豊臣三毛

第1話【幼児】

 今朝、僕の目が覚めたのは12時を過ぎてからだった。

 いや、正しくは10時を越えた辺りから目が覚めてはいた。

 けれども、どうにも眠気が覚めなかった僕はそのまま2時間近く、ベッドに腰掛けたまま意識を遠くへ追いやっていたのだ。

 兎に角、僕は憂鬱な、ぼんやりとした不安を目一杯心に詰めたまま「ああこれではまずいな」という不明瞭な危機感に突き動かされる形で眠気を追い払うと、ベッドから立ち上がり、机の上のコップを手に台所へ向かった。

 「ああ、うわあ、ああ……」

 居間へ入った僕は情けない声を上げた。一匹の柴犬が、跳び着いて来たからだ。

 私はチョコレートのこびりついたコップを舐められないようにしながら、彼をあやしつつ台所へ急ぐ。

 彼は純粋だ。そして愚鈍でもある。故に、知能を持て余して苦しむ僕を、彼は嘲ている。

 知能は使いこなせる者だけに幸せを寄越してくれる。僕のような……僕の様な男には、苦しみしか与えない。考えれば考える程に思考を持て余し、憂鬱になり……。

 やめよう。彼が心配そうに僕の顔を覗き込み始めた。

 だが苦しみの無い世界……即ち、アダムとイブが林檎を齧らなかった世界線に想いを馳せる事は、果たして後ろ向きな思考だろうか?

 僕は抽象的に想い、そして宗教と科学の混在するこの面白いアイデアを冷笑しつつ、興味ありげにフンフンと嗅ぎ周り、鼻息を荒くする彼を台所の引き出しと僕の脚の間に挟みながら、新しいチョコレートを入れる。

 チョコレート粉、砂糖、豆乳を用意して、先ずチョコレート粉と砂糖をコップへ入れると、次に湯をコップの中程まで注ぎ、充分溶けた事を確認してから豆乳を入れて、私はチョコレートを完成させた。

 父さんが間違えて買ってきたこれは、今時珍しい『砂糖の入っていない』チョコレートだ。砂糖を入れなければ、とても飲めたものではない。

 苦いのだ。

 故に、僕は一つの事柄に気付くことが出来た。

 チョコレートの味は砂糖の味が左右している、その事実に。

 私はチョコレートと相性の悪い砂糖の混ざったそれを、ぐり、と喉へ一口流し込む。

 これはチョコレートの味ではなく、砂糖の味なのだが……。

 然し、美味い。

 生きる事の苦しみを、忘れさせてくれる。

 鬱々とした妄想を、捗らせてくれる。

 ああ、今、殺人鬼が可憐な少女を理不尽に……。

 否、やめよう。

 ここに書きたくはない話だ。

 花を踏み躙るなんて真似は、正気でない。若草は踏み躙られてナンボだとは思うが。

 若い男は気が狂う程に苦しめばいい。僕がそうして来た様に。

 そう胸の内で高説をのたくり回しながら、チョコレートを少しずつ喉へ流す。

 然し、そうして何の苦しみも持たずに育った乙女なるものは……。

 まともな女であるのか? 麦は踏まねば強く育たぬ。つまり。

 女も踏まねば、強く育たぬ?

 僕は目の前のニュースバラエティ番組さえも無視して、ぼんやりと……ぼんやりとまた考え込み始めた。

 僕の脚元では、彼が目を輝かせて座り込んでいた。

 何時、その旨そうなものをくれるのか、と。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る