイーゴルとその妻のサンドラはアドロフ家へと訪問していた。揃ってみっちりと絞られたらしく、帰ってきたときはふたりとも疲れきっていた。

 そして今度は自分達の番だった。

 一緒に行きたかったのだが、内乱騒動に加えルーロッカを強く惹きつける一因になった、大規模な不正事件の事後処理もあり、王宮に皇族が不在というわけにもいかずで日程を別に組むことにしたのだ。

「まあ、向こうもそう会いたくはないだろうな」

 フィグネリアは自分と同じ薄水色の瞳の父と目を合わせる。

 アドロフ公は自分に並びうると先帝を認めて帝位につくのを後押しし、以前から婚約だけしていた末子で長女のオリガを嫁がせることを決めた。

 しかしながら九公中心の内政を変えんとした父と、旧い体制を重んじるアドロフ公とは上手く行かずにずっと睨み合ってきた。

 そんな父に容姿も政策も似ていて側妃の娘であるため、自分はアドロフ家から嫌われている。皇帝である兄に変わり、内政を統括することになってからは一層不興を買うことになった。

「だけどお互い会わなきゃならないって大変ですね……」

「公人としての立場がある以上仕方ない。そういえば、今日はエリシンと出かけるのではなかったのか?」

「あ、そうだ。ニカ、待たせたままだ。フィグ、じゃあ行ってきます」

「ああ。あまり遅くならないようにな」

 クロードが部屋の外にまで行くのについていって、フィグネリアは夫を見送る。

 広い廊下の隅では鳶色の髪の少年が膝をついて控えているのが見える。不正事件で神霊ルーロッカに目をつけられ紆余曲折を経て、クロードの侍従となったニカ・エリシンだ。

 ニカはクロードの侍従を務める傍ら、実家のエリシン男爵家の当主である父親と密に連絡を取り合い、傾いている財政の再建にも注力しと、よく働いている。

「ニカ、遅くなってごめん」

「いえ。まだ約束の時間まで余裕があるので問題ありません。殿下が皇女殿下のお側からなかなか離れられないのは予定に織り込み済みです」

「……うん。いろいろいろ理解してくれてありがとう」

 主従のやりとりを微笑ましく思いながら、フィグネリアは夫の姿を見つめる。

 婿に来たばかりの頃は読み書きができるぐらいだったクロードは、政務の手伝いが出来るまでになり、そうして過去を乗り越え自分の目標とよき侍従を得た。

 この頃は目標とする官吏の登用制度の改革のため、人脈や見識を広げようとニカの伝手で官吏の集まりに顔を出したりしている。

「……私は書類の確認でもしながら帰りを待つか」

 ふたりを見送った後に、フィグネリアは夫の成長を喜ぶ傍らにこっそりある寂しさをはぐらかし、寝室へと行くことにする。

 部屋を後にする時、フィグネリアは一度肖像画に向き直り両親に一礼して退出した。


***


 フィグネリアが政務を行う小宮では、いつも聞こえる笛の音とは少し違う音色が流れていた。

 応接室でクロードが吹いているのは、いつもの銀の横笛でなく木製の細い横笛だった。

 笛を持った感触をそのまま旋律に乗せ、クロードはしっとりとした雰囲気の演奏を終える。

「どうだ? 聞いている分にはいつもどおり素晴らしいものだが」

 ニカに笛を渡しながら、クロードはフィグネリアの問いに自分の胸の辺りを押さえる。

「ううん。いつもと違う笛だから違和感があるのは当然だけど、周りの妖精達は喜んでるからそんなに差があるとは思えないな……内側の方はどうなんだろう」

 万物には妖精が宿っている。彼らを従え動かすのは、地母神ギリルアを始めとして、彼女が産み落としたとされる数多の神霊達である。

 だが自分は人間でありながら妖精達を従えることができる妖精王と呼ばれる者だ。

 どうやら自分の一族の間では初代の妖精王の魂が引き継がれ、そこには笛に惹きつけられ数多の妖精が取り込まれていて、金の瞳を持つ者が新たな妖精王としての力を発露するということらしい。

「どうしてこの笛なんだろう。母上に教えてもらった記憶はないしなあ」

 クロードはいつもの先祖代々引き継いでいるという銀の横笛を、ニカから受け取って考え込む。

 自分のためでなくこの先自分の血を引き継ぐ未来のためにも、この妖精王としての力について知るためにまずはこの笛から取りかかることにした。

 この頃は思い出すままに母のことを口にして、その中に自然と笛のことが紛れ込んでいないか確認してみるものの、今の所はまだ見つけられていない。

「大神殿にあった神の楽士の伝承についても、笛のことは一切なかったからな……。だからこそ重要なのだろうが」

 妖精王、というのは周知されているものではない。一般的には神の楽士という伝承でしか伝わっていない。

 ルーロッカの騒動で、大神官長ルスランにこの力を明かし神殿にある資料を閲覧させてもらえることになったが、神の楽士の伝承はいくつもの種類があったものの、楽の音で妖精を従えるとしか記録はなかった。

「この間の集まりでもやはり具体的な楽器よりも、一族で楽団を組んでいた印象があるという話が多かったですよね。自分も同じ印象でした」

 ニカが言うのにクロードもうなずく。

「うん。いろんな所の出身の人がいて、微妙に話は違うけどそこだけはみんな同じだったよな」

 神の楽士というと、本当に子供の頃から誰でも知っている話らしくそれだけで驚きだった。そしてあちこちで妖精を鎮めただの、一緒に騒いでいただのという話が残っている。

 それなりに目立ちながらも、神霊をその身に降ろす大神子と違い神殿で崇め奉られることもなく、各地を流浪していたのは不思議だ。

「そちらの方も探っていたのか」

「あんまり聞き回ると怪しまれるから、この間の一回だけですよ。それと、この笛も珍しいみたいで俺の国にしかないものみたいに思われてました。似たのがあればそこから何か分かると思ったんですけど……」

 この国のどこかに自分の起源はあるはずなのだが、世代を重ねるごとに失われたいったことの片鱗も見えずにクロードは肩を落とす。

 そしてふと、フィグネリアが黙り込んでいることに気づいて不安になる。

 勝手すぎる行動だったのだろうか。

「あの、これって報告しないとまずかったですか? ある程度結果が出てからフィグに報告するつもりだったんですけど……」

 フィグネリアの手助けなしに何かひとつぐらいはやってみせて、安心してもらったり頼りがいを感じてもらったりしたかった。

 それと少し驚かせてもみせたかったのだが、これは悪い方に驚かせたのかもしれない。

「……いや。別に逐一報告する必要もない。よくやっていると感心していただけだ」

 引っかかる間を置いて、フィグネリアがそう言う。

 沈黙の意味が気にはなったものの、不機嫌というわけでもなさそうなので、クロードは言葉を素直に受け取って口元を緩める。

「まだ成果は出せてはいないですけどね。ニカにも場を作ってもらって、いっぱい手伝ってもらってるし」

 とはいえひとりではまず無理で、フィグネリアが持ち得ない人脈をニカの伝手でどうにか広げていこうとはしてみている。まだまだ、『胡散臭くて頼りない皇女殿下の婿』という評価は胡散臭いの部分が薄れてきたぐらいだが。

「主君に尽くすのは当然の勤めです」

 ニカが生真面目に言うのにも正直なところまだ慣れない。

 これまでは公子だから、或いは皇女の婿だからと形式的敬われるだけだったのだ。自分自身に忠を尽くされるというのは、むずむずとして落ち着かない。

「あ、それでですね、ナルフィス教関係の本って手に入りますか? 書庫は見たんですけど、さすがになくて……」

 クロードは気を取り直してフィグネリアに問う。

「それならお前の方が詳しいだろう」

「俺が知ってるのって、使徒様と悪魔の話、それと基本的な教義だけなんです。ディシベリアのあっちこちに俺のご先祖達の話が残ってるなら、神霊様みたいに形を変えて記録がないかなと思って」

 式典などで必要な最低限のことを頭で覚えるだけで、深くは学んでいない。

 ナルフィス教はロートムの国教だが、祖国のハンライダもロートム寄りで信仰は同じだ。

 この国の信仰とは真逆で神はひとりしかいないとされている。そして神霊と呼ぶものは災厄をもたらす妖精達を諫め払う使徒と、妖精達を操り人に害をなす悪魔のふたつに分けられる。

 幼い頃から妖精に慣れ親しむ自分は、この教義が好きではなかった。

 だからと言って学ばないのは愚かだったと、今さら後悔しても遅い。なんだろうと知識はあった方がいいと、このところよく思う。

「そちらから考えるのも悪くなさそうだが、ナルフィス教については、外交の時に信仰の違いで問題が起きないために、基本的な教義を学ぶぐらいだからな。お前が知っている以上のものはないと思う」

「そうですか……お客さん?」

 そう言って肩を落とした時、侍女から来客の知らせがあった。訪ねてきた人物の名にクロードはニカと一緒に身構える。

「ご歓談中失礼します。……君達はそろそろ僕に慣れてくれないかな」

 やってきたのは金糸の髪と深い藍色の瞳をした、優美な面立ちの青年だった。やたら尊大な雰囲気が漂う彼は、ザハール・イサエフ。

 九公家のひとつであるガルシン公の甥であり、法を司る律事の二等官を勤める官吏だ。そうしてルーロッカの騒動に巻き込まれ、自分の力を知り理解する人物でもある。

 理解してくれるのはいいが、クロードは彼が苦手だった。

「だって、いっつも意地悪してくるじゃないですか」

 ザハールは不正事件の間に技術革新などの改革の方針について、フィグネリアと意見が一致し、協力関係を結ぶことになった。

 そちらの話や他にも不正事件の事後処理や再発防止策の相談で、彼は小宮に度々顔を見せに来る。その合間にフィグネリアだけでなく自分とニカにもちょっかいをだしてくるのだ。

「僕は的確に君達主従の欠点を指摘して、能力の向上に貢献してあげているだけだ。変に悪く取らないでくれ」

 確かにその通りなわけだが、もうちょっと物には言い方があるのではと思う。

「イサエフ二等官、自分はよいのですが、クロード殿下にはもう少し敬意というものを持っていただけませんか」

 主君を庇いニカが前に出る。

「残念ながら、イサエフ家の三分の二の領地しかもたない弱小国の第六公子で、おまけに大した能力すらない彼に払う敬意はない」

「うう。そのうち絶対、一個ぐらいは勝ちます!」

 ザハールに気圧されながらも、どうにか踏みとどまってクロードは反論する。

「そのうち、というのはいくらでも結果を先延ばしできる言い方だ。もっと、明確に目標を定めてひとつずつ確実にこなさなければ僕をこすことはできないぞ。まずはこの前言っていた、登用制度の基礎知識がどれぐらい頭に入っているか確認させてもらおうか」

「それは、ニカといっぱい勉強したから入ってますよ。そうだよな」

「はい。成り立ちから、先帝陛下の改革による変化まできちんと学びました」

 とにかく口では絶対に勝てそうにないので、今はひたすら必要な知識を詰め込んでいって文句をつけられないようにするしかない。

(悔しいけど、こういうの思ったより楽しいんだなあ)

 最初はフィグネリアに褒めてもらえたり、喜んでもらえたりするのが嬉しかった学習も、この頃は自分自身の目標や対抗心なども含んできて、少し変わってきた気がする。

「ザハール、ナルフィス教について何か独自に資料を持っていたりはしないか?」

 不意にフィグネリアがザハールにそう尋ねた。

 技術革新に注力しているザハールは、ロートムとディシベリアの信仰の違いについても注目している。

 彼ならそれなりに調べているのかもしれないと、クロードは期待してみる。

「残念ながら、そういうものはありませんね。あれは司祭の教えと教本が一緒でないとあまり意味がないでしょう。司祭のための教本はさすがに手に入れるのは難しいので。そもそも、そこに教義を受けた人間がいるでしょう」

 ザハールに視線を向けられたクロードは、資料が欲しい理由を告げる。

「なるほど。君自身もそう詳しくない訳か。その笛を継承する基準は知りたいな。一族、というには多くの血縁で固まっていただろうに、誰の子孫が新たな王の親となると分かったんだろうな。それに、引き継がなかった血族はどうなるか。興味はつきないな」

「ああ、そうですよね。俺の遠い血縁ってこの国にいたりする可能性があるんですよね。会ってみたいな……」

 クロードは笛に自分の姿を映してつぶやく。この国のどこかに遠くとも母と繋がる人がいるなら、ひと目でも見てみたい気がする。

「お前の母君は、特に血縁については話さなかったのだったな」

「はい。俺のおばあさまにあたる人が引き継いでたってことしか聞いたことないですね。母上が侍女になって王宮に上がるまでのことも聞いたことがないし、俺は自分が知ってる母上しか知らないんです」

 故郷という言葉を母から聞いたことはなかったはずだ。それどころか家族の話もしなかった。かろうじて祖母の話を聞いたことだけ覚えている。

 だからディシベリア帝国と自分に繋がりがあることも、まったく知らずにいたのだ。

「君の話を聞く限りだと、王以外は女性が受け継ぐように思えるが二代だけだから、判断は仕切れないか」

「結局まだ確かなことはなんにも分からないんですよね」

 結論としてはそれで、クロードはため息をひとつ零して笛を胸ポケットへしまう。

「それで、お前の用件はなんなんだ?」

 フィグネリアが首を傾げて、クロードもニカと共にザハールを見上げる。

「今年は薔薇の実の収穫が遅れていることについて、神殿から相談というのは?」

「収穫が去年より遅れているのは知っているが、これぐらいのずれならば珍しいことでもない」

 だから今はまだ朝議でも重大な問題として取り上げられてはいないと、クロードは簡易報告のみだった一昨日の朝議を思い出す。

「通常二日で散る薔薇が開花したままだと、今日報告があったらしく、産事で話題になっていました。五日ほどという報告だから、まだ咲いているとしたら今日で七日ですね。報告は午後の朝議のつもりなのかもしれません」

 ザハールに告げられたことに、クロードは目を瞬かせる。

「もしかしなくても神霊様っぽいですね……」

 神霊は本来ならば大神殿にいる大神子に降りてくるのだが、現在は自分の存在によって神界と人間界の境界が歪み、その限りではなくなっている。

 ルーロッカのように騒動を起こしたがる神霊も多くいるので、あまりよい事態ではない

「そういうことはすぐにでも報告してもらわねば困る……しかし、それはこちらの領分ではないからか」

 フィグネリアが頬杖をついて、目元に長い睫で物憂げな影を作った。

 報告されたからと言っても、実がつかないこと事態への対処はできない。できるのは国外でも広く好まれている、薔薇の実から作る茶などの出荷の遅れによる経済的な問題への対処だけだ。

「アドロフ公領の薔薇って起源は神霊様が関わってましたよね。それで薔薇の実って、神殿で薬の材料にも使われてるんでしたっけ」

 ディシベリア帝国内で医療を行うのは神殿だ。薬師もいるが、それもまた神殿で学び許可を得なければならない。そして特に効能の高い薬の材料は神殿からしか手に入らないという。

「薬効が高く、アドロフ公領でしかとれない貴重なものだから神殿もお困りだろうな」

「ですよね。こういうことがあったら大神殿に相談があるはずだし、神霊様が関わっているなら、妖精の様子もおかしいだろうから、ルスラン大神官長様から相談がありそうですけど……大神子様に神霊様が降りてて解決はしそうなのかな」

 気ままで人間の都合には絶対に合わせてくれない神霊が多く、神殿側も大変だろうがどうにか話ができてきたのかもしれない。

「そうだといいが、書簡を出しておいたほうがいいな。ザハール、知らせてくれて助かった。留守の間のことも、頼んだ」

「皇女殿下が不在の隙を狙ってよからぬことを画策する者がいないか、皇帝陛下の身の周りには注意しますが、私も忙しいので目が行き届かないこともあるかと思いますよ」

「あれ、律事が担当してる面倒な事って今ありましたっけ?」

 げんなりした様子のザハールに、クロードは考えながら問う。

「君、密偵が銃以外に密輸していたものがないかの調査のための、神殿側の書類が一昨日届いただろう」

 内乱騒動には敵対国であるロートムも絡んでいて、その密偵が神殿に神官としていて潜りこんでいた。そして神殿に運ばれる荷物に検閲がかからないことを利用し、銃が大量に密輸されていたのだ。

 調査をするにも神殿からの協力が必要で、その手続きに時間がかかっていた。

「ああ。そういえば、そういうのもありましたね。すごい量だって聞きましたけど、そんなに大変なんですか?」

 内乱騒動の時に『検閲されない荷物』として、王宮から神殿へと拉致されたクロードが尋ねる。

「律事、外事、産事総員でとりかかっているよ。全く関係ないものまで一緒くたにされているから、その選別だけで重労働だ。密偵も自分が関わったもの以外は分からないらしいし、これ以外方法がないんだ」

「希少性が高く、ロートムでも活用が可能と思われそうなものから調べるようにはしているが、それでも膨大だからな。帰ってくる頃までに、何かひとつぐらい出ればいいが」

 なんにせよ、内乱騒動の実質の収束がつくのは、まだまだ先だろう。

「いろいろやらなきゃいけないことあるけど、俺達はまずアドロフ公にお騒がせして申し訳ありませんって言いにいかないとですね……ニカもアドロフ公には会ったことないんだよな」

「遠目に一度お姿を拝見しただけです。自分は場違いではないだろうかと、いまだに思うのですが」

 とはいえニカも侍従として、そして初対面の緊張を共にする友人として一緒にいてもらわないと困る。

「滞在は二日程度だ。お前達はそこまで気負うこともない」

 クロードは苦笑しているフィグネリアを見つめ、そういうわけにもいかないと思う。

 自分は彼女の夫なのだ。妻に恥を欠かせないために、しゃんとして情けないところを見せないように心がけていないといけない。

「君達は黙って皇女殿下に従っていれば問題ないだろう。皇女殿下のおまけにすぎない弱小国の公子と、没落しかけの男爵家嫡男は視界にも入れないはずだから安心していい」

「それはそれで嫌ですよ……」

 ザハールの辛辣な言葉にクロードはむくれてそう言う。だがその可能性は高いと思うと声に力は入らなかった。

(だって、フィグの方がずっと凄いんだもんなあ)

 官吏らの集まりに行くと、やはりフィグネリアに対する期待の声は大きかった。そしてその裏には偉大な先帝の影がある。

 クロードは肖像画の先帝と同じ、フィグネリアの英明な薄青の瞳に目を向ける。

 誰もが先帝の遺志を引き継ぎ実現させるのは、彼女だと硬く信じて同じ夢を見ている。

「なんだ?」

 見つめられて戸惑いをみせるフィグネリアは、まだ幼い雰囲気が垣間見えた。

「……フィグはやっぱり可愛いなあ、と改めて思って」

「お前は真面目に緊張していたかと思えば、まったく……」

 相当な不意打ちだったらしく、フィグネリアが白い頬を染めて珍しく動揺を見せた。

 こんな可愛い人に、あんなにたくさんの期待がかかっている。だから自分はもっときちんと、支えにならないといけない。

「君はアドロフ公の前でもその調子で皇女殿下を困らせないように。エリシン君もしっかり主君の面倒を見ておくことだ」

 ザハールの呆れた声に、クロードはニカと目配せする。

 お互いいろいろな意味で不安そうだった。

(アドロフ公か……)

 すでにたくさんの人から先帝と拮抗して対立できた唯一の人物として聞いているが、まだ具体的な姿などは知らない。

 クロードは緊張と畏れに、気持ちがまた逃げ腰になってくる。

 そしてそんな自分を奮い立たせるために、可愛い妻の横顔を盗み見るのだった。

 

***


 その日の午後、朝議で数日王宮を離れることの間のことの最終調整を行い、フィグネリアはクロードと共に居住区の一室へと向かっていた。

「大臣達は不安そうでしたね。文句言ってる人もやっぱりフィグがいた方がいいって思ってるんでしょうね」

 いよいよやってくる長期のフィグネリア不在に、表情を曇らせる大臣達を思いだしてクロードが嬉しそうに笑う。

「そう思ってもらえているならいいがな。まあ、お前も多少は朝議で発言ができるようになったし、書記官の役目はエリシンにでも譲ってもいいか」

「記録取る仕事がなくなったら、俺、今より朝議で喋らなきゃならなく気がするんですけど……」

「大丈夫だろう。大臣達もお前の話は聞いているしな」

 黙々と自分の横で朝議の記録をとるばかりだったクロードも、じわじわと話し合いの場に入れてきている。その言葉はどれも的を外すこともなく、大臣達も無視せずに耳に入れていた。

「でも、まだやっぱりちょっと恐いです。あ、ありがとうございます。フィグ、神殿から返事ですよ。あとリリアさんからも」

 目的の部屋にちょうどたどりついた時、使用人が急ぎの書簡を届けにきてクロードが受け取った。フィグネリアは神殿からの薄い封筒に嫌な予感がしつつ、席についてから開封する。 

「薔薇については神殿側でも不明か」

 神殿側で事情を説明してくれる神霊が降りてくるのを、もう少し待つつもりだったらしい。しかしちょうど行く用事があるなら、実際クロードに見てもらった方が助かるとのことだ。

 神霊が降りてきているのなら、ルスラン大神官長が後は上手く誤魔化してくれるらしい。

「でも、俺達も二日ぐらいしか向こうにいられないですよね」

「実質一日ないぐらいだからな。余計な厄介事に首を突っ込むこともない。神霊様が関わっているかどうかの判別をして、後は大神官長様にお任せした方がいいだろう。お前は理由を探る程度でいい」

 二日かけてアドロフ公家へ向かい、到着したその日に会談をして翌日の朝には岐路につく予定だった。

 王宮を長く空けるわけにもいかず、向こうも長居はして欲しくないだろうと考慮した上で、慌ただしいそんな日程になった。

「会談はそれほど役に立てそうにないけど、そっちでは頑張ります……と、義兄上達来ましたね」

 すでにこの件に関しては諦観した様子でクロードがそう言い、地響きに似た大きな足音に姿勢を正す。それからすぐにイーゴルとサンドラがやってきた。

「待たせたな。お爺様の所に行く件についてはもう準備は滞りないか。俺達の方がお前のいない間上手く立ち回れるか不安もあるが」

「フィグがいないのって初めてなのよね……。あたしもちょっと今から恐いわ」

 帝位について五年。フィグネリアの助言なしで政務を執り行ったことのないふたりは、少々どころでなく自信なさげだった。

「それほど面倒な案件も今はありませんし、必要なことは書面にまとめてありますので、これまでと同じく、それを元に政務を進めていただければ問題ありません」

 兄達に政務の内容をかみ砕いて説明し理解してもらい、朝議の方向性の助言をするというやり方で、五年間だましだましながらもやってこられたのだ。

 五日程度ならそこまで心配はしていない。今は自分も多少は大臣に釘を刺せているし、ザハールも引き受けた以上は周囲に目を光らせてくれるのも心強い。

「ただ私達の方が、もうひとつ面倒なことがあって……」

 フィグネリアが薔薇について話すと、ふたりとも心配そうに表情を曇らせた。

「心配しなくてもなにかあった時は俺が頑張ります」

 クロードが義兄夫婦の不安を解消しようと、いつもより強い口調で念を押す。ふたりはまだ心配げだったものの、なにやら視線だけで相談し始める。

「……あの、神霊様も大変だけど、ね。えっと、イーゴルがマラット様と大喧嘩しちゃったりしてるから、そっちもちょっと大変かも」

 そして気まずそうにサンドラが次期アドロフ公の名前を出し、フィグネリアは兄を見る。

「あれは伯父上が悪いのだ。相談もなく、フィグネリアに婿を取ったことは逸りすぎたと認めるが、クロードは俺がフィグネリアに贈った誕生祝いのなかでも、一番のものだったと自負している。それにフィグネリアに政務を任せても問題ないというのに、お前のことを悪く言うから」

 思い出しついでに不機嫌になっていくイーゴルにフィグネリアはああ、と納得する。

 アドロフ家の嫡男でイーゴルとリリアの伯父にあたるマラットは、とにかく血の気の多く血統を重んじる、典型的なディシベリアの男だ。

 昔からマラットには特に直接暴言を吐かれることもあった。その度に母が諫め、兄が怒るのだ。

「ああ、ごめん。やっぱり早めに言っとくべきだったわよね。ただでさえ緊張してるのに追い打ちかけちゃって本当にごめん」

「クロード、すまん」

 表情が固まってしまったクロードにサンドラが勢いよく謝り倒して、イーゴルもおろおろと謝罪する。

「大丈夫です。フィグの旦那様ならこれぐらい、平気じゃないと駄目だし。……マラット様ってそんなに恐いんですか?」

 クロードが強張った笑顔で問うてきて、フィグネリアはそっと目を逸らす。

「よく怒鳴る程度なので、慣れればたいしたことはない」

「そうそう。声の大きさはイーゴルぐらいだし、すぐに慣れるわよ。それに、あたしと違って一国の公子様だからそこまで言われることはないと思うわよ」

 名ばかり貴族のサンドラが賢明にクロードを励ます。

 彼女の生家は森の番人を務めていた経緯で爵位をもらったに過ぎず、領地は広大な森のみで領民は二十人足らず。領主というより猟師のまとめ役にすぎない。

 熊を獲りに行ってなぜか嫁を見つけてきたイーゴルに対して、マラットも当時散々文句を言っていた。

「いや、俺も大した身分じゃないですよ。気持ちとしては義姉上と変わらないです。こんな大きな国の皇族のところにお婿に行くなんてありえなかったんですから」

「ありえないっていうのはあたしも今でも思うことあるわ……」

 思いがけない縁によって、下位から大帝国の皇族の伴侶となってしまったふたりは、お互い顔を見合わせてしみじみとうなずきあう。

「それにしても、伯父上の血統主義もいきすぎるきらいがあるからな……フィグネリアのこともいつまでたっても毛嫌いする」

 そんなふたりを見つつ、イーゴルが憤然と腕を組む。

「あたしがこんなのは怒られても仕方ないけど、フィグはなんにも責められる所がないわよね。そろそろ、あの人もフィグのこと可愛いって思ってくれたらいいのに」

「そうだな。お爺様もあいまりよい顔をしてくれん。……やはり、俺が一緒行くかリリアの都合のつく日がよかったのではないか?」

「いえ。それはご心配なく。そうだ、リリアからも手紙が届いています」

 フィグネリアはイーゴルの言葉でリリアから手紙を開封していないことを思い出し、仄かに薔薇の香りがする封筒を開ける。

 中身はアドロフ公の体調不良と散らない薔薇についてだった。

「お爺様はまたお倒れになったのか……。俺達が訪問したときは以前より体調がよさげだったのだがな」

「そうよね。あたしらすんごく怒られたし。というか、そのせいで気力使い果たしちゃったとかだったらどうしよう……」

 手紙を揃って読んでいた兄夫婦が、パーヴェルが倒れてリリアが見舞った所のあたりで落ち込む。

「アドロフ公も御年七十二で、以前から体調はあまりよくありませんでしたから。年齢によるものでしょう」

 表沙汰にはされていないが、パーヴェルは二年ほど前から幾度か寝ついている。起き上がれていても、健康と呼べる状態ではない。

 政務のほとんどはマラットが行い、パーヴェルがそれを監督している状況になっている。代替わりもそう遠くないだろう。

「……とはいえ、お爺様をあまり心配をかけたくはないがな、会談の延期もされるつもりはないようだな」

「ええ。マラット殿がその分取り仕切るのかも知れませんが……」

 まだパーヴェルはまともに会話ができるが、相手がマラットのみとなるとこじれるかもしれない。

「あれ、御嫡男ひとりだけの方が大変……?」

 話を聞いていたクロードが琥珀の瞳を心許なさげに震わせる。

「ああ。マラット殿に私は全く好かれていないからな。この分だと私の夫というだけで、必要以上に難癖をつけられるかもしれんが、こらえてくれ」

「…………むしろフィグを護れるぐらいに頑張りたいです」

 そう言い切る夫には不安の色も怯えもなく、珍しく頼もしく見えた。

 実際マラットと会えばやはり体格差にめげそうだが、とフィグネリアは背格好のよく似ているイーゴルをちらりと見る。

「クロード、頼んだぞ。お前は本当にいい義弟だ!」

「はい、頼まれます!」

 イーゴルに期待の目を向けられて、クロードがさらに意気込む。

 正直な気持ちを言えば、自分もパーヴェルに会うのが恐い。

 父の政務を引き次いで五年。その間顔を合せたのもたった三度で、最後にあったのは母の葬儀で三年も前だ。

 怯んだのを見透かされ、口を利く前に自分はパーヴェルに優位に立たれた。向き合う前に、すでに負けていた。

 父の政務を引き継ぐ上で最も重要な、九公家の中核であるアドロフ公と今度こそは上手く渡り合わなければならない。

 フィグネリアは重圧に気を重くしながら、なにやら気合いの入れ方で盛り上がっている夫と兄に、ふっと肩の力を抜く。

 仲のいい義理兄弟の姿をみていると少しぐらいは気持ちが和らいだ。





 ぱたぱたと軽やかな足音がする。

 目を閉じているパーヴェルにはその音が現実なのか夢なのか分からない。

「お父様」

 もうこの世界のどこにもいない明るい少女の声が聞こえてきて、現実ではないことを知る。

 だが薔薇の香りが絡みつく夢は、あまりにも現実めいている。

 薄緑のレースで飾られた淡い桃色のドレスを纏った、十三の頃のオリガは手を伸ばせば容易く触れられる場所で記憶のまま佇んでいる。

「皇太子殿下がもうすぐお見えになるのでしょう」

 期待と不安を織り交ぜた表情を浮かべる瑠璃の瞳。そこには老いた自分ではなく、まだ白髪が銀髪だった頃の姿が映っている。

「ああ。そう遠くないうちに嫁ぐ相手だ。顔ぐらいは知っておかねばならんだろう」

「ええ。早くお目にかかりたいわ。どんな方なのか、お父様は知っておいででしょう。好きな色は何かしら。ドレスの色を早く決めたいの。どんなお話をすれば喜んでくださるかしら。……わたくしのことは気にいってくださるかしら」

 ふわふわとして夢の中で生きているような娘だった。

 自分が求めるのはもう少し聡い子だったのだが、その在り方は好ましくもあった。

「あまり、期待はせずにいなさい」

「でも、お父様が選んでくださった方だもの。素敵な方なのでしょう」

 どこまでも無邪気に問いかけてくる姿に、自分が何を答えたか、思い出せなかった。


***


 王宮を出立して予定通り二日後。フィグネリア達はアドロフ公領の城下街にたどり着いていた。

「やっとだな」

「はい。これってもう街中ですよね……」

 クロードが馬車の窓から煉瓦の街並みを見つめながら聞いてくる。

 丘陵地に煉瓦造りの家々が所狭しと並んでいるのだが、小さな馬車の窓からは全体像がよく見えない。

「サンガルン大戦で敵を苦戦させた要塞の街っていっても、帝都とあんまり変わらないな」

「実際に降りてみないと分からないみたいですね。殿下、たぶんあれが例の塔ですよ」

 今日は予定の確認のために同じ馬車に乗っているニカが、窓の外を指し示す。

「あ、あの窓から弓を使うんだよな。一定間隔にあるから……次のもあった」

 なにやらアドロフ公領の中心都市について、主従は歴史と建築とそれぞれ興味津々らしく代わり映えのない景色でも楽しそうだ。

(史学好きがよく分からん方向へ向かいだしたな。退屈しないのはいいが)

 道中も夫がかつての大戦の決戦の場となった雪原を目を輝かせて眺めていたのを思い出して、フィグネリアは苦笑する。

「もうすぐ城に着くぞ」

 一番広い通りを進んでいけば家並みは少しずつ眼下へと下がっていく。やがて丘を登り切ったところで、小山にも見えるどっしりとした赤茶色の石造りの城が見えてくる。

 その段階になると、クロードにも緊張の色が見えた。

 一度馬車が止まり、門扉が開かれて一行は城内へ通された。城の入り口までの道の両脇には、白く細い柱が林立していて薔薇が絡みついている。

 どれも真白い景色の中に鮮やかな橙の色彩を咲かせている。

「散っていないな……」

 昨日宿で聞いた話でまだ花弁一枚として落とさないと聞いてはいた。しかし今日になれば、と僅かながらも希望を抱いていたのでフィグネリアは落胆する。

「クロード、何か感じるか?」

「違和感は、あります。でもラウキル様とかルーロッカ様の時とちょっと違うかな。薔薇に近づいてみればもっとよく分かると思います」

「違うのですか……」

 ニカが不思議そうにつぶやくのに、クロードは首を横に傾ける。

「妖精達が全部支配されてるわけじゃなくて、なんだろう。もっと穏やかなんだ」

「感覚的すぎてよく分からんが、悪戯の類ではなさそうなのか」

「はい。あとでちゃんと繋がってみます」

 クロードがそう言ったところでちょうど馬車がまた止まった。城の玄関までたどり着いたらしく、扉が開かれて中に冷気が吹き込んでくる。

「大きい……それにかっこいい!」

「はい。立派な要塞です……!」

 馬車から降りて外に出た主従が揃って城を見上げて感嘆した。帝都の王宮は外観の美しさにも重点を置いているが、この城は無骨で本来の砦としての役目のみで無駄がない。

 放っておくといつまでもその場にいそうな二人を促し、城の大広間へと進むと使用人達が揃って膝を折り三人を出迎える。

 フィグネリアが夫の様子をちらりと見ると一斉に傅かれたことに、戸惑い緊張しているのが分かった。

 そしてそれからすぐに、馴染み深い地響き似た足音にクロードが目を瞬かせる。

「クロード、マラット殿がおいでになる」

 小声でフィグネリアが言うのにクロードが身を堅くし、三歩後ろにいるニカが膝をついて待機する。

「フィグネリア! やっと謝罪にきたか!」

 大広間に耳の奥が痛むほどの声が轟いて、この城を思わせるがっちりとした体格の大柄な壮年の男が肩を怒らせてやってくる。

 白髪交じりの銀髪の男、マラットの姿にクロードが唖然としているのが分かる。

「直接にてのお詫びが遅くなり、誠に申し訳ありません。隣にいるのが先頃ハンライダ公国より婿に迎えたクロードです」

「い、以後お見知りおきを……」

 フィグネリアが頭を垂れると、クロードもそれに倣って慌てて頭を下げる。

「貧弱そうなこれがか。本当に、イーゴルが選んだのだな」

 マラットが鼻に皺を寄せて高みからクロードを見下ろして憤然とする。

「ええ。兄上がお選びくださりました。アドロフ公にもご挨拶をしたいのですが……」

 さらりと嘘をつきながら、フィグネリアは話題を別へ逸らす。

「父上はお休みになっておられる。どうせリリアから聞いているのだろう」

「ええ。お加減が悪いとは聞いております。会談の延期もなかったので快方に向かわれているのかと」

「あらかたは書簡とイーゴルの報告で分かっている。お前側の弁明をきくだけで俺ひとりでも問題はない。さっさとついていこい!」

 これはひたすらどやさられて終わりだろうと、フィグネリアは先に歩き始めたマラットの後を追う。

「遅い! もっと早く着いてこい!」

 そしてどんどん先に進んでいたマラットが振り返って叱咤し、三人も歩幅を広げる。

「フィグ、話通じなさそうなんですけど……」

「黙って大人しく聞いていればいい」

 フィグネリアはクロードと話しつつ、そのまま奥へと通されて先の内乱騒動の件について会談を行うことになった。

 通された部屋はさほど広くなく、岩を削りだして出来たテーブルと椅子が中央に置かれている。

 フィグネリアはマラットと向かい会う形で座らされる。

 そして内乱騒動の件をフィグネリアが粛々と詫び、時折マラットの罵声が轟くばかりだった。

「なぜお前が政務の統括を行う!」

「軍務と政務を分割して統括することで体制の立て直しと強化を図ることとなりました。陛下は軍務に秀でておいでなので、私は政務を預かることとなった次第です。全ての決定は陛下のご意志によるものであり、私は一臣下としてご命令に従ったまでです」

 おそらくイーゴルが『自分は軍務しかできないので政務はフィグネリアに任せることにした』ですませたことを、フィグネリアは回りくどく説明する。

「お前がイーゴルを唆したのだろう。例え内乱に関わっていなかったにしてもだ! そもそも、お前のような血統の卑しい側妃の子が、正妃の嫡子を差し置いて政を行うなど、本来ならばあってはならんことだ!」

 露骨なマラットの中傷に、クロードが眉を顰めるのが見えた。夫が口を開く前にフィグネリアは大丈夫だと、テーブルの下で彼の指先に触れる。

「私には過ぎた役目ということは承知しております。しかしこれは皇帝陛下の決定であり、それと同時に先帝陛下のご遺志でもあります。私が先帝陛下より政の術を教えていただいたのは、ディシベリア建国の要である武力の強化のためでもあります。皇帝陛下が軍務にできるだけ専念されるには、政務の負担を減らすべきではとお考えでした」

 嘘八百を真顔で堂々と並べ立てる妻を、クロードが何とも言いがたい表情をして横目で見る。

「しかしながら、私が必要以上に陛下の影に隠れすぎたために意図が正しく伝わりづらく、混乱を招く事態を多く生みました。この状況を改善し、なおかつ皇帝陛下が軍務に専念されるには、私が政務を統括するのが最善というのが陛下の判断です。全ては軍事力強化のためとなります。どうか、ご理解ください」

 マラットに口を挟ませることなく、フィグネリアは最後まで言い切った。

「……軍務に介入する心づもりは一切ないな」

 強い語調で迫られてもちろんとうなずく。

「私の方から余計な口を出すことはいたしません。ただしひとつだけ、陛下がロートムの銃に関心を持たれているのでそちらの協力だけさせていただいています」

 マラットが不機嫌そうながらも、先ほどよりかは幾分かは軟化した態度でうなずく。

「それはかまわん。イーゴルが実際攻撃を受けて脅威と思うなら、それは事実だろう。ただしそちらもある程度実用の準備が整ったなら、関わるな」

「ええ。実用できるようになれば、私よりも陛下の方が上手く扱われるでしょうので、全て任せます」

 ようやく先の話に移れたことに一息ついて、フィグネリアは今後の体制についての仔細や、不正事件で関わった九公家縁者の処理について話を進めていく。

 その間にもやはり何度も話が逸れては怒鳴り声が響きはしたものの、どうにか日が暮れるまでには会談を無事に終えることができた。

 そうして、最後までアドロフ家当主のパーヴェルが姿を見せることもなかった。


***

 

 会談後、クロードは案内された城の裏庭に建つ来客用の離れを見上げて、ここも大きいと感嘆する。

 離れといっても煉瓦造りで二階建ての建物は、城下で見た民家三つ分はあるのではないだろうかという大きさだ。ニカの、当たり前だけど実家より立派だという悲しいつぶやきが聞こえる。

「これで来客用って……」

 クロードは開いた口が塞がらない状態だった。

 先に荷ほどきなどをしていた同行の侍女達に迎えられた入った中は、さらに萎縮してしまいそうなものだった。

 見るからに高級そうな絨毯、タペストリーなどの調度品が並び、どれも手入れがされて埃ひとつ見えない。来客のためだけとは思えない手のかけようだ。

「クロード、私達は皇族だからな」

「あ、そうですよね。最上級のおもてなしをされる立場なんだ……」

 クロードはこういう所だ駄目なのだとひっそり落ち込む。これが当然という立場だとまだ思えないのは、皇女の婿としての自覚が足りないからだろう。

 暖炉に火が灯され暖められている広間に案内されて、やっと落ち着ける状態になった。

「ニカも座っていいからな。ずっと立ちっぱなしで辛かっただろうし」

 クロードは律儀に会談の時と同じく扉の前で控えていようとするニカを、ソファーの自分の隣へと座らせる。

「ふたりとも、よくやった。あとは帰るだけだ。疲れただろうから、ゆっくり休むといい」

 向かいに座ってそう言うフィグネリアが、一番疲れていそうだった。

 自分は発言はできずにほぼ挨拶のみで終了してしまい、会談ではフィグネリアひとりがマラットと話し合っていた。

「一番頑張ってたのフィグですけどね……マラット様は義兄上に似てるのに、全然似てなくて、フィグのこと全然分かってないし。俺は見てるしかできないし」

 マラットの罵声は大抵が理不尽で、血筋に関することは不快なものでしかない。文句のひとつでもつけたかったのに、フィグネリアに制止されて我慢するしかなかった。

 外見から声の大きさまでイーゴルと似ているのに、あそこまで真逆だとは驚いた。

「こちらも感情的になっていては、いつまでたっても話し合いは終わらん。マラット殿に対しては徹底的に自分を下に置いて、冷静に話をすることが重要だ。それとできるだけ軍事方面に重点をおいて持っていくことだな。そこを抑えておけば話を前へ進められる」

 フィグネリアの説明に、クロードは会談のやりとりを思い出す。ただやはりマラットのあの罵声ばかりに気が行きすぎて、正確には記憶できていない。

 まさしく感情に気を取られて、大事なことを把握し切れていなかった。

「交渉は感情的になったら確実に負ける。常に相手の特性を見極めて進めなければならん。朝議でも同じだな。大臣全員をまとめて相手にするのでなく、ひとりずつに注目していく。各大臣の特性や、自分が話しやすい相手は書記をしている内に分かってきただろう」

 発言はしない代わりに、朝議の内容や各大臣の反応の様子も記録していたクロードは、こくりと首を縦に振る。

「みんなすごく優秀だけど、すぐに怒る人とか、優柔不断なところもある人とかいろいろいますよね。あと反九公家派の大臣はだいたい話は聞いてくれます。九公家派の人ははじめから相手にしてくれない人もいるけど、話題によっては聞いてくれる人もいます」

 さすがに三月以上やっているとそれぐらいは覚えられていた。とはいえ、実際朝議で発言を始めたのはひと月ぐらいで、まだ緊張やら不安やらで上手くは喋れない。

「そうだ。誰がどの話題を重視するかは把握しておくことは大切だ。糸口が見えたなら、そのひとりが動いた次に他の誰がどういう動きをするかも考える」

「えっと、吏事大臣と設事大臣はよく対立するとか、外事大臣の意見は比較的みんな聞くとかですか」

 余り自信がなかったが、こういうことだろうかとおずおず言うと、フィグネリアはうなずいてくれた。

「そういうことだ。個人の特性と繋がりを把握すれば、全体を掌握することができる」

「できるって言われても、難しいです」

「きちんと観察できているのだし、お前ならそのうちできる。ただ私がきちんと手本にならねばないが。今、どうにか朝議をまとめられているのも、父上の頃からほとんど大臣の顔ぶれが変わっていないからだからな。私も、父上が朝議をなされている姿を見て学んだ」

 フィグネリアが懐かしそうに目を細めた。

「……やはり先帝陛下の賢才は皇女殿下の中で生きているのですね」

 クロードの傍らで、ニカにやたら熱い眼差しをフィグネリアに向ける。

「生かせていればいいのだがな」

「自分のような下等官は先帝陛下が崩御された時に希望を失わずにいられたのは、先帝陛下のご遺志を継ぐ皇女殿下がおられたからこそです!」

 そこまで力説してニカがはっと我に返り、赤面して差し出がましいことをともごもご言ってうつむいた。

「いや、いい。父上が残されたものを引き継げていると思ってくれるのは嬉しい。その思いも無為にしないようにせねばな」

 表情を和らげるフィグネリアに、クロードはふと今さらながらに気づく。

(先帝陛下から学んだことを、今、俺にも分けてくれてるんだよな)

 どれほど辛くて苦しくても、彼女が大事にしてきたものなのだ。

 与えられているものの重みに、クロードは表情を引き締める。

(いつか、フィグみたいになれるのかな)

 そんな自分は想像もつかなかった。

「しかし、アドロフ公との対面が適わなかったは、会う気がないのか、本当にご容態が悪いのか、どちらだろうな」

 フィグネリアの声は重苦しく、どちらにせよいい事態ではなかったらしい。

「嫌なことは早くすませたかったんですけどね」

 一番の緊張の元であるアドロフ公との対面が果たせなかったことを思い出すと。今さらながら脱力感が襲ってくる。

「明日にはご挨拶ぐらいはできるかもしれん。とにかくこれで会談は終わりだな。後は明日出立前に挨拶をする程度だから、今日の所は気を抜いていろ」

 フィグネリアがソファーに体を埋めて、クロードは会談中たったひとつだけどうしても腑に落ちなかったことを問うべきか迷う。

 イーゴル達ともそのことについては事前に話し合ったし、一度は自分も納得した。

 しかし、マラットの態度を見ているとやはりうやむやにするのは嫌だと思った。

「フィグのこれまでの暗殺のこと、なんにも言及しなくてよかったんですか? ずっとフィグが謝りっぱなしなのは、納得いかないです」

 フィグネリアは先帝崩御の十三の時からずっと、毒を盛られたり刺客を差し向けられたりしてきた。自分も婿に来て早々、フィグネリアが狙われたのを見ている。

 首謀者は、先帝の政策を継ぐフィグネリアが気に食わない九公家派だった。直に九公の誰かが指示していたものもあっただろう。

 九公家のまとめ役であるアドロフ公に一言ぐらいは、文句がつけられるはずだ。なのにマラットはあれで、当主は顔すら見せない。

「それは十分話し合っただろう。誰が関わっているか掘り返せば混乱も大きくなる上に、今はそれより優先すべきことが多い。いずれだ。お前を巻き込んだのはすまないとは思っているが、こらえてくれ」

「俺のことはいいんです。今まで国のために頑張ってたのはフィグで、それを邪魔してきたのは九公家なのに、内乱騒動の責任が全部あるみたいな言い方……」

 いずれと言いつつ、フィグネリアが先帝崩御後の暗殺未遂諸々は放っておく気だろう。彼女ならそんなことに人手や時間を割く余裕があるなら、他へ回した方がいいと考えるはずだ。

 そんなフィグネリアひとりに責任が押しつけられるのは悔しい。

「私の役目は、兄上の影となり政務をささえることにあった。どんな情勢であろうと、内政を乱さぬように振る舞わなければならなかった。できなかった以上、責められるのは当然のことだ」

 毅然と言い放つフィグネリアは凛として美しい。

 だけれどいつもより距離を感じて、どことなく寂しく思えた。一応王族の端くれとして産まれたのに、なんの責任も負わずに生きてきた自分には、妻のこういう所をまだ理解しきれない。

「……俺、日が暮れない内に薔薇見てきますね」

 クロードはフィグネリアを困らせていることに気づいて、ひとまず今自分ができることをすることにした。

「ああ。そうか、まだそちらがあったな」

 言われて始めて思い出したといった顔をして、フィグネリアが腰を浮かす。

 用件を忘れるなど見た目以上に疲れているのだろうと、クロードは彼女を制止した。

「フィグは一杯喋って疲れてるだろうから、休んでていいですよ。俺とニカだけで様子見てきます。ニカごめん、もうちょっとつきあって」

「殿下、謝罪はいりません。そこはついてこいと一言ご命じになればいいのです」

「あ、そうか。でも、そういうの苦手だからな、俺」

 クロードが落ち着かない気分で言うと、仕方ないといった顔でニカが苦笑した。

「……私も行く」

 そしてふたりで外へ行こうかとした時、フィグネリアがそう言って立ち上がった。

「本当に休んでても大丈夫ですよ」

「そこまでひ弱ではない」

 フィグネリアが素っ気なく切り返した後、はたと何かに気づいてなぜか考え込み始めてしまった。

「フィグ? やっぱり疲れてるんじゃ……」

「あ、いや。そういうわけではない。私も薔薇の様子を見ておきたい」

 どうにもフィグネリアの様子に違和感を覚える。

(最近、こういうの時々ある気がするな……)

 怒っているわけでもなければ、いつも政務について考えている時とも違う。戸惑いに近いだろうか。

「ほら、早くすませるぞ」

 訊ねようかと考えていたクロードはフィグネリアにせっつかれて、機を逃してしまったのだった。


***


 離れの周囲は人の腕ほどの細い柱でぐるりと取り囲まれていて、その柱一本一本に薔薇が絡みついていた。

 そしてちょうど目の高さ辺りに、フリルのような華やかな橙色の八重の花弁を広げ、甘いながらもすっきりとした爽やかさを含む芳香をそよがせている。

フィグネリアは薔薇も気になるものの、それより傍らのクロードの横顔に目が行く。

(気づかってくれたのに、あの言い方は違っただろうと思うのだが)

 クロードが休んでていいと言ったのに対しての、自分の言葉が胸につっかかっていた。

 確かに会談で疲れていて、腕を持ち上げてティーカップに腕を伸ばすことすら億劫なぐらいだった。

 ただひとり慣れない場所で取り残されるのも寂しかった。馴染んだものが傍らにないと、休むに休めない。

(……いや、ならば。連れてきた侍女でも側に置いていれば)

 結論を出すと結局はと、フィグネリアは夫の姿を見る。

 こういう時にどんな言葉が相応しいのか分からない。

「観賞用でもないのに本当に綺麗ですね。俺の国で実をとるための薔薇ってもうちょっと控えめなかんじなんですよ。しかも冬にだけ咲くって珍しいし。アドロフ家のご先祖の祈りを、第一の真実を司る女神、リルエーカ様が叶えたんですよね」

 先ほどまでのことは不快にも思っていなさそうなクロードが、明るい橙の花びらを撫でながら微笑みかけてくる。

「そうだ。かつてこの一帯が流行病に冒された時、アドロフ家の息女が神殿に収まりきらない患者を城に受け入れ、神官方や薬師と共に診ながら、神に救いを求めた。彼女自信もやがて病に冒されたが、それでも病を押して祈り続けた。そしてその死の間際、リルエーカ様がアドロフ家の祖先の少女に種を授けた。薬効の高い実をつけ、そして長く雪に覆われる冬にささやかな心の安らぎをという彼女の願いをリルエーカ様は聞き届けたんだ」

 この国の歴史と神話は常に一体だ。旧ければ旧いほど、神々の存在は色濃くなる。実りの少ない極寒の大地で、自分達は気まぐれな神々の恩恵に生かされている。

「リルエーカ様は以前降りてきてらした、ルーロッカ様と対をなす神霊様ですね。第一の真実は善意と希望。そんな方が降りてきていらっしゃるのでしょうか」

 ルーロッカに体を乗っ取りかけられたニカが言うのに、フィグネリアは首を傾げる。

「花を好む神霊様は多くいる。この土地に由来している神霊様とも限らないかもしれないな。そもそもリルエーカ様は薔薇を見たくて、種を授けられたのではなかった。病に苦しむ領民達のために身を細らせながら祈った、アドロフ家のご令嬢に心動かされたという話だからな」

 珍しく人のために動いてくれた神霊が関わっているとは思いづらい。

「……うん。でも、その人はもういないんだ。待ってても、帰ってはこないんだ」

 いつの間にか薔薇の妖精と繋がっていたクロードが切なそうに囁いて、困り顔をフィグネリアに向ける。

「神霊様が、関わっているのは間違ってはいません。ただ、妖精達も咲き続けるのを望んでいるんです。それに神霊様が力を貸してるんです。……薔薇たちの記憶が見えたんですけど、皇太后様が帰ってくるのを待ってるんだと思います」

 冷たい風が動いて、薔薇たちがさわさわと揺れ動く。

 フィグネリアは声をなくし、身を寄せ合い震える薔薇達の音を聞く。そうして、母に抱きしめられたときの匂いが強く香って、鼻の奥がつんとする。

「……なぜ、今になってそんなことが。亡くなってもう三年だ。それに、あの方がここに戻ってこれなくなって七年にはなるんだ」

 母のオリガは亡くなる四年も前から、生家に戻ってこられないほど体が弱っていた。

 それでも薔薇が咲く頃になると、そわそわとしていたのを覚えている。そして贈られてくる香水や茶を見て、嬉しそうにしながらも、花を見られずに寂しげだった。

 薔薇達も、母を待っていたのだろうか。

「寒いし、考えるのは中に入ってからにしましょう」

 クロードに肩を抱かれて、感傷と戸惑いに立ち尽くすフィグネリアは彼にそっと身を寄せる。

 それからまた離れに戻ったが、結局いくら考えても今頃になってこんなことが起こる理由は見つけられなかった。

 そしてそのまま夜は更けてしまい、それぞれ寝室へと移った。

「今頃どうしてだろうな……」

 寝室の広いベッドの上でフィグネリアはまだ眠れずにいた。クロードは妻のことを気にかけてさっきまでは起きていたが、旅疲れと気疲れに負けたらしく熟睡している。

 自分ももう寝ようと燭台の火を消すため、フィグネリアはサイドテーブルへと目を移す。そこに飾られた薔薇が燭台の光に淡く輝いている。

「待っていても、戻ってこないんだ」

 返事をしない薔薇に語りかけて、フィグネリアはふっと燭台の炎を吹き消す。

 訪れた暗闇の中、眼裏ではまだ薔薇は鮮やかに咲いていた。

 優しく微笑む母の姿と共に。


***


「フィグ」

 ベッドでひとり丸まっていると、扉の向こうで母の声が聞こえた。皇太后付きの侍女達が近づいてはならないと慌てている。

「また、眠っていると言っておいてくれ」

 十三のフィグネリアは酷い熱と何度も吐き戻して痛んだ喉で、薬を持ってきていた侍女に告げる。見舞いにくる兄達にそうしてもらったように。

「……ええ。ですが皇女殿下、本当にただの風邪ということにしておいてよろしいのですか?」

「いい。余計なことは言うな」

 会話をしていると、扉が開いてしまう。悲鳴じみた声で皇太后様と呼ぶ声も一緒に聞こえた。

「母上、なりません。風邪がうつります」

 病弱な母のオリガは風邪ひとつで命に関わることになりかねない。侍女達悲壮な表情は仕方ないだろう。

 実際は毒を盛られただけなのでうつりはしないが、伏せっている姿を見られて勘づかれるのが嫌だった。

「酷い声だわ。もう三日でしょう。こんなに長く寝付くなんて本当に大丈夫なの?」

 四十近くになるのにいまだ少女めいた雰囲気を残すオリガが、泣き出しそうに声を震わせる。

「じきに、よくなります。そうしたらまた兄上のお手伝いに戻ります」

「無理はしなくていいのよ。わたくしからお父様にお手伝いをお願いするわ。そうしましょう。あなたのためにも、イーゴルのためにもそれがいいわ」

「……父上は、先帝陛下はそのご判断はなさらないと思います」

 今、アドロフ公から恩を受けてはならない。十三の小娘の自分など、たちまち立場をなくす。志半ばで崩御した父の遺志を、無為にするわけにはいかない。

 それに、毒を盛ったのはアドロフ公に繋がる者の可能性すらある。

「ごめんなさい。わたくし、また考えなしなことを……」

 しゅんとする母が、急な父の崩御で十分な準備もなく国政を担わねばならない兄や自分のために精一杯できることを考えてくれているのは分かる。

 ただ、その背後にはアドロフ公がいて、安易に頼るわけにもいかない。

「母上がご心配することはありません。もう、お部屋にお戻りください。私のことより、母上のお体の方が大事です」

 皇太后付きの侍女達がそわそわと心配そうに見守っているのを示すと、母は渋々と離れていく。

 本当はもっと側にいて欲しかった。

 三日の間、ひとりきりでたまらなく心細かったのだ。このまま目を閉じると二度と目覚めないかもしれないと思うと恐くて、誰かにしがみつきたくなる。

 その誰かは母だった。

 部屋を出る前にもう一度振り返る姿に、待って、と声を上げたくなる。

 それでも荒れた喉と理性が声を押しとどめて、フィグネリアは微かに残る母の香りに意識を傾けるだけでこらえた。


***


 翌朝フィグネリアは目覚めたとき、何気なく体を動かして側に触れるものがなく目を見開いた。

「クロード」

 名前を呼びながら半身を起こすと、すでに身支度を調えている夫がいるのが見えた。珍しく彼の方が先に起きていたらしい。

「おはようございます。フィグがこんなに遅いなんて珍しいですね」

「寝過ごしてしまったかのか」

 逆に夫に珍しがられて刻限を問うと、起床予定ぎりぎりでほっとする。

「昨日、ちゃんと寝ましたか? 俺、結局先に寝ちゃったし……俺が寝坊しちゃったことにして、もうちょっとゆっくり休んでから出ますか?」

「いや、問題ない。お前が寝てすぐに私も寝た。疲れもそうない」

 灯を消してベッドに横になった後の記憶は全くなく、熟睡はできたはずだった。

 フィグネリアはサイドテーブルに飾られている薔薇を見る。夢の残り香がした。

「ただ、夢見が悪かったんだ」

 ベッドに腰掛けるクロードにどんな夢かと聞かれて、フィグネリアは覚えていないと答える。

 ただ感情だけは胸に残っている。甘く優しいけれど、ひとりで置き去りにされてしまいそうな心細さ。

 子供の頃の夢かもしれない。母や兄妹の優しさに幸福を感じながら、漠然と不安を抱いていたあの頃だ。

「フィグ、本当に大丈夫ですか?」

「ああ。もう支度をする」

 客用のベッドは広くてすぐに手が届く距離にクロードがいない。衝動的に彼の胸に顔を埋めたくても、そうできない内に早く身支度をしなければと頭が冷静さを取り戻す。

 だけれど感情はそのままで、理性と感情が大きくずれる。

 ベッドから降りようとした時に差し伸べられた手を取ると、そのまま抱き寄せられた。ふんわりと包み込まれているだけなのに、きつく抱きしめられるよりも離れがたかった。

 このまま夢の名残が消えてしまうまで、こうしていたいとさえ思う。

「……薔薇のこと、気になりますか?」

「気にならないこともないが、私達の関わることでもない」

 理性を優先して、フィグネリアはクロードから身を離す。見上げると彼は琥珀色の瞳を不思議そうに丸くしていた。

「神霊様はルーロッカ様の時と違って行方知れずというわけでもないだろう。これだけ広範囲に力を及ぼせるのなら、降りてきていたとしても普通の人間に降りてきているのだろうし、神殿に相談すればいずれの神霊様かが対処にあたられる」

 神霊が降りてくる人間に目立った特徴はない。『波長』があって、かつ人間という器に神霊が入り込めるだけの余裕があれば降りて来られるということだ。

 ルーロッカの時は彼が合わないリスの体に降りてきたため、神界からも行方が掴めずに妖精の動きをたどれるクロードが協力せざるをえなかった。

「今度は半分は薔薇の妖精の意思だから、俺にも居場所は掴めないですけど。できることがあるなら、役に立ちたいです。器になっちゃってる人のことも気になるし……」

 神霊に器にされた人間にも影響が出る。ニカも器にされかけてしばらくは要安静の身となったが、あれはあれで特殊な例だった。

「合った器でお前がたどれないほどの力しか使っていないのなら、そう焦ることもないだろう」

「確かに無理に入られてるってわけじゃなさそうですけど……。フィグはあんまり神霊様と関わりたくないですか?」

「出来る限り、神霊方に深入りしない方がいい。まともに力を使えなかったルーロッカ様でさえあれだ。関わらないですむなら、その方がいい」

 そうして、対峙してしまった場合、クロードひとりに任せるしかない状況になるのが何よりも不安だ。

 非力な人間でしかない自分は、見守るしかできない。

「……でも、皇太后様が関係してるみたいだし、いいんですか?」

 フィグネリアは少しだけ考えて首を縦に振る。

「いい。考えたところで答がでることもない。戻って神殿に報告して、終わりだ」

 後ろ髪を引かれる思いはあれど、ここに留まる理由もなければ神霊にも自分達からでき関わっていくべきではないだろう。

 フィグネリアは困った顔をしているクロードに微笑みかける。

「さあ。もう遅くなる。出立前に挨拶もしなければならんからな。それに街で馬車を止めている時間もなくなる」

「何か用事があるんですか?」

「街を見たがってただろう。早めに出れば帰りは多少の物見遊山をする余裕はある。気になる場所があるなら、事前に言ってくれればいい」

 このまま天候がよく問題がなければ、多少寄り道をしても予定通り明後日には帝都に戻れる。どこもかしこも雪景色で代わり映えはしないが、遠出することなど滅多にないからいい機会だろう。

「それならいっぱいあるから、優先順位つけとかないと駄目ですね」

 まだ薔薇のことに引っかかりを覚えている風だったものの、クロードは楽しげに応える。

 その笑顔を見ていると、夢の名残に曇る心に陽が差してきてフィグネリアも自然と笑みを浮かべた。

「よし。私もすぐに支度をする。朝食はまだだろう。先に広間で待っていてくれ」

 そしてフィグネリアはクロードを部屋から出して身支度をすませ、広間へと向かう。その途中、アドロフ家の侍女が忙しなくやってくる。

「申し訳ありません。マラット様が急な用件で外へと出ているため、ご挨拶はできないとのことです」

「こんな朝早くから、何かあったのか?」

 侍女に問うてみるが、彼女も今し方のことで詳しくは知らないらしい。次期当主自らが出る用件とは大事だとは思うが。

 フィグネリアが黙して考えていると、不興を買ったと誤解したのか侍女がか細い声で申し訳ありませんと謝罪する。

「分からないのならいい。手間を取らせてすまなかった」

 そう告げると侍女はお辞儀をして去って行った。

「……まったく、帰りたいのに帰りづらいとは困ったものだな」

 これから帰るというのに気持ち半分はまだここに置いたままになりそうで、フィグネリアはそっとため息をついた。


***

 

 朝食を終えて挨拶代わりの礼状をアドロフ家の使用人に託した後、フィグネリア達は予定通り城を出た。

 街に入って馬車を降りたフィグネリアは、雲ひとつない薄水色の空を背にしてそびえる城を見上げる。

「フィグ、気になるなら戻りますか?」

「……なにかあるなら、帰り着く頃には報告があるだろう。さあ、人通りが増える前に見て回るぞ」

 九公家領内は何か問題があってもそれぞれの領主の采配でことを治める傾向が他より強い。アドロフ家がアドロフ家で動き出したのなら、皇族といえどもそう簡単に介入はできない。

「見て回るって言っても見た目だけは普通の街ですよね。えっと、あ、上から見ると幅が違うのに下から見ると同じに見える」

 まだ朝早く人通りが少ない通りをクロードが行ったり来たりしてみて、声を弾ませた。

「騙し絵になっている街だからな。城へ向けて上っていると惑わされる。エリシンが詳しいのだから話を聞きながらの方がよくないか?」

 フィグネリアは少し離れたところで護衛の兵士と一緒にいるニカに目を向ける。実際来たことはないものの、ニカは建築についての知識が多く、道中あれこれクロードに教えていた。

「せっかく気をきかせてふたりにしてくれてるんだから、呼ぶのも悪いですよ。と、あそこから狙い撃ちにしたのかー」

 クロードが間近にそびえる塔を見上げてすっかり街を見物するのに没頭し始める。書物の中の戦記と実際の街の様子を重ね合わせているらしい。

 時々足を止めてあの戦場はこのあたりと確認しては、幼子のように瞳を輝かせて魅入っている。

 そんな彼の姿を見ていると満ち足りた心地になる。

(何が楽しいのかはまったく分からんがな)

 雪を被る煉瓦造りの街は帝都とさして光景は変わらない。傾斜があるぐらいしか違いはないぐらいで、仕掛けや歴史の知識はあってもそれだけのものである。

「距離感とか、坂の傾斜とか見たまま鵜呑みにすると本当に大変ですね……攻め込んでもお城までなかなかたどり着けないって本当なんだな」

 クロードが鼻の頭が赤いのは寒さのせいだろうが、頬が赤いのはそればかりでもなさそうだ。

「だから、あまり歩き回りすぎると必要以上に疲れるぞ」

 フィグネリアは苦笑しながら、クロードの後を緩やかについていく。

 幾たびの戦で勝者となってきたアドロフ公の築いた城までの道を阻む街は、巧妙に人の感覚を狂わしていく。長年の住民達はどんな場所に行くにしても最短の道を知っているが、余所者には石のごとく硬く口を閉ざす。

 防衛に限らず攻めに回ってもアドロフ公爵家は手強い。マラットやイーゴルのように体格も武芸も抜きん出た、優れた武人を血族の中から多く輩出している。

 実際、ここまで敵に攻め入れられたのも三度だけである。

 今の当主のパーヴェルはどちらかといえば護りの方を得意とする性質だが、武力以外での攻撃は鋭い。

(……アドロフ公とはあまりやりあいたくないが、ここで一度お話しはしておきたかったな)

 薔薇に、アドロフ公に、今朝の不穏な様子。

 気にかかるものばかりだとフィグネリアは数歩先を行くクロードの姿を目で追いつつ、もう一度城を仰ぎ見る。

「……フィグ、俺ばっかり楽しんでる気がするんですけど、何か見たいものってないですか?」

 急な坂を上って少し息切れし始めているクロードが、我に返った様子で戻ってくる。

「特にはないな。お前が楽しんでいるのを見ているだけで楽しいので問題ない」

 気遣いでも何でもなく正直に言うと、夫はなぜか複雑そうな表情をした。

「駄目です。それは俺が言わなきゃならない台詞です」

「……別に私が言ってもいいと思うが」

 後ろでそっと夫婦を見守る護衛が後ろでこっそりクロードに賛同していることも知らず、フィグネリアは首を傾げた。そして夫の背の向こうに馬で駆けてくるアドロフ家の兵の姿を見つて、視線を鋭くする。

 敵意は見られないが、急いで来たらしく馬の息も荒く白い湯気が立っている。

「皇女殿下、これより神殿までご同行願いたい」

 フィグネリアは一度クロードと顔を見合わせ、神殿に向かうことを決めた。

 


 クロードはゆるゆると流れる窓の外のただ白いばかりの雪景色を眺めながら、ため息をつく。

 あれからフィグネリア達は街から城へと戻り、侍女らを待機させた後に裏手側の門から神殿へ向けて馬車を走らせていた。

 追ってきた兵が急いでいたのは、単にフィグネリア達に追いつくためだったらしく、神殿までは急がず来て欲しいとのことだった。

「帰り、遅くなりそうですね」

「ああ。のんびりできると思ったのだが、その余裕はなさそうだ」

 フィグネリアが残念そうに言って、クロードもうなずく。

 街や史跡を見て回れないのもそうだが、フィグネリアも一緒に楽しませられないか考えていた所だったのに、何も思いつかない内にこうなってしまった。

(で、城下じゃ、俺がひとりで夢中になりすぎたし……)

 一緒にいて楽しいと思ってくれているのは嘘ではないと分かっているものの、もっと計画的にしたい。

「そう落ち込むな。春になったら日帰りできる範囲で、遠駆けに行く暇ぐらいは見繕う」

「暇ができるくらい仕事ができるようになります……それにしても仔細は神殿って、なんでしょうね。神霊様絡みじゃないといいんですけど」

 神殿と聞いて真っ先に思いつく揉め事に、クロードは表情を曇らせる。

「マラット様が皇女殿下をお呼びするほどの用件ですから、大変なことなのでしょうが」

 クロードの向かいに座るニカも不安そうだった。

「妖精に異変などをは感じないか?」

「今のところは分かりやすい変化はないですけど…………」

 クロードは妖精達の気配を近くに感じて窓の外に目を向けて言葉を失う。

 馬車の窓の外は一面、細く白い石柱が並び全てに薔薇が絡んでいた。雪に覆われた大地が照り返す陽光で、橙色の薔薇は黄昏時の太陽のごとく鮮やかに輝いている。

 そんな薔薇で出来た森は左右の窓、どちらを向いても果てが見えない。

 夢のように美しい景色はまさしく神の慈悲だ。この国の人々が神霊を崇め奉る意味を心で感じられる。

「あ、大神殿ほどじゃないけどここの神殿も大きいですね」

 馬車が右に曲がり神殿の姿が見え始めて、クロードはやっと言葉を取り戻す。

 神殿は城壁こそはないが、どこか要塞めいた造りの神殿はアドロフ家の城とよく似ていた。しかしながら真白い色と静謐な雰囲気が神聖さを醸し出している。

 神殿にたどりつくと、そわそわと落ち着かない様子の神官や領民がうろうろしていた。

 三人が馬車から降りて、神官がお待ちしていましたと彼らを迎え入れた。

 分厚く重たい大扉から屋内へ入るとすぐに礼拝堂だった。三百人ほどが収容できる広い堂の奥には腕に薔薇を絡めたリルエーカの像が立っている。

「何かが破裂した音……?」

 フィグネリアが領民達の声に耳を傾けて、眉根を寄せる。

 朝、大きな音がした。それが彼らが口にしていることの共通点だった。

「フィグ、みんなが言ってる音って銃声じゃないですか?」

 思い当たるものはそれしかなかった。

「ああ。そうかもしれん。だが銃があるはずがないが……」

 フィグネリアの言うように、密輸された銃の追跡は徹底的に行って全て回収したはずだった。

 何が起こったのかと案内の神官に問うが、答えてもらえずに神殿奥深くへと案内される。

「神官長様! 皇女殿下のご一行が」

 窓がなく松明の明かりに照らされる廊下のつきあたりに五十ほどの男がいた。これといって特徴のない彼はずいぶん憔悴しきっていた。

「私が当神殿の一切を任されている者です。今からご覧に入れるものは領民にはしばし内密にお願いします」

 そう言って扉が開かれてさらにもう一枚扉があった。それが開かれて、鉄錆びた血の匂いと肉の焦げた匂い、それからかすかな火薬の匂いが鼻先に触れる。

 クロードは思わず呼吸を止めるが、次に息をする時にかえって思い切り空気を吸い込んでしまい、むせ込みそうになる。

(血の臭い、気持ち悪い……。できたら見たくないけど)

 部屋の中にはマラットがいて彼の背しか見えず、心の準備をする前につい見てしまうことがないのは幸いだった。

「……一体、何があったというのですか」

 先頭を行くフィグネリアが声を上擦らせてマラットへと問いかける。彼は大声をあげることもなく、静かに体を脇に寄せて、大きな台の上にの乗るものを示す。

「今朝、大音声がして何事かと思い庭に出たらこうなっていたらしい」

 フィグネリアがまず台に近寄り、クロードはその後ろから意を決して台の上を怖々と覗き込む。

「う、うわあ」

 銃弾で撃ち抜かれた遺体かと思ったが、そんな綺麗な状態ではなかった。

 クロードはすぐに見たものから目を逸らして口元を覆う。匂いだけならまだ耐えられたが、実際目にして朝食が喉元近くまでせり上がってきそうだった。

「無理に見なくてもいいぞ」

「うう、大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけです……」

「本当にこれは慣れなくてもいいものだからな。後ろを向いてそこに立っていろ」

 蒼白なクロードは横目でちらりと遺体を見た後に、大人しくフィグネリアの言う通りにした。

 このまま直視しているとたぶん吐く。

「ニカ、見ない方がいいかもしれないっていうか、見た?」

 クロードはニカが静かに硬直しているのに気づいて首を傾げる。

「いえ、俺は血は実家の家畜で見慣れているので大丈夫です。狩りもしますし」

 と気丈に言っているもののニカにも動揺が見られて、フィグネリアにふたりとも後ろを向いておけと言われてしまった。

「主従揃って軟弱な……」

 マラットの呆れ声に主従は反論できずに縮こまって、フィグネリアがそれよりと、話を遺体に戻す。

「死亡の原因は銃がなんらかの原因によって爆発したものと見受けられますが……」

「その通りらしい。今朝、薔薇の様子を見るのに神殿の中庭にいた神子様がこの神官様と遭遇して銃を突きつけられ、こうなったらしい。神子様には怪我はないそうだが、あまりの惨事にお倒れになったそうだ」

 鉄の筒を向けられて困惑している内に大音声と共に神官がこうなってしまったら、精神的な衝撃は計り知れないだろう。

 クロードは神子の心境におおいに共感して同情する。

「俺には銃は分からんから、お前を呼んだ。神官長様、あれをお持ちください」

 不本意そうなマラットが神官長に言うと、奥にいる神官が布に包まれたものを持ってくる。布にも血が染みていて、フィグネリアが中を開く。

 クロードは遺体の損傷部分が視界に入らないよう、マラットの後ろにこっそり移動する。そしてそろりと台の方へ向き直ると、破裂した銃身が目に入った。

「他に銃弾……これぐらいの鉛玉の類が他にありませんでしたか? それとこれぐらいの棒状のものは?」

 フィグネリアが足りないものを示すと、神官長は困惑した顔でじっと彼女の顔を見る。

「皇女殿下はこれがいったいなんであるかお詳しいのですか?」

「少し囓った程度でそれほど詳しいわけではありませんが……。これは隣国の弓に変わる武器ですので、本来ここにあるはずのものではありません。この神官様はここ五年の内にこちらへ?」

 神官長が大きくうなずいた。

「ええ。真面目な神官でした……」

 動揺のためか、答える神官長もどこか落ち着きなく見える。

「神官様の部屋などを見てもよろしいでしょうか? それと、神官様が亡くなられた場所も見せていただけたらと思います」

「足りないものでしたら私どもが探しておきます。他に必要なものがあればお申し付けください。中庭の方ですが、今清めている途中ですので……」

「清める前に見ておきたいのですが」

 神官長に渋られてフィグネリアは悩んでいる様子だった。

「そのことについては、他の神官と相談させていただけますか? それまで礼拝堂でお待ちください」

 神官長の返答にフィグネリアが銃を再び布にくるむ。近くに控える神官が血を隠すのに上から新しく布を巻くというので銃は彼に預けられた。

「それにしても痩せているな……」

 フィグネリアのつぶやきに、クロードは損傷はない遺体の下半身を見る。

 血で赤黒く染まった神官服ごしでも膨らみから脚が骨だけかと思うほど細いのが分かる。

(フィグ、何見てるんだろ……足?)

 クロードはフィグネリアの横顔の先が、遺体から覗く足に向けられていることに気づく。

 靴は運び込まれる際に脱がされたのか素足だった。

(ああ、でも元から裸足だったのかな)

 足裏はずいぶん汚れていて全体にわたりあかぎれが目だち、長期にわたって裸足で過ごしていたかに見える。

 視線を床に向けて他の神官達の足下を確認してみるが、彼らはきちんと靴を履いている。

「少し、体調を崩して食事をあまりとっていなかったものですから」

 神官長は奥歯に物が挟まったような言い方をして遺体から目を背けた。

「では、神官長様中庭の件についてお願いします」

 フィグネリアが裸足については問わず、クロードはあれと思うがそのまま退出することになった。

「フィグ、あれってロートムの密偵でしょうか」

 クロードが声を潜めて尋ねると、おそらくとフィグネリアの返答がやはり小声であった。

「銃は全て押収したのではなかったのか?」

 側を歩くマラットが不服そうな顔でフィグネリアを睨む。

「ええ。そのはずですが、こちらの調査に不備があった模様です。申し訳ありません。神殿内で詳しいことはやぶさかですので後ほど……」

 これ以上の話はできないと思ったのか、マラットはそれを訊いてひとり先に礼拝堂まで歩いていってしまう。

「フィグ、あの、神官様の足……」

 そしてクロードは一番気になっていたことを訊いてみるが、フィグネリアが無言で首を横に振った。

 ここでは言うなということらしい。

(なんだろう。ただの暴発事故じゃないのかな)

 フィグネリアの表情の険しさに、クロードは不安な面持ちでまだむかむかとする胃を撫でる。

 それからかつんと響く軍靴の音に不自然さを覚えた。

 冷たい廊下によく音を響かせるのは、さらに冷たい石の床だ。この上を裸足で日頃歩いていたら確かにああなるだろう。

 クロードはすれ違う神官の足下をちらちらと見る。誰もが底を厚くし綿も詰まっているだろう布靴を履いて、音を立てずに歩いている。

 それに、視線をあげたところでさすがにふくよかな神官はいないものの、これといって細すぎる者もいない。

(あの死んだ神官様だけが、他の人と違う扱いを受けてた……?)

 その考えが頭に上ったとき、一様に同じ格好で似た表情で歩く神官達が異様に不気味に思えた。


***


 厄介な事になったものだ。

 礼拝堂のリルエーカ像に腰を下ろしたフィグネリアは腕を組み、眉根を寄せる。それから様々な要因で顔色の悪いクロードを見る。

「大丈夫か?」

「……ちょっと、まだ気持ち悪いかもしれないですけど、なんとか。ニカはもう大丈夫か?」

「自分は落ち着きましたが……神官様に診ていただきましょうか?」

 ニカがおろおろとした様子で主君の顔を覗き込む。

「しばらくしたら、俺もたぶん大丈夫。それより笛、吹いた方が落ち着きそう。いいですよね? ご挨拶代わりにもなるし」

 クロードが銀の笛を取り出して、礼拝堂にちらほらといる領民らが期待の目を向けてくる。

「婿は腕のいい楽士だったか。いい。領民達もこのままでは落ち着かんだろうから吹け」

 フィグネリアが返答をする前に、近くにいたマラットがぞんざいに許可を出した。

(そういえば、クロードの楽士としての腕は知られているのか)

 冬籠もりの祭事で第一皇女の婿が楽士を勤め、気まぐれな西風の女神アトゥスに気にいられて第一皇女がその女神と婿を取り合った話は、各地に伝わっている。

(というか、アトゥス様とのあれも知られているのだったな……)

 クロードの楽士としての才はともかく、自分とアトゥスとのやりとりが伝わっているということを思い出して、フィグネリアはいたたまれない気持ちになった。

 妻が心の内で帰りたいと思っていることなど露知らず、クロードが笛に口をつける。

 礼拝堂内はそういう造りになっているのか、最初の一音から広い部屋の隅々まで濁りなくよく音が響いた。

 反響を利用して巧みに音程と速さを変えながら、笛は優美な旋律をゆっくりと広げていく。

 固い蕾が艶やかに八重の花びらを開くように。

 音の花が満開になる頃には、礼拝堂に最初の倍以上の人が集まっていた。ちょうど神殿を訪れてきた人達の他に、神官達も複数様子を見に来ている。

「……あれ、人、集まっちゃってる?」

 笛から口を離して、クロードが目を丸くして辺りを見回す。

「それは、集まるだろうが。思ったより目立つことになったな」

 何度聞いても新鮮な感動を覚える音色にすっかり聴き入っていたフィグネリアも、これだけ人集りができたことに驚いた。

 領民達がこれで実がついてくれれば、と口にするのが耳に入ってくる。どの声も切羽詰まり真剣だった。この辺りの住人と言うことは、薔薇を育てることを生業としているのだろう。

「……笛の腕は確かなようだな」

 マラットも認めたらしく、無愛想ながらも言葉に感嘆を隠し切れていなかった。

「やはりあなた様でしたか……」

 それからすぐに神官長が目を丸くしながらやってきた。

「あ、はい。すいません、勝手に笛を吹いちゃって」

「いえ、いえ。なんとも素晴らしい演奏でした。これほどに心奪われる音は初めてでございます。祭事での演奏の評判は届いておりましたが、よいものを聞かせていただきました」

 神官長が今にも拝みかねない勢いでクロードの笛を褒め称える。

「あの、神官長様、それで中庭の件ですが」

「ああ。申し訳ありません。ほとんど清めがすんでしまっていました。それでよろしければどうぞ」

 フィグネリアは少し悩んだものの、見るだけ見ておくかと腰を上げる。

 そしてたどり着いた中庭は、整然としていた。

 中央に四阿が建つ真四角の庭園にも、細い支柱が何本もあってやはり薔薇は咲き乱れている。

「……ああ。本当に綺麗にしてしまっているな」

 フィグネリアは一滴の泥も血痕も見当たらない真っ白い地面に目をやって腕を組む。

「神官様が亡くなったのってあのあたりですか?」

 だいぶ顔色がよくなったクロードが、不自然なまでに平らで足跡ひとつついていない場所を示すと、作業を終えてあたりを確認している神官がそうですとうなずく。

 よほど大変だったらしく彼は汗だくだった。

「何も残っていませんね」

 ニカが辺りを見回してひっそりとつぶやく。

「そうだな。せっかく入れていただいたがこれではもう何も見つけられそうにないな。しかしなぜこの場所だったのだろう。神子様はまだご無理でしょうが、他の神官方からお話しをききたいのですが」

「ええ。ご協力はしたいのですが、まだ皆落ち着いていませんので明日以降にならば」

 神官長がそう答えるのに仕方なしとフィグネリアはうなずき、ふと視界の端でクロードが薔薇が巻き付いている柱の側に寄っていっているのを見つけた。

「クロード、何をしている」

「ここ、血がついてます。蔓のところ……」

 クロードが指し示す柱の下方には確かに血がついていた。

「ああ、まだ残っていましたか。薔薇に穢れを残すなど……」

 神官が慌ててそれをぬぐいとるのを見ながら、やけに範囲が広いとフィグネリアは眉を顰める。

 あちこちに血やら何やら飛び散ったのだろうが、それにしても念入りすぎるほどに広範囲に雪がならされている。

「……神聖な場所に足を踏み入れさせていただきありがとうございました。おそらく事故だと思うのですが、神官様の人となりについても知りたいので明日改めて伺います。今日は銃を持ち帰りたいのですが、よろしいでしょうか?」

「はい。後で何かお渡しすべきものがないか私どもの方で彼の私室も調べておきます」

 神官長の協力的な態度に、フィグネリアは助かりますと返す。自分達で調べられないことは残念だが、あまり立ち入りすぎるわけにもいかないので仕方がない

「殿下、よく見つけられましたね」

 再び礼拝堂で待つように促され中庭から屋内に戻る途中、ニカがこっそりとクロードに聞いていた。

「んっと、勘というかそういうの。うん」

 どうやら妖精の反応であれを見つけたらしかった。マラットは怪訝そうにクロードを一瞥して、フィグネリアへと目を向ける。

「……フィグネリア、後の処理を手伝え。もう一晩離れを貸す」

「ええ。そうしていただくと助かります」

 一晩どころではなくしばらくは戻れそうにないと、フィグネリアは周囲の神官達の様子を注視する。

(まだ他にも密偵はいるはずだ)

 そして胸の内で確信を持ってつぶやいたのだった。


***


 アドロフ家の城に戻ってすぐに、フィグネリア達は前日会談を行った部屋へと通された。

「そもそも、銃はどこから手に入れたんだ! お前達の報告では密輸された銃は全て回収したとあったぞ」

「……それに関しては、不手際をお詫びします。この旧式銃は試験的な目的で少数密輸され、その後暴発の危険性の少ない新式に入れ替えられたことが判明しています。入れ替える予定だった銃は大神殿に保管されたままでしたので回収済みです。どこかで情報の見落としがあったかと思われます」

 フィグネリアは落ち度を認めて謝罪する。

「状況は、密偵が神子様を撃とうとして自滅したということか」

 怒り冷めやらぬマラットがそう確認するのに、フィグネリアはいいえと否定する。

「神殿内では申し上げられませんでしたが、事故ではなく意図的なものと思われます。この銃は旧式で暴発しやすいものですが、ここまでになるには、意図的に火薬でも詰め込まなければなりません」

 フィグネリアがテーブルに置かれている銃の大きく破裂した銃身を示す。

 遺体を見たときには、自分も事故だと思っていた。だが銃を見せられて考えは変わった。

「自殺ってことですか……? でも、なんでわざわざそんなまどろっこしい。あ」

 クロードが銃を見つつ、答を見つける。

「細工をした者がいるということか」

 同じく気づいたマラットがクロードより先にそう言った。

「そうです。銃を知っている人間はロートムの密偵以外はいません。人数は不明ですが他にも潜んでいるはずです。細工した者が偽装が失敗したことを知った場合、どんな行動をとるか予測が付きませんので口外は控えて密やかに捜索すべきかと」

「騒動から四月以上経っているのだぞ! なぜまだ密偵が潜んでいることを調べ上げられていなかったのだ!」

 マラットの怒声が張り詰めた室内の空気を揺るがす。

「……九公家領内の神殿に密偵が潜んでいるかどうかの調べは最初にいたしました。ですが捕えた密偵からの情報は乏しく、神殿側からご協力を得るのにも時間がかかりましたので」

 とにかく、得られた情報が少なかったのだ。大神官長が定まり神殿内が落ち着くのにも時間がかかった。これ以上俗世との繋がりを深めたくない神殿への対応は大神官長に任せるしかなく、こちらからは大きく動けなかった。

「神官長様も密偵を普通の神官様だって言ってたし、外からいくら言っても神殿側が怪しい神官様はいないって言ったらこっちも信じるしかないですよね」

 クロードがそう付け足して、マラットにねめつけられる。

「その件は後ほど。今は事故を装った理由、なぜ神子様を襲ったのか、そして何が原因でこの事態を引き起こしたかの三点が大きな疑問点を解明していきたいと思います」

 フィグネリアは矢継ぎ早に言葉を重ねて、マラットの注意を引く。

「……密偵が潜り込んだ目的は分かっているのか」

「神官方のお役目は人々の悩みを聞くことにあります。そこからの情報収集が最大の目的だと思われます。それともうひとつ、薔薇の実も目当てだったのかもしれません」

 その言葉にはクロードが反応を示す。

「銃以外に密輸されたもの、ですね。ロートムにない希少な薔薇だから狙われてもおかしくないですよね」

「持ち出したところでたかがしれている。大量に運び出せばすぐに足が付くだろう」

 マラットの反論に、フィグネリアはこの考えは仕方ないと思う。

「持ち出すのは少量で十分です。向こうの人間は繁殖させようと考えるでしょう」

「まさか発芽出来る状態で持ち出したというのか!? そんなことはあり得ん!」

 部屋に轟くマラットの声に、クロードが目を丸くする。

「かなり管理は厳しいんですね」

 そしてこっそり話しかけてくる夫に、フィグネリアはうなずく。

「薔薇の種は発芽出来る状態で国外どころか領内でもこの薔薇園以外に持ち出しも禁止だ。理由は分かるか?」

「ええっと。アドロフ公領のもので、希少性が薄れるとか、あとは神霊様がくれたものでここでしか育たないからとかですか? あれ、でもそれにしても限定されすぎてるか」

 会話が聞こえているマラットがクロードを奇怪なものでも見るように凝視した。

「ここでしか育たないかどうかは誰も試したことがない。他の地に種を植えたり、そのつもりがなくても種を落としてしまったりすると、その地に慈悲を与えたり、気に入りの場所にしたりしている神霊様に失礼にあたるからだ。実際、神霊様同士で兄弟喧嘩になったり、ご機嫌を損ねるという事例も古い時代にあった」

 フィグネリアの解説をクロードが、驚きと感心の入り交じった顔で聞く。

「……それってどれぐらい前ですか?」

「一番最近の事例で三百六十年ほど前だ」

 そう返すと、クロードはきょとんとしてもはや言葉も出ないほどになっていた。

「……夫はこちらの信仰に馴染んでいますがまだこの通りです。まるきり神霊様や妖精の存在を信じないロートムの者なら、我々の禁忌とすることは意味を持ちません。現に死んだ密偵は神子様に銃口を向けました」

 フィグネリアはマラットへと視線を戻す。

「……薔薇が実をつけんのもこのせいか。奴らめ、神殿に悪意を持ち込んでリルエーカ様の不興を買いおって!」

 テーブルを叩き割らん勢いでマラットが拳を打ちつけて、フィグネリアは口を引き結ぶ。横目で見たクロードも困った顔をしている。

 今の所薔薇が散らない理由は別なのだが、説明するわけにもいかない。

 ひとまずそこから話をそらさなければとフィグネリアが口を開きかけたとき、部屋の両開きの扉が軋みながら開かれた。

 次に石の床をこつりと叩く音が聞こえる。

 フィグネリアとマラットがほぼ同時に立ち上がって、クロードが遅れてふたりに倣う。

(ずいぶんお痩せになった……)

 現れた杖をつく白髪の老人を見て、フィグネリアは三年の月日の流れを実感する。

 上背はあるものの、背は以前より折れて一回りほど細くなっていた。

 パーヴェル・アドロフ。アドロフ家当主として九公家の中心として立つ彼は、それでも威厳を欠片たりとも失っていない。

 彼が歩くだけで並々ならぬ緊張感を強いられるのは、今も昔も同じだ。杖が床を叩く度に、鼓動が跳ね上がる。

「久しいな」

 強い光を宿す瞳を向けられて、足が竦みそうになったが怯んではいけないと顎を引く。

 隣にはクロードもいる。彼に見せるべき姿は毅然とした態度でなければならない。

「本当に、長い間ご無沙汰をしておりました。皇太后様のご葬儀以来、書簡でのご挨拶のみと不義理ばかりで申し訳ありません。先日は私が至らぬばかりに、皇帝陛下の御身を危険に晒し、国家の安寧を乱したこと、深くお詫びいたしします」

 フィグネリアは深く頭を下げて皇族から臣下へするものとして最大の敬意を示す。その横でクロードがおたおたとお辞儀した。

「……これまでのことはマラットから報告を受けているのでかまわん。神殿で死人が出たことについてだ」

 クロードには視線も向けずにパーヴェルが一番奥の席に座る。

 それから立ち上がっていた三人は着席して、マラットが仔細を報告しフィグネリアが時折言葉をつけ加えた。

「他に密偵がいることに間違いはないな。お前はまだここに残るつもりか」

 パーヴェルの静かな問いかけに、フィグネリアはできればと返答する。

「少なくとも状況の仔細が判明するまでは留まりたいと思います。まだ銃がある可能性もありますので……ご迷惑でなければ帝都から必要な資料が届くまでは置いていただければと思います」

「銃についてはこちらに知識がない。マラットと共にことの収束に尽力しろ。くれぐれも領民に余計な不安を抱かせず、神殿に失礼にならぬように動け」

 マラットは不服そうな顔でいるものの、ひとまずパーヴェルの許可が下りてフィグネリアはほっとする。

「ありがとうございます。取り急ぎ帝都へ書簡を送ります。銃も、軍の方で普及に努める者が詳しいので爆発の原因を調べるのに一緒に運びたいと思いますがよろしいでしょうか」

 異論はなくフィグネリアは次へと話を進める。

「それと、領内の問題でなく国の介入すべき事案ですので、律事第二等官ザハール・イサエフを本件の担当官としての任に就かせます」

「ガルシン公の甥御か。まさかあれを手懐けたのか、お前は」

 決定事項として告げたことに、マラットが当惑する。クロードはなんとも言いがたい顔でその反応を見ていた。

「ロートムの技術に対して知識があり律事官としても有能なので、イサエフ二等官が適任かと」

 フィグネリアはマラットの言葉に対する返答をぼかして、パーヴェルと向き合う。

「それはそちらの好きにしていい。必要なものが揃うまでの対処はどうするつもりだ」

「今しばらく、事故と処理することとして死亡した密偵についての情報を集めるつもりです。できるだけ少人数で当たった方が向こうにも警戒されないかと思われます」

 それとひとつ気になることがあって、フィグネリアはつけ加える。

「死亡した密偵はすでに神殿の方で埋葬されましたが、遺体に気になる点がありました」

「痩せていると、言っていたなお前は。確かに窶れていたが、それがどうした」

 フィグネリアのつぶやきを覚えていたマラットが訝しげにする。

「痩せていたのもそうですが、裸足で長く過ごしていたのかもしれません」

 遺体を見て気づいたことを告げると、しばし全員が沈黙した。

「やっぱり、あれ何かの罰とかでしょうか。痩せてたのも体調不良じゃなくて、食事をとらさせてもらえなかったとか」

 クロードが言いにくいことをさらりと口にして、室内の空気が重たくなる。

 神殿は多くの恵みと災厄をもたらす神々と人とを繋ぐ唯一の場だ。だからこそ、私欲や権力闘争に利用されぬように政に関わらず、同時に政府も出来うる限り踏み込まない。

 そのために独自の規律を設けているので、神殿の中で取り決められたことに政府側が立ち入るとなると難しいのだ。

 密偵の捜索や神殿への奉納の目録などの書類を集めるのにも難航したのも、これが大きな原因だった。

 とにかく神殿側は政府の介入を拒む。神殿が神霊や妖精との繋がりを持つ以上、権力が無理に入り込むことに民衆に不審がられるので政府も強くは出られない。

 ルスラン大神官長も理解はあるが、あまり政府側に融通を利かせていると神殿内での立場が危うくなるだろう。

「……神官方はなんらかの理由で密偵に苦行をさせていたのかもしれません。このことも念頭に置いた上で、そこには触れずに聴取した方がよいとは思うのですが」

 下手に隠し事を暴こうとすると、頑なになって得られるものも得られなくなる。そうなると事態が完全に膠着してしまって困る。

「お前は、どこまで踏み込む気だ」

 厳かにパーヴェルが質問を投げかけてきて、フィグネリアは身を硬くする。

 そして呼吸ひとつして緩やかに口を開く。

「神殿と俗世の境界は、密偵によって揺らいでいます。踏み込めるところまで、踏み込みます」

 一文字目を声に出す瞬間まであった迷いをおくびにも出さずに、フィグネリアは断言する。

「馬鹿なことを! それでは絶対不可侵の不文律などないものとすることだ!!」

 マラットが今日一番の大声を上げて、クロードがその勢いにびくりとする。

「お前は、踏みとどまるべき所をけして誤らないと言い切れるか」

 息子の怒りなどまるきり気に止めないパーヴェルは、フィグネリアだけを見る。

 わずかな隙も許されないその視線に、気圧される。父が生涯かけて戦い続けた相手だ。自分ごときが相手になるとは思わない。かたいって立ち向かわずに、引けなどしない。

「けして誤りはしません」

 フィグネリアは簡潔に返答する。

 それ以外の言葉は自信のなさを誤魔化すだけのものにしかならない気がした。

「父上!!」

「マラット、お前はお前で、境界を見定めているのだろう。意に沿わんならばそこを踏み越えぬように見張っておけ」

 パーヴェルがそう言い放って、額に青筋を浮かべながらもマラットは口を閉ざした。

 それから淡々と話は進んでいく。さすがに当主であるパーヴェルがいる間は、マラットも声を荒げる回数が少なく滞りなく協議は終了した。


*** 


 離れに戻りクロードはフィグネリアが帝都への書簡を認めている間、同行の侍女や兵士に滞在が延びたことの連絡をした後、一体何度目かも忘れたため息をつく。

「殿下、五回目です。いい加減鬱陶しいです」

 隣を歩いてるニカがさっくりと言って、クロードは背を丸くする。へこたれている時にこの侍従はやたら厳しい。

「だって、アドロフ公にはまったく相手にされなかったし。フィグがまだ仕事してるのに、俺はもうやることないし」

 手持ち無沙汰で余計に気が滅入る。

「ですが、殿下の今できることは以上です」

「まあ、そうだけどな。そういえばザハールも来るんだよな」

「ええ。後五日はかかるでしょうが……」

 広間に入りながら、ふたりしてなんとなく沈黙する。

「……でもフィグはザハールきたらたぶん楽になるよな」

「ええ。律事官ですので、対処にも馴れていらっしゃるでしょうし、有能な方でもありますから」

「そこだけは認めるけど……俺ももっといろいろできるようになりたい。そうだ、書簡って何が必要か考えてるか」

 広間のソファーに腰を下ろし、クロードはニカにひとつ提案する。

 公式な文書の作成はフィグネリアに習っているが、こういう緊急事態で何が必要かは分からない。

 余裕があればフィグネリアも教えてくれるだろうが、今は先に考えておいて後で答え合わせをすればいい。

 たくさん正解できていたらこれから任せてもらえる仕事も増えるかもしれない。

「まずは、義兄上宛。っていうかこういう場合は皇帝陛下宛か。帰りが遅くなること、事態の説明と、それから必要な物や遅れる分の政務についてもだな」

「おそらく皇女殿下は大臣方へする指示の仔細を書かれているでしょう」

 ニカの補足にクロードが確かにフィグネリアなら、そう簡単に連絡が取り合えない距離だからこそ、事細かに指示を明記するだろう。

「律事、産事、外事が主だよな。後は軍の方に銃を調べることもだな。……薔薇の密輸の記録以外は具体的なことは思いつかないな」

 そこは知識と経験が足らないところで、後で教えてもらうとして、クロードは次に移る。

「ザハールにも、出すよな。それから最後に大神官長様か……」

 クロードは一度そこで言葉を止めて、ニカに視線を向ける。

「これは、神殿の件に政府が介入してもいいですかっていう許可をもらうためだよな。今の所、神霊様が関わっているわけでもなさそうだしな」

 密偵の死亡と神霊の繋がりは見当たらないので、今は脇に置いておいていいだろう。

 神殿の法と、政府の法。ここはまだ学びが浅く、政府と教会が密接に関わり合うナルフィス教の中で育った自分には馴染みが薄い。

「今回の場合は、異例ですね。本来ならば地方の神殿で問題が起これば、神殿から大神殿へと連絡が行きますが、密偵に知られるわけにはいかないのでこちらから送ることになりました。普通なら政府には知らされずに、神殿内だけでことが収まります。神殿内でことが事態の収拾ができないことがあれば、政府側に協力願いが出されることもある、と思います……」

 ニカの声が段々と自信がなくなっていて、曖昧になる。

「神殿に政府が介入したのは内乱騒動の時が最初なので、他には例がない以上自分もどうなるのか分かりません」

「あれが最初なんだ。でも銃撃犯が立て籠もっていて、政府側が助けに入ったっていうだけだったな」

 表向きはそれで通されたあの騒動は、神殿側に非がなかったとして終わった。大神官長自身が神霊に唆されていたため、介入の手続きもなかった。

「今、神殿の中に密偵がいて、それを捕まえますってだけならそこまで問題にはならないんだよな」

「ええ。ですが密偵が密偵を殺害しました。しかし神殿側から見れば神官同士の諍いです。それに神殿が独自に死んだ密偵を罰している可能性があり、そこにも触れる必要があることが、問題です。密偵を捕え情報を引き出すには、絶対不可侵の神殿の法に政府が踏み入らなくてはならないのです」

「神殿と政府じゃ神殿が立場が上でいいんだっけ?」

 クロードがそう訊くと、ニカが微妙そうに首を捻る。

「上、というより政府が神殿に無理強いができてはいけないんです。大神殿には大神子様がいらっしゃって、神霊方が降りてくるんです。災いも恵みももたらす神霊様に誰彼となく接触できる状況だけは作ってはいけないんです」

「なんだか、神殿って神霊様を外に出さないための檻って気もするな。大きい力が大変なのはよく知ってるけど……」

 クロードは自分の胸ポケットの笛に触れる。人の範疇を超えた力を前に、あれだけの騒動が起きたのだ。神殿と俗世を切り離すことは分かる。

 そうなると、自分の祖先達はむしろ閉じ込められるのが嫌で逃げ回っていたのだろうかとふと思う。

「あまりそのような言い方は、人前ではされない方がよろしいですよ」

 ニカが困り顔で言って、クロードはうんと曖昧な返事をした。

「……薔薇についても何かしたいな。フィグも気になってたし」

 できることは少ないけれど、今はやれることを少しでもやっておこうとクロードは思った。

 

***


 離れに戻ってフィグネリアはすぐさま帝都への書簡の準備にあたり、寝室でひとりペンを走らせる。

 最後の署名を終えると乾燥させるため文書に砂をかけて、フィグネリアはまだ緊張感が残る体を硬い椅子の背に預ける。

「上手くいったとは、いいきれないか」

 パーヴェルとの対面は自分としては満足のいくものではなかった。どうしても、恐れてしまう。

 父と最後まで拮抗した相手。そうして、母にとっては大切な父親。

 父のようになれない自分と、母への罪悪感で胸の内が捻れる。

 フィグネリアは文書の砂を胸の内のわだかまりごと容器に捨てて、みっつの封筒に収めて蝋で止める。最後に印璽を押して、部屋の外に控える侍女へと渡した。

 それから広間へ行くと、クロードはニカと何か話し込んでいた。

「待たせたな。侍女達への連絡はすんだか?」

「はい。終わりました。これから俺達はどうするんですか? ザハールが来るまで最低五日はかかるんですよね」

 クロードが言うように、必要なものを揃えるのに一日ですんだとしてもそれだけかかる。

 密輸の可能性があるものとして、アドロフ公領の薔薇の実も調べることにしていたものの、資料の仕分けの進行度合いによってはさらに時間を取るだろう。

「明日は神官方からお話しを聞きにいく。留意点は協議で話した通り、こちらが事故でないと気づいていることを知られてはならないことが大事だ。死亡した密偵の日頃の勤めや様子、とにかく徹底的に密偵の身辺について調べ上げることに専念する」

「行動から密偵の目的を明確にして、関係性から他の密偵を絞り込むためですね」

「そうだ。聴取は不正事件の時やったから大丈夫だろう。ただ、前回と違ってじっくり時間をかけてではなく、簡易でいい。相手が返答を躊躇ったら深追いせずにひけ。エリシンも、以上を心得て聴取にあたれ」

 クロードの後ろで真剣に話を聞いていたニカが、御意と返事をする。

「ニカ、頑張ろうな」

「はい。お役に立てるよう、鋭意努力します。本日はこのままここで待機でしょうか」

 ニカがクロードと目を見合わせて互いに意気込みを確認したところで、フィグネリアへと訊ねる。

「神殿に行く以外はしばらくそうなる。手が空いている内は、薔薇についても少し考えておくか。兄上にルスラン大神官長様へ書簡を出していただくが、神霊様が何に気を引かれるか分かったものではないからな」

 イーゴルへの書簡の中には大神官長に当てたものも含んでいる。神霊についてはともかく、神殿内で起こっていることへ介入する旨は、皇帝の同意なしで勝手に送るわけにもいかない。

(私が下手をすれば、兄上の責任も問われる)

 フィグネリアは思案する表情で頬杖をつく。間違うつもりはないが自分への枷だ。

(容易く私にことを任せたのもそのためだろう)

 そしてわずかな判断の過ちもパーヴェルは見過ごさない。政務統括官の立ち位置から自分を外す機会だと、マラットを一歩後ろへ下がらせて突き落とす隙を狙っている。

「フィグ……」

 クロードの心配そう声に、フィグネリアは頬杖を外して疲れの残る笑みを無理矢理浮かべる。

「さすがにアドロフ公のお考えは読み切れんな」

「俺はご挨拶して一言もらえただけでしたけど、すごく緊張しました。ずっと交渉してたフィグは大変ですよね……。早く俺もちゃんと対応できるようになりたいです」

 挨拶をどうにかこなしたものの、全くパーヴェルに気にかけてもらえなかったクロードがうなだれる。

「順に覚えていけばいい。それにあの場で私ひとりきりより、お前が横にいてくれるだけで心強い」

「……はい。フィグを見守って、学んでいきます」

 不満そうなクロードに、フィグネリアは少し寂しい思いで苦笑する。

 これまで自分が与えたものをこなすだけで満足していたクロードは、彼自身で目標を見つけ出しているのか、この頃は素直に喜ばないことがたまにある。

 世界を広げていっているのは嬉しいけれど、成長を全部見ていられないのは残念だ。

(私はもっとこらえないとな)

 ふと昨日、クロードについていってしまったことを思い出して、フィグネリアは自戒する。

「よし、神霊様のことも気にかかるが、先に昼食にするか。私も腹が空いた」

 食欲はまるでなかったが、時刻は昼食の頃合を過ぎてしまっていた。食べ盛りのふたりは、もうとっくに空腹だろう。

 フィグネリアは自分がふたりとはひとつしか違わないことを、半分ほど忘れて部屋の外に控える侍女に昼食の準備を命じる。

「あ、肉はない方がいいです……」

「……自分も同じく」

 神殿で見たものを思い出して少々顔色を悪くする主従に、侍女が不思議そうな顔をしながら食事の用意に向かった。

「せめて神霊様が誰に降りてきてるか分かればいいんですけどね……」

 昼食を待つ間にクロードがぼやく。

「この辺り一帯にいることは間違いないだろうが、見つける目印は一切ないからな」

 神霊の器となる者に性別も年齢も関係なければ、身体的に特徴が現れることもない。知り合いならともかく、見知らぬ誰かに降りてきていたら神霊だと気づけない。

「妖精には変化がないのですよね」

「それが唯一の手がかりなのにな……。後でまた妖精達と繋がってみますね」

 クロードがもう決めたこととして話すのに、フィグネリアは少々不安になる。

「そう頻繁に繋がって本当に問題はないのか?」

「妖精を動かしたりすると、疲れるけど後は特になにもですね。元から感覚を共有してるところもあるから平気ですよ」

 こればかりは理屈で分かるわけでもなく、クロードに任せるより他ないもののやはり不安の種は残る。

「それならいいがな」

「あ、それとですね。時間があるなら、書簡の内容教えてください。さっき、ニカとこういうときにどういう対処を取るかって、話してたんです」

「ああ。今日は他にすることもない。今後の対応含めて、いろいろ教える。……その前に、食事を先に済ませてからにするか」

 どうやらすでに昼食は用意されていたらしく、侍女が早々に盆を持ってくる。

 そしてその日は神霊についてすらなにひとつ進展しなかったものの、いつもの政務をしながらよりも充実した抗議をすることができた。

 

***


 パーヴェルは自室で神殿での騒動についてと、しばらくフィグネリアを預かるという内容の皇帝宛の書簡を認めペンを置き、執務室の扉が開かれる音に振り返る。

「……お父様、今、お忙しいですか?」

 扉の向こうでもじもじとしているオリガがいて目を細めた。

 ここ最近はこうしてごく自然と過去が混ざり込んでくる。最初こそ驚きはしたが、もはや慣れたものだった。

「どうした」

 過去の自分が声を発するのにも、違和感を覚えない。

「あの、皇太子殿下にお手紙を出したいんです。結婚までにわたくしのこと、知っていただきたくて。それに、殿下のことも知りたいんです。でも、お忙しい方だからご迷惑にならないか、お父様なら分かるかと思って……」

 これは先帝と見合わせた後の記憶らしいと、パーヴェルは頭の片隅で思う。

「手紙の一通ぐらいは目を通せるだろう」

 アドロフ公家からの手紙は、誰であろうと無下にできないはずだ。

「ありがとう、お父様。お仕事の邪魔をしてごめんなさい」

 娘は嬉しそうに笑顔を咲かせて、自室に急いで戻っていく。その姿が消えても扉の前に人影があった。

 十五ほどの黒髪をひっつめた侍女は紛れもない現実だ。パーヴェルは彼女に書簡を渡す。

「帝都への急ぎのものだ。フィグネリアの書簡と共に送れ」

 侍女は四角い盆に書簡を恭しく乗せて命じられたまま部屋を出て行く。彼女が去る瞬間薔薇の香りがふわりと漂った気がしたが、それは本当に一瞬のことだった。

 パーヴェルはベッドの側の薔薇に目をやり、侍女が動いて風の流れができたせいかもしれないと、違和感に理由をつけて椅子に深くもたれかかる。

「同じ年か」

 そうして、目を伏せて三年ぶりに合ったフィグネリアの姿を思い起こす。

 娘のオリガと見合わせたとき、先帝は今のフィグネリアと同じ十八だった。元より父親似だった彼女は、ますます似てきていた。

 話し方や時折見せる挑む表情は瓜ふたつだ。

 だがまるきり同じではないことに、苛立ちに似たものも覚える。

 パーヴェルは杖を支えに立ち上がって窓辺に立つ。そこから見下ろす庭には薔薇が咲いている。

 その場所で先帝から返事を待ってため息をつき、返信が届くとまた物憂げにため息をついていたオリガの姿を思い起こす。

 当たり障りのない内容しかない返事だったらしいが、娘はひと月に一通は手紙を送って、返信を大事にしまっていた。

 見える全ては過去にすぎない。

「私だけが生き残っている」

 パーヴェルはつぶやいて、体を休めるためにベッドへと向かった。




 翌日、フィグネリア達は数人の兵と共に神殿を訪ねた。礼拝堂には昨日より多くの領民が集まっている。

 領民へは昨日の爆発音は神殿に潜り込んでいた密偵が、持ち込んだ兵器を誤って操作して死亡したと、ほぼ事実を夕刻に神殿から告げている。

 下手に多くを隠して不安を煽るより、危険はもうないと安心させた方がいい、というパーヴェルの裁量だ。

「今の所、大きな混乱はなさそうだな」

 フィグネリアは領民達の様子と同時に神官達も見渡す。彼らもさして動揺や緊張は見られない。

 ただ彼らはフィグネリアの傍らにいるクロードを気にかけている様子だった。

「……なんでしょう、これ」

「ひとつぐらいしか心当たりはないがな」

 フィグネリアはそう言いつつ、リルエーカ像の前にいる神官長に先に挨拶に行く。

「お待ちしておりました。一日経って神殿内も少し落ち着いてきましたので、お約束通り協力させていただきます。それと、後ほどでよいのですが、笛の奉納をしていただけませんか? 彼らもそれを待っていまして」

 クロードがその言葉に安心して表情を明るくする。

「笛ぐらいならいくらでも大丈夫ですよ、帰り際に吹いていきますね。いいですよね、フィグ」

 安請け合いしすぎだが、これといって問題もないのでフィグネリアはうなずく。

「クロード殿下は他国よりいらしたと聞いていたので、その……こちらの信仰はあまり好まれないかと思われますがお願いいたします」

「それは気にしないで下さい。ナルフィス教は縛りがきつくて、あんまり合わなかったんです。こっちの信仰はおおらかでとても気にいっています」

 クロードがそう答えると、神官長は感銘を受けた顔をした。

「そうですか。あなた様のような方がおいで下さって、助かります」

 フィグネリアは奉納の話はひとまず後にしてと、聴取の方へと話を戻していく。

「別個の部屋でひとりずつとお話ししたいのですが、よろしいでしょうか」

「ええ。それならば六部屋必要ですね。個別の瞑想室がありますのでそちらを利用しましょうか」

 やたらと協力的な神官長が近くにいる神官を先に奥へと向かわせる。少し進むと十字路にさしかかって案内役が止まり、一同も立ち止まった。

「私は神官長様とお話しする。各自もくれぐれも神官方に失礼のなく勤めるように。全て終わったら礼拝堂で待機していてくれ」

 フィグネリアの言葉にクロードとニカが素直に返事をして、アドロフ家の私兵は仕方なしに従うといった様子だった。

 そうしてフィグネリアは神官長と共にクロード達とは別の道を進んでいく。

「ご協力いただき、本当に感謝いたします」

「私共も突然ことで混乱しておりまして、お手を貸していただけて助かります。他国の密偵と言われましても、俗世のことは対処しきれませんので……」

 一歩前を歩く神官長は表情が見えずに、低く穏やかな声しかその内心を探る術はない。

「あの神官様はこちらに来てどれぐらい経つのですか?」

「彼は四年前にここに来ました。私は通例通り彼の俗世の名を預かり、役目と番号を授けただけです」

 この神官へとなる儀礼の簡易さが厄介なのだ。神官長が名を預かると言っても、どこに書き留めるわけでもなく、本名かどうかも確認しないので密偵が潜り込みやすい。

 そして神官となってしまえば、大神官長以外は名前はもたないので識別が難しい。

「皇女殿下はただそれだけのことでとお思いでしょうが、名を捨てるということはとても重大なことです。人は生きていく内に様々な役目を背負います。例えば『フィグネリア』様という名を聞くだけで、人はあなたが先帝陛下のご息女であり、皇帝陛下の妹君であり、次期皇帝と様々な役目を思い浮かべるでしょう。これが俗世との繋がりというものです」

 どんどんと狭まっていく廊下を進みながら、神官長が蕩々と語っていく。

「地母神様の御許に行った彼は、薬品庫二十六番とここでは呼ばれていました。薬品庫を管理する二十六番目の神官というそのままの意味です」

「その者が負う役目を俗世とは関係のないものだけにしてしまわれるのですね」

「そうです。始めこそは違和感を覚えます。私もそうでした。しかしその名で過ごす内に、慣れてきます。自らが与えられた役目以外の何者でもなくなるのです。役目が変わることも無論あります。その時には自分の元の役目と番号を誰かが引き継いで、己が神殿の機能のひとつでしかないと、知っていくのです」

 フィグネリアはその感覚は理解できなくはないと思う。

 物心つく頃から父から言われた兄の影という役目が、自分であるとずっと思い込んで生きてきた。

 与えられた役目ひとつに縛られて、自分は視野を狭めてしまった。

 俗世との繋がりを捨てるためならば、確かに手段としてはよいのかもしれない。

「……亡くなった神官様は、それでも別の役目を抱えたままでいたのですか?」

 暖炉もない小部屋に通されて、フィグネリアは促されるままに古びた椅子に座る。

「ロートムの密偵という役目を負った名を、どうやら彼はもちつづけていたようです」

 神官長が机に置かれている紙の束を、フィグネリアに差し出す。

 中を見てみればここ四年に渡る覚え書きらしく、神殿内の様子や帝国の情勢、薬についてなどが散漫に書かれている。

 ところどころに、密偵同士を呼び合う暗号めいたものも残っていた。

「薔薇のことについても多いですね。種を持ち出そうとしたのでしょうか」

「そうであれば本当に残念なことです」

 神官長はうっすらと隈がある目元の影を深くする。この事態で昨日から休む間もないのだろう。

「これは私室のどこかに隠されていたものですか?」

「いえ。彼の私室の引き出しの中に置かれていました」

 まず見つかることはないと思ったのか、ずいぶん雑だとフィグネリアは呆れる。そして神官長が差し出した小箱の中には、銃弾もあった。それと弾や火薬を押し込むための棒も机に置かれる。

 しかし火薬がない。

「これで全てでしょうか」

「ええ。これ以外に神官としての生活に必要なさそうなものはありませんでした。何か足らないものでも……?」

 フィグネリアは死んだ神官が密偵である証拠の数々を眺め、銃のことはこのままよく分からないふりをしていた方がいいと首を横に振る。

「いいえ。十分です。こちらはお預かりします」

 揃いすぎているようで、妙に足りない気もするが確認するのは後だ。

 フィグネリアはそれから予定通り聴取を進めて行く。神官長は常に落ち着いた様子で受け答えて不審なところは見られなかった。


***


「終わった、おなかすいた……」

 夕刻近くになってやっと神官からの聞き取りが終わったクロードは、礼拝堂へ向かいながら背を伸ばす。

 手の空いている神官から順に話を聞いていったわけだが、こちらは昼食を取ることもままならずに緊張し通しで、終わった途端に空腹と疲労が一気に押し寄せてきてへとへとだった。

「殿下」

 後ろからニカに呼ばれて、クロードは足を止める。

「ニカ、どうだった?」

「……ええ、それがその神官方の仰ることはほとんど同じで」

 声を潜めて、ニカが自分が持っている紙束を見下ろす。

「俺の方もそんなかんじだった。みんな密偵は真面目で寡黙だけど領民からも好かれる神官様しか言わないし、お役目と番号が名前代わりだから、なんか聞いててどれが誰の話だったか混乱してくる」

 皆同じ格好に似た口調で話す内容もほぼ変わらずとなると、延々と同じことを繰り返している気がしてくる。

 せめて名前があればもう少し違っただろうが、あいにくそれもないので記憶はまぜこぜだ。記録を見直しても、顔を思い出せる自信がない。

「そうですね。自分達が最後ではないですね」

 礼拝堂についてニカがアドロフ家の兵がいることを確認して、フィグネリアの姿が見えないことに気づく。

「フィグはもう一回神官長様の所に行ってるのかな。……笛吹くのはフィグと神官長様が来てからがいいよな」

 クロードは領民達の期待の目に緊張しつつ、空いている長椅子へとニカと一緒に腰を下ろす。近くにはアドロフ家の兵もいて、こちらに意味ありげに視線を向けた後に仲間内でなにやら話している。

「うう。あんまりいい雰囲気じゃない……」

 アドロフ家の兵達はパーヴェルの命に従って動いているのであって、その場の指揮を取るフィグネリアには不満げだった。

「なんとなく疎外感がありますね」

「仲がよくないから仕方ないんだろうけど。ここは王宮みたいに義兄上達がいたり、味方してくれる人がいるわけじゃないから、フィグも大変なんだよな」

 クロードは言いながら眉尻を下げる。

 フィグネリアは密偵の死亡についての対応策を練り、敵対するアドロフ家の人間と交渉し、さらに神官長への応対なども全部ひとりでこなしている。

「俺はどれもできないから、やれることってフィグの味方でいることだけだな……」

 日常の政務ならそれなりにこなせるようにはなってきたが、こういう緊急時の対応や敵対する人間との交渉はまだ難しい。

 フィグネリアからの昨日の講義も学ぶことは多かったが、知識と先を読めるだけの経験が不足していることも痛感させられた。

 いつも以上に隙がなく、厳しい顔でいるフィグネリアの横顔を思い出して気持ちは沈んでくる。

「殿下は今はそれでよろしいのでは? なすべきことはきちんとなしています」

「”フィグ”の旦那様としてはさ、まだそれでいいかもしれないけど。でもさ、俺って”次期皇帝”の夫なんだよな。フィグひとりでアドロフ公とマラット様の相手しなくていいようにならないと」

 昨日のアドロフ公との挨拶で『そうか』の一言しか返してもらえなかったことも引きずっていた。

 見た目は弱そうで協議中もほとんど喋らなかったので、警戒心を持ってもらえないのは仕方ないとは分かってはいるけれど。

「あのお二方の相手を同時にするのは皇女殿下しかできないと思うのですが。自分も、皇女殿下のご勇姿を直に拝見したかったです」

 パーヴェルを交えての協議では部屋の外にいたニカが、実に残念そうに言う。

「ニカ、本当にフィグのこと好きだな。でも、俺の奥さんだから駄目だぞ」

「も、もちろんです。俺はあくまで、皇女殿下のご賢才に憧れているだけです」

 顔を赤らめてニカが必死に否定する。あまりにも真剣すぎて、ほんの冗談のつもりだったクロードは吹き出す。

「分かってる。好きな女の子に対して、『ご勇姿』なんて言わないよな。だって、何してても全部可愛く見えるし」

「……殿下はそういうところが、大物のように思えます。俺はまだ、お目にかかるだけで緊張します」

「俺の場合、フィグの立場なんて全然知らなかったからなあ。結婚式で見たとき、凄く綺麗なひとで嬉しかった」

 顔を見るより僅差で先に胸を確認したことは秘密にしておいて、クロードはリルエーカ像を見上げる。

 大神殿の地母神像の前で緊張気味に待っていた時の事は、今でもよく覚えている。

(…………顔はそこそこでいいから、胸が大きいといいですとかお祈りしたな)

 思い起こせば、結婚式当日はフィグネリアの夫になることの意味を、まったく真剣に考えていなかった。

 たった八ヶ月ぐらい前の自分なのに、ちょっと殴りたい気分になる。

「……ニカ、俺、結婚式からは多少成長したと思う」

「そこまでお戻りにならなくても、日々殿下はしっかり学ばれて成長されていますよ」

 ニカの返答はどこまでも真面目なものだった。

「クロード」

 不意に妻が自分を呼んで、クロードはびくりと肩を跳ね上げる。声の方へ視線を向けると、神官長と並んで立っているフィグネリアがいた。

 いそいそと席を立って移動したものの、なんとなく目をあわしづらい。

「何か問題でもあったか?」

「え、ああ。ちょっと結婚式の時のこと思い出してて。こんな時にすみません」

「それはいいが。結婚式か。最近のことなのに、やけに懐かしいな」

 訝しげにしていたフィグネリアが優しく目を細めて微笑む。彼女の優しさが全部詰まった、暖かい笑顔だった。

(やっぱり俺、もっと頑張らないとな)

 あんな自分を見限らないでいてくれた妻のそんな表情を見ていると、へこたれそうな心に否が応でも気合いが入る。

「あ、笛を吹きますけど曲調はなんでもいいですか? 決まった曲っていうのは吹けないんですけど」

 クロードは夫婦の間に入りづらそうな神官長に気づいて笛を取り出す。

「今日は追悼の意を込めたものをお願いできるでしょうか。密偵とはいえ、神官の勤めも果たしていた者です。彼の魂がリルエーカ様にお許しを頂けるよう、お力添え下さい」

 神官長の申し出を聞いてクロードはすぐに笛に口をつける。

 周囲の人々の視線が気になるのは音を出すまでだけのことだった。息を吹き込むと、周囲は無になる。

 流れ出る音は残された者の悲しみに寄り添うのでなく、純然と死者のためだけの曲は明るいものだった。

 クロードは笛を奏でて死者を導いて見送り、音を止める。

 礼拝堂は静まりかえっていて、皆敬虔な顔をして彼を見つめていた。

(ううん、こういう反応慣れないなあ……)

 神霊や妖精が好む音楽がこの国ではとても神聖なものとされているのは、知っているとはいえむず痒いものがある。

「……よき音をありがとうございます。これで彼も救われるでしょう」

 クロードは神官長から礼を言われた後に、席に着いていたフィグネリアの隣へ腰を下ろす。

「いつもながら、お前の笛はすごいな」

「褒められても、自分じゃ音の善し悪しって分からないから不思議です。……なんだかまだ帰れそうにないですね」

 神官長がリルエーカ像の前に立って、なにやら話を始めるらしく領民達は静かにそちらへ目線を向けている。

 自分達の用は済んだので帰ろうというわけにはいかなそうだ。

「皆様方、昨日神殿内に、俗世と縁を切れずにいた神官がおりました。神官長として、見誤りがあったことを悔います。そして、彼の者が現世で俗世を離れて真に神々に仕える者とならずに地母神様の御許へと旅立ったことをなによりも残念に思います」

 神官長の声は礼拝堂によく響いた。大勢を前にしながら、ひとりひとりに語りかけるかのような声は聞き心地がいい。

「もはや死者に偽りはありません。地母神様の御許で彼の者は真実の心をさらけだし、そして己の行いを悔いることでしょう。そうして、リルエーカ様からのお許しを頂けることを信じましょう。そこに素晴らしき楽士様もいらっしゃいます。彼の者と同じ異教の民でありながら、我らが信ずる神々に敬意を持ち、偽りなき澄んだ心で音を奏でてくださる楽士様が」

 一同に期待と敬意を含んだ熱い視線を向けられたクロードは苦笑いをしつつ、フィグネリアの耳元に顔を寄せる。

「フィグ、この流れまずくないですか?」

「どうにも、薔薇が実をつけないのは密偵のせいだったということになりそうだな」

 フィグネリアが渋面で応える。

 薔薇が散らないのは神霊の影響があるのは確かだが、このままでは密偵が死んだことが事態の好転と思われてしまう。 

「楽士様への感謝の気持ちと神霊様への祈りをそれぞれ心に抱きましょう。必要なのは真実の心です。偽りなき善意と希望。それを忘れなければ必ずや、リルエーカ様が我々に恵みを与えてくださいます。悲観と不安が大きくなるのなら、花を愛でてください。薔薇の美しさにのみ心を向けるのです」

 それにしてもとクロードは神官長に目を向ける。

 第一印象はこれといって特徴のない穏やかそうな人だったが、いざ講説を始めると自然とその声に吸い寄せられて聴き入ってしまう。

 普段の喋り声とは明らかに抑揚や音の高さが違うので、意図的に作っているものだろう。

(……既視感あるけどなんだろう)

 ふっと記憶に引っかかりを覚えて、クロードは首を傾げる。

「どうした?」

「え、いや何か思い出しかけてたんですけど忘れました」

 考えているとフィグネリアに声をかけられて、あやふやな記憶が霧散してしまい、掴みようがなくなってしまった。

 そして話を聞き終えて神殿から出るとき、見送りの神官長に呼び止められる。

「できれば、ご滞在の間中は笛の奉納をしていただきたいのですが……」

「大丈夫ですよね、フィグ」

 神殿の様子を見るのに好都合ではないかと、クロードはフィグネリアに訊ねると、明日の午前中にまた訊ねてくることが決まった。そうしてクロードはフィグネリアとニカと共に馬車に乗り込む。

「あとは戻って調書をまとめてマラット様に報告、ですよね」

「ああ、しかし神官長含めどの神官方も同じことしか言わないな」

 苦々しく言うフィグネリアの方も、あまり有益なものが手に入らなかったらしい。

「でも、薔薇はちょっと困りましたね。散らないのは密偵のせいじゃないんだけどな……」

 クロードは窓の外の夕日に溶け込む薔薇を眺めて眉根を寄せる。

「皇女殿下、散ってしまったら、どうなるのでしょうか。密偵の行為は正しき行いと認定されてしまうのでしょうか」

「神殿の法と我々の法のどちらが優先されるか。神殿内部のこともまだ掴めない以上は、どうとも言えん」

 重苦しく言うフィグネリアの表情は厳しい。

 彼女が即答できないということは、自分が考える以上に難しいことなのだろう。

 クロードは重苦しい気分で窓を流れる景色を見つめる。真冬の日暮れは早くアドロフ家の城が見える頃には、辺りは闇に包まれて何も見えなくなった。


***


 離れに戻って三人がまずしたことは、神官の役目ごとに調書を分けることだった。向こうの都合に合わせたので、順番も役目もばらばらなのだ。そして今日は神官全員と話せたわけでないので、番号抜けの記録も一緒につけていく。

「しかし、本当に様々な役目があるものだな」

 フィグネリアは離れの広間の大きなテーブルが、調書で埋め尽くされているのを眺めて唸る。

「密偵は薬品庫なんですね。ここの人たちが一番詳しいはずです。後は処方の方もそうですね」

 クロードがテーブルの中央の束と、右端を指差す。

「処方? クロード、そちらが関係してくる情報があったのか?」

「え、ああ。神官様が領民に好かれてたって言う神官様がいたんです。薬品庫の役目で領民と接する機会があるのかなって訊いたら、前は処方のお役目に就いてたって」

「そのことは聞いていない。その神官様は特に動揺することなく答えてくれたか?」

 フィグネリアの問いにクロードは首を縦に振る。

「隠してる雰囲気はなかったです。今は他にそのお役目と番号を引き継いでいる人がいるそうです」

 神官長も役目が変わることもあると言っていたものの、密偵が変わったことには触れていなかった。

 あの会話の流れで口にしないのも不自然な気もする。

「いつ変わったかは分からないか?」

「すいません、そこまでは訊いてないです……」

 申し訳なさそうにクロードが眉尻を下げた。

「それは明日訊いたら分かるだろうからいい。しかし、ここまで口裏を合せてきたなら神殿内で隠したいことがあるのだろうな。領民達にも明日話を聞いてみるか。さすがにここまでは口裏は合わせられんだろう。後は、これからも情報を得ることはできそうにないな」

 フィグネリアは神官長からもらった密偵の覚え書きを手に取る。中身はざっと確認したが、最初の予測通り薔薇についてと帝国情勢についてだった。

 密偵である証拠となるものではあるが、現状ではまるで有用性がない。

「一日費やしても、あまり収穫がありませんでしたね……」

 ニカが疲弊した声でそう言う。

「向こうが隠すと決めたら、こちらはまだ引いていないといけないからな。得た情報を検証して、根気よく有益なものを見つけ出していかねばならん。ひとまず、神官方の証言の比較から始めるか」

 フィグネリアは調書の量に嫌気がさしつつも、役目ごとに証言を見直していく。

「といっても格別何もないですよね。ただ処方のお役目の人たちの方が言葉が多いかな。それなりに具体的です。今日、お話しできなかった人の中に密偵がいるんでしょうか」

 調書を見直した後にクロードが各役目ごとの抜けた人数を示したものを眺める。

「その中にここ五年で入った者を探すのも、やぶ蛇をつつくことになるか。話していないことが隠したいことだろうが、対人関係をぼかしているの引っかかるな……」

「あの神官様が密偵だってことは知られても問題ないってかんじですよね。銃とか薔薇についてだとか、密偵でしたって証拠は向こうから出してくれてます」

 クロードの言う通り、あれが密偵だったと知らない割には必要なものを揃えて提出してきている。

 内部にまだ密偵がいるなら混乱に乗じて処分していてもおかしくないはずだ。

「神殿側は内部に密偵がいたことは隠す気はないが、自分達が密偵の存在に気づいていたことは知られたくないといった所か」

 まだもやもやとしたものを抱えながらフィグネリアは腕組みをする。

「ですが皇女殿下、それならばもうひとりの密偵の存在も神殿は知っていることになりませんか?」

「ああ。対人関係を明らかにしないことからして、そうかもしれん。いかんせん、まだ情報が少なすぎるな」

 フィグネリアは息をひとつはいて、ソファーにもたれる。

 考えられる可能性は片手で足りないぐらいあり、今は地道に小さな手がかりを拾い集めていくしかない。

「銃の有無もだな。火薬がないのはありったけ銃身に詰めたのか、取っておいてあるのか。ひとまずここまでを報告してくる。あちらも、薔薇の実の収穫量や神殿への荷運びの詳細の記録を集めてくれているだろう。お前達は先に食事をすませていていい」

「え、俺もついていきますよ」

「いや、簡易の報告なのですぐにすむ。お前についてきてもらうほどでもない」

 長い協議になるならクロードにもいてもらって後々のために、流れややりとりを見ていて欲しいが、今話したことをマラットに告げるだけなのでわざわざふたりで行く必要性はない。

「……それなら、フィグが戻ってくるまでもう一度調書を見直しておきます」

 クロードは何かをいかけてそれをぐっと堪えた顔をする。ニカはその表情の意味が分かっているのか気遣わしげな顔でいる。

 フィグネリアは気になったものの、入り込みにくくてそのまま何も訊かずに部屋を出る。

 燭台の灯に闇が揺れ動く廊下は寒々しく、ひとり歩きは物寂しい。大体何をするにしてもクロードが横にいるのが当たり前になっているので、なおさらそう感じてしまう。

(ついてきてもらった方がよかっただろうか)

 フィグネリアは自分の思考に子供じゃあるまいしと自嘲する。

 別に政務を手伝ってもらうわけでもなく、学んで欲しいことがあるわけでもないのに同行してもらうのはただの甘えだ。

「夜道は暗いのでお供します」

 離れから出ようとすると、年若い侍女が手燭を持ってやってくる。まだ十五ぐらいだろうに、黒髪をひっつめた彼女はずいぶん落ち着いた雰囲気だった。

 フィグネリアは彼女の先導のもと、城へと向かっていく。

 弦月の夜は闇が深すぎてほんの二、三歩先も灯がなければ見えない。ただ薔薇の匂いがいつもより強い気がする。

「今宵は薔薇が香りますね」

 侍女が同じことを思ったらしく、そう言う。

「ああ。もう十日近く咲いているのか」

 フィグネリアは暗がりの向こうにあるはずの薔薇へと目線を向ける。

 薔薇はいつまで咲き続けるのだろうか。散らないのは困るが、まだ密偵についての状況が把握しきれない内はそのままでいてもらわないと困る。

 あえて母のことから意識を逸らそうとするが、脳裏では彼女の姿がちらつく。

「永遠には咲き続けていられないでしょう。全てには終わりがあります」

 どこか責め立てるような言い方だった。それよりも含みがありすぎる言葉が気にかかる。

「失礼します」

 フィグネリアが声をかける前に城にたどり着いて侍女はおざなりにそう言い、すっと暗い廊下の奥へと消えていく。

「すまない。あの侍女は、いつもああなのか?」

 フィグネリアは自分と同じく不可解そうな顔をしている、城の入り口の衛兵に問いかける。

「……いえ。少々騒がしい所もありますが、礼節はわきまえている娘です。無礼をいたしました」

 儀礼的に謝罪をする衛兵に、そこまでは不快だったわけではないのでとフィグネリアはこのことを口止めしておく。

(神霊様だろうか) 

 侍女らしかぬ態度以外は落ち着きある少女にしか見えなかったが、普段とは真逆の態度ならそうなのかもしれない。

 フィグネリアは神霊を気にかけながらも追い駆けるわけにもいかず、重たい足取りでマラットの執務室へと向かった。

 

***


「失礼します。お薬をお持ちしました」

 侍女の声がかかって、マラットからの報告書を読んでいたパーヴェルは入室の許可を出す。そして静かに侍女は銀の盆をもって入ってくる。

 昨日手紙を預かりに来たのと同じ侍女は盆を置いた後に、じっとサイドテーブルに置かれた薔薇を見ている。

「なぜ薔薇は散らないと思いますか?」

「神霊様のご意志なのだろう。我々にはどうすることもできん。もう下がれ」

 命じると侍女は一度目を伏せ、じっとパーヴェルを栗色の瞳でとらえる。

(十五の娘の目ではない。いや、人なのだろうか)

 透明すぎる双眸はあまりにも澄み切っていて、畏怖すら覚える。

「お前はなんだ」

「……花は祈りです。祈りは叶えば実を結ぶ」

 微かだった薔薇の香気が、むせかえりそうなほど強くなる。

 目の前の景色が薄暗い部屋から柔らかい冬の陽射しが降り注ぐ庭へと変わる。

 乱立する薔薇のための柱の中に娘のオリガが立っている。白い外套を羽織り、風に銀糸を揺らめかせる細い体は、周囲の柱と同化している風にさえ見える。

 辺りに花ひらく橙に語りかける娘の瞳に、穏やかな愛情が滲んでいる。

 オリガが花の一輪、一輪を愛でて慈しむ姿は嫁いだ後でも見かけた。わずか二日しかない花の時期を逃すことなく、娘は年に一度、帰郷してきていた。

 不思議なことに薔薇たちは娘が戻ると一斉に花を開かせるのだ。

「まさか、オリガを待っているのか……」

 薔薇に彩られた過去の幻影の中でパーヴェルはありえないと、自分の考えを否定する。

「そして彼女の、祈りが叶うことを」

 どこからともなく侍女の声が滲むように響く。

「……オリガはもう死んだ。実を結ぶことはない。枯れるのみだ」

「いいえ。生きているのです。偽りなき心を持つ彼女の祈りはまだ、生きている。祈りの死はあなたの死と同じ」

 囁きの後に薔薇の花嵐が起こる。

 色鮮やかだった橙の花弁は瞬く間に茶色く変色し、瑞々しさをなくしてかさついた音を立てて舞う。

 嵐に娘の姿がかき消され、薄暗い部屋にパーヴェルはひとり取り残された。


***


 翌日、フィグネリア達は神殿の裏手で言葉もなく立ち尽くすことになった。

 目の前の大地が一面、黄昏色に染まっていた。降り積もった雪の色が見えないほど、薔薇の花びらで埋め尽くされているのだ。

 今朝になって神殿の裏手の薔薇が散ったとの報告があって、神殿を訪ねる前に確認に来た。

 城から神殿までの間の薔薇は鮮やかに咲き誇っていたのに、神殿を境にこの通り景色が一変した。

「あれはやはり、神霊様だったのか」

 フィグネリアは呆然とつぶやく。その足下では微風に花びらがゆらゆら揺れている。

「終わりがあるって言ってたんですよね。このことだったんでしょうか……」

 クロードが周囲にいる人々の目を気にしながら、手近にある薔薇の蔓に触れる。ニカがその姿を人目から隠すように動いた。

「……神霊様の力が届ききらないから、力尽きちゃったんだと思います。お城にいるのなら、たぶん離れてたここまでは力を貸せなかったんじゃないでしょうか。大神子様の体に降りてきていても、妖精を動かせる範囲は狭いって聞いたし」

 そう言うクロードの瞳から不意に滴がひと粒、ふた粒と転がり落ちて、フィグネリアはぎょっとする。

「クロード、大丈夫か!?」

「え、あ、うわ。すいません。ちょっと一瞬すごく共鳴しちゃって……」

 言われて自分の涙に気づいたクロードが、自分自身でもびっくりながら袖口で目元を拭う。特に問題はなさそうでフィグネリアは胸を撫で下ろした。

「薔薇は枯れてしまって辛いのですか?」

 ニカが心配そうにクロードを見ながら問う。

「…………母上が亡くなったときの気持ちだなこれ。もう絶対に笑顔が見られなくて、声も聞けなくてそういうの。でも同じようで微妙に違うかもな」

 クロードがフィグネリアの硬い表情に気づいて笑む。

「フィグ、俺は大丈夫ですよ。本当に妖精達と共感しすぎただけですから」

「それならば、いいが。しかし薔薇達にとって母上との永遠の別れは、今なのか」

 最後の帰郷七年前、没したのが三年前。なぜ今頃になって薔薇達はこうして咲き続けるのか皆目見当がつかなかった。

「他の薔薇もいずれは散ってしまうのか?」

 フィグネリアは小波のように揺れる薔薇の花びらを見つめて、息苦しい思いで問う。

「お城の薔薇はまだ元気だったけど、このまま順番に散っていくかもしれません。後で、まだ咲いている薔薇の様子も見てきます」

 フィグネリアはそうしてくれと返して、周囲を見る。

 領民達はただ純粋に喜んでいる。ほんとんどが薔薇の実で生計を立てていて、薔薇の実がつかないのは死活問題だ。

 そうして神霊の不興を買ったのではという最大の不安は和らいでいる。

 これで密偵の死亡への動揺は消えるが、神殿への介入は確実に難しくなっていく。

「……神殿へ行くか」

 フィグネリアは散った薔薇に背を向ける。

 まだ散らないで欲しいと思うのは、なんのためだろうか。

 自分自身に投げかけた問いかけの答は見つけられなかった。


***


 神殿はへ行くとすでに入り口に人集りができていて、クロードが歓待された。礼拝堂の中もすでに人で溢れかえっていて、身動きもろくにできないほどだった。

 昨日と同じくリルエーカ像の前で講説していたらしい神官長が、皆に道を空けるように指示してフィグネリア達はやっと動くことができた。

「本当に、昨日の今日で時期がよすぎたな」

 フィグネリアは小声で言って、ため息をつくのを堪える。

「俺の笛も薔薇が散った要因って思われてるのは分かってたけど、本当にすごいな」

「楽士様というのはそれほどの意味がありますが……」

 唖然とするクロードに説明するニカもこの事態には驚きを隠せない様子だ。

「お待ちしておりました。リルエーカ様は奉納をお気に召して下さったようです。ありがとうございます」

 神官長が深々と頭を下げられたクロードが反応に困りながら、曖昧な笑顔で対応する。

「神官長様、少しお伺いしたいことがあるのですが……」

 フィグネリアは神官長の意識を自分に向けさせる。

「はい。なんでございましょうか?」

「亡くなった神官様ですが、以前は処方のお役目を務められていたのですか? 神官様からそう聞いたのですが」

 単刀直入に問うと、気のせいかと思うほど微かに神官長の表情が動いた。

「ああ。ええ。そうです。お話ししていませんでしたか。申し訳ありません。私もまだ動揺していたらしく……」

「いえ、あれほどのことがあった後ですので。それで、いつ頃にお役目を変わられたのでしょうか」

「……おそらく、半年かそれよりもう少し最近かと。薬品庫の役目の者が腰を痛めて、別の役目に移ったので変わってもらったのです」

 躊躇した後に神官長がそう答える。変わった時期は内乱騒動前後らしいが、おそらく後だろう。

 あれだけの大事があった期間のことがあやふやなのは妙だ。

「そうですか。ならば交流があったそうなので今日はこのまま領民と話させていただいていいでしょうか?」

「皆様方は落ち着いてきていますので、あまり混乱をきたさないようにしていただければと」

「ありがとうございます。クロード、今日は先に笛を頼めるか?」

 フィグネリアはひとまず領民に一度落ち着いてもらうために、クロードに演奏をしてもらう。

 彼も意図を察してくれたらしく流れ出る音は穏やかなものだった。

 ざわついた空気が急速に静まり、堂内は小鳥の囀りに似た笛の音で満たされる。演奏が終わっても人々は言葉もなく余韻に浸っていた。

 フィグネリアも音を聞き終える頃には張り詰めていたものが緩んでしまっていて、気を取り直す。

「お前の笛は聞く度に上達していくな」

「そうですか? それにしても、これだけ集まってるといろいろ聞けそうですね。えっと、ここ四年の内で定期的に薬の処方をしてもらってる人を絞ればいいのかな」

 クロードが首を傾げるのに、フィグネリアはそうだと答えて神官長を見る。

「できれば、その神官様が処方をしていた領民が分かればいいのですが、記録などはありますか?」

「残念ながら、どの方に薬を処方したのかの記録だけで、それを元に手が空いているものが当たっていますので……」

 そうなると確実に絞り込めないので、クロードが言った通りに薬を定期的に処方してもらっている領民に残ってもらった。

 そしてざっと五十人近くが礼拝堂に残った。ひとまずは自分が処方してもらったことのある神官の番号は知っているかと問うたが、案の条誰ひとりとして知る者はいなかった。

「名前がないってこういうとき大変ですね……」

 クロードが領民を見渡して肩を落とす。

「自分達にとって神官様は神官様ですから。誰が誰でという区別はしません」

 ニカが苦笑して説明するように、フィグネリアも同じだった。神官の顔を覚えるということをしたことがない。

 接する自分達にとっては役目や番号すらなく、『神官様』のひとくくりですんでしまう。

 それからは神官長に髪の色や目の色などの特徴を言ってもらい、ここ半年ぐらいで見かけない神官という条件を絞ることにした。

 死体しか見ておらず、髪の色はともかく具体的な身体的特徴を知らないので、詳しい特徴を聞くのはフィグネリア達も初めてだった。

 情報は少しずつあがっていくが、領民達の記憶は曖昧でどこまでも頼りない。

「……土を、夏に土を小箱に詰めている神官様を見かけました。神官様のなされることのなので、その時はそこまで気にはしませんでした」

 しばらくしてやっと代わり映えのある話が出てきて、フィグネリアは詳しく聞いてみる。その神官に井戸水のことや、薔薇の育成について話したことがあるという。

 そしてそれを契機に他の領民からもそういえばと、ちらほらと似た話が上がり始める。

「土や水を集めてどうするのでしょうか」

 領民達の話を書き留めていたニカがクロードへと訊ねる。

「土や水の違いを調べる学問があった気がする。なんだっただろう、俺、講義なんてほとんど受けてなかったからなー。うう、ロートムの程進んでなくても、少しはこの国にない学問が入ってきてたからちゃんと学んどけばよかったな……」

 幼い頃に自分自身の将来を諦めきっていたクロードがため息をつくと、ニカが不思議そうに首を傾げる。

「土や水の違いは、神霊様や妖精の差ではないのですか? ロートムやハンライダは神霊様や妖精の存在を信じていないのですよね」

「うん。だから、神霊様や妖精が全然関係ない学問があるんだ」

 クロードの返答に、典型的なディシベリア国民のニカはなんだかよくわらないといった顔だった。

「こういう意識を変えねばならんのは、本当に苦労しそうだな」

 ニカに限らず、大抵の国民がこれで、技術革新の弊害になっている。内政の改革にしろ、何にしろ問題は山積みすぎて気が重い。

 それからしばらく領民の話を聞いたものの、これといって気になることはなかった。

 神官の人となりについても、真面目で気が利く人当たりのいい青年だったとしか出て来ない。ただその人物像に昨日の聞き取りとぶれがあった。

 処方の時にいろいろと話しかけてきて体を気づかってくれるなど、神官は積極的に接してくれると、領民達は話す。

 だが昨日の聞き取りでは真面目で寡黙だが、人当たりは悪くなく誰にでも好かれるが特に親しい間柄もいないとのことだった。

(内と外では対応が違うだろうが……)

 些細な言い方の差もあるが、それでもフィグネリアは妙にそれが引っかかった。

 後は密偵が薔薇について調べていたことぐらいしか分かることはなく、フィグネリア達は昼頃には神殿を辞した。

「表向きは社交的にふるまうけど、本当は人と親しくするのは好きじゃないっていうのはよくありますよね」

 城へ帰る途中で場所を止めて降りた薔薇園の中で、フィグネリアはクロード達に気にかかったことを話す。

「ああ。私もそう思うのだが……。昨日の調書の人物像と今日聞いた人物像がどうにもずれている気がしてな」

 ひとりの人物の裏表と考えるには、少し納得がいかないところがある。

「……神官長様が言った密偵の特徴って、髪の色と年齢、顔の雰囲気ぐらいで結構曖昧だったな。えっと、例えば俺とニカの髪の色が一緒だとして、他の特徴として身長と年齢だけ伝えられると馴染みのある方を思い浮かべますよね。そんな風にして密偵がふたりいるのを誤魔化そうとしたんでしょうか」

 フィグネリアはクロードが首を傾げるのに、背格好の似ている主従を見てうなずく。

「そうだな。それに加えて神官様は名前がない。他の者が自分と別の人物を思い浮かべていても違うと気づきにくい」

「皇女殿下、それならば、神官長様はもうひとりの密偵をこちらに渡したくないことになるのですか」

 事態が思った以上に面倒なことになりそうで、ニカの表情は不安そうだった。

「ああ。意図は分からんが、神殿側は他の密偵をかくまっていることになるな。戻ったら、エリシンの取った覚え書きを整理して調書と突き合わせ、分離するか。クロード、薔薇の様子はどうだ?」

 ひとまず密偵のことは後に回すとして、フィグネリアは薔薇と触れ合うクロードに問いかける。

「やっぱり元気がないです……。ところどころ花がないのは精油のためですよね」

「実がつきすぎても翌年に響くからな。精油は花を無駄にしないための副産物だから、実よりもさらに希少だ」

 その精油からできた香水をアドロフ公は毎年母に当てて送り続けている。

「……いつまで保つかは分かるか?」

 フィグネリアが問うと、クロードは静かに首を横に振った。

「そんなに長くはないと思うんですけど、神霊様次第だと思います。降りてきてる所を見つけたら、話してみた方がよくないですか?」

「だが、そこでお怒りに触れることにならなければいいが。本当に、神霊方のお考え分からんな」

 昨日会った神霊は不機嫌そうだったが、一体何が勘に触ったのかさっぱりだ。

 クロードは薔薇の蔓を撫でながら、瞳を陰らせている。労りと慈愛がその姿には見てとれた。

(薔薇達にすっかり共感してしまっているんだな……)

 フィグネリアは優しすぎる夫の側に寄って、空いている彼の手に指を絡める。

 そうすると薔薇達の思いや、彼らを思いやるクロードの気持ち、それから自分の中にある母への思いが全部解け合っていく気がした。

 



 城に戻ったフィグネリアはまず、大神殿へ薔薇が散り始めたことを報告する書簡を出した。それから昨日の神官の話と、今日の話を合わせて見直してマラットととの協議に入っていた。

「現状、他に潜んでいる密偵はひとり確認できました。ほぼ同時期に薬の処方の勤めについていたようです。目的は薔薇の繁殖と情報収集で間違いないかと」

 フィグネリアは先に結論だけ報告する。

「こっち、じゃなくてこちらが昨日の調書のまとめで、これが今日のまとめです」

 クロードが緊張気味に書類をマラットに差し出す。今日は黙って座るだけでなく、できるだけ話すことになったのだ。

 フィグネリアは横目で夫を見て、やたら力の入った肩や強張った口元につい苦笑しそうになる。

「神官達の証言は統一されているが、領民側はふた通りか。どちらも外見特徴や印象が似ているせいで混同したのか」

「はい。姿を見せなくなった時期も、内乱騒動の後ぐらいみたいです」

 クロードがそこまで言って、フィグネリアと続きを交代する。

「以上のことより、神殿側は密偵の存在を把握していたと思われます。領民達に死亡した密偵の外見特徴を説明したのは神官長様でした。意図的に外見で似通っている部分だけ話した可能性がおおいにあります」

 とつとつと告げると、マラットが眉根を寄せて睨みつけてくる。

「口を謹め! 神官長様に対してその疑心は神殿への不敬だ!」

「ですが、事実のみを見ていけばそうなります」

 フィグネリアは厳かにマラットを一蹴する。

「えっと、神官長様は内乱騒動後に密偵の役目を変えて密偵を領民達とは触れ合わない役目に変えて、少なくとも片方には何らかの罰を与えているはずです。それが神官長様の意思か、密偵の意思かが、大事だと思います」

 クロードが最後で少しつっかえつつ最後まで言い切る。

「密偵が神官長様を動かしているのか! ならばなぜ救援を求めない。あげくに銃など使って密偵がいると自ら吹聴しているようなものではないか!」

「ええ。そこが私達も引っかかっているのです。始末するなら、外の人間に知られない方法がいくらでもあったはずです。引き続き、神殿内部の調査に努めたいと思います」

 銃の暴発という手が込んでいて派手なやり方と、周到さの足りない隠蔽がまだ噛み合わない。

「今の所、俺が楽士として受け入れられているので、神子様ともお話ができないか交渉するつもりです」

 最大限に緊張しているものの、かろうじて逃げの姿勢に入らずにクロードが明言した。

 フィグネリアはひとまず、これを正面切って言えたことへ安心してマラットの反応を伺う。

 自分が喋る以上にそわそわとして、落ち着かない気分だ。

 夫婦揃って固唾を飲んでいると、マラットは眉根を寄せて口を開く。

「やるならしくじるな。無理を通そうとは絶対にするな、いいな!」

「はい!」

 そしてマラットからも承諾を得て、クロードが背を伸ばして負けない勢いで返答した。

「フィグネリア、婿の目付け、くれづれも怠るな。それとだ、今宵は楽士をもてなす晩餐をすることになった。詳しいことは後で使用人を寄越す」

 心底不本意そうな顔でマラットが言ったことに、クロードはもちろんフィグネリアも少し驚いた。

「お、俺だけですか。というか、そういうのは別にいいんですけど」

「ならん! 神殿へ音楽を奉納する楽士に領主は一度は礼を尽くすものだ。現に薔薇も散り始めた以上、もてなしはことさらせねばならん。フィグネリアも同席しろ!」

 フィグネリアへの敵意と、伝統と礼節を重んじなければならない思いの間での葛藤がありありと分かる表情で、マラットが乱暴に命じて席を立つ。

 いつも以上に激しく床が踏まれる音を聞きながら、フィグネリアはクロードと顔を見合わせる。

「なんか、もてなされるみたいですね、俺。あ、それよりちゃんと喋れてましたか!?」

「最初としては上出来だが、もう少し自信を持て。迷えば味方には不安を与え、敵には隙を見せることになる。どんな相手であろうと、最初が肝心だ」

 クロードは自分自身を大きく見せることが苦手だ。それは彼の優しすぎる気質や、これまでひたすら自分への期待をすてきたせいもあるので、まだ多く経験が必要だろう。

「はい。精進します。フィグ、晩餐って普通に食事するだけでいいんですか?」

「後は主賓として気を張らずに余裕を持って対応だな。私は添え物なので黙って夫に付き従うだけだ」

 フィグネリアはすでに硬くなってきているクロードの頬を、指先でつつくようにして撫でる。

「楽士として歓待されるんだ。そう難しい話題もない。ダリヤ様……マラット殿の奥方もいるだろうからそこまで硬い席にはならんだろう。さて、お前はそれで正装になるが、私は身支度をせねばな」

「フィグ、着替えるんですか? もしかしてドレス?」

 緊張やら何やらで沈みがちだったクロードの表情が明るさを取り戻す。

「ああ。こういう席では女は軍装というわけにはいかん。面倒なことだ」

 うなずくと同時に夫の顔からは暗い影は消え去った。

「結婚式以来のドレスですね!」

「ん、ああ。そうだったな。そういえばお前が来たのは夏も終わる頃だから、これまで式典の類が一切なかったからな。……それよりなぜそうも喜ぶ」

「え、だって。滅多に見れないし、可愛くて綺麗なフィグがもっと綺麗になるんですよ。楽しみです!」

 期待で琥珀の瞳を輝かせるクロードに、フィグネリアは言葉に詰まる。

「……普段と大して変わらんだろう。それに春先から夏の初めにかけては他国を招いての式典や宴が月に一、二度ある。日に三度着替えることもあるぐらいだから、すぐに見慣れる」

 異様な期待感にフィグネリアは釘を刺すが、クロードはまったく聞いてはいないようだった。

 

***


 フィグネリアがドレスを着ると聞いて、喜んだのはクロードだけではなかった。

 滞在が延びて退屈そうだった同行の侍女達は、身支度の手伝いを命じた途端に生き生きし始めていた。

「皇女殿下、ドレスはイサエフ様からお預かりしているものがあるので、そちらにいたしませんか? 新しい製法で織った布を使ったものらしくて、着る機会があれば是非試着していただきたいそうです」

 ザハールの名に、フィグネリアはいつの間に侍女を丸め込んでいたのかと呆れる。

 イサエフ候家は織物で大きな財をなしている。神霊より授かった鉱石で染めた糸で織られた布地は、他に類を見ない美しい浅葱色となる。

 色合いとしては派手すぎずにいいだろうと、フィグネリアはそれに決めて着替える。

「皇女殿下、よくお似合いです。ドレスがお美しさを引き立てていて、イサエフ候家の浅葱染めは本当にいつも素晴らしいですわ」

「ああ、相変わらずよい品だ。だが寒い」

 うっとりとした様子でフィグネリアを見ていた若い侍女が、年嵩の侍女に長手袋を用意するよう言われて側を離れる。

「姫様、御髪は結い上げた方がよろしいですね。もう少し長ければ、下ろしてもよいのですけれど、お小さい頃の時ほどお伸ばしにはなりませんか?」

 そしてその年嵩の侍女はフィグネリアの髪を整えながらそう問う。

「自分ですぐに身支度できる方がいいから、このままだ」

 幼い頃から付き従ってくれている侍女は、少し寂しげに微笑んだ。

「昔はお着替えのお世話から、髪を結うまでさせていただいていたのに楽しみが減ってしまいました」

「すまない。だが着替えも髪も自分でできる軍装に慣れると、どうしても煩わしくてな」

 父が没するまでは、ドレスが日常着で髪も背中まであった。政務で忙しく身支度に時間が掛るドレスから、軍装に変えると何をするにも楽ですっかり馴染んでしまった。

 お揃いのドレスを着るのが好きだったリリアはつまらなさそうだったが、自分は軍装が一番いい。

「義姉上がひとりで着替えができない服は窮屈だと言っている意味がよく分かるようになったな」

 フィグネリアは未だにドレスを着るときに、嫌そうな顔をするサンドラを思い出して苦笑する。たった五年で自分がこれなのだから、子供の頃から狩装束で過ごしていた彼女はもっとだろう。

「……皇后様も姫様もお飾りにならないので、私どもは仕事の楽しみの半分がありません」

 フィグネリアは鏡の中で結い上げられていく髪に、だけれどと思う。

(母上と同じなのはこれだけだった)

 髪は刺客と争う内に一部をざっくり切ってしまい、それを誤魔化すのに短くしてしまった。

 銀色の髪は母と同じ色だ。だから自分の髪はとても好きだった。

 それにまっすぐな髪質はリリアとも一緒で、揃いのドレスを着て並んだ後ろ姿は双子のようだとよく言われた。

(だけれど違う)

 面立ちを始めとして様々なものが母や妹とは全く逆だった。その中で、この髪はふたりとちゃんと繋がっているかに思えて大切だった。

 切ることになった時は悲しくてたまらなかった。泣きはしなかったが、変わりにリリアがなぜか大泣きして拗ねたのをよく覚えている。

『フィグはどんな姿でも素敵ね』

 だけれど、そんな短い一言と偽りのない笑顔に、リリアは機嫌を直して自分も短い髪も気にいった。

「姫様、ピアスはどうされますか? この頃は琥珀がお気に入りですが、今日は真珠の方がドレスにお似合いかと」

 侍女が訊ねてきて、喉がひきつりかけていたフィグネリアは息をひとつ吸って真珠を選んだ。

 全て終えて立ち上がると、侍女達は満足そうだった。

「さあ、仕上げはクロード殿下にお見せすることですね。ずいぶん楽しみにされていましたし、お喜びになりますよ」

 若い侍女たちがきゃっきゃとはしゃぐのに、そういえばとフィグネリアは固まる。

 そして姿見で自分を確認し、さらに侍女達を見る。

「……本当にちゃんと似合っているか?」

 別になんとも思っていなかった自分の格好が、ドレスの裾から後れ毛のひとつまで全部気になって仕方なくなる。

 これでいい気もすれば、全部駄目な気もする。

(クロードが期待しすぎるからだ)

 とてもお似合いですよと言う侍女達の言葉にも、どうにも安心できない。

 フィグネリアは鏡でもう一度自分の姿を確認して、クロードが待つ部屋へと移動する。

 一歩進むごとに心臓は大きな音を立てて、とても穏やかな気分になれなかった。


***


 上着だけ新しいものに変えて髪を梳かれたクロードは、部屋をうろうろしながらフィグネリアを待っていた。

「どうしようニカ、結婚式の時よりどきどきする!」

 マラットととの協議の出来の微妙さに落ち込んだものの、気分は上がり調子だった。

 落ち込むときは落ち込むが、こういう切り替えのはやさは自分の長所だと思いたい。

「殿下、とても馬鹿そうに見えるので落ち着いて下さい」

 容赦ないニカの冷めた声に、クロードは上がっていた気分を落とされる。それでもまだ平常心までは下がらない。

「綺麗なんだろうなあ、フィグ……」

 結婚式のドレス姿は可愛らしさと綺麗さがほどよく調和して、一目惚れした。またあんな姿が見られると思うと、口元は自然と緩んでしまう。

 そして扉が開かれて、侍女が先に入ってきて次にフィグネリアが入ってくる。

 その姿に綺麗だとか可愛いだとか月並みな言葉は全部飛んで、クロードは相応しい言葉を見つけられずに言葉を失った。

 フィグネリアが纏うドレスはワンショルダーで、フリルもレースもなく裾にドレープがあるだけの簡素なものだった。

 腕につけている手の甲までを覆う長手袋も中指を引っかける環が、繊細な模様の入った銀のリングになっている以外は飾り気がない。

「だから、あまり期待するなと言っただろう」

 クロードの反応にフィグネリアが頬を染めてうつむく。

「期待以上で、なんて言ったらいいか分からないです。綺麗なんて一言で表すのはもったいないし…」

 クロードはフィグネリアの頬にそっと手を当てて、彼女の顔をあげさせる。葡萄の房ののように連ねられた耳元の小粒な真珠達が、しゃらりと音を立てる。

「世辞はいいぞ」

「本当によく似合ってます。俺が嘘が下手なこと、フィグが一番知っているでしょう」

 フィグネリアは本当に綺麗だった。

 豊かな胸元から細いくびれ、腰へと続く曲線を独特な生地の織目が引き立て、艶めいていながらも浅葱の落ち着いた風合いで上品に纏まっている。

 繊細なレースや華やかなフリルで飾り立てる必要なく、布地たった一枚で彼女の美しさが全て引き出されていた。

「……気にいったならいい」

 さらに頬を染めてフィグネリアが視線を逸らす。あまりの愛らしさに口づけてしまうのは、自然の流れだった。

「こら、人目がある所で何をしているんだ!」

 周りの視線にフィグネリアが抗議するものの、可愛いものでしかない。体面を保つためのふくれっ面がいつもより幼い印象でいい。

「そういえば、これってザハールの所の生地ですよね」

 そしてクロードはひとしきりフィグネリアのドレス姿を堪能した後、やっと気づいた。

「ああ。ザハールがいつの間にか侍女に持たせていた。クロード、マラット殿の奥方の生家は?」

 突然の質問にクロードは戸惑うものの、答を導き出す。

「ええっと、チャイカ侯爵家。ここは特産がない代わりに縫製技術で栄えたんですよね。あえて自分の所じゃ布を織らずに、国内各地から選りすぐりの生地を集めてる。今じゃ国の紡績、染織関連の特産をもつたくさんの領主と関わりがある。で、マラット様の奥方は嫁いだとはいえ目がよくて、今でもいいものがあればご実家へ薦めてる……うわあ」

 ザハールの目的に気づいてクロードは口を半開きにする。

「……なんて用意周到な」

 視線のやり場に困って赤くなっていたニカも呻く。

「春以降の式典で諸外国に披露する前に、反応をみてもらえればと思ったのだろうな。まあ、滞在も一日しかないのであの男のことだから運試しぐらいの気持ちかもしれん」

 フィグネリアの言うとおりだろうとクロードは思う。有能だがなぜか変に遊んで楽しむ癖がザハールにはある。

「ドレスひとつにも政治とか経済とかの意味があるんですね……」

「皇族が身につけるものは全てだな。特に、他国の女性は装飾品ひとつひとつまで見ている。欲しいと思わせられたら、ひとまずは成功。そこから実際買い付けてもらって、その国で流行れば外貨が稼げる。このドレスの生地も当たれば大きい……っ!?」

 すっかりいつもの表情に戻ってしまったフィグネリアの解説を、クロードは唇を塞いで止める。

「だから、お前はここでそういうことはするなと」

「せっかく綺麗な格好してるんだから、難しい話はなしにしましょう。ニカ、俺、並んでても変じゃないか?」

 クロードは照れなど一切みせずに、ニカへと問う。

 フィグネリアは申し分なく綺麗で、急に自分が横にいるのは不釣り合いではないだろうかと不安になる。

「大丈夫です。殿下は見た目だけなら十分に皇女殿下と釣り合いがとれています」

「…………中身も釣り合いがとれるように頑張る。でも、ドレスはそれで綺麗ですけど、寒くないですか?」

 部屋の中ならまだしも一度外へ出ないといけないし廊下も寒いので、剥き出しの肩や手袋だけの腕は辛そうだ。

「寒いな。一応同じ生地のショールがあるからそれを羽織って我慢するしかない」

「女の子って大変ですね。見てる分にはすっごく幸せなんですけどね」

 そう言っている内に侍女がやってきて、フィグネリアが渡されたショールを羽織る。

 クロードは手を繋ごうとしたが、少し考えて腕を出す。

「できるだけくっついてた方が暖かいですよね」

「今日は私が暖をとらせてもらうのか」

 フィグネリアが楽しげに微笑んで、腕を組んでくる。ぴったりとくっつくと暖かく、ついでに柔らかい感触も同時にあった。

 手を繋ぐのも好きだが、これも悪くない

「じゃあ、行きましょうか」


***


 晩餐の席は急ごしらえとは思えないほど豪勢なものだった。乾し肉や燻製肉をあえたサラダが幾種類も並び、他にチーズや肉と野菜の具材を詰めたパンもある。

 フィグネリアは使用人にショールを預けてクロードと共に席についた。パーヴェルの姿はなく、マラットとその夫人のダリヤだけだった。

「せっかくの晩餐なのに私達ふたりでしかお迎えできなくてごめんなさい。息子達も領内に散らばっていて、娘もみんな嫁いでしまってこの通りですの」

 白髪の混じる髪を綺麗に結い、黒に近い紫のドレスを纏って実に上品な風情のダリヤが微笑む。

「あ、いいえ。急なことなのにこんなによくしていただいてありがとうございます。お料理も美味しそうです」

 主賓であるクロードがそわそわと落ち着かない様子で答えた。

 フィグネリアはこの場ではあくまで楽士として招かれたクロードの妻として、粛々と夫を見守る。

「よかったわ。フィグネリア様もご遠慮なさらずどうぞ。今日のドレスはイサエフ候の所の浅葱染めかしら……」

 席に着く前から興味を引かれていたらしいダリヤに問われて、フィグネリアは笑顔で肯定する。

「新しい製法で織ったもので、市場に出す前に試しに身につけてもらいたいと、イサエフ候の御嫡男からいただきました。同じ生地のショールがありますので、ご興味があるのなら後でご覧に入れますが」

「まあ本当に? 是非見せてください。本当にイサエフ候はこの頃は目新しいものをお作りになられて、面白いわ」

 にこにこと上機嫌なダリヤの横でマラットはむすっとした顔で黙々と、料理と酒を口に運んでいる。

「……婿、飲まんのか」

 酒には手につけずにサラダやチーズをつまんでいるいるクロードに気づいて、マラットがそう問うた。

「この国の料理とかは気にいってるんですけど、お酒だけは強すぎて口に合わなくて。せっかく出していただいているのにすみません……」

 この国で広く飲まれる強い火酒は一口飲んだだけで駄目だったクロードが、笑顔をひきつらせる。

「他国からいらっしゃる人は皆そう仰いますわね。気がつかなくてごめんなさい。クロード殿下に林檎酒をお出ししてあげて」

 ダリヤの命で侍女が子供でも飲める林檎の発泡酒を運ばせる。その間にクロードがフィグネリアへと酒杯を譲った。

「これなら飲めますありがとうございます。……あの、皇太后様のお小さい頃のことを少し伺いたいんですけど」

 そして、クロードが甘めの林檎酒で口を湿らせて本題へと移るのを、フィグネリアは渡された火酒を飲み干しながら聞く。

 薔薇の妖精がなぜここまでするのか、手がかりが欲しいとクロードからここに来るまでに相談があった。場の空気を乱してしまいそうならやめるという彼に、フィグネリアは好きにしていいと返答した。

「なぜそんなことを知りたがる」

「えっと、フィグに皇太后様は薔薇達とすごく仲がよかったって聞いたので、笛の奉納はお小さい頃の皇太后様を思い出すような雰囲気の曲がいいかな、と思って……」

 フィグネリアはクロードと共に、マラットの様子を窺う。不機嫌そうな様子は変わらなかったが、話してくれる気はありそうだった。

「年中庭の薔薇の世話を手伝ったり、話しかけたりしていた。今思えば、同じ年頃の遊び相手がいなかったせいかもしれん。薔薇と一緒にいなければ、詩や物語を読んで、とにかくふわふわと現実味のない娘だった」

 七つ年下の妹のことを思い起こすマラットの瞳には優しいものがあった。

「可愛らしい方でしたわね。初めてお目にかかった時、まるで薔薇の妖精が人の姿をとったようだと思ったわ」

 自分の思い出の中の母と、幼い頃の母はさして変わらないらしい。

「長じてもさして子供の頃と変わらなかった。……先帝が側妃を迎えるまではな」

 思ったよりも深いところに話が転がっていって、場の空気が凍り付く。

「あなた。この場ではそんな話はおやめになって。私達が今、お迎えしているのは楽士様とその奥方様です」

 マラットがそこで押し黙って、ダリヤが困り顔でフィグネリアを見る。

「ごめんなさい。この人ったらいつもこうで。もう少し落ち着いてくれたら思うのだけれど、いつまでたっても子供ね」

 五十を超える夫を捕まえてそんなことを言うダリヤにマラットが顔を紅潮させる。

「……人をいくつだと思っているんだ、お前は!」

「まあ。いくつになってもあなたが私より年下であることには変わりありませんわ。フィグネリア様、年下の夫を持つとこうして怒鳴られてもね、この人は自分よりも幼いから仕方ないわって可愛らしく思えて、それほど腹は立たなくなるものよ」

 悪戯っぽく微笑むダリヤに、フィグネリアはあいかわらず立ち回りが上手い人だと感心する。

「だけれど、クロード様はこの人と違って、お優しそうだから腹が立つことなんてなさそうですわね。よい旦那様を迎えられたわ」

「ええ。夫を贈ってくれた皇帝陛下には感謝しきれません」

 本音を交えて微笑み返すと、その場の空気にようやく温度が戻った。

 それから温かいスープが運ばれて来たのだが、給仕を手伝っているのは神霊の器となっているらしき侍女だった。

 フィグネリアはテーブルの下でクロードの袖を引き、視線を夫から侍女へと映す。

 事前に外見の特徴は伝えていたので、それだけで通じた。

「お注ぎしましょうか?」

 クロードの空になった酒杯を見てそう言う侍女は、年相応の幼さのある声だった。

 動く様子や表情からも、とくに不調が見られるわけでもなく彼女はごくごく健康そうに見えた。

 フィグネリアはクロードと一度目配せをして晩餐の間はずっとその侍女を気にかけることとなった。

 

***

 

「結局あの侍女の子、普通でしたね」

 晩餐が終わり離れに戻る途中、フィグネリアはクロードにそう声をかけられる。

「ああ。神霊様は自由に降りたり戻ったりしているのだろうか」

「器になれる条件を産まれ持ってる子みたいだし、そうかもしれませんね。無理に器にされて消耗してないようでよかったです」

 神霊の器になると大きすぎる力が負荷になるが、もとから魂に受け入れられるだけの余裕があって、常に体を使われている状態でなければ影響は少ないらしかった。

「そうだな。母上が薔薇に気にいられていた理由は分かったか?」

「それは分かりました。薔薇に限らず、花の妖精って人間に話しかけてもらうのすごく好きなんですよ。特に綺麗だとかとかそういう褒め言葉の類。ただし、上っ面だけじゃ駄目で、本心からの言葉を好むんです」

「母上は話しかけている内に、すっかりお気に入りになってしまっていたわけか。……帰郷した時も薔薇に話しかけていたな」

「お気に入りってだけじゃなくて、たくさん語りかけてもらえるから仲間意識みたいなのが、芽生えちゃってると思います。そうでないと、開花を待ったりしないと思います」

 偽りのない真実の心。それはきっと善意と希望で満たされていたはずだ。

「リルエーカ様だろうか……」

 フィグネリアは腕を組むクロードに身を寄せて、首を横に傾ける。

 名前が分かったからいってどうにかなるものでもなさそうだが、かの女神ならばこれ以上大きな騒ぎは起こさないだろう。

「やっぱりご本人に聞くのが一番ですね。また降りてきたところに会えたら話してみましょう」

 それしか手立てがないのなら仕方ないとフィグネリアは、これ以上の神霊や妖精の話題は諦める。

「晩餐は滞りなくすんでよかったな。ダリヤ様もショールを気にいって下さったしな」

 晩餐が終わってショールを渡すとダリヤはまじまじと見つめて、面白いと感心していた。彼女があれだけ気にいったら、上手くいくだろう。

「奥方様はいい人でしたね」

「それが、あの方の勤めだからな。マラット殿はあまり社交向きの方ではないが、そこは奥方が政務には一切口出さない変わりに、家政を取り仕切り他家との関係をとりもつ役目を買っている。ご実家の方も九公家派、反九公家派どちらとも関わりがある。アドロフ公がお決めになったことだ」

 ダリヤは実家の人脈もあれば、マラットより年上であの人柄だ。使用人への采配も行き届いている。いい相手を見繕ったものだ。

「立場ある人の結婚って本当はそういうものですよね。人脈、財力を補ったり強化したり」

「私はお前に強化してもらえればだな」

「フィグは大体足りちゃってますからね。そういえば、俺が本当に刺客とか密偵とかだったらどうするつもりだったんですか?」

 クロードが素朴な疑問を口にして妻を見下ろす。

「煩わしい求婚や降嫁する必要がなくなる利点があるので婚姻関係は維持したな。後は必要な情報を引き出したら一生飼い殺しだ。跡継ぎが必要となれば、リリアの所から養子をとる選択もあったので、私が結婚する必要は特になかった」

「…………そんな愛のない結婚生活嫌です。なんにも命じられなくてよかった」

 本気で安心しているクロードに、自分もそれでよかったとフィグネリアは思う。

 後は出された料理や晩餐の席でのことをとりとめなく話ながら、ふたりは城の出入り口で待っていたニカと合流して離れへと戻る。

「フィグ、もう着替えちゃうんですか?」

 そしてクロードから身を離して、広間とは別の部屋へ行こうとすると残念そうにつぶやかれた。

「ああ。いつまでもこんな格好はしていられんからな。寒いんだ」

 寒いのは確かだったが、それ以上にクロードの視線が面はゆくて仕方ない。

 着るものひとつでここまで夫の視線が変わると思わなかった。いつもより言葉は少ないくせに、琥珀の瞳が熱心に見つめるのにうなじのあたりがちりちりする。

「だったら、せめて着替え手伝わせて下さい」

「侍女がいるから必要ない」

「なら手袋だけでも脱がさせて下さい」

 廊下を行き交う侍女やら、傍らで控えるニカなどが微妙な表情で立ち止まる。廊下の沈黙は重かった。

「何か楽しいのか、それは」

「意外と楽しいはずです。俺が」

「…………お前もさっさと着替えて明日に備えろ」

 なんだかよく分からないがひとまず夫の頼みは却下して、フィグネリアは侍女達と一緒に着替えのための部屋へ入った。


***

 

 クロードは寝室でいつもの体の線が出ない簡素な上下に着替えてしまっているフィグネリアの姿を見て、眉尻を下げる。

「もうちょっと、見てたかったなあ……」

 結婚式以来の艶やかな姿なのにもったいない。胸はもちろんだが、腰回りの辺りがなんともいえない色っぽさで、思い出すと押し倒したくなる。

 場所と現状を考えて自重する理性はあるが、手袋は返す返す惜しい。

「春先になったらいくらでも見られると言っただろう。まったく、浮つきすぎだ」

「だって、すごく綺麗でしたし」

 クロードは広いベッドの上に上がって、そっぽを向いて座っているフィグネリアの腰に手を回し抱き寄せた。

 洗い立ての髪からはかすかに薔薇の香りがする。

「二回目だから物珍しいだけだ。すぐに見慣れるようになる」

 なぜか必死に褒め言葉を否定する妻が可愛らしくて、クロードは笑い声をかみ殺しながら深く抱きすくめる。

「フィグは着飾っているのを褒められるの嫌いですか?」

「嫌じゃないが、落ち着かない。もういいから寝るぞ。明日は神子様とお話ができるかどうかの大事な所だ」

 仕事の話へと話題を移して、フィグネリアがクロードの腕から逃げようと身を捩る。

「はい。会わせてもらえるといいんですけどね……」

 クロードは腕を緩めるだけで留めて、表情を真面目なものにする。

 密偵の死の瞬間までにどんな行動をしていたのか知っているのは神子だけだ。最後にどんなことを言って、脅してきたのか、どんな様子だったのか。

 ひとつでも知れれば手がかりになる。

「神官長様が取り次ぎをして下さるかだな」

「……フィグ、仕事の話はこれぐらいでやめましょう。約束違反です」

 普段、政務が立て込むと寝室に戻ってからも書類を睨んだり話し合ったりするので、ベッドに上がったら仕事の話題は出さないというのが夫婦の約束だった。

「ここは家の寝室ではないから適用外だろう」

「どこでも適用です。むしろ外だから、何も考えない時間が必要だと思いますよ」

 ここへ来てずっとフィグネリアは気を張りっぱなしだ。自分がそこまで彼女に頑張らせずに手伝えるのが一番だが、今できるのはきちんと休ませることぐらいしかない。

「……そうだな。だが起きているとどうしても考えてしまう。寝るか」

 フィグネリアが体を横たえる気になったので、クロードは腕を解いて彼女に寄り添って自分も横になる。

 本当に疲れていたのか、フィグネリアが眠りにつくのは早かった。クロードはその穏やかな寝息に目を細め、自分も眠りにつく。

「……?」

 しかし眠りに入る直前、クロードはふと違和感を覚えて目を開く。その正体は、ベッドサイドに飾られている薔薇からだった。

「こら、俺の奥さんに悪戯するなっていうか、何してるんだ?」

 薔薇の妖精の気配はヴェールのようにフィグネリアにかかっていた。

 クロードはそっと妖精の気配に触れる。自分の内側で呼応しているのは、同じ種類の薔薇の妖精。自分の祖先はどうやらここの薔薇の妖精も魂に取り込んでいるらしかった。

「夢……に干渉してるのかな」

 内と外の妖精を繋げ合うと朧気に何かが見えてきて、クロードは一旦繋がりを解いて少し考え込む。

「フィグがどんな夢見てるか、分かるってことだよな。うう、これはいいのかなあ」

 夢を覗くというのは、勝手に日記を盗み見るような罪悪感を覚える。だが薔薇が見せているのなら、オリガに関することだろう。

 クロードは眠気もすっかり忘れて思い悩む。

 初めてここに泊まったときも、自分は先に眠ってしまって気づかなかっただけで、同じことを薔薇がしていたのかもしれない。

 フィグネリアは翌朝夢を覚えていなかったし、今見ている夢もまた忘れてしまうかもしれない。

「見ておいた方がいいかもな……」

 クロードはやっと結論を出して目を閉じる。

 内と外の妖精を繋がりそこに眠気が絡んでいって、やがて暗闇はじわりと色を持つ。最初はただの滲みだった様々な色は、徐々に色合いや輪郭を鮮明にしていく。

「居住区の廊下……家に帰ってきた気になるなあ」

 目の前に広がるのは、見慣れた王宮の廊下だった。クロードはこれが夢であることを忘れそうになりながら廊下を進む。

 廊下の向こうを静々と歩く十歳ぐらいの少女の後ろ姿が見えた。背の半ばまである銀糸の髪に、淡い紫色のふんわりしたドレス。腰のあたりにあるレースで縁取られたリボンがゆらゆら揺れている。

「リリアさんっぽいけど、もしかしてフィグ?」

 クロードは彼女を追いかけて早足になった。角を曲がる時に少女の横顔が見えて、フィグネリアだと確信する。

 意思が強く前を真っ直ぐ見据える瞳は、全く変わらないらしい。

「これは、フィグの子供の頃の夢……」

 クロードがつぶやくと同時にさっとカーテンを開くように景色が変わる。真正面にフィグネリアがいた。

「か、可愛い……」

 クロードは思わずそう零す。

 ほんのり赤みの差す白い頬はとても柔らかそうだ。面立ちは今と同じく均整がとれていて、桜桃色の唇が愛らしい雰囲気を作っている。その反面大きな薄青の大きな瞳は理知的で、大人びて見える。

 矛盾するふたつの要素は不思議な魅力を醸し出していた。

「ちっちゃいフィグも可愛いなあ……」

 と、いろいろ思うもののクロードはぜんぶひっくるめて可愛いの一言にまとめてしまう。

「やっぱり女の子はひとりは欲しいよな」

 自分達の娘はこんな感じだろうかと、クロードは少しばかり目的を忘れて口元を緩める。

 そして、はたとこれではただの怪しいお兄さんだと気づいて、フィグネリアの反応をうかがう。どうやら彼女に自分の姿は見えていないらしく、別の方向を見ていた。

 ひとつの扉のむこうへと彼女は向かう。

「失礼します」

 そう一言断ってフィグネリアが入った部屋は、オリガの部屋だった。

「いらっしゃい。ほら、座って。リリアももうすぐ来るわ」

 柔らかい声でオリガがフィグネリアをソファーに招く。

「リリアはどこへ行ったのですか?」

「バラノフ様のところへ新しいドレスを見せに行っているのよ。一番最初に褒めていただきたいんですって」

「お忙しい方なのであまりご迷惑になっていなければよいのですが……」

 そのバラノフ様がリリアの将来の夫になることをまだ知らない母娘は微笑み合う。

「フィグはドレスを見せたい方はいるのかしら?」

 オリガがうずうずした様子で尋ねているのに、クロードも一緒になって緊張する。

「いいえ。いません。私は、父上が決められた方を婿に取るつもりなので……」

 実際は兄が誕生日祝いに持ってくるとは露とも思っていないフィグネリアが、曖昧に微笑む。

(これ、どっちだろう。いるのか、いないのか……。ううん、いや、というよりなんでこんな夢をみさせてるんだろう)

 過去の母娘の会話を壁際で眺めつつ、クロードは首を傾げる。

「そうね。エドゥアルト様ならきっと、素敵な人を見つけてくれるわね」

 話題が尽きたのか母と娘の間に沈黙が落ちる。なんとなしに落ち着かない雰囲気だ。

「この頃、フィグはエドゥアルト様のお手伝いをしているのよね。大変じゃないかしら……。夜も遅くまでずっと、一緒にお仕事をしていると聞いたけれど、ちゃんと眠れている?」

 意を決した顔でオリガが先にフィグネリアに声をかけた。

「それは、大丈夫です。私の方から最後までお付き合いさせて欲しいとお願いしているので」

 フィグネリアの返答にそう、とオリガが落ち込んだ顔をした後、何かを言いたそうにしつつも彼女は言葉を止める。

(フィグは子供の頃からフィグなんだなあ……)

 オリガが本当に欲しいのはそういう優等生な返事でないのに。

 クロードは母娘をもどかしく思いながら苦笑する。

 ふたりの会話にまた微妙な間ができる頃、リリアが部屋に入ってくる。すぐに彼女はオリガに抱きついて、ドレスを褒めてもらったと喜んでいた。

 その様子を、フィグネリアは幸せそうに見つめていた。

「フィグに伝えたいことあるんだろうけど、うーん、なんだろうなあ」

 ぼやいていると、辺りの景色が再び滲み出してくる。

 クロードは薔薇の妖精達が離れていこうとするので、繋がりを解いていく。その後は自分の眠りの中に沈んでいった。

「……ド、クロード」

 名前を呼ぶ声と体を揺らされる振動に目を開くと、フィグネリアの姿が見えた。十八歳の彼女と夢の中の幼い彼女が変に混じって、思考がこんがらがる。

「……おはようございます? フィグは何歳でも可愛いですよね」

「何を寝惚けているんだ。朝だぞ」

 怪訝そうなフィグネリアに、なんでもないですと答えてクロードは体をのろのろと起こしていく。酷い倦怠感があるのは、妖精と繋がりすぎたせいかもしれない。

「フィグ、昨日、夢を見ました?」

「いや、覚えていない。見たのか、見てないのか……」

 クロードは迷いながらも、フィグネリアの夢を覗いたことを告白する。

「夢、というよりそれは子供の頃の記憶だな。朧気ながら母上とそんなことを話した記憶はある。何の意味があるんだ?」

「それが分からないんですよね。伝えたいことがあるからでしょうけど」

 健気に薔薇を咲かせ続ける妖精達の力にはなりたいが、言葉を交わせないのでどうしようもないのだ。

「本当に、神霊方も妖精も理解しがたいものだな」

 クロードはフィグネリアと顔を見合わせて、ふたりで同時にため息をついた。


***


 予定通り神殿へと向かうと、すでに神殿周辺の薔薇は散り始めていた。フィグネリア達は神殿より少し前で馬車を降りて辺りを見回す。

「昨日のように一気に落ちたわけではないな」

 花はまばらに散っていて、地面も雪が覗いて見える。フィグネリアは視界の端で薔薇が音もなく散るのに憂う。

 一体どれほどの速度で城の分まで散ってしまうのだろうか。

 領民達が薔薇が散るのに喜ぶ中で、憂鬱な顔でフィグネリア達は礼拝堂へと向かう。

 堂内は昨日以上に領民達がひしめいていて、長椅子に座れずに部屋の隅で立っている者までいた。

 暖炉もなく冷たいはずの礼拝堂は、人々の体温で凍えるほどでもなくなっている。

「フィグ、すごいことになっちゃってるんですけど……」

 クロードが引きつった笑顔で振り返る。

「まあ、当然と言えば当然だが……」

 あまりの人の多さにフィグネリアも驚いていた。

「今日は神官方も総出でですね」

 ニカが礼拝堂の左右の扉の方に丸くした目を向ける。そこには神官の姿も多い。これでもまだ人がやってきているらしく、神殿の入り口の扉は開け放たれることになった。

 そして寒さにも関わらず入り口辺りにも人集りがあっという間にできて、クロードがリルエーカ像まで連れて行かれた。

「殿下、昨日より緊張されてますね……」

 すっかり人垣に埋もれてしまっているニカが爪先立ちになって、人の隙間からクロードの様子を窺う。

「しかし、吹き始めたら集中してしまうから大丈夫だろう」

 ニカより背の低いフィグネリアは、どうやっても人の背中しか見えなかった。

 初めて神殿に行った時や、祭事の時もクロードは始めこそ緊張していたが、笛に口をつけた途端に周りのことなど目に入らなくなっていたので、心配することもない。

「……始まりますよ」

 クロードの演奏が始まる直前、一斉に辺りが静かになる。

 丸みのある音がこぼれ落ちてきて、それは囁きのような不思議な旋律を作る。ひとつひとつの音が柔らかく、優しい。

(本当に、母上を想起させる曲を吹くつもりか)

 フィグネリアは昨日クロードが言っていたことを思い出し、感嘆する。

 普通に聞けば穏やかな冬の陽光に似た音色だろうが、オリガを知る者ならば彼女の優しい声を思い出すだろう。

 そして高めの音は自分が知っているよりも少し幼い印象も覚える。

 笛の演奏というより、少女のおしゃべりを聞いている気がして耳を傾けている内にいつの間にか音は止んだ。

 しばらくは誰もが静かに余韻にひたり、年嵩のいった人がお城のお嬢様を思い出したと言っているのが聞こえる。

「皇女殿下」

 すっかり演奏に半分過去に浸っていたフィグネリアは、控えめなニカの呼びかけにうつむき気味だった顔を上げる。

 クロードの元へと行こうと思ったが、今日も講説が始まってそれが終わるまで待つことになった。

「フィグ、神子様とはまだ駄目だそうです」

 クロードとやっと合流すると、先に話を通したのか彼が自分達を手招いてそう言った。

「神子様も、楽士様にお目に掛りたいとのことですがまだ少し休養が必要でして……」

 フィグネリアは本当に申し訳なさそうに言う神官長の顔に、ふと疑問を持つ。

 昨日までに比べて顔色もよく隈も薄れている。やっと休めるだけ神殿が落ち着いたのかもしれない。神官達もどこか安堵した顔つきでいる。

 正確な真実を知らない領民も、薔薇が散り始めて憂いが見えず密偵の件はまるで全て解決したかのような雰囲気だ。

「そうですか。では、処方のお役目をなさっている神官様方ともう一度お話させていただいてよいでしょうか」

 しかしまだ終わっていないことを知るフィグネリアは、神官長にそう訊ねる。

「……私どもは知る限りのことをお話しました。これ以上は何もないと思うのですが」

 遠慮がちな言葉の裏に、これ以上は詮索するなという本音が透けて見える。

 密偵は死んだ。そして神殿は密偵など知らず、薔薇もそれを契機に散り始めている。

 こうなると、もはや手を出せない。

 フィグネリアは苦々しい思いを隠して、その日はそのまま神殿を去ることになった。

「マラット様にやりますって言たのに……」

 張り切っていたクロードが馬車の中でがっくり肩を落とす。

「仕方ない。今は強行して密偵にこちらの動きに気づかれるわけにもいかん。今日の所は、城で待機して、資料の整理だな。……散っていっているな」

 フィグネリアは窓の外に見える薔薇の数が明らかに減っていっているのに眉宇を曇らせる。

「このままなら今日の内に全て散ってしまいそうですが……」

 ニカがよいことなのか悪いことなのか戸惑った声で言う。

「まだ、全部は散らないと思う。花を減らしてできるだけ長く咲き続けられるようにしてるんだ」

 窓にもたれかかってクロードが傷ましげに目を細める。そして彼はおもむろに笛を取り出して、音を奏で始める。

 神殿で吹いていたのと音程や旋律は似ているが、湛える感情は哀切なものだ。

 フィグネリアは音に身を浸しながら目を伏せる。

 眼裏に浮かんだのは、父の姿を遠くから見つめる母の姿だった。





 クロードはニカとふたりだけでアドロフ家の庭先にいた。

 神殿で神子との話はできずじまいで、せっかく役に立てそうだと思ったのに拍子抜けしてしまった。

 だが、まだやれることもある。

「フィグはちゃんと休んでるかな」

 クロードはここ数日忙しかったフィグネリアを、今日ぐらいはゆっくり休ませるつもりだった。

「皇女殿下もお疲れですし、殿下があれだけ言い含められていたのですから、大丈夫でしょう」

「だといいんだけどな……。それにしても、城、かっこいいよな」

 背面から見る石造りの城も堅牢で隙がなくまさしく戦うためのものといった風情が、少年心を沸き立たせるものがある。

「はい。殿下、建築様式や石材についても解説したく思うのですが、先に薔薇を……」

「分かってる。どこもかしこも薔薇でいっぱいだな」

 飾り気も何もない城の中だからこそ、いっそう薔薇達は華美に見える。しかしどこまでも美しく咲き誇っていながら、胸に触れてくる感情はひどく切ない。

 クロードはそっと薔薇に触れる。

 触れなくとも繋がってはいられるが、こうした方が気持ち的にやりやすいのだ。

「まだ、元気だな。なあ、どうしたいんだ? 皇太后様はもう帰って来られないのは分かってるのか? 俺もお前達が散るまでに手助けしたいんだけどな」

 クロードは薔薇に語りかけてみるが、言葉が交わせるわけでもないので感情ばかりが共鳴しあうばかりだった。

「ん、なんだ?」

 不意に妖精達の気配が揺らめいて、クロードは小首を傾げる。

「そこで何をしている」

 低く、重圧感を覚える声にぎょっとする。振り返ればパーヴェルがそこに険しい顔で立っていた。

「う、あ、えっと、薔薇を見てました」

 クロードは答えながらおろおろとニカに救いを求めるが、すでにニカは侍従らしく跪いて控えていた。

(これは、俺ひとりで対応しないといけないのか)

 突然の事態に頭が真っ白になりながら、クロードはアドロフ公の様子を窺う。

「フィグネリアはどうした」

「今は離れにいます。アドロフ公はなぜこちらに?」

「自分の家の庭を歩くのに理由などいらん」

 それはそうだとクロードはここで返答に詰まった。

「お前は薔薇に話しかけていたのか?」

 わずかな沈黙の後に、そう尋ねられて困り果ててしまう。

「すいません。子供の頃から話し相手って花とか木とかしかなかったものでつい……」

 何か誤魔化そうと思ったものの、思いつかずについ正直にクロードは答えてしまっていた。

「言葉を返さないものに声をかけて意味があるのか?」

 薔薇に目をやりながら、パーヴェルが問うてくる。

「意味……。声に出さないと、駄目なときがあるから、でしょうか。自分の中にだけ置いておけないけど、どこに出していいか分からないものは全部、見えない相手に喋っちゃうんだと思います」

 子供の頃から妖精の存在を感じて、言いたいことは全部彼らに向けてきた。

 その時の気持ちまではよくは思い出せない。

「お前を婿に取ると決めたのは、フィグネリアではなかったな」

 質問が飛んで、クロードは何か疑われているのかと不安になりながらうなずく。

「義兄上……皇帝陛下がお選びになりました」

 正確に言うとあれこれ違うわけだが、表向きはそれなのでクロードはそう返した。

「お前自身は、この婚姻に異論はなかったか?」

「なかったというか、深く考えずに言われるままお婿に来たので……。でも、フィグと結婚できてよかったと思います」

 もはや取り繕うのは諦めて本心だけで言葉を連ねていく。

「……いずれ、誰かを恨むときがくるとは思わないか」

「どうしてですか?」

 本気で分からずに、クロードは首を傾げる。

「フィグネリアと共にあるならば、いずれは否応なしに苦境を強いられる。その時に何も知らない自分をそこへ放り込んだ人間を責めずにいられるか?」

 パーヴェルの視線は相変わらず薔薇に向かったままだった。

 だけれど、もっと遠くを見ている気がする。

「……誰かを恨んだり、責めることがあるならきっと、自分自身に対してです。フィグが辛いとき、なにもできることがない自分を責めることはあると思います」

 今だって過去の自分をたくさん悔やむこともある。

「だけれど、俺はそうならないつもりで、フィグに追いつくつもりです」

 パーヴェルの返答はなかったが、その顔が苦痛に歪むのが見えた。

「……アドロフ公!?」

 杖を支えにしながらも、老体が崩れ落ちる。クロードは慌ててその体を支えるがパーヴェルは倒れてしまう。

「ニカ、誰か呼んできて! アドロフ公!」

 クロードが必死に呼びかけるが、パーヴェルの意識はすでに途切れていた。

 薔薇の妖精達の嘆きが膨らむのを感じた。


***


 やることがないと、フィグネリアはソファーに横たわる。

 できれば調書の見直しをしたいものの、クロードが気づかって休息をとらせてくれるのにも無下にできない。

 侍女達はせっかくだから持ってきた他のドレスも着てみないかと、楽しげに進言してきたが、却下させてもらった。

 いつ何が起こっても対処できる状態でいなければならないし、余計に疲れそうだった。

「昼寝というのも馴れないな。ひとりでゆっくり過ごすが分からん」

 クロードは昼寝したりぼんやりしたりしているといいと、さも簡単なことのように言っていた。

 しかしながら自分はそういうのが苦手だ。

「何も考えないよりは……」

 無性に物寂しくなって、フィグネリアは唇を尖らせる。

「早く帰ってこい」

 声に出してしまって、こらえると決めたのに我慢し切れていない自分に本当に駄目だなと呆れる。

 時計を見るとクロードが出てからそれなりに時間が過ぎていた。ふと不安になって、フィグネリアはソファーから降りる。

 探しに行こうとした時、侍女からクロードが戻って来たと報告があって安堵する。

「クロード、どうした?」

 ただ帰ってきた夫の表情は珍しく深刻なものだった。

「アドロフ公が倒れました。俺、直前まで話してたんですけど、妖精達が騒いでいました」

 それだけはまったく状況が理解出来ず、フィグネリアはクロードを座らせて事情を問う。

「ご容態は?」

「熱があるみたいで、休養が必要らしいです」

 重篤というわけではないらしく、フィグネリアは胸を撫で下ろす。

「アドロフ公がお倒れになって、妖精が騒いだのか?」

「はい。なんだかすごく動揺してる雰囲気でした……」

 薔薇が散らないことと、アドロフ公に何か繋がりがあるのだろうか。

 フィグネリアは思案するが、答はでなかった。

「アドロフ公とは何を話したんだ?」

 そしてフィグネリアは話題を変えると、クロードが少し迷いがちにする。それを見た扉の側で控えていたニカが静かに退室した。

「フィグとの結婚、あとで誰かを恨むことにならないかって。でも、なんだか俺に訊いてるって言うより、皇太后様のこと、話してる気がしました」

 部屋にはふたりきりになって、やっとクロードはそう話した。

「……アドロフ公は、母上に恨まれていると思っているのか? そんな方ではないと、一番ご存じだろうに」

 母は何より父を愛していたし、そんなことで誰かを責める性格でもなかった。

 ありのままを全て受け入れてたゆまず愛を注ぐのが母だった。

「……アドロフ公自身が悔やんでるから、そう思ったのかも知れません」

「母上は、ずっとお幸せそうだった」

 フィグネリアは思い起こす母はいつも笑顔でいた。だけれど、時々父を見る姿は寂しげだっただろうか。

 幸せそうな顔ばかりしか、はっきりとは覚えていない。

「お前は、誰かを恨む日が来ると思うか?」

「ないです! ちゃんとアドロフ公にもそれは伝えました。俺は、フィグと出会えない自分なんてもう、考えられないし」

 即答する夫にフィグネリアは微笑む。

「そうか。それならばよかった。私も、お前以外は考えられないからな」

 望まなかったはずの結婚は、自分にとっては最良のものだった。

 母にとってはどうだったのか。父が側室をもうけたことは、幸福に嵐が吹き荒れただろう。

 それでも、自分を愛してくれた。

 フィグネリアは最後の母の笑顔を思い出して、目頭が熱くなる、

「フィグ……」

 クロードに肩を抱かれて息をひとつ吸う。ぬくもりと馴染んだ香りが心地いい。

「ああ、大丈夫だ。……薔薇と、母上と、アドロフ公。繋がりそうで、繋がらないな」

 フィグネリアはクロードにもたれかかったまま目を閉じる。

 これならば、休息は問題なくできそうだと思った。

 

***


 さらに翌日、密偵死亡から四日目。アドロフ家の庭の薔薇はまだ満開だったが、神殿から城の側までの薔薇は半減していた。

 そうしてその日もまた、神子との対面はできずに終わってしまい、これで二日続けて進展のないままになった。

 パーヴェルの容態は快方に向かっているということで、それだけは安心する。

「すっかり、散ってしまったな」

 フィグネリアは馬車の窓の向こうに見えるまばらな薔薇に、ため息をつく。

「あと少しですね……。今日は調書の見直しをしてましょうか」

 クロードも隣で肩を落として、ニカも残念そうにしている。

「イサエフ二等官は早ければ明日には到着するんですよね」

「ああ。できるだけ早くついてくれればいいのだがな。大神官長様から返事も気になる」

 神殿への介入の許諾が降りるかどうかが一番の問題だ。なければないで、手を講じなければならない。

 フィグネリアは視線を鋭くして、口を引き結ぶ。

 やがて馬車がアドロフ家の城につくと幾人かのアドロフ家の私兵が出迎えにきた。厳かな雰囲気にフィグネリア達は緊張感に身を強張らせる。

「アドロフ公が皇女殿下をお呼びです」

「ご用件は?」

 フィグネリアが問うと、それは訊いていないとのことだった。

「あの、フィグだけですか?」

「案ずるな、ただ話をするだけだ。待っていてくれ」

 不安そうなクロードに、フィグネリアは穏やかな微笑みを向けて兵達へと城へと向かった。


***


 昼でも薄暗い部屋へと通されたフィグネリアは、パーヴェルがベッドにいることに驚く。

 彼ならばけしてこんな老いて弱った姿を見せないと思っていた。

「私は老いた。それはまぎれもない事実だ」

 フィグネリアの内心を読み取って、パーヴェルが答える。

「お加減はいかがですか?」

「よくはない。そう、長くはないだろうな。お前には喜ばしいことか……」

「……アドロフ公にはご健在でいて頂かなければなりません」

 それは本心だった。九公家を抑えるにはまだパーヴェルの力がいる。

「お前は、父親によく似ているな」

 面白くなさげにパーヴェルが言って、それからしばし沈黙して、サイドテーブルに飾られている薔薇に視線を向ける。

 テーブルの上には、花びらが一枚だけ落ちていた。

「……オリガのことを聞きたい」

 息が詰まる静寂の中、パーヴェルが告げた言葉にフィグネリアは一瞬動揺した。

「なぜ皇太后様についてお知りになりたいのですか」

「老い先短くなって、こんな年寄りよりも先に身罷った娘が気にかかるだけのことだ。オリガは、何かを望んでいたか?」

「……分かりません。あの方は、ご自分の望みというのはあまり口にされる方ではなく、常に誰かを思いやってでおいでました。それは、アドロフ公の方がご存知なのでは」

「あれは、昔からそういう娘だった。自身の都合よりも他人を優先する。だから、お前のような娘でさえ我が子とした」

 言外に母と自分は全くの繋がりがないと強調されて、フィグネリアはうつむく。

 もう何度も様々な者に聞かされたが、いつも心苦しい。

「お優しい方でした」

 短く返すと、しんと部屋が静まりかえる。

「ならば、先帝はお前を跡継ぎにと望んだか」

「……あくまで、兄の補佐をとお望みになりました」

 一瞬の躊躇の後にフィグネリアは答える。

「お前ならばどうする。政に向かない子と、己の知識を全て引き継げる子と、どちらに跡を託す」

「ふたりの子が同腹ならば、後者を取るでしょう。ただ、私は違います。あくまで、補佐のために産まれたのです」

 そのために自分の母は平民の出自であり、天涯孤独の身の上だった。だからこそ、自分には後ろ盾がない。それと同時に父が存命の間は、後継者問題は起こらなかった。

「それに、その気があったのならとうに私や皇帝陛下にお話しがあったはずです。今際の際にすら……」

 言いかけて、フィグネリアは口を噤む。父が前大神官長に薬と偽られて毒を盛られて倒れ、駆けつけた時にはすでにその意識はなかった。だが一度だけ、目を開いて自分を呼び寄せた。

『後のことは任せた』

 それが最後の言葉だった。これから帝位に即く兄を支えよということだろうと判断した。そのはずだが、改めて問われるとどうとでもとれる言葉だ。

「私が生きている間は言えまいか。盟約があったのすら、聞いてはいないか」

 フィグネリアは、知りませんと声にならない声を紡ぐ。

「あの男を即位させるのに、ふたつの条件を出した。即位後半年の内にオリガを娶ることと、嫡子を帝位につけること。それさえ呑めば手を貸そうと」

「それは父の施策です!」

 思わず大きな声を出してしまっていた。

 アドロフ公を説き伏せ、かねてより婚約していた息女との婚姻を早め、そして嫡子を次期皇帝と定めて九公家との関係の均衡を取ることを決めたのは先帝のはずだった。

 結果としては同じだが、パーヴェルが言う経緯が事実ならばアドロフ公と先帝の立場は逆転する。

 先帝は九公家中心の内政を変えるつもりでいながら、アドロフ公に屈してその血脈に繋がる者を次期皇帝として据えることに承諾したことになる。

「あの男はオリガとの婚約を破棄するつもりだった。最後に私に、婚約の無効を言わせるつもりだったのだろうが、先に私が盟約を持ち出した」

「なぜ今になってそんなことを……」

 冷静さを取り戻そうとしても、声は震えてしまう。

「お互いに盟約のことは黙するという取り決めだった。そして確かにイーゴルが帝位につき盟約は果たされた。だが、嫡子がなく実質はお前が帝位に即いているのと変わりない」

「私は現在政務を統括していますが、最終的な決定権は皇帝陛下にあります。私は、陛下に忠を誓う臣下でもあります」

 イーゴルが兄であると同時に、主君であることを忘れたことなどない。

「……お前のそれは本当に忠心か。イーゴルがもし兄でなく、真に主君ならば膝を折る気になれたか。忠を誓うということは、主君を己の命とし誇りとすることだ。己より遙かに執政能力の劣る主君を誇りとできるか。命をかけられるか」

 フィグネリアはパーヴェルの問いかけに、答えられなかった。

 兄と、主君というふたつは今さら切り離して考えることができない。両方だからとしか言いようがなかった。

「陛下は、政務は不慣れですが、軍人としては優秀です」

「武でもって戦に勝つことが全てだった二百年も前ならそれで通っただろう。あれは産まれてくる時代を間違ったな。マラットもか……。アドロフ家の武人としての才は、今の時代裏目にしかでん」

 投げやりな物言いには、息子と孫への不満と先を案じる響きが混ざっていた。

「もう一度お前に聞く。九公家の血を汲まず、己の分身がごとくできた子がいる。そうして、先に跡継ぎと決めた子は己の分を理解し、その伴侶は有力な後ろ盾がない。しかし盟約がゆえに己の分身である子は帝位につけられない。ただし、盟約を知るのは己と老い先短いであろう年寄りのみ。どうする」

 待つだろうと、フィグネリアは思う。

 この老人が死して、他の誰も事実を知らなくなれば障害は消える。それまでは自分の胸の内だけにしまい、跡継ぎとする子に全てを注ぐ。

「だが、あなたならばイーゴル殿下が即位するまでに、御嫡男に教えていたはずでしょう」

「そのつもりだった。私はあの男より先に死ぬものだと思っていたからな。だが、その前に向こうが先に崩御した」

 父は四十半ばにもならずに没した。大神官長に毒殺されるなど本人も、予測の範疇外だっただろう。

「マラットがあの通りで、アドロフ家の九公家中核としての立ち位置を確実にするためだったのだが、イーゴルがあそこまで政の才がないのは誤算だった」

 パーヴェルがまったくとぼやいて、フィグネリアを見る。

「予測外だったのはお前についてもだ。いくら教育を受けたとはいえ、十三の小娘などさしたことはできまいとあなどっていた。だが、一度の先帝の負けをお前なら覆せる可能性があった。そうなれば、もはや盟約など無意味だ。……オリガが十三の時は自分の婚約の意味さえ分からずにいたのにな」

 娘の名を呼ぶときだけ、パーヴェルの声は和らいでいた。

「それは、皇太后様は政務に関わることなどはあまり学ばれていなかったのでは……」

「一通りは学ばせたが実にはならなかった。だが、私にとって十三の娘といえば娘ぐらいしかよくは知らない。その娘のこともよくは知りはしないが。先帝がお前に帝位を譲るつもりだと、オリガが知っていたと思うか?」

「いいえ。先帝陛下ならば言わないでしょう」

 オリガならば、黙していただろうがあまり嘘が得意な人ではなかった。万一でも漏れる可能性を考えれば言わない。同じようにイーゴルにもだ。

 それに、いくら言葉を濁したとしても、妻の父親の死を待ち望んでいることなど知られたくはないだろう。

「お前は、帝位が欲しいか?」

「先帝陛下のご遺志を果たすために必要ならば望みます。しかし今は、皇帝陛下もご尽力くださるので不要です。このまま皇帝陛下にお世継ぎがなければ、継ぐ覚悟もあります」

 間を置かずにフィグネリアは返す。これはいずれ問われると予測していた。

「お前は先帝によく似ているが、足らんな」

 しかし、パーヴェルの返しは予測外のものっだった。

「……私は先帝陛下ほどの能力はありません」

「そうではない。お前には戦って勝ち抜き、是が非でも頂点に君臨する意思がない。あの男にはあった」

 パーヴェルが視線を遠くに向ける。

「皇家と九公家の戦は建国以前より続いている。常に力を誇示し、競い他を圧倒する者しか我らは主君と認めん。王が愚者ならば戦いその座を奪うまでだ。建国よりしばらくは、そうやって内乱を繰り返し皇家は勝ってきた」

「もはやその頃とは時代が違います」

 戦の傷跡は各地に残れど、どれも遠い昔のものに変わっている。

「そうだ。だが争うのを止めたわけではない。戦の仕方が変わったのだ。武力を全てとし、兵をぶつけ合い戦うことより、謀略を巡らし武器を持たずして戦うことへとな」

 フィグネリアが反論なく押し黙る。

「あの男は戦の変化を決定的にし、かつ自分が有利になる形に変えていった。必ずしも己が勝者となれる戦場を築き、そこへ相手を引きずり込んで絶対的な支配者になる。……今のお前と同じ、十八であの男はそれだけのものを築き上げていた」

 パーヴェルの言葉からは微かに畏れと、高揚感が感じられた。

 いまだに父に夢を抱く者達のように、この人も一度は父に魅せられたのかもしれない。

「私は、先帝に勝った。それでも、奴はどこまでも諦め悪く足掻いていた。イーゴルにつける有能な側近を育てなかったのはなぜだと思う」

「皇帝陛下はあまりにも、人を信じ過ぎるからです」

「そして、それ以上に先帝は側近を信用してはいなかった」

 フィグネリアはまるで自分のことを言われた気がして、口を引き結んだ。

「戦って勝ち抜いてこそのディシベリアの王だ。周りを敵と見なすのはいい。だが、対立するだけではならん。勝たねばならんのだ。あの男は自らの力でもって勝ち、従えた。お前はむやみに敵を増やしすぎ、自らを窮地に追い込んだにすぎん」

 そして、あの内乱騒動が起こってしまった。合ってはいるが、フィグネリアの考えとは少し違う。

「戦うことをお前に教えずイーゴルを、追い落として自ら覇権を握る野望を抱かせずに育てたのは、あの男の最大の過ちだ。お前は従順すぎる」

「違います。先帝陛下に何を言われようが私は、皇帝陛下とは戦いません。あの方がいくら政ができずとも、私の愛する兄です。私は家族とはけして争いません。戦うとするなら、家族を護るためだけです」

 フィグネリアは感情的になっている自分に気づいて、そこで言葉を止める。

 パーヴェルは一言も返さずに沈黙していた。

「……アドロフ公、私は父と同じことはできません。至らない点も多くあります。信頼できる者に補ってもらうつもりです」

 静かに返すと、パーヴェルは目を細めた。

「それで、お前は本当にディシベリアの王となれると思うか。全ての臣民の命となり、誇りとなれるか」

 なれるとは答えられなかった。そんな自信はどこにもなかった。

「オリガはお前を帝位につける方がいいのではと言っていた。イーゴルにはもっと生きやすい場があるのに無理に帝位に即けるは可哀相だと。先帝に似たお前を補佐で留めておくのも、もったいないとな。盟約のことどころか、自分の婚姻の意味さえよく分からなかった娘のことだ。それほど深い考えなど、なかったのだろうがな」

 そういう人だったと、フィグネリアは思い出す。

 複雑に絡んだ利害関係はあまりよく分かっていない人だった。だからこそ、しがらみにも囚われずに、ただ相手のことだけを思いやるばかりで、そういうところは兄がよく似ている。

「お前は自分の婿が本当に次期皇帝の伴侶となる意味を解していると思うか?」

 クロードへと話題が移って、フィグネリアはうつむく。

「……分かっていると、思います。気が優しいのでおそらく呑み込みきれないことも多くあるでしょうが、理屈は解する男です」

 クロードが暗殺の件を責め立てなかったことに納得がいっていないことを、ふっと思い返す。

 彼の優しさゆえのものは、無理に全部理解して同意しろというつもりはなかった。

「先々帝……お前の祖父にあたるあの暗君の死を、先帝が予期していたことは分かっているな」

 先々帝は公式には病死とされている。父の即位にあたり帝都近くの離宮へと追いやられた祖父は退位からわずか一年半後、崩御した。

「九公家派がいつまた担ぎ出してくるか分からない以上、排除を考えた者がいたはずです。父が直接手を下さずとも、悪政への恨みと新帝への忠誠心で誰かが動くのは予期できたでしょう」

 そして父は対策は取らなかった。

「オリガやイーゴルは素直に病死と信じているだろうな。だがお前は自分の父親が祖父を見殺しにできることを、平然と考えられる」

 言われてフィグネリアはぞくりとした。

 もし自分が父の立場なら、確実にそんなことは家族には教えない。病死だった、残念だと白々しく言える。

「お前の婿はオリガと似ていて、あれより聡い。本当に、次期皇帝の伴侶としてやっていけると考えられるか」

 畳みかけられて、フィグネリアは今度は返答できなかった。

 クロードに対しても、きっと同じことをする。父が母に見せたくないものは見せなかったように。

 そして彼はけして察しが悪いわけではなく、事実にうっすらと気づいてしまう。

 そこで本当にずれが生じないことがあるだろうか。

 急速に不安が胸に染み出してくる。 

「……オリガも偽りがどこかにあるとは気づいていたようだが、どう思っていたのだろうな」

 パーヴェルはか細い声でつぶやいて、傍らの薄闇の中でもくすむことなく黄昏の色を湛えている薔薇へと目を移す。

 薔薇は音もなく花びらを一枚、また落とした。


***


 パーヴェルの部屋を辞した後に、フィグネリアは離れへ戻る道をひとり行く。

 その途中に神霊の器となっている侍女の姿が見えた。彼女の表情は冷たく、おそらく神霊だろうと思う。

「……リルエーカ様ですか?」

 名を問うと、彼女は返答代わりなのかすっと薔薇を差し出してきた。

「あなたは今、絶望していますか?」

 質問に質問で返されて、フィグネリアは神霊らしい勝手さだと苦笑する。

「分かりません。私が得たのはあなた様が好まれる真実ではないのは確かです」

 父が完璧な王であったことは虚構だとは思わない。当人以外にとってはもはや真実だ。確かに父は偉業をなした賢君だったのだ。

 それよりも母が本当に幸せだったのか、自信がなくなってくる。

 そして未来に自分が、果たしてクロードとこのままの関係でい続けられるのか。

「薔薇は何を待っているのですか? あなたが望まれる真実がここにはあるというのですか?」

 フィグネリアは憔悴した声で、リルエーカに問いかける。

「ええ。あります。だけれど、それも、直に消え失せてしまうでしょう。希望というのは絶望の裏に隠れているものです」

 手渡された薔薇が花びら一枚だけ残して散る。

「早く見つけなさい、彼女の祈りを」

 リルエーカはそれだけを言い残して、廊下の奥へと消え去っていた。

 その場に取り残されたフィグネリアは、花びら一枚だけの薔薇を手にしてその場に佇む。

 そしてのろりと歩き出す。

 パーヴェルと話したことを、クロードに包み隠さず全て言える気はしなかった。彼が大丈夫だと言い理解するふりをすることは予測がついた。

 フィグネリアは薔薇の蔓の部分を指先で弄びながら、目を伏せる。

 そして離れに帰り着く頃には、自然と平静な表情を取り繕っていた。

 

***


 クロードは軍靴の音が広間の外から聞こえて来て、ソファーから立ち上がる。

「フィグ! って、違う」

 彼女のものにしては重く、どことなく聞き覚えのある歩調だった。

「あ、やっぱりフィグじゃない」

 扉が開かれて、クロードはがっかりとした顔で来訪者を出迎えた。

「人が馬を乗りついでろくに寝ずにここまできたのに、酷い出迎えだな」

 横柄な物言いで苛立たしげにそう言った来訪者はザハールだった。

「イサエフ二等官、お疲れ様です。しかし、本当に早かったですね」

 ニカが主君の変わりに敬礼して、ザハールがまったくと乱暴にソファーに腰を下ろした。

「資料の仕分けがほとんどすんでいて、夜に王宮に報告が来たと同時に皇帝陛下が官吏をかき集めた。それと、皇女殿下の指示が詳細で明確だったので、いらない手間がかからなかったからだ。それで皇女殿下は?」

 アドロフ公と話しているとクロードが説明すると、ザハールは怪訝そうにしながら腕組みする。

「たぶんもうすぐフィグは帰ってきますよ。そうだ、ドレス、ありがとうございます」

 クロードは晩餐のことを思い出して素直に礼を述べる。あのフィグネリアは本当に綺麗だった。

「着てもらったのか。どうだった?」

「すごく綺麗でした!」

「ドレスを着た女性には褒め言葉をしか言ってはいけない男の意見はどうでもいい。ましてや君なんて尚更だ。僕が訊きたいのはダリヤ様の反応だ」

「そっちも良好です。でも、フィグ本当に綺麗でしたよ」

 あの姿を見せてみれば、ザハールだって本心から見蕩れるに違いない。だけれどむやみに他の誰かに見せたくはないのも本音だ。

「皇女殿下の容姿は一級だから強調しなくても分かっている。皇族なのも加味して、ものが三割増しでよく見えるから、毎年どこも自分の所のドレスや装飾品をつけてもらうのに躍起になる」

「そういえばザハール、フィグのドレス姿毎年見てますよね……」

 律事二等官で九公家の近親であるザハールなら、当然式典の類に出席しているだろう。自分が知らないフィグネリアをザハールが知っているのは、悔しい気持ちがある。

「君はどうせこれから好きなだけ真横で見られるからいいだろう」

「そうですけどね。早く春が来ないかな」

 馴れてきたとはいえ、寒さが苦手であることには違いないクロードは、暖かい季節を待ち焦がれる。

「君は頭の中が年中春だがな。それで薔薇は散り始めているらしいが、神霊様は片付いたのか?」

 クロードはニカと一緒に気まずい顔で説明する。

「なるほど、厄介だな。先に事件の方も現状報告してくれ。皇女殿下には事件以外にもやってもらわなければならないことがあるから、どの道先に君たちに訊いておかないとならない」

 ザハールが抱えている書類の束をテーブルに置いて、半分を分ける。

「イサエフ二等官、こちらは事件に関する資料でしょうが、片方は?」

 事件関連より微妙に分厚い書類の束にニカが首を傾げる。

「皇女殿下のご政務だ。まともに指示を与えて最終決定を下せる者がいないと王宮も活動が鈍る。僕が急いで来たのは、皇女殿下にできるだけ早く戻っていただくためでもある」

 クロードは書類を手に取ってぱらぱらとめくってみた。どんな解答が必要か分かるものもあれば、分からないものもある。多いのは圧倒的に後者で、まだまだだなと思う。

「本当に大変だよな……さ、三分の一ぐらいはできる気がする」

「君ができても、皇女殿下の署名以外は無効だがな」

 ザハールがそう言って、クロードは唇を尖らせる。

「分かってますよ。俺の署名がなんの効力もないのは」

 政務統括官であるフィグネリアの変わりにいくらか書類の処理はできても、最終的にはフィグネリアの署名がいる。

 それだけの責任は自分に持たされていないのは、周囲からの評価と信用がまだまだ低いからだ。

「あ、今度こそフィグだ」

 クロードはさっきより軽く、歯切れのよい軍靴の音に顔を綻ばせる。予想通り、帰ってきたのはフィグネリアだった。

「お帰りなさい。フィグ、アドロフ公とのお話しは……?」

「ん、ああ。後で話す。それよりザハール、早かったな」

 今、はぐらかされた気がするのは気のせいだろうか。

 クロードはザハールから政務の書類を受け取るフィグネリアの疲れた横顔を、じっと見つめる。

「どうした?」

 視線に気づいたフィグネリアが首を傾げる。

「え、あ。ザハールに現状報告は俺とニカとでやって、一緒に書類なんかも目を通しておくんで……」

「そうか。助かる。では、頼んだぞ」

 フィグネリアが微笑んで、寝室へと政務を片付けに行く。

(やっぱり、変だ……。皇太后様のことなのかな)

 クロードは笑顔の裏に隠れているものに気づいて、きっとふたりきりの時に訊いたら話してくれるだろうと考える。

 ただやけに不安な感情が胸の内に残って、クロードはそれを取り払うように首を横に振ったのだった。



幕間


 神殿の中庭の四阿で、黒髪の三十前後の女性が咲き乱れる薔薇達に目を細める。目を惹く派手さはないが、よく見れば目鼻立ちの整った彼女は神子だ。

 神殿周囲の薔薇は全て散ってしまったというのに、この中庭の薔薇は花びらを一枚たりとも落とさない。

 まるで自分達の偽りを知っているかのようだと神子は思う。

「神官長様、楽士様にはお目にかかれないのですか?」

 隣に立って同じく薔薇を見ている神官長が困り顔で首を横に振る。

「楽士様は皇女殿下の婿君です。接触されるのは……」

「これほど、妖精達が騒ぐ楽士様は初めてなので、お話しを聞いてみたいのですが」

 ここ数日礼拝堂の方角から聞こえてくる笛の音に、妖精達が大きく動く気配を感じた。薔薇だけでなく、風や土、ありとあらゆる妖精達が激しく律動して五感が狂いそうなほどだった。

 そして自分の心にも何かを呼び起こすものがあった。

 目を閉じると、金の光が滲み出してきて眩い。ちりりと鈴の音が遠くでこだまする。

 思い出すだけで郷愁に似た感情に胸が締め付けられて、会いたいと切実に思う。

「私は真実を喋りはしません。どうか、ひと目だけでも。そうです。喋れないということにしていただければ、神官長様が憂うこともありません」

 神官長はそれでもまだ迷いを見せた。

「全ての真実が明かされなければ、薔薇は実をつけないのでしょうか」

 そして彼は虚ろな声で言う。

「何がリルエーカ様のご意志なのか私どもには分かりません。ただ、我々の、『彼』の行いに善意も希望もないなどとは思いたくはありません」

 リルエーカが愛でる真実は、確かにここにあると信じたい。

 そうでなければあまりにも、報われないのだ。『彼』の願いも、神官達の思いも。

「……神子様、明日にでも楽士様とお目にかかれるよう手配いたします。お声をかける以外は、お好きにしてくださればと思います」

 神官長が四阿から離れながら、淡々とそう告げる。彼は彼で、この状態の理由を早く知りたいだろう。

「明日……」

 神子は両手を組んで、口元に当てる。

 自分はどうするべきか、考えなければならない。だがあの楽士と相まみえられるかと思うと、思考が飛ぶほど胸が高まる。

 自分の気持ちに呼応でもしているのか、妖精達がさざめく気配がする。

 神子はふわりと身を翻して、屋内へと戻っていく。

「会えるのね……」

 そしてもう一度高揚を口にして、今日という一日が早く過ぎることを祈った。


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