19話
一旦家に帰って服を着替えてからウィングコーヒーで豆を買ってきた。
やっぱり制服姿で店に入るのはまずいだろうしな。
英陵は地元じゃ知らない人がいないくらいの有名校だし、男子生徒は俺しかいないんだし。
店の人に豆の保管方法を聞いてきたので、言われた通りにしておく。
晩ご飯まではまだ時間があるし、竹叩きの練習でもしておこうか。
リビングからクッションを持って部屋に入る。
そして枕の横に並べ、楽譜を見ながら叩く。
テンポよく叩くというのが結構難しい。
我ながらこの提案は失敗だったんじゃないだろうか。
学校でも思ったし、今更言っても仕方ない事なんだよな。
頑張って上手くなろう。
それが今の俺にできる事なんだから。
とりあえず最後までやってみて、それからイメージ通りいかなかった部分を練習する。
……出だしが一番難しい気はするな。
俺の記憶が正しければ一番ばらけていたところでもある。
出だしを重点的に練習しておこうかな。
俺が皆の手本になるつもりでやろう。
それくらいでやった方が上達できそうだ。
何度も何度もやり直す。
どれくらい時間が経過しただろうか。
額ににじんだ汗を手の甲でぬぐい、一息つく。
時計を確認しようとした矢先、ノックされる事なく部屋のドアが開いた。
「お兄ちゃん、ご飯だよ」
確認するまでもなく妹の千香だった。
時刻は七時過ぎだから、それなりには練習できたかな。
「あれ? 何をしているの?」
竹を二本持ったまま、クッションと枕に向かい合っている姿を見られたのだから、当然の反応を言えるだろうな。
「後で説明してやるよ。ご飯だご飯」
竹を置いた手で頭をなでると、妹は小さくうなずいて先に階段を下り始める。
好奇心は食欲に負けたらしい。
手を洗ってから食卓につく。
いつも通り千香と二人だけの食事である。
本日のメニューはご飯、豆腐のみそ汁、トンカツ、キャベツとトマトのサラダ、ゆで卵だった。
「それで? 何をやっていたの?」
千香はトマトをかじって訊いてくる。
忘れてはいなかったらしい。
俺は苦笑と嘆息を混ぜ合わせたような気分で、球技大会と応援合戦について説明してやった。
「ほへー」
聞き終えた妹はぽかーんと間が抜けた表情を作る。
まあ、学校規模での大会はまだしも、注文した翌日に必要な品が全部届くとか普通じゃありえないよな。
英陵というブランドの力なのか、保護者達の力にビビっているのか。
案外金払いで何とかしているのかもしれない。
ここで案外、というのは英陵というところの校風を体験する分には、金ずくの類は好まれそうにもないからだ。
親の社会的地位、家の資産などを鼻にかけるような子はまだ出会った事がない。
金持ちの美少女だらけの閉鎖的な場所で何年も過ごすと、そういう傲慢さとは無縁に育つんだろうか。
あるいは姫小路先輩達の影響が多いのかもしれない。
あの人の圧倒的な美貌を前にすれば、容姿を鼻にかけようなんて思う生徒なんて出てこないだろう。
世界トップクラスのモデルとか女優とかアイドルとかミスコン優勝者と比べて、初めて勝負になるんじゃないかと思うようなレベルなのである。
実家が没落しても食うのに困る事はないだろうな、なんて思えてしまう。
仕事などをえり好みするなら違ってくるけど。
「それでお兄ちゃんは練習していたの?」
千香の質問に我に返る。
「ああ。俺が言いだしっぺみたいなもんだし、俺が一番下手とか問題だろ」
多分クラスメート達はいちいち責めたりしない。
優しく慰めてくれるだろうとすら思える。
だが、だからこそそれに甘えていてはいけないのだ。
「まあね。いくらお嬢様達だって、男の子のかっこいいところは見たいだろうし。お兄ちゃん、大概の事を許されちゃうルックスじゃないし」
それ遠回しに俺はイケメンじゃないって言っているよな、妹よ。
言う人、聞く人によって嫌みや皮肉に聞こえるだろうし、傷つく奴だっているだろう。
でも、こいつが俺に言う分には奇妙に何も感じない。
兄妹仲がいいし、こいつが言いたいのは励ましだからだと分かるからだろうな。
余談だが、妹がこういう言い回しをするのは俺だけである。
「自覚はしているよ。オリエンテーションの時も、助かったのは俺のせいじゃないし」
「え? 何かあったの?」
きょとんとした顔が目の前で生まれた。
しまったな、学年主任達に呼び出された話はしていなかったのに。
そうかと言ってこの流れでごまかされてくれるほど、俺の妹は単純でも馬鹿でも扱いやすくもない。
仮に成功したとしても後日思い出して、改めて追及してくるだろう。
だったら今のうちに言ってしまった方がまだマシだな。
俺は隠していた一件と事の顛末をぶちまけた。
「呆れた。うかつすぎるよ、お兄ちゃん」
「返す言葉がない」
妹に対して俺は恐縮するしかない。
散々注意されていたのにやらかしてしまったのだから。
よく無事だったものだとつくづくと思う。
「周囲が冷静な対応をしてくれてよかったね」
「うん」
大騒ぎする子達がいなかったのも大きかった。
まあ、当事者達が何も言わないから、と思ってくれたんだろうけど。
今更だしあまりつっこまれても困る。
とっとと話を変えてしまおう。
「それにしてもさすがと言えばさすがだよ。曲や道具が翌日に全部できあがっているとかさ」
「正直、急には信じられないよ……」
千香の表情は半信半疑といった感じだが、気持ちはよく分かる。
俺だって当事者じゃなかったら、たぶん信じなかっただろう。
「何らかの伝手があるのかもしれないな。それか、無理を言えるだけの金を払っているとかさ」
「確かに。他の事は全部後回しにしても問題ないくらいのお金が動いたのかも。それか、他の仕事に関しては保護者会が何とかしてくれるとかね」
ありえない話じゃないな。
デジーレの家は貴族だって言っていたからな。
外国の貴族が相手じゃ、強く言える人は限られているだろう。
他にも大崎とかの家も大きな会社をやっているみたいだし。
ウィングコーヒーを経営している相羽が劣等感を抱くくらいだからな。
「千香はウィングコーヒーって知っているか?」
俺の問いに妹は即答せず、瞬きを何度もした。
「知っているも何も、凄いコーヒーチェーン店でしょ? あちこちにある」
「そこの社長令嬢もいるからな」
俺の言葉に千香は絶句する。
しばらく呆けていた後、ぽつりと言った。
「本当に凄い人達がたくさんいるんだね」
「うん。しかも、本人は自分はミスッカスだって思っているらしい」
本当はもう少し上品な表現をした方がいいんだろうが、相手は妹だし意味は変わらない。
「意味が分からないよ……」
案の定、眉を寄せる。
そりゃあそうだろうな。
俺達にしてみれば、全国に店を展開してる会社のご令嬢なんて雲上人だ。
ただ、それがどうも最低ラインというのが英陵というところらしい。
「お嬢様にはお嬢様なりの悩みなんかがあるんだろうな」
「お兄ちゃんと違ってレベルが高い悩みっぽいよね」
こまっしゃくれた事を言った妹に拳骨を放つ真似をする。
「こいつ」
怒ってはいないが軽く睨む。
千香も言い過ぎたと思ったのだろう。
舌をぺろっと出して悪びれた。
分かればいいんだ。
話を止めて食事に専念する。
食事中に会話があるなんて、英陵じゃまず考えられない事だ。
うっかり学校でやらかさないように気をつけないといけないな。
俺にとっては会話がある方が自然なんだから。
おっと、千香にも一応は言っておこうか。
こいつが英陵を志望しているのは本気かもしれないんだし。
「とりあえず言っておく事があるんだが」
「いきなり何?」
お箸を止めて変な顔をする我が妹。
話を終えて食事を再開した矢先、不意に言い出したのだから当然な反応だ。
「英陵は食事中の会話禁止な」
「ふーん、そうなんだ。やっぱりそういうマナー、厳しいの?」
英陵絡みの事だったからか、すかさず食いついてくる。
「厳しいって言うかな」
どう言えば適切なのか悩む。
正確に言うなら決して厳しくはないのだ。
少なくともそういうルールが明確に存在しているわけじゃない。
校則にだっていちいち書いたりしてはいないだろう。
だが、それが厄介なのだ。
「話をしようなんて雰囲気じゃない事は確かだな。誰も何も言わないし」
本当に必要最低限の音が聞こえるだけなのだ。
威圧感を放ったりしているわけじゃないし、誰もが自然体なのである。
それでいて粛然とした気分にさせられてしまうのだから恐ろしい。
「英陵は登下校の寄り道禁止なんて校則はない。スカートの丈の長さとかもいちいち書いたりしていない。そんな事を書かなくても、誰も破ったりしないからな」
「うへえ」
千香は俺の言いたい事を察したらしく、げんなりとしたような声を出す。
「きちんとしているのが当たり前」という考えが、共通認識として全校生徒に浸透しているのだ。
そういう学校は全国でも少ないんじゃないだろうか?
「名門お嬢様学校って意味、何か分かってきた気がするよ」
妹は圧倒されたような表情で言う。
こいつはこれくらいの事で怖気づくほど意気地なしじゃない。
それに俺と違ってヘマをする間抜けでもない。
英陵に受かってもきっと上手くやっていけるだろうな。
俺の悪い評判が、下の世代に伝わったりしなければ。
そのへんはどうなんだろうな?
小早川と内田先輩の関係からじゃ、上下の交流があるのかどうか分からん。
まあ、土下座の件と百合子さんの件を考えれば、ある程度の速さはあると思っていた方がいいだろうな。
……そう言えばこの二つ、中等部にも既に伝わっているんだろうか?
いないと思える理由はないな。
何だろう、ため息がこぼれそうだ。
悪い事ばかりじゃないと思いたい。
かと言って百合子さんを助けに行った件が広まるのもちょっとなあ。
学校では評価されているらしいが、個人的にあれは笑い話の類だ。
それが広まるなんて羞恥プレイに近い。
そう主張したところで「奥ゆかしい」「謙虚で立派」と解釈するのが、お嬢様達なのである。
「飯を食ったらまた練習をしなきゃ」
俺は食器を流し台に持っていく。
自分の分は自分で洗わないとな。
「大変だねぇ」
「まあな」
千香の言葉に相槌を打つ。
実際のところ、唯一の男子というプレッシャーは計り知れない。
一挙手一投足に耳目が集まっている、と言っても決して誇張にならないのだろう。
来年以降の為にもいい評価をキープしたいものだ。
部屋に戻り、宿題に取りかかる。
俺の頭じゃ予習復習をしっかりしておかないと、授業についていくのが厳しいのだ。
評価の為には勉強の方もきちんとやらないといけない。
俺の成績は先生達なら知っているはずだし、今更高望みされているとは思わないが、せめて平均点は取りたいな。
英陵は進学校ではないものの、できる子は相当にできるらしいし。
何故ならある程度の学力を身につけておくというのも、上流階級の嗜みだそうだ。
女に学力はいらない、という考え方は流行っていない。
夫や家族の助けになる程度の教養は必要だそうである。
負けていられない。
竹の練習は予習復習が終わってからだな。
翌日、生徒会室にコーヒー豆を届けた。
「へえ、これが例のものなんだ」
興味津々といった風に豆が入った缶を見つめるのは、やはりと言うべきか内田先輩である。
かと言って他の先輩達が興味なさそうにしているというわけでもない。
皆、一度は視線を向けてきた。
ただ、それだけにすぎなかったのである。
「瑞穂さん、淹れ方はご存じかしら?」
姫小路先輩は藤村先輩にそう問いかけた。
この中でコーヒー派は一人だけだから、当然の帰結だろう。
藤村先輩は豆を確認した後、こくりとうなずく。
俺はそれを見ていたある事に気がついた。
「あ、器具を持ってくるのを忘れました」
うっかりしていたとしか言うほかない。
豆だけあっても仕方ないのに、俺って何をやっているんだか。
自分自身にあきれ返っていると、藤村先輩が不意にくすりと笑った。
「コーヒーメーカーならば、ここに置いてありますよ」
なんて言ってくる。
「え? そうなんですか?」
思わず先輩の目を見つめた。
藤村先輩は、やや恥らいながらももう一度うなずく。
横から高遠先輩が口を挟んできた。
「ええ。卒業なさった先代の生徒会長がコーヒー党でしたから。私達は時々、その方が直々に淹れたコーヒーをご馳走になっていたのですよ」
ああ、それでか。
「だから内田先輩とかが、コーヒーは久しぶりだって仰ったんですね」
納得できたな。
考えてみれば分かりそうなものだ。
この中でコーヒー党は藤村先輩くらいだし、その藤村先輩だってここでは紅茶しか淹れない。
となれば以前は飲む機会があったと想像できる。
他にも可能性で言えば色々あるんだろうけど、そういう事は考え始めたらキリがないし。
「ええ。あの方のコーヒーは美味しかったわね」
どこかうっとりした表情で感想を言う。
内田先輩にこんな顔をさせるなんて相当なものだったんじゃないだろうか。
そしてこんな時、注意してくる高遠先輩が咎めないのも凄い。
そうなっても仕方ないと思われているという事なんだろう。
ところで生徒会の三年生は秋で引退のはずなんだが、水倉先輩、内田先輩、藤村先輩はいつ飲んだんだろう?
姫小路先輩と高遠先輩の二人は、先代の時のメンバーだったのだと考えられるんだが。
「わ、私、あんなに美味しく淹れられないよ……」
器具を取り出していた藤村先輩が、焦ったように声をあげる。
確かに圧倒的な上位者と比べられたらたまったものじゃないよな。
思っても口には出せないけど。
言ってしまったら先輩に対して失礼になるし。
「まあまあ」
水倉先輩がなだめる。
それにしても藤村先輩が淹れ方を知っているか訊いたって事は、先輩達も藤村先輩のコーヒーを飲んだ事はないんだろうか?
あるなら誰かがフォローするよな。
コーヒーを淹れる手つきは慣れたものだった。
少なくとも俺なんかじゃ比べ物にならないし、ひょっとすると近所の茶店のマスターより……これはさすがにひいき目かなぁ。
やがて芳香が室内に立ち込める。
この香りは好きだ。
「先代の生徒会メンバーって今のこのメンバーだったんですか?」
そんなわけがない事は百も承知である。
でも、他に適切な訊き方が思いつかなかったのだ。
「いいえ。わたくしとまどか、朱莉さんの三人だけですね」
姫小路先輩が答えてくれる。
内田先輩と藤村先輩はいなかったのか。
そして水倉先輩が庶務枠だったっぽいな。
「それだと内田先輩や藤村先輩は、いつ先代のコーヒーをお飲みになったんですか?」
「新生徒会が発足してからよ。あの方、ちょくちょく遊びに来て下さったから」
内田先輩がそう説明した。
そういう事だろうなと思ってはいたのだが。
中等部時代からの知り合いでプライベートでも交流がある、なんて事も考えられる学校だからな。
その点を指摘すると高遠先輩がうなずいた。
「確かに翠子とはずっと交流があった方ですね」
やっぱりそうなんだな。
幼稚園の頃からの一貫校ってそういうものなんだろう。
「あの、ミルクとお砂糖はどうしますか?」
藤村先輩が恐る恐る割って入ってくる。
それはいいとして、訊いたのは俺だけ?
他の人の好みは先代の会長の時に把握済みって事か?
「えっと、砂糖一つ、ミルクはなしでお願いします」
頼むとほどなくして人数分運ばれてくる。
手伝った方が本当はいいんだろうけど、前に申し出たら断られたしなあ。
お礼を言ってカップを手に取る。
あれ? これ、お店のものより美味しくない?
俺の貧弱な舌がどれくらいアテになるのかはさておき、少し不安だ……。
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