九章

俺が自分の失敗に気づいたのは、体育祭が終わった次の日の朝だった。


 小早川やデジーレとお茶会の約束をしたのはいいが、姫小路先輩と美術館を見に行く約束もある。


 先輩の親父さんとの一件に関しては、ひとまず横に置いておこう。


 それよりも先輩との約束が大切だ。


 さて、どう言えばいいだろうか。


 正直に忘れていたせいでバッティングしそうだと打ち明けるのが一番なんだろうけど、何となく言いにくい。


 単に他にも予定が入ったので調整したい、と言った方が聞こえはいいだろう。


 そうしようかな。


 何となくいい案を思いつけたような気がして、少しだけ楽になる。


 ……まるで言い訳を必死に考えていたダメ男のような気分になってしまったのが、マイナスだけど。 


 まあいいか。


 気が楽になったところで朝ご飯を食べて、学校に向かおう。


 と思ったところでふと気づく。 


 体育祭が日曜日だった為、今日は振り替え休日じゃないか。


 家を出る前に気がついてよかったよ。


 ただ、それだったらもっと寝る時間があったよなぁ。


 今はもう、すっかり目が覚めてしまっているので、二度寝できる気がしない。


 ちょっともったいない気がするけど、仕方ないかな。


 この時間帯だったら、北川達は学校だろうし、メールをしても邪魔になる。


 北川だけは喜ぶかもしれないけど。


 英陵の女子たちに連絡しようにも、手段が限られているからなぁ。


 それに明確な予定が決まっていたわけじゃないし、緊急の用というほどでもない。


 学校で会って直接言っても一向にかまわないだろう。


 せっかくの休みなんだし、部屋でのんびりしようと向きを変えたら、ばったり千香とでくわす。




「あれ? お兄ちゃん、今日は休みなんじゃないの?」




 きちんと中学の制服を着ている妹は不思議そうに小首をかしげる。


 その通りなんだけどな。


 俺が理由を説明すると、けらけら笑った。




「お兄ちゃん、ドジだねえ。でも、家を出る前に気がついてよかったじゃん」




 フォローもしてもらった手前、何も言い返すことができない。




「そうだな。部屋でゴロゴロしているわ」




 そう言って肩をすくめたら、




「えーっ」




 となんて言われてしまった。


 千香は表情を真面目なものにして、じっと見つめてくる。




「それなら洗いものをしたり、家を掃除したり、たまには親孝行をしなよ」




 ものすごい正論に俺は反論できなかった。


 それにこいつはこう見えて、洗いものとかをよくやっているしな。


 いつも世話になっていると言える立場だから、ここは言うことを聞いておこう。


 ただ、小生意気な表情になっているのを見て、ささやかな仕返しをしたくなった。




「そうだな。けど、いいのか? 俺がお前の下着を干しても?」




 そう指摘してやると、わが妹はたちまち顔を真っ赤にする。


 今こそ火事が発生しそうなほどに。




「なっ、なっ」




 口をパクパクさせて、何かうめいている。


 利発で口巧者なこいつにしては珍しい光景だ。


 まあ、羞恥心を刺激した俺のせいだけど。




「洗濯以外! 洗濯以外をやればいいでしょ!」




 千香はそう叫ぶとキッチンの方に行ってしまった。


 久々に勝ったと言える結果になったが、何かむなしいな。


 別に本気で言ったわけじゃないし、掃除機でも動かすか。


 いや、せっかく掃除をするなら、窓ふきにしようかな?


 たぶん、年末の大掃除をした時以来、やっていないだろうし。


 今やっておくと、今年の大掃除がちょっとは楽になるだろう。


 それと俺か親父じゃないと難しい、高いところの掃除もだな。


 これをやっておくと母さんや千香もちょっとは楽になるだろう。


 どっちからやったらいいだろうか。


 千香がこれから朝ご飯を食べるなら、窓からやった方がいいかな。


 台所はしないといっても、食事中に屋内を掃除機をかけたりするのは、あまりよくないだろうし。


 ぞうきんとバケツをとってこよう。


 たしか、階段下にある物置の中にどっちもあったはず。


 木製の開き戸をあけると最初に視界に映ったのは掃除機で、それからハタキとチリトリだった。


 その少し奥にグレーのバケツがあり、それにかぶせるようにしてぞうきんがある。


 よしよし、これでできるぞ。


 乾拭き用にもう一枚持って行こう。


 窓の高いところは脚立を使う必要があると思うけど、そこまではいいかな。


 台所の窓とか、立ったままできるところを重点的にやっていこう。


 外に出て庭に設置されている水まき用ホースをバケツにつっこんで、蛇口をひねる。


 とびはねる水は冷たいが、まだ涼しくなってきてはいない為、むしろ気持ちいい。


 水を止めると移動を開始する。


 ちょっと水の量が多かったかな?


 少し重かったので、減らしておこうか。


 バケツをかたむけて、水をばらまく。


 庭と言っても猫の額レベルだし、雑草がはえているんだが。


 ああ、草むしりもしなきゃいけないな。


 除草剤をまいたら早くて簡単かもしれないけど、住宅が並んでいる地域で使うのはやっぱりなぁ。


 まずは台所の窓をやって、それからトイレの窓だな。


 乾拭きもすませた頃には、千香も朝食を終えているだろう。


 こういう時、太陽の光が恨めしくもある。


 体育祭は無事に晴れてくれてよかったけど。


 日焼け止めをぬる必要は感じなかったが、制汗スプレーはしておいた方がよかったかもしれない。


 若干後悔したけど、今から家の中に戻るのも面倒だなあ。


 長い時間やるわけじゃないんだし、我慢しよう。


 パッと見たかぎりだと窓の汚れはそうでもないな。


 実際にやってみないと分からない程度なんだろうか?


 そう思って水で濡らしたぞうきんで拭いてみると、ぞうきんが汚れる。


 ああ、ダメだこりゃ。


 ひどくはないけど、放置するわけにもいかないって感じだ。


 仕方がないから頑張ろう。


 えっちらおっちらと窓を拭く。


 真面目にやると重労働とまではいかなくても、なかなか大変だ。


 じっとりと汗がにじんできて、手でぬぐう。


 汗ふきタオルくらいは用意しておいた方がよかったと反省する。


 今後に活かそう。


 一人で掃除する機会なんて、そうそうあるとは思えないけど。


 でもいつの日かきっと、やる可能性はあるだろう。


 大きく息を吐きだすと後片づけに入る。


 腕時計を持ってこなかったから正確な時間は分からないが、そろそろ千香もご飯を食べ終えただろう。


 どちらかと言えば食べるスピードは速い奴だし。


 ぞうきんは洗って干しておこうか。


 それからバケツは家の中に戻そう。


 倉庫にバケツを置いてから手を洗い、うがいもやっておく。


 その後にキッチンをのぞいてみると、千香の姿はどこにもなかった。


 ご飯は食べ終わったようだな。


 さらにちゃんと食器は洗ってあった。


 さすがだと言うしかない。


 あいつがご飯をすませたのなら、掃除機をかけてもいいな。


 おっとその前に水分補給をして、汗をふいておこう。


 冷蔵庫から冷えたお茶を取りだす。


 うん、労働の後の冷えた一杯は美味しいな。


 ちょっとおじさんくさいだろうか?


 息を吐きだして、汗ふき用のタオルを探しに行く。


 基本的に我が家ではちゃんと選択に出すなら、通常のタオルを汗ふき用として使ってもよい。


 そういう理由から、タオルを保管している洗面台の上の棚から一枚もらう。


 このまま掃除機をかけるか?


 それとも少し休憩しようか?


 何となく二つの選択肢が浮かび、俺は後者を選んだ。


 時間はたっぷりあるんだし、急いで掃除をしていく必要はないだろう。


 むしろ続きは千香が家を出てからの方がいいかもしれない。


 あいつがそういうことを気にするような、可愛げのあるタマだとは思えないんだが、どちらかと言えばマナーの問題だろうし。


 そう思っていると千香本人が階段からおりてくる。


 ちらりと視線を向ければ、中学の通学かばんを肩からかけていた。


 ほどなくして目がばっちりと合う。




「それじゃ行ってきます。今日のお昼は何か適当に作るか、出前でも取ってねってお母さんが言っていたよ」




 妹はそう連絡してくれるが、実は知っていた。




「ああ、置手紙に書いてあったな」




「ふーん。それじゃね」




 妹はクールにそう告げると、そのまま玄関に行ってしまった。


 やれやれ、あいつらしいな。


 ツンとした感じの様子に微笑ましいものを感じる。


 さて、誰もいなくなったことだし、掃除機でもかけようか。


 妹と両親の部屋はみだりに立ち入るべきじゃないし、本人たちが自分でやるだろう。


 俺がやるべきなのは、それ以外の部屋だ。


 二階の自分の部屋から順番にかけていこう。


 それから廊下に出る。


 家の中を順番に掃除機を転がしていくが、お袋や千香が時々やってくれているのか、思ったより汚くはない。


 こうしてやってみると、掃除も大変だと分かってくる。


 普段は誰かの手伝いがメインだったからなぁ。


 これは反省する必要がありそうだ。


 とは言っても、今日みっちりやる気分でもないし。


 いや、そもそも一日にみっちりやるって発想がよくないかもしれない。


 毎日コツコツとやる方がずっと堅実だろうしな。


 まあ、自分の部屋くらいはちゃんとやっておこうか。


 そう考えて、ぞうきんをとってきて自分の部屋の窓ふきをやることにする。


 内側はともかく、外側はちょっとやりにくいな。


 すみずみまで綺麗にできた気はしないけど、何もやらないよりはマシだということにしておこう。


 ぞうきんを片づけて部屋に戻ったが、ヒマになったな。


 スケジュールチェックをしてみると、夕方からはバイトが入っていたんだが、それまでが困る。


 明日の予習をやっておいた方がいいかな。


 英陵の子たちは異常にテストの点数をとってくるし、油断したらまた足手まといになってしまうだろう。


 何となくゆううつな気分になってしまうが、真面目で優秀な子たちばかりだということを思えば、やむをえない。


 気合を入れて頑張らないとな。 


 教科書と参考書とノートを取り出して机に向かった途端、携帯が鳴った。


 おや? この時間に一体誰なんだ?


 ありえるとしたら家族の誰かが忘れものをしたか、そうじゃなかったらバイト先の店長かな。


 画面を確認してみると登録していない、見覚えもない番号だった。


 たぶん、自宅だろうけど……ひょっとして英陵の誰かかな?


 珍しくはあっても、ありえなくはない。


 一応俺の番号は教えてあるわけだし、例のお茶会の一件もあるんだし。


 とりあえず出てみよう。




「もしもし?」




「もしもし?」




 返ってきたのは予想に反して、低くて野太い男性の声だった。


 たぶん大人だということしか分からない。


 なんてどこか冷静に考えてはいたものの、正直何がなんだかさっぱりである。


 俺の携帯を鳴らす大人の男性と言えば親父だろうけど、あの人はこんな声じゃない。


 どちら様と聞くよりも先に、




「赤松康弘様の携帯電話でよろしいでしょうか?」




 と丁寧な口調で問いかけられた。


 これでピンとくる。


 お嬢様のうちの誰かだな。


 本人じゃなくて使用人にかける制約でも課せられたんだろう。




「はい。そうですが、どちら様でしょうか?」




 相手が相手なので、なるべく丁寧な応対を心がける。


 こんな言葉使いであっているのか不安だが。




「失礼いたしました。私は姫小路家にお仕えしております、朝霧と申します。翠子様の代理として、ご連絡を差し上げた次第です」




 あ、姫小路先輩の家の人か。


 何人か見た覚えはある。


 正直、誰が誰なのかさっぱり分からないんだけどな。


 これはこれはご丁寧にとでも言えばいいのかもしれない。


 だけど、俺は「どうも」としか言えなかった。


 しょせんはつけ焼刃なのか、とっさの時にはうまく対応できないんだと痛感させられる。


 朝霧さんはそんな俺の対応も心情も気に留めていないのか、丁寧な口調で用件を言う。




「今、お時間は大丈夫でしょうか?」




「はい、大丈夫ですが」




 今日学校が休みなのは、先輩も知っているはずなのにどうかしたんだろうか。




「今から主に代わりますので、お待ち下さいませ」




 うん? 主?


 俺は疑問に思った。


 この場合、朝霧さんの主って姫小路先輩になるのか?


 お嬢様じゃなくて?


 正解はすぐに判明する。




「もしもし、赤松君かい?」




 男性の声で話しかけられたからだ。


 電話越しのせいで違って聞こえるけど、これは何となく英輔さんの声っぽい。




「はい、そうですが、英輔さんでしょうか?」




「そうだよ。覚えていてくれて嬉しいよ」




 実に気さくで、温かみのある言葉だったが、俺は困惑するしかなかった。


 一体全体どうしてこの人が今日この時間帯に電話をしてくるんだろう?




「今日は学校が休みだよね? 突然で申し訳ないが、今日我が家に遊びに来れないかな? 例の約束を果たしたい」




 はっ? 何を言っているんだ、この人は?


 いくら何でも急すぎるだろう。


 ……なんて言えたらどれだけいいだろうか。




「今日ですか。午前中だけでしたら、何とか。夕方からは予定が入っていまして、それまでにはおいとましたいのですが」




「そうか、悪いね。昼食はご馳走させてもらうよ」




 英輔さんはそう言う。


 昼食が浮くのは助かるな。


 今日は昼飯を作り置きしてもらってないんだし。


 いや、でも、だからと言ってなぁ。


 何で今日なんだろう?


 英輔さんも鉄道好きらしいけど、今日じゃないとダメなことなんて何かあったっけ?


 一番ありえそうなのは、たまたま英輔さんが今日は休みってことかな。


 他の可能性なんて想像もつかないし。




「それじゃ、君の家を知っている者を迎えにやらせるが、それでかまわないかい?」




「はい。あの、それで姫小路先輩はどうしたのでしょうか?」




 訊こうかどうか迷ったものの、結局訊くことにする。


 むしろ訊かない方が不自然な気がしたからだ。


 親御さん相手にこういう呼び方は正しいのかどうか分からないけど、他にいい呼称が思い浮かばない。


 ファーストネームで呼ぶのはちょっと馴れ馴れしいだろうし、お嬢様の保護者相手に誤解を招くと死ねるからな。




「ああ、残念ながら翠子はいないんだよ。予定が入っているのでね」




 そうなんだ。


 だとすれば、なおさら奇妙じゃないだろうか?


 俺を呼ぶのに先輩を仲介しないなんて。


 体育祭の日に会ったから、そのあたりは問題ないっていうことなのか?


 金持ちの考え方はよく分からないな。


 いずれにせよ、俺に拒否権はないに等しい。


 これ以上の詮索は止めておこう。


 藪をつっついて蛇を出すことはないんだ。


 大体、相手が姫小路家なんだから、蛇どころか世界を滅ぼすドラゴンが出てくるかもしれない。


 くわばら、くわばら。 




「そうなのですね」




「残念かい?」




 電話の向こうでニヤリと笑う気配があった。




「えっと」




 この場合、どう返すのが正解なんだろうか。


 姫小路先輩本人になら、会えなくて残念だと言っておけば無難な答えになると思うんだけど、その親父さん相手だとなあ。


 もごもごしていると、小さな笑い声が聞こえてくる。


 あ、これはからかわれたんだな。




「冗談だ。それでは楽しみに待っているよ」




 そう言われて電話が切れる。


 ほんと、英輔さんってフレンドリーな人だなあ。


 姫小路先輩の親って言われたら納得できてしまうんだが。


 あの人もあんな美人なのに、とても気さくだし。


 遺伝なのか、それとも育った環境の影響なんだろうか?


 おっと、それよりも先輩の家に行くなら、身だしなみを何とかしないと。


 前回お邪魔した時に車に乗っていた大体の時間を計算して、それまでに準備をしておかなきゃいけない。


 掃除をした上に汗もかいたってのはまずいかもしれないな。


 シャワーくらいは浴びておいた方がいいかな?


 それとひげもそっておいた方がいいよな。


 十五分くらいはあるはずだから、手早くやれば何とかなるだろう。


 俺はバスタオルと着替えを持って風呂場へと向かった。


 まずはシャワーを浴びて、それからひげをそろう。


 まだ暖かいけど、さすがに水を浴びる気はなれない。


 てきぱきとすませてひげをそる。


 それから着替えを着た。


 よし、時間的余裕はまだあるな。


 こういう時、男って便利だと思う。


 女の子だとこんな素早くするのは難しいもんな。


 携帯をとってハンカチをポケットに入れて、歯みがきをして髪を整えたタイミングでインターフォンが鳴った。


 ちょうどいいタイミングである。


 狙いすましたかのようだけど、さすがに俺が支度にかかる時間までは読めないだろう。




「はい」




「赤松様でいらっしゃいますか」




 いつぞや聞いた声とそっくりである。


 分かる人間をよこすと英輔さんが言っていたのだから、当たり前か。


 覚えのあるやりとりをもう一度やって、俺は玄関に出た。

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