三章 不安定な縁の下
第18話 極寒の夜
薄暗い室内の中、炎が揺らめいている。そしてその炎に同調するかのように、自身の身体が小刻みに震えている。寒い。急速に熱を失った身体に、何重にも毛布を巻きつけたところで、失った熱が戻ってくるのには時間が必要であった。
隣を見やれば、寄り添うように翔太がいる。しかし翔太も絵真同様、身を縮こまらせて寒さに耐え忍んでいる。しかしそんな二人を嘲笑うかのように、室内の気温はどんどん下がっていった。目の前の焚き火も最早気休め程度でしかなく、室内を暖めるには心もとなかった。
大変なことになってしまった。絵真はそう思わずにはいられなかった。
翔太が運転する車が車両強制停止装置によって走行不可能になったその後、絵真と翔太はその場から逃げることに成功し、見事管理公社の追跡を振り切った。しかしながら、その代償は成果と釣り合っているかどうかと問われると、答えに困ってしまう。
車両強制停止装置が設置されていた場所は、丁度首都高速都心環状線の浜崎橋ジャンクション手前であり、スピンしながら強引に停車したのもその辺りだった。
浜崎橋ジャンクションは湾岸沿いにあり、都心環状線はこの場所にてカーブすると、その続きは東京湾と交わる川の真上を走行することになる。
つまり浜崎橋ジャンクションは、河口の真上に存在していた。
移動手段も奪われ、最早万策尽きたかと思われた状況において、翔太はこの場所が浜崎橋ジャンクション手前であることに気がついた。そして絵真を連れて都心環状線から真下の川、芝浦運河に飛び降りたのであった。
高速道路の高架から河川の水面まで相当な高さがあったが、飛び込められない高さでもなかったので、翔太は若干気圧されつつもその行動に走った。一方絵真としては、この高さから飛び降りることに心底恐怖したが、ここまで来てしまったのならもうやるしかないと自分を勇気付け、翔太に身を委ねた。
少しの浮遊感ののち絵真は水に包まれ、空気を求めて藻掻く。そして数瞬ののち新鮮な空気に到達した絵真は、口を大きく開けて肺にそれを送り込む。視界を遮る水滴を手で拭ったのち、共に浮上してきた翔太と一緒に近場の岸まで泳ぎ、川から這い上がってきた。
夕方の時間帯は屋外での活動ができる気温になるのだが、それはつまるところ急激な気温変化の最中であることを意味している。そしてなまじ管理公社との逃走劇を繰り広げてしまったあとなので、希望の時間はそれなりに経過しており、気温は刻々と冬の準備をしていた。そんな状況において川に飛び込んだのである。水温が急激に下がっているのは当然であり、底冷えする外気は濡れた服を通して体温を奪っていった。時折吹き付ける風はまるで刃のような鋭さをもっており、その風に煽られる度に突き刺さるような痛みが身体を駆け抜けた。
ここから徒歩では、一番近い居住区に到着するまで時間がかかってしまい、雪が降り始めてしまうだろう。そうなれば、大した装備どころかずぶ濡れ状態の二人は凍死してしまうかもしれなかった。奇跡的に命は助かったとしても、末端が凍傷で壊死してしまう可能性が大きかった。そのため下手に移動するよりは、近場の建物で夜をやり過ごす方が得策であった。
そんなこんなで冷えを我慢しつつ水滴を垂らしながら街を彷徨った結果、湾岸沿いの廃ホテルに到着。廃ホテルの入口は遺物回収人によってこじ開けられたのか、エントランスをはじめとする下層階は荒れ果てており、殺風景となっていた。しかしながら少し階を登ると客室などが手付かずの状態で残っており、難を凌げそうであった。
翔太と絵真は可燃物をかき集め、火をつけて暖をとり、一緒に集めた毛布に包まって今に至る。ちなみに念のため試してはみたものの、やはり電気は使えなかった。
元客室の窓から外を見やれば、降り続ける雪が強風に煽られて吹雪と化しており、凶悪な夜が牙を剥き始めていた。そして室内を見渡せば、残された椅子や机を利用して濡れた服が干されている。二人が毛布に包まっているのは、身体を暖めるためでもあるのだが、根本的に二人共裸であるので、裸体を隠す意味でもあった。絵真としては赤面してしまうほど恥ずかしい状況であったが、残念ながら寒すぎて顔が赤くなることはなかった。
結果的に、この逃走は失敗だった。
「なあ絵真、カメラ、どうした?」
翔太は沈黙に耐えかねたのか、それとも寒さに耐えかねたのか、気を紛らわせるかのように尋ねてきた。その問いに、絵真はただでさえ縮こまっている身体が更に縮こまるような感覚を覚えた。
「……車に、置き忘れた」
黙ったままでいることもできず、絵真は正直に答えた。そのことは大失態であり、絵真は当にそのことに気がついていた。
二人が管理公社から逃げていたのは、絵真が昨日ジャンクショップで購入したSDカードが、目下捜索されている遺失物だからである。
管理公社にとって重要なデータが入っているのか、既に膨大なデータが記録されていたそれは、デジタルカメラに使用するにしても、その残り容量は僅かであった。しかしその僅かな容量には、翔太と紗代、更には街の皆との出会いが詰まっている。絵真としては、出会いの証を失いたくなかった。そのSDカードを返却するとしても、せめてその出会いの思い出を抽出してからにしたかった。
しかしながら問題のSDカード入りデジタルカメラは、翔太の車から出る際に置き忘れてしまったのだ。だがそれは無理からぬこと。管理公社との決死のカーチェイスをしていたため逃げるのに必死であり、無我夢中であった。途中で目的と行動がすり替わってしまい、カメラのことを気にかける余裕がなくなっていたのだ。
こうして廃ホテルの一室で寒さに耐えながら冷静になってみると、自分たちは何のために管理公社から逃げたのか考えずにはいられなかった。そして考えれば考えるほど、自分たちの行動は後先考えていない無駄なものであると認めざるを得なかった。必死になって足掻いた結果、ずぶ濡れになって寒さに身を縮こまらせているのだが、それらから得られるものはなにもないのだ。一所懸命守ったSDカードは、もう管理公社の手で回収されているだろう。そのことに、絵真は悔しさを覚えた。
そして同時に、自分のために身を粉にしてくれた翔太に申し訳なく思った。あまりにも申し訳なさに、寄り添っているにもかかわらず翔太の顔を見ることができなかった。
「そうか」
絵真の正直な返答に、翔太もその事実が意味することを察したようで、翔太は短く呟くだけだった。その声に抑揚はなく、翔太が今どのような気持ちを抱いているのか察することがかなわなかった。しかしそれがまた、絵真の心を怯えさせた。
「……ごめんなさい」
絵真は今にも泣き出しそうな声で謝る。
「気にするな」
しかしすぐさま否定された。それは先程とは打って変わって気さくな声であった。
「もう過ぎてしまったことだ。今更アレやコレや考えたところで、もうSDカードは向こうの手にある。どうにもならないよ」
「うん……ごめんなさい」
「あんまり思い悩むな。確かにカメラを置き忘れたことは失敗だったが、ある意味ではむしろよかったのかもしれない」
「どういうこと?」
絵真はずっとネガティブに考えていた故に、翔太のその言葉が意外であった。
「俺はカメラのこととかよくわからないけど、あれは水に濡れたらまずいものなんじゃないか? それにSDカードも、濡れるのはあんまりよくないような気がする。だからもしカメラを持って川に飛び込んで逃げたとしても、結果的に写真は失われていたと思う。だからこそ置き忘れたことにより、俺たちはあの中の写真を守ったってことになるんじゃないかな」
その言葉を聞いた絵真は瞠目し、反射的に翔太の方を振り向く。すぐ近くにある翔太の表情は、寒さ故にカチカチと歯が鳴ってはいるものの穏やかなものであった。
なんて前向きな人なんだろう。絵真はそう思わずにはいられなかった。自分では絶対に辿り着けない考えである。
――年上の男の子は、皆こんな感じに頼りがいがあるのかな?
絵真はこれまで、目上の少年という人物と関わりを持ったことはなかった。男性ということであれば自分の父親の他、横浜エリアの居住区にいくらでもいたが、皆成人だった。少年ということであれば自分が通っている分校にも数人いるが、自分よりも年下であり、弟のような存在であった。だからこそ翔太のような人物は初めてであり、未知数だった。
未知数だからこそ、その存在に興味がわく。
――お兄ちゃんがいれば、こんな感じなのかな?
絵真は翔太のような存在をうまく形容することができなかった。だからこそ知識として知っているもので言い表してみるが、果たしてそれであっているのかどうかは、兄のいない少女である絵真にはわからなかった。
――なんか、最初はちょっと怖かったけど、案外優しくて頼れる人だな。
翔太と出会った当初は、知らない人ということもあり緊張していた。そして自分よりもはるかに長身で体格のいい少年に若干気圧された。近寄りがたい雰囲気であったが、しかし乗せてもらった車の中で向こうから話しかけてきてくれたことに絵真は安堵し、萎縮した気持ちはいつの間にか弛緩していた。
気づけばずっと一緒にいた。池袋に向かう車の中もそうだし、ジャンクショップの用事にも付き合ってくれた。その後池袋の居住区内を案内してもらいつつ遊んでくれたし、家にもお邪魔した。完全に心を許してしまった絵真は、それが当たり前であるかのように翌日、すなわち今日を過ごした。
SDカードを購入したので、本来ならもう横浜に帰らなければならないのだが、内部容量というハプニングのため、もうしばらく滞在することとなった。そのことに絵真は密かに喜んだ。まだ翔太と、ついでに紗代と一緒にいられる。そのことがたまらなく嬉しかったのだ。管理公社にさえ邪魔されなければ、幸福な時間は続くはずだったのだ。
ここまで一緒にいたいと思える人は初めてだった。その想いは、友人に抱くものとは違うし、ましては両親に抱くものとも違う。名状し難い感情。初めて異性に抱いたこの感情の正体を、絵真は知らなかった。
――わたしにとって、翔太は特別な人なのかも。その特別がなんなのかはわからないけど……。
相変わらず眼前の炎は煌々と燃えている。冷気が分厚い毛布を貫通して身体に刺さってくるので暖かさはないが、視覚的には十分暖かい。この炎の明かりは、まるで昨夜から今日の昼まで続いた幸福を如実に表しているかのようだった。そしてその明かりは、冷気を纏った現実に飲み込まれそうになっており、懸命に足掻いている。まさに今のわたしのようだ、と絵真は瞳に緋色の光を映しながら思った。
「ヘックション!!」
絵真が焚き火を見つめて恍惚としていたそのとき、すぐ隣で盛大なくしゃみが響いた。それによって、絵真の思考は現実に引き戻される。
「翔太、寒い?」
自分も耐えきれないほど寒いのだが、絵真は自分のことをさておいて尋ねていた。
「ああ。なんか、さっきよりも寒さが増しているな」
そう返事する翔太の声は、寒さに震えていた。確かに焚き火をつけて更には毛布に包まっているのだが、一向に暖かくなる気配はない。それだけ室内の気温がどんどん下がっている証拠であった。窓を見やれば、吹雪は激しさを増していた。横殴りに吹き付ける雪が窓に打ち付けられ、その度ガタガタと音を鳴らしている。できの悪い笛のような風音が、密室であるはずのこの部屋まで届いてきていた。
「はは……。寄り添えば暖かくなると思ったが、そうでもないな」
翔太は寒さに嘆くかのように、微苦笑を浮かべて愚痴をいう。翔太の言う通り、体感温度としては、差して変化はなかった。
しかし、絵真は心の中でそれを否定した。温もりは感じられないけど、毛布越しに伝わってくる相手の身体は、どことなく安心感を与えてくれる。たった一人でこの強烈な寒さに耐えているのではないと、自身に勇気を与え続けている。寄り添うことは無意味ではないのだ。
できればずっと寄り添っていたい。しかし実利的ではないのも確かであった。そして夜の気温は刻々と下がっていき、このままではお互いの命が危うい。何とかして効果的な暖の取り方を考えねばならなかった。
――二人共暖かくなる方法……。いつでに、寄り添っていられる方法は……。
絵真は記憶を頼りに思案する。そしてそれはすぐに出てきた。
――えっと……、でも、そんな……。
しかしその答えは、絵真を惑わせるものであった。
雪山のように吹雪いている環境下、半ば遭難した状況で、二人が共に暖かくなる方法。
――は、裸で温め合う……!?
頭によぎった方法は、それであった。昔どこかでそのようなことを聞いたのか、もしくは何かの本で読んだのかは定かではないが、絵真の記憶の片隅にその方法があった。
そして丁度、お互い毛布の中は裸だった。
そのことに思い至った途端、絵真は急速に恥じらった。そんなことできるわけがない。
しかしながら、理性の部分ではその方法を推奨していた。焚き火を用意し、何重にも毛布に包まっている状況において、これ以上の暖をとるにはそれしかない、と。
絵真は目を伏せ、顔を毛布に埋めながら逡巡する。その間も気温は下がっていく一方である。
僅かに露出した肌が冷たい空気を感じ取る。非常に寒い。しかしそれでも、絵真は自身の中で感情と理性が葛藤していた。
その状態のままどれほどの時間が経過したのかはわからない。でも決意することはできた。
「ねえ、翔太」
絵真は意を決して翔太を呼んだ。その声は震えており、きっと翔太は寒さ故の震えだと思ったに違いない。しかし絵真としては、別の意味で震えた声であった。
「雪山とかで遭難したとき、は、裸で、あ、温め合うのが、こ、効果的らしい、よ」
絵真は恥ずかしさのあまりうまく言うことができなかった。心臓は鼓動を早めており、冷えた血液が循環して不愉快だった。でも不思議と嫌ではなかった。
「あ、ああ。なんか……そう、みたいだな」
うまくは言えなかったが翔太には伝わったらしく、翔太は歯切れが悪い言葉を返した。絵真の言葉によって、翔太もそれを意識してしまったようだ。
そこから会話が発展することはなかった。沈黙が室内の冷気と同化して、二人の間に漂う。
「その……」
だがその沈黙は、絵真によって破られた。
「する?」
絵真は翔太の顔を直視することができず、言葉だけでそれを促す。その言葉も、はっきりと言えなかった。
「あ……いや……」
ただ絵真の足りない言葉でも、翔太には通じたようだ。翔太は露骨に動揺した声を発した。実際にどのような反応をしているかは、顔を見られない絵真にはわからない。しかし雰囲気からして、翔太は断るだろうと思った。
――せっかく決意したのだから、やらなきゃ。やらないで後悔するよりはいいはず。
恥ずかしがった末に凍死してしまっては、元も子もない。今は恥ずかしがっている場合ではないのである。
絵真は一度ギュッと目を瞑ったのち、カッと目を見開き、行動する。
翔太の方を向き直り、名前を呼ぶ。そして翔太が寒さに震えながらぎこちなく振り向いたのを見てから、絵真は翔太を突き飛ばした。翔太は咄嗟のことで反応できず、抵抗することなく床に倒れた。
「え、絵真! いきなり何を……」
絵真の突然の行動を咎めようと翔太は声を荒げるが、その声は即座に消沈した。というのも、翔太が倒れてから絵真はすぐ立ち上がっており、その姿は焚き火の炎によって不気味に照らし出されていたからだ。
「絵……真?」
「……翔太が相手だから、できることだからね」
呆然と見上げる翔太に対して、絵真は肩に毛布をかけただけの姿で、熱にうなされたかのような声で言った。
そして絵真はその場にしゃがみ込み、這うようにして翔太の身体に接近する。絵真は翔太の毛布を手で退けようとするが、当の翔太は頑なに毛布を死守していた。業を煮やした絵真は、今度は翔太の毛布に潜り込むようにして密着を試みた。それは功を奏し、絵真の肌は翔太の肌と触れ合った。
「絵真ッ!?」
うまく抵抗できなかった翔太だったが、ここまでされて流石にこのままでいることもできず、絵真を咎めた。しかし、
「翔太、この方が暖かいでしょ」
絵真は翔太の言葉を打ち消すかのように言い返した。そして密着した二人の身体を覆い隠すかのように毛布をかぶせる。それによって二人の身体は外気から遮断された。
「いや、暖かいことには暖かいんだが……」
互いの体温が肌を通じて伝わる。一人で寒さに震えているより格段に暖かかった。そしてそれは翔太も感じ取っていた。翔太はこの温もりを取り除くことを躊躇ったのか、身体から力が抜けていき、渋々諦観した。
絵真は毛布の中で、翔太の胸に顔を埋めた。荷物を運ぶ仕事をしているだけあって、翔太の身体は程よく筋肉がついている。固い肉体ではあるが、そこから伝わる温かみに絵真はより一層安心感を得られた。正直顔から火が出るほど恥ずかしいのだが、やって損はなかったようだ。
絵真は肌を密着させ、この凶悪な夜をやり過ごす。
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