⑥舞園梓パート「ひ、人……?」

◇キャスト◆


舞園まいぞのあずさ

田村たむら信次しんじ

清水しみず夏蓮かれん

篠原しのはら柚月ゆづき

中島なかじまえみ

舞園まいぞの瑞季みずき

舞園まいぞの勝弓まさゆみ

―――――――――――――――――――

 やなぎ川が静寂に渡る、線路下の河川敷。

 僅かな春風で散り行く、遠方の桜木にも見つめられたこの暗所では、ずいぶんと長い間衝突音が連続していた。


――バゴンッ!!

「クッ……」

「ヨシッ!! 左右はオッケー!! あとは高さを調節すればストライクだよ!!」


 叫びあお田村たむら信次しんじが左打席に入って以降、自身の情けなさで怒濤とどうが冷めた左投手――舞園まいぞのあずさ。常に全力でてきた豪速球は、いっこうにストライクゾーンに吸い込まれずにいた。不器用ながら修正を加え投げてみても、全力ストレートは壁に届かずワンバウンド。また調整して投じれば、次は捕手の頭を悠々ゆうゆうと越すようなすっぽ抜け。ならば次こそ真ん中に向かうと信じてほおるも、今度は左右のコースに乱れが生じてしまい、上下左右ばらつく悪循環におちいっていた。


「――ッ!!」

――バコンッ!!


 ヒヤリと驚いてしまった梓のネクストボールは、右バッター腰付近へのデッドボールコースだった。仮に信次が当初の右打席のまま構えていれば、間違いなく直撃していたことだろう。

 跳ね返ってきたボールを拾うことに辛さを覚え、梓は歯軋りを地に向けた。クセ気味ほ前髪で隠れた瞳にも、確かに絶望の暗雲が戻りかかる。


『やっぱ、もうウチは……』


 信次を立たせてからは、少なくとも百球近くは投げ込んだことだろう。しかし、スタミナ切れという疲労は皆無だった。

 ひたすらに苦しかったのだ。フラッシュバックする六年前の左打者に耐えても、全くストライクが入らない己の弱さを痛感して。

 ふと頭上に下り電車が通過していく頃、また思ってしまう。



『もう、無理なん……』



「……よし!! 高さは大丈夫だ!! 次はコースを意識だね!! もう一球!!」

「――っ!」

 再び諦めかけた刹那、梓の心の言葉尻が信次に被せられた。まるで胸中を見透かされたようなタイミングで。熱心から放たれた、電車音にも負けぬ大声のはずなのに、程よい温かさを感じさせる。


「せ、先生……」

「大丈夫大丈夫! さぁもう一球!!」


 これで何球目なのか、これで何打席なのかなど、信次はもう答えなかった。ただ応援ばかりを繰り返し、梓にボールを拾わせ続ける。

 一人の明るい笑顔が顕在けんざいで、上下線が何回も通り過ぎた線路下。時折射し込む月明かりのみが頼りの中、梓は無意識にボールを拾うことができ、再び投球場に向かった。


 ――トッバコンッ!!

「ウッ……またワンバン……」


 信次の応援を受けても、やはりストライクは入らなかった。投げる度に悔しさと無念が蓄積し、やがて自身への失望感に変わり、幾度となく心的ダメージが深まるが。


「ドンマイドンマイ!! さぁ次次~!!」


 投げ抜いた球数の分だけ、信次の声援も梓に届けられた。伝えられた内容は何とも素人顧問らしい根性論で、投げ方の改善案など一切含まれていない。

 しかし、何度もくじける梓を、何度も何度もプレートへと導いていることも現実だった。胸中の重過ぎる苦悩で倒れそうな少女を、ずっと支えてあげるかのように。


――ボンッ!!

「クッ……また高い……」

「まだまだこれからだよ! 次いってみよう!!」


 壁への投げ込みはまだまだ継続し、桜の花びらも舞い照る線路下で奏でられた。響く衝突音と小さなうなり、そして大声援の三重奏が夜風にかおる。頭上の電車に加え、やなぎ川付近に自動車も走行するが、現在進行形で向かい合う二人には気付かれず終いだった。


 しかし……。


――ゴシュッ!!

「ウ゛ゥッ!!」

「――ッ!! 先生!!」


 危惧していた事態が、ついに起きてしまった。梓が投じた全力ストレートが、信次の右脇腹に刺さったのだ。ひざまずき、苦しみ悶える担任の元へ、悲壮顔の少女は急ぎ駆ける。


「先生!? 大丈夫ですか!? け、怪我は……?」

「……へへっ、ナイス、ボールだね……舞園」

「な、何おかしなこと言ってるんですか!? 正真正銘の失投ですよ!」


 信次からは苦くも笑みを放たれ、どうやら怪我までに至っていないことが観察できる。が、脇腹を強く離さない姿と物切ぶつぎれた台詞せりふには、眺めるこちらまで痛覚を刺激されるほどだった。


『また、傷つけてしまった……』


 これまで以上の罪悪感が目覚め、梓のしかめた顔が落ち込んでいく。今更ながら、なぜ途中で信次との勝負をめなかったのか、我ながら後悔していた。こうなる結末は、六年前からわかっていたはずなのに。


『ホントにウチは、なにやってるんだろ……』


 疑問符が付かない、反語的思想だった。もうソフトボールをやってはいけないと言い聞かせてきたのにと、握り締めた拳で自暴自棄に走りそうだ。

 一方、痛みに耐え何とか立ち上がる信次の姿が、上がったうめき声で見なくてもわかった。


「フゥ……今、身体に当たってやっとわかったよ、舞園。君のボールには、こんなにも熱い魂が込められているんだとね。……よしっ! ボクは大丈夫だ!! さぁ! 再開しよう!!」


 前向きな輝きは、目の前より向けられたが。



「もう、いいんです……」

「え……」


 黒影に染まった表情は、上がらなかった。


「これだけ投げても、当ててしまうんだ……。もう思い残すことはないです……。むしろ、ここまで付き合ってくれて感謝です。ありがとうございました……」


 小さな御辞儀しかできないほど、照らしきれない絶望に心が飲み込まれる。


「舞園……」

ウチはもう……これでいいんです」


 投げる気力も失い、信次へ見せた闘志も無い。ゆみれ、きたのだ。


「……そういえば牛島うしじまも、今の舞園と同じようなこと言ってたっけね。これいいんだって」

「じゃあゆいと同じで、ウチは、これいいんです……」


 長い付き合い人の牛島うしじまゆいを連想するも、梓は信次の声もろくに耳を傾けなかった。六年前に置き去りにしてきたグローブの如く、投じたボールも拾わないまま背を放つ。


「先生、もう帰りましょ……」


 小さな歩幅で少しずつ、背後の信次と距離が生まれていく。


『やっぱり、無理なんだ……』


 下を向きながら歩いているせいか、幾度と無く投げ続けた投球場の穴が、視界が悪いにも関わらず良く目に飛び込んできた。プレートが無いはずなのに、幻覚として現れそうなくらいに。



『でも……もういくらやったって、無理なんだよ……』



 落胆の角度が大きすぎる故に、涙も込み上げてこなかった。長髪で隠したきた諦めの背を、努力を積み重ねた投球場にも見せようとしたときだった。



「じゃあ、清水たちとの約束は、どうなるの?」



「――っ! ……」

 静けさに包まれた少女の背に、珍しく低い男声が当てられた。歩みを止めて振り向いた梓には、いつしか微笑みを消した信次が目に映る。童顔でも少年の凛々りりしさが、真剣に満ちた表情から窺えた。


「みんなでプロを目指してガンバる……。その約束は、舞園は守らないのかい? 君たちの言う、最高の絆っていうのは、こんなにも弱々しいものなのかい?」


 六年前に結んだ、四人による最高の絆。それは小学生のとき、清水しみず夏蓮かれん篠原しのはら柚月ゆづき中島なかじまえみらで交わした、夕陽と泉田いずみだ涼子りょうこにも見届けられた約束事だ。そして梓自身が告げた、“みんなでプロになろう”という誓いを改めて思い出すが。



「でも……もう見てわ゛かったでしょ!?」



 普段は落ち着いた寡黙な梓だが、ついに目頭が熱くなりうつむいた。口元と声を震わせるだけでなく、怒りをあらわにした微動の歯軋りまで露出する。


「もうウチは、前みたいに投げられないって!」 


 ポツリポツリと少しずつ湿っていく足元の地に、思いっきり声をぶつけた。情けなさから発展した八つ当たりだと言われても仕方ないが、すでに心のゆとりも皆無である。


「これじゃあみんなのことなんか、引っ張れやしない!」


 経験者だと期待されても、きっと応えられないだろう。ストライクもろくに入らないピッチャーなのだ。


ウチが入部だなんて、絶対に足手まといになる!」


 思い通りに投げられない、イップス投手そのものなのだから。



「……グズッ、どうしようもない……役立たずなんだよ゛ォ!! ウチはァ!!」



 もう誰も、傷つけたくない。自分のことで、誰かに迷惑を掛けたくない。その一心の重さに堪えられず、梓は乗り越えられそうにない絶壁を前で、両膝を地に落とした。


「もう、どうしたらいいのか、グズッ……わかんないよ……」


 無情にも、梓の涙は月明かりに照らされていた。汗に混じって次々と流れ出るしずくが、儚くもハーフパンツに染み込んでいく。感情を抑えることなどできなかったのだ。溜め込んできた苦しみを悲嘆することでしか、救いの手が存在しなかった。

 どうあらがっても乗り越えられそうにない、高く分厚い壁。そんな孤独的エリアに包まれた少女は、ついに終幕を迎えようとしたが。



「ねぇ、舞園……?」



「グズッ……」

 呼吸の荒さで返事ができなかった梓だが、落とした視界に一人の革靴が入ったことで、ほんの僅かに視線が上がった。すると脚主はやはり微笑みを掲げた信次のもので、すぐ前方で静かにしゃがみ、目線を合わされる。


「グズッ……先生……?」

「舞園……あのさ、“人”っていう字を、書いてくれないかな?」

「ひ、人……?」


 目の前の高校現代文教諭から優しく告げられたのは、小学校低学年でも習う、“人”という漢字の書き取りテストだった。


「……な、なんでですか? 支え合ってるとか、ベタなこと言うんですか?」

「まぁ良いから良いから。だまされたと思って、書いてみてよ」

「だ、騙されたって……」


 今年新任教諭としてやってきた担任の脳内など、見当が着かなかった。しかし、暗闇に迷う梓はとりあえず信次に従うことにし、大地へ右人差し指でそっと刻んでみる。


「舞園って、書くのは右利きなんだね」

「小さいときに、矯正されたし……はい」

「ありがと……うん、払いも良くできて、とてもキレイだ!」


 信次も褒め称えた、梓の“人”の字。上から左下へ斜めに下り、まとった一画目の中央から右下へ真っ直ぐ、短くも太い二画目を払い立たせる。現代文教諭も認めた、立派な楷書かいしょ体だ。


「うん、ホントに良く書けてる」

「せ、先生? これがどうか、したんですか……?」


 梓には視線が向かわず、信次はえがかれた地の“人”を見つめるばかりだった。まるで一つの芸術作品を観察するかのように、焦点を固定させたまま疑問を尋ねられる。



「舞園は、この字を見ても、人は支え合っていると思うかい?」



「え……?」

 先ほど梓が思っていた推察とは、真逆の見解だった。なぜか現時点を意識させる一言には不思議だったが、信次の目は決して“人”の字から離れず、彼なりの解説が更に述べられる。


「ボクにはね、片方が一方的に、寄りかかってるようにしか見えないんだ……」


 信次の言葉から察した梓は、落ち着いてきた瞳を凝らし、“人”の一画目に置く。一字一字を個人として例え、微かに喉を鳴らす。


「倒れそうな一画目を、支えてる……」

「うん。人間の真ん中にある胸……すなわち心を、支点にしてね」


 重さ故に膨らんだ一画目の中央部――人間でいう胸部であり心を、二角目がしかと支えている。倒れないように、太く力強い払いを脚にして。



「人ってね、常に誰かに、頼って生きてるんだよ。支え合ってるんじゃない……。皆誰もが、誰かに支えられているんだ」



 胸に秘めた心を、常に他者へ預けている。重荷ほど、一人では抱えてはいけないのだ。

 それが、高校現代文教諭の解釈で、地に言葉の音としてつづられた。

 共に“人”を見下ろす梓も、沈黙に包まれながら脳裏に記載していた。すると、左肩に温度を保った手のひらの感触を覚え、迷っていた瞳が信次の光る目と交差する。



「――だから頼っていいんだよ? 舞園だって、人なんだから」



「――っ! ……」

 正面の信次に置かれた右手の温かさを感じつつ、梓は改めて考察することができた。書かされた“人“の意味を。そして、支えられている一画目の正体を。



『――頼っていい……。挫けそうな一画目は、ウチ自身だって、先生は言いたいの……?』



 恥ずかしいあまり、声に出すまでには至らなかった。ただ信次の前向きな微笑みを覗き続け、雲間から溢れる月明かりを真に受ける。


「ねぇ舞園。責任感の強い君にこそ、ボクから言いたい言葉があるんだ」

「言いたい、こと……?」


 立て続けに、目前の担任から贈り物が届けられる。思い返せば当初は、告げたいことがあると急ぎ参った担任だ。左肩から離れた右手を、今度は彼自身の胸に置いて紡ぐ。


「誰かに迷惑を掛けたくない気持ちは、正直ボクにもわかる」


 命と心を与えられた人は、この世に誕生した時点で、常に他者から頼りを求めている。はぐくまれるのは無論身体と心理だけで、成長するに連れて自立への責任感が芽生えていく。


「でもね、誰にも頼らないっていう考えに、責任感を置いちゃあいけないよ?」


 しかし、自立精神を宿し生きる人の様は、どこか孤立とよく似ている。立派だと捉えられる表現なのだが、なぜか寂しさが否定できない。


「大切なのは、相手に迷惑を掛けた後に、相手にどう恩返しするか……。そこに、責任を感じるべきなんだ」


 もしかしたら自立とは、責任感が勝手にもたらした、世間体せけんていを良くする幻想なのかもしれない。恩返しできるかいなか不安で、他者と触れ合うことに躊躇ためらい、恐怖心から生まれた逃げ言葉にも聞こえる。



「誰かに頼って……今度は自分が、誰かに頼られる。それで初めて、人の間には、信頼と呼べる接点が生まれるんだ」



 命だけだなく、心も備えた生き物――人間として。



「――だからボクらは常に、孤立でも自立でもなく、共立を望むべきなんだよ。人が支え合ってるって言えるのは、いつか舞園が二画目になってからの話さ!」



「――っ!」

 頼る一画目と、頼られる二画目を経て、“人”の字は初めて成り立つ。たった二画で、一作の物語を描くように。


「せ、先生……」


 ニッコリと放つ信次に、梓はただ茫然と見つめ返すことしかできなかった。初めて言われたからかもしれない。誰かに頼ることが、決して悪いことではないのだと。


『チームのエースとして、みんなを引っ張っていくことが普通だったのに……。今度は引っ張られてるんだ』


 僅かな春風に乗る桜の花びらを背景に、梓の瞳は徐々に開けていく。潤みでより揺れた輝きが増し、ふと立ち上がった信次を見上げる気力も戻っていた。


「さぁ舞園、再開しよう! 君を待っている、みんなのために。そして人一倍君を待っている、最高の絆で結ばれた仲間たちのために!」


 梓を取り巻く関係者に、最高の絆と約束を結んだ三人に応えるべきなのだ。それ自体が、本来抱くべき責務だったのだから。



“「――アタシたちってさ、最高の絆で結ばれた仲間たちだって思うんだ!! アタシに梓に柚月に夏蓮!! だからアタシも、この四人で一生ガンバりたい!!」”

『咲……』

“「――あたしたちみんなで、プロを目指すなんてどうかしら?」”

『柚月……』

“「――最高の絆で結ばれた仲間たちなら……四人いっしょなら、大丈夫って、ことだよね!」”

『夏蓮……』


 六年前の三人に掛けられた言葉を思い出し、梓もゆっくりと立ち上がる。信次がすでに左打席に帰っていることを確認すると、拾えずにいたソフトボール三号球を拾い、もう一度投球場にのぞむ。


「いいかい舞園!! 君が正面から見てる壁は、確かに高くて険しい絶壁だ!!」


 足場を掘ってセットに入る頃、左バッターの信次がこだまを繰り返す。


「でも分厚さなんてわからないはずだよ!! 君自身の不安が、勝手に分厚いと感じさせてるだけなんだ!!」


 瞳を閉じた深呼吸しているせいか、梓は信次の大声で、“13.11m”の投球距離も忘れる錯覚が走る。すぐそばで放たれているかのように。



「――だからこそ、乗り越えられない壁なら、ブチ抜いてやればいいんだよ!! 君の熱い魂が籠ったストレートなら、絶対にできるから!!」



 その一言をきっかけに、梓は開眼する。それはこの練習場でよく放ってきた、真剣さ故に鋭く尖った、蒼き炎さえ垣間見える瞳だった。


『ねぇ、先生……?』


 覚悟を固め集中した少女の、ウィンドミル投法が始まりを迎えた。ボールを握った左手を落とし、左爪先つまさきと右かかとを地より離す。


『ゴメンなさい……。これからまた、迷惑を掛けると思うから、先に謝っておく』


 上体が前屈みになれば、溜め込んだ体重移動を活かすべく、左足裏でくぼみを蹴り、果敢な推進移動に変えていく。


『まずウチは……』


 右足が宙に舞うと共に、左腕を風車の如く旋回させる。強靭な筋肉だけだでなく、肩甲骨けんこうこつの柔軟さも意識して。



『――先生から、頼らせてもらうから!!』



 半身の体勢で地に着地し、梓は左腕のブラッシングに、腰の切り返しも加えて投球を試みる。


『行け……』


 まずは親指を離し、人差し指と中指で、投球ギリギリまで触れ続ける。



『いけ!』



 持ち合わせた全ての力を指先から注ぎ込んだことで、今宵こよいまた、梓の全力ストレートが咆哮する。



『――イッケェェェェエェェエ゛ッ!!』



 ひたすらに真っ直ぐ、梓の全力は空気を切り裂いて進んでいく。シュルルと音を叫びながら、流れ星の如くまたたきも許されないスピードで、壁のストライクゾーン目掛けて放たれた。



 その結果は……。



 バゴォォンッ!! ……。

「「――っ!」」



 接触音が山彦のように何度も響き渡る中、投打者の二人は揃って驚きの結末を目にした。


「舞、園……」

「う、そ……」


 あまりの驚愕で片言な二人である一方で、百球近くも投じたことで汚れたボールの跡は、明確に壁へ刻まれていた。突如射し込んだ月光も認めるように壁を照らし、投球結果を世界に報告する。



――ど真ん中の、正真正銘なストライクであると。



「は、入ってる……」

「……ヨッシャー!! 入った入ったァ!! 入ったよ~舞園!! やったよォォ!!」


 現実味が帯びず固まった投手と、自分のことのように大歓喜する打者。もちろん梓は、喜びではなく驚きを胸に、ふと自身の左手を眺めてみる。すると人差し指の先には、何球も投げ込んだことで生じたマメが赤く腫れていた。

 苦い経験を撃ち破り、重層的な努力で成し遂げた功績こうせきを、痛覚でじかに祝福していたのだ。


「……」

「やったやったァ!! バンザーイ!! バンザーイ!!」

「ありがと、せんせッ……」


 夜空の雲は晴れ、月明かりで照らされた夜桜が、笹浦市の町並みに還る。


「舞園?」

「グズッ……ありがと、先生ィ……」


 今度は心の痛みではなく、心からの嬉しさで流れ出た涙も。


「グズッ……ありがと、ありがと……」

「舞園……ボクは立ってただけで、何もしてないよ。舞園自身が、撃ちひらいたんだよ?」


 その晩、梓は久方ぶりのストライクを放ることができた。フラッシュバックも訪れず、勇ましさだけを胸に抱に、永年立ちはだかっていた大きな壁を破壊したのだった。



◇梓の壁――ソフトボールへの責務◆



「ただいま……遅くなってごめんなさい」

 時刻は七時半を示す頃に、梓は帰宅した。泥ついた運動靴を脱いで上がると、リビング奥からはまず母の舞園まいぞの瑞季みずき、続いて父の舞園まいぞの勝弓まさゆみからも温かく迎えた。


「おかえりなさい梓。着替えてご飯にしましょ」

「梓、ご飯の準備は父さんたちでやっておくからな」

「うん、ありがと」


 母と父の穏やかな表情につられ、梓も頬を弛ませて答えた。

 向かった自身の二階部屋にはベットのそばに一枚の窓、制服や紺メインの私服が仕舞われたクローゼット、そして整頓された本が並ぶ勉強机が立ち、とてもシンプルな空間で着替えを始める。


「……よしっ。あ……」


 着替え終えるもふと気づいた梓は、部屋のドアではなく勉強机に向かい、机上に置かれた写真たてを手を伸ばす。それは六年前、笹浦スターガールズ時代に全国大会出場を決めたときの写真で、当時キャプテンの泉田涼子に撮られた一枚だ。夏蓮と柚月に咲、そして梓自身が夕日に染まった笑顔で写っている。



『明日、楽しみだな……』



 思い出写真を見ながら、少しの間静止していた。

 先ほど信次と帰る際に、明日の練習試合の集合時間も聞けた梓。誘われても断ってきた明日への迷いは失せ、今では早く行きたいと思うほど快活な気分に浸っていた。


「……あ、そういえば、先生またバッグ置いて帰っちゃったな」

――コンコン。


 すると、梓の部屋にノックの音が響き渡る。ドアが開けられると、母の瑞季が、片腕に一式のユニフォームを抱えて入室する。


「これね、田村先生から頂いたの。背番号も着けておいたからね」


丁寧に畳まれた笹浦二高女子ソフトボール部のユニフォームが、ベッド上に置かれた。白地に青が走る、清廉潔白な軍服を。


「母さん、ありがと」

「明日、行くんでしょ?」

「……うん」

「よかった。見に行けないのは残念だけど、ガンバってね、梓」

「うん」


 静かに笑みとユニフォームを残して瑞季が退出すると、梓は早速ベットに乗り、胸部の“笹浦二高”と書かれた文字に触れてみる。


『さすが柚月……かっこいいユニフォームだ……』


 柚月がデザインした輝かしいユニフォームに、梓は一目で惚れ込んでいた。先ほどの写真を見ていたように、微笑ましく焦点を固定し続ける。



『背番号……そういえば、ウチって何番なんだろ?』



 不思議と思いだった梓はユニフォームをクルリと回転させ、背番号を確認した。すると背には、周囲を金の刺繍が施された青の数字――“11”が目に飛び込む。


『十一番、か……』


 誰が決めたのは知らぬが、当時着けていた背番号“1”と似て、すんなりと受け止められた。一人じっと見つめる時間が続き、晩ごはんを忘れるほど見とれようとしていたが。


『ん? 十一番……?』



 ふと目の前の数字に対し、投げ込みで疲れた梓の瞳が冴え始める。なぜだか、どこかで見覚えがあったからだ。ただそれは、あまり印象良いものではなく、次第に胃の荒々しさが生まれていく。



『……じ……十、一……ッ!!』



 刹那せつな、満創痍の投手は思い出してしまったのだ。



「――ウアァァァァア゛!!」



 突如として、一人の少女の悲鳴が、舞園家中全域を襲う。また庭で横になっていたワンも驚き吠えるほど、一つ屋根の下には収まりきらない声量だった。


「あ、梓!?」

「どうした!?」


 父母も突然の出来事に心配になったためか、ユニフォームが投げ捨てられた梓の部屋に侵入した。今度はノックもせず、有頂天の焦りを全面にして。


「う……うぅ……」

「梓、大丈夫? どうしたの?」


 尻餅を着いた梓は大きく震えていたが、瑞季に背中をさすされることで、少しずつ落ち着きを取り戻していく。荒れた息づかいから通常の呼吸へと何とか戻ると、震えたままの声で思わず漏らす。



「――ゴメン母さん、父さん……。明日、やっぱ行きたくない……。」



「えっ?」

「ど、どうして?」

「お願いだからユニフォーム、ウチの部屋から持ってって……」


 親友がデザインしたにも関わらず、床に投げ付けてしまったユニフォーム。一度は心から着用を望んだものの、恐れた梓は振り向きもせず、父母に持ち去ってもらうよう伝えた。


『お、同じだ……』


 瑞季と勝弓と共にユニフォームが消えてもなお、梓は頭を抱えながらうずくまっていた。突発的な出来事に恐怖していたのだ。気を許せば嘔吐しかねない気分で、嫌悪的な冷や汗まで額に浮かべていた。


『十一番……同じだ……』


 全ては思い出してしまったことが原因なのだ。六年前の被害者である、デッドボールで負傷させてしまった左バッターを。本日ストライクを放った際には招かなかった、悲劇的ワンシーンに映った負傷者の背中を。



『――あの左バッターと、同じ背番号だ……』



 運命がもたらした悪戯いたずらなのか。はたまた、宿命から寄せられた試練なのか。

 それとも……。

 信次の言葉に仲間たちの想いで、復帰しかけた梓。しかし、背番号“11”に希望の光が全てかき消され、今日までの六年間過ごしてきた、暗く重い孤独の夜を再度迎えることとなった。


『ゴメン、みんな……。やっぱりウチは、ダメだ……』


 確かに梓は、大きな壁を撃ち破ることに成功した。外の景色も見えるほど、力強い勇ましさを秘めて。だが彼女の足元には、壁の残骸ざんがいが未だ顕在だったのだ。

 両脚が震えすくんでしまうほどの、恐怖の一線が。





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