三話 瀬名姫、激おこ?
昔々、ある所に、
それはゴージャスでノーブルマインドに溢れた美しい姫でした。
洗練された流線美の集大成ともいうべきパーフェクトな美貌に、駿府の独身男たちはムラムラしました。
しかし、高嶺の花。
母が今川義元の妹なので、瀬名姫は姪に当たります。
今川プリンセスです。
瀬名姫があまりに良く出来た物件なので、義元は瀬名姫を養女にしました。
今川家中では、『こりゃあ、とんでもなくビッグな玉の輿に乗るぞ?』と噂が大爆発。
でも今川義元は、最初から縁談相手を決めていました。
駿府城で居候をしている三河の御曹司・松平元康君です。
周囲の反応は、同情&納得が大爆発。
『まさか宿無しに嫁がせるとは』
『ああ、自分の娘を嫁がせたくないからか』
『三河の子種をキープしたいだけか』
世間の無責任な心象なんぞ、瀬名姫は一切気にしませんでした。少しはイライラしましたが、メリットの方が大きいので、気にしませんでした。
将来性豊かでハンサムでセックスの上手い婿殿に恵まれて、瀬名姫は大満足です。
子作りの相性は抜群で、一男一女に恵まれました。年に一人のペースで量産出来そうです。
ところがどっこい。
極悪非道な第六天魔王・織田信長が、義父を殺してしまいました。
ぎゃふん。
義父が殺された途端に、昨日まで義父を生き仏のように慕っていた連中が、今川家から去って行きました。
「なんて恩知らずな連中なの? 普通は、お父様の仇を討つ為に、一致団結する場面でしょ?」
瀬名姫は、駿府城で一族と一緒に激おこでした。
プンプンでした。
数日後、瀬名姫は薄情者共への義憤に燃えている場合ではなくなりました。
婿である松平元康が、今川の城である(←ここ重要)岡崎城に入って、駿府に戻って来なくなりました。
「勘違いしないでよね! 元からいた人達が逃げてしまったから、元康様が入ったのですわ。織田に渡さない為です。そうに違いありませんわ」
微妙な空気になってきたので、瀬名姫は駿府城内で婿殿を弁護するロビー活動を続けます。
初めは、説得力が有りました。
何せ美人の奥さんと子供二人が駿府城にいるのです。
誰が反逆すると考えるでしょうか?
普通は、しません。
出来ません。
普通は。
婿殿からは、今川家の当主宛に手紙が届きました。
「義元様の仇を討つ為に、是非とも兵を進めて下さい。
文面だけを見ると、松平元康は今川の味方であるかのようです。
けれど今川氏真に、そんな余裕は有りません。
離反者が多くて、国力が一気に半減してしまいました。お隣の北条・武田との休戦協定を再確認しないと、動けません。
そういう事情を知った上で、松平元康からの手紙外交が続きます。
「ねえねえ、忙しいのは分かるけどさあ、仇討ち出兵の日取りの目安だけでも、決められないのかな? 急かすようで悪いけど、俺は今現在も織田と戦っている最中なのよ。分かる? 現在進行形で、故・義元様の為に戦っているの。で、息子のあんたは、仇討ちする気あるの? あるなら、形で示そうよ?」
今川氏真だって、父の仇討ちがしたいです。
でも、守勢にすら満足に回れない状況です。
桶狭間の戦いで、父のみならず、有能な武将が軒並み殺されてしまいました。
一番頼りにしている朝比奈さんは生き残りましたが、『仇討ちが最優先です。信長を殺しに行きますから、兵を五千貸して下さい』としか言ってくれません。
五千も兵を貸したら、駿府城はガラ空き。
武田や北条が、ムラムラしてしまいます。
朝比奈さんの暴論を却下していると、松平元康から最後通牒が来ました。
「え? お前、父親が殺されたのに、仇討ちとか出来ないの? マジですか?! この腰抜け! 縁切るわ。二度と話しかけるなよ、チキン」
三通目が本命でした。
手紙には、妻子について一言も触れていません。
瀬名姫は、婿殿が今川を妻子込みで捨てたとのだと、理解しました。
今川
「松平元康は、気が狂っている!!」
今川氏真は、三河衆から集めた人質を殺し始めました。瀬名姫と子供達には未だ手を出しませんが、時間の問題です。
祖母の
永らく今川の女戦国大名として辣腕を振るってきた寿桂尼は、瀬名姫と二人きりで秘密の話をしました。
「今川と三河の立場は、逆転します。十年と経たずに、今川は三河に吸収されます」
言われて瀬名姫は、自分の立場がそれほど悪くはないと気付きます。今川では癌細胞の女房として肩身が狭いですが、三河にさえ脱出できれば、国主の奥方様です。
寿桂尼は、瀬名姫の甘い希望的観測を破壊します。
「今川の姫である其方を、取り戻した後も大切にするとは限りません。元今川勢に侵食されぬよう、むしろ距離を置かれるでしょう」
「…はい?」
「子供達は取り戻しても、瀬名の事は要らないのですよ、今の元康殿は」
寿桂尼、容赦せず。
絶望しかける孫娘に、寿桂尼は大事な事を教え始めます。
「美貌。智慧。性技。子供。包容」
老いても衰えない眼光が、瀬名姫を射抜きます。
「戦いなさい。己に与えられた武器を、余す事なく使いなさい。私は、今川を支配する事に成功しました。瀬名にも出来ようぞ」
寿桂尼は、孫娘に嫁入り先の乗っ取り方をレクチャーし始めました。
旦那を骨抜きにする方法や、一国の政務を取り仕切るためのイロハ、邪魔者を政治的に抹殺する方法など、デンジャラスな政治手段を授けました。
寿桂尼流女子力の免許皆伝を授けられる頃に、寿桂尼は釘を刺しました。
「瀬名には、松平を滅せる智謀を幾つか授けました。しかし、最適なのは、使わずに済ませる事です」
「無理ですね、きっと」
瀬名姫は、寿桂尼の眼光を見返しながら、宣言しました。
「今や元・元康様は、仇です」
松平元康は、義元から貰った偏諱を捨てて、家康と名前を変えていた。
桶狭間の戦いから二年が過ぎた。
今川家は、衰退しました。
三話 瀬名姫、激おこ?
一五六二年(永禄五年)。
鵜殿長照は、上ノ郷(かみのごう)城の落城寸前に、服部半蔵の訪問を受けた。
「軍使として、来ました。鵜殿長照殿に、話がある」
ビビって槍衾を作る城内の兵たちを宥めながら、半蔵は両手を広げて武器を持っていない事を晒す。
「怖くないよ。ほら、怖くないからね」
鬼面を適当に綻ばせて、半蔵は兵たちの緊張を解こうとする。
みんな、城外へ逃げ出した。
五年前の再現である。
つーか、今回はまだ一人も殺していないのに、再現されてしまった。
門の外では、米津常春が半蔵を指差してゲラゲラ笑っている。
「怖がらせまいと、真昼間に素手で訪問したのに、何て臆病な奴らだ」
『鬼の半蔵』として三河の死神ポジションにいる主人公が、自己評価を控えめにして責任転嫁する。
半蔵は、腰を抜かしかけている鵜殿長照に話しかける。
「いい話を持って来ました。家族を助けられますぞ」
五年前、この城を織田から取り返す為に活躍した三河衆は、今度は松平家康の為にこの城を攻めている。
三河のレコンギスタである。
周囲の武将が今川から松平へと鞍替えする中、鵜殿は三河での利権を手放さずに、居残った。
撤退も選択肢に有ったが、今川の現当主は離反者の多さに過剰反応し、疑わしき者を粛清し始めている。
勝手に今川領に引き返したら、親戚でもヤバい。
「辛い立場ですな。氏真は、最前線の事情を斟酌する余裕のない当主だ」
半蔵の指摘に、長照は反論しない。
今川義元が死んでから離反した者より、今川氏真が怒らせて離反した者の方が多い。
「元・元康の子供達が殺されないうちに、わしの子供達と交換する算段か」
鵜殿長照は、城門脇で末期の酒を煽りながら半蔵の申し出を検討する。
「てっきり、見捨てたのかと思っていた」
長照の知る限り、駿府にいる正室と二人の子供達へ、家康は何の対応もしていない。
「将軍様の和解勧告も、北条の仲介も無視して、今川と手を切ったではないか」
今川の姫君に未練がないのは、確かだろう。
(子供達だけを引き取るべきか?)
半蔵も悩むが、子供達は三歳児と二歳児である。
母親から引き離すなど、とんでもない。
「これは、某の独断で行う事です」
「なら安心だ」
人の主君に失礼な物言いだが、半蔵は聞き流す。
三河衆にとっては生き仏でも、今川にとっては悪性の癌細胞である。
反面、その下で勇戦する服部半蔵や本多忠勝は名声を上げた。
今川と縁を切り、親の代から一番の敵だった織田と同盟を結んだ松平家康の不可解さに比べ、半蔵や忠勝の武勇は分かり易い。
「子供達を駿府へ連れて行ってくれ。わしは此処で討ち死にして、当主に誠意を見せる」
半蔵は、投降の意思確認を喉で詰まらせる。
鵜殿長照には此処で戦死してもらった方が、人質の価値が上がる。
どういう立場で戦死するかが、財産になる時代だった。
「という訳で、駿府で交換して参りました」
岡崎城には到着前に石川数正(外交官)経由で報せておいたので、二年ぶりの『親子の対面』は問題なく進んだ。
瀬名姫だけは、城外の寺に幽閉したが。
「半蔵、忝ない」
息子と娘を抱きしめながら、家康は半蔵にマジ泣きで礼を言う。
「この恩は、絶対に忘れない」
主人のマジ感謝に半蔵は赤面して照れつつ、『この人、本当に子供達を諦めていたのだな』と妙な所に気付いてしまったりする。
岡崎城内の皆が感動している中、謁見の間の脇で一人だけ仏頂面でイライライラと待ち草臥れている中年刀匠が、家老に絡む。
「殿を急かしちゃいけませんか? 急かすと無礼ですかね? それとも、俺がせっかちなのかな?」
家老の酒井
「申し訳ない。半月前からの約定を反故にし、お待たせする不始末、本当に申し訳ない」
深々と頭を下げるが、タダで頭を下げる男ではない。
「申し訳ないので、拙者が藤原殿の最高傑作とやらを検分するという事で」
ちゃっかり、自分が買う気である。
「断る!」
刀匠・藤原正真(まさざね)は、断固として家康以外へのお披露目を拒む。
「殿より拙者の方が、自由に出来る軍資金が多いですぞ?」
「金じゃなくて、ネーミングセンスの問題だ」
明から様な買収交渉に対し、断固たる拒絶が返される。
「三条吉広さんの鍛えた名槍に、『甕(かめ)通しの槍』なんてダサい二つ名を付けおって。あんたにだけは、俺の最高傑作を渡さない」
「ダサいって…実話なんだから、仕様がないだろ」
甕に隠れた敵兵を、甕を割らずに貫通したエピソードから、酒井忠次の使っている槍には、その渾名が付いた。槍の鋭さを表しているとは思うが、ダサいと言われると本人すら反論が出来ない。
藤原正真は、口から唾を大量に飛ばして追撃する。
「ほら、そういう渾名を付けたままにする、酒井さんの感性が問題なの! 俺は、今度の槍には、絶対に変な名前を付けたくないの! もう、俺が七度生まれ変わっても二度と作れない程の槍なんだから」
「ははあん」
酒井忠次は、藤原正真の目論見に合点がいった。
「武器としてだけではなく、国宝級の品として、大切に扱ってくれる武将に渡して欲しい訳だ? 後世に残るように」
「そうです」
「華も実もある武将に渡して、最高傑作に伝説を添えたいと?」
「そうです!」
「殿なら、その差配が出来ると?」
「そうでしょ?」
「武器として売るけど、くれぐれも壊さないでね、なんてアホな注文を付けても、殿なら許してくれそうだと?」
「悪いですか?!」
藤原正真は開き直る。
三河に住んでいる村正ブランドの刀匠一派が、ここ数年は家康へと優先的に最高級品を納品している。
貧乏でも武器には出資を惜しまない三河武士の気質と、実戦で現物の性能を発揮させて欲しい村正ブランドのニーズが見事に一致し、幸せな共生関係が築かれている。
あまりにも幸せだと、こういう変人がワガママな物件を持ち込むイベントも発生する。
酒井忠次は購入を諦めて、家康に丸投げする。
子供達に再会して上機嫌のテンションも手伝い、藤原正真の煩い注文を聞いても、笑って承諾する。
「それなら、適任が居ります」
藤原正真が大口を叩いて納品しに来た槍の行方を、城内の家中が見守る。
「服部半蔵は、初めて与えた槍を五年経った今でも使い続ける程に、物持ちの良い武将です。彼が適任でしょう」
服部半蔵の指名に、誰もが納得する。
「半蔵。どうだ?」
誰もが納得しているのに、半蔵は首を横に振る。
「故に、他の槍が必要ないのです。その槍を頂いても、使わないでしょう」
実際、服部半蔵は家康から貰った槍を一生大事に使い続けた。
この槍は現代でも残っており、西念寺(茨城県坂東市)が所有している。
物持ちが良いにも、程がある。
「ダメですな」
藤原正真が、落ち込む。
「では、次の適任者は…」
家康の視線が、渡辺
服部半蔵と並ぶ槍の使い手として、双璧を成す人材だ。最近、負け戦で殿(しんがり)を務めて、見事に敵の追撃を食い止めた功績がある。
これにも、誰も異論を唱えない。
守綱は、嬉しそうに立ち上がって、家康の前に進もうとする。
「いやあ、良かった。前の戦で持っている槍を全部使い潰してしまって、新しいのが欲しかったところ…」
「ダメです!!」
藤原正真が、全力で拒絶する。
藤原正真の脳裏に、この荒武者が会心の傑作をズタボロになるまで使い潰す絵面が浮かぶ。
「いやだって、この俺なら伝説の槍遣いとして、歴史に名を残すのは確実だぜ?」
「ダメです!」
「消耗品とは分けて、優しくするって」
守綱は、抗議に構わず槍に手を伸ばそうとする。
「ダメったら、ダメ!」
槍を渡すまいと、藤原正真は反射的に家康の面前に置いた槍を抱える。その動作で、槍身を覆っていた鞘が、切れてしまう。
その笹穂の槍身は、鋭利過ぎる。
「あ」
その気がないとはいえ、家康の至近距離で抜き身の槍を持ってしまった。
「これは、とんだ失礼を…」
詫びる藤原正真は、横から槍をアッサリともぎ取られて、怒られる。
「バカやろうっ! 事故であろうと、殿の側で刃物を出すのは許さんぞっ」
本多平八郎忠勝は、槍を中庭に持っていくと、石灯籠に立てかける。
「藤原のおっさんっ! 替わりの鞘はっ?」
「無いから、作り直す。半刻くれ」
「うん」
待つ間、城内で暇な者は、露わになった最高傑作を見物する。
刃紋が融けるほどに研ぎ澄まされた美しい笹穂の槍身の中央には、梵字と三鈷剣が然りげ無く刻まれている。
斬れ味は、動かしただけで鞘を割いてしまう程。
「これを戦場で振るったら、モテモテだなあ」
米津常春が、槍身を凝視しながらウットリと零す。
「敵どころか味方からも徹底的に狙われるぞ、こんな美人を抱いていたら」
大久保忠世が、涎を垂らして見入りながら、警句を吐く。
「武器というより、宝具に近い彫り物だな」
家康の視線は、梵字の意味に注がれている。
「地蔵菩薩。阿弥陀如来。観音菩薩か」
「流石です。仏様のように戦う家康様には、お似合いの細工でしょう」
ギャラリーが見惚れている間に、藤原正真は鞘の修復を終えていた。
「仏様には、程遠いよ」
家康は、哀しそうに苦笑する。
「わしにも、この槍は扱えまい」
先刻、見捨てた子供たちに会い、女房を幽閉したばかりである。
藤原正真は、深く追求せずに、鞘を被せようとする。
その時、蜻蛉が一匹、槍の穂先に停まろうとした。
槍の天辺に停まった蜻蛉が、真っ二つに斬れた。
藤原正真は、鞘を捨てて二歩退く。
「…斬れ過ぎだ…此奴は、斬れ過ぎだ…」
他のギャラリーも、吊られて退いてしまう。
捨てられた鞘を、本多平八郎忠勝が拾って被せる。
「初めての殺生がっ、罪も無い蜻蛉かっ」
忠勝は槍を担ぐと、主人に伺う。
「殿っ、此奴を何処に仕舞って置こうかっ?」
「平八郎。お前に、やる」
「えっ?」
「…えええええ?!」
藤原正真が、妙な成り行きに驚く。
名前を上げつつあるとはいえ、平八郎は十六歳の少年だ。
やたらと強くて不思議と無傷だとの評判は聞いているが、槍の使い方が上手いという話は全く聞いた事が無い。むしろ、槍の扱いが不器用なのに槍働きで強いという、変わり種で知られている。
「その槍の威力を目にしても、恐れずに手を伸ばしたのは、平八郎だけだ。平八郎に、『
家康の裁定と命名が、下された。
「という訳で、この件は、もういいな?」
家康が酒井忠次に確認を取る。
「お邪魔を致しました。お子様達との団欒にお戻り下さい」
その場を嬉々として家康が去ると、忠次は目力で服部半蔵と本多正信を呼ぶ。
武器庫の一つに入ると、見張り番を去らせてから、家老・酒井忠次は半蔵を質問攻めにする。
「駿府での人質交換は、容易かったか?」
風采に全く特徴の見当たらない中年男だが、居城に攻め寄せた織田軍二千を、野戦で敗走させた戦歴を持つ戦上手だ。
今川義元戦死直後、西三河に独立できる勢力を持ちながら、義理の甥である家康に仕える事を選んでいる。わざわざ自分より小さい勢力の傘下に入る判断をする辺りに、忠次の家康への評価が現れている。
家康は、この義理の叔父に家老職と、服部半蔵を好きに扱き使える権利を与えている。
「駿府城での人質交換は、寿桂尼と石川数正の采配で行われました。何の問題も起きませんでした」
半蔵の持ち込んだ情報の悪さに、酒井忠次と本多正信が呻く。
「瀬名姫は、寿桂尼の弟子として扱った方が、いいですね」
「女戦国大名の技を、みっちり仕込まれているだろうよ。数正も、存外に気が利かぬ」
今川の手管を察した正信のボヤきを、忠次が保証する。
半蔵は、独断で動いた事を猛烈に反省し始める。
「瀬名姫様だけは、置いてきた方が良かったでしょうか?」
「わしなら殺している」
忠次は、半蔵でさえ震え上がる程に不機嫌な物言いをする。
「だが、もう手遅れだ。うちの殿は、子供から母親を取り上げる真似はすまい」
「別居を徹底させます」
「それしかない」
「性交もさせません」
「難しいな。助平は我慢しない方だぞ、うちの殿」
「小姓たちにも協力させましょう」
正信と忠次が、サクサクと半蔵の『失策』の穴を埋めていく。
(バカだぁ〜〜、俺はバカだぁ〜〜〜〜〜)
主君の婚姻関係への配慮が足らなかったばかりに、三河で一二を争う腹黒家臣ツートップが頭を回転させている。
絶対に、ロクな事に成らない。
「あ、若君と姫様を連れ帰ってくれて、ありがとう、半蔵」
半蔵が落ち込みながら引いているのを見逃さず、忠次は明るくフォローする。
「三歳と二歳だから、流石の寿桂尼でも、何も仕込めなかっただろうよ」
忠次は笑って言うけれど、裏の意味を読むと半蔵は萎縮してしまう。
酒井忠次の前では、服部半蔵も二十一歳の若手武将の一人に過ぎなくなる。
(殿が家老に据える人物は、格が違う)
家康の陣容が厚みを増すにつれて、己の至らない所も痛感する半蔵だった。
「さて、まずは一番手強いのから、説き伏せるぞ。殿の寝首を守るのだ」
酒井忠次が、移動を開始する。
三河の汚れ仕事を一手に担うダーティな三人組が、主君が瀬名姫の女子力に屈しない為の予防線を張り始める。
まずは、一番うるさい大久保忠世から。
「貴様らぁ〜、三人掛かりでこの忠世を丸め込もうってかぁ〜?」
便所から出たばかりの瞬間を三人に囲まれ、忠世は中央の忠次にガンを付ける。
このトリオで、真っ当な話題は絶対にない。
「時間が惜しい。三人掛かりで攻めさせてもらおう」
忠次の方は、全く悪びれない。
「瀬名姫を、殿とは床を共にしないように配慮したい。ご同意くだされ」
「ふん。寝首を掻かれるのが怖くて、美姫を抱けるか」
大久保忠世は、鼻息を荒げて見得を切る。
「怨恨と寝床を共にする戦国武将なんぞ、珍しくもない。小心者の尺度で、殿の寝所に小細工をするでないわ! 我らの殿は、ナニが違うのだ、ナニが!」
本多正信が、左から忠世に囁く。
「でも、松平家は二代続けて暗殺されておりますので、小心者的に用心を重ねませんと」
忠世の額に、脂汗が吹き出す。
服部半蔵が、右から呟く。
「織田と清洲同盟を結んだ煽りで、瀬名姫の実父と実母が責任を取って自害しました。今や殿は、瀬名姫のご両親の仇です」
忠世の全身に、鳥肌が立つ。
大久保忠世、陥落。
次は、側近の中で一番抜け目のない鳥居元忠。
彼に話を通せば、家康の周囲にいる家臣全てに情報が行き届く。
日課として土塁の保全状況を確かめている元忠を、三人が捕捉する。
「殿が瀬名姫とヤりそうになったら、止めてくれ」
「難しいですな」
鳥居元忠は、人質時代からずっと一緒に暮らしている主君の性生活を知り尽くしているが故に、確約を渋る。
「あの御二人の愛は止められませんよ。相性も頗る良かったですし」
夫婦の情愛の話で返されたので、酒井忠次が面食らう。
「…いや、今は事情が違う。寝首を掻かれる危険が大きい」
「それなら大丈夫ですよ。殿は、済ませた後でも寝ない方ですから」
三人が怪訝な顔をしていると、元忠は事情を補足説明する。
「駿府城での御二人は、寝室が別々でしたから。殿が奥方様の寝所に赴き、済ませてから戻って寝る。今でも、このやり方で側室たちと済ませています」
土塁の芝に生えた目立つ雑草を抜きながら、元忠は正信すら初めて知る閨事情を語る。
「以前通りにしていれば、寝首の心配はしなくていいでしょう」
「助言、かたじけない」
酒井忠次は、頭を下げて礼を言った。
最後に三人は、瀬名姫を幽閉した城の外れ、築山の惣持尼寺に向かう。
「半蔵、お主の所には、女忍者が余っておるだろう」
「はい」
「二人以上、瀬名姫に張り付かせろ」
「既に張り付かせました」
「よし」
呼吸をするように先手を打つ、半蔵と上司だった。
寺の門前に、聡明そうな小姓が一人待機しているので、三人は足を早める。
「亀丸。殿が中に居るのか?」
読んでいた本から顔を上げて、榊原亀丸は直属の上司(榊原家は、酒井家の家臣)である酒井忠次に返答する。
「事を済ませるまで、誰も通すなとの、御命令です」
「わしでも?」
「勿論。止めますよ」
榊原亀丸は、本を懐に仕舞い、戦場格闘技の構えをする。
このトリオを前に、いい度胸の小姓である。
怪我をさせたくないので、本多正信は説得にかかる。
「亀丸。殿の危機かもしれないのだ。通してくれ。寝首を掻かれてからでは、遅い」
「殿は、皆様方よりも智慧者です。その殿が、奥方様との房事に問題はないと判断したのです。自分は、殿の判断を信じます」
本多正信が、言い返せなかった。
服部半蔵は、構わずに門を通る。
亀丸が腰にタックルするが、止まらない。
「いい攻めだ、亀丸。次の戦で、初陣に致そう」
「賄賂は受け取りませんよ」
酒井忠次の誘いを、亀丸は半蔵にしがみ付いたまま、お断る。
亀丸がどう攻めても、半蔵の歩みは止まらない。
亀丸が脇差を抜こうとした瞬間、半蔵は歩きながら取り上げる。
半蔵が寺の客間の襖をノックなしで開けると、家康の褌が掛けられた屏風の手前に、月乃と夏美が控えていた。
二人とも、顔をやや赤らめて『問題なし』のサインを送る。
屏風の反対側から、肉が心地よく弾む音と吐息が重なる。
「勘違いしないでよね…んぁあ…許した訳じゃ…んぅがぁ…ないんだからっ…んぅんぅ」
「はぁ…全部受け止めてくれ」
「んぅぁ…もぅ…溢れているのにぃ…」
「おぉうっ…ふう…」
「あぁ…ぁ……」
肉の花が薫り、半蔵の嗅覚を刺す。
半蔵は襖を閉め直すと、脇差を榊原に返す。
皆と忍び足で門前まで戻ると、ため息を吐いてから解散する。
夫婦喧嘩は、三河武士でも食わない。
日没後。
服部隊の女忍者二人が交代し、半蔵の屋敷に報告に戻る。
それに合わせて、呼んでもいないのに情人契約を結んでいる他の二人も参上する。
半蔵は、自分が包囲されていると感じた。
「まずは、新しい現場での情報から」
いつもは穏和な月乃が、半蔵を睨みながら報告を始める。
「家康様と瀬名姫様は、睦ごとの最中にも高度な政治的駆け引きをしておりました。形上は幽閉状態ですが、子供達には好きに会える事。清洲同盟への文句は、家康様だけに述べる事。旧今川の家臣でも、不当な差別をしない事。月に一度は、家康様の方から夜伽に来る事」
今の家康に向かって夜伽に来いとか、今川プリンセスの気位が半端ない。
「今日の処は、瀬名姫様の方に害意は見られませんでした」
月乃の不機嫌が、目に見えて膨れ上がる。
(ひょっとして、瀬名姫に共感したのか?)
と思ったが、違った。
「ここからが本題です」
情人契約四人組の包囲網が、狭まる。
「半蔵様」
月乃が、本題の口火を切る。
「五年経っても、誰も孕まないなんて、おかしいです」
月乃が、顔を半蔵の至近距離まで近付けて責める。
「ズルをしていませんか?」
ズルをした覚えがあるので、半蔵は困る。
「ズルなんかしてないよ」
「本当に?」
月乃の目が、据わっている。
嘘が通用しない位に、縁が深くなっている。
(思えば、仲の拗れた奥方と速攻で休戦した殿は見事だった。見事過ぎて、俺の参考には成らないけど)
更紗が下半身褌一丁になり、背後から襲い掛かるポーズを取る。
「やり盛り産み盛りの健康な女四人が、五年間孕まない。考えられる原因は、半蔵様の、玉袋?」
更紗が、半蔵の股間に話しかける。
「種無しカボチャさん、な〜の〜か〜な〜〜?」
そう言われてしまうと、半蔵も不安になる。
「すみません。今度から、意識して精のつくものを食べてから出します」
月乃と更紗の機嫌が、少しだけ改善される。
「騙されてはいけません」
陽花が、火縄銃でヘッドショットする時の眼付きで半蔵を見下ろす。
仁王立ちで見下ろす。
「月一で四人を回すから、一年で三回、五年で十五回。一人頭十五回しか、種付け合体をしていません。平均的なご家庭の一ヶ月分にも満たない種付け回数ですよ! これは意図的な、怠慢行為です!」
算術的に根拠を提示しながら、陽花が月乃と並んで半蔵を睨む。
これには心当たりが有るので、半蔵は陽花から眼を逸らす。
「私たちを可能な限り妊娠させずに扱き使う為に、発射回数を故意に減らしましたね? 普通の間隔なら二三人は産んでいてもおかしくないのに!」
「う」
「う、じゃないよ! 怪しいと思っていたんだ、いつも一発しか撃たないから」
「え?」
「…え?」
夏美が迂闊に反応してしまい、陽花の視線が四人の中で一番肉付きの良い体に集まる。
月乃と更紗にも視線を向けると、二人も陽花と目を合わせないように姿勢を変える。
気まずい空気を吸い込んで、陽花の糾弾が仲間に向く。
「…怒ってないよ。先生、怒ってないから、お前ら正直に答えろ? 半蔵様の最多発射回数を、指で答えろぉぉ!」
月乃は四本、更紗は五本、夏美は七本、指を立てた。
嫌な沈黙と硬直の後、陽花が能面を被って火縄銃に弾込めを始めたので、皆で取り押さえて簀巻きにする。
「放せ〜〜! そこの限定火縄銃野郎に、あたしの火縄銃を撃ち込んでやる〜〜!」
「契約内容を見直しましょう」
月乃が簀巻きの上に腰を下ろし、本題を続けようとするが、陽花は尚も暴れようとする。
「一発。一発だけだから」
「正気に戻りなさい、陽花」
「大丈夫。一発で気が済むから〜〜」
更紗が無表情に『うふふふふふふ』と笑いながら、身動きの取れない陽花に指を五本見せる。
「半蔵様も、一発で済ませたものねえ」
「お前には五発撃ち込んだるわ〜〜!!」
夏美が、常識的な意見を述べる。
「何発だろうと、当たらなければ、無意味です」
情人四忍の視線が、再び半蔵一人に集中する。
「半蔵様。五年も外そうとして外した手際、見事です」
月乃が、嫌味を言った。
「ですが、もう逃がしません」
確かにもう逃げられないので、半蔵は侘びを入れる。
「すまない」
だけでは不十分なので、釈明も述べる。
「みんなとの子作りに、不満は全然ないです。毎度、楽しんでいます。ただ、当たると折角の腕利き忍者が、最低でも二年間は戦線離脱するのが勿体ないなあという打算が働いたのも事実です。すみません」
呻く陽花に対し、注釈を付ける。
「験担ぎに一発必中で狙った方が、鉄砲撃ちの陽花は悦ぶかなあと考えていたけど、俺が浅はかでした。次は弾が尽きるまで撃たせていただきます」
「分かればいいんだよ、分かれば」
簀巻きのまま、陽花はドヤ顔で機嫌を直す。
月乃の責める視線が辛くて、服部半蔵は降伏する。
「契約の変更に応じる。月乃の言いなりでいいよ」
半蔵は、月乃に裁定を任せる。
月乃は、望み得る最高の機会に、塾考を始める。
月乃が、オーバーヒートしながら気絶した。
「おい、月乃。どんなエロい内容を考えやがった?」
更紗が、月乃の頬をペシペシ叩く。
目を覚ました月乃は、正座して半蔵に向き合う。
めちゃくちゃ睨んでいる。
「けっ」
「け?」
「結婚して下さい! 四人全員と!」
服部半蔵の顔に、『しまった』という文字が浮かんだ。
瀬名姫を引き取った波紋は、最小限に留められたと、誰もが思った。
幽閉とはいえ、上り調子の松平家康の正室のまま。
今川家がどう落ちぶれても、三河国主の長男と長女の生母である以上、粗略には扱われない。
この夫婦は、それで手打ちだと、皆が思った。
瀬名姫は、駿府から付いてきた侍女たちに、何も告げない。
岡崎城で新たに付けられた侍女たちにも、何も告げない。
どんな方法で松平家康に報復するのか、誰に教えないまま、その寺で眠りに就く。
その影響の大きさを、誰もが見誤った。
永く、大きく、見誤った。
服部隊の情人忍者四人組への影響は、子作りに本腰を入れる決意を固める事だった。
他への影響は……
「普通の戦国大名なんだな」
空誓(くうせい)は酒杯を空けながら、感想を述べた。
「普通に戦国大名です」
順正(じゅんせい)は、空誓の杯に要領よく注ぐ。
身なりの良い二人の僧兵は、本證寺(ほんしょうじ)の鼓楼の上で度々酒盛りをする。
空誓は一応、宗教団体『一向宗』三河支部のリーダーなので、隠れてこっそりと、今日の用事が無くなってから、飲んでいる。
付き合う順正も僧兵を束ねて寺を一つ預かる身だが、空誓との酒宴を断った事がない。
そこから本證寺を囲む土塁や水濠、三つの寺院を睥睨しながら酒盛りをするのが、二人の贅沢だった。
三河武士が質素な岡崎城で気焔を挙げようと、三河で最も防御力の高い城は、この本證寺である。
西三河に侵攻を繰り返した織田勢すら、本證寺の仏教徒勢力には手を出していない。
「三河武士の門徒が、器量人だ生き仏だと散々持ち上げていたなあ」
順正は、伸び放題にしている長髪をくるりんと弄りながら、空誓の話にどう合わせるか考える。
順正は、松平家康への人物評を、考えたまま伝える。
「あれは、今川義元によく学びました。この二年間に三河で行った統治は、義元の政治手腕と同じに見えます」
「同じなんだよねえ。困るよねえ、今川義元と同じじゃ」
空誓は、肴の湯豆腐に箸をつけながら、困ってみせる。
「三河衆と同じ期待を、拙僧は義元に抱いていた。寺で修行した経験のある戦国大名だもの。僧に良くしてくれる大名だと期待するに決まっているじゃないか」
順正は、空誓の話に集中して酔いを退ける。
「でもさあ、あの人。一向宗に向ける目は、敵を見る目だった。この寺の権利も、全否定したし」
「戦国大名から見たら、守護不入(治外法権)の権利は邪魔なのですよ」
「邪魔というより、力任せに統一しようとするよね。迷惑なんだけど」
領地内への役人の立ち入りを免除される守護不入という権利は、戦国時代に入ると各地で全否定され始める。領地内で税徴収や犯罪者の逮捕が出来ない区画があると、治める方は面倒臭くてたまったものではないのだ。
とはいえ、その権利を受け継いでいる空誓にすれば、戦国大名が侵略をしに来たとしか受け取れない。
「戦力を誇示すれば、認めると思うんだよねえ」
空誓が、本題に入ったと、順正は集中する。
「戦力が上だと分からせれば、戦国大名でも尻尾を振るんだよ。松平家康の祖父は、この本證寺の守護不入を認めた」
家康の祖父・清康は、西三河の安定の為に、一向宗の権利を認めた。それだけの勢力を持っている。
「松平家康の父は、今川の為に嫁と別れ、息子を人質に差し出した」
順正は、話のオチを察する。
「松平家康は、我々に脅されれば、何を差し出すのかな?」
ここで順正は、至極もっともな質問をする。しないではいられない。
「あのう、開戦の切っ掛けをでっち上げて兵を挙げても、門徒達は素人ばかりですし、僧兵は本物の戦では役に立ちません。歴戦の三河武士に蹴散らされてお仕舞いですよ?」
空誓は、肴を入れていた器を怪力で握り潰しながら、話をピークに持っていく。
「その三河武士の半分は、俺の門徒だろ?」
「…いやいや。主君を取らずに、一向宗を取りますか?」
「取らないよ」
転ける順正を肴に酒を飲み干しながら、空誓は細工を明かす。
「主君を討てと持ち掛けたら、そら断るな。でもな、家康の祖父さんが認めた守護不入を、認めさせるだけだ。その為の武力誇示だけなら、信仰の馳走として参加し易いだろう?」
成る程なと頷きかけて、順正は最悪のケースも質問する。
「しかし、その場では守護不入を認めても、後で我々が駆逐されませんか?」
カノッサの屈辱と同じオチである。
「この超弩級城塞寺院・本證寺が、三河衆如きに落とせると思うか?!」
「思います」
今度は、空誓の方が転けた。
「何を自惚れているのですか? 岡崎城程度と比べて安心なんかしないで下さいよ。下の上くらいですよ、この本證寺の防御力は。三河衆が攻めて来たら、二日しか保ちませんよ。本職の戦闘力を、なめないで下さい」
空誓は転けたまま考えを修正し、起きてから改正案を言い出す。
「じゃあ、守りには回らず、兵を集めて岡崎城を囲む。囲んで、守護不入を認めさせたら、和議を結ぼう」
「それが現実的です」
今度は順正も、異議を唱えない。
それなら、限りなく一揆に近いデモ行進で終われる。
戦上手を相手に宗教団体が戦争を仕掛けるなど、自殺行為だ。
「で、家康は今川の美姫を持て余しているから、拙僧がお持ち帰りしよう」
順正が、空誓の足を払って転がす。
「空誓様。酔っていますね?」
「うん。今のは僧に有るまじき怪しからん発言だね」
「二度と言わないで下さい。見捨てますよ」
「瀬名姫の方が望んでいたら、どうする?」
「アホか」
順正は、生臭坊主の空誓がプリンセスにモテるとは一切考えていなかった。
「どうせ寺に幽閉されるなら、本證寺の方が良いって、瀬名姫が寺の僧に零したそうだ」
そんな都合の良い噂話を、空誓は頭に染み込ませてしまっていた。
「今日は、もう酒を飲まないで下さい」
順正は、酒の所為だと断じる。
「いやでも、助けたら喜ぶだろう、瀬名姫」
「美姫を寝盗りたければ、一人で岡崎城に行って下さい」
空誓の頭に巣食った煩悩ファンタジーには付き合わず、順正は場を外す。
自分が賛成しなければ一向一揆は起きないと、順正は思っていた。
内藤正成は、舅の石川十郎左衛門の訪問を受けて、弓の稽古を中断する。
正月に向けての用意を終えた、年末の訪問だった。
「土産」
石川十郎左衛門は一言告げると、干し柿の束を孫に手渡す。
正成の長男は、弓を小脇に抱えて台所へ向かう。
孫のいなくなった隙に、石川十郎左衛門は正成に耳を寄せるように身振りをする。
(舅殿が密談とは、珍しい)
孫にすら無口な、無骨な武士である。
しかも、年の暮れ。
(緊急だな)
耳を寄せると、舅は必要最低限の、情報を伝える。
「一向一揆が、起きる」
正成が仰け反って、舅の顔を凝視する。
石川十郎左衛門の顔は、苦渋を隠せていない。
石川一族は熱心な一向門徒が多いので、一族総出での参加となる。
「来ないか?」
相手が舅でなければ、内藤正成は二秒以内で射殺していただろう。
「一向一揆が、上手くいった試しはない。数を頼んで国主を追い出しても、門徒同士で内紛を繰り返して、前より酷くなるだけです」
正成の説得に、舅は首を横に振る。
「守護不入を、認めさせるだけだ」
その勧誘文句が、一向宗に入信している三河武士の多くを、一揆に参加させてしまった。
「加担しないで下さい。信仰の馳走のつもりなら、他の機会にしなさい」
正成の説得に、舅は再度首を横に振る。
「殿に弓を引けるのですか?」
「…引けない」
憮然とした顔のまま、石川十郎左衛門は去っていく。
無骨な舅は、忠義と信仰の板挟みにされて、戦場で死ぬ気である。
内藤正成は、湧き上がる憤激を抑えながら、服部半蔵の屋敷へと向かう。
渡辺守綱(もりつな)は、一向一揆への参加を持ちかけに来た本多正信を未だ殺していない自分が信じられなかった。
ショックが大き過ぎて、身心共に何も動かせない。
松平家康が親友と公言して憚らない程に親しい男が、平然と一向一揆への参加を促している。
「本多一門と酒井一門のほとんどは、一向一揆に参加します。酒井忠次殿は、流石に残りますが」
「何で、お前が殿を裏切る?」
ようやく動けた守綱の質問には答えず、正信は一向一揆に参加を決めた勢力を上げていく。
「吉良氏(落ちぶれた源氏の名門)、
桜井松平氏(家康の近い親戚)、
大草松平氏(家康の遠い親戚)も参加します」
「質問に答えないと、殺すぞ」
守綱の発する大波の如き闘気に、正信は姿勢を崩して囲炉裏に転げそうになる。
鬼退治の逸話で名高い渡辺綱の子孫の中でも、最も血筋を納得させてしまう名前と実力を持つ青年は、容赦しない。
囲炉裏に吊るした鍋から蓋を外すと、凶器として振りかぶる。
「お前の死因は、鍋の蓋だ」
他の者が言ったらギャグだが、守綱が言うとマジで死因になる。
しかし本多正信も、殺すと脅されて口を割る男ではない。
「殿本人には、一切危害を加えません。一向宗と五分の交渉をしてもらいたい一心です」
守綱は、建前だけを聞かされて納得するような馬鹿ではない。
「お前。これを機会に、三河の反対勢力をまとめて潰す気だろう?」
正信は、意外そうに瞬きをして、正座し直して頭を下げる。
「見縊っていて、すまなかった」
「ああ、自分は言い包めるのに楽な馬鹿だと思われていたのか」
「すみません。仰る通りです」
知性がある一定以上の水準に達している人物には、下手に舌先三寸を使わないのが、本多正信のポリシー。
「自分は芝居が上手い訳ではない。このまま、殿の下で槍を振るって構わないな?」
「いえ。是非に、一向宗側に回って下さい」
再び鍋の蓋を振りかぶる守綱に、正信は重ねて説得する。
「服部半蔵と本多忠勝が、殿の下で戦います。これに守綱殿が加われば、誰も戦で殿に勝てるとは思いません。三人の内、誰か一人が一向宗の側に付かねば、好機を逃します」
守綱は、鍋の蓋を元にもどして、座り直す。
「そこまでして三河武士を篩(ふるい)にかける意味を、教えてもらおう」
服部半蔵の屋敷で酒を飲まされながら、内藤正成は半蔵から三河一向一揆対策を聞かされて落ち着いた。
「八百長というのも生温い程の、何というか、狸の化かし合いみたいな戦だな」
酒を注ぐ月乃が、苦笑する。
正式に妻に成った途端に、色気が爆発的に増えてしまい、内藤ですら目を疑った。
半蔵も、苦笑している。
「ええ。一向宗に加担する三河武士の大半は、途中で殿に帰参する算段です。内藤殿の舅のように、本気で悩んだ末の頓智(とんち)です」
「殿は、一切を不問に伏すのだな?」
安堵しながらも、正成は念を押す。
家康が部下を騙し討ちにするとは思えないが、裏で台本を書く本多正信なら、やる。
「悪いのは、忠義か信仰かを選択させようとする連中だ。この戦で、三河から悪徳宗教団体を根絶やしにする」
キメ顔の半蔵を、酒を集りに来ている米津常春が茶化す。
「あれ〜? 子作りに専念しようって男が、坊主殺していいのか〜? 俺や内藤は、もう作ってあるから問題ないけど〜」
酌をしていた更紗が、米津の酒と肴を取り上げる。
一飛びで天井付近に張り付くと、その場で器用に酒と肴を空にする。更紗の方は、正式に人妻と成っても、何の変化もない。
米津が悲しみに沈むダンディな男の顔で半蔵に目線を送るが、無視される。
「種無しカボチャだって言い触らした事を、根に持っているのか?」
「…今、初めて知った」
半蔵の顔が、鬼面に変わる。
逃げ損じた常春が、伊賀流関節技を掛けられて六秒でギブアップを叫ぶ。
「良い正月に成りそうだ」
長男を初陣させようかなと、内藤正成は心に余裕を取り戻す。
「行かなくてはいけませんか、兄さん?」
「行かなくてはいけません、弟よ」
鳥居元忠・忠弘兄弟は、炬燵で向かい合いながら、不毛な会話を続ける。
不毛の原因は、主に兄のガチムチな忠義心にある。
「敵陣に潜入して情報を流すのであれば、服部半蔵殿が適任では?」
「あの方は、既に忍びを何人も一向宗側に放っています。本人が行く意味がありません」
弟を危険なミッションに送り込もうというのに、取りつく島がない。
鳥居元忠にとって、忠義とは打算抜きの自己犠牲の上に成り立っている。ちなみに弟の身の上は、元忠の自己犠牲の内である。
忠弘のミカンを剥く手は、震えている。
「僕に密偵なんて、務まるのでしょうか?」
「やってみれば、分かります」
兄の態度には、微塵も動揺がない。
弟の人生を、平然と自分の道の舗装に使っている。
(ちょっとだけ本気で裏切ってやろうか?)
少々私怨含みで、鳥居忠弘は大晦日に本證寺へと向かった。
除夜の鐘が鳴る頃に。
瀬名姫は城外から、年を越す岡崎城を睥睨する。
「無様な城」
侍女達は、その程度の小言を誰かに言上したりはしなかった。
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