斬首 【1】

【1】


 夢ならどんなによかったか。

 私が大切にとっておいたお菓子を、どうやら弟が食べてしまったようです。あああ私、それを楽しみに楽しみに仕事を終わらせ帰ってきたのに。

 いつもより多めに働いて、いつもより遅くに帰宅して、そんな自分へのせめてものご褒美だと思い出したのに。まったく同じ瞬間に誰かが斬首されました。その土地と私の土地はどうやらつながっているらしいです。行けるかどうかは別の話。私がそんなことを知っているかどうかも別の話です。私はすやすやと寝息をたてる弟を睨みつけます。その首を斬り落としてやろうかと思います。でもそんなことはしません。もしも誰かが弟の首を斬り落とすと言ったら、私は私の首を代わりに斬りなさいと泣いて喚くでしょう。いつかどこかでそのようなことを言った気がします。そして私は力任せに汚され、首を斬られました。いいえ、そんな気がするだけです。そんな存在したかもしれない絶望の中、ああ弟の命は助かった、と信じながら私は首を落とされましたが、結局弟もその後で首を斬られ殺されました。私はそれを知る由もありませんでした。それと同じように、粛々と正義だと信じて誰かが斬首されています。


 誰かの首を斬った男は正義を信じています。同様に悪も信じています。同じものを見て、別々の感じ方をしているのです。ある人の顔の左側を見て正義さん、右側を見て悪さん。悪さん、語呂が悪うございますね。あくさん、それとも、わるさん。

 目隠し手縛り猿ぐつわをされた男のことを、別段悪だとは感じてるわけではありませんでした。しかし少なくとも自分の知る正義ではない。自分が知る悪と何らかの形でつながりのあるものだと判断したがゆえに、斬首です。首を斬る前も斬った後も、男は正義を信じています。悪も信じています。ですが、その同じ顔の左右の角度が少し変わった気がしました。男は、その変化に気を取られることは背信である、と己を律しました。何への背信でしょうか?神でしょうか?自分でしょうか?属する場所でしょうか?それとも斬首された男でしょうか?斬首された男の家族でしょうか?知らない誰かでしょうか?例えば、どこか知らない場所の、でも確かにつながっているどこかで、必死に働いたのに弟にお菓子を取られた哀れな女への?


 哀れな女などいません。と言いたいところですが、女が自らを女だと身をもって意識させられた洗礼的出来事はありふれて哀れでした。

 女には恋した男がおりましたが、その男は別の女に恋しておりました。恋した男の視線が自分に向けられていないと知った女は、自分に視線を向けてくる別の男を選びました。その別の男の視線が不快なものだと知っていたのに、その不快さに目を瞑り、目隠しをしたままその男を選びました。目隠し手縛り猿ぐつわ。不快な視線の不理解な拘束のもと、初めての生殖行為が行われます。女は自らそれを選んだのです。盲目。恋は盲目。愛しいと思う時だけでなく、不快や不理解に関しても恋は盲目であることを要求します。痛い、痛い、痛い。からだも痛いけれど、ワタシもイタイ。ワタシがイタイのは痛いからだ。それが感想でした。女はその後三百回ほど眠らなければ、恋した男を忘れられませんでしたが、やがてすっかり忘れました。なにもかも塵のように、砂漠の砂粒のように埋もれていきました。しかし、自分に不快な視線を送ってきた男が生殖行為中に上げたうめき声は、その後三千回眠っても時折何かの拍子に思い出され、そのたびにイタイワタシがフラッシュバックしました。女はその都度ささくれましたが、やがて、イタイワタシってタタミイワシみたいだな、あはは、などと思える程度に年をとった頃、別の新しい男と出会いました。

 あなたは哀れな女などいません、と言い切れますか?


 女が新しく出会った男は下戸でした。にもかかわらず、男と女が出会った場所は、酒を酌み交わし、山の幸と海の幸の美味に舌鼓を打ち、酒を司る神の力を借りて歌い踊る酒の席でした。それはこの土地にも、ここから確かにつながっているあの土地にも、そこから前に進んでも後ろにムーンウォークしても、あらゆる場所に存在しています。数えようと努力をすれば数えられます。しかし数えません。そんな無限に近い酒席の一つで、イタイワタシってタタミイワシみたいだねあははと思えるようになった女と、下戸の男は出会いました。

 運命でしょうか。偶然でしょうか。それとも、それも正義さんと悪さんのように、右腕が運命、左腕が偶然の同じ存在でしょうか?


 ところであなたは右利きですか?それとも左利きですか?


「私って男運悪いの」そう女は言いました。

「ウチ、ほんま男運無いねん」そう言ったかもしれません。

「I don’t know why I always come to love bad boyfriends……」流れるような流し目で

半ばなかなか投げやりにそう言ったかもしれません。

「ホント、馬鹿だよね」自嘲気味だったかもしれません。


 どう言われたところで、下戸の男は帰りたいと感じていました。特に女を可愛いとも思っていませんでしたし、元々酒席は苦手でした。下戸な上に踊りも歌も下手くそで、竜宮城の魚だった頃には、遠回しに早期退職の素晴らしさについて亀から伝えられたほどです。肩叩きというやつです。でも、魚ってどこが肩なんでしょうね?


 男は自分が魚だったことを覚えていません。あなたが魚だったことを覚えていないように。魚だった男は、いつどこにどのように存在していても下戸で踊りが下手で歌が下手でした。それは呪いでした。しかしそれ故に、飲みニケーションから逃れる術を自然と体得し、その代わりに自分の内なる堅牢な砦で深く思索に沈み込む能力をいつどこにどのように存在していようとも身に付けていました。人であろうと魚であろうと。それ以外の存在であろうと。それを祝福と呼ぶならば、呪いは右足であり、祝福とは左足です。


 彼に早期退職を促した竜宮城の亀はヒラメであり、鯛であり、乙姫でもありました。なあに、お腹に入れば何でも一緒。だってあなたは上手に調理された亀とヒラメと鯛と乙姫をブラインドイートして正解できますか?ぎりぎり乙姫は分かるかもしれませんね。でもヒラメと鯛はどうでしょうか。問題を変更します。でも問題の本質は何も変わりません。2+3が分からないという困ったちゃんに、では3+2からやってみよう、と問い直すようなものです。

 あなたは乙姫と白雪姫とシンデレラとブラインドセックスして正解できますか?

 マグロが乙姫だと思ったあなたはもう一度亀とヒラメと鯛とマグロをブラインドイートしてきてください。でも2+3がちんぷんかんぷん分からなくても、3+2ならちちんぷいぷい簡単じゃん、と言う場合も往々にしてあるのです。もちろん、答が5でない場合も。

 5という数字は悪魔の数字と言われています。6じゃないのか、と思ったあなたは正解です。私は嘘をつきました。弟にお菓子を食べられた腹いせです。うふふ、嘘ついちゃいました。

 あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?


 これは質問ではありません。台本のようなものです。私が「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」と聞きますので、あなたは「私は嘘をついたことはありません」と答えてくださいね。コール・アンド・レスポンスです。言葉に意味はありませんから、安心して答えてくださいね。ちょっと練習してみましょう。



「セイ、ホーオ」 → 『ホーオ』



「セイ、ホッホー」 → 『ホッホー』



「ホッホッホー」 → 『ホッホッホー』



 あ、いいですね。上手ですよ。これと同じ要領です。ちゃんと返してくださいね。ちゃんと声に出してくださいね。では、行きます。



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



 声に出して。



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



 声に出してください。



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』



「あなたは嘘をついたことがありますか?ありませんか?」


→ 『私は嘘をついたことはありません』




 声。




『私は嘘をついたことはありません』



『私は嘘をついたことはありません』



『私は嘘をついたことはありません』



『私は嘘をついたことはありません』



 本当ですか?



『私は嘘をついたことはありません』



 本当に?



『私は嘘をついたことはありません』











 本当に、あなたは、嘘を、ついた、ことが、

 









 

 あ り ま せ ん か ?











 弟は嘘をつきました。私のお菓子を食べていないというのです。

 私は悲しくなりました。弟が嘘をついたことに。弟が嘘をついたと疑った私に。一瞬でも弟を疑ったことを恥ずかしく感じた殊勝な私に対し、騙し通せたと裏でほくそ笑んでいる弟に。そんな穿った考えで弟を貶める性格のひん曲がった私に。お菓子ごときでここまで考えてしまう私に。お菓子ごときで私をこんな目に遭わせる弟に。私と弟をこんな目に遭わせてしまうお菓子という罪深い存在に。そんな罪深いお菓子というご褒美を鼻先にぶら下げねばモチベーションの維持が難しい仕事に。そうだ、全部仕事が悪いんだ。


 そうだ、全部仕事が悪いんだ。

 気が付いた私は仕事を辞めていました。しかし次の日か一週間後か一か月後か一年後かは分かりませんが、私は再び仕事をしていました。結局、仕事をしています。同じことでした。仕事を辞め、次の日か一週間後か一か月後か一年後かにまた働くことと、仕事から帰りお菓子を食べ損ね次の日も渋々仕事に行くことには、何ら違いがありませんでした。結局どちらも同じ私が仕事をしているのです。

 お菓子問題に決着をつけるべく仕事を辞めた私と、お菓子食べ損ねたと思いながら次の日も仕事に行った私。それは同瞬間に存在する同存在です。


「おはようございます」「おはようございます」「おはよう」「すみません、今日で辞めます」「おはよう」「昨日のテレビみました?」「ええ、何言ってるの困るよ」「ファイル、どこに保存しました?」「昨日弟が私の楽しみにしてたお菓子食べちゃって。どう思います?」「今日も一日がんばりましょう」「あ、加湿器入れたんですね」「本当に申し訳ないと思っているのですが一身上の都合で」「ごめん、電話出て」「ちょっと落ち着いて、ね?」「かしこまりー」「でも私、なんか怒れなくって」「話し合いの余地はありません」「おなかいたいな」「わがまま言っているのは自分の方だって分かってるわけ?」「うーん、て言うか、単に弟に甘いのかもしれません」「まじで?」「えー、あの人なくないです?」「はいはいって、本当に分かってるの?」「いらっしゃいませー」「でもやっぱりお菓子食べたかったなあって、今朝になってもひきずってるという」「お世話になっておりまーす」「全部、仕事が悪いんです」「やめます」「良かったら、そこの戸棚にもらいもんだけどチョコレートあるよ」「やめるのやめます」「はあ?もうちょっと具体的に言ってもらわないと」「交通費の申請、今月中にお願いします」「本当ですか!?」「やめるのやめるの、やっぱりやめます」「お、お菓子を……」「クライアントさんに連絡、忘れてない?」「何卒よろしくお願いいたします、っと」「お菓子?」「御中?」「ありがとうございます!お菓子です!」「え、亡くなったんですか」「want you ?」「はい、お菓子が、原因で」「おい、テレビ!やばいこと起きてんぞ!」「子どもみたいな奴だなあ」「ありがとうございましたー」「子どもみたいなこと言ってんじゃないよ」「水曜はノー残業デーですから」「いただきます!」「あっちに家族や親戚とかいる人は、すぐ連絡して!仕事いいから!」「いえ、子供っぽいかもしれませんけど、私にとってはすごくこれ、重要なことで」「まだ怒ってんの?」「はいどうぞー」「……はいはい、それで?」「あー美味しい!」「死ね!」「どうしても……だって、それが、」「本当、死ねよお前」「え?これマジでやばくない?」「そんなに喜ぶとは思わなかったけど」「お疲れ様でしたー」「それで?」


「「だって、とっても食べたかったんですよ!」」


 ね?同じでしょ?


 xxxx年xx月xx日xx曜日xx時xx分xx秒コンマxxxxxxxxx……。やっぱり私は「だって、とっても食べたかったんですよ!」と叫びます。

 子供の頃やりませんでしたか?何月何日何時何分何秒、地球が何回まわった時ですかー?という揚げ足取り。あなたはその質問に答えられましたか?大人になって、答えられるようになりましたか?

 時間というものは数字では計れません。時計はウォッチです。Watchは時計であり、見るという言葉。あなたは時間を見ることができますか?好きなことをしていると、あっという間に時間が過ぎていることはありませんか?辛いことやつまらないことをしていると、一瞬が永遠のように感じませんか?あなたのそうした感覚はきっと正しい。大切にしてください。心理学だとか相対性理論だとかと思ったあなたは、ちょっと注意が必要です。まやかしですよ。だって時間を見ることができないように、言葉も見ることができませんから。


 仕事を辞めた私は、あるいは辞めなかった私は、ぼうっとして過ごすことにしました。家でぼうっとしていたり、仕事中にぼうっとしていたり、伸び縮みする時間をゴムのように楽しみました。首を斬られた男の時間は、その恐怖の時間は、限りなく引き伸ばされていたのではないかと考えたとか考えてないとか。首を斬った男と斬られた男の時間は、そのゴムの長さは同じ円周だったのでしょうか。その緩み具合はどれくらい違っていたのでしょうか。ねえ、あなたの時間はどれくらい緩んでいますか?

 ちなみに私はダルダルです。


 下戸の男のお腹周りもダルダルでした。お酒が飲めないのを食べる方で補おうとしたのかもしれません。それは、いつどんな次元に存在しても飲み負けてしまうことへのささやかな抵抗だったのかもしれません。結果、肉が付きました。お腹はほどよく、胸のサイズはAカップ。

「ウチ、ほんま男運無いねん」

 下戸の男と世界中のいたるところに存在する酒席の一つで出会い、男運の無さを告白した女はEカップでした。それは女にとって数少ない、もしかしたら唯一と言っていいかもしれない、非形而上的な誇りでした。圧倒的現実性を持った誇りでした。FやGには負けるかもしれません。それが何さ、あいつらただの牛だぜ、牛。女の腕や脚や腰や腹には薄い肉しかついておらず、まあ体調によって脚がむくむことや、顎に若干の肉が乗ることはあったものの、全体に華奢な体型をしていました。しかし胸だけはぎっしりしっかり肉が付いていたのです。それも反グラビティなポジティビティを備えたEカップ。

 その胸を支えていたのは女の体躯でしたが、女の魂を支えていたのはその胸の美しさでした。胸と女は持ちつ持たれつの関係だったのです。

 辛いこと、やりきれないこと、悲しく理不尽な怒り。そうしたものに取り囲まれた夜、女は考えました。

「でも、私にはこの胸がある」

 逆にそれで迷うときもあったでしょう。

「おっぱいおっきいだけやとあかんの?」

 嫌な思いをしたことだって。

「Hey! don’t touch me!!!!!」

 Shut up! You bitch!

 

 女にとり祝福であり、呪いでもあったEカップ。肉体というものは数少ない確実性をもたらしてくれる存在です。もちろんそれも絶対ではありませんが、目に見え手で触れられるものと、目に見えず触れることのできないものを私たちが区別できるのは肉体があるからです。

 首を斬った男は、斬られた男の目を塞ぎ、手を縛りました。肉体によって得られるものを奪ったのです。それは残酷なことだったでしょうか?それとも慈悲深いことだったでしょうか?斬られた男は首が飛ぶ瞬間に恋人の胸の感覚を思い出せたでしょうか?斬った男は凶器を握ったその掌で、恋人の胸に触れるのでしょうか?激しく?優しく?泣き叫ぶ子供のように?むせび泣くギターのように?


 While my guitar gently weeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeps!!!!!!!!!!!


 泣きたいのはこっちの方です。私は本当に楽しみにしていたんです。辛いことがあったって、悲しいことがあったって、たとえ胸がEカップあったって、Eカップが当たって?当たってますよ?当たってますね。

 さきほどから私のEカップのお胸に当たるのは肘。その肘の主である男は微動だにしません。不自然な腕組み。いいえ、それは私の穿った見方かもしれません。彼は腕組みしながら考え事をしているのかもしれません。例えばミルクのこととか。もしくはお椀やロケットのこととか。

 もしも私がこの満員に近い車内で叫び声を上げたらどうなるでしょう?この視線を上方に泳がせ、腕組みした肘を電車の揺れに任すように泳がせている男に向かって、叫び声を上げたら?ちらちらこっちを見てたんです!私の(Eカップある)胸部を!毎月毎月結婚の準備を急き立ててくる中吊雑誌広告を見ている振りをしながら!押し当ててきたんです!私の(生理前にはFカップある)胸に向かって肘を!エッチでエッジな肘を!と叫んでみたらどうでしょう?

 当たったのなんか私の思い違いかもしれないのに?でっちあげかもしれないのに?彼は本当に何も考えずにうっかり腕組みをしていただけかもしれないのに?


 今この瞬間も生命は産まれ、同時に失われ、また痴漢冤罪も起こっています。それでも僕はやってない。そうですね、やっていません。


 でも本当にそう言い切れますか?


 怖いですね。怖いです。触っていないのに触ったと言われる。肉体があるからこんなことが起こるんです。肉体は目に見え、手で触れられるものを教えてくれます。でもそれを本当に触ったのか、本当に見たのか、判断する私たちの魂だとか心だとか精神だとか言われる触れないものは、とても危うい。危ういです。怖いです。とても怖い。触れないものは怖い。でも、触れるものもまた怖いです。

 竜宮城の亀は、うっかり地上に上がってきたばっかりに、いじめっ子たちに暴行を受けてしまいました。竜宮城にはなかった、形を持った暴力。暴力は肉体性を持って亀に触ってきました。触れる恐怖。存在する肉体の痛み。亀は打ち据えられる恐怖と暴力の感触に耐え切れず、甲羅の中に身を隠しました。しかし、それでも暴行は止まりせん。殴る蹴るしばき倒す。甲羅にヒビが入るほど。割れたらどうしよう、甲羅が割れたらどうしよう。甲羅が割れる前に私の心が割れちゃいそう。

 私は甲羅の中に隠れることで肉体の確実性を一時放棄しました。触ってくる恐怖から、現実的な痛みから遠ざかろうとしたのです。触れない、見ない、聞こえない。気がふれそうだからふれないで。そうすることで暴行から逃れました。

 しかしそれは暴行を止められたでしょうか?もしもこのままずっと誰かが助けてくれなければ、私の甲羅は割れ、殺されるまで殴られていたかもしれません。いつかは途中で飽きたり疲れたりという理由で暴行は止まったかもしれませんが、それは本当の意味で暴行が止まったと言えるでしょうか?

 結局、次の日も私は甲羅の上から降り注ぐいじめっ子たちの釘バットに打ち据えられていたかもしれません。その次の日も、そのまた次の日も。命までは取られなくても、甲羅は割れなくても、きっと私の心は割れてしまう。



 浦島太郎がやってこなかった場合の亀の運命を考えたことはありますか?



 そして、自分がその亀だと考えたことは?



 でも大丈夫。浦島太郎はやってきました。お話では。いじめっ子たちを追い払ってくれました。お話では。甲羅は割れませんでした。心も割れませんでした。お話では。私は浦島さんに感謝して、竜宮城に連れて行ってお礼をしました。お話では。鯛やヒラメの舞い踊り。乙姫さまの御馳走に絵にも描けない美しさ。お話です。お話ですよ、これ。やだなあ、大丈夫ですって、お話じゃなくったって、もしも私があなたが亀が、心が割れるほど誰かに釘バットで打ち据えられていたって、ちゃんと浦島太郎が助けてくれますよ。誰かがいじめっ子を追い払ってくれますよ!だからそれまで甲羅の中に身を隠しておきましょう!自分に唯一残された確実性のある肉体を放棄して、見ることも触ることも聞くこともやめにして、甲羅の中に隠れていましょう!そうしたら痴漢冤罪にも遭いません!なあに、首を斬られるにしたって一瞬の出来事ですよ!目隠し手縛りどんとこい!望むところだ猿ぐつわ!こんな体は脱ぎ捨てて、生まれ変わってしまいましょう!


 ええ、生まれ変われると信じていたんです。いえ、はっきり言葉にしたわけではないですよ?だけど、成長過程のイニシエーションのようなものだと、それは暗黙の了解だと、私だって思っていたんです。だから、不快な視線を送ってくるあの男を初めての相手に選んだのです。見ることをやめてしまって、盲目を選んで、あの男を選んでしまったのです。

 だってそろそろだったじゃないですか、周りを見渡してもみんなそろそろだって思っていたじゃないですか、体もはっきり教えてくれていたじゃないですか、お前はそろそろだって。そろそろできるって。そろそろしても大丈夫だって。むしろやるべきだって。

 そこで苦い思いをしたり、後悔することまで含めて脚本通りだと。ありふれた話だと。お前の父も母も祖父も祖母も曽祖父も曾祖母も、そろそろの年齢になると、どこからかそう囁かれていたって。だから私も思ったんです、そろそろかなって。その結果が痛いからだとイタイワタシでした。現実的な痛みでした。結果、私は生まれ変わったでしょうか?あなたはどうでしたか?


 初めての生殖行為は、私に想像の時間を与えてくれました。それもたっぷりと。自分の体が生まれ変わる最中、私は樹に登りました。それくらい退屈な痛みだったのです。その樹は私とあなたの、父や、母や、祖父や、祖母や、曽祖父や、曾祖母をつないだファミリーツリーでした。人類の家系図。脈々と紡がれてきた精子と卵子の相関関係。世界樹。

 ずんずん登っていくといくつも枝葉が伸びています。おやおや意外とでっかいな。そう思って今度は枝葉をたどっていきます。数え切れない枝葉を持った、大きな大きなファミリーツリー。ジャックが登ったあの樹より、この樹なんの樹気になる樹。

 気になった私は枝葉の一本一葉まで調べようと巨大な樹の上を駆け回ります。果てしない時間をかけて巨大過ぎる樹を探索します。そのすべてが自分のルーツなのだと信じて、遠い遠い枝の先、色の朽ちた葉っぱでさえも同じツリーの一部なのだと確認しに行きます。気になる樹のすべてを知ろうとします。樹になろうとします。樹になる気です。

 気になりますか?あなたがどの枝葉だったか気になりますか?

 教えてあげたい、でも、あなたはあなたの気になる樹を調べるべきだと思うのです。そしてその時は、私があなたのどの枝葉だったかをこっそり教えてください。そしらた私もあなたが私のどの枝葉だったか、こっそり耳打ちしてあげます。


 その世界樹はあらゆる場所に存在します。

 下戸でダルダルの腹をした男と、Eカップの胸を誇りとしている女が出会った酒席にもその樹はありました。いいえ順番から言えば、ずっと昔からある大きな樹の下で宴が行われていたのです。その下で私たちは何度も出会いました。大河のような量のお酒を飲みました。歌を唄い、踊りました。

 何千曲何万曲のメロディと、何億回目のステップ。あなたはいつもダンスが上手に踊れない。ワン、ツー、ステップ、おっと足が絡みます。もつれます。言葉だってもつれて噛んで、綾の一つも言っちゃいます。失言でした。そう、それは失言でした。


「私、あなたといると素直な自分になれるかも」

 何言ってんだと思いますよね。

「なんや自分とおると安心するわ」

 何言うてんねん。

「I’m relieved to be with you.」

 Really? Can you say that again?


 だって、失言ですもの。

 でもあなただってこんな言葉を口にしているんです。失言に失言を重ね、足はもつれ、言葉はもつれ、意図はもつれ、糸ももつれ、どうしようもなく絡まってほどけなくなったもの。それが運命の赤い糸というやつです。小指と小指を結んでいる、絡まり合った誤謬の糸。うっかり鬱血しちゃいそう。

 私たちはそれを運命だとか偶然だとか、都合よく解釈して納得してしまいます。納得できなくても、納得した振りをしてしまいます。でもそれは、自分や相手の失言や足のもつれが生み出した、ズレによる結果なのです。もしも、私たちがいかなる時も躓くことなく真っ直ぐ歩き、思った通りの言葉を口にしていたら、この世に愛は生まれません。だから、ダンスは上手でなくてもいいんです。

 なんてことを言ったかどうかは知りませんが、ダンスを踊った後で、下戸の男はEカップの女を憎からず思うようになっていました。それは足がもつれた拍子に、何度か胸部に接近したからかもしれません。それだけ女のEカップは魅力的でした。足がもつれたのが満員電車の中でなくて本当に良かった。それでも僕らはヤッてない。そんなことはありません。ヤリました。セックスしました。交尾を、行為を、好意を持って。最高に幸せな瞬間でした。

 まったく同じ瞬間に誰かが斬首されました。

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