⑤呉沼葦枝→舞園梓パート「い、行くってどこにですか?」
◇キャスト◆
ワン
―――――――――――――――――――
三回表が終わり、ベンチへ帰った筑海高校ナイン。
経験者の
その中でも、先発投手の
「三回で三失点……。気合いが足りないんじゃないのか?」
「はい、監督さん……」
目前から飛び襲う歌鋭子の尖った眼差しを避けるよう俯き、葦枝はか細い返事を鳴らした。練習試合とはいえ、先発投手にのしかかる圧力で呼吸がしづらい。
『ぅちが、みんなの足を引っ張ってる……』
罪悪感までもが、葦枝の心を圧迫していた。二回表では
『恐い……』
「呉沼……まずは顔を上げろ。人の話を聞く態度じゃないだろ?」
「は、はい! すみません……」
咄嗟に面を上げると、やはり監督の鋭い睨みが視界を埋める。全身に電気が走り、冷や汗が頬を通り過ぎ、瞳の奥からも流れ出そうだった。
「呉沼。お前は決して、弱い選手じゃない。だからワタシは、お前を先発で起用したんだ」
「あ、ありがとうございます……」
評価を受けるも、葦枝の表情が明るむことはなかった。むしろ多大な緊迫からの解放を願うのみで、グローブを備えた左手に水分を覚える。
「……」
「強くなれ、とは言わない……。強く
「は……はい!」
無理強いに微動の返事を送ると、歌鋭子の視線が現在攻撃中の打者に渡った。
結局葦枝は晴れないまま遠ざかり、大切なグローブと共にベンチへ着席した。疲れた訳ではないのに、肩をガックリと落として。
「……」
「落ち込まないでね、呉沼さん。ナイスピッチングだから」
「花咲、さん……ありがと」
主将の穏やか声には振り向けたが、穂乃がネクストバッターズサークルに向かった後には、葦枝の顔は再び下がり落ちてしまう。今度は背を丸め、頭を抱えるまでに。
『そんなことないよ、花咲さん……ぅちは、ダメダメだよ……ホントに』
結果こそ求められる勝負の世界では、メンタルの弱い自分など求められていない気がした。穂乃から貰ったせっかくの言葉も、効力を発揮しないまま空気に溶けていく。
『迷惑だよね……こんなピッチャーじゃ……』
空気に酸素が含まれているはずが、窒息しそうなほどに過呼吸が近づく。肩身が狭いどころか、世界からも拒絶された錯覚に陥ってしまう。
『――何やってるんだろ、ぅち……。何も、変われてないじゃん……グズッ』
変化しやすい四月の天から、ついに春雨が膝元に浸る。情けなさと弱さが、不安定な大気を誘う。やがて雨雲を発生させ、注意報も呼び掛けられる事態まで迫っていたが。
――「えいっ!」
瞬時、
「チュギャッ!! ……っ! 嶺里、雪菜……」
驚き立ち上がった葦枝は背後を振り返ると、なぜか片手に板氷を握った捕手の嶺里と、紙コップを握るマネージャーの雪菜が並んでいた。二人とも揃って明るい表情で、特に嶺里は眩しいくらいに笑っている。
「ハハハッ!! 葦枝のリアクションかっわい~い! ねぇもう一回やってもいい?」
「へ……?」
「もぉ
実家が米農家の嶺里を、秀才な眼鏡を光らせる雪菜が呆れた様子で抑止していた。性格が不一致な二人だが、長き付き合いで培った絆で結ばれている仲である。それは中学生時に出会った葦枝も知っている関係で、自然と涙が止まるほど見とれていた。
「二人とも……」
「はい葦枝。ピッチャーなんだから、水分しっかり摂らなきゃダメよ?」
するとまずは雪菜から、スポーツドリンクが入った紙コップを手向けられた。言われるがままに口へ移すと、甘さ控えめな味が喉をゆっくり通っていく。
「……ありがと、雪菜。わざわざ持ってきてくれて」
「マネージャーだから、これぐらい当たり前よ」
「ねぇ、葦枝!」
「嶺里……っ! ち、近い……」
今度は打って代わり、嶺里の高らかに笑顔が目前に迫る。額を直に合わされ、葦枝のサンバイザーの
「大丈夫だよ、葦枝……」
嶺里の静かな吐息が、口元に優しく当たる。そして次の瞬間、葦枝の頭に手のひらを添えられる。
「――葦枝を
「――っ! 嶺里……」
嶺里の一言が、葦枝の内側を確かに包んでいた。おおらかに優しく、少しの傷も癒してくれるように。
「嶺里の言う通りよ、葦枝。まだ試合は、始まったばかりなんだから」
「そうそう! 三点ぐらい、あたしが返して見せるからさ!」
「雪菜、嶺里……ありがと……グズッ」
二人がいてくれたからこそ、自分はこの空の下に向かうことができた。
そして二人がいてくれるからこそ、自分は今ここで光を浴びることができている。
苦い過去を抱く葦枝は目視で確認すると、つい溢れた涙を拭き取る。
『ぅちだって、変わりたいんだ……』
一方で試合は進行し、筑海高校の攻撃が終了――この回も無得点だった。
これから四回表の守備が始まる、筑海高校サイド。展開的には笹浦二高ペースだが、改めて立ち上がった葦枝は一度深呼吸し、不安定だった心を整える。
『もう……嫌だもん……』
理想の結果が出ていないことには、焦りが少なからず宿っている。が、葦枝は恐れながらも、プレートへ駆け向かった。ショートから応援してくれる穂乃にも返事をしながら、投球練習を行う。そして、嶺里と雪菜から頂いた機会を、感謝という二文字で胸中に刻み込んで、四回表に挑む。
『――もう引きこもりは、絶対に嫌だもん!』
オドオドとしながらも、凛々しく構えてみせた投手――呉沼葦枝。懸念が完全に拭いきれたとまではいかないが、僅かな勇気を振り絞って中盤戦に臨んだ。
◇それぞれの想いたち◆
笹二と筑海の練習試合が進む一方で、
『何やってんだろ……
朝ご飯を済ませ、普段から身に付けるジャージにも着替えた今、もちろん眠気など全く無い。しかし、左腕で両目を覆い続けるばかりで、自ら視界に闇を取り入れていた。現実から逃れようと、
『今頃、試合やってるのかな……?』
ソファーすぐ手前のテーブル上には、サンバイザーと共に笹浦二高の試合用ユニフォームが
梓にとっての、トラウマ的な数字が一切見えないように。
『ゴメン、みんな……。それに、先生も……』
元バッテリー仲間の
『誘ってくれたのに、行けなくて……』
練習試合にだって、参加したいとも思った。しかし、ひたすらに恐かったのだ。悲惨な過去が鮮明にフラッシュバックしてしまったが故に、
『――やっぱり
庭のワン太も眉を潜めながら黙り、時計の指針音だけが、孤独少女の空間を染めていくところだったが。
――ピーンポーン……。
一つの音色が奏でられ、梓に起立を促した。
舞園家内にインターホンが響き渡り、梓はゆっくりと通話口を手に取る。
「はい?」
[お、おはようございます! えっと……]
[舞園梓様に荷物が届いてま~す!]
緊張と楽しげな高音を奏でた、二人の女声が耳に届く。どうやら宅急便配達者だとわかるが。
「
不思議と眉間に皺を寄せながら、静かな玄関へと向かった。父母からは何も聞いていなければ、最近何か購入した覚えもない。
一体誰からの荷物なのだろうかと、梓には疑心が増す中、靴を履いて玄関の鍵を開け、扉をゆっくりと押してみると。
「はい? ……ッ!!」
刹那、見開いた梓は息を押し殺し、目前の訪問者へ驚愕を顕にした。
「よぉ~お嬢ちゃん……」
なぜなら、先程のインターホンからの声主とは程遠い男性が待っていたからだ。背が高く筋肉質な体型で工事系作業着を纏い、口元には
『な、なに、この人……』
恐怖で両脚の震えを見せた梓は、無論この場から離れたかった。しかし現在は自宅、且つ両親さえ不在。唯一の頼りとなるワン太も吠えない。
『……か、帰ってもらわなきゃ!』
ならば己が声を挙げなければいけない。怖じ気づきながらも覚悟を固めようと、梓は一度固唾を飲み込む。玄関前の威嚇的な奇怪男性が去るよう、勇気を振り絞って声を鳴らしてみるが。
「――せ、セールスは、御断りしてますので……」
「……」
「あ、あの……煙草、落ちましたよ……?」
「……お前、よくこの見た目でセールスだと思ったな……」
「はぁ……?」
梓の一言は、確かに男の勢いを静めることができた――というよりかは、呆気に取られた様子が否めず、ポトンと煙草を落とすほど開口させていた。改めてよく観察すると、なぜか火は着いていない。更によく見てみると、プラスチック性の白い棒だった。飴でも舐めていたのだろうか。
「……てか、どちら様ですか?」
間違えた覚えがない梓は改めて男に疑問を投げた。すると空気を変えるように咳払いし、顎髭を強調する下目遣いで微笑する。
「お嬢ちゃん、ちょっと来てもらいたいんだ。うちのボスが、是非ともお嬢ちゃんに会いたいんだとよ?」
ドスの効いた低い声の男が親指を道路へ向け、梓の視線を指示した。見えたのは、塀外に停まった白いワンボックスカーで、助手席には確かに人影が映っている。
しかしその現実が、梓の表情を更に強張らせた。
『間違いない、不審者だ……誘拐だ!』
今更ながら気づいた梓は、すぐにドアを閉じようとノブを引くが。
――バシッ!!
「――っ!?」
男の大きな手のひらで止められ、無理矢理にも再開させられてしまう。
「おい、お嬢ちゃん。かわいい顔しといて、やることはなかなか酷いなぁ」
「か、帰ってください!! ……け、警察呼びますよ!!」
「警察かぁ……もう二度と聞きたくねぇ言葉だなぁ」
「はぁ? ……んなッ!!」
すると男が片手で完全に開き、梓は勢いあまって膝をついてしまう。まともに立ち上がれないほどの恐怖に襲われ、ただ不審者を黙り見上げるばかりだった。
「……」
「さてと……おい出番だ!」
すると男の視線が庭の方へ向かう。どうやら他にも手下がいるようだ。梓も震える瞳で焦点を変えると、やはり同じく黒サングラス、加えてマスクを着用した二人組――長い髪型からは女性だとわかるが。
「久しぶり~ワン太! 見ないうちに大きくなったね~」
「くぅ~ん……」
「フフフ、そうかそうか。元気で何よりだよ」
「人懐っこいのね! わたしも触っていいかしら?」
「どうぞどうぞ。良いよね、ワン太?」
「ワン!」
『か、飼い慣らされてるんですけど……』
素早い尻尾振りを見る限り、頭を撫でられるワン太の
「いつまで遊んでんだよ!? 出番だつってんだろうが!!」
しかし男が和ましい空気を引き裂くように叫び、元の恐怖が還り戻る。
「あ、了解で~す」
「へいアニキ! じゃあまたね、ワン太」
「ワン!」
ワン太との別れを告げると女性二人組はすぐに玄関前に辿り着く。恐らくは、インターホンで話した女性二人でもあるだろう。しかし配達物は手に無く、挙げ句の果てには両者に囲まれる。
「んじゃあ、うちは背中にしますね」
「わかったわ。わたしは脚ね」
「はぁ!? ……ッ!! ちょ、ちょっと!!」
梓の両脇下に両脚が、それぞれの女性に押さえられた。このまま身を運ばれてしまうのだろうかと、おぞましい予想が浮かんでしまう。
「さてと、お邪魔しま~す」
「――ッ!! ちょっと!! なに勝手に上がってるんですか!?」
一方の男も動き出し、靴を脱いでリビングへ向かっていく。誰もが認める不法侵入だ。
「……お~あったあった」
法浸入した男は何かを見つけ、手に持って戻ってくる様子が推察できた。金品や父母の大切なものならば困ると、梓は男の姿を確認しようと試みる。
しかし、それどころではなかった。
「な、何するんですか!? 離してください!!」
二人の女性によって、梓の全身が持ち上げられる。空中状態が更なる困惑を煽り、てんやわんやの事態まっしぐらだ。
「止めろ止めろ!! こんなの犯罪だ!! こんなの許される訳がない!!」
自然と出る言葉を必死に叫び、何とか脚をばたつかせる。が、無駄な抵抗に等しかった。このまま誘拐されてしまうのだろうか。
『誰か、助けて……』
どこに連れてかれてしまうのだろうか。実際に起きてしまった緊急事態に心が乱れてならない。もはや抗う余力が弱まっていく梓が、恐怖で諦め掛けたそのときだった。
「大丈夫だよ、梓」
ふと耳元で鳴らされた女声に、梓は振り向く。サングラスは掛かったままだが、マスクを下げて口元を公にした姿から、不審者の内一人の顔立ちが確認できた。
「へ……も、もしかして……」
見覚えのある髪型。
聞き覚えのある声質。
そしてサングラス越しに垣間見えた目の形から、梓は正体を
「――りょ、
瞳が大きく開くと同時に、全身の震えが消え去った。なぜなら梓の両脇を掴む者が、一つ歳上の先輩――
「やっぱり、怖かったよね……ドッキリとはいえ、ごめんなさいね、舞園さん」
「ど、ドッキリ……?」
するともう一方の、両脚を掴む女性もマスクとサングラスを外し、梓に素顔を顕にする。
「え!?
数学の授業担当者である教諭――
「もぉ~アニキさんがドッキリなんて考えるからですよ?」
「しれ~っと呼んでっけど、
今度は涼子が、梓には見知らぬ男性を呼び止める。
「ゆ、ユニフォームとサンバイザー……」
まず目に映ったのは、手元に笹浦二高のユニフォームとサンバイザーが握られた姿だった。先ほどリビングから持ち出したのは、どうやらこの二品のようだ。
すると男はサングラスを外すと同時にため息を溢し、気怠そうながら自身を名乗る。
「――はじめましてだな、お嬢ちゃん。
「学校のボス……え!? じゃあ、あの助手席の人って……」
改めて停車に目を向けてみると、タイミングを合わせるように窓が開き始めていた。助手席の者は予想と合致していたが、梓は
「やっぱり、
親友の
結局のところ、不審者など一人もいなかったことに気づけた梓。誘拐の二文字が消えて、一先ず安堵の呼吸を漏らす。しかし、なぜ四人が家まで訪れたのか、理由がわからなかった。依然として宙を浮かされた状態も不可解ならずにいると、彩音が沈黙を破る。
「さて、時間もないから、さっさと行きましょっか?」
「い、行くってどこにですか?」
「決まってるでしょ。ねぇ泉田さん!」
「えぇ!」
彩音に話を振られた涼子は嬉しそうに相づちを打つと、空中のまま首を傾げる梓と目を合わせる。キラキラと輝く、栄光の未来を見据えた瞳で。
「――行くのよ、ソフトボール場! みんな、梓のこと待ってるからっ!」
「そ、ソフトボール場……練習試合ってこと?」
「そっ! さぁ強制送還だぁ~! レッツゴ~!」
「ちょっ! ンナァ~!!」
楽しげな涼子と彩音がついに動き出し、梓の全身が自宅から離れていく。どうやらこれから、現在練習試合中の笹浦総合公園に連れていかれるらしいが。
「先輩!! それに如月先生も!! 一回止まってください!!」
「フフ! まぁまぁ気にしないで梓。離して落としたりしないから」
「いやいや、そういうことじゃなくて!!」
「普段真面目な梓の、そういう困った顔、なんか見慣れてないから好きだなぁ」
「柚月みたいなこと言わないでくださいよ!!」
誘拐ではないが、連行に変わりなかった。
冷や汗を流し続ける梓と、対照的に楽しそうな表情を見せる涼子が会話をする中、“虹色スポーツ”と書かれた車に運ばれていく。
『急過ぎるでしょ!! まだ、心の準備が……』
当初向かう予定ではなかった戦地へ向かうのだ。困惑にまみれながらも、涼子と彩音から解放されることなく、梓は後部座席へと強制的に送還される。抜け出したいあまりだったが、ワン太からは静かに見守られ、慶助の運転で発車してしまった。
―――――――――――――――――――
一 二 三 四 五 六 七 計
笹二|1|0|2|…| | | |3|
筑海|0|0|0| | | | |0|
ランナー無し
B○○○
S○○
O○○
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