七転
「やっほー! 柊くん!
お引っ越しの手伝いに来てあげたよ!」
疲労困憊の果てに夢も見ずに眠っていたはずだが、奈真美の声が耳に入ると柊は小さく罵声を吐きつつガバリと起きた。
「ばっきゃろう」
早い。
早過ぎる。
まだ九時前ではないか。
これでは抜き打ちどころか不意討ちである。
ひとこと文句をいおうとして窓から顔をつきだして、そこで硬直してしまう。
奈真美のうしろに、いかにも『わたくしハイソでございます』とでも主張したげないでたちの熟年女性がいたのだ。
昨日の通話内容の文脈から察するに、あれは……。
「はぁい、柊くん。
確か初対面だったわよね。
こちら、わたくしのお母様」
口調と表情こそ穏やかなものの、その双眸は爛々と輝き、無言のまま「ちゃんと調子合わせなさいよ!」と脅迫している。
「ちょっと待てよよ、おい」
とか思いつつもざっと着衣を改めて部屋から出、階段を駆け降りていく。
奈真美に逆らったら最後、どんな報復をされるのかわからない──という現実は、すでに学習済みである。
「や、お母様。
お初にお目にかかります。
柊誠ともうします」
柊はさっと名刺を差し出したが、お母様は眉間に軽い皺を寄せ、つい、と視線を逸らした。
「このようなところにお住まいですの?」
「お住まいというか、仕事の都合上、致し方がなく、ですね」
「あ、そうそう。
彼の会社自社ビルを新築中なんだけど、工事が遅れちゃってて、それができあがる前に今の事務所の更新の時期が来ちゃって。
仕方がなく一時的に、ねえ」
「あ、はい。
なにぶん、生き物が……ってっ!」
思いっきりむこう臑を蹴られ、横を見ると奈真美が凄い形相をして首を横に振っている。
どうやら、仕事の内容にも触れてはいけないらしい。
「なにぶん、一時間ごとにデータを計測しなくてはならない実験中の案件なども扱っておりまして、やむを得ず、泊まり込んでいるような次第でして、はい」
「そ、そうなの。
彼ったら研究熱心で、もう二ヶ月もまともに顔を合わせていなかったのよ」
奈真美と別れたのが、二ヶ月前なのである。
「ま。
研究職でいらしたの?」
内心、
「とてもそうは見えないわ」
と思っていることを隠そうともしていない。
「それで、なんのご研究をしていらっしゃるの?」
「そ、それは……。
はなはだ遺憾なことではございますが、企業秘密に属することが等でございまして、外部の方にはお教えすることはできません」
「そんなことよりさ。
立ち話もなんだし、中に……」
「すみません!」
柊はいきなり大声をあげた。
奈真美が手をかけたドアのむこうはご禁制の動物天国、こちらのご上品なご婦人が目にしたらその場で卒倒しかねないは虫類の巣窟である。
「申し訳ございませんが、こちらは企業秘密の上取り扱いの難しい劇薬や危険物などもございますのでどうかお二階の方へ。
ささ、どうぞ。
むさ苦しい上、まだまだとり散らかっておりますが。
ささ」
そういいつつ、ところどころ塗装の剥げかかった鉄製の階段を昇りはじめる。
と。
「柊さん」
「杜子ちゃん!
それにマスターも!」
柊が振り返ると、杜子と茶々屋のマスターがいた。
マスターは喫茶店茶々屋の経営者であると同時に、(元)事務所と(元)住居の家主でもあり、かつ、奈真美の父親でもあった。
「あなた!」
意外にも、最初に反応したのは奈真美の母親である。
「なにをしていらっしゃるの?
こんな時間に、こんな場所で」
「今日は定休日だよ。
それに、うちの店子兼常連客の引っ越しの様子を見に来ても、別におかしなことでもないだろう」
だが現在、奈真美の母親とマスターは、婚姻関係にない。
要するに、ごく最近離婚したばかりであった。
「へぇー。
こんな若い子を連れて」
「も、杜子くんは、うちの従業員だ。
第一、そんなことをお前にいわれる筋合いはない」
「杜子さんっていうの。
へぇー。
わたしの後釜っていうわけ」
「あ、杜子くんははじめてだったね。
これが、君が来てくれるまでうちの店を手伝ってくれた奈真美だ。
それであっちにいるのが、別れた元の女房。
奈真美、こちらが今うちの店を手伝ってくれている佐瀬杜子くんだ」
マスターがその場を取り繕うように、ふたりの娘を紹介しはじめる。
初対面のはずの奈真美と杜子の間にも、なにやら不穏な空気が漂いはじめていた。
「よろしく!」
「よろしく!」
杜子は、二ヶ月前までマスターが経営する茶々屋を手伝っていた奈真美と入れ替わるようにウェイトレスとして勤めはじめた勘定になる。
茶々屋のウェイトレスを順番に口説いている柊も、男として単純というか煩悩に忠実というか。
「み、皆さんお揃いで。
立ちっぱなしもなんでしょうから、どうかお二階におあがりください」
な、なんだかどんどん事態が複雑化しているような気がする。
内心、冷や汗をどっとかきながら、柊は全員を二階中央の部屋に案内する。
鉄階段が、ガン、ガン、ガラン、ガタンといかにも貧乏くさい五人分の足音を響かせた。
流石に六畳間に五人は狭いよな。
前方にバチバチと視線でふかしの火花を散らしている熟年の男女、後方にどちらがお茶の準備をするかでいい争っている娘二人を配置し、柊は顔面にひきつった愛想笑いを張りつけること以外、することがない。
と。
誰かが、部屋のドアをノックした。
「柊くん。
こっちにいるの?」
ドアを開けると、ミラーグラスにパンチパーマ、耳にはピアス、首にはお守りをぶら下げ、両手の指という指に光り物をあしらった身長二メートルを超えた大男が、両手いっぱいの薔薇の花束を抱えて立っている。
「脇田さん!」
「はい、これ。
お引っ越しの、お、い、わ、い!」
柊は、一抱えもある薔薇の花束を押しつけられる。
「こ、こちら、脇田さんといいまして、うちの会社の取引先の方、でして」
柊と脇田以外の全員が固唾をのんで見守る中、柊はまるっきり棒読みの紹介をはじめる。
一応、発言の内容に嘘はない。
脇田が部屋に入ると、六畳間が一気に収縮したような気分になった。
圧迫感をおぼえてか、誰もが口を閉ざしている。
と、いきなり、
「ぎしぃっ!」
という、不吉な音がした。
全員の視線が、音がした方角に集まる。
「柊くん!
大丈夫なのかね?
この、その、建物は?」
たまりかねたのか、マスターが叫ぶようにいった。
「だ、大丈夫ですよ!」
半ば反射的に、柊はいった。
が、柊だけが知っているのだ。
音がした方のとなりの部屋に、事務所から持ってきた金庫が置いてあることを。
社長の方針でかなりの金額の現金が入れてあるその金庫を部屋に運び入れるとき、プロの運送屋が六人がかりでようやく持ちあげることができたということを。
「……たぶん」
「よおっ! 柊ちゃん!
いるかい?」
ノックもせずに場違いな大声をあげて入ってきた作業服の男は、脱サラ食用ガエル養殖業者だった。
かなりの大きさの段ボール箱を抱えている。
「引っ越し祝いに新鮮なところを見繕って来たぜいっ!」
新鮮、どころではない。
生きてゲコゲコ合唱していたりする。
それだけではなく、
「その知り合いでぇーす!」
「その知り合いの元の連れ合いでぇーす!」
「その知り合いの元の連れ合いの従兄弟のでぇーす!」
作者でさえ年齢や性別も人数も判然としない一団がドカドカと室内に踏み込んできた。
ギッ!
ギィシィッ!
先ほど不吉な音がしてきた方角から、よりいっそう大きな音が響く。
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