5話

 生徒会業務は、大体十七時四十五分で終了する。

 十七時五十分が下校時刻だからだ。

 およそ五分で片づけをし、鍵を閉めて建物から出る。 

 そして職員室に鍵を返却してから下校するのだ。

 ちなみに鍵を返す係は一年生はできないという。

 鍵を開けるのはいいらしいのだが、返すのは二、三年のみというのが伝統だそうだ。

 俺は先に外に出て扉を開けたままにして、先輩達を待つ。


「戸締りに責任を持つのは上の者、というのは正しいと思います」


 姫小路先輩がそう言ったので、俺は納得する事にした。

 女性が最後というのはどうだろう、という想いがないわけではなかったけど、ここ英陵では通用しない。

 何故なら、校門の外には迎えの自動車が並び、体格のいい男が待機しているからである。

 外を見ると太陽は西へと移動し、空は茜色に染まっていた。

 雲や鳥らしき影なども見える。

 今日鍵を返しに行ったのは高遠先輩で、俺達は先に校門を出る事にした。

 英陵の生徒会では、こういう時は待たないのがルールなのである。


「それではごきげんよう」


 姫小路先輩のあいさつを皮切りに、別れを告げ合う。

 校門を一歩出るとスーツ姿の大男が何人も並んでいる。

 すっかりと見慣れた光景になりつつあった。

 彼らも学校側の許可なく学校の敷地には入れないらしいが、それでもこの光景は異様だし、一種の威圧感すら漂わせていると思う。

 英陵の女子を狙う変質者がいたとしても、裸足で逃げ出しそうだ。

 俺は徒歩だけど、先輩達は順に車に乗り込んでいく。

 こういうところを見れば、皆お嬢様なのだとまじまじと実感させられる。

 今更だと思うのだが、それでも時々忘れそうになってしまう。

 それだけ俺がこの学校になじめたという事なんだろうなあ。

 生徒会役員となってそれなりの日は経過したものの、まだ全生徒が俺を受け入れてくれたかと言うと疑問だ。

 接点がある子は大抵好意的だけど、そうでない子には距離と言うか壁を感じる。

 まあ、これは仕方ない。

 生徒会の一員として頑張っている姿を見せていくのが一番だろう。

 さて、真っ直ぐに帰ろう。

 英陵には下校途中での買い食いを禁止する、という校則は存在しない。

 だが、これは単純にそんな事を思いつく人間がいない、と解釈するべきだろう。

 そもそも、車で送迎してもらっていない生徒の方が少数派なのだ。

 その気になれば、車の中でお茶の時間を楽しむ事すら可能のはずなのである。

 これは俺の予想、あるいは思い込みであって、確認した事はないのだが。

 英陵唯一の男子である俺は目立ちやすい。

 そう思って行動している。


「見慣れない服装だけど、どこの学校?」


 中年のおばさんにそう話しかけられて「英陵高校です」と答えた事もあるのだ。

 俺のせいで男子の受け入れを止める事にならないようにしたい。

 英陵の男子特権を甘受したい奴は、きっとたくさんいるだろうから。




 家に帰ると鍵は開いていた。

 千香の奴も生徒会の業務があるはずだが、そこは公立中と英陵の距離の問題だろう。


「ただいまー」


 靴を脱ぐ際に一言あいさつするのが我が家のルールである。

 と言っても、誰かが家にいると分かっている場合限定だ。


「おかえりー」


 制服に白いエプロンといういでたちの妹が、ひょっこりキッチンの方から顔を出した。

 手にはお玉を持っている。

 今日はこいつが晩御飯担当なのか。


「おー。今日は千香が料理するの?」


「違うよ。シチューを温めるだけ」


「あ、そう」


 つまり下ごしらえをしていく時間がお袋にはあったわけか。


「とりあえず鞄を置いて着替えてくる」


「うん」


 一旦別れる。

 両親は今かなり忙しいようだ。

 両親に食わせてもらっている立場であまりワガママ言えないよな。

 俺もアルバイトでも始めようかと思っているんだけど、さて英陵でアルバイトは許してもらえるのかどうか。

 たぶん、校則では禁止されていないだろうが、そもそもアルバイトをしようと思うような人間は、これまでにいなかっただろうからな。

 一体どういうタイミングで切り出せばいいのか、熟慮しているつもりだ。

 まあ、タイミングの問題じゃなくて、学校側の考え方次第だとは思ってはいる。

 ただ、家庭の調査はされたらしいし、ある程度は考慮してもらえるのでは、という期待もあった。

 後は実際に俺という人間を見てからの評価だな。

 信用に値する、と思われたら許可されるかもしれない。

 そういった願望めいたものを抱いている。

 七組や生徒会では居場所のようなものを作れたと自負しているが、学校側が俺の事をどう思っているのか、依然として五里霧中だ。

 思い切って小笠原先生に訊いてみようか。

 あの人なら悪いようにはしないだろう。

 そんな信頼感は持っている。

 服を着替え、シャツを洗濯かごに放り込み、俺はキッチンへと戻った。

 何か手伝う事はないかと思ったのだ。

 入ると千香が鼻歌を歌いながら、シチューをかき混ぜている。

 よく分からんが、あまりやりすぎてもよくないんじゃないか?

 と思っていたら、千香は手を止めてコップ二つにお茶を入れて一つを俺の前に置いてくれた。


「さんきゅー」


 そして自分の席に座ってお茶で口を湿らせる。

 俺も喉は渇いていたので一口飲んだ。

 うん、高遠先輩が淹れてくれたお茶とは格段に差がある。

 でも、これこそが庶民の味ってやつじゃないか。


「あれ? 美味しくなかった?」


 千香の奴、目敏く俺の表情の動きを見ていたらしい。

 なかなかの観察力と勘の鋭さだ。


「いや、いつも通りなんだけど、今日先輩が淹れてくれた分と比べるとどうしてもな」


「何それ。詳しく聞きたい」


 妹は目を輝かせて食いついてきた。

 言い出した手前、今更うやむやにするわけにもいかない。


「生徒会室にはお茶の道具一式があるんだよ。と言っても、足りないものがあったところで、俺じゃ分からないけどな」


 そう断っていく。

 お茶を淹れる為に必要なもの、正式な手順。

 どれも俺は知らないのだ。


「うんうん。それを使って先輩達がお茶を淹れているの?」


「おう、交代制っぽいな。俺に回ってくる気配はない。当たり前だろうけど」


 少し残念そうに言うと、千香は吹き出す。


「そりゃそうでしょ。お兄ちゃんが淹れたら、せっかくのお茶の葉が台無しになるんじゃない?」


「否定はできない」


 俺はせいぜい厳めしい表情を作って肯定しておいた。

 むしろそういう指令が来ない事に安心していたりする。

 残念そうにしたのはあくまでも演技だ。

 だって俺は紅茶なんてまともに淹れた事など、一度もないのだから。

 市販のティーバックのものがせいぜいだし、それも沸かしたお湯を適度にそそぐだけだ。


「やっぱり高いのかな。そういうお茶の葉って」


「たぶんな」


 妹の言葉をあいまいに肯定する。

 正直、どれくらいの値段がするのか、想像すらできない。

 それどころか想像する事を拒否したい気持ちだってあるくらいだ。


「もっとも、そういう事は考え始めたらキリがない場所だけどな。色んなところに色んな物品があるんだけど、どれも高そうな気はする」


 俺が言うと千香は食いついてくる。


「え、例えばどんなものがあるの? 絵画とか書とか骨董品とか?」  


 質問の選択がシブい気がするな。

 英陵という事を考えれば的外れじゃないんだが。

 現に俺には心当たりがある。


「そうだな。年月や趣を感じさせるものなら、いくつかあるな」


 記憶を掘り起こして答えると、妹は目を丸くした。


「わ、そういうのに限って、すごく高かったりするんだよ、お兄ちゃん」


「うん、フィクションで見る限りじゃそうなっているな」


 こう切り返したのは別にとぼけたわけでも、こいつの言う事を信じていないわけでもない。

 事実を事実として認めるのが怖かったのだ。

 今まではなるべく気づかないふりをしていたからこそ、馴染めたという面もある。

 俺の心情を見抜いているのかいないのか、千香は屈託なく笑った。


「またまた。オリエンテーション合宿の為だけに、保有する島を使うような学校なんでしょう?」


「まあ、さすがに一年に数日しか使わないって事はないらしいけどな……」


 反論は中途半端だし、語尾は濁してしまったのには理由がある。

 どうやら夏にも避暑地的な意味合いで使うらしいのだ。

 はっきりと確認したわけじゃないんだが。

 縁があれば教えてもらえるだろうさ。


「それに意外と庶民的な部分もあるんだぞ」


 俺が言うと千香は怪訝そうな顔をする。


「え? どこに?」


「球技大会もあるんだってさ」


「え? 嘘?」


 この反応で妹も俺と同じような印象を持っていた事が分かった。

 お嬢様達ならオペラ鑑賞や舞踏会をやっても、球技大会みたいな事はしないと思っていたのだろう。

 全く同感である。


「へえ、確かに意外だね。でも、絶対経営難じゃないよね?」


 千香が表情を引き締めて尋ねてくる。

 これには全く同感だったので、首を二度縦に振った。


「有り余って困っている成金って感じはしないけど、経営が苦しそうには見えないな。そもそも、男子は授業料なんかを免除してもらえるんだし、他に色々としわ寄せはいっているはずだ」


 それでも誰も嫌な顔をしない。

 それは英陵が上品で性格もいいお嬢様達揃いだからだと思っていたのだが、考えてみれば確かに変だ。


「何か裏があるのかなぁ。お兄ちゃんがモルモットとか」


 不吉な単語を聞いた俺は、表情を取り繕う余裕をなくしてしまう。


「やめてくれよ。俺は一体どんな生贄にされるんだよ」


 きっと真っ青になっていたに違いない。

 金持ちが庶民をモルモットにする、あるいは檻に入れて珍獣扱いして楽しむ構図が浮かんでしまった。

 英陵の女子学生達にそういう子はいないと信じたいけど、彼女達は何も知らないだけという可能性は否定できない。


「でも、心の準備はした方がいいかも。だって、お得なんでしょう?」


 妹の心配だか不安を煽っているだけだか分からん言葉には、悔しい事に説得力がある。


「そりゃ、オリエンテーションが無料。学食も無料だからなあ」


 百合子さんと一緒になった食事のメニューを思い返す。

 さすがに本格的なフルコースに比べたらずっと劣るんだろうけど、それでも高級レストランでしか食べられそうにもないメニューだった。

 正直、まず食材の調達に金をかけているんだろうし、それをきちんと調理できる料理人を用意しているはず。

 おまけに、数十人くらいの学生達がやってきても捌ききれる頭数を揃えているのだ。

 その事を言うと千香も眉を寄せる。


「あたし、受験するの止めよっかなぁ」


「冗談に聞こえないよ……」


 俺はげんなりとした気分になってしまう。

 そんな兄の姿を見た妹は「あはは」と笑った。


「冗談だよ。受けるのはいいけど、あたしじゃ特別扱いは無理なんだろうねぇ」


 その表情と声から伝わってきたのは、両親への遠慮だ。

 英陵は名門私立だけに通常なら大金が必要である。

 それを俺が免除されたのは、共学化に伴って作られた男子特権のおかげだ。

 女である千香の奴には適用されないだろうし、つまり従来の金が必要になってくるだろう。


「男枠なのか庶民枠なのかでも違ってくると思うけどな」


 あくまでも男を呼び込みたいなら、千香が恩恵を受ける事はない。

 だが、庶民枠ならどうだろうか。


「それってつまり、お兄ちゃん次第って事?」


 妹が可愛らしく小首をかしげる。


「えっと、それはどうなんだろう……」


 俺を見て男子の受け入れを進めるのか中止にするのかを判断するって可能性はあると思うけど、庶民枠を創設するかどうかまでは分からないよな。

 学校側の狙いが全く不明瞭なんだから。

 それよりもこいつの意見を訊いておきたい事がある。


「訊きたい事があるんだけどな」


 俺は紫子さんと百合子さんの事を説明した。


「どう思う? 嘘をついているようには見えなかったんだが、本当にあるものなのか?」


「まあ、百合子さんって人の方は本気なんじゃないかなぁ? たぶんだけど」


 千香はお茶をゆっくりすすりながら答える。


「物語のようにかっこよく助けられたいって願望がある子はいるし、お兄ちゃんは意図せずして、それを実際にやって見せたわけだから。百合子さんって人の目がハートマークになっちゃっても、そんなに不自然だとは思わないけどなあ」


「目がハートって……」


 思わずつっこみを入れそうになったが、辛うじて自重した。

 表現が百合子さんにマッチしてはいないものの、全く見当外れだとも思えなかったからだ。

 英陵ではあるグループが食事を摂っている席に、他の誰かが同席を申し出る事は珍しい。

 全くないわけじゃないけど、混雑していて空きがない場合を除けば遠慮する傾向がある。

 百合子さんが俺の隣に座ろうとした時、まだ席に空きはあったはずだ。

 だからこそ、周囲の耳目を余計に集めたのだと思う。


「他の人はどんな反応だったの?」


「うん? 他の人?」


 千香の目がどこか面白がるような、それでいて探るようなものになった。


「その人がお兄ちゃんと仲良くしたがっているのを見て。何か言ったりしなかったの?」


「ああ、特にはなかったな」


 一緒に食べた小早川、デジーレ、百合子さんと一緒だった女子生徒。

 それに周囲で見ていた子達。

 更に紫子さん達も含めて。

 百合子さんの事を何となく微笑ましそうな顔で見たりはしていた気がするけど、俺に対してはどうこうといった事はなかったように思う。


「ふーん、それじゃお兄ちゃん、まだそこまでじゃないんだね」


「あん? 何の話だよ?」


 突然思わせぶりな事を言い出した妹に面食らった。

 まだそこまでじゃない?

 一体どういう意味で言っているんだ、こいつ?


「こっちの話ー」


 何故か少し嬉しそうに口元を緩めている。

 何だかイラッとしたのでそのほっぺたに手を伸ばした。


「いたひよ」


 ふにふにと伸ばしてやると抗議される。

 先にいらん事を言い出したのはお前の方だろう。

 そういう気持ちを込めて睨むと、両手を挙げて降参の意を示してきたので、手を離してやる。


「もー、後になったらどうするの?」


 涙目になりながら頬をさすり、文句を言ってきた。


「先にちょっかい出したのはお前」


 口に出して言うと、肩を竦める。


「そんなんじゃ、英陵のお嬢様達はたらし込めないと思うよ、お兄ちゃん」


「待てこら」


 何でそんな話になってやがる。

 俺が同級生達をたらし込むだと?


「どうしてそんな発想になる?」


 声に出して尋ねると、千香の奴は可哀想なものを見るような目で見てきた。


「少なくとも一人は攻略しちゃっているよね、お兄ちゃん」


「あん? ……もしかして百合子さんの事か?」


 心当たりがあったので言葉にしてしまう。

 妹はこくりとうなずいた。


「失礼な事を言うな。あの子は単に俺に感謝しているだけだろう」


 そう否定したものの、自覚できるくらい声に力はなかったし、すこし震えてもいた。

 だからか千香は少しも悪びれなかった。


「そうやってとぼけて。隣に座られて、悪い気はしなかったんでしょ?」


「それはまあな……」


 百合子さんはかなりの美人である。

 姫小路先輩や紫子さんには一歩、あるいは二歩劣るかもしれないけど、それでも相当なレベルだ。


「はっきり言って、お前じゃ相手にならないな」


 意趣返しも兼ねてそう言ってやると、妹は露骨に気分を害した。


「そういう事を平気で言っちゃう人間を、デリカシーがない奴って言うんだよ」


 こめかみに青筋を浮かべ、右人差し指でこっちを突きつけてくる。

 かなり怒ったらしい。

 何でこいつが怒ったのか、実のところ理由は見当がついていた。

 だからあしらう事にする。


「ご忠告どうも。だが、本当の事を言われて怒るのは感心しないな。人としてどうなんだ?」


「むきーっ」


 千香は悔しそうに両手でテーブルを叩いた。

 本気で悔しがっている時にやる仕草だな。

 やっぱり、百合子さんと比べたのがいけなかったのか。

 俺は立ち上がって妹の側に近づき、頭の上に手を置く。


「さ、触るなー、馬鹿兄貴ー」


 いつもなら少しも抵抗しないのだが、今は別のようだ。

 じたばたともがこうとする。

 とは言え、座りながらじゃ限界があるのも当然だった。

 俺はやや強引に髪を撫でてから笑いかける。


「冗談だよ。千香は俺の可愛い妹だ」


 すると効果はてきめんで、妹の動きはぴたりと止まった。


「……お兄ちゃんってたまにキザで恥ずかしい事を平気で言うよね」


 頬を赤らめ、上目づかいになりながら抗議してくる。

 こういう時のこいつの顔は、素直に可愛いなって思う。


「本当の事しか言わないんだけどなぁ」


 単に妹が喜ぶから言っているだけだ。

 それを聞いた千香は、何故かため息をついた。


「早く退学になった方がいいかもよ、お兄ちゃん」


「酷いなそれ」


 仲直りのサイン代わりの冗談だと思い、苦笑して席に戻る。

 結局、この後は英陵の話題は出なかった。

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