第8話 池袋の一夜
興津の住まいであるワールドインポートマートビル内の図書館を出たあと、翔太たちは紗代の家で食事をとることになった。紗代の家は、ジャンクショップが入居している文化会館の上層階の分譲マンションだった場所である。その住居の中は、雑然としたジャンクショップとは打って変わってこまめに掃除がされているのか、整理整頓が行き届いており息苦しさを覚えることのない部屋であった。まるでかつてのプリンスホテルの一室をそのまま移してきたかのように高級感さえ漂わせているこの家は、階下の店とは随分と扱いが違うようである。
帰宅してリビングに入ると、明美と忠司が管理公社からの配給の食料を適当につまみにして晩酌をしていた。しかし飲み始めてからまだ然程時間が経過していないのか、酒の減りは少なく、明美も忠司も酔いが回っている様子はまるでなかった。
「お酒飲むのはいいけど、飲む前にちゃんとしたもの食べないと身体悪くするよ」
その光景を目の当たりにした紗代は、小言を言いながらテーブルに置かれたいくつかの食料を持って台所へ消えていった。どうやら見かねた紗代が下げた食料と保存している食料を材料として何か料理するらしい。つまみを奪われた明美と忠司は微苦笑を浮かべているが、このあと出てくるであろう紗代の手料理に期待している様子であった。
「それより、酒はどっから調達してきたんだ?」
翔太は絵真と共に空いているところに座りながら、グラスを片手に持った大人たちに尋ねた。
「遺物」
「……おいおい、そんなの飲んで大丈夫なのかよ」
明美はこれといって憚ることもなく、正直に答えた。今飲んでいる酒が遺物として回収されてきたものであると明美自身が明かしている以上、その酒の出どころは十年前の東京にあったものなのだろう。しかしその答えに対し、翔太は怪訝な表情にならざるを得なかった。
「翔太は知らないかもしれないが、実はウイスキーには賞味期限はない。光に当てず涼しい場所に置いておけば全然大丈夫」
明美はグラスを揺らして答えた。未成年である翔太は酒を飲む習慣はなく、故に酒に関する知識は皆無であった。グラスの中の琥珀色がウイスキーであることも、明美に言われてようやく識別できるようになった程度である。
「そういうものなのか?」
「そういうもの。アイスと同じだよ。あれも賞味期限はない」
「え? アイスって、賞味期限ないんですか?」
アイスクリームの雑学に食いついたのは、意外にもこれまで大人しかった絵真だった。
「まあ、流石に溶けたものはどうかと思うけど、冷凍していれば大丈夫だよ」
絵真は明美の言葉に関心を持ったようである。
賞味期限から始まった会話は、先程までデジタルカメラで街を撮影していた話に移り、絵真の街である横浜の話題へと変わる。そして最終的に明美が翔太の性癖を暴露するという誰も幸せにならない話になったころには、既に帰宅してから数十分が経過していた。台所へ消えていった紗代がエプロン姿で現れ、大皿をテーブルに置いたところで談笑は一旦打ち切りになった。
「さ、食べて」
紗代がそう言葉をかける前から既に皆の箸は大皿をつついていた。あり合わせの食材によって料理されたそれは紗代の創作料理――しかも即席で――であるが、その素材を殺すことなく生かし、更には素材同士が喧嘩することもなく、絶妙なバランスにまとまっている。芳醇なそれはひとたび口に運ぶと、その香りが嗅覚を刺激しながら鼻腔を駆け抜け、病みつきになる味が喉を通過する度に白米を掻き込みたくなる衝動が沸き起こる。そして何度も箸を往復させたことにより、大皿は見事空になった。大人たちも酒を飲むことを忘れて喰らいつくしていた。紗代の創作料理は、まさに一瞬の夢の如く儚いものであった。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
「はい、どうも」
翔太と絵真は膨れた腹をさすりながら満面の笑みを浮かべる。その笑顔の起因である紗代も皆と同様に満足気であった。
その後翔太はソファーに寄りかかってぼんやりとし、絵真はデジタルカメラを手に取って今日撮影した画像を眺めて食休みをする。紗代は食器を片付け台所で洗っている。明美と忠司の大人組はウイスキーをグラスに注いで晩酌を再開させた。皆各々に食後の時間を過ごす。
「そういえば、絵真ちゃんは今日泊まるところは決まっているの?」
しばらく経つと後片付けを終えた紗代がリビングに戻ってくる。そしてはたと気づく。翔太も今までその話が一切出てきていないことに気づかされた。
「当てがあって池袋に来たわけじゃないもんな」
毎日池袋行きの車を待ち伏せていた絵真の行動から考えるに、事前に寝泊りの場所を確保していたとは到底考えられなかった。
「うん。泊まるところない」
絵真はシュンとした表情をするが、その眼差しはどことなく何かを期待しているような感情が込められていた。翔太が察するに、泊めてほしいと言いたいがうまく言い出せずにいるようであった。
「もう、いちいち可愛いなあ、絵真ちゃんは」
その相手を窺う猫のような仕草の絵真に紗代の心が打ち抜かれたのか、紗代は懐いて擦り寄る犬のように絵真を抱き寄せた。
「しょうがないな。お姉さんの部屋に泊めてあげよう」
そう言いながら更に距離を詰める紗代に対して、絵真は期待通りになったことを喜びつつも密着する紗代に困惑している様子であり、その相反する反応によって絵真は複雑な表情を浮かべていた。
「じゃあ、お風呂入ろうか」
「うん。……え? 一緒に?」
紗代の家に泊まることが決定したことにより、入浴するのを勧められ絵真はそれを受け入れた。しかし紗代は一向に絵真から離れる様子はない。そのことにより、絵真は紗代の真意を察して虚を突かれるかたちになった。
「大丈夫。うちのお風呂二人一緒に入っても狭くないから」
「え、いや、そういうことではなく、その、は、恥ずかし――」
「着替え用意しなきゃね。取り敢えず私の部屋に行こっか」
共に風呂に入ることに羞恥心を覚える絵真だが、紗代はそれに取り合わず自分のペースに巻き込んでいく。絵真は抱きつかれたまま紗代に立たされ、紗代の自室に向けて強制連行されていく。
リビングの入口まで進んだところで、ふとその足が止まった。そして紗代は振り返って翔太を見やる。その視線は敵意を向けるかのように鋭利であった。
「……アンタ、女の子二人が楽しくお風呂に入っているからって、覗いたりしないでよ」
「しねーよ。つうか、もうそろそろ帰るよ」
翔太はそんなことかと思いつつ、紗代の疑いの眼差しをいなす。紗代はその言葉を半ばほど信用したのか、警戒心を保ちつつ再び歩む。
もういい時間でなので、翔太は紗代に言った通り帰る準備に取り掛かる。そのとき、
「ムフフ。若いおなご二人が仲良くお風呂……。これはアタシも入るしかないね」
と、酒に酔った四十歳目前の明美は風呂場の方を見やりながら舌なめずりをし、徐に衣服を脱ごうとする。そのいい歳をした母親の奇行に翔太は名状し難い殺意を覚え、明美の頭部に手をやって固定し、頭突きをお見舞い。額から迸る衝撃に明美はその場に崩れ落ちた。
そして翔太は明美の首根っこを掴んで引きずり、酔い潰れた忠司をリビングに放置して帰路についた。
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