あぶくの魚と小さな魔女

黒い霧は尾を引き、水族館の中へ中へと潜っていく。

誰も靄には気付かず只楽しそうに魚を眺めるばかりだ。

やっぱりおかしい。

私に見える靄は皆には見えてないの?

焦る心に足はもたつき、上手く前に走れない。

距離は縮まるどころか徐々に開きつつあった。

 ごった返す人の波をすり抜けていく黒い塊はトンネルの中に消えていく。

文字盤を流し見る。

『ここから先、海中トンネル』

走り抜けるつもりで中に入ったものの道幅は狭く、前を行く人達はきちんと整列している。

列に割り込む訳にもいかず、仕方なく最後尾に並ぶ事になる。

早く早くと気持ちは急くのに、動く床はゆっくりと海底の散歩を楽しみ皆一様に頭上や周りを泳ぐ魚に釘付けになっていた。

 魚達はドーム状の水槽をゆったりと泳ぎまわり、華やかに水槽を彩っている。

こんな時じゃなかったら、さぞ楽しめた事だろう。

家族連れやカップルの楽しそうな声も今は耳障りでしかなかった。

 青いトンネルはゆっくりを終わりを告げ、出口はクラゲがお出迎え。

ふわふわ浮かぶ風船達は上へ下へとたゆたい泳ぐ、白い風船達の群れ中央水槽近くのアクリルに黒い靄が映り込んだ。

いた!

人の波を泳ぎ、ぶつかっては謝って。

やっと見付けた黒い靄は大きな水槽の一番後ろ、椅子に腰掛けていた。

 

 


 年の頃は二十代後半から三十代だろうか。

セミロングの茶髪にベージュのトレンチコート。

派手さこそ無いもののしっかりとした身なりの女性はしかし、体中から黒い靄を立ち昇らせている。

嫌な靄だ。見ているこちら迄不安に駆られる。

言葉に言い表せないこの嫌な感じは何だろうか。

ゆっくりと近づきながら考える。

 何て声をかけよう。

声をかけるのはもう自分の中で決まっていた。

只、あの人に何と声をかけて良いのか。

 黒い靄は彼女を包み込み表情がはっきりと読み取れない。

だけれど、視線の先にはしっかり水槽を捉えている事だけは分かった。

「魚好きなの?」

靄のかからないぎりぎりに腰掛け彼女を見る。

声をかけられた女性は驚いてこちらを向いた。

「こんにちは。」

にこりと笑顔を作り彼女を見る。表情は読み取れないが、困惑しているのは何となく分かった。

「あなたは一人?」

 女性の言葉に首をふる。

「ぱぱをね、待ってるの」

わたしの言葉に女性は困ったようにあたりを見回した。

「ぱぱが来るまでまだ時間が有るの。退屈だから、お姉さんお話相手になってくれない?」

一気にまくし立てると女性は迷うようなそぶりの後、十分だけねと言い置いた。

「それまでに、お父さんが来なければ迷子センターにいきましょう?」

彼女の言葉に頷いて言葉を続けた。

「お姉さんは一人?」

「ええ」

 声が少し固くなった。言葉と共に靄も色を増す。

「ここは、思い出の場所でね。昔よく来たのよ」

懐かしそうに水槽を眺め、彼女はここにはない景色を眺める。

眩しそうな視線は下に落ち、彼女は俯いてしまった。

辛い事を思い出したのだろうか。

一瞬間を置いて、彼女は顔を上げ再び話しかけてきた。

 「ねえ、人魚姫って知ってるかしら」

唐突に話題が変わったので、頷くことしか出来なかった。

少し考えてから言葉を紡ぐ。

「陸に住む王子様に人魚姫が恋をするお話しでしょ?」

「そう、嵐の夜。王子様を助けた人魚姫はもう一度王子様に会いたくて、海の魔女にお願いして足を貰うの」

話す女性の声は悲しみを帯び、見えないはずの瞳が揺れた。

声に答えるように靄は渦巻き、もくもくと形を変えていく。

雲行きが悪い、嵐がくる。

いけない。

このままじゃ。

何がかは分からなかったけれど、そう思った。

「声と引き換えにね」

「ねえお姉さん」

精一杯の優しい声で彼女を呼んだ。

彼女の悲しみが潮のように引いては押し寄せてくる。

悲しみの靄は私の指先に触れ、彼女の記憶を雫となって滴らす。

 「知ってる?魔女ってね。色んな魔女がいるんだよ」

彼女の顔を見る。まだ顔は見えなかったけど、こちらに興味は示してくれた。

「わたしもね。一人魔法使いを知ってるの」

彼女は困ったように口元に手を当て微笑む。

だけど、笑顔はぎこちない。

「とっても優しい人でね。魔法をかけてもらったんだ」

 私は彼女のように魔法は使えないけれど。

大丈夫、とっておきの仕掛けがある。

大事なのはタイミング。

周りの音に注意して。

「だから、お姉さんにも魔法のお裾わけ」

オズのように胸を張れ!

 私の笑顔と周りの歓声が重なった。

時刻は十二時半。

一瞬女性の目線は水槽に映る。

黒いポシェットから出すは飴玉。

私の魔法の総仕上げ。

「ねえお姉さん。人魚姫は恋が叶わなくて泡になって消えちゃったけど、死んじゃった訳じゃないと思うよ。」

声に彼女の身体が動いた。

 素早く手を取り言葉を続ける。

「アンデルセンは死んじゃったって書いてないんだもん。もしかしたら、人魚のあぶくは海に溶けて新しい命に生まれ変わったんじゃないかな?」

彼女の手の中にしっかりと飴を握らせる。

「この飴はおねえさんのあぶく。食べて溶けたら、きっと新しい自分になれるよ」

彼女はゆっくりと手を開き私と飴を見比べる。

ゆっくりと自分に確かめるように声を出した。

「変われるかしら」

「もちろん、あなたが望むなら」

包みをはがし、大きく口を開ける。

手の中の飴玉はゆっくりと口に放り込まれた。

入れた飴玉はしゅわしゅわと溶け出して、彼女の涙に変わってしまった。

 私のあげたサイダーは彼女の魔法に成り得ただろうか。

人魚の涙は真珠のように止めどなく流れゆく。

この喧騒が終わるまで私は彼女の手を摩る。

魔法の時間は後僅か。

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