なにか大切な、失したもの

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なにか大切な、失したもの

 赤松富士男は目覚めた時、なにか大事なものをどこかに置き忘れていることに気づいたのだが、それがなになのかはまったく見当がつかなかった。無理に思い出そうとすると、こめかみの血管が脈打つ。

 頭痛。身におぼえのある痛みだ。宿酔い? どうもそうらしい。

 その時になって足元がずいぶん涼しいことに気づき、慌ててコートの襟をあわせる。

 ふとまわりを見渡して、舌打ちをひとつ。

 野宿をするには早すぎる季節だというのに、公園のベンチに背を丸めるようにして横になっていたのだ。

 若いころならともかく、もう何十年もこんなバカな真似はやってない。

 そう思うといささか面痒いものもあり、ちょいと誇らしげでもある。最後にこんなに羽目を外したのは、いったいいつのことだったろうか。

 正確には思い出せなかった。記憶があやふやになるほど、遠い昔。

 苦笑しながら起き上がり、ベンチの上に座り直す。コートのポケットからセブンスターと百円ライターを出し、最後のよれよれになった一本を咥え、空になった箱をねじり、おおきく伸びをする。ねじった煙草の空箱をベンチのとなりにあったゴミ箱に放りこみ、深々と煙を吸い込む。

 その時になって、この公園には来たことがあることに気づいた。

 月美の、マンションの近くに在る公園だ。

 月美は接待でよく利用するバーの女だ。赤松とはいきがかり上、何度か寝たことがある。赤松は月美のマンションへも、何度かあがったことがあった。酔ったいきおいで月美のマンションへ行こうとした途中、疲れて公園のベンチで休憩しているうちに、そのまま眠りこんでしまったらしい。

 どうにも、しまらない話しだ。

 夜が明けたばかりの公園は朝もやにつつまれている。赤松は煙草が一本灰になるだけの時間、白濁した風景にみとれていた。火がフィルターを焦がす寸前に煙草を地面にほうり、爪先でかるくもみ消す。腕時計で時刻を確かめ、月美のマンションへ歩きだした。

 時刻からいえば始発はすでに動いているはずだが、まあいいだろう。月美は普段の表情より怒った顔のほうが魅力的だった。月美が寝入ってから、まださほどたっていないはず。

 そう思うと、赤松のなかにも微かに残っている悪戯っ子じみた幼稚な部分が、低い笑い声をもらした。

 なんだか身体全体が軽くなった気分だ。たった一度、公園のベンチで夜を明かすだけで、これほど心持ちが軽やかになるものだろうか。

 赤松は夢見心地で朝もやのかかった町中を歩いた。途中、喉が渇いたため販売機で缶コーヒーを買う。渇きはとれず、甘味料のために口のなかが粘つくようになるだけだった。

 まあいい。

 一度チャイムのボタンを押し、しばらく間をおいてから、また押す。

 三度目のチャイムをならすかどうか迷っていると、ドアが開き月美が不機嫌な顔をだした。二秒ほど赤松の顔をながめた後、大きなため息をついて無言のままドアのチェーンをはずす。

 月美は無言のまま赤松にダイニング・キッチンに置かれたテーブルセットの椅子をすすめ、やかんに水道の水をいれてコンロにかけた。

「昨日、退職になったよ。名目上は、希望退職ということになった」

 結局、このことを誰かにいいたかったのかも知れない。家族や元同僚たちではない、誰かに。赤松はそう思った。だから、昨夜もあんなに無理な飲み方をしたのかも知れない。

 月美はふっ、と笑った。

「そんな時に、朝帰りなんかしてもいいの」

 ききわけのない子供を諭すような口調だ。赤松は月美のこんなところが気にいっていた。月美はさして美人ではないし、本人は二十五だと主張しているが、実際には三十をいくつかこえているだろう。それでも赤松のようなパッとしない初老の男の、他愛もない愚痴を真剣に聞いてくれる。同情やなにかではなく、親身に話してくれる希少な存在だった。何度かなりゆきで寝たことはあるが、赤松にとって月美とは浮気の相手というより精神安定剤に近い存在だった。

「いいんだ」

 そういった赤松の声はかすれていた。涙声だった。

「いいんだ」

 もう一度、同じ言葉を繰り返す。そのとき赤松は、ああ、おれは泣きたかったのだな、と気がついた。

 月美がコンロの火を消し、赤松の座っている椅子に近づいて、両手で赤松の肩をそっと抱いた。赤松は月美の豊かな胸に顔をうずめ、声をあげてわんわん泣いた。

 しばらくして泣き疲れるると、月美に誘導されるまま、月美のベッドに這い入り、そのまま眠る。眼をさますと昼すぎで、隣には月美が寝ている。欲望を覚えた赤松は、月美を抱きよせる。月美は抵抗せず、されるがままにしていた。

 赤松は行為の最中、うわごとのように「なにか大事なものをどこかに置き忘れたんだ。なにか大事なものをどこかに置き忘れたんだ」といい続けたが、本人はそのことに気づいていなかった。


 家にかえっても、妻の節子にはなにもいわなかった。珍しいことではない。赤松は仕事の関係上夜半を過ぎてかえることが多かったし、ひどい時には二週間も妻とまともに顔を合わせなかったことさえある。

 お互いの存在に対する、さしてひややかでもない無関心さ──ここ何年かのこの夫婦の関係を言葉で表現すると、そういうことになる。

 それでも、赤松が皺だらけのスーツを部屋着に着替え応接間にいくと、湯飲みに暑いお茶を淹れ朝刊をわたしてくれる。その間も、つけっぱなしのテレビから眼をはなさないのだが。

 赤松はとりあえず一口お茶をすすり、節子になにか言いかけるのだが、その時になってこの場に適切な言葉を思いつかないことに気づき、黙って新聞をひろげ、丹念に読みはじめた。

 二人とも無言のまま時間だけが無意味に経過し、赤松がほかにするべきことも思いつかないまま朝刊の隅から隅まで三回繰り返して読み終わった頃、唐突に電話がなった。

 よっこらしょ、とちいさく呟きつつ節子が大儀そうにたちあがり、部屋の隅においてある電話の受話器をとる。赤松は新聞をたたみ、老眼鏡をはずして目蓋をかるく揉んだ。

「はい。赤松ですけど。え。警察。警察がいったいなんの。え。死体。主人の。ええ。あの。ちょっとまってください」

 受話器の送話口を手で包むようにして持ちながら、節子は赤松のほうに振り返っていった。

「あなた。警察の方が、あなたが公園で死んでるっていってますけど」

 赤松はタチの悪い冗談だと思ったが、それは事実だった。


 赤松と節子は連れだって警察署に死体の確認にいったが、赤松の存在は当然問題になった。

「ちょっ、ちょっ、ちょっとまってください。失礼ですがそちらの方は、親類の方かなにかで……」

「はあ。その。あの。大変いいにくいのですが。わたくし、赤松富士男と申しまして。その。お初にお目にかかります」

「赤松富士男、って……。じゃ。あの。その」

「たいへんお恥ずかしい話しなんで、恐縮なんですが、その……本人です」

「本人って、あなた。そんな非常識な。ほほほ本人が自分自身の死体を確認にくるなんて」

「いや。その。どうも。大変申しわけない。自分が死んだなんて全然気づかなかったもので」

「気づかなかった。って。あなた。そんな。非常識な」

「いや。その。すいませんすいません」

「すいませんねぇ。うちの主人がお手数かけまして」

「お手数がどうのって問題じゃあ。あの。その。……とにかく! ご遺体の確認をお願いします」

 その担当者は管轄外のことには深く関らないほうが身のためと考えたのか、以後は努めて赤松の存在を無視し、ひたすら事務的に自分の職務を遂行した。


「これは……おれだなあ」

「あなた、ですよねぇ」

「死んでるよなあ」

「死んでますよねぇ」

「ええ。今朝午前十一時頃、○○公園のベンチで横になっているところを発見されました。というより、その前後に、ベンチに横たわっている不審な人物の様子がどうもおかしいという市民からの通報がありまして、近くの派出所から出向いた警官が調べましたところ、こときれてすでに冷たくなっていたということです。死亡推定時刻は、発見された時刻の五時間から六時間前。死因はいまのところ心臓発作ではないかといわれております。ご主人に、その、赤松富士男氏本人であることに、間違いございませんね」

「ええ。多分、うちの主人だとは思うんですけど」

「そう……だよな。この人は、ほぼ確実におれだよなあ」

「なにいってるんですか。間違いなくあなたですよ」

「そりゃそうなんだけど。その。そうすると、おれは?」

「……やっぱり、あなたですよねえ」

「だよなあ。おれ、だよなあ」

「ねぇ」

「なぁ」

「でもあなた」

「なんだって○○公園なんてまったく見当違いな場所で死んでたりしたんです。ウチとはまったく別の方向じゃあないですか」

「それは、だな。その」

 節子の追求は厳しく、結局赤松は額の汗を拭いつつ、警官達と自分の死体の前で月美との今までの関係を洗いざらい白状する羽目になった。


「ただいま」

 今年二十五になる息子の英一が帰宅した。英一は一浪一留の末去年大学を卒業し、すでに就職している。

「とうさん、死んだんだって?」

「うん。どうもその、そうらしい」

「なんでも女の人ん所にいく途中だったていうじゃないか。おれ、その話し聞いてとうさんのこと見直しちゃったよ」

「だ、誰から聞いたんだ。そんなこと」

「誰からもなにも。近所の人がみんないってるよ」

「本当に、かっこうの悪い!」

「評判にもなるよね。こうして堂々と迷ってでてきてるぐらいなんだから。そのうちテレビが嗅ぎつけてくるかもしれないよ」

「本当に、世間体の悪い!」

「で、どう。成仏する方法みつかったの」

「成仏もなにも……おれ、いまだに自分が幽霊だという実感がもてないんだよ」

「死体、確認してきたんでしょ」

「う、うん。あれはたしかにおれだったんだけど」

「ああ。あるよね。頭では納得してもなかなか実感がわかないことって」

「なにくだらないこといってんの。喪服だしといたからはやく着替えなさい」

「ああ。なんか片付いていると思ったら、これから葬儀なんだよね」

「うん。今夜が通夜になる。もうすぐ遺体が警察から届くはずだから。それからだな。おじさんたちも、もうそろそろ着く時分だ」


 葬儀に集まった人々にはあらかじめ電話で事情を説明しておいたため、予想していた混乱は起きなかった。

 ただ、噂を嗅ぎつけたテレビ局が何社か強引に葬儀の模様を中継しようとしたり、ひっきりなしにインタビューやコメントを求める電話がかかってきたりしたことを除いては。この二点は警察と知り合いの警備会社に応援をもとめ、電話のプラグを引っこ抜くことでなんとか解決した。

「ホトケさんに見守られながらお経を唱えるのは初めてだよ」顔見知りの和尚はいう。

 赤松夫妻は「どうもすいません。お手数かけます」としか、いうべき言葉がなかった。

 その和尚の長々しい読経もそろそろおわりに近づいたころ、玄関でちいさな騒ぎがもちあがった。和尚に小声でことわってから赤松が様子をみにいくと、目を赤く腫らした月美がいる。

「赤松さん。テレビであなたが死んだって聞いて。来るべきかどうか迷ったんだけど、わたしの家の近くで死んだって聞いたらいてもたってもいられなくって。迷惑だとは思ったんだけど」

 月美の登場であたりの雰囲気はさらにぎこちないものとなった。和尚のやけくそ気味の読経の声だけが気まずく静まり返った中に響く。


 ヒトの噂もなんとやら。一月もしないうちに、赤松の幽霊がいかにも暇をもてあました様子で近所を散策するさまも、好奇の目を引かないようになっていた。そもそも、いきさつを知らなければどうみても普通のしょぼくれた初老の男にしかみえないのだ。

 あれから赤松は、定年退職後にはこういう生活をするだろうと思っていた通りの生活をしていた。つまり、暇だが無趣味なためやることがなく、家の中でごろごろしているか、それとも目的もなく近所をぶらぶらとうろつくか。

 最初の何日かはそれでも時間になれば節子とともに食事をしていたが、飢えも渇きもとくに感じてはいないことに気づくと、それもやめるようになった。

 ある休日、節子の留守中、居間で赤松が新聞を読んでいると、テレビをみながら英一が語りかけた。

「とうさん」

「ん」

「あの時本当に悲しんでいたの、月美さんだけだったね」

「うん」

「じつはさ」

「ん」

「いまおれ、月美さんとつきあっているんだ」

「うん」

「いい人っていうか、いっしょにいてリラックスできる人だよね」

「うん」

 別の休日、やはり節子が買い物に出かけている時、英一は赤松に語りかける。

「とうさん。もう随分になるよね。べつに急かすわけじゃあないけど、なんか未練っていうか、やり残したことでもあるの」

 赤松は読んでいた新聞から目をあげ、何秒か英一のほうをぼんやりとみつめた後、新聞をたたむ。

「その、なんなのかな。とうさんにも、よくわからないんだ。なにかこう、大事な、大切なものをどこかで失したか、落としたかしたような気もするんだけど……。それが一体なんなのか、いっこうに思い出せないんだよ」

 英一に説明するというより、自分自身に言い聞かせるような口調だった。


「とうさん、最近姿をみせないね」

「そうねえ。今度こそ、ちゃんと成仏してくれてるといいけど」

 英一と節子の間でこのような会話がかわされるのは何度めだろうか。もうすぐ赤松の一周忌だ。その間、何度か赤松が姿を見せないことがあったが、節子が「ああ。やっとイってくれたんだな」と心中で安堵するようになるころに、決まって再び姿をあらわす。仕事でほとんど家にいることのない英一はともかく、節子は中途半端な状態にさっさとけりをつけてしまいたいと、心の底から願っていた。

 だが赤松は一月がたち二月がたち、三ヶ月目に突入しても、姿をあらわそうとしない。いよいよ本当に成仏したようだ。英一と節子はそう思った。

 ──だけど。

 英一には、ひとつ気にかかっていることがある。

 ──とうさんは、どこかで落とすか失すかした、なにか大事なものというのを、見つけたんだろうか。

 そうとは思えなかった。富士男はついにその『なにか』を見つけることができないまま、この世からいなくなったのではないだろうか。

 英一がそのことに確信をもつにいたったのは、それから何十年も先のことである。

 その頃の英一は、亡くなった時の富士男よりずっと年老いていた。そして富士男が亡くなった時より、ずっと多くの『なにか』を失していた。だが……。

 だが、その年齢になってもまだ、その『なにか大切な、失したもの』を言葉で具体的に表現することはできなかった。多分、死ぬ間際になっても、不明のままだろう。非常に多くのなにか大切なものを、失していることは確かなのだが……。

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