18話

「どうかしたのですか?」


 入ってきた姫小路先輩が開口一番そう言った。

 俺達の間にただよう何とも言えない空気を鋭敏に察したらしい。

 さてどうしようと思っていると、高遠先輩が説明をしてしまう。

 隠す気はなかったものの、もう少しやりようがあったのではないかと思った。

 口にしたら反省しているのかって思われてしまいそうなので、黙っているけど。


「智子さん」


「はい」


 姫小路先輩が一言発しただけで、内田先輩は目に見えて緊張する。

 大声でも迫力があるわけでもなかったが、一種の威厳のようなものがあった。

 俺の背筋も自然と伸びている。


「少し軽率でしたね。上級生たるあなたがよき規範とならねばなりません」


「はい」


 生徒会長から発せられる言葉はどこまでも優しい。

 だが、それだけに自身の罪悪感が増幅されてしまう。

 そんな効果を秘めているかのようだった。

 内田先輩が改めて反省してのを見て、ターゲットが俺に移る。


「赤松さん」


「はい」


 どこまでも穏やかな口調とまなざしだったが、俺の緊張感は和らがない。

 むしろ心臓が跳ね回る音が聞こえてきたほどだった。


「よく分かっていなかったのでしょうから、今回は不問とします。ですが、今後は気をつけて下さいね」


「はい」


 優しいが有無を言わさぬ口調なんてものがあるとすれば、今の姫小路先輩のものがそうだろう。

 既に反省していたものの、そうでなくてもすぐに反省させられたに違いない。

 そう確信できてしまう力があった。


「それでは通常の業務を始めましょう」


 まだ藤村先輩は来ていない。

 あの人が遅れるなんて珍しいな。

 もっとも、今日に限っては理由を想像する事は可能だ。

 恐らくクラスの出しもの絡みだろう。


「遅くなりましたっ!」


 ちょうどその時、息を乱して藤村先輩が入ってくる。

 走ってはいけないのはあくまでも建物の中のみであり、外はそうではない。

 だからこそ慌ててきたのだろう。

 高遠先輩がクールな視線を浴びせたが、言葉には出さなかった。


「まだ始めていませんから、お気になさらず」


 姫小路先輩は先ほどの自分の発言をなかった事にするような言葉で、優しく後輩を迎え入れる。

 でも誰も何も言わなかった。

 そしてそれの何が変なのか、と言わんばかりの空気である。

 俺もこの流れに逆らうつもりはなく、最後になった人に話しかけてみた。


「珍しいですね、藤村先輩が遅いなんて」


 咎めたり責めたりするつもりはなかったんだが、話しかけられた方は罪悪感を刺激されたらしい。


「ごめんなさい。クラスの練習、キリのいいところで終わるのが難しくて……」


「あ、いえ。別に責めたわけじゃないんですよ」


 雨に打たれて震えている子犬を連想する表情を見て、俺は焦ってしまう。

 そんなつもりじゃなかったんだ。

 単に場の空気を何とかしようと思っただけなんだ。


「赤松君、下っ端の癖に調子に乗っているんじゃない?」


 内田先輩が過激な事を言う。

 ただし目には悪戯っぽい光が宿っていて、本気で言っているわけじゃない事は見てとれた。


「え? そ、そうですか?」


 ここは動揺したフリをしておこう。


「そうね。遺憾ながらそう見える時はあるわね」


 意外な事に水倉先輩が乗っかってきた。

 この人、結構気さくなのは知っていたんだけどな。


「赤松さん。まだ立ち直る余地はあると思います」


 何と姫小路先輩がそんな事を言いだす。

 これには内田先輩も目を丸くしている。

 この人まで参戦したら引っ込みがつかなくなるようにしか思えないもんな。

 やべえ、姫小路先輩の場合、本気なのか冗談なのかイマイチよく分からないぞ。

 ちらりと高遠先輩の方を見てみると、クールな先輩は我関せずといった態度でお茶の準備をしていた。

 どうしよう、助け舟は期待できない……。

 とは言え、気さくな人ではあるから冗談だと信じて答えてみよう。


「姫小路先輩が手助けしてくれますか?」


 本心ならうなずくだろうし、冗談なら変な反応をするか、それとも更に冗談で返してくるだろう。


「わ、わたくしでいいなら」


 あれ? 何だ、この反応。

 姫小路先輩は声を上ずらせ、頬を朱色に染めている。

 そしてもじもじとしながら媚びるような目で俺の方を見てきた。

 え? これって冗談なのか?

 何故だろう、背中に悪寒が走る。

 今まで知らん顔を決め込んでいたり、ニヤニヤしていただけの先輩達が一斉に変わった。

 能面みたいになったり鋭利な空気をまとったり。

 姫小路先輩を除いた人の背後から、修羅のようなものが見えるのは気のせいだろうか。

 気のせいだと思いたい。

 後、全身を刺すような感覚に襲われているのも。


「赤松君? 本当にあなたって人は」


 内田先輩が呆れたように言う。

 この人はまだいい。


「そ、そういう言い方をするから誤解をされるのでは?」


 藤村先輩はどこか不満げに、あるいは拗ねたようにたしなめる。

 この人も別にいいのだろう。

 問題は残りの二人、副会長コンビである。


「私が先ほどした注意は無意味だったという事でしょうか」


 文字にすれば穏やかだろう。

 しかし、全く感情がこもっていない声を実際に聞けば、印象は大幅に変わる。

 元々高遠先輩はクールな人だけど、今は非常にやばい。

 脳内の警報がけたたましく鳴り響いている。

 そしてもう一人、水倉先輩はじっとこっちを睨んでいた。

 普段の愛らしさの類はすっかり鳴りを潜めていて、迫力を感じて怖い。

 俺の一言が原因だという事はさすがに理解しているが、一体どこがまずかったんだろう。

 単に手助けを求めただけだというのに。

 もしかして、先輩達は自分が俺と一緒がよかったとか?

 ……いくら何でもないだろう。

 自惚れだとか自意識過剰だとかいうレベルじゃない気がする。

 どちらかと言えば、姫小路先輩にコナをかけるような態度を不快に思われたんじゃないだろうか。

 ああ、そうか、そういう事か。

 姫小路先輩の人気は圧倒的だ。

 この人を怒らせると全校生徒を敵に回すなんて言われた事もあるくらいだし、それは生徒会内に限っても同じ事だろう。

 そりゃ皆怒るよな。

 この際、俺にそんな意図はあったかどうかなんて、大した問題じゃあるまい。


「申し訳ありませんでしたっ!」


 俺は大声で謝罪する。

 座ったままではあるが、頭が太ももにくっつく勢いで。


「分かればいいのですよ」


 高遠先輩がそう言ってくれたのでホッとする。

 何だかんだでこの人がナンバーツーといった感じだ。

 今回みたいな状況になった場合、この人の許しを得たら何とかなるのである。


「わたくしは別に気にしていないのですけれど」


 姫小路先輩の発言は礼儀正しく無視された。

 俺が知っている限りでは初めての事である。

 もっとも、反応したらよりややこしい展開になりそうだったので、否やはない。

 改めて業務を取りかかり始めるが、その前に高遠先輩が紅茶を振る舞ってくれた。

 いい機会だし、今このタイミングで言ってみる事にしようか。


「そう言えば質問なんですけど」


 俺が声を発すると、五対の瞳がほぼ同時に向けられる。


「ウィングコーヒーのコーヒー、もしくは豆をここに持ってくる事ってできますか? 皆さんに一度味わってもらいたいんですが」


 どういう言い方がベストなのか、結局分からなかった。

 したがってこのようにストレートに訊く事にする。


「それはつまり、私達に事前に試飲をしてほしいという事でしょうか?」


 高遠先輩にあっさりと見抜かれてしまった。

 その言葉に反応したのは藤村先輩だけだったので、他のメンバーは即座に気がついたのだろう。


「はい。実はクラス内で、先輩がたにコーヒーをお飲みいただいても大丈夫なのか、といった風潮ができていまして、何とかしたいのですが」


「私達が事前に美味しく飲めたなら、その子達は安心できるっていうわけ?」


 内田先輩の言葉が皮肉っぽく聞こえたのはきっと気のせいじゃないだろう。

 この人はとてもフレンドリーな分、「特別扱い」の類を好まない。

 ただ、これについては他の先輩達も同様だと言ってもいいだろう。

 皮肉を口にするタイプが一人だけだっていうだけなのだ。


「はい。ご協力頂けないでしょうか?」


 下手にごまかしても逆効果だと判断し、率直に訊いてみる。

 先輩達の視線がある方向に集中した。

 言うまでもなく、姫小路先輩の方にである。


「構いませんわ。当日の楽しみでしたが、それが早くなっただけだと考えれば」


 この人が承知すれば話は決まったも同然だ。

 他の先輩達は各自それぞれの表情を浮かべたものの、誰一人として異は唱えない。

 ただし、だからと言ってとんとん拍子で決まるというものでもなかった。


「翠子が賛成なら構わないですが」


 高遠先輩が口を開く。


「問題はどうやって試飲するかですね」


 冷静な指摘だった。


「そうですね。少なくとも登下校中に寄るわけにもいかないですし、土日に行くのもちょっと」


 水倉先輩が独り言を言うようにつぶやく。

 やっぱりダメなのか。

 寄り道ができないのは当然だけど、土日に行くのもってのはちょっと意外だな。

 内田先輩ならいけそうだって勝手に思っていたと言えば、怒られてしまうだろうか。

 そのあたりはしっかり確認しておいた方がいいだろう。

 俺のせいで誰かが校則違反とか、申し訳ないじゃすまないし。


「すみません、確認しておきたいのですが。登下校の最中に寄れないのは分かるんですが、一旦家に帰ってからだとか、休みの日とかに行くというのも問題があるんでしょうか?」


 もしそうなら事実上詰んでいる。

 姫小路先輩の尽力があったとは言え、簡単に許可が下りたところをみるとそこまで厳しい校則じゃないと思うんだが。


「校則という意味では問題がありません。禁止されていないと言うよりは、誰もそんな事を考えもしなかったと言った方が正しいかと思いますが」


 そう教えてくれたのは高遠先輩だった。

 なるほど、前にも似たような事を聞いた事があるな。

 誰も実行するどころか考えもしないから、いちいち禁止するまでもないというパターン。

 超一流のお嬢様学校なのに、そこまで校則が厳しくない理由がそれだ。

 お嬢様達にしてみれば、休みの日などにコーヒーチェーンに行くなんて発想の埒外にあったのだろう。

 だからこそ相羽があんな態度なんだろうが、今は置いておく。


「家で禁止されているという事でしょうか?」


 思い切って聞いてみる。

 考えられるとしたらこちらの方がずっと可能性は高い。

 もっとも、打ち上げに対してはあれだけ乗り気だったのから、そこまで高いハードルだとも思えないんだが。


「禁止されているかどうかという事と、許可を取るのは別だという事ね」


 内田先輩が含みがある言い方をする。

 よく分からないな。

 打ち上げの参加はいいのに、事前の試飲行為はダメなのか?

 皆で集まる際に行くのはいいけど、少人数での行動は無理とか?

 まあ、いい。

 このメンバーで店に行くのはあくまでも腹案の一つに過ぎない。

 無理に認めてもらう必要はないだろう。


「よく分からないんですが、ひとまず他の方法を考えた方がいい事は分かりました」


 正直に言っておく。

 変に賢明ぶったところで、後でしっぺ返しが怖いだけだしな。


「それがいいわね」


 そう言ってくれたのは内田先輩である。

 他の先輩達は黙って俺の方を見ているだけだ。

 お手並み拝見という態度に見えるのは、穿ちすぎだろうか?


「第二の案としては、テイクアウトしたものを持ってこれないかという事です」


 これもどうなんだろうという思いはある。

 購買などでテイクアウトしたものを、教室や中庭で飲む子は結構多い。

 だからと言って外部で買ったものを持ち込んでいいのかと言うと、また違った問題だろう。


「結論から言うとダメでしょうね」


 姫小路先輩がどこか申し訳なさそうに即答する。


「そうですよね」


 やっぱりという意識の方がずっと強かった。

 これを認めると収拾がつかなくなりそうだしな。

 何だったか、保健所が許さないので食べ物は持ち込めない、みたいな話をどこかで聞いた事もあるし。

 ここではお茶を飲めるけど、基本的にお茶の葉や道具があるだけだ。

 決して飲みものが持ち込まれているわけではない。

 そこを考え違いしてはいけないだろう。


「それで第三の案なのですが、コーヒー豆を買ってここに持ってくるというのはどうでしょうか?」


 これが本命である。

 これがダメだったら、何か手を考えなくてはならない。


「そうね。それがいいでしょうね」


 高遠先輩があっさりと認めてくれた。

 姫小路先輩も笑顔でうなずく。


「ええ。一番いい案だと思います」


 三年生二人が認めた事で決定となる。

 ところが、えてしてこういうタイミングで口を挟んでくるのが内田先輩という人だ。


「でも、お店の味を再現できるかは別じゃないですか?」


 実に嫌な点を突いてくる。

 とは言え、誰も気づかなかったわけではないらしい。

 皆、感情を動かす事もなく首肯したからだ。

 内田先輩が言わなかったら高遠先輩あたりが指摘していたのかもな。

 世の中そんなに甘くないし、先輩達もそこまで甘い顔はできないって事だろうか。


「そこが問題なんですよね。先輩がたにお願いできますか? 僕じゃ店の人ほど上手に淹れる事はできないと思うんです」


「構いませんよ」


 高遠先輩が再度即答する。

 あれ、思ったより簡単にオーケーが出たな。

 どういう事だろう?

 とっさに判断できず、目を白黒させていると姫小路先輩が口元を綻ばせた。


「本当は赤松さんに淹れて頂きたいのですけどね」


 ごめんなさい、皆さんほど上手に淹れる自信はありません。

 造詣が深かかったりこだわりが強かったりするわけじゃないからな。

 せいぜい誰かが淹れてくれるなら飲むよ、程度のものでしかない。

 それを知っているからこその先輩達の反応なのだろう。


「コーヒーを飲むのは久しぶりだわ」


 内田先輩が楽しそうに微笑む。

 うーん、凄い今更なんだけど少し不安になってきたな。

 舌が肥えているこの人達が満足するような味なんだろうか?

 かと言ってやっぱり別の店にする、なんて言えるはずもないしなあ。

 高遠先輩が淹れてくれた紅茶を一口飲む。

 はっきり言って今まで飲んできた紅茶の中でぶっちぎりで一番だ。

 ちなみに先輩達の中で一番下手なのは、内田先輩である。

 これまで訊かれた事はなかったし、失礼だと思うのでいちいち指摘したりはしなかったが。

 それでも、内田先輩が淹れたものでも相当に美味しい。

 家やそこらの店のものより。

 そんな人達が相手だから、クラスメート達が不安がっていたのも分かるな。

 むしろ今まで思い至らなかったのが問題かもしれない。

 どんな結果だろうがこの人達なら大丈夫、で思考停止していたよなあ。

 おっと、そうだ。

 訊いておこうと思っていた事が一つある。


「豆の件なんですけど、買ったものをそのままここに持ってきていいんですか?」


 何か手続きが必要だとかそういった事はないんだろうか。


「そういった事は必要ないですよ。ただ、先輩の許可ないし先生がたの許可、どちらかが必要となりますが」


 高遠先輩がそう教えてくれた。

 このあたりも緩いんだな。

 誰も変なものを持ち込もうという発想そのものがないからだろう。


「えっと、赤松君?」


 それまでずっと黙っていた藤村先輩が、おっかなびっくりという言葉がぴったりな態度で話しかけてくる。

 この人はまだ俺に苦手意識があるらしい。

 これでもかなり慣れているのだと、他の先輩達に教えてもらってなかったらへこんだかもな。


「領収書を持ってきてもらえれば、生徒会の経費で落としますよ?」


「え? いいんですか?」


 思わず尋ね返していた。

 その際にやや声が大きくなり、藤村先輩はびくりと体を震わせる。

 そしてぎこちなくうなずく。


「は、はい。今回の件は、今後学校全体の為にもなる調査の一環ですから」


 何やら問題の規模が肥大化している気がする。

 しかし、先輩達の心遣いはありがたい。

 確かあそこのコーヒー豆は結構値段が高かったはずで、今月分の小遣いについては諦める事にしていたからな。


「それじゃよろしくお願いします」


 藤村先輩に深々と頭を下げた。


「いえいえ、これは翠子様とまどか様が最初に仰った事ですから」


「え?」


 わたわたと手を振って、さらりと暴露される。

 俺は急には飲み込めず、思わず二人の美人の顔をかわるがわる眺めた。

 二人ともそっと目を逸らす。

 姫小路先輩はその後目を伏せただけだったが、高遠先輩はじろりと藤村先輩を見る。

 それを受けて気弱な先輩は体を震わせた。

 高遠先輩、立派なツンデレの資格をお持ちらしい。

 口にしてもきっと意味は通じないだろうけど。

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