わらえれば 03
3
……まあ、死んでないけどね。
あの謎の物体Xを食べたインパクトにギリギリ耐え、何とか意識を維持していた僕は、パラソルの下で一時の休息を取っていた。
「ぶふぁあ!」
買ってきていたスポーツドリンクを一気に胃に流し込み、空のペットボトルを副会長愛用の学校指定カバンの形をしたゴミ箱に放り込む。
「……死ぬかと思った」
心からの本心を呟いて、僕はふと隣を見る。
そこには静かに波間を見つめる長い黒髪の少女の姿が一つ。学校指定のワイシャツにスカート、そして麦わら帽子という一見ミスマッチないでたちだけれど、彼女には実によく似合っている。
そこだけがまるで
「楽しいか? 朱音」
賑やかな時間のその合間の静寂の中、思わずそんなことを聞いていた。
「ん、楽しい、よ」
視線を波間に向けたまま、彼女はほんの少しだけ口元と目じりを動かして、けれど柔らかく微笑んで答える。昔から変わらないおっとりとした話し方と軟質な声に少しだけ安堵する。
「そっか」
「りゅーくんは、アレに、混ざらなくていいの?」
「りゅーくん言うな」
「りゅーくん」ほらな「混ざらないの?」
「……いや、僕にはアレに混ざるほどの元気も勇気もないな」
アレとは叫び声を挙げながら波打ち際で本気でドロップキックなどを打ち合っているバカ二人のことを指している訳で。
「制服のまんま、塩水に浸かって、大丈夫なのかな?」
「大丈夫じゃないだろ。そのまま乾かしたら明日あたり立派な塩の白ランと白ブレザーの完成だっての」
朱音はもちろん、僕も既にワイシャツ姿。潮風に当たるだけで案外と制服は白くなってしまうため、事前に生徒会室に置いてきている。
「なんか、リアルに光景、浮かんでくるかも、それ」
「塩コーティングされた制服で、月曜にでも怒られればいいんだよ」
呟きながら、波間の戯れをまじまじと見る。
傍目にはただのアホな行動で、身内である僕らから見ても結局はそうなのだけれど。ただまあそれでも、僕らにしか解からない事実も少しではあるが確かにそこにあるわけで。それは例えば、去年よりずっと表情豊かになった後輩の姿だったり──
「友香ちゃんのこと、考えてる?」
「おおう!?」
思考を見抜かれてしまった。ちょっとびっくりしてしまったじゃないか。
「……友香ちゃん、よく笑うようになった」
「そうだな。元々ノリは良かった傾向があったし、変わり始めればこんなもんだろ。まあ、まだぎこちないけどさ」
時折見せるようになったナチュラルな笑みは、しかし文字とは異なり自然なそれには程遠く、まだ硬い。笑い始めた頃からまだそんなに経ってないからなあ……。
まあ、僕をいじめている時の笑顔は異常なほどいきいきしているんだけどもな!
「よかった、ね?」
「ああ……って、思わず肯定しちまったけど、何でそんなことを?」
「去年、りゅーくんが、一番心配してたのが、友香ちゃんだったから」
「……ふむ」
顎に手をあてて、思案顔を作ってみる。幼馴染に隠し事は出来ません、といった所か。昔から鋭いところがあるよなあ、こいつ。
「あの秋の宣言から、始まって。感情はだいぶ出てくるようになって、『笑う』のは去年の冬あたりから、劇的によくなったと、思う」
「そうだな。友香も、時間はかかったけど生徒会にだいぶ馴染んできたってこ──」
「……なにか、あったでしょ? 友香ちゃんと、去年の冬」
「──ことっかにゃっ!」盛大に舌を噛んだ。しかも2回。無駄に可愛く「…………」そして沈黙。
何? 幼馴染に隠し事が出来ないってこういうレベルなの? あの冬あの時あの場に誰もいなかったよね? 過去視で透視でサイコメトラーな超能力? エスパーじゃん。 いやいや、特にあの冬にやましいことがあった訳じゃないが。
「むう。りゅーくんは、解かりやすいなあ」
注意していないと解からないような苦笑いで、そんなことを言う。
「お前が楽しそうでなによりだよ……」
とはいえ、深く追求してこないのは助かる。もしかしたら全てバレているだけかもしれない、という恐怖はぬぐい去れないが。
と。
そのタイミングで、うきゃー! と遠くから一際高い声が届く。ふと見ると、アホ共が大きめの貝を両手に持ってカチカチいわせて奇声と組み合わせて反復横飛びをしながら威嚇しあっている。なんだあれは。最早訳がわからない、はたしてあれは本当に僕と同じ人類なんだろうか?
「ったく、楽しけりゃなんでもいいのかね、あいつらは」
思わず、呟く。
春の海に来て、ゲームして食べて飲んで、仕舞いには海へ突貫。僕には全く理解出来ない。理解出来ない、けれど──。
「でも、あの二人にとって今が『楽しい』ってことだけは、きっと、間違いないんだよ」
多分だけど、ね。と、彼女は僕の言葉を代弁するように呟いた。
「……まあ、そうかもな」
答えて、沈黙。ザァ、と風と波が音を立てて、心地良い静寂が一瞬だけ場に広がる。朱音の黒髪が、揺れて流れる。
「ねえ、りゅーくん」
波間からこちらに視線を移して、僕を呼ぶ。
「ん?」
「りゅーくんは、さ。笑わない、よね」
「そうか? 僕は意外と表情豊かなつもりだけどな」
こうして答えている今も、表情は笑顔のつもりだ。
「ん、そういうんじゃ、なくて。こう、本気で笑わない、みたいな。遠慮のある、笑顔……とか?」
朱音は、もごもごと自分でも答えを探しているように例える。
「流石」
僕は、くしゃくしゃと頭を掻きながら一言だけでほめてみる。
朱音の言うことは正確であると言えるだろう。僕は笑えない訳ではないし、楽しいと思わない訳でもない。けれど、どこか心から笑うということにブレーキをかけてしまう。
原因はわかっている。
どこか怖いのだ、自分をさらけ出すのが。
剥き出しの自分を、他人に見られるのが。
見透かされたくない。
見透かしたくもない。
出来れば、少しだけぼやかして、濁らせておきたい。
そんな、人間が誰しも持つパーソナルエリア。
僕はその範囲がほんの少しだけ広いのだと、分析している。
そのために、どこか曇ったフィルターを通して世界を見ているのだ、とも。
そして、そんな自分を、果たしてどのくらいの人間に見抜かれてしまっているのか、解からない。
そういう臆病を完全には捨てきれないまま、僕は今ここにいる。
「笑うのは、きっと楽しいこと、なんだよ? わたしは、結構笑うタイプ、だけどね」
「他のやつらにはきっとそうは見えてないぜ?」
朱音は無表情とはいかないまでも、表情を作って大声をあげて笑うところなど見たことがない。少なくとも表面上は、だが。
「笑って、それで、あんまり表情に出ないタイプなの」
「……知ってるよ」
こいつはそういう奴なのだ、子供の頃から。僕とは真逆の心根を持っている。
僕は笑いながら笑わず、朱音は笑わずに笑う。表情だけで言うなら、僕は朱音の微笑以上の笑顔をを見たことが無い。
「だから、さっきの謎の物体試食会も心の中ではかなり大爆笑」
「そんな奴だとは知らなかったなあ!」
幼馴染暦18年目にして衝撃の新事実発覚! ……でもないな。僕の周りのやつらは僕の不幸を喜ぶやつばっかりだからなあ。
人の不幸を笑うな。あれ、本気で意識飛びかけたんだからな。
「……ねえ」
穏やかな声で僕の軽口を受け流して、自分の言葉を繋げる朱音。
「ねえ、りゅーくん。一個約束しようよ」
「なんだよ?」
こちらを向いて、そんなことを言う。その顔はほんの少しだけ、微笑んでいた。
「──今日一日の間に、一回ホントに心から笑う」
そうして、指をピッと一本立てて、口元へ。
「それは……」
「ね?」
あまりにも一方的な要求。有無を言わせない朱音の瞳。
けれど、だから、僕には、それを拒むことは──。
「……ああ、努力するよ」
まあ、これが最善の答えだろう。本気でそんなことが出来るとは思えないし、長い付き合いだ、コイツだってこれがいつもの空返事だということくらいは──
「よかった」
「は?」
予想外の答えと表情に、僕は思わず疑問符を飛ばす。
「だってりゅーくん、その返事が最上級の肯定だからね。出来ないことは出来ないって言うし、努力するって言ったことはなんだかんだで、しっかり努力しちゃうから」
「っ!」
思わず目をそらした。頬が熱くなる。なんだろう、自分も知らない自分自身を、他人には知られているというのは、ここまで恥ずかしいことだったろうか。
「今、恥ずかしかった?」
「……ああ」
正直にうなずいて、視線を戻し、朱音を見る。彼女の瞳は微かに笑っていた。
「やっぱり、そんなものだよ、ね」
「うん?」
問い返す。けれど、そんな疑問はきっとただの確認でしかない。自分でも、なぜだかそれが解かっていた。
「知られることの恥ずかしさ、なんて、そんなもの、なんだよ」
朱音は、当然のように、コタエをあっさり放つ。
とっさに言葉を紡げないでいる僕に、朱音は淡々と、けれど冷たくはない音で、諭すように僕にそれをぶつける。
「わたしは、他人よりりゅーくんのことを、知ってる。友達、だって、後輩、だって、それはおんなじ。自分っていうのは、意外と、色んな人に知られてる。ひとつ解かると、見たこと無くても、いろいろ繋がって、解かってくる、から」
不器用に、しかし強い力の、確かな意思の篭った言葉を紡ぐ。
「…………」
「だからさ、りゅーくん」ふわりと、微笑む「りゅーくんが、隠したがってる、笑うことで見えちゃう何かも。きっと、誰もが見たこと無いけど誰もが知ってる、そんなものだと、思うんだよ」
──その言葉と微笑みで。
カチリ、と僕の内側で何かが外れる音がした。
ああ、いいだろう。
どうせ多分開きかけた扉と鍵だ。
僕の心なんて、高校に入学して以来ずっと揺らされ続けて、だいぶ緩んでしまっている。
学校の屋上の鍵が揺らせば開くらしいけれど、きっと僕の心も同じようなものだろう。
今は。この瞬間では無理でも。
望み通り笑ってやるさ。
無理矢理にでも。
僕だけでなく、みんな巻き込んで、笑ってやる。
そんなことを考えて、目をやった砂浜の向こう。
水遊びに飽きたと見られる濡れネズミが二人、口論しながらこちらに歩いてくるのが見える。
そうさ、次の勝負。
人生最大の、その勝負。
僕が勝って、王様になって、誰もが爆笑するような命令で笑わせてやる、笑ってやる。
その決意を胸に、僕は立ち上がり、声を張り、ゲームの再開を宣言した。
それを聞いて濡れ鼠二人が顔を見合わせた後、邪悪な笑顔を輝かせてこちらに駆けて来る。
そんな僕らの様子を、朱音が少しだけ楽しそうに見ているのがチラリと、横目に見えた。
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