二話 踊る信長 桶狭間24

 昔々、東海道に、今川義元というハイレベルにクレバーな戦国大名が住んでいました。

 駿河・遠江・三河の三国を統治し、軍事・行政・福祉政策もバッチリの、とっても評判の良い戦国大名です。

 最近の悩みは、西隣りの織田信長というマキシマム極悪な戦国大名が、三河に何度も何度も何度も何度も何度も、進撃してくる事です。

 織田信長は、負けても負けても負けても負けても負けても、進撃を止めません。

 今川義元は、決意しました。

「織田信長を、駆逐してやる!」



 二話 踊る信長 桶狭間24



 一五六〇年(永禄三年)六月。

 今川義元は、領地三ヶ国から総勢二万の軍勢を集めて、尾張に進撃を開始した。

 松平元康と三河衆も、参陣している。

 ほぼ先頭。

 つーか、急かされた。

 今川が進軍する直前に、織田が先手を打っていたからだ。


「織田は尾張攻略への要所・大高城の周囲に砦を二つ築き、包囲に成功しました。城内の食料は尽き、雑草を摘んで食べている有様だ。三河衆は、先行して大高城に一刻も早く食糧を届けるように」

 今川義元は、元康を本陣・今川領最西の沓掛(くつかけ)城に呼び付けると、大量の食糧を摘んだ荷車を渡す。

「頼む、元康殿。甥が飢えで苦しんでおる」

 義元は申し訳なさそうに、頭を下げて懇願して見せる。

 危険度の高い任務なので、朝比奈を温存するつもりである。

 元康は、苦笑しながら引き受けた。

 軽く引き受けたので、本陣付きの武将達がどよめく。

 彼らにとって、それは成功の見込みが全くないミッションにしか見えない。

 普通は、安全を確保してから輸送部隊を送るものである。

 敵地同然の最前線に大量の輸送物資を抱えたまま進めば、餌食にされるだけ。

 それでも元康は、軽く引き受けた。

『裏切り者の成敗』という、誰がやってもいい戦ではなく、『最前線で城を包囲された、今川義元の甥を救助する』という重要な戦である。

 メジャーな戦場デビューとしては、元康にとって願ってもない難易度の高さである。

 この任務を成功させれば、今川家以外にも松平元康の評判が届く。


「半蔵」

 自陣に戻る途中で、元康は服部半蔵を呼ぶ。

 呼ばれたと同時に、半蔵は元康の半歩後方に付く。

「陽が沈んで半刻経つ頃に、大高城に着く。丸根砦と鷲津砦への陽動を頼む。両砦の兵を、我らの輸送線に近寄らせるな」

「御意」

 返事と同時に、服部半蔵は行った。


「断っても良かったのでは? 輸送部隊として先陣を切るなぞ、正気の沙汰ではない」

 大久保忠世が、元康に意見する。

 三河衆の陣に戻るや、元康は作戦を伝えた。本陣から戻るまでに、対策は考えてある。

「大高城までの最短距離を、駆け抜ける。荷車は、五人一組で押せ。荷車の放置は一つも許さん。敵に接近されても、無視。駆け抜ける。時間が惜しい。始めよう」

 半端な方針は取らず、輸送速度を駆け足行軍に合わせる事に全力を傾ける。

 元康の指示に、三河衆は約一名を除いて抗議しなかった。

「殿っ! 某の初陣はっ、敵との鬼ごっこで終わるのですかっ?!」

 初陣ついでに元服したばかりの元気な少年が、周りの制止を引き摺りながら、直訴に及ぶ。

 本来なら叱責してもいい事案だが、十代前半の少年が武将数人を押し退けながら接近してくる楽しい絵面である。元康は、直訴に応じる。

「名は?」

「本多平八郎へいはちろう忠勝ただかつっ! 十三歳っ! 初陣なのに、ただ走れ、荷車を押せとは合点がいきませんっ!」

 戦国武将の最強ランキングを決めようとすると、必ずベスト3に入る本多忠勝も、この段階では初陣を迎えたばかりの小僧に過ぎない。

 元康は、忠勝の目を真っ直ぐ見詰めて言い聞かせる。

「最前線を槍で突破した者は幾らでもいるが、輸送部隊で突破した者はいない。どうだ、やり甲斐があるだろう?」

「いえっ、全然っ。馬鹿みたいですっ」

(この野郎)

 腹立ちよりも物言いの爽快さに、元康は笑いが込み上げてきた。

「飯を城に届けてから、織田の砦に攻めかかる。皆と走らないと、その戦にすら参加出来ぬぞ」

「承知しましたっ!」

 今度こそ、本多平八郎は命令に従う。

 親代わりの叔父・本多忠真が、元康に深々と頭を下げてから、後を追う。

 元康自身も荷車を押しながら、横の本多正信に意見を求める。

「やはり、馬鹿みたいかな、この作戦は?」

 正信は、少々恨みがましい目で元康を見返す。

「遅いですよ。実現可能だからといって、わざわざ苦しくて難しくて危ない戦を引き受けないで下さい」

「危険はない。半蔵に、陽動を任せた」

「なら、安心です」

 正信の機嫌がコロッと治ったので、元康は試しに訪ねてしまう。

「俺より半蔵の方が、頼りになるのか?」

「勿論」

 悔しかったので、元康は正信が転ぶまで速度を上げた。


 一方の服部半蔵は、作戦内容を聞いた部下たちからブーイングを浴びた。

「二つの軍を相手に陽動をかけるなんて、無謀ですよ! せめて一つに絞りませんか?」

 鉄砲を抱えながら走る音羽陽花は、何とか負担を減らそうと意見する。

 他の忍者達も、以下同文。

 伊賀忍者は意識の高いプロフェッショナル集団なので、労働環境にはとっても敏感なのである。

 雇用主が扱いを間違えた場合、重要情報を持ち逃げして相手に寝返る事も厭わない。

 服部半蔵の仕事は、まず彼らを納得させる事から始まる。

「砦まで接近する必要はない。二つの砦から見える中間地点の村を焼いて、注意を引く」

 戦が起きれば村が焼かれるのは、この時代の常識なので、危険エリアの村人は既に逃げているか逃げ支度を終えている。この作業での手間は、忍者なら全く掛からない。

「砦から織田の兵が出たのを確認したら、我々は今川の本隊がいる方向へ逃げる。そうすれば、相手は深追いをしない」

 危険度は低めだと分からせた頃合で、淵沢夏美が一番物騒な場合を持ち出す。

「深追いをしてくるような、迂闊な武将が相手だったら、どうします?」

 嫌がらせでも疑り深いのでもなく、すぐに最悪のケースを考え付いてしまう性分なのだ。忍者にとっては、重宝される。

「大丈夫。小細工は用意してある」


 服部隊が無人を確認した上で村の家屋を派手に燃やすと、織田軍は機敏に反応した。

 実のところ、二つの砦の武将達は、攻守の役割分担を決めていたので、一方しか兵を出して来なかったが。

「丸根砦から、佐久間盛重の軍が。鷲津砦は、全く動いていません」

 下半身褌一丁で物見に行っていた更紗が、駆け戻って報告する。

「陽動対策は、想定済みか。此方も、その出方は想定済みだ」

 ハッタリではなく、服部半蔵は勝ち誇る。

「総員、最後の服装点検!」

 服部隊の面々は全員、足軽スタイルに朝比奈家の家紋『左三つ巴』の旗を背中に差している。

「敵に背中を見せながら逃げる。合図があるまで、全力では走るなよ」

 皆が、態度でもう一声求める。

 視線が更紗に集まったので、言わんとする事は分かる。

「下を履け、更紗」

「いやだ」

 今回の戦闘でも、更紗は褌(今日は赤と白の縞模様)一丁だった。

「下半身褌一丁では、服部隊だとバレる」

 そんな破廉恥な格好で戦闘に加わるアホな女忍者は、少なくとも東海道では服部隊にしかいない。

「陽動だと見抜かれたら、三河衆が危険に晒される」

「この下柘植更紗の戦闘様式美を変える程の問題ではない」

 更紗は、無表情かつ無駄に言い張る。

 月乃が押し倒して喉元に手裏剣を突き付けるが、更紗は歯で手裏剣を奪おうと足掻く。

 半蔵の耳に、織田兵の足音が聞こえて来る。

「仕様がない」

 服部半蔵は、非常の決断を下す。


 おっかなびっくり、焼かれて煙を上げている村に接近した織田の兵たちは、下半身剥き出しの女を抱えて逃げる足軽の一団を目撃する。

「大将! 女が掠われている!」

「縞模様の褌をした娘っ子が、お持ち帰りされてる!」

 部下に知らされて、織田の武将・佐久間盛重もりしげは、騎馬で追う。

 追いながら、悪辣な足軽たちに怒号を放つ。

「朝比奈の足軽共! 村娘を逃がしてやれ! 置いて行けば、追撃は勘弁してやる!」

 返事はなく、駿河朝比奈家の旗を背負った足軽たちは、美味そうな女を抱えて走り去っていく。

「なら、死ねや」

 佐久間盛重は、悪質な足軽たちを馬で轢き殺そうと速度を上げようとする。

 その矢先、鉄砲玉が馬の頭部に命中する。


 物陰からの援護狙撃を終えた音羽陽花が、フェイスガードの能面を外して涙目で追い付く。

「人の心臓を狙ったのに、馬の頭に当たった。あの馬、主人を庇ったんだよ」

 皆がその意味を考えて、夏美が突っ込むに任せる。

「いや、陽花が的を外しただけだ。現実を見ろ」

 淵沢夏美は、ボケがあれば突っ込まずにはいられない、哀しい女忍者なのだ。

「美談を壊すな〜!」

 陽花の抗議は、無視される。

 逃走の最中なので、口撃の応酬は続け難い。

 例外は、半蔵に抱えられた更紗のみ。

「月乃。これは楽だ。この世には、こんなに素晴らしい乗り物が有ったのだよ。これは癖になる」

 初めての『お姫様抱っこ』の感触に、無表情ながらも瞳がギンギラギンに輝いている。

「上に乗って搾り取っている時とは、乗り心地が違う。次の子作りは、この体勢で試そう」

「うむ」

「今やろうよ」

 月乃は足軽用の槍で更紗を叩き殺そうと振り上げるが、半蔵に当たる可能性を鑑みて中止。

 三年間、四人で半蔵の寝床ローテーションを回しているが、未だ誰にも子種が当たらない。各々に『独り占めすれば、命中確率上がるかも』という気持ちが育っていき、特に更紗は隠そうとしない。

「こういう状況なら排卵し易いって、婆ちゃんが言ってた」

「う〜ん」

 半蔵は、意見を検討し始めてしまう。

「今、作戦行動中です!」

 真っ当な制止を試みる月乃を、左右から陽花と夏美が挟み込む。

「実に論理的な意見ですな。有りだよ」

「半刻(一時間)もあれば、四人で回せる」

 睨みつけただけで、月乃は二人を引っ込ませる。 

 服部隊が逃走しながらラブコメしていると、後方から佐久間盛重が猛烈な勢いで追い付いて来た。

「待〜〜て〜〜!! 女だけは置いて行け〜〜!!」

 服部隊が、うんざりと走行を速める。

「…あれは、更紗を助けたいというより、助けたお礼が目当ての助平心だ」

 更紗が、嫌そうに無表情を顰める。

 半蔵の方は、別の思案を始めている。

「あれは丸根砦の責任者だ。ここまで迂闊なお調子者だと、楽だな」

 その言葉を聞いて、得物を懐から出しかけた夏美が念を押す。

「あれは、生かしておいて宜しいのですね?」

「殿に任せる」

 半蔵は、朝比奈の旗を捨てて速度を上げる。


 猛追する佐久間盛重は、捨てられた旗に注意を向けると同時に、恐ろしい可能性に気付いて足を止める。

 東海道で最強の部隊が、付近まで来ている。

「やばい。鷲津砦にも、知らせないと」

 テンパってきた頭で、佐久間盛重はもう一つの重要事案を思い出す。

「信長様にも伝えねば」


 佐久間盛重が引き返したので、服部隊は偽装を解く。

 漆黒の忍者装束を纏った服部半蔵は、作戦の仕上げにかかる。

「ここからは、俺一人で行動する」

 雰囲気が、違う。

 あくまで忍者のスキルを有する武将としてキャリアを積んできた男が、一人の忍者として動こうとしている。

「月乃は、皆を引き連れて大高城へ。以後は本多正信の指示に従え」

 月乃は返事の代わりに、半蔵の手を掴んでしまう。

 止める言葉も帯同を促す言葉も、喉で詰まる。

 隊で月乃だけは、半蔵が何をしに行くのか聞かされている。

 涙だけが、漏れてしまった。

 半蔵が、少しは優しく笑ってみせる。

 月乃の手が、空を握る。

 服部半蔵の姿が、消え失せた。

 歴戦の伊賀忍者達にも感知出来ないレベルでの、服部半蔵の動きだった。

「そんなに危険な仕事なのか?」

 夏美の問いに、月乃は応えない。

「あの腕なら、大丈夫でしょ」

 陽花が能天気に太鼓判を押す。

「死んだら、次の種馬候補を探すまで」

 更紗の物言いに、他の女性陣から蹴りが飛ぶ。

「大高城へ」

 月乃は、更紗の尻を二回蹴り上げてから、隊を向かわせた。



 同時刻。

 日没後より半刻。

 荷車を押す三河衆の接近は、大高城、丸根砦、鷲津砦の各物見櫓から視認出来る距離まで近付いた。

 五人一組で押す荷車の速さは、並みの行軍速度を上回っており、落伍者も全くない。

 織田軍が出した兵を呼び戻して向かわせる間に、全ての荷車が大高城に入り果せた。

 城内で飢えていた今川兵は勿論、城主の鵜殿長照うどの・ながてるも平身低頭して三河衆に礼を繰り返した。

 鵜殿長照が三河衆に頭を下げるのは、これが最初で最後になる。

 この機を逃さずに、元康は太高城での主導権を握る。

「今川の皆様は、明日までゆっくりお休み下さい。今夜と明日は、我々三河衆が大高城を守ります」

「全部任せましゅ」

 湯漬けを掻き込みながら、鵜殿長照は頼もしい救援部隊を率いてきた若者を、全く疑わなかった。疑わずに、勧められるままに寝た。

 鵜殿長照が安眠出来たのは、その晩が最後になる。

 大高城の全てを三河衆が掌握した段階で、本多正信が報告に来る。

「服部隊が戻りました。半蔵は手筈通りに、一人で行きました」

「うむ」

 元康は、正信の顔が不機嫌なので、悪い知らせも有ると分かった。

 正信は、極力小声で耳打ちする。


「朝比奈秦朝の軍勢が、後ろに張り付いていました」


 元康の背筋が凍る。

(見張られている。朝比奈本人に)

 正信がわざとらしく満面の笑顔を作ったので、元康も満面の笑顔を作ってから、声を大きく演出する。

「なんと、なんと、朝比奈殿が後詰に来ておられたとは、心強い」

「全くですなあ」

「これは、仕事を早めないと」

 元康は、大急ぎで作戦を修正する。

 周囲の三河・今川の両兵に聞かせるように、元康は鵜殿長照に話しかける。

「長照殿。義元様の本陣は、明日の夜には大高城に着きます。それまでに、目障りな織田勢の砦を潰しますので、我らは寅の刻(午前三時過ぎ)に出陣します」

「は、はい?」

 満腹と安心で蕩けきった鵜殿長照の脳裏に、『あれ? 元康くん、急ぎ過ぎてねえか?』という疑問符が浮かぶ。

「先程は明日も皆さんを休まると豪語しましたが、出陣までとなります。申し訳ない」

「い、いや、そこまで急がなくても。殿の本隊が着くとなれば、相手は清洲城まで引くやもしれませぬ」

 鵜殿長照の意見は、この時点での敵味方に共通する意見だった。

 今川義元が二万の兵を率いているのに対し。織田の兵力は二千から三千。野戦を挑むよりも、織田の本拠地・清洲城に兵力を集中させて籠城し、今川の兵糧が尽きるのを待つというのが、大方の見方だった。

「いやいや、某は幼少の頃、織田信長に会った事があります。故に、あの男の気性をよく存じております」

 元康は、笑顔で物騒な話を展開する。

「籠城するくらいなら、大将首目掛けて討って出る武将です。義元様が大高城に来るのであれば、信長も明日には丸根砦か鷲津砦にまで進んで来ます」

「…へ?」

 常識的な鵜殿長照は、呆気に取られる。

「五十名で三百の兵に討ちかかり、勝つような武将です。攻めるか逃げるかの見極めが、神掛かっておりますな」

 正信が、トリビアでアシストする。

「信長が到着する前に、二つの砦を潰しておきます。砦が落ちれば、大高城を決戦の場に選びはしないでしょう」

 松平元康が、まるで親切であるかのように、すぐに付近の砦を落とす理由を吹き込む。

「早くしないと、大高城の皆さんが、決戦の最前線に立たされますなあ。気の毒に。あの凶悪で凶暴で残忍で酷薄で強欲で助平で神経質で助平な信長の軍勢との決戦で、矢面に立たされますな」

 本田正信が、ネガティブな可能性を吹き込んで恐怖心を煽る。

「お気の毒に」

 元康が、哀れみに満ちた涙目で 鵜殿長照を見詰める。

 鵜殿長照は、ガクガクとブルブルし始める。

「妖怪ですか、信長は?」

 元康と正信は頷きそうになったが、妖怪に失礼なので止めた。

「長照殿。今川義元様程の方が、二万の兵を差し向けねばならぬ敵です。必要が有るから、揃えたのです。甘く見てはいけません。打てる手を全て打ち、此方から激しく攻めないと、攻められます。事実、この大高城は、干殺しに逢ったではありませんか」

 鵜殿長照は、完全に落ちた。

「分かりました。留守はお任せ下さい」

 三河衆が、食糧を届けに来ただけの先発部隊だという事実を、完全に失念している。

 今川家中では、格下の扱いで済む事を、忘れている。

「では、お休み下さい。丑三つ時に起こします」

 元康は、鵜殿長照がその場で寝落ちするのを確認してから、三河衆も見張りを残して休むように伝える。



「殿、殿、元康様」

 丑三つ時に、元康は正信に起こされた。

 跳ね起きると、大久保忠世や鳥居元忠もとただが完全武装で元康を待っていた。

「朝比奈殿も、砦攻めに参加するそうです」

 大久保忠世が、寝ている間の重大情報を伝える。

「一仕事終えた後の三河衆に、砦を二つも攻めさせるのは酷であろうと、鷲津砦は朝比奈の方で落とすそうです。攻撃開始時刻は、我らと同時」

 大久保忠世は、丑三つ時なのに鶏よりデカい音量で盛り上がる。

「これは、朝比奈から三河衆への挑戦ですぞ!? どちらが先に砦を落とすのか、衆目に晒そうという朝比奈の魂胆! 受けて立ちましょうぞ、殿!!!!!」

 元康は、完全に目が覚めた。

「朝比奈泰朝本人が、鷲津砦を攻めるのだな?」

 元康の剣幕に、忠世がたじろぐ。

「はい、本人です」

 鳥居元忠に鎧の装着を手伝ってもらいながら、元康は考えをまとめる。

(大高城に入った今川義元を殺す作戦は使えなくなったが、朝比奈泰朝が本陣から離れた。今なら、信長が全軍で本陣に突っ込めば、何とかなるか。仕損じても、義元の親衛隊が大幅に減る)

 チャンスにリーチが連続で掛かったので、元康のテンションは寝起きでも最高値に上がる。

「全員起きたか!!!!? 丸根砦を、朝比奈より先に落とすぞおおおおお!!!!」

 元康のマックス・テンションに、大久保・本多・鳥居・酒井家等の三十歳以上が、「これこそ松平だよね」と感涙し始める。



 午前三時。

 三河衆は丸根砦に、朝比奈泰朝の軍は鷲津砦に攻撃を開始した。

 この報せは、清洲城の信長の元へと、間を置かずに届けられる。織田信長と最前線の三河衆の距離は、忍者の足なら三十分で着く距離にまで縮まっている。

 夜道を駆けて報せを届けた服部半蔵を脇に、信長は幸若舞(能や歌舞伎の原型)を演じ始める。

 十倍の兵力に攻められている男には、見えない。

(ブレない人だ)

 この三年で、信長の美学を分かるまでに、親しくはなっている。政治でも軍事でも柔軟に応じる男だが、美学にだけはバカみたいに煩いし、最優先させる。

 世間はその姿を見て『うつけ者』と呼ぶが、切れ者の戦国大名の間では、『異常な天才』として警戒されている。

 彼の十年後を想像したのだろう。今川義元は、織田信長を殺す為に、二万の軍勢を繰り出した。かなり大人気ない大軍勢である。

 あまりにも大人気ないので、名目上は『京都に上洛して、世界平和に貢献し隊』という事になっている。

 そんな名目を信じるような信長ではないので、全軍出撃体勢で、チャンス待ち。

 なのに。 

(朝比奈が離れた今が、最大のチャンスだろうが! 動けよ!)

 半蔵の顔が強張ってきたのを見て取った小姓の一人が、気を利かせて湯茶を入れてくる。

 松平元康に密命を受けてから三年間。

 織田方とは、今川義元を如何にして殺すかについて密談を重ねる仕事仲間である。

(気を遣わせてしまった)

 半蔵は、鬼面を手で解しながら反省する。

 普段から信長に心労を重ねている織田の家臣団に、これ以上プレッシャーを与えてはならない。彼らにはこれから、今川と潰し合ってもらうのだ。何方かが全滅するまで。出来れば両方。

 信長は、まだ舞っている。

(転けないかなあ)

 半蔵の願いは虚しく、織田家のダンサーは四百年経っても転けない。

 信長も遊んでいる訳ではない。

 この三年間、半蔵経由で入手した西三河の地理情報と、今川軍二万の現状を頭で整理している。

 信長の舞が終わる。

 その後、メッチャクチャ出陣の支度をした。

(初めから急いでくれよ)

 半蔵がイライラと見守る中、信長は特注の鋼鉄鎧を装備していく。鉄砲の弾丸でも貫通は不可能な設計で、狙撃が多い日も安心。

「曳けーっ」

 主語抜きの命令でも、小姓たちは慣れているので馬を曳いて来る。

 半蔵は、信長から十歩離れて同行する。

 半蔵はあくまで、影のように随行する。


 午前四時。

 信長は数名の小姓だけを連れて、清洲城から出発した。行き先は、熱田神宮。

「あそこに兵を集結させる。それまでに、朝比奈の現状を探って来てくれ」

 信長に頼まれて、半蔵が大高城付近まで確認に行く。

 午前六時。

 熱田神宮で再合流すると、信長が熱田勢の加勢を得て機嫌を良くしていた。

(敵に回す人数も多いが、味方に付ける人数も存外に多い)

 半蔵は、信長が味方にしたい人々には甘くて優しい為政者として振る舞える様を、何度も目撃している。

 敵対者には信じてもらえないのだが、彼は真っ当な政治家だったりする。

 信長から視線を向けられたので、即答する。

「鷲津砦は、守りを固めて朝比奈を引き付けています。あと一刻(二時間」は保つでしょう」

 信長は、ニヤリと笑う。

「丸根砦は、大将の佐久間盛重が城外に出て、討ち死にしました。すぐ落ちます」

 信長は、苦笑する。

「籠城しようかなあ」

「今更?!」

「冗談だ」

 鬼面に成りかけた半蔵を、信長がからかって時間を潰す。

「信長よりせっかちな男を見ると、落ち着く」

 信長は、鬼面を肴に笑う。

 信長だけが、笑っている。


 午前八時。

 ようやく織田信長の兵二千が集結。

 熱田勢と合わせて、三千に達した。

 戦勝祈願を済ませると、善照寺砦へと進軍を開始する。

 熱田神宮から二里(約八キロ)の道程を、普通の速度で進む。

 その善照寺砦の東南に、大軍が休憩するのに適した桶狭間がある。

 そこで今川義元が休憩しているタイミングを見計らって奇襲をかける計画なのだが、タイミングを外すとカウンターを食らって全滅する。

 三年がかりで計画を立てていたと知っている者は少ないので、行軍中も先を危ぶむ私語は絶えない。

 とはいえ影に徹している半蔵には、基本的に信長以外は話しかけない。

「今川義元個人の強さって、どの位かな?」

 とはいえ構わず半蔵に話しかける、お喋りもいる。

「輿に乗って移動しているからといって、軟弱とは限らないし。顔に白粉を塗って、歯にお歯黒をしていても、刀を振るう腕には、全然関係ないし」

 半蔵が応じなくても、猿面の若者は一方的に話しかける。

「義元本人が戦場で刀を振るった話って、聴いた事が無いんだよね。俺、こう見えても元は今川の家来の家来の家来の雑用やっていたんだけどさ。この質問をすると、冷たい返事が返ってくるんだ。やれ『大将が直接刀を振るうような貧乏所帯じゃ無い』だの、『今川は戦力が豊富だから、心配無い』だの」

 話を漏れ聞いている信長が、鼻で嗤う。

 半蔵は、自分を出汁にして信長に話している寸法であると悟って、ちょいと感心する。

「でもよう、刀を抜いた事が無い大将に、付いて行けるご時世じゃないだろ? あれは納得いかないよ。あまりにも納得いかないから、織田に乗り換えちゃった」

 トークで人付き合いを深めて広げて出世してきた若者は、この機会を逃さない。

 猿面の若者・木下藤吉郎の問いに、半蔵は丁寧に答える。

「今川義元は今でこそ大身だが、父と兄の急死に伴って当主の座に就いた五男坊だ。就任当初は大きな内乱が起きて、自身で刀を抜いている」

「それ、何年前?」

「二十年以上昔だ」

「へえ〜。逆に言うと、二十年は戦から遠去かっているんだ、今度の大将首は」

 猿面の振る話題に、半蔵は乗る。

「義元だけではない。今川の兵は、この十年、朝比奈と三河衆に頼り過ぎた。実戦経験者の数が、極端に少なくなっている」

 その分、三河衆は戦闘経験を積んだ。

 半蔵の主人は、その長所を最大限に活かす気でいる。今川の為ではなく。

「では、この藤吉郎にも、大金星が可能という事ですな」

「え?」

 半蔵の知る限り、木下藤吉郎は庶務の奉行として業績を上げて信長に気に入られているが、武将としてはかなり厳しい。

 半蔵の怪訝なリアクションに、藤吉郎はドヤ顔で広言する。

「心得ておりますって。この藤吉郎には、腕っ節が全くないです! しかし武功は欲しい! 雇いましたよ、腕自慢を二十人! 借金もしたけれど、義元の首さえ取れば、大黒字!」

 半蔵は諌めようかとも思ったが、服部家も武功で稼ぐ為に転職した家である。他人のコンバートに、とやかく言えない。

「禿げ鼠」

 信長が木下藤吉郎を呼ぶ時は、『猿』又は『禿げ鼠』で済ます。

「はい!」

 酷い渾名で呼ばれても木下藤吉郎が嬉しそうなのは、お気に入りの部下にしか渾名を付けて呼ばないからである。

「義元の首が欲しければ、半蔵から離れるなよ。此奴は、義元の顔のみならず、義元の馬や側近たちの顔も覚えておる。半蔵こそ、我らの八咫烏よ」

「承知しました!」

 言ってから藤吉郎は、半蔵を見直す。

「服部くん、いつも最前線なんですね。格好いいわ〜」

「うん、どうも俺は、そういう武運らしい」

 半蔵は相槌を打ちながら、この若者に義元を討ち取らせたら、織田の人事が面白い事になるなあと、意地の悪い夢想をする。

 


 午前十時。

 織田信長の軍勢が、善照寺砦へ到着した頃。

 丸根砦は壊滅し、鷲津砦の兵は敗走した。

「殿ぉーー!! 朝比奈が、本陣へ使いを出しましたぞ!!」

 大久保忠世が、返り血を滴らせたまま元康に報告する。

「当方も使番を出しませんと、軍功で朝比奈に遅れたと思われますぞ」

「そうだな」

 元康は、本多正信にアイコンタクトを送ろうとして、不在に気付く。

「正信は?」

 大久保忠世は返答に詰まり、周囲に助けを求める。

「誰か?! 本多正信の生死を知っておるか?!」

 三河衆に伝言が回り、服部隊の月乃が報告に参上する。

「本多正信殿は、膝に深手を負いました。命に支障はありませぬが、しばらくは歩けません」

 元康は、慄然とする。

 これから状況が劇的に変化するというのに、一番の知恵袋が動けない。

 周囲は、元康の顔色が激変したのを見て、友達想いに感動している。

(事態が分かっていないな、この脳筋ども)

 三河衆は元康の智謀を信奉する反面、本多正信が元康の軍師役である事実を頑なに認めようとしない。

 元康は時々、三河衆が嫌になる。

 可愛いけど。

「服部隊には、引き続き正信の看護を頼む」

「はい。実は正信様から、伝言が有ります」

 元康は、期待に満ちた目で月乃から伝言を聞く。

「『服部隊の者を一名、使番として送り出せ』と」

 行き先が文言に含まれていなくても、正信の言いたい事は元康に伝わる。

 元康は、笑いを堪えて大久保忠世に不審がられる。


 午前十一時。

 今川の本陣へ行くと見せかけて、月乃は自由に動いた。

 伊賀の情報網を頼りに月乃が善照寺砦の半蔵に合流し、決定的な情報を持って来る。

「大高城の安全が確保されたので、朝比奈から本陣へと使番が出ました」

 半蔵は、使番の馬が沓掛城にまで到達する時間と、月乃の足の速さを計算する。

「よし。この情報を得るのは、双方同時だ」

 信長に伝えると、五百の留守番兵を残して、桶狭間へ進軍を開始する。

 月乃は帰らずに、半蔵の側に張り付く。

「本当に、桶狭間を通りますか? 船で義元だけ大高城近くの港まで来たら、どうします?」

 後ろに続く猿面の若者が冷やかしにニヤニヤしているので、月乃が仕事の話を振ってみる。

「いや、新しい征服地への顔見せも兼ねているから、陸路で来るよ。それに、桶狭間周辺の一般市民の皆様には、今川義元が通過する際に、大量の酒でお持て成しするように勧めてある。酒樽も他人名義で融通したので、千人単位で酔い潰れるはずだ。義元本人や旗本衆は、飲まないだろうがな」

 今川義元の名誉の為に記しておくと、敵地で行軍中なのに酒を飲んでしまったのは臨時雇いの一般兵士だけで、士分は全く飲んでいない。

 猿面が、合いの手を入れる。

「数の差は、酒で帳消し。これで奇襲の成功率、爆上がり! 伊賀は良い仕事しますなあ」

 月乃は胡散臭い顔で藤吉郎を見るが、半蔵の方は慣れているので平然と返す。

「これで奇襲直前に雷雨にでも恵まれれば、完璧に…」

 半蔵は、桶狭間方面の雲行きを見て、冗談を引っ込める。

 巨大な積乱雲が、発生し始めている。

 視線と沈黙の意味を理解し、藤吉郎が生唾を飲み込む。

「なんか、段々怖くなってきた。ここまでツいてくると、なんか怖い」

 猿面の若者の武者震いに、白面の主君が優しく声をかける。

「あの雲が鳴ろうと鳴るまいと、戦はもう詰んでおる。義元は、自ら出るべきではなかった。この信長を殺したいのなら、朝比奈に五千の兵を与えれば良かったのだ。一度隠居した者に、武運は戻らぬ」

 と余裕を見せた信長だったが、後は何もかもがギリギリだった。



 正午。

 先発を任されていた熱田勢が、うっかり正面から今川の本隊と遭遇してしまい、瞬殺された。

 桶狭間に腰を落ち着けた本陣は、地元の歓待を受けながら優雅にランチタイムをしている。が、その前後を守る軍勢は真面目に戦争をしている。今川義元は、全軍に油断を許すような甘い戦国武将ではない。

「…あの入道雲が雨を降らせるのに紛れて、本陣へと接近する」

「やっぱり天候頼みですか」

 藤吉郎のボヤキを聞き逃さず、信長が顔面にマジ蹴りを入れる。

 街道を少し外れて、山の脇道を半蔵に先導させながら、織田軍は慎重に忍び寄る。



 午後一時。

 織田軍念願の、雷雨が始まった。

 ただし、雹混じり。

 雨も豪快で、視界も全然利かない。

 降り過ぎである。

「進むぞ! これぞ天佑!」

 信長は、大喜びで進軍を命じる。

 夜間でも桶狭間一帯を案内出来るように準備していた服部半蔵が、この豪雨の最中でも織田軍を先導する。

「天佑って、痛いのですね」

 忍者風呂敷を傘代わりにした月乃は、防ぎ損ねた雹が足に当たる度に泣きたくなる。

「この一割程度で良かったのに」

 猿面に信長の足跡を付けたまま、藤吉郎が月乃の真似をして褌を傘としてかざす。

「しまった!」

 褌を外して無防備になった藤吉郎の逸物に、防ぎきれなかった雹が当たる。

「おっ母ぁぁぁぁ〜!?」

 痛みに立ち尽くす藤吉郎を、部下が慌てて介抱する。

「どこでも笑いを取れる男よのう」

 信長が、大声を立てぬように笑いながら、半蔵の後をサクサク進む。

「鳴っているのに落ちませんね、雷」

 雷雨の中でハイテンションに磨きがかかる『尾張の大うつけ』に雷が落ちれば帰れると気付いた月乃は、仏様にお祈りしてみる。


 落ちなかった。


 四半刻も経たずに、半蔵は足を止める。

「この先に、義元の本陣が見えます」

 山際、稜線を下った先に、視界をぎっしりと埋める大軍が犇いている。大軍とはいえ、雨具は即席で作った蓑ばかり。

 豪雨を避ける為に屋根付きの天幕が張られている場所は、中央に一つだけ。十中八九、そこに義元が居る。



 午後二時。

 雨が、織田を過保護に隠すのを止める。

 天幕が取り払われ、本陣で唯一、白粉にお歯黒を塗った武将を、半蔵は視認する。

 今川義元も、半蔵達の居る方向を視認する。

 遠目だが、義元は酒を飲んでいないと半蔵は確信する。

「月乃。義元は朝比奈を呼び戻そうとする。これから西に出る使番は、必ず仕留めろ」

 月乃の返事を待たずに、半蔵は顔を念入りに黒装束で覆う。

「では、手筈通りに」

 半蔵は信長に声をかけるや、義元を目指して駆け飛んで行く。

「掛かれ、掛かれ!!」

 信長の号令で、織田軍二千が一斉に突撃を開始。

 本陣だけでも五千人は詰めているが、多くの者が奇襲に対応出来ていない。元々、今川義元の考案した徴兵システムで頭数だけ揃えられた兵卒ばかりで、質は低い。

 武力の津波となって駆け寄せる織田勢に、崩れて四散する。

(何をしに来たんだ、此奴ら?)

 半蔵は、旗本以外が潰走するのを見て、寄せ集めの兵卒だけは今後とも一切信用しまいと決める。

 二十年ぶりに弓矢の届く距離に身を置いた今川義元は、輿には乗らずに騎馬に乗る。酔っていない旗本三百騎に守られながら、東の沓掛城へ戻ろうとする。

 判断力に、迷いも曇りもない。

 崩壊した兵力には、目もくれない。

 この場の負けを素直に認めて、全速力で退こうとしている。

「義元の旗本は、あれだ! あれに掛かれ!」

 信長の雄叫びと共に、織田二千が戦力を集中させる。

 混乱する兵達が邪魔で、義元が全力で馬を走らせる事が出来ないうちに、一つの影が浸透する。

 如何なる家紋も身に付けずに疾駆する漆黒の忍者が、義元の許へと駆け寄る。

 素手である。

 武器を一切、持っていない。

 全身黒い装束で覆い、顔まで覆っている。

 今川の旗本達は、正体不明の忍者に気付くと馬上から斬り捨てようとするが、どの槍も刀も身軽な影を止められない。半蔵を相手にしようとした瞬間に、織田勢に追い付かれて擦り潰される。

 今川義元は、背後から急接近する脅威に、太刀を抜く。

 服部半蔵は、今川義元の太刀の間合いには入らない。

 指笛を吹いた。

 義元の乗る馬が、半蔵の指笛に反応して立ち止まろうとする。半蔵が三年間、月一以上のペースで指笛を吹いてから餌をやっていたので、義元の馬は空気を読まずに条件反射で半蔵の方へ首を向けてしまう。

 義元が必死の形相で馬を走らせようと手綱を操るが、退却の速度は取り返しがつかない程に遅れてしまう。

 その間に、義元と旗本三百は、織田の軍勢二千に飲み込まれる。

 このチャンスを逃すまいと群がる信長の馬廻(親衛隊)と、義元を守ろうとする旗本の間で、凄まじい勢いで死傷者が発生する。

 三百騎の旗本が五十騎を切るまで討ち減らされても、今川義元は元気に太刀を振るっている。

「結構、強いな」

 服部半蔵は、義元が討たれるまでは見守る気でいたが、ここで嫌な可能性に気付く。

 一仕事終えて観客に回っている半蔵の許に、返り血を浴びた月乃が合流する。

「西に向かった旗本は、仕留めました」

「うん。お疲れ様」

 月乃は、悪い情報もそのまま伝える。

「しかし、方角の区別も付かないまま四方に逃げた者が多く、少なからぬ数が、西に逃げました。運の良い者は、大高城に辿り着くかと」

 そうなれば、朝比奈泰朝に桶狭間の様子を知られる。

「朝比奈が来るまで、早くて半刻(一時間)。早くしないと、全部ご破算だ」

 半蔵は、最後を見届けるまで、桶狭間から動けない。

 半蔵と月乃が焦れる中、最後の瞬間が訪れる。

 義元が、槍を付けた相手の膝を斬って返り討ちにした直後、毛利新介という馬廻に組み伏せられる。

 組み伏せた毛利新介と今川義元が、激しく攻防を繰り返す。

「その方が、都合良くないですか?」

 月乃が、半蔵だけに聞こえるように耳打ちする。

「いや、それだと、仇討ちに成功した朝比奈が今川の勢力を継いでしまうから、三河が独立し難くなる」

 半蔵も、声を顰める。

 半蔵・元康にとって最も望ましい結末は、信長が今川義元を討って、そのまま引き上げてくれる事。

「今川より、織田の方がマシなのでしょうか?」

 月乃には、今川と織田の違いが分からない。

 どちらも三河を侵略し、元康を人質として扱った。

「信長は、殿を見下しておらぬ」

 半蔵は、その一点で信長に協力する。 


 義元の首に、白刃が当てられる。

 義元は相手の指に噛み付いて抗うが、毛利新介は指を喰い千切られても白刃を止めなかった。



 潰走した今川の兵の一部が、大高城へ辿り着く。

 義元の本陣がピンポイントに奇襲されたのは確実だが、義元の生死を見届けた者がいない。

 松平元康は、第一報だけでは鵜呑みにしなかった。

「落ち着けーーーー!!!!!」

 ひょっとして三河独立の好機じゃないかと沸き立ちかける三河衆を、元康が叱りつける。

「…殿。そういうのは、某の役目です」

 大久保忠世が、出番を取られたので抗議する。

 元康は、笑顔を抑える為に必死に厳しい顔をして爪を噛んで見せる。

「いいか? まだ義元…様が死んだとは限らん。桶狭間で本陣が奇襲を受けて、兵が潰走しているだけだ」

 平均的な三河衆にも分かるように現状を解説するふりをして、時を稼ぐ。

 目と鼻の先に朝比奈が居るのに、狂喜乱舞なんか出来ない。したら、殺される。

「緊張感を保て! 大高城を盗りに、織田が寄せてくるかもしれぬのだ!」

 三河衆は、大人しく持ち場に戻る。

 第二報は、本多忠勝が持って来た。

「殿っ、朝比奈が全軍で桶狭間に向かったぞっ」

 初陣を済ませたばかりの少年武将は、誰に言われた訳でもないのに、元康にとって一番欲しい情報を見聞きしてくる。

 元康と同時期に本陣潰走を知った朝比奈は、鷲津砦を捨てて全軍で桶狭間へと出撃した。

(もう、笑顔に成っても、いいかな?)

 顔が綻んでくるのを抑えられなくなった頃、忠勝が無邪気に言い放つ。

「殿っ、我々はっ、今川の頭を助けに行かぬのかっ?」

 元康が、凍りつく。

「もう手遅れの場合でもっ、仇討ちをしておけばっ、後で大きな顔が出来るだろうっ?」 

 意外と頭が良い忠勝だった。ではなく、これが普通のリアクションだろう。

 元康は、固まったまま自覚する。

(やばい。義元を殺させる事ばかり考える面子で密談していたから、普通のご意見を失念した。このつぶらな瞳の意見を、どうやってスルーしよう?)

 三河衆が元康の決断を待ち受ける中、本多正信が服部隊の面々に支えられて意見をしに来る。


 正信は今朝の丸根砦攻略戦で膝に深手を負い、服部隊の支え抜きでは歩けない有様だ。

 歴戦の三河衆は、その傷を見て、本多正信は一生片足が不自由だと判断する。

「殿。朝比奈が本陣の救援に行ってしまった以上、我々だけで大高城を守らなければなりません」

「うむ。確かに」

 ここまで、やや同情的に正信の言を見守っていた三河衆は、次の言で激昂する。

「しかしながら、我々だけで大高城を守るのは、不可能です。退きましょう」

 織田に三河衆が敵わないと言ったに等しい。

 三河衆のプライドを、逆撫でする発言だった。

「この一帯は、三河の内だ。織田に渡してどうすんだ」

「織田なんぞ、まぐれで勝っただけだ!」

「我らはお前のように手負いではない! お前だけ逃げろ」

 臆病者、逃げ腰に巻き込むなと、三河衆は正信に喚き立てる。

 本多正信は、脳筋の馬鹿共を相手にはしない。

 彼が話をするのは、主君の松平元康だけである。


「今、この西三河には、三つの敵が満ちております」


 喧しかった三河衆が、ピタリと黙る。


「一つは、織田。この機を逃さず、強気で攻めて来ます。獲れる獲物には、残らず襲いかかるでしょう。特に要所の大高城に。

 二つ目は、西三河の武将達です。今川という重しがなくなった以上、彼らは勝手に獲物を漁り始めます。

 三つ目は、今川の残存兵です。桶狭間で無様に惨敗しようと、まだ一万五千は残っているでしょう。今の彼らは、蝗の大群と同じ。西三河は、しばらく地獄と化します」


 さっきまで正信を腰抜け呼ばわりしていた三河衆のほとんどが、顔面蒼白になる。

 そこで止めにする可愛げは、本多正信には無い。

「この一帯には、総じて約二万以上の『味方ではない兵』が、餓鬼と化して犇めいているのです。大高城からは、退かねばなりません」


 隣で会話を聞いていた鵜殿長照は、手勢を連れて城から逃げ出した。

 東へ。

 三河衆の大半が恐怖で硬直する中、忠勝がはっきりと言上する。

「正信は、腰抜けだっ」

 元康は、これは含みのある発言だなあと、忠勝を睨む。

 主語は正信だが、元康に向けた発言だ。

 事態を理解した上で、本多忠勝の戦意は衰えていない。

(この胆力を潰してはならない)

 元康は、忠勝を特別扱いして育てる決意をする。

「忠勝」

「はっ」

「俺には、直接物を言え。許す」

 主君にでも歯に衣を着せずに物を言うのは三河侍の特徴だが、それを直々に許すと言われるのは、意味が違う。側近として指名されたのだ。

 恐れ多いと萎縮せずに、忠勝は堂々と意見する。

「腰抜けの正信の言い成りになるなら、殿も腰抜けだっ。落ち武者のように退いたら、その方が危ないっ。周囲が全部敵で満ちるなら、この城を殿の城にすればいいっ」

 鵜殿長照が逃げた以上、松平元康には、その権利がある。

 忠勝の意見は間違っていないが、元康の肚はとっくに決まっている。

「この城では、ダメだ。丸根砦と鷲津砦に織田勢が入れば、先ほど逃げた鵜殿と同じ目に会う」

 三河衆が縋る様な眼付きで見守る中、元康は三年前から既に用意してある台詞を吐く。


「岡崎城へ、戻ろう」


 そこは三河衆にとって、本来の居城。

 元康の父・松平広忠が暗殺されて以降、今川に占領された、屈辱の証。

「今なら、今川勢が逃げ出して、空いている可能性が高い」

 そして、松平元康が生まれた城。

 城としての機能は、実は大高城よりかなり劣る。

 それでも。

 今の三河衆に希望を持たせるには、岡崎城しかない。

「ここから岡崎城までは、丸一日かかる。負傷者は荷車に載せよ。一人も置いていくな。出発は…」

 出発の時刻を言おうとして、元康は半蔵の未帰還を思い出して言い淀む。

「今川義元討ち死にの、確報が来てからにする」 

 とっとと岡崎城に戻りたいが、半蔵を置き去りにする気はなれない。

「殿。素直に半蔵を待つと言いなされ」

 嬉し涙を拭いてから、大久保忠世がからかう。

「待って何が悪い。鬼の半蔵抜きでは、怖くて外に出られぬ」

 元康が冗談を言うと、忠勝以外が笑いながら撤退の準備に入る。


 仏頂面をした不機嫌な忠勝が、自信過剰としか思えない抗議を始める。

「殿っ、某が護衛を勤めるのに、どうして半蔵が必要なのだっ?」

 初陣で首級を挙げる働きをしたので、周囲は忠勝に刮目し始めている。それでも、服部半蔵と比べるのは、オメガ身の程知らず。

 元康がオブラートに包んだ言葉で忠勝の自信過剰を宥めようと口を開きかけた矢先。


 忠勝の頭上に、短槍が振り下ろされる。


 背後からの奇襲。

 完璧なタイミングで、短槍の矛先が脳天をカチ割る速度と角度で振り下ろされる。

 服部半蔵が本気で振り下ろした一撃を躱し、忠勝は短槍の柄を掴む。短槍を引こうとする半蔵との間で綱引きとなり、二人の力が加わった短槍の柄が折れる。

 半蔵は鬼のような笑顔で後輩を讃えて、一歩引く。

「殿。確かに平八郎が側に居れば、自分の護衛は必要ないですぞ」



 後年、松平元康の評判は上がる一方であったが、『本多忠勝は、家康には勿体ない』という評判だけは、全く変わらなかった。

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