5話
一体どれくらい時間が経っただろうか。
いったん、休もうという事になってプールサイドに上がる。
指がすっかりふやけてしまっているし、少しだけだが息もはずんでいた。
結構長い時間、つかっていたと思う。
プールの壁に備えつけられているブザーを姫小路先輩が押すと、ほどなくしてスカート丈の短いメイドさん達が複数、姿を見せる。
十代後半から二十代前半と思しきメイドさん達は、椅子やテーブル、タオルなどを持ってきてくれた。
そして次には飲み物が運ばれてくる。
慣れた様子でてきぱきと準備を終えて、メイドさん達は一礼して下がっていった。
「どうぞ」
先輩に笑顔ですすめられ、席に座る。
俺から見て右斜め前に姫小路先輩、左斜め前に高遠先輩が座った。
二人は白くて柔らかいタオルを肩に羽織るようにしている。
しっとりと濡れた髪と、白い肌のセットが二人を色っぽくチャーミングに映していた。
俺達の前に並んでいるのは、白い陶器のカップで中身は熱いコーヒーである。
プールの水温は少しも冷たくはなかったが、何となく温かいものが飲みたいという気分は理解できた。
それに先輩にリクエストしさえすれば、きっと冷たい飲み物も出てくるのだろう。
「赤松さんは熱いコーヒーでよかったですか? 冷たいお茶なども用意させますけど?」
俺の思考を読んだわけでもないだろうけど、先輩は可愛らしく小首をかしげなら、こんな事を言ってくる。
「いえ、熱いコーヒーで大丈夫ですよ」
言ってみたところで飲まなければ、あまり説得力は感じないに違いない。
そう思い、一口含んでみる。
ブラックの苦味と芳醇な味わいが、口腔に広がった。
「美味しい」
思わず感嘆の言葉が口をついて出ている。
姫小路家で使うくらいだから、本物の高級品だろう。
本物だとブラックでもここまで美味しいのか。
いや、ここまで美味しいとなると淹れた人の腕も大切になるはずだ。
「そうですか。よかったです」
姫小路先輩は嬉しそうに微笑んでいる。
自分の家が使っているもの、雇っている人が褒められるという事は家の評価にもつながるのだろう。
何となくだけど、上流階級とはそういう傾向があるらしいし。
「本当にいつ飲んでも美味しいわね」
高遠先輩もそんな評価を下す。
いつ飲んでもって、先輩はこの家に何度も遊びに来ているんだろうか?
仲良さそうだし、何もおかしくはないか。
それから何となく会話が途切れる。
俺は二人との共通の話題なんて急には出てこなかったし、先輩達もそれは同じようだった。
高遠先輩はいつも通りクールなポーカーフェイスを崩さなかったけど、姫小路先輩はと言うと時々こっちを見てくる。
何か言いたい事があるのに言い出せない、といった様子だった。
相手が同年代なら促してみるのも手なんだが、先輩だからなぁ。
とりあえず言う気になるまで、気づかないふりを続ける。
やがて先輩は意を決したのか、おそるおそるといった感じで話しかけてきた。
「あの、赤松さん。急な申し出で申し訳ないのですけれど、本日の夕食ご一緒に如何でしょう?」
「えっ?」
これには驚く。
まさか先輩がそんな事を言い出すとは、想像すらしていなかった為だ。
だってこれまで女の子達の家には何度も行ったけど、一度も食事には誘われた事がなかったし。
百合子さんとか家の人が実質いないデジーレも、そういう誘いはしてこなかったんだよなぁ。
だから完全に意表を突かれた。
「あ、無理だったら構わないのですよ。急でしたし」
先輩は慌てたようにそうつけ加える。
何だろう?
こんな急な事を言い出すような人だったっけ?
何かあれば、早め早めに言うタイプの人だったはずだけど……。
それに高遠先輩が驚いていないのも変だ。
いくらクールでポーカーフェイスだからと言って、驚いた時でも表情が全く変わらないという事はない。
つまり、高遠先輩は既にこの事を知っていたはずだ。
違和感を覚えたものの、今はそれよりもどうするか決めなければならない。
実のところ、今からなら誘いに応じても問題はないだろう。
電話を一本かけて夕飯はいらないと言うだけですむ。
しかし、姫小路家の夕食に俺が参加して、本当にいいんだろうか?
それが唯一にして最大の気がかりだった。
これは実際に訊いてみた方がいいかもしれない。
言葉にしないと伝わらない事ってあるだろうし。
「えっとですね、お誘いはありがたいのですが、それは僕が参加しても構わないのでしょうか? テーブルマナーとか知らないんですけど」
出来るだけ不安そうに言ってみる。
そうすればきっと問題点に気づいてくれるはず。
そんな期待があったが、姫小路先輩の返答は予想外だった。
「ああ、それならば心配はいりません。わたくしとまどかの二人しかいませんから。気兼ねする必要はありませんよ?」
先輩は優しく微笑む。
え? そうなのか、と驚いて高遠先輩の顔を見ると、クールな先輩も口元をかすかに緩めながらうなずく。
うーん、先輩達しかいないなら、だいぶ気は楽になるな。
「それなら家に連絡してから返事をする、という事でもいいですか? もしかしたら既に準備してくれている可能性だってありますから」
そう申し出ると先輩は当然だとうなずく。
「そうですね。その場合はやむをえません。突然言い出したわたくしの方に非があるのですから」
本当だよな、一体どうしちゃったんだろうか?
なんて思ったけど、言葉にできるはずがない。
千香に連絡をする為に携帯電話を取りに行こうと立ちあがる。
「あ、待って下さい」
それを制止したのは姫小路先輩だった。
怪訝に思って立ちどまると、こっちへと伸ばしかけていた先輩の指先が、俺の肩に触れる。
あ、と声を漏らして先輩は硬直してしまう。
指が振れたくらいで何をオーバーな、と言いたいところだったけど、相手は筋金入りのお嬢様なんだ。
意図せず男の体に指が触れてしまったら、困惑する事だってあるかもしれない。
努めて平静になり、ゆっくりと先輩に尋ねてみた。
「どうかしましたか?」
黒い見事な髪を持つ先輩は、何故かもじもじしながらゆっくりと口を開く。
「よければ電話を使いますか?」
と言って、壁を指す。
何もない無機質な白い壁だと思っていたが、よく見たら電話機のようなものが備え付けられていた。
デカいプールに電話までついているのかよ、と呆れる。
いや、今更にもほどがあるか。
せっかくではあるし、言葉に甘えるとしよう。
断ると申し訳ない気がするし、携帯電話を取り出すのも面倒だしな。
電話機を目指して歩き出すと、姫小路先輩がさりげなく横に並ぶ。
水にぬれた先輩の髪は間近で見ると色っぽいな。
先輩本人も色っぽいんだけど、それを考えると危険になりそうだから割愛する。
「外部と連絡を取るにはまず、ここの外線ボタンを押して……」
柔らかい声で丁寧に説明され、俺は受話器を取ってボタンをプッシュした。
呼び出したのは千香の携帯電話である。
家の据え置きの方だと、あいつ割と居留守を使うんだよなぁ。
それに本当に外出している場合もある。
携帯電話に直接かけるのが一番だった。
あ、ここからかけたら非通知になるんじゃないか?
コール音を聞きながらふとそんな事を思う。
あいつ、ちゃんと出るだろうか。
そういう不安が湧き起こったが、数コール後杞憂だったと判明する。
「はい、もしもし。お兄ちゃん?」
「え? 何で俺って分かったの?」
一瞬で言い当てられてしまったせいで動揺し、間が抜けた声を出してしまう。
うちの妹はエスパーだったんだろうか。
「いや、単に私の番号を知っていて、こんな時間帯に非通知でかけてくる人が他に思いつかなかっただけ」
そ、そうか。
単なる当て推量か消去法だったのか?
まあ、いいや。
とりあえず事情は説明しよう。
「今日、晩ご飯の準備って始めているのか?」
「まだだよ? 外食する気になったの?」
鋭いな。
それとも俺の行動パターンが分かりやすすぎるだけなんだろうか?
……両方なのかもしれない。
「よく分かったな」
「だってお兄ちゃん分かりやすいもん」
受話器の向こうからくすりという笑い声が聞こえてくる。
やっぱり俺って分かりやすいのか。
少し憮然とすると、千香は問いを発する。
「それで、どうしたの? まさかと思うけど、英陵の人と?」
「……ああ」
半信半疑といったトーンだったけど、俺の答えを聞いた途端、
「ええっ? 本当にっ?」
素っ頓狂な声を出す。
あまりの大声に耳がキーンとなる。
「おい、いきなり大声を出すのはやめろよ」
「あ、ごめん」
抗議したら素直に謝ってきた。
珍しいとは言わない。
こいつは自分が悪いと思ったら、きちんと謝れる子だからな。
「それよりもお兄ちゃん、大丈夫?」
突然、妹はそんな質問をしてくる。
何を藪から棒にとは思ったものの、言いたい事は痛いほど理解出来た。
俺自身が一番訊きたい事だしな。
「正直、分からん。家の人がいない、マナーは気にしなくていいものらしいけど」
「えっ?」
千香は再び驚いていたが、無理もない。
誘われた本人が驚いたくらいだからな。
「それって逆にやばくない? むしろ家の人達の印象的な意味で」
うっ……言われてみれば……で、でもこの期に及んで断るなんてできるわけがない。
「仕方ないだろ。断りきれなかったんだから」
言い訳に対して返ってきたのはため息だった。
「八方美人も大概にしておきなよ。そりゃ、女の子に嫌われたら地獄だって脅かしたのは私だけどさ」
「そ、そうだよ。嫌われないように頑張っているんだよ」
千香の言い分に俺は食いつく。
八方美人とは心外だ。
何故なら決して色んな女の子にちやほやされたいわけじゃない。
妹の忠告をしっかり守っていただけだ。
そんな俺に対して千香は、
「八方美人は嫌われる大きな理由になるよ」
恐ろしい警告を発してくる。
ぐう……正論過ぎて、言い返せない。
「女の子は自分だけ見てほしかったり、自分だけが特別だったりしたいんだからね?」
トドメを刺されました。
いや、ちょっと待てよ?
俺は違和感を抱き、死ぬ寸前のところで踏みとどまる。
「恋人なら分かるけど、恋人じゃないならそこまでしなくてもいいんじゃないか?」
恋人が他の女にいい顔していたら、そりゃ面白くないだろう。
怒るのも当然だ。
でも、俺は誰かと交際しているわけじゃない。
だったら別にいいんじゃないか?
「そういうのを無神経って言うんだよ、お兄ちゃん」
がはっ。
「女の子の友達はいるのに、何故かいい人止まりだったり」
ぐふうっ。
も、もうやめてくれ。
心のライフはとっくに消えうせているよ……。
俺の無言の叫びが届いたのか、千香はくすりと笑って言った。
「気をつけてね、お兄ちゃん?」
「お、おう……」
他にどう返せばよかったのか。
妹は言いたい事を言って満足したのか、電話を切った。
すっかり長電話になってしまったな。
改めて姫小路先輩に礼と詫びを言っておこう。
「ありがとうございました。長々と話しちゃって申し訳ありません」
俺が頭を下げると先輩は、上品に微笑みながら答えた。
「構いませんよ。ご家族とずいぶんと仲がよろしいのですね」
心なしか向けられる視線が生暖かい。
お、俺は別にし、シスコンじゃないよ。
と弁明しかけたが、ぎりぎりのところで思いとどまる。
電話の相手が妹だなんて、先輩達に分かるはずがないよな?
口は災いの元じゃないけど、黙っておこう。
「いえ、事情を話したら大丈夫かと心配されまして」
これは嘘じゃないし、言ってもいいだろう。
姫小路先輩はやや心外そうだったが、高遠先輩がフォローしてくれる。
「でしょうね。姫小路家に招待されたと聞けば、当然の反応でしょう」
いや、さすがにそこまでは言っていない……と言うか、そもそも「姫小路家に招待される」ということのすごさがよく分からないし。
これを言ったらどんな反応されるんだろう。
怖くて言い出せないよな。
姫小路先輩はと言うと、
「まあ。そんな大げさなものではないのに」
とまるで拗ねるかのような顔をする。
やばい、すごい可愛い。
姫小路先輩ほどの美人がやると、拗ねた顔もとても似合っていて反則だ。
「翠子はもう少し自分の立場を自覚した方がよいわね。もっとも、これは赤松君にも言えることですけど?」
意味ありげな一瞥をされて、ギクリとする。
どういう意味で言われたんだろう。
千香曰く「八方美人も大概にしろ」と同じ意味なんだろうか。
その割に、高遠先輩の表情に怒りはない。
この人はクールに怒るので分かりにくいが、今の俺なら怒っていることに気づけるはず。
つまり怒ってはいないんだけど……あ、ヒーロー様云々のことか?
あれを受け入れろっていう意味だろうか?
考えても分かりそうにもないので、訊いてしまおうか。
幻滅されるも何も、この人達には今更の気がするし。
「えっと、ヒーロー様と呼ばれる事の事でしょうか」
あれ、俺何を言っているんだ。
自分で自分の事をヒーローって呼ぶなんて、恥ずかしいにもほどがあるけど、それにしてもなぁ。
高遠先輩はくすりと笑ったが、そこに嘲りの色はない。
弟の失敗を優しく見守る姉のような顔で言った。
「そうですね。あなたがどう考えようと、英陵の生徒にとってあなたはヒーローなのですよ」
「は、はあ。でもですね、偶像を崇拝されているだけで、現実の自分を見てもらえていない気がすると言いますか」
そんな大層な人間じゃないと思うのだ。
そしてそれなのにやたらと持ち上げられるのが辛い。
そう訴えたら、今度は姫小路先輩に笑われた。
「嫌だわ、赤松さん。皆さん、いくら何でもそこまであなたの事を英雄視しているわけじゃないですよ」
え? そうなの?
思わずきょとんとなり、先輩の秀麗な顔を見つめる。
姫小路先輩は上品に微笑みながら、説明してくれた。
「あなたは恐らく自分がスーパーマンのように思われていると感じ、心苦しいのでしょう」
全くその通りだったので、こくりとうなずく。
それを見た先輩達は揃って苦笑した。
「わたくし達は確かに世間知らずでしょう。でも、そこまで愚かでもありませんよ。あなたはあくまでも困った時に手を貸して下さる、身近なヒーローです。どんな難題でもたちまち解決してしまう方だと、思っていません」
「そ、そうでしたか……」
ちょっと複雑だったけど、正直なところ安心感の方がずっと大きい。
俺が安心したのを見てとったんだろう。
高遠先輩が優しく言った。
「だからしゃちほこばらないで下さいね。あなたはあなたのままで素敵なのですから」
「はい。……えっ?」
何だか凄い事を言われた気がして、思わず間が抜けた声が出る。
言った本人はさっと頬を染めて、咳払いをした。
「な、何でもありません」
「そうですね。まどかは特におかしな事は言っていませんよ」
姫小路先輩が加勢するように、そのくせこの人には珍しくどこか不機嫌そうに早口で言う。
先輩達の迫力に気圧されてしまい、首を上下に振るしかなかった。
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