ひとそれぞれ -Lotus flower-

kato

第1章 環境

男は砂漠を歩いている。


1人の少年


 男はラクダに乗って砂漠を歩いている。

 故郷の村がつぶれたからだ。原因はいっとう簡単水不足で、女も子供も老人も一人残らず死んだ。しかし、男はラクダを持っていたので命からがら生き延びた。村の長から預かったなめし革のカバンを持ち、走り走り続けて三日が経った。

 どこを眺めても砂と丘ばかりで、ちっとも水にたどり着けない。人の肌によく似た灼熱の砂、砂、砂。生き物をはねのけた粉塵が舞う。

 男の頬は削げ落ち、目はうつろに宙を漂っていた。男のラクダも死にかけていた。口から泡を滴らせ、どす黒い目は疲労を描いている。

 太陽の熱にうなされ、蜃気楼か眩暈かさえわからなくなったころ、男はひとつの町にたどり着いた。太い木柱が二本立っている。村の名前もないが、それが入り口だと分かった。故郷の村と同じ作りだからだ。

 男は白目をむきながら入り口へ吸い込まれる。儀礼的にラクダを降り、紐を引いて歩いた。いくら死にかけているとはいえ、村のなかを駆け回る勇気はなかった。

 家はいくらあっても、人の気配はない。唐草と藁と土でぞんざいに作った家々は、吹けば飛びそうなほどもろい。

 すると、ほら穴のような家の前に、一人の少年が座っていた。力なく体中の骨を抜き取ったような格好で、じっとしている。少年は、右手に赤いリンゴを持っている。砂になりつつあるリンゴだった。水分はまるごと失われ、それでもかろうじて形を保っている。こんな土と熱ばかりの土地に、どうしてリンゴがあるのだろうと男は思う。リンゴを栽培できるほどの水があるのだろうか。

「この村に長はいるか」男は少年に尋ねる。

 少年は口をポカンと開けたまま、顔も動かさず視線だけを男へ向ける。手に持つリンゴが転がり落ち、砂に滑らかな線を描く。

「あんたは誰だ」少年は話すことができた。乾き切った声だった。

「隣の村の者だ」男は答える。「隣の村がつぶれたのでやってきた」

 少年は、ほう、と言い、目以外は動かない。

「隣の村は4つある」

「そのうちの1つだ」

「4つの村の1つの村から来た1人の男」少年は首をかしげる。

「なんだっていいだろう。もう終わったことだ」男は疲れ切って答える。すぐにでも足元に落ちたリンゴに飛びつきたかった。

「おまえはさっき、長はいると言った。一体、どこにいる」

 こうしている間にも、素肌は火傷するような光に照らされている。

「長は、村で1番大きな塔のそばにいる」

「それはどこにある」

「村で1番大きな塔のある場所にある」

 まったく、と男は呆れる。言葉遊びに過ぎない。

「わかった。村で1番高いのであれば、村のどこからでも見えるだろう。それで十分だ、これっきりにしよう」

 男はラクダの手綱を握りながら少年へ言う。少年は、口をポカンと開けたまま目だけで男の姿を捉えていた。

 男は歩き始める。最後まで、少年の足元に落ちたリンゴを気にしながら。あのままでは、砂に食いつぶされてしまう。

 もったいないなと思う。


3人の女

 

 しばらく砂の家に囲まれた道を歩いていると、高い空に塔が見えた。それは、まさしく太陽そのもののようで、空間をふたつに分け、圧倒的だった。

 男は、ため息を吐いて塔へ向かって歩き出す。

 大きな家の角を曲がると、路地裏に3人の女がいた。全員同じ白い布をかぶっていたが、年齢はバラバラだった。裏口には黒ずんだ木桶が並んで日に乾かされている。

「あら、この村の人じゃないわね」

 女の一人が快活に言った。20代ほどの若い女で、肌が浅黒く、整った顔立ちをしていた。白い布は足の爪先まですっぽりと隠すほど丈が長い。

「どこからいらしたの」

 その隣にいた40代くらいの女が言った。口の周りにシワを寄せて訝しそうな顔をしている。

「なんだお前は、早く出て行きなさい」

 さらにその隣にいた、腰を曲げた老婆が男を睨みつける。シワだらけの手でハエを払いのけるような仕草をする。

「隣の村から来た。長に会ったら出ていく」男は女たちの質問に答えた。

「長はどこにいる」

 少年を疑っていたわけではないが念のためもう一度尋ねる。

「村で1番高い塔のそばにいるわ」

「村で1番高い塔のそばにいるわ」

「そんなものはいない」

 女たちは息を合わせたように言う。老婆だけ言葉が違った。

「ありがとう」

 男は、腹を曲げて深々と頭を下げる。そして、またラクダを引いて歩き出した。

「あら、あなた、水を飲んだ方がいいんじゃない。倒れてしまうわよ」若い女が言った。

「そうよ、うちへ寄っていきなさい」中年の女が、二、三軒離れた土の家を示しながら言う。

「そんな男をうちへいれるな!」二人の提案を横で聞いていた老婆が怒鳴りつける。

「快い提案ですが」男は三人の女たちへそれぞれ視線を向け、頭を下げた。「長に会わなければなりません」

 そうして、ラクダを引いて歩き出す。女たちの一人が声を上げたが、振り返ることはしなかった。


1人の女


 土に穴を掘っただけの家が並ぶ。時折、風が吹き、土を巻き上げる。灼熱の霧中を歩き続ける男は、ふと自分が今まで生活していた村のことを思い出した。

 男の住んでいた村にも、さっきの女たちのように噂好きな者たちがいた。村の井戸のそばで洗濯をし、食器を洗い、夕飯の準備をしながら、いつ見ても話し続けていた。よくそれほど話すことがあるな、と男は思った。彼にも妻がいて、妻もよく女たちと話していたが、流行り病であっけなく死んだ。子どもを持つことがなかったのが、男の後悔だ。男は、村で飼っているヤギを捌いて差し入れをしていた。村人がほとんどみんな死んでしまったので、男はヤギを入れた柵を開けて彼らを逃がした。逃がしたとしても、こんな砂ばかりの土地ではどうせ死ぬだろうと思った。柵の中にラクダがいたので乗って逃げてきた。ラクダは二頭いて、もう一頭はメスで腹が膨れていた。

 男は連れてきたラクダを引きながら、体にたかるハエも払わず歩き続ける。腰に付けた皮のカバンから乾燥イナゴを一つ取り出して、ラクダの口へ放り込む。はなから顎が外れているようなせわしない動きで噛み砕く。

 音のない村だ。

 その時、後ろから声をかけられた。聞き覚えのある声だった。

「ほらあなた、ここへいらして。水があるわよ。そんな体では長に会う前に死んでしまうわ」

 それは、さっきいた3人の女のうちの1人だった。一番若い美しい女だ。砂色の肌は艶めき、その下に忍ぶ、豊富な肉の存在をほのめかしている。清潔な衣類は砂をはねのけ、風も光もその他すべてのものを受け入れるように寛容だ。

「結構です」男は答えてすぐまた歩き出そうとする。「私は長に会いに行かなければなりません」

 するりと女の手が男の手を引く。

「長に会う前に、水を飲むくらいいいでしょう。あなたは、隣の村からここへ来るまで長い間苦しんだのだから。なおさらそうでしょう?」女は八の字になった眉の下で微笑む。ぶ厚い唇が泉のように濡れていた。その手はやわらかく、肌をすべる感触まで支配されているようだ。

「ねえ、こちらへいらして。長い時間じゃないわ。人生のごく一瞬よ」女は振り返りながら答える。ひょっとしたら、二人の女が来ることを警戒していたのかもしれない。男はすこし考えて、答える。

「ここへ水を持ってきてくれませんか。狭い路地へこいつは連れていけません」ラクダの体を叩く。

「ダメよ。運んで来る前にこぼしてしまうわ。ラクダはつないでおけばいいわ。そうでしょう?」女が首を傾げる。

「繋いでおいたら逃げてしまうかもしれません。ラクダが逃げたら私はもう旅をすることができません」

「ラクダが逃げたらこの村へ住めばいいわ。あたしの家へいらっしゃい。水も小麦もたくさんあるわ」

 輝く目をした女は男の腕を掴み胸の前にかかげる。男はすこし考えてから、その腕をするりとほどいた。

「村へ入ったばかりで、子どもに一人会いました。子はやせ細り、リンゴをかじっていました。近いうちに死ぬでしょう。それに比べて、あなたの体には肉がある。肌はすべらかで、目は健康そのものの輝きをはなっている。祝福された赤い唇から漏れる声は小鳥のように美しい。なぜ、あの子どもに水をやらないのですか。私に水をくれてやるというのであれば、先に、あの子どもにあげてください」

 男はラクダのざらつく皮をなでてやり、女に疑惑の目を向けた。その時、女の口が半分歪むのを男は見逃さなかった。

「あれはあたしの弟よ。家から飛び出してどこへ行ったかと思えば村のはずれに住み出したわ。変わり者なの」

「弟ならなおさらだ。あなたは実の弟が死にかけているのに放っておいて、他の村の男に水をやるのか。どうかしている」男は倦み疲れたように答えた。男にも弟が一人いたが、妻と同じ流行り病であっけなく死んだ。

「だって」と女は口ごもる。手をいじらしく動かしながら、自分の足元を確認する。砂の中には時おり大きな石が混ざっていて、踏みつけると痛みがある。「水をやってもどうせ死ぬでしょう?」

 女ははにかむような、どこか照れ臭そうな顔でつぶやいた。口にする言葉と裏腹の、残虐な笑顔だった。「あの子は病にかかっているわ。だから家を出たのよ」

 どうして、今の今まで気がつかなかったのか。病は、この村にもはびこりつつあるのだ。背筋がゾッとした。死の手に絡みとられそうになりながらも、ようやくたどりついた村で、同じ病が流行っている。にも関わらず、目の前の女は幸福に身を委ねている。

「そんな弟を、どうしてあなたは放っておけるんだ。今すぐに、水をやりに行きない。さもなければ、神があなたを許さないだろう」

「いやよ。だって、ここからじゃ遠いもの。病気があたしにうつったらどうするの。いやよ。あなたがやってあげてちょうだい。とっても正しい人みたいだから」

 女は体の後ろで手を組みながらその場で何度も何度もクルクル回る。白い布が風にたなびき円を描く。

「私は長に会いに行かなければならない。時間がないんだ」

 男は苦虫を噛むような思いでやっとそう言った。

「そんなに急いでどうするの。なにか渡すものでもあるの?」

「渡すものはあるが、それだけではない。私は長に話さなければならないことがある。隣の村がつぶれたわけを」

 男はなかば強引にラクダを引いて、塔へ向かう。

「あら、それはとても大事なことね。気になるわ。どうかあたしにも教えてくださいな。お願いよ」女は体を曲げながら、ねっとりとした声を出す。

「早く家に帰りなさい」男は振り返らずに言う。「帰ってあなたの生活をするといい」

 男は今年で35を過ぎたばかりだが、男の妻は、この女より2、3若かった。

「ひどい人」女は最後にそう吐き捨てて走り去っていった。そこで、さっきの二人の女たちに合流する。男の方をじっと三人で見つめて何かを話していた。

 男は、今度こそ振り返らないようにして、塔を目指した。


1人の老婆


 風のなかに雨のにおいが混ざり始めていた。この地で生きるものにとって、もっとも重大なにおいだ。砂の家に生きる者は、そのにおいをかぐと、すかさず砂の家の上にオケを置いて、火を焚いて麦を茹でる。雨が降ればオケへ水が溜まり、家のそばのタンクへ落ちるようにしている。

「ちょいとそこ行くおまえさん、ラクダの毛ごろもを身にまとう人よ」

 男は声をかけられて立ち止まる。周りを見回す。しかし、土の家ばかりで人の姿はなかった。

「どこを見ているんだい。人が、おまえさんの目の高さにいるばかりと思い込むのは、まったく失礼ってもんだ」

 しわがれた声が笑い声を上げる。あたりをよく見回すと、土の家の壁にもたれて女が一人座り込んでいた。赤と、青色と、緑の布をかぶり、座り込んでいる。男は、老婆の言葉にムッとして、言い返す。

「あなたがそこに座っていることを、天が教えてくれるわけでもないのに、どうして隣の村の俺が知っているんだ」

「おやおや、隣村の人かいな。こりゃあ困ったもんだね」

 男は、年の功を垣間見たようだった。

「まったくその通りだよ、ばあさん。あなたくらいの人はみんな死んでしまった。弟も、妻も、みんな。俺に残った大事なものは、あとはこのラクダくらいだ。隣の村から逃げてきたんだ。しかし、この村にも、どうやら病は落ちているようだね」

 男は、村のはじめに見た少年のやせ細った体を思い起こす。ひょっとしたら、この座り込んでいる老婆も、そうなのかもしれない。

「ははん、隣の村はずいぶんと遠いのに、よくまあたどり着けたものだね。若さがあるからだ。ああ、おまえさんの若さがうらやましいよ」老婆は、シワだらけの腕を男に差し出して睨みつける。

「ばあさん、そんな軒下にいたら、ますます歳を食ってしまうよ」男は、ふざけて言う。「それよりも、長がどこにいるか知らないか」

「長?」と言って、老婆は首を傾げる。

 その反応に、男は動揺した。

「ああ、はいはい」男はほっと胸をなでおろす。「それなら、村で一番高い塔のそばにいるよ。ずうっとそこにおられるんだ」

 男は礼を言い、歩き出そうとする。空は相変わらず陰りを見せ、灼熱の風はぬるくなってきていた。

「ありがとう、ばあさん。もうすぐ雨が降るから家に入るといい」

 男は、歩き出しながら声をかけた。その時、まるで地が揺れるほどの笑い声が聞こえた。しわがれた声を持つ老婆が、若者のように大声で笑っていた。

「おまえさん、おまえさんよ」老婆がまた男に声をかけてきたので振り返ると、先ほどまで老婆がかぶっていた布が風に吹かれてはためいた。そうして、男は見た。そこには本来あるべき二本の足がなかった。

 男は、目を丸くして、その場に立ち尽くした。

「おまえさんよ、ひとつだけどうか頼みを聞いてはくれないか」老婆は笑うのをやめて首をかしげた。

「でも、俺は一刻も早く長に会わなければいけないんだ。そのためには早いところ、村で一番高い塔を目指さなければならない」

「ああ、それでいいさ。わしの願いは長に会ったあとでいい」

「それなら構わないさ。なんでも言ってくれ。俺にできることであれば」

 老婆はシワだらけの顔をいっそうシワだらけにして、再び笑った。

「長の顔がどんな風か教えてほしい」と言った。

「なんだ、ばあさんは、会ったことがないのか」

 男は肩透かしを食らった気分だった。老婆が足を失い、それからどうやって生きてきたのかわからないが、その歳になるまで長に会うことがなかったのだろうか、と疑問に思う。

 その時、冷たいものが肌をすべった。男はすぐに心を踊らせた。雨だ。待ち望んだ水。

「おんや、雨が降ってきたようだね。さあ、どうしたもんか」

 女は両手で体を引きずりながら、家の入口へ向かう。

「おい、ばあさん」男は声をかける。

 そのとき、ようやく、振り返った足のない老婆の顔をよく見た。

 シワだらけで皮膚にまみれた顔の、本来目のあるところに、白い玉がふたつあった。白濁した目は誰もいない場所へ向けられる。

「頼むよ、お若いの」

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