4話
先輩達によって案内されたプールは一階の一室と言うよりは、一棟とでも言うべき広さだった。
学校のプールより何回りも広く、十六ものレーンがある。
大きな窓ガラスの向こうには庭が見えるし、屋根もガラス張りになっていて、外から日光が差し込んでいた。
「紫外線など有害なものをカットし、外からは見えないタイプのガラスを利用しています。だからのんびりと泳ぐ事が出来ますよ」
姫小路先輩が何でもない口調で説明してくれる。
さりげなくとんでもない事を言われたような気がするけど、気にしたら負けだろう。
プールサイドを横切り、いくつもの黒いドアが並んでいる前に先輩は立って言った。
「こちらの一つを使って下さいね。鍵はかかりますし、シャワーもありますから」
その言葉に驚き、中を見ると確かに更衣スペースとシャワー室がある。
どちらも二人くらいは余裕で入れそうな広さで、窮屈さは感じられない。
そんなものを個別にいくつも用意してあるとか、金持ちは発想からして違う。
「それではわたくし達も着替えてきますね」
先輩達はそう言ってその場を後にする。
とうとう先輩達の水着姿を拝めるのか。
いや、やましい事を考えるのはよそう。
水着姿じゃ変な気分になったらすぐに分かってしまうんだから。
何かあったら一発アウトだ。
入念に自分に言い聞かせておく。
一応シャワーを浴び、体を用意されたタオルで拭いてから外に出る。
やっぱり先輩達はまだだった。
こういう時ってどうしても男の方が早いもんなあ。
そもそもどこで着替えるんだろう?
姫小路先輩はともかく、高遠先輩はここの更衣室だろうか?
それとも女同士、姫小路先輩と同じ場所をつかうんだろうか?
ボケッと突っ立って待っているのもあれだから、軽く準備運動でもしておくか。
ストレッチから始めよう。
えっちらおっちらやっていると、離れた位置のドアが開いて、高遠先輩が出てくる。
それとほとんど間を置かず、隣から姫小路先輩も姿を見せた。
二人とも、ここで着替えていたのか。
うん、ストレッチを始めていてよかった。
「あら、ストレッチですか?」
「はい」
俺は高遠先輩に声をかけられて、初めて二人の姿をしっかりと見る。
先輩達はどちらも学校の指定水着を着ていた。
少し残念だったけど、同時に納得もする。
水泳が苦手で泳ぐ機会もなさそうな人が、水着を持っていないのは変じゃない。
露になっている二人の白い二の腕や太ももがとても眩しく、そちらに視線が吸われない為には大変な労力を必要とする。
意外だったのは二人のスタイルで、特に姫小路先輩は胸のふくらみがはっきりと分かる素晴らしさだった。
高遠先輩も隠しきれてはいなくて、まさか二人揃って着やせするタイプだったとはびっくりである。
もっとも、現状を考えれば喜んでばかりではいられない。
「いかがですか? わたくし達の水着姿は」
姫小路先輩は何と俺に感想を求めてきた。
感想を言うには、きっちり二人の姿を見ないといけないわけで、更には二人もほめなきゃ……あっ、私服姿をほめる事を忘れていたな。
やべえ、ハードルが一気に上がった気がしてならない。
姫小路先輩はいつも通り優しい微笑、高遠先輩も平常通りクールな表情で俺の言葉を待つ。
やるしかないか。
出来るだけ私服姿の評価も絡めてみよう。
「姫小路先輩はスミレの花のように清楚で可憐な私服姿でしたが……」
自分でも言っていて恥ずかしくなるくらいで、ちょうどいい。
それがクラスメートの女の子達との関係で学んだ事だ。
もちろん、そっくり通用しているなど思ってもいない。
俺が庶民で女の子を褒め慣れてなんかいない、という事実を知っている好意で底上げされているはずだった。
評価し終えると、姫小路先輩は頬を染めてため息をはく。
「赤松さんったら、情熱的で素敵な事を仰るのね」
…………あれ? 何か空気がおかしくない?
心なしか高遠先輩の視線が刺すような鋭いものに変わったような。
考えすぎだと思いたいんだけど。
いずれにせよ、姫小路先輩だけ褒めてそれまで、なんて事は出来ない。
女性相手だとどうにも悪手になるようなのだ。
だから高遠先輩も頑張って褒めよう。
出来るだけ、姫小路先輩相手に使った表現や言い回しは使わずにだ。
「高遠先輩は凛とした一輪の百合のようでしたが……」
俺は必死に表現力を使って、先輩を称える。
その効果はあったか、高遠先輩の視線から鋭いものが消え、恥じらいらしきものが浮かぶ。
その代わりと言うべきではないのだろうけど、姫小路先輩の表情がやや硬くなる。
「赤松さん、意外とお上手ですね」
まさかこの人に限って、俺が自分以外の女性も褒めた事に気分を害した、なんて事はあるまい。
初心でぎこちない反応を示すと思っていたら、思ったよりたくさん経験を積んでいた……何かこれだと語弊がありまくるな。
この件をこれ以上考えるのはやめにしよう。
「ええ。何とか英陵に馴染もうと必死でした」
本音を吐露する。
こういう言い方は泣き言を言って同情を買おうとしているみたいであまり好きじゃないんだが、相手は同級生じゃなくて先輩だからちょっとくらいならいいんじゃないだろうか。
そう思ったけど、先輩はほんの一瞬だけ目を丸くし、ついで慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべた。
「そうでしたか。たくさん努力をなさったのね」
ふう、どうやらご機嫌は無事なおったらしい。
意図したわけじゃないけど、ひとまずは結果オーライだな。
「女性しかいない場所ですから、男性一人だとなおの事大変でしょう」
高遠先輩もそう言って同情を示してくれた。
よかった、この人達と上手くやれて。
いやまあ、話せば分かってくれるっていうだけなんだろうけどね。
いい人揃いの英陵の生徒代表みたいな二人だから、いい人だったとしても違和感はないし。
「いえ、皆とてもよくしてくれていますから。先輩がたにもお世話になっていますし、会えてよかったですよ」
これは偽りのない本心だ。
不安に苛まれながらも、思い切って英陵という未知の世界に飛び込んでよかったと思う。
「そうでしたか。英陵にはあなたを困らせる人などいないと思っていましたよ」
そう言った姫小路先輩の顔は恥ずかしさと誇らしさが混ざっていた。
うん、本当にいい人ばかりで恵まれていると思う。
何となく先輩と目を合わせて微笑み合っていると、高遠先輩が咳払いをする。
「ただ、私達も不埒な真似をする輩は許しません。赤松君が信頼される人であろうとしてきた結果でしょう」
「高遠先輩……」
この人に認められた、と思うと何だかとても嬉しい。
理不尽な人ではないけど、優しいわけでもないからだ。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて礼を言う。
何で今なのか、自分でもよく分からなかったが、言いたい気分だったのだ。
「いえ、こちらこそ。赤松君と会えてよかったと思っていますよ」
あれ、何だこの流れ。
違和感をかすかに覚えたものの、すぐに雰囲気に飲み込まれる。
またしても咳ばらいが聞こえた。
先ほどよりやや弱く遠慮がちだったが、はっきりと聞こえる。
もちろん、姫小路先輩だった。
目を合わせていた頃とは違い、どこか拗ねているように見えたけどこれは俺の気のせいだろう。
高遠先輩と二人で話している事で、この人が拗ねる理由なんてないし。
とは言え、いつまでもプールサイドでも世間話をしているというのもシュールな話だ。
会話が途切れた事だし、促してみようか。
「えっと、そろそろ泳ぎ始めませんか」
「そうですね」
先輩達も俺と似たような気分だったのだろう、すぐに賛成してくれた。
さて、プールに入ろうと思いきや、先輩達はそれぞれほっそりとした腕をそっと差し出してくる。
これは一体?
考えたのは何秒だっただろうか。
「エスコートですか?」
念の為、確認してみると二人はおなずく。
「ええ、お願いしますね」
とても素敵な笑顔で頼まれ、俺は断れきれなかった。
迷ったもののまずは姫小路先輩の手を、次に高遠先輩の手を取る。
右手で姫小路先輩の左手、左手で高遠先輩の右手を握る形になった。
姫小路先輩の手は女性にしては大きめで、温かい。
それに対して高遠先輩のものは、小さく女性的でひんやりとしている。
どちらの手も柔らかくて、適切な表現かは分からないけど苦労知らずなんだなと思った。
千香の手はもっと硬いからなぁ。
ところで、俗に言う両手に花って今の俺の状態の事を示すんだろうか?
ちょっと現実逃避してみる。
冷静に考えてみれば左右にそれぞれ女の子と手をつなぎながら歩くって、間が抜けた状況じゃないか?
ただ、相手がとびきり綺麗なお嬢様達ってだけで、雲泥の差になるわけで。
距離を考慮すれば、俺達がプールサイドの間際まで行くのに、ほんの数秒しかかからなかったはずである。
しかし、俺にとっては何時間にも匹敵するほどの時間が経過したに等しかった。
天国のようではあったものの、重圧と緊張のせいで楽しむ余裕はほとんどない。
そのせいか、二人に手を離されてもあまり残念ではなかった。
「ところで先輩がた、準備運動は終わりましたか?」
努めて平静な声で問い質す。
二人にそんな事をしている時間はなかったはずだが、一応確かめておかないとな。
「いいえ。赤松さんはすんでしまいましたか?」
姫小路先輩は伏し目がちに、どこか心配そうな顔で訊いてくる。
これだけなら、俺と準備運動をできない事が残念なように思えるが、実際のところはやり方をよく知らなくて不安なんだろうな。
「まだ途中でしたから、一緒にやりましょう」
そう言うと二人とも安心したような顔で賛成してくれる。
せっかくプールサイドの間際まで来たのに、と言っても野暮なだけだろう。
「それならばこちらへどうぞ」
姫小路先輩がそう言って、案内してくれたのはマットが敷かれた場所だった。
ここでやったら体が痛くないな。
先輩達二人とゆっくりとストレッチをする。
たった三人しかいないと言っても、残り二人が素晴らしい美人だと華やかだった。
先輩がたはどちらもこっちの方をチラチラ見て、真似をしている。
大きくゆっくりした動作になるよう意識して、二人が真似しやすいように気をつけよう。
ちゃんと出来ているか、俺の方でもチラ見をすると、二人の胸が弾んでいる様が目に入ってしまった。
……スクール水着ならそういう事はないと思っていたんだけど、サイズ次第ではありえるんだなぁ。
それとも英陵が使っている水着だからか?
ダメだ、変な勘ぐりになってしまいそうだ。
あまり二人の方は見ない事にしよう。
ただでさえ、白い太ももや腕が魅惑的すぎるんだから。
先輩達は真剣な表情で体をほぐしている。
恐らく、俺の視線には気づいていないんだろうな。
それとも気づいているけど、気づいていないフリをしているとか?
千香が言うには、「女は気づいても気づかないフリをしている場合がある」との事なので、ばれていると判断して行動しよう。
入念な準備運動を終えると、改めてプールに入る。
二人のお嬢様をもう一度エスコートしたのは言うまでもないだろう。
三人はほぼ同時に水につかる。
水は適度に温かい。
一体これを維持するのにどれくらい金がかかっているんだろうと思ったものの、虚しくなりそうだからやめておく。
俺は先輩達の顔をかわるがわる見ながら言った。
「それでは実際に泳いでみてくれますか」
二人はこくりとどこか緊張しているかのような面持ちでうなずき、互いに視線を交わしあう。
アイコンタクトの結果、まずは姫小路先輩からになったらしい。
先輩のクロールのフォームは思ったよりも綺麗だった。
ただ、息継ぎがぎこちないと言うか、やりにくそうにしている。
あれじゃ確かに何十メートルも泳ぐのは辛いだろうな。
続いて高遠先輩の平泳ぎだけど、何とも形容しがたい。
ある程度まで進むと沈んで行ってしまう。
正しいフォームで泳げていないんだろうなぁ。
でも、平泳ぎって難しい泳ぎ方だし、どうしようかな。
二人は側に戻って来て、神妙な顔で言葉を待っている。
「うーん、姫小路先輩は息継ぎの練習をしましょう」
「はい」
単に先に声をかけただけなのに、嬉しそうな返事が来た。
深い意味はないはずだよな。
次に高遠先輩を見る。
「高遠先輩は他の泳ぎ方も見せてもらえませんか」
そう言うと、先輩は瞬きをしながら訊き返してきた。
「平泳ぎはしなくてもいいのですか?」
何となく不本意そうである。
まるで見込みなしと判断されたのではないか、と勘ぐっているようだった。
「えっとですね」
俺は言葉を選びながら、なるべく波風が立たないように気をつけて説明する。
「平泳ぎは難しいんです。僕も一番教える自信がない泳法でもあるんです。だから、他の泳ぎが出来るなら、それでいいと思うんですよ。すみません」
「いえ、そういう事でしたら」
高遠先輩は納得してくれたらしく、表情が少し柔らかくなった。
「実のところ、クロールが出来るならそんなに気にしなくていいとは思いますよ」
犬かきでだって、泳げるなら泳げる範疇に入るっていうのが俺の考え方だと伝えておく。
「そうでしたか」
話を聞いていた高遠先輩は、何故かそっと目を伏せた。
「他の泳ぎ方も出来れば、皆の力にもなれるかと思ったのですが」
なるほど。
高遠先輩が泳げるなら、俺以外にも教えられる人間が増える。
これは確かに大きなプラスだな。
「では、背泳ぎやバタフライも見せてもらえますか」
「ええ。頑張ります」
何だか気合が入った声が返ってくる。
後輩達への使命感だろうか。
クールな様子からは想像できないくらい、面倒見がいい人だもんな。
そう思っていると、姫小路先輩が遠慮がちに俺に声をかけてくる。
「あの、赤松さん。わたくしに息継ぎの方法を教えて頂けませんか」
「あ、はい」
うっかりしていたな。
姫小路先輩を放り出すような真似は出来ない。
とりあえず、かつて同級生のお嬢様達に説明したような事を言ってみる。
それが終わると今度は高遠先輩だった。
「あ、私もお願いしてもいいですか」
「はい」
まるで先輩達をとっかえひっかえしているかのような気分になってくる。
むろん、ただの思い過ごしだろう。
されど、先輩達の方も遠慮なくお願いして来るので、何だか俺のとりあいでもしているのかって言いたくなるくらいだ。
まあ、そんなことが起きるはずもないんだけど。
交代交代やっていくのは結構忙しいな。
先輩達の体や肌の一部と触れ合ってドキッ 自重しないと先輩達の体を触り放題になってしまう。
泳ぎ方を教えるという大義名分はあるものの、欲望のまま行動するわけにはいかない。
楽しいと言えば楽しいし、嬉しいと言えば嬉しいんだが。
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