四節 熟れた桃は地に落ちて

桃の記憶


 戦場から離れた森の中。

 二人は傷を癒やすために腰を下ろし、仲間たちが戦う音を聞いていた。


「わたし、おうじさまと結婚するんだぁ」


 いつもの妄言にも覇気がない。お互い、後ろめたさを感じていた。


「そう」


 膝を抱えるミューネラに、返答に窮したエッジールはどうにかそう答えた。


 麗躍九姫メセルスノウェムの暗黙の了解として、負傷者の救助を最優先にしている。

 ルカーリュやシャルセのように傷を顧みない者もいるし、カロルハークやハルマスラのように倒れた味方を遮二無二助けたがる者もいる。その両方であるウィルエラもいる。だから有事の際は事故を起こす前に撤退する・させると、皆で決めていた。

 幸いシャルセとカロルハークはメセルスの力で、ミューネラは呪術で、ラティニスは独学で、治療が出来た。負傷者に同伴して回復を促すのは彼らの役目だった。


 最も多く撤退を進言されるのはウィルエラで、逆に自己判断で撤退するのはミューネラだった。その多くは負傷者の治療のためだったが……。

 彼女の口ぶりからするに、時折そうでない時もあったようだ。


 エッジールはエメルザと並んで怪我をしない側の筆頭だが、それだって絶対ではない。大概の物体はなます切りにする、麗躍九姫のうち最も部位破壊力に優れたエッジールは、最近特別に対策を取られる事が多い。今日も敵の飛来神群アウターの装甲を切り離しにかかった所、装甲が爆散、破片をまともに受けてしまった。


 木陰に座り、幹を背もたれにして、彼女が咲かせた花の下で治癒効果のある香りを嗅ぎながら、エッジールは膝を抱えたミューネラを見た。


「いつだって諦めずに笑っていて、誰より自信に満ち溢れていて、一番前を歩いて行くひと。そういうおうじさま」


 激化する戦いの中で、ミューネラは臆病になった。それを誰も責めなかった。


「……ミューはね、立ち向かう人が好きなんだ」


 抱いた膝に、ミューネラは顔を埋めた。


「自分が嫌い?」


 ふっと口をついて出た言葉に、ミューネラが身を竦ませたのを見て、エッジールはぐっと唇を噛み締めた。失言だった。


 言葉を失った二人は、それきり黙って戦場の音を聞いていた。


「……うん。ミューは、ミューがきらい」


 ややあって、ミューネラはそう答えた。

 それを継ぐ言葉を、エッジールはまた同じだけ時間を掛けて発した。


「……そう」


 自分を否定する感情はエッジールにも根深くあって、だから、エッジールは何かを言おうとして、結局口を閉じた。


 ミューネラは、姫君である。

 霊峰都市ミューブランの長の養女、桃花姫ミューネラ。

 恐らくこの世で最もティリビナの神々に近しい少女である。


 生まれながらの巫女にして姫である彼女に、自由はなかったと聞く。

 ……祖霊に選ばれるまでは。


「ミューネラなんて名前、だいっきらい」


 麗躍九姫に選ばれたことで、ミューネラは姫の座を降りた。

 【南東からの脅威の眷属】にとって、祖霊は神よりも上位のものだ。神は世界に君臨するが、祖は世界そのものの親である。ティリビナの神に近しくとも、祖の加護の方が遥かに優先されるし、そう出来ることは名誉なことだ。


 だがミューネラにとって、それはきっと名誉以上のものがあったのだ。

 例えばそれは、自由、というような。

 エッジールは漠然とした印象としてそれを感じ取った。


 感じた事は言葉にしたほうがいい。

 最近学んだ事を、エッジールは実行した。


「戦いから逃げることと、立ち向かうことは、別のこと……だと思う」


 反応はない。エッジールは、癒えていく傷を指で撫でて、まだ自由に動けないことを感じ、それからゆっくりと言葉を探した。


「つけられた傷の重さを測って、回復を待つのも、立ち向かうことだ」


 九人の精霊が死線の上で踊る中、ミューネラだけが正常だと言っても良かった。死を恐れる心を、戦いは擦り減らしていた。皆どこかしらでそれを理解していて、だからミューネラの臆病さを削ぐことはしなかった。

 麗躍九姫は死兵ではない。戦士であり、守護者だ。


「でも、ミュー……仲間を見捨てて逃げてる。みんな戦ってるのに……怖がってる。立ち向かってなんかいないよ……」

「そんなことない」


 エッジールは静かに、しかし強くそれを否定した。


「自分が怖いだけなら……私たちと一緒にいないで、どこか遠くへ行ってしまえばいい。でもミューネラはそうしない。いつも、一緒にいる」


 ミューネラは優しい少女だ。責任感のある少女だ。臆病な少女だ。

 エッジールはそれを知っている。この二年で、感じてきた。


「ミューネラが怖がってるもの、何となく分かるよ」


 エッジールはミューネラの膝に手を置いた。


「私も。……怖いよ。失うのが怖い」


 気がつけば、エッジールは失っていた。

 かつて自分が持っていた鮮やかな【色】も、自分の記憶も、今はどこにもない。


 青のエッジールがかつてなんであったか、エッジールはもう分からない。

 それはとても怖いことだ。

 出会って、積み重ねた思い出、それらが明日には失われているかもしれない――それはエッジールの心を青褪めさせ、凍りつかせるに十分な恐怖だった。


 ウィルエラと出会うまでは。彼女と、手を取り合うまでは。


 かつてエッジールは、失くしたそれらを取り戻すために、力を求めた。

 そして今、エッジールはもう失わないために力を求める。


「ミューネラ。私はもう誰も失いたくない。だから戦う。でもそれは、私が……いろんなことが下手くそで、戦う以外のことがロクに出来ないから」


 ミューネラが顔を上げた。

 朝露に濡れた花弁のような桃の瞳を、エッジールはじっと見つめた。


「ミューネラは、きっともっと、別のことが出来る。例えばそれは、傷を癒やすことだし――戦わせないことだ。無理にでも、私たちを止めることだ。逃がすことだ」


 そうだ。だから皆、ミューネラを臆病だなどとは罵らない。

 その臆病さは、皆が生き延びるために必要なものだ。

 死の恐怖を喪失の恐怖で凌駕してしまうウィルエラやエッジールを、現実に引き戻すために必要なものなのだ。


「自分の弱さに向き合うのは、つらいことだと思う。恐怖を塗りつぶさず、共にあり続けるのは、とても強いことだと思う。信頼する友達の前に立ちはだかって、心を伝えられるのは、きっと本当に勇気のある人だけだ」


 ミューネラが欲しがっているものを、エッジールははっきり感じ取れた。

 それはきっと、ミューネラと同じ、みんなに教えられ、与えられたものだった。


 ともにあって、一緒にいて、笑い合うことだ。

 ともだちのことだ。


 だからミューネラは失いたくない。

 初めて得た友達が傷つくのが耐えられない。見ていられない。


「みんなを失うのが怖くて臆病になる、そんな自分を嫌わないで」


 剣を取ることを選んだエッジールは、いや、みんなきっと分かっていた。

 本当なら正しいのはミューネラの方なのだ。友達と一緒にみんなで危険に飛び込むなんて、きっと間違っている。


 麗躍九姫は祖に選ばれた戦士だ。

 戦いに赴くことは、誉れ高いことだ。

 けれど死を恐れることが卑賤なことだなどとは、祖にだって言わせない。


 真に勇ある行いとは、誉れに背を向けることなのだ。

 社会や信仰や関係性に背いてでも、己の信念と善性に従うことなのだ。


 ……それは、エッジールには出来ないことなのだ。


「ミューネラには、その勇気があるから」


 ミューネラは一度ぐっと目を閉じて、困ったように笑った。

 そんなことないと言いたげに口を動かして、すぐ閉じて、それからこう言った。


「ありがと、エッジール。――あなたも、わたしのおうじさまかも」


 エッジールは頬をかいて、それは困る、とだけ答えた。

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