三節 緑の海の上で踊る(後編)

 メセルスハロフは拳をもう一度振り上げて、腰を落とす。

 少女を振り落とそうとするアイオルフォン目掛け、少女は拳を振り下ろした。


 甲殻が砕け、拳が半ば埋まる。鉤爪が殻を捉える。

 エッジールは呼気と共に全身に霊力を漲らせた。


「はああぁ……っ!」


 聞くに堪えない音を立て、殻が引き剥がされる。金切り声が海面を弾けて回る。

 へし折った殻の欠片をメセルスハロフは海に投げ捨てた。緑のメセルスの力で浮力を塗布された殻は海面に浮かんで足場となる。

 少女はそれを蹴って飛び上がった。


 アイオルフォンの島の如き巨体目掛けて、踵が唸りを上げて弧を描く。

 戦槌を振りぬくように、足先の消える程の速度で、回し蹴りが蟹の腹を捉えた。


「シィッ――!」


 ――衝撃で海面が揺れる。

 打音は爆撃と聞き違えるほど。

 蟹の巨体が、使役者を追って吹き飛んでいく。

 破片を蹴り飛ばしてメセルスハロフは空を翔け、着水するそれに追撃を入れる。慣性が虚空に消え去る。巨体が吹き飛ぶ。繰り返し。

 野蛮な運搬の果てに、巨体は魔女のすぐ前に転がった。


「……いたかった」


 ハルシャニアは、ずるずると周囲の海水を啜っていた。

 傷が見る間に癒えていく。メセルスハロフの拳を持ってしても、この【浄界】の中で彼女を打ち倒すのは難しい。

 大きくえぐれた体は瞬きの間に元の姿へと再生し、魔女はなくなった傷跡をさすりながら立ち上がる。


「あなた、嫌いだわ」


 津波が起こった。

 緑の戦士は迫る津波に拳で立ち向かう。


 かつて本来の担い手がそうしたように。

 エッジールもまた、真正面から拳を繰り出す。


 津波が纏めて吹き飛んだ。


「なら死ね」


 メセルスハロフは魔女の背後に飛び降りる。

 手に持っていた殻の欠片を足場に、振り向きざまに左拳をねじ込む。


「捉えろ、アーグル!」


 鉤爪が閉じた。

 拳を受けたハルシャニアの体が揺れ、しかし吹き飛ばない。

 霊体を掴む爪が、魔女の魂を捕まえたのだ。


 海を割り大地を揺るがす拳から、先のように吹き飛んで逃げることは出来ず、魔女は全身でその衝撃を受けた。

 四肢が歪に跳ねる。体の末端から中心へと裂傷が伝播していく。


 ――背後から伸びた水をずるずると啜って、すぐさま元の姿へと戻った。


「いたいっ」


 ハルシャニアは腕を振り回して拘束を振りほどこうとする。手のひらが装甲を叩いて、ぺちん、と情けない音が鳴った。


「はなして、はなしなさいっ!」


 遅れて、周囲の海水が蠢き出す。

 それが槍のように伸びる直前に、メセルスハロフは蹴り飛ばしてきたアイオルフォンの上へと飛び移った。

 【浄界】の内側でこの程度。水流を操る術もヴァイオラと比べれば遥かに劣る。やはりこの魔女は、海を支配することは出来ないのだ。


「はーなーせー!」


 ひ弱な両腕が、細い両足が、メセルスハロフの強靭な体を叩く。

 顔を狙い視界を奪うようなものだけは躱したものの、急所を叩かれたところで痛痒にも感じないだろう。

 捉えてみれば、魔女も痩せ細った少女でしかなかった。


「抵抗のつもり?」

「このっ、もう、怒ったっ」


 メセルスハロフは捉えたのとは逆の拳を振りかぶる。

 意識を霊界に向け、入念に【幽かな生命】を寄り集め、霊力に変えていく。

 いかに他者のメセルスを行使できると言っても、それを纏っての戦いに慣れているわけではない。ましてここは【浄界】の中。世界を満たす【幽かな生命】たちは皆魔女に服従しており、これを再び従わせるには労力が要る。


 キュトスの魔女は不死である。わけてもハルシャニアは、内に宿した海を取り込んで半ば無限に再生する。エッジールでは殺すことはできない。

 ……だが、痛みを与えることは出来る。

 そしてそれは、ともすれば死よりも尚深い苦しみとなる。

 エッジールの目的は魔女を緑海から退けること。殺す必要はないのだ。


「どうなっても知らないわっ!」


 魔女は、海へと手を伸ばした。

 何かをたぐり寄せるように。召喚術。

 ――止める。


 メセルスハロフは拳を振り下ろした。


「ゴェッ……!?」


 胸骨を砕き割って、肺が圧迫されて空気が押し出される。

 魔女は耳を覆うような声を出して痙攣した。


「グプッ」


 メセルスハロフは拳を振り下ろした。

 下腹部を貫かんばかりの勢いで、重い拳打が突き刺さる。

 装甲越しに、骨が砕け臓器が弾ける感触を感じた。

 魔女の口から血が漏れる。それが口元から垂れる頃には海水となっていた。


 メセルスハロフは拳を振り下ろした。

 鎖骨がへし折れ、肉が裂け、内部があらわになる。

 気道に穴が空き、呼吸に合わせて傷口が震えた。

 大量の血液が溢れ、海水に変わってこぼれ落ちる。


 メセルスハロフは拳を振り下ろした。

 顔骨が砕けて大きく凹む。端正な顔立ちが見るも無残に砕けて歪んだ。

 声はない。吐ける空気を吐き出しきったようだ。

 眼球が飛び出て潰れる。


 拳を引き戻す。

 滴った海水たちが急速に巻き戻り、痩せた美貌が再現される。

 メセルスハロフは拳を振り下ろした。


 拳を打ち込むたび、衝撃で海が波打つ。

 気絶したアイオルフォンの体が揺れる。

 魔女の悲鳴が、断続的に飛び出す。


 飛散するはずの魔女の肉体を【幽かな生命】で押し固め、エッジールは片時も止めずに打ち込み続けた。声もなく。表情一つ変えもせず。

 頬骨が砕け、顎が千切れて転がった。

 子宮が潰れ、尿と血液が溢れた。

 胸が凹み、口からは内臓の破片が逆流した。

 そして瞬きの間に魔女は元の姿に戻る。


 無機質なピストン式拷問機械が、ただただ黙々淡々と拳を打ち込む。

 痛みから逃れる術はない。緑の拳士は逃さない。


 肉が死なぬなら心を殺す。


 不死者を殺すエッジールの答えは、ひどく単純なものだった。


 だが。


(術が止まらない……!)


 魔女もまた、そうそうに折れることはなかった。

 骨肉を何度も砕かれながらも、そのたびに手を止めながらも、ハルシャニアは己の水底から何かを手繰り続け、それを手放さずにいた。

 エッジールの拳に焦りが生まれる。ピストンのテンポが早まっていく。


「最終手段に出たか。気をつけろよ、そいつはお前の天敵だぞ」

「分かってる!」


 エッジールは虚空へ叫び返した。

 遥か見通せぬほどの水底から、魔女が糸を引くたびに、少しずつ……引き上げられている。行使されているのは単純な【引き寄せアポート】の呪術。エッジールはそれを、まるで慎重に封印を解き放っているかのように感じた。


 砕けた顔が再生し、その口元に笑みが浮かんでいるのを見て、エッジールは確信した。魔女の心はやすやすとは折れない。これ以上は無理だ。


「時間切れだ。引け」

「分かって――ッ!?」


 鉤爪を解く。腕を引き抜――けない。

 見れば、メセルスハロフの拳は肉体に埋まって癒着していた。魔女の肉が溶け出して水となり、拳を包み込んだ後で固体化したのだ。


「おいで。……ああ、ええと、借りるわね、王様」


 伸び上がる海流が運んできたのは、剣だった。

 小剣だ。ただの剣ではない。それ単独でも、並ぶものないほどの業物。


 見知らぬ呪力に満ち満ちていた。妖精の呪力に溢れていた。

 無数の物語を経た剣が持つ、朽ちた紙面の匂いの呪力。

 だがその物語の匂いは、エッジールの全く知らないものさえ混じっていた。


 そして、穢れていた。

 忌まわしき形に汚された【幽かな生命】たちが、その剣を侵食している。

 輝きは冴え渡り、しかして渦巻くは縞模様。

 聖なるものを、邪悪な力が穢している。


「いと高くうららかなる呪……魔女スィーリアの【汚濁テイント】」


 耳元でザリスが息を呑む。


「汚染された聖剣……これほどか!」



「古くに妖精、槍を鍛えて曰く、これなるは時の流れを遡る刃」



 魔女は高らかに歌い上げるのは剣の歴史であり、解放の呪文だった。


 メセルスハロフは拳を打ち込む。止まらない。

 浮かぶ剣を、魔女は後ろ手に握りしめた。

 朗々と物語が流れ出す。


「偽りの魔王、槍を手にして曰く、今永遠は我が手に落ちた」


 エッジールは伸びる腕の半ばを砕いた。

 だが千切れた腕は一人でに浮遊し、魔女の頭上に剣を掲げる。

 それから、魔女の腕は静かに再生した。


「妖精に見初められた騎士、穂先を手にして曰く、我が王権はここにあり」


 知らない呪力が鼻をくすぐる。今度は異界の神話だ。

 青い球を猫が転がす、霊の住まわぬ異世界、【猫の国】の……。


 何度拳を打ち込もうとも、破砕されたはずの喉は美しい音色を紡ぎ続ける。

 腕が折れようとも剣は手放されることなく、魔女は封を解いていく。


 魔女は瞳で語る――抵抗のつもり?


 魔女と精霊の立場は逆転していた。


 積み重ねられた物語は【幽かな生命】の好物だ。時を経、伝承を積むほどに、霊体は肥大化し、力は否応なく増していく。

 とすれば、異界の騎士の手すら経た古の剣の威力はいかほどか。


「死の淵に断つ鱗なき竜、剣に縋りて曰く、我が新たな牙をこれと定めん」


 そしてその一節は世界中で知られた物語だ。

 エッジールは剣の正体を思い浮かべ、歯噛みした。


 大いなる牙ディブラフェク――竜騎士アルトは戦いの最中、鱗を失う。本来の竜の姿を破壊され、【化身】たる竜騎士から戻れなくなったアルトが手に取ったのが、泉の妖精が授けた聖なる剣だ。

 竜騎士アルトはその剣の力で戦い、【眷属】を打ち払い、竜王国を建国する。

 だがその剣も、宿敵たるキュトスの魔女スィーリアによって汚染されてしまう。

 ガロアンディアンの建国神話、竜王アルトの物語の最終節。


 呪われた聖剣をアルト王は躊躇いなく手放し、強く封じた。

 そこは――何人の手にも届かぬ懐深き水底に、と伝えられている。


「懐深きハルジャールの内において、いまひととき、その封を紐解かん」


 輝きが一際増した。


 エッジールはそれを見上げた。

 遥か【散らばった大地の時代】から現存する、王の刃。

 妖精の槍、魔王の槍、騎士王の剣、竜王の剣。


 その刃が、魔女ハルシャニアの手の中にある。


 ハルシャニアの海こそが、アルト王が施した封印そのものなのだ。

 汚染された聖剣は二度と鞘から出ることはない。ここは【浄界】、歴史の表舞台へ持ち出されることはあり得ない。あるとすれば、剣が自ら主を定めたその時だけだ。


 だがここなら、ハルシャニアの海の中なら。

 鞘の中、干魃の魔女の【浄界】の内側でなら、聖剣はその力を発揮できる。


「これなるは時の流れを切り開く剣。人鉄、星霜を貫かん」


 解放された聖剣を、魔女の呪文が縛った。

 担い手ならざる者が、器物の力を借り受ける、契約の詠唱。


「魔女ハルシャニアの名の下に、汝に契約の履行を求むる」


 魔女が剣を振り下ろす。

 覚束ない手つきで。しかし真っ直ぐに。

 剣が彼女を導くかのように。



「星の瞬きよ永劫たれ――【イィクスカリヴェル】」






 ――気絶したのは僅かに数秒。

 エッジールは着水の直前、右腕で水面を殴りつけて反動で跳ねる。


 激痛が走る。痛覚の薄いはずの呪術義体が悲鳴を上げていた。

 避けたはずだ。あんな緩い剣筋で斬られるはずがない。だが余波だけで気絶するとは思わなかった。流石は【眷属】殺しの伝承を持つ聖剣。


 距離を取るためとはいえ、アイオルフォンからは遠く転げ落ちてしまった。足場がない。まずはその巨躯に飛び乗らねば。左腕を振り上げる。そこでようやく違和感に気付いた。


 腕がない。


「――うそ」


 魔女は嬉しそうに何かを握っていた。

 切り離されたエッジールの腕だ。


 聖剣の逸話は知っている。【眷属】にとっては天敵であることも。

 だが祖霊の加護を容易く切り裂くほどとは――。


 水面を蹴り飛ばして不格好に飛び上がるエッジール。

 ハルシャニアはそれには目もくれず、端正な相貌を妖艶に歪めて、傷に口つけた。


「じゃ、いただきます」


 【生命吸収ドレインライフ】。


 ――ずぞぞっ、じゅるっ、ずちゅっ。


 魔女は断面に口をつけると、中身の液体を吸い取り始めた。

 猛烈な勢いで左腕が干からびていく。エッジールはそれを呆然と見ていた。


 飲んでいる。エッジールの血を。

 液体なら何でも良いと言わんばかりの吸い付きぶりだった。

 距離を取っていて正解だった。もし捉えられたのが切り離された腕ではなく、肩口であったら。エッジールはぞっとする。


 そして今もまた恐れている。エッジールの血はただの血液ではない。

 もしその血の力を、魔女が振るうような事があれば――。


 果たして、魔女は震えながら断面から口を離した。


「うえっ」


 そして吐き出した。

 を。


「まっず……うえっ、にがっ、くさっ、うええっ……」


 魔女は両手で口元を押さえてえづき、枯れ果てた腕を投げ捨てた。


「まっずい、もうっ!」


 最悪の状態は免れた。

 エッジールは欠片を蹴って飛び上がり、どうにか己の腕を取り戻した。


 かさかさと干からびたそれはしかし恐ろしいほど滑らかな断面で、肉は僅かも潰れすらせず綺麗に切り離されていた。

 血は溢れていない。呪術義体を流れる黄金の血液は体外に出ることはないのだ。切り離されてさえそれは維持できていた。証拠に、ハルシャニアが吐き捨てた血は既に沸騰して蒸発している。


「うぐ……」


 寝入りばなのように意識が遠のくのを感じる。

 腕を切り離されたことで全身の呪紋に穴が空き、霊体が霧散を始めているのだ。


 しなびた断面をまずは回復させ、傷口同士をぴたりと合わせる。メセルスハロフの治癒の力が傷一つ残さずに治療する。鋭い断面であったことが幸いした。


「血の油、肉の薪、心の灰に、火はこる」


 小さな声で起句を紡ぐ。心臓の奥で、呪われた黄金が脈動する。

 エッジールの思い描くままに、失われた金色の血はどこともなく湧きだして、萎れた腕に行き渡って循環を取り戻す。

 代わりに、灼熱地獄が身の内を満たす。霊体の一部が燃え尽きる。


 ふらつく頭を押さえて、膝をつく。黄金の血の熱に悶え、身を縮めて耐える。

 とてもではないが立ち上がれない。呪血と傷とで霊体はボロボロだ。


「おい小娘。よく聞け。霊体の傷を解析し、然る後に縫合する。聞き続けろ」


 ザリスの声が耳朶を打つ。

 厭味ったらしい低音も、耳鳴りに悩まされる今は心地よく聞こえる。


「あれは【眷属】殺しの聖剣だ。お前では勝ち目がない……分かっているな?」


 ――竜騎士アルトは、かつて死闘の末にオルガンローデを退けた英雄竜だ。

 【眷属】の大陸への大侵攻を打ち払い、大地を切り開き、ガロアンディアンの前身たる竜王国を建国した竜王である。


 竜は君臨せども統治は出来ぬと言われる。強大すぎるが故に群れる事が出来ないからだ。だがアルト王はその例外……生まれ持った絶対性という特徴を、徳と知と愛で乗り越えた竜の王だ。


 知っている。それくらいは。天敵のことくらい分かっている。返事が出来ない。

 エッジールは傷口から溢れだした霊体を掻き集める。このままでは死ぬ。霊体が正しい作用を失っている。漏れだす思考とまとまらない感情。胸の内が熱いのは、血の灼熱だけではない。


「わかるな。お前を切り裂いたのは剣ではなく、剣が経てきた歴史や経験だ。完全な【眷属】の精霊であるお前では上どうあっても太刀打ちは出来ん。武器や技術をどうこねくり回そうが、剣はペンにはなれんからだ」


 ザリスの解説がありがたい。これほど魔女の声を望んだのは初めてだろう。

 意識が覚束ない。急速に失われていく心のカタチを、気力で繋ぎ止めていた。

 頼りにするのはザリスの言葉と、過去の記憶。


 尽きせぬ怒りが、定まらぬ慟哭が、身を引き裂こうとしている。肉を操り、暴れ、死のうとしている。それを縛る鎖を必死に引いて繋ぎ止める。


「霊体の維持を続けろ。私が傷の源を遡行する……物語を紐解いてやる」


 零れ落ちた霊体をどうにか寄せ集めたが、解けた結合は治らない。

 ぐちゃぐちゃに崩れた霊体の左半身。エッジールは懐から薬を取り出した。


「私の声をしかと聞け。片時も聞き逃すな。死ぬぞ」


 ザリスは物語を解説し始めた。


「妖槍イィクスカリヴェルは所有者の時を食って大いなる力を振るう呪いの槍だった。言理の妖精に誑かされた魔王ベルグ=ベアリスが手にし、偽の永命を妖槍によって固定したのだ。だがかの魔王は槍に見放された。槍は折れ、魔王はその力を失った。孔雀の精霊ブリシュールがそれを預かり、九人の湖の妖精に預けたのだな。湖の妖精は分かるか?」

「……妖精王エフラスの、側近の……」

「そうだ、王とともに精月アヴロニアに召し上げられた妖精だ。ブリシュールは折れた妖槍を泉に映る月を通じて天に送り、九人の湖の妖精が受け取った。

 その後何らかの理由で槍の刃は地に落ち、これを得たのがアルト王、打ち直された剣こそが時を切り開く聖剣イィクスカリヴェル……というのは違ったようだが、今は置く。アルト王の戦歴を言ってみろ」


 魔女のは完璧だった。

 記憶を掘り返すことで過去の自分の輪郭を浮き上がらせる。

 一度失われた形状を再度取り戻すには、最も手軽で効果的な手法。

 かつて己を救った黒衣の怪人の、奇っ怪な蘇生処置と根底は同じだ。


「己の傷の主をまずは強く想起しろ。さあ」

「……初めは、緑竜騎士団……糸竜グレイシスの組織の奪還に、【眷属】を強襲……オルガンローデの滅びの呪文で牙を、【剥落の爪】で鱗を失い、竜へと戻れなくなる……」


 言葉にすることは自我にとって大事なことだ。

 声を発することで自己の輪郭を確かめることが出来る。


「牙……竜剣を失って、竜騎士としても力をなくしたアルト王が手にしたのが、妖精の聖剣……その名を知るのは、王が異界の書物を手に入れた晩年のこと」


 竜は群れない。彼ら孤高にして単独、そして巨大だからだ。

 故に彼らが軍勢を成す時は、人の姿に【化身】する。しなくてはならない。

 鱗を鎧に、牙を剣に。その息吹を大いなる呪術に。竜としての無指向性の力を、武器や術という形に当てはめて制御し、広大な破壊とは別の形で発現する。そうでもしなくては竜は誰かと並び立つことが出来ない。それが竜騎士だ。


 【化身】。馴染みの深い術だ。

 麗躍九姫は後天的に祖霊より「化身代行」の権限を委ねられた者達のこと。

 しかし竜騎士は代行者ではなく竜そのものだ。


 だが鱗と牙を失い竜ならざる姿となったアルト王は、同時にその力も失った。メセルスのないエッジールと同じ、【化身】するためのよすががなくなったのだ。


「死の淵で聖剣と出会い、その歴史を飲み込んだアルト王は、竜にこそ戻れぬものの全盛期を超える力を得……そして【眷属】を打ち払った……」

「傷の源は分かったな? その歴史を強く想起していろ。そうだ。――我が権限において、かの神秘を代行する。古樹よ苗木となれ。【マーナタールの時間退行】」


 エッジールの頭が一瞬くらっと揺れ、意識が一瞬断絶する。

 精霊殺しの歴史に切り裂かれたという因果が紐解かれ、逆行していく。

 傷がなくなっていく奇妙な感覚とともに、その術に不安を覚えた――マーナタールは確か神の名前ではなかったか?


 浮かぶ欠片の上でエッジールはどうにか呼吸を落ち着けた。

 致命傷をことを確認する。精神状態は良好。錯乱も気絶もない。


「もう行ける」

「いいや寝ていろ。お前が今無事なのは原因と結果を切り離したからだ。魔女が聖剣による攻撃を意図するだけで因果は再度成立し、傷が開くだろう」


 エッジールは顔を歪めた。実際に攻撃する必要すらないとなると、ほとんど無力化されたも同然の状態だった。


「悲観するな。恐らく【浄界】を打ち破れば因果は完全に破綻する」

「……続けて」

「あの剣に浮かぶマーブルの輝きは、キュトスの魔女スィーリアのかけた【汚濁】の呪いだ。悪しき力に染められた、災厄を呼ぶ邪剣となったそれを、アルト王は躊躇いなく海の底に封じた。……その海というのがこの【浄界】というわけだ」

「あの魔女はゴミ捨て場か何かなの?」

「知るか。だが封印には都合が良かろう。なにせ【浄界】の内側には外から入ることは出来ん。魔女自身が開帳し、その上で剣を魔女が召喚しなければならず、それでも外界に力を及ぼすことはできない。おおよそ一番の解決法だろう。巻き込まれた我々が苦しんでいること以外は」


 ザリスはアルト王の英断を苦々しげに褒め称え、それから声を改めた。


「それを利用する。聖剣が現世界で振るわれることはないのだから、お前が【浄界】の外に出てしまえば原因と結果は完全に切り離される」

「けど」


 それは無理難題ではないのかという言葉を、ザリスは遮った。


「つまり選手交代というやつだ。もっともこれは」


 エッジールは、遅れて気付いた。

 これほど長く動きを止めていられた理由にだ。


 これまでずっと魔術で姿を隠していたザリスが、洋上に浮かんでいた。

 ハルシャニアの両腕を、炎の鎖で縛り上げながら。


「事後報告だが」





「礼儀として言っておこう」


 煙をくゆらせ、炎の魔女ザリスは干魃の魔女の前に浮き立つ。

 片手には一冊の書物を閉じて持ち、片手にはパイプを挟んでいる。

 まるで自然に空中に直立し、褪せた色のローブをはためかせ、紫煙を細く長く吐き出すと、ザリスは低くかすれた声で笑った。


「今度は私が相手だ。……うむ。こういうのは一生に一度は言っておかんとな」

「……なまいき」


 だがハルシャニアが警戒しているのは、ザリスではない。

 その背後に立つ、海の大精霊ヴァイオラだ。


 ヴァイオラはうずくまるエッジールの頭をそっと撫でた。


「お休みなさい、エッジール。今度は、私たちの番ですから」

「でも」

「飲まれたりはしませんよ。魔女様のおかげですけど」


 ぱちりと片目をつぶって見せると、ヴァイオラは正面に向き直った。

 干魃の魔女は、大精霊が何か大きな術を準備しているのを感じ取っていた。

 周囲の【幽かな生命】を少しずつ、自身の支配下に取り込んでいるのだ。


 ハルシャニアの無言の招聘によって、海面が盛り上がる。

 【火炎縛フレイムバインド】の魔術の鎖を、細い鉄砲水が消し飛ばした。


 魔女と魔女が対峙する。

 ザリスは事務仕事とでも向き合うかの様な面倒臭気な態度で、口火を切った。


「さて、さて。ご覧のとおり私の切り札はこの大精霊ヴァイオラだ。ちゃちなお山の大将やカビの生えた蟹風情とは違う、正真正銘の海の支配者だよ」

「虎の威を借る狐ってやつね」

「狐火一つに手こずらされる雑魚風情では、虎に触れることも出来はすまい」

「【紀】に触れた魔女、神の妾同士で争う意味が分かっている? キュトスの姉妹は魔女同士の格付けなんて茶飯事よ」

「は。格付けなどと、よくもまあ。だがよし。――どれ、少し教鞭を執ってやる」

「このっ!」


 聖剣が輝きを放つ。悪しき穢れが蠢いた。

 ハルシャニアがぐっと姿勢を前に倒す。高波がハルシャニアの体を持ち上げる。

 ザリスは虚空で指を一振りした。


「【灼熱波ヒートウェイブ】」


 ザリスの足元で、大気が大きく膨らんだ。

 熱で膨張した大気が、風に乗って吹き付ける。


「あつっ――えっ、わっ」


 ハルシャニアの皮膚が彼女を運ぶ津波が、音を立てて蒸発した。

 足場を失ったハルシャニアが水面目掛けて落下する。熱波の内側で肉体を焼かれながら落水したハルシャニアは、すぐに傷の癒えた姿で這い上がってきた。


「ふむ。熱波でも表皮が焦げるだけか」


 ザリスは閉じたままの書物とパイプを空中に浮かべると、懐から手帳と万年筆を取り出し、何事かを書きつけた。


「さ、次々来い。知りたいことは山程あり、比して時は遥かに少ない」

「後輩魔女が、なまいき……!」

「はっ。年功序列などお前たちから程遠いものだろうが。長姉の定めた序列が年功を覆すのだろう? あるいはそれは建前なのかね。その辺りも是非聞かせてくれ」


 万年筆の蓋を押し込み、ザリスは薄く笑った。


「お前の全てを詳らかにしてやる――書物の一節に成り下がれ」

「気持ち悪い……!」


 海面が不自然に波打ち、槍となって飛び出した。

 ザリスは目もくれない。【空圧プレッシャライズ】の生み出す突風が水の槍を吹き飛ばす。

 水面を蹴りやってくるハルシャニアに向けて、ザリスは指先を虚空に走らせた。


「言理よ、酩酊せよ。【狂乱の爪デリリウムクロウ】」


 ザリスの指の動きに合わせて、熱を持った不可視の爪が空間を引き裂く。

 ハルシャニアは回避しない。深い傷も海水を浴びて回復し、走り続ける。

 だが踏み込んだハルシャニアの体が浮き立った。


「うわっ……!?」


 爪が引き裂いた空間は明らかに異常を発していた。

 重力方向が狂い、エントロピーが収束する。何もない場所が凍結し、着火する、狂乱する空間の中でハルシャニアの足が凍てついて砕け、毛髪が燃え尽きる。空間は穿孔し、ハルシャニアの肉が千切れる。


「このっ――ここは、私の、海だっ!」


 呼気とともに、歪な空間を津波が飲み込んだ。

 空間の異常を【浄界】の支配者は念入りに握り潰し、津波の奥から無傷のままのハルシャニアが戻ってくる。


「【炸撃ファイアクラッカー】」


 その顔面を小爆発が襲った。


「うっ、ざい!」


 よろめく細い体を、瞬く間に回復する傷を、ザリスは冷徹に見つめている。

 いつの間にかハルシャニアとザリスとの距離は開いていた。


「ふむ。霊体に直撃すればもう少し効果があっただろうが……」

「逃げてばかりね!」

「お前が近づいてこないだけだろう?」


 手帳にペンを走らせながら、ザリスはつまらなさそうに言い捨てた。

 そして指を走らせる。


「【炸撃ファイアクラッカー】」


 ボン、と小さな爆発。

 ザリスほどの魔女であれば予備動作など不要のはずの、魔術の中でも取り分け単純な、誰もが初めに習う初級攻撃術が、ハルシャニアの顔面を執拗に吹き飛ばす。傷をすぐさま癒やせるハルシャニアには通用しないと分かっているはずなのに。

 干魃の魔女はそれを、挑発だと受け取った。


「もう、うざったい……! 嘆き叫べ、我が大海!」


 瞬間、【浄界】を雨が満たした。


「【炸撃ファイアクラッカー】」


 不発――雨が寄り集まって爆炎を飲み込み、消し去る。

 ただの雨ではない。【浄界】が維持する特殊な雨だ。


 雨煙の向こう、迫るハルシャニアを、炎の魔女は冷静に見つめている。

 ザリスの結界が雨を阻む。触れればどうなるか分かったものではなかった。


「なるほど? 雨、露、雫は即ち涙に繋がり、故にそれらは邪視者と相性がいい。基礎的な邪視術だ。それくらいには【海】に干渉できるのだな」

「自慢の炎もこれで効かないわ」

「いいぞ。もっと見せてくれ。お前は何が出来ない? 何が出来る?」

「これの切れ味を教えてあげる」


 ハルシャニアは剣をやや不格好に振り上げ、ザリス目掛けて走り寄る。もたもたとした動作とはまるで理屈に合わない速度で迫る干魃の魔女。

 ザリスは一目で【浄界】の空間を縮めているのだと見抜き、しかし【霧の防壁シールドミスト】の防護を得るのみでその場に構える。


「生憎、炎ばかりが能ではなくてね」

「イィグスカリヴェル、その威を示せ!」


 振り下ろす。手つきは危うげだが、人一人を斬るには十分な勢いだ。

 召喚者の要請に答え、聖剣が輝きを放ち鋭さを増す。


「盛者必衰の理をあらわせ」


 刃はザリスの肩に食い込み――そして因果が歪み、担い手であるハルシャニアの肉を切り開いた。


「やがて朽ちるは【沙羅双樹】」

「うそっ」


 ローブと衣服、そして皮膚一枚ほどを切り裂かれたザリスは、呆れ混じりに鼻で笑うと、【炸撃】をねじ込んだ。


「それ、宵のっ!」

「たわけ。一度見た術を忘れる魔術師がいるわけなかろう」


 【沙羅双樹】。キュトスの魔女の七十一女にして東洋の剣士、陽下の宵が操る対刃呪術……刃傷を相手に返す呪い。剣の魔女たる陽下宵が剣を媒介に放つそれを、ザリスは純粋な術として編み上げた。


「あれはまだ私がか弱く幼い、不幸な貧弱魔術師だった時のことだ……」


 【炸撃】。物凄い顔をしていたエッジールは慌ててその場を飛び退いた。


「突っ込みが雑」

「さるクソ魔王に唆された私は、キュトスの魔女が主催する怪物ひしめく武闘会「星見の塔トーナメント」に足を運び、第一回戦で見事敗退して逃げ帰った」

「ださ」

「若気の至りというやつでね。だがこうして成長し幸運なんぞを握り潰せる程度には魔術を修めた私は、その時見てきたものを活かして取り込むことにしたのだな」


 刃傷に対する反撃結界。

 本来剣を介して張るそれであれば、わずかの傷も負わなかっただろうが、しかし幾星霜を経た聖剣をさえいなして返すその強度は本物だ。


「――どうだ、模倣にしてはそれなりだろう?」


 【修復レストア】で傷を癒しながら、ザリスはパイプを口に咥えた。

 忌々しげに己を睨みつけるハルシャニアを、嘲笑うように。

 【沙羅双樹】の魔術は維持されている。それが解かれぬ限り、ハルシャニアは手出しが出来ない。


「その剣を本来の担い手が振るったのならば、あるいはお前が剣士ならば……こんな模倣ごとまとめてたたっ斬るだろう。だがお前はそうではない」


 ハルシャニアが歯噛みするのを見て、ザリスは気分よく紫煙を吐き出した。


「お前は召喚術による偽りの主でしかないのだ。いかな聖剣と言えど、剣闘ごっこも知らないような痩せこけた小娘が振るったところで、その力を引き出せるはずがあるまいよ。模倣し劣化した魔術一つで弾き返せる程度でしかない……傑作だな」

「死ねっ!」


 不意打ちの【毒牙ポイズンファング】。ハルシャニアの腕が水に代わり、槍のように伸びてザリスの身を狙う。刃傷を返す【沙羅双樹】の結界を潜り抜け、その先へ。

 それを絡めとるは対抗魔術【陥穽エンスネア】。ザリスの皮一枚のところまで迫った水の槍は、術そのものを解体されて霧散した。


「もっともその程度の使い手でも精霊に向ければ一太刀で、というのが古き武具たちの理不尽さか。しかしそいつが封じられた理由というのが……そら、来たぞ」


 ザリスの指摘とともに、聖剣の穢れが蠕動した。


「っぐ――!?」


 聖剣を覆い尽くす魔女の呪詛が、悍ましく輝いて光の波を放つ。

 光度を増していくその波は、遠く離れたエッジールにすら、物霊問わず強い圧力をかけていた。それを手にしたハルシャニアにすら。


「黎明の魔女スィーリアの【汚染テイント】は万象一切を飲み込み光に還す、輝きの厄災だ。知らぬわけがあるまい。お前の番号上の妹、魔女にして理術師にして呪術師、竜に牙剥く獣たちの長、その一世一代の大呪詛だ。――さあ、何をしている召喚者。そいつを御してみろ、さもなくばそいつはお前の魂を焼き切るぞ」

「うるさいうるさい、うるさいっ!」


 ザリスと、その影に立つヴァイオラだけが、輝きの中でも平然としている。いや、ヴァイオラは心配そうに二人を見ていたが、術の準備は滞りなく進行していた。


「海よ、従え! 鞘と成せ!」


 ハルシャニアの絶叫に合わせて、イィクスカリヴェルの刃に海水が纏わりつく。

 輝きは水の流れに和らげられ、波動は力を失っていく。


 ザリスは何某かの防御魔術を解くと、一つ頷いてメモを取った。


「やはり海水そのものが封印か。過去の記録ほどの威力がなかった辺り、呪詛の浄化を担っているのか? しかしこれほどの時が経って尚これほど強いというのは、スィーリアの呪詛の完成度の高さが分かるな……その呪詛も是非精査してみたい所だ」

「余裕ぶって……!」

「ぶって? 違うな。余裕なのだよ」


 ザリスはパイプをふかして、つまらなさそうに言った。


「そろそろネタ切れか? お前の術の程度もおおよそ読めたぞ。よく見る魔女だよ。自身の異能に背を預けたままのうのうと生きてきた、弱く愚かな魔女だ」


 ハルシャニアは言い返せない。

 少なくとも魔術戦において、ザリスはハルシャニアを上回っている。


「この海がその証拠だ。研鑽も学習もここにはない。荒れ狂う波の激しさも、冷たく重苦しい死の気配も、生命を育む優しさも、ここにはない。お前が飲んできたのは、お前にとって甘美なものだけだからだ。だからこの海は、基本形として凪いでいる」


 炎の魔女は両手を広げて海を示し、言われてエッジールも気付いた。

 確かに、波立たず渦を巻かないこの海は違和感がある。これでは海というより空っぽの生け簀のようだ。


「愚かだな。こんなザマでは、清濁併せ呑む大いなる海に近づこうなど夢のまた夢。――わだつみの魔女を名乗るなど片腹痛い」

「けれどあなたは私を殺せない」

「果たしてそうかな?」


 嘯きながら、ザリスは思う。ハルシャニアの言葉もまた真実だ。

 ザリスは不死の魔女を殺すほどの術者ではない。神の秘儀【消去】に辿り着くほどに極まった者ではない。だがその自覚がある。ザリスは、程度を知っている。

 そして知恵がある。膨大な知恵を。魔術の深淵のその一端を。


「試させてくれないか。全身余さず吹き飛ばされても、お前は意識を保てるか」

「何を――」

「ふん。【浄界】の内側での魔術の維持くらい見破ってほしかったものだよ」


 ザリスが指を弾く。

 【隠蔽コンシール】が解除され、内にあるものが明らかになる。

 空と海は、紅の輝きによって満たされた。


「我が名はザリス――火刑の魔女」


 天空を覆い尽くすそれは、恐らく魔法陣のようだった。

 目を凝らしてみれば、それを描く光の線その一つ一つがまた別の魔法陣で出来ている。そしてそれが描く図形は、その全体と相似していた。

 基準となるのは三角形だ。三角形が二つ折り重なって、六芒星を作る。六芒星の端に生まれる三角形が、また別の六芒星を作る。


「うそっ」


 図形は増殖を繰り返し、無限に規模を増大させる。

 天を埋め尽くし尚足りない爆発的増殖。これほどの術を維持するザリスの負担や如何に。そして、その域にあっても平然とハルシャニアをあしらうその技量は。


「ここは私の世界よ、あり得ない……! こんな規模の滅びの呪文、【幽かな生命】が足りるわけないのに、どうやって!」

「これだよ」


 ザリスは胸元からそれを抜き取った。

 歯鳥ハトの羽根――メセルスである。

 魔術によって雁字搦めにされたそれから、膨大な力がザリスへ流れ込んでいた。


「お前の言うとおり、こいつの維持には【幽かな生命】が明らかに足りん。だがそもそも、【浄界】の内側で魔術を使うこと自体が非効率なのだ。ならば普段は見向きもしない非効率な手段でも、現実味のある選択肢になる。これがまた扱いづらくてな、はじめは諸々の【隠蔽コンシール】の維持で手一杯だったわけだが」


 ハルシャニアが妨害魔術を唱える。だが無駄だった。

 その魔術の特性は広く知られている。一度成立してしまえば止める手立てはない。術式の欠損を術式自体が補填し、魔力……【幽かな生命】の力の供給が維持されている限り、際限なく拡大を続ける。

 そして維持が解除されれば――それは勿論術者の死でも――発動する。


 そう。それはよく知られた魔術だ。

 フィクションでも、戦争でも、これほど知られた大規模破壊魔術はない。


「かつて世界を穿った威力竜オルゴーの息吹だ」


 魔術が降りてくる。


 最早平面では足りなくなった術式は、瞬く間に天より下り、海を飲み込んだ。


「お前の世界は、パンゲオンより頑丈か?」


 逃げ場はない。

 ハルシャニアは海の奥底へ逃げ、その全てが今や幾何学的な図形に支配されていることをようやく知った。

 ザリスは紫煙を吐き出し、初めて、魔術師らしく片手を掲げた。



「我が名の下にその暴威を解き放つ。全て滅ぼせ。――【オルゴーの滅びの呪文オルガンローデ】」



 光の柱が天地を貫いた。


 あまりの衝撃に、エッジールの体が浮いて吹き飛ぶ。ザリスの何かの結界に守られたヴァイオラが、それを優しく抱きとめた。

 降り注ぐ雨は消え去り、海は遠く押しのけられて底を晒す。

 天空が割れ、海は消え去った。

 光の柱は世界に容易く穴を穿っていた。海の底、あるいは天高くに、ぽっかりと開いた虚無の白を見る。それは混沌だ。あるいは未定義空間だ。アストラル体だけが踏み入れられる、紀元槍の加護の外側……。


 威力竜オルゴーは、無限の向上を示す創世竜だ。自らの力をひたむきに高め続ける力の竜――その息吹ブレスもまた、溜めに応じて際限なく威力を高めていく。これはそれを再現した魔術だった。

 数多の戦場で使われ、都市も国も焼き払った大破壊魔術。

 しかし世界を貫く規模となると、それは伝説の領域だ。


 エッジールは目を白黒させていた。

 かつての仲間、桃の魔法使いミューネラですら、十分な魔力バックアップを得てさえ魔法陣が立体化する程の【オルゴーの滅びの呪文】を唱えられた事はなかった。

 何をどうすれば借り物のメセルスを頼りにあれほどの術を扱えるのか、エッジールには見当もつかない。


 そのザリスは、興味深そうに顎をさすると手帳にメモを取った。


「壊れるが修復される。速度は普段の数倍遅いが、やはり私では無理か。うむ。実に有意義な試験だった。小異界の破壊などそうそう試せることではない」


 ザリスが手帳をパタンと閉じるのと、光が消え失せるのとはほぼ同時。

 海面にぽっかりと空いた穴に、海水がなだれ込む。水流が乱れ、渦を巻く。

 その中央から、ハルシャニアは登ってきた。


「危なかったわ。初めから、世界の外側に弾き出すつもりだったのね」


 ザリスは鼻を鳴らした。


「溺れながら浴びる【炸撃ファイアクラッカー】の味はどうだね」

「もっと美味しいのが食べたいわ」


 執拗に放っていた【炸撃】は、彼女の体を吹き飛ばすに必要な威力を図るもの。

 原理的には【浄界】は邪視者の内的世界と外世界とを入れ替える呪術だ。世界の中心である維持者を世界の外側へ押し出せば、矛盾を起こして【浄界】は消滅する。ザリスの狙いはそれだった。その目論見は失敗したが。


 だがあの規模の魔術でもハルシャニアは死なない。エッジールは下唇を噛んだ。

 あの魔女を傷つけるには、それこそ神や祖霊そのものが必要なのでは――。


「でもこれでおしまいね」

「うむ」


 ザリスは小さく頷いた。見れば、彼女は【浮遊】を維持することも出来ずに海面へと下降し始めていた。

 そこへ、ハルシャニアがゆっくりと歩み寄る。


「流石の私も無尽蔵に魔術を撃てるわけではない。蓄えていた魔力も呪力もからっけつで、霊体の消耗も激しい。メセルスからの供給もただで引き出せるわけではない。もう【沙羅双樹】なんぞ使えんし、本気で追うお前から逃げる術はあるまい」


 ザリスは平然と言うが、それは明らかに絶体絶命の危機だった。


「ザリスッ……!」


 飛び出しかけたエッジールの肩を、ヴァイオラが掴む。


「ヴァイオラ様っ」

「大丈夫です」

「だがまぁ、欲しい情報ももうなくてな」

「それじゃあ、いただきます――」


 ハルシャニアが剣を振り上げる。

 ザリスは呆れたように溜息を付き、片手を振り上げた。


「維持を解除。そろそろ次の茶番といこう」


 何を、とエッジールは口を開きかける。

 そしてそれに気付く前に、彼は吠えた。



「待ぁたせおってえええええええ――!!」



 空高くから、その男が降ってきた。

 竜鱗の篭手に両手を包み、竜牙の槍を振りかざし。


「悪しき魔女よ! 我が魂の輝きを受けよ!」


 ザリスの【浮遊】と【隠蔽】によって今の今まで隠れていた、精霊の勇者が。

 ボロミア王国の最後の王、精霊女王ボロームの息子が。

 白色九祖の加護を持つ男、シールロウ・フィーレバッハが――降ってきた。


「一子相伝――【ボローム根性焼き】――!」


 燃え盛る槍をハルシャニアに叩き込んだ。

 呆気にとられていたハルシャニアを、槍が怒涛となって打ち据える。

 エッジールは呆れた顔でそれを見ていた。


「海を枯らし民を苦しめる悪の魔女よ! 年貢の納め時というやつだ!」


 海の【浄界】の内側で炎の呪術を使う無謀故か、その勢いは本来のそれより劣っているが、そんなものがなくても、王は槍捌き一つで魔女を完全に圧倒していた。


「あ、相変わらずださい……」

「うるさい! 母上のセンスは我も分からん!」

「いつもより火力がないけど」

「――海はキツい!」


 元気よく暴れ回る王を尻目に、ザリスは平然とヴァイオラの前に戻ってきた。

 エッジールは言いたいことを飲み込んで、暑苦しいその男を指差した。


「……あのアホ勇者……でもなんで」

「初めから【浄界】に混じっていたよ。空にいた。何故かは知らんが、恐らく」


 ヴァイオラは苦笑いした。


「白眉のイア=テム様の差し金でしょう。海と雲は切り離せぬ関係ですから……」

「丁度よいから隔離して待機させた。おかげで滅びの呪文も少々火力不足だったが」


 ザリスは紫煙を深く吸い込み、細く長く吐き出した。

 視線の先では、暴れ回るシールロウに防戦一方になるハルシャニアがいる。

 というのも。


「その篭手、その槍、嘘でしょう……!」

「ふはははは! 気付いたか!」


 彼女が握るイィクスカリヴェルが、シールロウへの攻撃を拒んでいたからだ。

 呪詛すら振り切り、聖剣は王を守るべくハルシャニアの体を逆に支配し始めていたのである。


「そう! これは我が母の遺言に従い、星封槍ワリューウィアをガロアンディアンに奉納した際に受け継いだ、!」


 精霊に愛された女王ボロームは非常に長命であった。

 近年ようやく天に召された彼女の経歴は、竜王アルトの時代に遡る。

 竜王アルトの親しき友、精霊の寵愛厚き戦士ボローム・ボローム。


 竜王国を前身とするガロアンディアンは、アルト王とボローム女王の遺言の通り、その息子であるシールロウにそれを託した。

 後年回収され、装具に仕立てられた、紀竜の武器を。


「その名を開帳する! いざ行かん、【大いなる牙のディブラフェク】!」


 シールロウが担うのは、イィクスカリヴェルのかつての主、その魂だ。竜王アルトと竜王国によって認められた正統な竜王の後継者である。

 聖剣はそれを傷つけることを許容しない――ともすれば、新たな担い手として選ぶことすらあるだろう。


「長く歴史を経た武具は、歴史に則った力を発揮し、また歴史の通りに弱点を持つ。アルト王の認めた一国の王となれば、エセ聖剣使いにぶつけるにはちょうどいい」


 だがあの王でも、ハルシャニアを殺すことは出来ていない。聖剣の所有権を奪うつもりだろうか。それなら確かに戦いにはなるが。

 どうするのか、とエッジールが視線で問う。ザリスは鼻を鳴らし、背後を見た。


「お待たせしました」


 ヴァイオラは頷いた。


「何分【浄界】の内で使うのは初めてのことですから、手間取ってしまって」

「なに、想定より早いくらいだ、精霊殿」


 事態についていけないエッジールに、ザリスは陰鬱な顔を向けた。


「初めから、半ば確信していたんだ。お前一人では恐らく勝てないこと、私でも対処できないこと。……そして干魃の魔女が【浄界】を完全に発動出来ないこと」


 イィクスカリヴェルは半信半疑だったが、とザリスは紫煙をくゆらせた。

 ザリスは王の動きを見て思い出したようにメモを取りながら、語り始める。


「本来【浄界】は、術者の体内と言ってもいいほどに術者そのものと親和する。内に何があるか、何が起きているか、手に取るように分かるものなのだ。そしてそれを支配してしまえる。本来の海の支配者の開いた、真なる【浄界】であれば、魔術も呪術もその根本の法則を消し飛ばされて不発に終わる。海は生物のように蠢き、その全てが意のままに踊る。そして我らはとっくの昔に海の藻屑だ――だがハルシャニアは支配者ではない」


 エッジールはそれを聞きながら、ヴァイオラの顔を振り返った。

 彼女は深い瞑想を終えて、瞳を開いた。

 ハルシャニアとは違う、正当な海の支配者が。


「キュトスの魔女でありながらハザーリャの力を司る半端者。そのくせ、現実に目を背けて怠惰に海を飲み続ける、己の運命に抗いもせぬ盲目な従者。その半端には代償が伴う。どれほど逃げても現実はお前に追いつくのだ、ハルシャニアよ」


 ハルシャニアが焦燥を浮かべる理由に、エッジールはようやく合点がいった。


 ――奴の海は永劫に完成せん。


 ザリスはかつてそう言った。

 海の支配権である【女】の紀を持たないが故に、満たされることはない。

 ではその内を、満たす日が来たら?


「永遠の干魃などありはしません。潮が引くなら、また押し寄せる」


 背後から、慣れ親しんだ空気が漂っている。

 乾いた空気と、潮の香り……【眷属】の海の匂い。


「――零れ落ちるは我が涙」


 ヴァイオラの大いなる邪視が発動する。


 神に等しい精霊が、太古を生きた妖精の始祖が、どうして使えぬ道理があろう?

 神の御業を。世界を作る、究極の一を。


「悠久の向こう側においでなさい。瞳を閉じて、そのさざめきを聞きなさい」


 幾星霜の果てに消えた失われた光景。

 大いなる海の精霊が、その故郷を呼び覚ます。




「【浄界エリュシオン】」



 偽りの海を、真なる海が、飲み込んでいく。



「皆が眠る、我が美しき――【はじめの海アルカェ】で」




 荒れ狂う【ハルジャール】の上を、細波さざなみが滑っていった。

 それだけで、世界は全くの別物になっていた。


「うそ……」


 ハルシャニアは青褪める。

 どれほど呼びかけても、海面はぴくりとも持ち上がらない。聖剣は波に触れた途端、少女の手からすり抜けて、水底の深くへ落ちて消えた。


 最早海は、彼女の味方ではなくなった。


 懐かしき故郷の香りに当てられて、アイオルフォンが息を吹き返す。

 低く、長い、汽笛にも似た恍惚の吐息。


 ――おお……我が海……我が故郷……!


 気付けばハルシャニアの周囲には誰もいない。

 アイオルフォンも、シールロウも、皆ヴァイオラの後ろにいた。

 【浄界】のうちは彼女の手のひら。ものの場所の入れ替えなど造作もない。


 これはヴァイオラが胸に宿した原初の海。

 彼女が生まれた場所。全てが流れ出した場所。紀元獣パンゲオンの血。


 世界の支配者は、慈愛に満ちたその美貌を僅かに歪めていた。

 ただ少し、眉尻を釣り上げるという形で。


「干魃の魔女よ。それほどに海を求めるのなら、私が与えて差し上げます」

「やめて、やめっ」


 言い終える前に、ハルシャニアは海中へと没した。

 逃げたのではなく、引きずり込まれたのだ。

 ヴァイオラは僅かに両手を掲げた。


「お仕置きです。さぁ――お飲みなさい」


 【浄界】から【浄界】へと、海が流れ込む。

 それは視覚的には、溺れる少女の口へと海水が殺到するという形を取った。


 ごく、ごく、ごく。


 嚥下の音が響き渡る。


 驚くことに、世界の水位は上がっていた。魔女の内側へと流し込まれて尚尽きない無限の海。ヴァイオラの意思によって、世界は海に満たされようとしている。

 高く、高く、水位が上がっていく。ハルシャニアは流し込まれるそれに抵抗も出来ず、ただ飲み下していく。


 ごく、ごく、ごく。


 ごく、ごく、ごく。


 ハルシャニアの内が満たされていく。

 満ちる筈のない、満ちる事を許されない魔女の腹が、はじまりの海で溢れていく。


 ごく、ごく、ごく。


 ごく、ごく、ごく。


 悲鳴さえも、海水とともに嚥下するしかない。


 無限にさえ思えた魔女の腹はしかし決してそうではなく。

 真に無限である原初の海が、その腹を満たしていく。


 空の果てが近づく。


 エッジールは、神話の光景を目にしていた。

 手を伸ばせば届くほどの空の境。世界をいっぱいに、海が満たそうとしている。


 原初、アルカェとは形なく空間を満たす何かであったと言われている。


 この広がりゆく海こそが、まさにそれだ。

 万象を満たす、温かく柔らかで、掴みどころのないもの。


「これが……」


 エッジールは身を沈めた。暖かく柔らかな海の青。全ての命の母の胎。

 天辺から地の底まで、全ては海の中にあった。


「……これが、【浄界】」


 その主たるヴァイオラは、微笑みとともに手をかざす。


 僅かに残った世界の隙間が、ついに満たされ――。




 ――気付けば、そこは西の海。

 ふとしたときには、エッジールは海面に立っていた。


「……ふう。疲れちゃいました」


 【浄界】を内に収め、ヴァイオラは悪戯っぽく微笑んだ。


 エッジールは浜辺に打ち上げられた魔女を見た。

 ハルシャニアの内からは海水が溢れ出していた。口から、鼻から、あるいは傷口から、汗となって皮膚から、勢い良く噴出する海水たち。

 ただそれは、海の化身たちの比喩なのだろう。

 干上がっていた浜辺が見る間に水位を上げていく。魔女が吐き出すよりずっと多くの量が海に注がれているようだった。


 干魃の魔女が飲み込み失われた海が、あるべき場所へと帰っていく。


「……どうなったの?」

「どうなったのだ?」

「奴の【浄界】は壊れた。満ちるはずのない世界が満たされたことで奴の海……小世界は破綻した。……正確ではないが、容器が内から弾け飛んだと考えればよかろう。維持できなくなった世界が消滅し、現世界が支配権を取り戻す。内世界という器に収められていた海水が、現世界に流れ出したのだな」


 ザリスは自慢げに鼻を鳴らした。


「これが私の切り札、紀元精霊ヴァイオラの【浄界エリュシオン】だ。実に素晴らしい光景だった。いやはや苦労したかいがあったというものだよ。始原の世界を垣間見れた……。私は今感動しているよ。そうは見えないかもしれんがね……」

「……結局人任せだったの?」

「殺せぬのだから苦しめるしかないが、私はそういうのは苦手なのさ」


 言い終え、ザリスはふとパイプのボウルを見た。煙草は既に燃え尽きて、僅かな燃え滓が残るのみだ。紫煙混じりの溜息を吐き、ザリスは浜辺へと歩き出した。エッジールは慌てて追いかける。


 浜辺では、ヴァイオラがハルシャニアの隣に腰を下ろしていた。


「大丈夫ですか?」


 この期に及んで魔女の心配をする辺りが彼女らしい。エッジールは思った。


「ゔぁー……」


 だばだばと口から海水を戻しながら――冷静になるとかなり嫌な絵面だ――ハルシャニアはかぶりを振った。


「そうですか。では、立ち退いていただけますね?」

「ゔぁー……」

「よろしい」


 今度は頷いた。海水が飛び散る。

 ヴァイオラはハルシャニアの青白い肌にそっと触れると、喉から腹へと指を這わせた。少しなぞるたびに、魔女の体がビクンと激しく痙攣する。

 下腹から手を離せば、ハルシャニアの嘔吐、もとい排水は止まっていた。


「うぷ……」

「暴飲暴食は美容健康に悪いですよ?」

「うん……しばらく飲まない……」

「それで良いのです。適度に嗜む分には止めはしません。節度を守りましょうね」


 顔色悪くそんなことを言うハルシャニアを膝に寝かせると、ヴァイオラは彼女の背をさすりながら微笑んだ。


「これで問題解決だ。実に有意義な体験だった。貴重な資料を山ほど得られた」

「……いいことばかりじゃないけど」


 エッジールは小さく頷き、それから、降って湧いた新たな問題を振り返った。


「フハハハ! 勧善懲悪は世の理よ! 悪しき魔女よ、これに懲りたら行いを省み、更生するがいい! ……うむ? どうしたのだエッジールよ。我に惚れたか?」

「黙れ」


 彼……ボロミアの王シールロウは、麗躍九姫の敵だった男なのだから。



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