一話 三河戦線異状なし むっつり半蔵、只今参上!
昔々、ある所に、
母は、実家が父の敵側に回ったので、離縁されて実家に返されてしまいました。未だに会えません。
不幸です。
今川というビッグな戦国大名へ人質に出されましたが、護送担当者が織田というメチャ極悪な戦国大名に売り飛ばしてしまいました。
不幸です。
織田の人質に取られても、父が陣営を変えなかったので、人質としての価値が無くなりました。
ピンチです。
織田の御曹司が、『今川の人質になった腹違いの兄と交換しよう』とアイディアを出してくれたので、当初の予定通りに今川に行く事になりました。
プラスマイナスゼロです。
ところがどっこい。
今川の人質になった途端、父が暗殺されてしまいました。父の城には今川の家臣が入り、父の家来たちは最前線で使い潰されていきます。
竹千代は、事態を自覚しました。
竹千代は、戦を始めました。
とてもとても、長い戦を、始めました。
一話 三河戦線異状なし
一五五七年(弘治三年)。
三河(現・愛知県)は今宵も戦争です。
「緊張してる? 緊張してる?」
「はい、しています」
適当に応えると、先輩武者は怪訝そうに半蔵の顔を覗き込む。失礼な態度だが、今夜は月明かりが乏しいので、視認し難いのだ。
服部半蔵は、陽気なベテラン武士の怪訝な目線に、問い返す。
「何か、問題でも? 歳は誤魔化していません。申告通り、十六歳です」
「いや、そこは心配していない。むしろ、老けている」
常春は、違和感の正体を正確に把握した。
「初陣だよね?」
「初陣です」
嘘はない口調である。
それでも、常春が見る限り、これ程までに落ち着き払った初陣の若者を見た覚えがない。
それに、
「いや、君、顔が笑っているよ?」
常春の目に映る半蔵の笑顔は、猫が鼠を主人の前に持ってくる時の笑顔だ。余裕を通り越して、不気味。
昼間に見た平凡な顔立ちを覚えているだけに、ギャップが恐ろしい。
半蔵は、別の意味で心配されていた。
「恐らくは、緊張すると笑ってしまう性質なのでしょう」
半蔵はそう自己分析し、常春はなんとなく納得する。
「ま、いいや」
細かい懸念に妥協して、常春は夜襲をする五十名に最後の確認をする。
「目的の第一は、門を開ける事。失敗したら、最低でも火事を起こしてくれ。撤退し易くなる」
これから米津常春率いる三河衆が夜襲をかける上ノ郷(かみのごう)城は、三方を山に囲まれ、南に三河湾が広がる三河で一番『美味しい』城である。
三河を支配する今川家の家来の中でも、主家と親戚付き合いの深い鵜殿家が代々領主を務め、観光と温泉と海産物と交易の利益を美味しくいただいている。
あまりに美味しい地域なので、西隣の織田が度々侵攻し、遂に占領してしまった。
今川家から上ノ郷城の奪還命令が下り、今川家に付いている三河衆が矢面に立たされた。
まあ、三河衆が最前線に置かれるのは、いつもの事だが。
「では、行きます」
服部半蔵が配下五十名を、身振りで仕切って先を急ぐ。
不審げな顔をしたままの常春に、最後尾の兵がフォローを入れる。
「ご心配なく。半蔵様は、忍者としては既に歴戦の方です」
その兵の声が少女だったので、常春は別の心配事を抱えてしまった。
「突っ込み処が多いなあ、伊賀組は…」
とはいえ、夜道でもサクサクと城の真横へ進んで行く連中である。忍者を雇う金銭的余裕がない今の三河衆にとって、忍者から転職した服部の隊は貴重である。
「まあ、それだと、逆に安心…出来るか?!」
五十名の中に、下半身に縞模様の褌一丁で走っている女兵士を見て、常春は頭を抱えた。
槍と縄を器用に迅速に使い、堀を越え、塀を越え、服部隊五十名が上ノ郷城へと入るのを見届けてから、常春は本隊を動かす。
数の上では、敵味方同じ千名。
織田方は傭兵中心なので、不利になると積極的に逃げ出すパターンが多い。
城門が破られた段階で、かなり高い確率で、全軍逃げ出す。
死地に入っても、三河衆みたいに無理して戦わない。
(まあ、こっちは防衛戦だから、逃げる場所なんてないけどね)
腹の中でニヒルに笑いながら、常春は城門近くまで進軍する。
ここまで接近しても、城からは矢の一つも飛んで来ない。
夜襲をかけた服部隊は、物見櫓の無効化にも成功している。
(いい腕しているなあ、服部隊)
城内からは、断末魔の悲鳴が立て続けに起きている。
どうやら服部隊は、城内で相当派手に立ち回っている。
「こら、急がねば」
どれだけ果敢に立ち回っても、五十名だけでは限界も早い。
常春の心配より早く、城門が開いた。
「よし! …いや、まずい」
一瞬だけ喜び勇んだ常春の視界が、城門で群れを成す織田軍で塞がる。
城門から織田の兵達が、血相を変えて逃げ出している。
敗走、というか、暴走に近い。
味方であろうと押し除けながら、無闇に夜闇に駆けていく。
常春は部隊に槍衾を作らせて暴走に巻き込まれるのを避けようとし、織田軍は素直に槍衾のない方向へ逃走していく。
「何て逃げ慣れた奴等なんだ」
織田の兵は、変なスキルが高く成長しつつある。
武具も付けずに逃げる兵も少なくないので、三河衆は戦利品への期待に頬が緩む。今川に命じられての戦は自己負担なので、基本赤字なのだ。
「思った以上に、逃げ腰で助かった」
「いいや、足りない」
同年輩の武将・内藤
「逃げた兵の数は、九百人に足りない。城内に、百名は残っている」
「ありがとうね」
常春は、城内に進軍する。
織田軍は鉄砲の装備が多くなりつつあるが、内藤正成の弓が側にいれば、問題ない。
「半蔵! 無事か!?」
城内には、断末魔を発し終えた織田兵の骸が、流血山河を形成していた。
血の河がまだ止まらない状態で、服部半蔵が一人の武者と槍を合わせている。
織田の兵で戦っているのは、その一名だけ。
全身返り血で真っ赤の半蔵は、肩で息をしながらも、顔が笑っている。槍で戦って短時間で此処まで返り血を浴びた武者を、常春は知らない。
こんなのに夜襲をかけられたら、そら逃げる。
「鬼だ」
常春は、思わず呟いてしまう。
服部隊の他の者達は、半蔵が名のある武将と一騎討ちする様を見物している。
下半身褌一丁の女兵士も無事だったので、常春は安堵というより呆れる。
取り込み中の半蔵に代わり、先刻も常春に声をかけた少女兵士が、状況を報告する。
「城内に残る織田の兵は、あの一名のみです。高木鷹の羽を重ねた家紋を身に付けておりますので、高木清秀と思われます」
「当たりだ。何度か戦場で顔を合わせた」
常春は、複雑な顔で『織田方に付いた三河侍』の防戦を見守る。
高木清秀。
織田に与した三河衆の中では、最も槍働きの多い勇将である。
逃げ足の速い織田勢の殿を守り、手傷を負いながらも生き延びて三河に再侵攻(再征服?)するタフな戦いぶりは、なかなか憎めない。
敵味方から一目置かれる高木清秀を、服部半蔵が一方的に追い詰めている。
半蔵の怪力で豪風と化した槍が、高木清秀を何度も地面に叩きつける。
並の武者ならそこでお終いだが、高木清秀は受け身を取り、止めの突きを致命傷にならないように凌ぐ。
討ち取られるのは時間の問題のように見えるが、常春は待ったをかける。
「やめろ。三河侍同士の戦いだぞ。引き分けでいいだろ」
半蔵が不満げな顔をしたので、常春は肩をど突く。
半蔵は、たったそれだけの接触で、片膝を付いた。
戦闘に酔って自覚し切れなかった疲労を、常春は見抜いていた。
「限界を超えて戦ってしまうと、そうなる。どんな強者も疲労に屈して、あっさり首を取られる。戦果を欲張るな」
半蔵は得心し、闘気を納める。
水入りで助けられた高木清秀は、頭を少し下げてから逃げにかかる。ほぼ満身創痍に見える男が、全力疾走。なんで死なないのか、筆者も知らない。
「丈夫な奴…」
羨ましがる常春を置いて、内藤正成は物見櫓に登って己の目で周囲を警戒する。
城の周囲を見渡せる高さで三度見回してから、内藤正成は断言する。
「敵兵が附近で再集結する様子はない」
「よ〜し。城内を改めるか」
部屋の隅や蔵に避難している非戦闘員に手出しをしないように念を押し、負傷者の有無も確認。
上ノ郷城奪還を果たした常春は、祐筆(記録係)を伴って戦果の確認に移行する。
というか、今回は服部隊しか槍働きをしていない。
「おう、半蔵。戦果の確認をさせてくれ」
声を掛けながら、常春は違和感を覚える。
武装を解いて傷の手当てをしていた服部隊の面々に、さっきの下半身褌一丁の女兵士がいない。
「褌女は? 実は重傷でも負っていたか?」
半蔵が手足に負った戦傷を手当てしている少女兵士・月乃が、今度もハキハキと応える。
「更紗ですね。無事です」
月乃の視線の先に、器量はいいが無表情・無愛想・無頓着な女が、手裏剣の血油を拭いている。
戦闘が終わったからなのか、下半身に袴を着ている。
「女を褌だけで覚えようとするのは、どうかしている」
自分が目撃者に与えたインパクトを脇に置いて、更紗は常春を非難する。
「すみません」
常春は素直に謝って、本題に戻る。
「今夜の服部隊の戦果は、夜襲の成功に導いた事と、一番槍と、高木清秀の撃退。これで間違いないね? 他に申告したい手柄は有るかな?」
服部半蔵は、不思議そうに首を傾げる。
「百人斬りって、夜襲の時だと評価されないのですか? そういう習わしですか?」
「…え?」
「我が家は父の代から武家に転職したので、武家の常識には疎いかもしれないなって、常々心配で」
「いや、そうじゃなくて…」
常春は、片付けられつつある織田兵の屍体に目を凝らす。
外傷は、槍の傷ばかり。
城内の服部隊で槍を得物にしているのは、半蔵だけ。
「半蔵様以外は、物見櫓や門番へ掛かっておりましたので、一階の屍体は間違いなく半蔵様の手柄です」
月乃が、すかさずフォローする。
「問題ないよう。ちょっと驚いただけ」
常春は、固まった祐筆を小突く。
呆然としていた祐筆が、記録を再開する。
常春の脳裏には、『初陣で百人斬りとか、化け物か』『味方で良かった』とか『看護の手付きから見て、この娘と三回はヤっているな』という感想を押し退けて、一つの思考が台頭する。
『俺の手には負えないから、殿に任せるべきだ』
三河の盟主(仮)松平
行き先は三河の主城・岡崎城ではなく、隣国今川の主城・駿府城になる。
三河の御曹司・松平元康は、駿府城城内の城代屋敷で、人質として飼われている。
「我慢しろよ、半蔵」
半蔵の父・服部保長は、送り出す際に昨晩と同じ台詞を繰り返した。
忍者から転職しても、元同業者から駿府城の様子はかなり耳に入る。
「殿に対する今川の軽んじ方は、箍が外れておるぞ」
給金の低い忍者稼業から武士に転職し、戦功の立て易い激戦区・三河に引っ越したのはいいものの、仕えた松平家は当主が暗殺されてしまい、御曹司は今川に人質に取られたまま。今の三河衆は、今川家に都合よく扱き使われている。
特に戦の手柄は相当に横取りされている。
「先日世話になった米津常春殿は、織田の指揮官を捕虜にしたのに、軍を率いていた今川家軍師の功績にされた事もある」
道中で半蔵は、父から聞かされた話を、連れの月乃に流す。
「殿は今川の侍から、『三河の宿なし』と呼ばれているそうだ。時には面と向かって」
雅と聞いていた今川家のイジメに、月乃は開いた口が塞がらなかった。
「という訳で、殿への無礼に耐えられずに、相手を殴りそうになったら、止めてくれ」
月乃は、怪訝な顔で苦笑する。
「未だ会った事のない人に、そこまで忠義心を?」
「会えば、気が合うかもしれん。同い年だし」
半蔵が未だ見ぬ主君に結構期待しているのを見て、月乃は微笑む。
松平元康に会った事がある三河衆の情報では、「かっこいい」「聡明」「智慧者」「読書家」「超優しい」「義理堅い」「律儀」「マジ、パねえ」「抱かれたい」「あげてもいい」と、大好評大絶賛である。
今は今川家に酷使されているが、彼さえ三河の地に戻れば、独立国として他国に舐めた真似をさせない真っ当な国になると、信奉している。
何だか、既に救世主扱いである。
そういう空気の中で育ったので、合理的思考を鍛えられた伊賀流の半蔵でも、憧憬抜きには望めない。
「確かに、三河での人気は凄いですね。まるで仏様扱い」
一年前に伊賀の里での修行を終えてから三河の服部家に就職した月乃には、今の三河に漂う『松平元康信奉』がない。空気を読んで言わないが、ちょっと引いている。
半蔵は月乃の反応に、襟を正す。
「いや、戦国時代だからね、そこいら辺は、冷静に、冷徹に判断するよ。自分の主として相応しいかどうか」
ハードボイルドな雰囲気に戻ろうとする半蔵を、月乃は面白がって見守る。
半蔵と月乃は、誰にも尋ねずに駿府城の勝手口まで到達する。駿府城下の地図は、二人とも把握済みである。露店で焼き菓子を買い食いする以外の寄り道はせずに、サクサクと進んで来た。
門前で入城手続きを待っている間に、月乃がオフの相談を仕掛ける。
「帰りはゆっくり観光しましょうね」
今の服装は武家の下女コスプレだが、現地に溶け込む為のお洒落な町娘衣装も持参している。
年頃の可愛い少女にデートに誘われて、半蔵だって嬉しい事は嬉しい。が、
「前向きに検討する」
主との面談次第で、いきなり多忙になる可能性もある。確約は出来ない。
「半蔵様」
月乃は、器用に半蔵の顔を斜め上方に睨みつける。
「雇用条件を忘れないで下さいね」
「月乃」
「はい」
「そういう時の顔が、エロい」
月乃は、半蔵の背中をバシバシ叩く。
周囲には、痴話喧嘩をしている若武者と下女にしか見えなかった。
手続きが済むと、案内役付きで中に通される。
門番にも案内役にも、三河侍への侮りは見られない。
「噂とは、対応が違うな」
むしろ、親切で丁寧。
月乃は、半蔵の油断に釘を刺す。
「鬼の評判を取るような武将に、面と向かって失礼を働く度胸がないだけです」
言われて半蔵は、地獄耳を集中させてみる。
特に好き好んで三河の悪口が吹聴する会話はない。
というか、全く話題に上らない。
(意識し過ぎた。今の主は、ここでは客将に過ぎない)
半蔵は、主の立ち位置を客観的に見直して、『松平元康信奉』から距離を置こうと改めて努める。崇めるだけなら、バカでも出来る。
服部半蔵が主人に捧げたいのは、もっと別のモノだ。
案内された城代屋敷の縁側で、貴公子が鷹匠の少年と碁を打っている。
半蔵と月乃は、顔を伏せて膝を付いて控える。
「松平殿。服部半蔵殿が来ました」
案内役の声に、貴公子が顔を上げる。
「よく参った。二人とも、顔を上げよ」
半蔵と月乃は、反応しない。
「顔を、上げよ」
貴公子風の青年が三文芝居を続けるので、半蔵は言葉を返す。
「松平元康様からの、お許しが出ておりません」
「ほら、通用しない」
貴公子コスプレの青年が、鷹匠コスプレの少年を指差して笑う。
「企画も筋書きも、お主だろうに」
鷹匠の衣装を脱ぎながら、松平元康は苦笑する。
元康は顔を上げさせてから、半蔵に尋ねる。
「初対面なのに、一目で気付いた訳を申してみよ」
「殿の服を着た本多弥八郎殿は、殿よりも五歳年長です。爪にも、噛んだ跡が有りません。対して、鷹匠姿の少年には、爪を噛んだ跡が有りました」
松平元康と本多
「弥八郎とも、初対面のはずだが?」
「殿と互角に碁を打てる近習は、一人しか知りませぬ」
服部半蔵とは、一瞥で其処まで見抜ける少年だ。
静かに、徐々に、朗々と、元康と弥八郎は笑い出す。
「百人斬りが、霞むな」
「これなら、話が早く済みます」
「武辺者は余っているから、有り難い」
「ようやく、殿以外の三河侍とマトモに話せる」
阿吽の呼吸で紡がれる二人の会話の内容から、半蔵は『感状と褒美を与える』だけでは済まないと踏む。
(それにしても、仲が良いな、この二人)
半蔵が主と友を値踏みしていると、主の方から半蔵への査定が伝えられる。
「半蔵。以後は、時間と場所を選ばずに、俺に仕えてくれ。手足や耳目同然に、お主を使いたい」
いきなり側近に抜擢である。
「御意」
望んでいた査定結果に、半蔵の顔が緩む。
(俺の使い方を心得ている人に出会えた、かも)
半蔵はかなり満足したが、月乃は戦慄を覚えた。
半蔵が並みの武将の器でない事は、共に仕事をすれば誰でも気付く。
伊賀の里から出稼ぎに来た者達は、一年で半蔵を『将来最も出世する伊賀出身者』と見込んだ。
だが、三河の若殿は、瞬時に月乃よりも高い評価を半蔵に付けた。
尋常の人物鑑定眼ではない。
(ここまで高いと、逆に怖い)
小姑精神とは別の危機感から、月乃は元康に心酔しないよう、留意する。
松平元康の小姓たちが、場を整える。
畳の上で相対すると、服部半蔵へ松平元康から手渡しで感状が贈られる。戦功の公式認定書としての役割が有るので、武家にとっては重要な家宝となる。
続いて、武具の譲渡。
頂いた武具は、換金するも良し、戦場で使うのも良し、床の間に飾ったり、蔵に仕舞って置くのも良し。
自由度が高いようだが、品によって送る側が何を期待しているのか、頂く側に一目瞭然の場合が多い。
松平元康は、自分の槍を服部半蔵に手渡す。
「初陣は未だなので、新品だ」
受け取りながら半蔵は、小姓たちの残念そうな顔色から、不憫な可能性を導く。
(槍は、これ一本しか、お持ちでないのでは?)
今の元康には、収入源が全くない。
今川の人質兼客将として、最低限の食い扶持を貰っているだけである。
親戚からのお情けで、何とか武士として恥ずかしくない装備は揃えているが、数は最低限。
ならば服部半蔵の答えは、決まっている。
「殿の初陣の折には、この服部半蔵が、この槍で一番槍を務めます」
室内の皆と廊下で聞き耳を立てていた今川侍たち全てが、激しいリアクションを起こす。
ハードルを上げすぎた半蔵に、元康が助け舟を一応出す。
「参戦だけで有り難いよ。たとえ一番槍が出来なくても、責めない。楽にしようよ」
半蔵は、気遣いに一礼しつつも、笑って言い返す。
「疑われるのは此方の不徳ですな。では、一番槍が出来ない時は、駿府城の門前で、裸踊りをしてみせます。この月乃と一緒に」
月乃が、半蔵をマジ睨みする。
半蔵は、皆と一緒に笑っている。
殴った方がいいかなと、月乃は思案する。
皆の笑いが引く頃合で、元康は半蔵に本題を持ち出す。
「半蔵。頼みが有る」
松平元康の初陣は、翌年二月五日に行われた。
織田に内通していた賀茂郡寺部城城主・鈴木重辰の成敗ミッションが、元康の初陣として選ばれた。
今川家家臣の粛清を三河衆にやらせるのは、内部に遺恨を抱え込まない為と同時に、元康の将器を見定める事にある。初陣でも、大将扱い。
今川義元にとっては、頼りにしていた軍師・雪斎の直弟子として何処まで使える武将に育ったのかを知る事が出来る。
「という訳で、観戦に来ました。軍監ではありません。口は挟まないので、楽にして下さい」
元康の初陣の為に集まった三河衆は、大将である元康の隣に座った陣中の『異物』からの挨拶を、苦々しくも甘受する。
陣中に今川の家臣がいると、手柄を横取りされるのではと警戒するのが三河衆の常なのだが、この武将に限っては、畏怖の方が先に立つ。
朝比奈
重厚な立ち振る舞いに武将としての貫禄が漲っており、齢二十歳を過ぎたばかりと聞いても、信じる人は稀。
現時点での今川家最強の武人である。
名門・今川家は、義元の時代に戦国大名として大成し、朝比奈泰朝の登場で最盛期を迎える。
東海道では、誰もこの武将に勝てなかった。
横に座られた松平元康は、爪を噛みたい衝動を抑えつける。
「手柄を立てる機会を与えていただき、感謝します」
元康は、平常心のみを表に出してみせる。
親戚と三河衆の耳目が集まる陣中で、隙は見せない。
少しでも他の大将格に劣る所業を見せれば、主君の忘れ形見というアドバンテージは、色褪せてしまう。
元康にとって、それは人生の失敗に等しい。
「楽しみですよ。雪舟様の軍略が如何に引き継がれたのか、目の当たりに出来る。兵数一千名同士の対決ですから、条件は五分。負けられませんな」
この若武者は、プレッシャーをかけている訳ではない。
根が素直で、腹芸は不得手。
本当に、松平元康の初陣に期待して目を輝かせている。
(松平元康が、今川義元にとってどれだけ役に立つ人物に成るかについて、期待している)
元康は、相手の望みを正確に読み取る。
彼の滞陣は、今日の元康の戦には、何の支障もない。
「朝比奈殿には、満足していただけますよ」
元康は、余裕を見せる。
お互い朗らかに終わらそうと気遣いし合う大将同士に感化され、陣中は和やかな雰囲気に包まれながら、戦に傾れ込む。
陣中の向かい側、寺部城城下の入り口柵付近に布陣した鈴木重辰の軍勢から、鏑矢が発せられる。
矢合わせが始まり、激しい矢の応酬が続く。
陣中の朝比奈は、呑気に持参した水筒から水分補給しながらコメントする。
「強気ですね。まだ籠城をしないとは。自前の兵数は二百名もないのに」
朝比奈は、鈴木重辰の軍勢に尾張の傭兵が多いのを見て取り、織田の手が長い事を知る。
「一戦してから、鈴木の軍勢だけ籠城する気です。傭兵たちは四方に散って、此方に横槍を入れる機会を窺う。初戦では粘らずに引くでしょう」
松平元康が、戦の展望を明かす。
朝比奈は、頼もしそうに懐かしそうに、元康を暖かく見守る。明らかに、雪斎と重ねている。
三河衆は、初陣でも稀代の軍師の如く戦況を読み切る元康に惚れ直す。
元康の方は、ストレス任せに爪を噛まないようにする事に全力を傾けている。
その最中に、服部半蔵が進撃を開始した。
公約通り、一番槍を果たす気である。
「ほお…」
朝比奈泰朝が、東海道最強武将の顔付きに戻って、服部半蔵の突進に見入る。
矢の雨に対して槍を高速回転させて防ぎながら、服部半蔵は敵陣地に一直線に駆ける。
半蔵に狙いを合わせようとする射手には、後方の服部隊が弓と鉄砲で狙撃して援護。
更紗(現在は下半身褌一丁)が流れ矢を忍者刀二刀流で払って、自軍射手の安全を確保する。
「陽花。斜め右、緋色の鉢巻を巻いた射手」
月乃の指示に従い、隊で唯一鉄砲を持つ
「心臓を狙ったのに〜」
ぶつくさと零しながら、陽花は次弾の弾込めをする。
顔に火薬や火花の跡が付かないように能面を装着したままなので、なかなかシュールな絵面である。
「夏美。半蔵様の正面、盾の影で鉄砲の弾込めをしている兵を」
身の丈六尺(約一八〇センチ)の女偉丈夫が、最寄りの木に二蹴り飛び上がって高さを取ると、特注の強弓を引き絞る。
強勢の矢は盾を割ったが、標的は無傷で横の盾に移動しようとする。
淵沢夏美が二射目を放つより早く、隣の木に登っていた名射手・内藤正成の放った矢が、標的の頭を射ち抜く。
獲物を取られた夏美が、物凄い目付きで睨む。内藤正成は、相手にせずに戦況を見詰める。
月乃が頭を下げて礼をする。
半蔵が死なずに敵陣への一番槍に成功し、暴れまくる。矢の勢いが大きく乱れ、血煙が舞い上がる。
その隙を逃さず、松平元康が突撃の命を下す。
「いいね」
朝比奈泰朝は、愉快そうに体を揺する。
歴戦の三河衆との激突に、一方的に鈴木重辰の軍勢が突き崩される。
傭兵たちが散り散りに逃げ、鈴木軍本隊が城へと撤退を始める。三河衆は追わずに、計画的に素早く城下町を焼き払う。
寺部城が丸裸に成った処で、元康は騎乗して全軍を移動させる。
「何処へ?」
朝比奈も騎乗しつつ、元康に尋ねる。
「先に、四方に散った傭兵たちを刈ります。彼らが再集結しそうな場所は、既に忍びの者が目星を付けております。伏兵が全滅すれば、寺部城は降伏するでしょう」
断定的な元康の物言いに、朝比奈は深く尋ねる。
「城攻めをせずに、済ませると?」
「雪斎和尚から最も口煩く言われたのは、戦を可能な限りしないで済ませる事です」
軍略に関しては、それしか教わっていないとは、告げない。雪斎は多忙で、マンツーマンの徹底的教育指導は受けていないとか、わざわざ明かさない。
この時点での元康の財産は、祖父の代から忠臣たちの寄せる希望と、太原雪斎の弟子であるというブランドのみ。
(軍略が独学だけだと勘付かれない内に、実績を積む)
松平元康の初陣は、百人斬りや一番槍よりもリスクの高い目標設定が為されている。
名将で在る事。
松平元康は、戦国時代を生き抜く為に、そう決めた。
十六歳の人質少年は、尋常を遥かに超える目的を己に課している。
朝比奈は納得して、上機嫌で元康の真後ろに馬を付ける。
その後の展開は、元康の読み通り、一方的に終わる。
寺部城附近の広瀬・拳母・梅坪・伊保にゲリラ戦の拠点を築いていた織田の傭兵たちは、四ヶ所合わせても一刻(二時間)と保たずに狩られた。
「良い仕事するなあ」
今回も参戦した米津常春は、拠点の位置を四ヶ所全て隈無く把握していた服部隊の働きを、賞賛して有り難がる。
半蔵本人を褒めてやりたいので見回すが、見当たらない。見当たらないので、目の利く内藤正成に頼る。
「内藤ぉ〜。半蔵を褒めてやりたいんだけど、どこ?」
「寺部城に張り付いたままだ」
「…初めから?」
「初めから」
「何で? 何で? 俺たち、走りっ放しで連戦しまくったのに…ああ、あいつ一番槍したもんね。分かった、俺が短慮でした。休んでいていいよね、半蔵だけ」
近くで会話を聞き及んだおっさんが、常春を蹴り飛ばして説教を始める。
「ばかやろ〜〜〜〜!!!!!」
大久保
標的の常春だけは、踏まれて逃げられない。
「半蔵はなあ、一番槍で負った傷も塞がっちゃいねえのに、敵の城に張り付いてんだ! 敵が籠城を止めて、俺たちの背後を狙うようなら、報せる為にだよ!」
服部半蔵は一番槍を果たしても軽傷しか負っていませんとは、大久保忠世が煩いので誰も突っ込まなかった。
「分かれよ! 最初から最後まで、一番危険な役目を果たしてんだよ! 一刻走り回って雑魚を狩るぐれえで、疲れた自慢してんじゃねえぞ、ガキぃ〜〜?!?!」
フルマラソンをやりながら拠点攻撃四連続したから疲れるに決まっているとは、カウンターが怖くて誰も反論しなかった。
常春が反論して更に炎上するか平謝りして済ませるか迷っていると、元康が馬を寄せて助け舟を出す。
「これから寺部城に返すが、普通に歩いて構わん。日に五度も戦わせてしまって、すまない。初陣なので、やり過ぎてしまった」
三河衆が、老いも若きも煩いのも、膝を付き、槍を置いて頭を垂れる。
この初陣で、松平元康は本当に三河衆の忠誠を勝ち得た。縁故でも同情でも義理でもなく、松平元康の将器への忠誠を。
「いい部隊ですねえ。うちに欲しいくらいです」
朝比奈泰朝が、傍から三河衆を褒め称える。
含みは全くないのだが、三河衆には照れや昂揚よりも、怖気が走る。
朝比奈泰朝は観戦の立場に徹してはいるが、何度か暇を持て余して、ぶらりと織田の傭兵を斬り伏せていた。平装に太刀一本の装備で、鎧ごと槍ごと盾ごと刀ごと、敵兵を骨まで断ち伏せた。
まるで、まな板の上の魚を切るように。
スタイリッシュな元康の初陣を目の当たりにして、血が滾ったのとは違う。
朝比奈泰朝は、この戦場に、退屈している。
元康と三河衆を見下している訳ではない。
戦国武将としてのレベルが、高過ぎる故の、鬱憤。
「…あいつと戦いたくなくて、武田と北条が今川と不戦条約を結んだって噂、信じるか?」
「それ以外の理由がない」
無理に冗談を言う常春に、内藤は真顔で返す。
三河衆の畏怖は、正しい。
後年、松平元康が徳川家康と改名した頃。徳川四天王・十六神将と記録される強者たちが、朝比奈泰朝の籠城する掛川城を攻めあぐね、五ヶ月に及ぶ死闘を強いられる事になる。
寺部城に元康の三河衆が戻ると、正門付近で焼き芋を焼きながら見張っていた服部隊が合流する。
半蔵は元康に、鈴木重辰から寄越された書状を手渡す。
元康は、内容を一読してから、朝比奈泰朝にパスする。
「鈴木重辰は自害するので、一族は見逃してとの事です」
朝比奈泰朝は、書状を確認しながら冷徹に舌打ちする。
「裏切った一族を遇する今川ではありません。全員撫で斬りにして構いません」
元康の無言の拒否に、朝比奈は言葉を重ねる。
「普通は、当主の謀反を知れば離れます。遅くとも、討伐軍を差し向けられた段階で、離れます。今この時、あの城の中にいるのは、織田に与する事を承知した者だけです。
殺していいのですよ」
元康は、穏やかに塾考する様を見せる。
「事は重大につき、この件は義元様に預けます」
戦う気を、一切見せない。
督戦しようと言葉を重ねようとする朝比奈の目に、三河衆の疲労が目につく。
ここまで疲労した軍団に、城攻めを強いる事は出来ない。
「こうなる展開まで予想して戦っていらしたのなら、元康殿は相当な狸ですね」
「いえいえ、詰めが甘かったので、朝比奈殿を失望させてしまった。恥じ入るばかりです。すみませんね、初陣なもので」
朝比奈が、真っ向から元康を見据える。
「まるで他人事ですね。謀反人の成敗なのに」
元康が、真っ向から言い返す。
「他人事ですよ。私は、三河の次期国主です。今川の一武将の尺度で、私に意見しないで下さい」
朝比奈泰朝から、台風にも匹敵する殺意が吹き荒れる。
周囲の三河衆が武器に手をかけ、大久保忠世や鳥居元忠が元康の前に出る。何人かは、小便を漏らした。
服部半蔵が、朝比奈泰朝の真後ろに立つ。
朝比奈泰朝から、逆巻く殺意が、止まる。
お互い、動かない。
朝比奈泰朝は態度を改め、深呼吸をしてから、元康に頭を下げる。
「確かに、これは某の出過ぎでした。勝ち戦、おめでとうございます。末長い武運長久をお祈りしましょう」
朝比奈は、書状を持って去った。
朝比奈の姿が見えなくなった頃合で、元康が声を上げる。
「勝ち鬨を上げるぞ」
年配者は男泣きしながら、若者は哄笑しながら、勝ち鬨を放つ。
軍を引き上げる途中で、米津常春は服部隊に顔を出す。
気の済むまで褒め称えた後で、常春は前回の戦から気にかかっている件を尋ねる。
「服部隊は、どうして美人が多いの?」
半蔵の背後を歩く月乃が、赤面する。
その話題の行き着く先に、見当が付く。
半蔵は、馬鹿正直に美人が多い訳を明かす。
「自分は、伊賀の里の者から、将来必ず出世する人間だと見込まれています」
「うんうん、確かに」
「そして独身です」
「げにも、げにも」
「自分の子種を貰う契約で、伊賀の女忍者が四人、自分に仕えています」
常春の顔が、思考ごと停止する。
「自分は多忙なので、一人につき月一の種付けで勘弁してもらっています」
半蔵の真横に並んだ無表情な更紗が、わざと褌を締め直して見せる。
「次の晩は、更紗の番だ」
常春の脳が、ようやく話を理解する。
「四人とも?! 全員!?」
常春の顔に、大きな文字で『羨ましい』という文字が浮かぶ。
「お前なんか、もう二度と助けてあげないもんね! ばーか、ばーか!」
常春は号泣しながら、ダッシュで服部隊から離れていった。
「騒がしい人だなあ」
半蔵は、苦笑しながら、今日の戦の行方を思案する。
元康との初対面で言い渡された頼み事は、常に半蔵に思案を要求する。
『敵方にいる三河衆は、可能な限り殺さぬように配慮してくれ』
今の三河衆にとっては、度々侵攻してくる織田と戦う事が問題なのではない。ぶっちゃけ、織田は弱いし。
敵方に付いた三河衆に、如何にして損害を与えないように戦を済ませるかが、問題なのだ。
政治の都合で二手に分かれつつあるが、元は松平家に仕える同胞である。
元康の皮算用では、将来の家臣達である。
『それ以外の敵に回った兵は、可能な限り減らすように』
半蔵は、言外の含みを受け取った。
彼の主君は、ずっと前から戦を始めていた。
三河の植民地化を、甘んじて受け入れるような器ではない。
月乃は、半蔵が鬼のような顔で笑っているので、あの日の元康との会話を思い出しているのだと察する。
「お気に入りなのですね、元康様を」
「ああ、気に入った。元康様は、いいぞ」
月乃は、もうその件を持ち出さなくなった。
駿府城に戻った朝比奈泰朝は、今川
そのまんま、伝える。
最近、中年太りが目立ってきた今川家の当主は、書きかけの法度改正案下書きを仕舞いながら、嘆息する。
「服部半蔵と女忍者の裸踊りが見られないとは、残念だ」
「第一声が、それですか!?」
普段は『今川家ナンバーワン武将』の看板を背負っている朝比奈くんも、心を許した上司の前では多感な若造に戻る。
「裸踊りは品が無いので、女人の方は服を着たまま踊るように、配慮させるつもりだったよ。この私が、駿府で破廉恥な真似を許す訳がないではなイカ」
「そっちじゃなくて、松平元康の態度ですよ!」
朝比奈くんは、三河衆の前では我慢して抑えていた鬱憤を、まとめて吐き出す。
「今川に保護してもらって、今川に育ててもらって、美人の姫様まで世話してもらったくせに、どうして被害者面して独立宣言っぽい事かましてくれたのですか、あの宿なし小僧は?! 信じられない! ど田舎のマイナー武将の小倅が! 今川に巣食った寄生虫が!!!!」
同じ城内でも、元康の寄宿している所までは大声でも届かない。城内の従業員たちに伝言ゲームされて届く可能性は大きいが。
「独立心を抱くのは、罪かね?」
義元は、荒ぶる腹心に問うてみる。
上司の穏やかさに、朝比奈くんはテンションを下げて丁寧に答える。
「罪とは言いませんが、元康の場合は恩知らずです。そこまでして、三河の国主の座が欲しいのでしょうか?」
「うん。国主になりたくなったら、恩知らずに成るよ。父や兄でも殺すよ。私がそうしたから、間違いない」
義元は、平常値の声音で言ってのけた。
洒落になっていないので、朝比奈くんが固まる。
リアクションに困る忠臣くんを放置して、今川義元は三河政策を次の段階に移す。
「さて、戦国大名の先輩として、格の違いを見せつけるとしよう。竹千代くん(元康の幼名)は賢いから、隙を見せなければ私に挑んだりしないよ」
今川義元にとっては、掌中で対応可能な出来事である。
初陣を勝利で飾った松平元康は、今川義元から三百貫文(年収二千四百万円)相当の旧領を返却された。小物を討っただけにしては、かなり多めの褒賞と言える。
これで宿なしという誹謗中傷や、親戚のお情けで凌ぐ貧乏暮らしとも、お別れである。
住居は駿府城に限定されたままだが。
少々の満足感は、続いて発表された今川義元の隠居宣言で消し飛ばされる。
この時、義元は三十九歳。
年齢が理由では、絶対にない。
「駿府での行政は、全て嫡男の氏真に仕切らせています。今の駿府・遠江では、大きな問題が起きないからでしょう」
本多正信が、縁側で碁を打ちながら元康に今川義元の動向を伝える。
聞いている元康は、碁を打つより爪を囓る時間の方が多い。
「義元本人は、三河に移って商業の保護、流通の統制、行政の整理に邁進しています。三河を領する国主としての仕事を、誰の目にも明らかな形で施しています」
碁の盤に、元康の爪先から滴る血が垂れる。
顔が、敗北感に捩じ切れそうに歪んでいる。
「義元自身の手腕で三河支配を盤石にする気です。三年もすれば、三河の民草は今川義元に心服する事になるでしょう」
松平元康は、力任せに碁盤を拳で叩き割る。
荒れるのも暴れるのも、この件ではそれが最後だった。
「半蔵」
少し離れた場所に控えていた服部半蔵は、元康の下知を待ち受ける。
「織田の出方を、探ってくれ。義元様が三河に引っ越した以上、首を狙う可能性が高い」
既に対策を練り上げた元康は、平静に戻って『今川家に聞かれても全く困らない内容』の言葉を述べる。
「織田信長とは、そういう人だ」
半蔵は、例の笑顔を浮かべるのを我慢しながら、承った。
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