第六回 目付組
救った男は、
歳は五十ほどだろう。白髪が目立つ、落ち着いた男だった。傷を数か所負っているが、皺の深い顔が痛みで歪む事はない。
(只者ではないな)
血や痛みが襲っても動じない。それが、この男の経験と胆力を表している。
賊を叩き斬った睦之介は、堪えきれずに嘔吐した。何とも言えぬ気持ち悪さに襲われたのだ。それから、大須賀を抱え屋敷に駆け込んだ。
流石に邸内は騒然となった。放蕩息子が返り血を浴び、また傷を負った老武士を連れ帰ったのだ。無理もない話しだが、まだ刺客の襲撃があると思えば、その混乱に構っている余裕はなかった。
大須賀には、すぐさま手当てが施された。家士に金瘡医術の心得がある者がいるのだ。その家士によれば、傷は浅くで骨には達していないという。睦之介はその間、行水で返り血を洗い落とした。冷たい水を何度か被ったが、人を斬った気持ち悪さは消えなかった。
「勤王派の仕業というのは間違いないのだな?」
父の居室に呼ばれ事の次第を説明すると、織部がそう訊いた。
「はい。斬る前に『天誅』と叫んでおりました」
「天誅か」
織部は苦い顔をした。機嫌が悪いように見える。就寝中を起こされたからだろう。こめかみを、中指の腹で押さえている。
「最近、志士の間で好まれている流行文句だと聞きました。これも勤王派の仕業と思って間違いありません」
「先日、下士を中心にして怡土勤王党が結党された」
「怡土勤王党ですか」
「そうだ。この暴挙は勤王党の仕業かもしれんな。指図したのは。加藤めだろう。勤王党の後ろ盾は、あの加藤甚左衛門だ」
「だとしても、何故に大須賀殿は襲われたのでしょうか?」
「それはな、大須賀が目付組に出仕する
「軍師ですか。張良のような」
「怡土でも五指に入る策士だな」
「それほどまで」
睦之介は、納得し頷いた。大須賀からは、確かに古来の軍師を思わせる知性が感じられる。
「好機かもしれぬ」
「好機?」
「勤王党を潰す、な」
「父上、今は勤王派の力が強いと聞きました。安易に踏み込めば逆撃を受ける恐れがあります。ここはまだ伏せるべきと思いますが」
睦之介は意見していた。政事には関わらない。そう決めていたが、考えた事がつい口に出ていた。
「ほう」
父は、一瞬だけ驚いた顔をした。
「親が思っている以上に、子は育っているのかもしれん」
「何の事でしょうか?」
「いや、独り言だ。この件は表沙汰にはせぬ。そして、機を待つ。それまでは、他言無用とする」
「判りました」
「うむ。それにしても、よくやったな睦之介」
睦之介が部屋を出ると、代わって大須賀が呼ばれた。個別に話を聞くつもりだろう。
この夜は寝付けなかった。三人も斬ったのだから無理もない。これで普段と変わらず眠れたら、立派な人斬りである。そうはなりたくはない。嘔吐したのも、情けなさの表れではなく、まだ人斬りではない証拠かもしれない。
それから三日後、父の命令で大目付の赤橋頼母の屋敷を訪ねた。
赤橋家の屋敷は、怡土城からほど近い
客間に案内されると、赤橋の他に大須賀の姿もあった。まだ痛々しく包帯を巻いていて、睦之介の姿を認めると頭を下げた。
「忙しい中、呼び立ててすまない」
睦之介が腰を下ろすと、細面の赤橋が軽く微笑んだ。春の爽やかな風のような笑みで、楊三郎ほどではないが中々の美男子である。
「まずは、ありがとうと言いたい。君のお陰で私は大事な側近を失わずに済んだ」
そう言って、赤橋が大須賀を一瞥した。
赤橋の軍師。父が、そう言っていた。元は
(怡土でも五指に入る策士か。とんだ大物を助けたものだ)
と、知らされた時は思ったものである。
「何か礼をしたいのだがね……」
「いえ、それについては無用に。私はあの付近をぶらついていただけで、礼をされるほどではございませぬ」
「ずばり、飲み歩いていたついでに助けたのだから心苦しいというのだな?」
「それは……」
核心を突いた言葉に、睦之介は言葉を詰まらせた。すると、その様子に赤橋は堪えきれずに吹き出した。
「いやいや。この際、その放蕩っ振りに助けられたのだ。感謝しようではないか。なぁ大須賀」
「如何にも」
睦之介は、顔が赤くなる熱を感じた。
「しかし、流石は丹下流の使い手。三人を相手にする事は並みの胆力で務まらない。私も剣をしているから、余計に判る」
「無我夢中でした」
「そういう時に、本当の力が出るのだよ」
赤橋は、江戸で千葉派壱刀流の
清流館は江戸四大道場の一つで、道場主の
「谷原中老も喜んでいた」
「……そうですか」
父は喜んでいたのか、睦之介には判らなかった。父は文官として功を挙げ、中老に出世した経緯から、剣なり武官なりを軽視する所がある。口では「よくやった」などと誉めてはいるが、口だけの事に思える。
「そこでだ」
赤橋が、懐から書状を取り出した。
「これを見て欲しい」
言われるがまま手に取ると、そこには三つの名が記されてあった。
「これは大須賀を襲った者だ」
赤橋の声が、険しいものに変わった。
「……」
「三名の素性を辿れば、怡土勤王党ひいては加藤甚左衛門殿に辿り着くはずだろう。しかし、君はまだ表沙汰にすべきではないと、お父上に意見したそうだね」
「ええ、確かに言いました」
「その真意を聞きたい」
突然の質問に一瞬戸惑ったが、睦之介は父に話した事を順序よく説明した。
「なるほどな。今は勤王派の力が強い。しかも加藤殿は、周辺諸藩の勤王派にも人望がある。無理に取り締まれば、何が起きるか判らない。そういう事かな?」
「有り体に申せば左様です」
赤橋は腕を組むと、一つ大きな溜息を吐いた。真剣な面持ちだ。流麗な目元に、鋭さが増している。
(試されている……)
睦之介は息を呑み、次の言葉を待った。
睦之介にとって、赤橋は目指すべき尊敬の対象になりつつある。そんな男に落胆されたくはない。
「大須賀はどう思う?」
「私も同意見です。勤王派の意気は軒昂にて、京師では曲渕信濃が宮中に出入りし、摂関家の覚えめでたいと聞きます。探索は秘密裏に行い確たる証拠を抑えた後は、風向きが変わるのを待っち、ここぞという時に……」
大須賀が同意してくれた。赤橋の軍師であり、藩でも指折りの策士に。睦之介は、赤橋に目を向けた。
「そうだな。罪を見過ごす事は些か後ろめたいが、これも大罪を裁く布石となるならば。目付組として君の意見を採用しよう」
その言葉に、睦之介の身体は熱くなった。藩内でも俊英が集まる目付組の軍師が同意し、その総帥が自分の意見を採用してくれたのだ。
(何と言うべきか)
今までに感じた事のない感情に全身が震え、それを抑えるのに必死だった。
赤橋が茶に手を伸ばした。睦之介もそれを見て茶を口にした。高級な茶であろう。香りや味わいに気品がある。だからと言って、赤橋は贅沢を好んでいるようには見えなかった。屋敷は広いが、それは大組の身分に見合ったもので、着ている着物や調度品は決して豪奢な物ではない。
(やはり、信じるに足る人物だ)
何より赤橋は、叱責する父から庇ってくれたのだ。
「そこでだ。暫く私の下で働いてみないか?」
「私が、目付組に?」
「そうだ。だが当面は、大須賀の護衛役をしてもらう。賊は再び大須賀を襲うだろう。今この男を失うわけにはいかんのだ」
青天の
「しかし、私などが」
「能力は申し分ない。それは既に調査済だ。それにだ。君は勤王の志士を斬った。それは、既にこの時流に巻き込まれたという事なのだ。もう無頼を気取り、時世に背を向ける事など許されない」
「……」
「君が欲しい」
「私が、赤橋様の」
「どうだ?」
赤橋が確認するように訊いた。睦之介はその言葉で我に返り、
「勿論、私でよければ勤めさせて頂きます。藩にとって重要な人材を護衛する大役を果たせる事は、光栄な事でございます」
と、平伏した。
しかし、父の顔が浮かんだ。勝手に決めて良いものなのか。
「お父上には、既に話を通しております」
そう言ったのは、大須賀だった。睦之介は顔を上げて赤橋を見ると、頷いて答えてくれた。
「私から了承を得ている」
やはり、この男は。と、睦之介は思った。尊敬できる。そんな男の下で働けるのは、幸運と言うべきであろう。
赤橋の屋敷を辞去し外に出ると、追ってきた大須賀に呼び止められた。
「これから宜しく頼みます」
大須賀は深々と白髪頭を下げた。
「いや……」
睦之介は、大須賀の敬語に戸惑いを覚えた。
大須賀は同じ大組に属しているが、生まれた身分が低いのと、中老の息子に護衛されている事を気にしているのだろう。
「大須賀殿、私に対して敬語は止めて下さい」
「私は大組とは言え、生まれは下級の
「しかし、今は大組であられます。そして私は若輩、年長者から敬語で話されるのはどうも苦手で」
「判りました……いや、判った。これから頼むよ」
大須賀が笑う。だが、目の奥は笑っていない。策士の習性だろうか。笑いながらも、何かを偽り謀っているような目だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、睦之介は当座の荷物を片手に自宅を出た。
荷物を持って行けと、父に言われた。つまり住み込みでの護衛という事だ。持ちきれない荷物は、家士が運ぶ手はずになっていた。
出立前に、睦之介は父に礼を言った。赤橋の下で働く事を許してくれた事に対するものだった。それに対し、父は鼻を鳴らし、
「お前の蛮勇が、どこぞで役に立てばよいと思った」
と、応えた。そして、大須賀の屋敷で学んで来いとも。父なりに期待を込めて送り出してくれたのだろう。
大須賀の屋敷は、赤橋と同じ堤小路にある。そう大きなものではなく、赤橋邸と比べれば明らかに見劣りする規模だ。
訪ないを入れると、襷掛けにして袖を絞った若い娘が現れた。炊事をしていたのか、息は弾んでいる。
「失礼する」
睦之介の言葉に、娘は笑顔を向けた。
日に焼けた丸顔で、瞳は胡桃のように丸く、愛嬌のある顔である。十七かという年頃だろう。娘は元気よく睦之介を迎え入れた。
(下女かな)
大組の娘にしては、来ている着物も地味で粗末だ。
「私は谷原睦之介という。大須賀要蔵殿はご在宅か?」
「はい、奥にいます」
娘は笑顔で頭を下げると、睦之介を中に導いた。中に入ると、大組の屋敷にしては、その狭さが際立った。大須賀は成り上がりである。嫌でも嫉妬の対象になる。その辺りを気にして、わざと狭い屋敷に住んでいるのだろうか。
大須賀は私室にいた。書見をしながら煙草を吹かせていた。
「お、来たかね」
と、大須賀は煙管の雁首を叩いて灰を落とした。
「今日から暫くの間、君に命を預けるよ」
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
それからすぐに、警備の話を詰めた。睦之介は日中と外出時の警備を担当し、夜間は
それほど手間を掛けるのは、それだけ大須賀という男が、赤橋にとって不可欠な男だからだろう。勿論、赤橋にとってもそうで、だとすれば、何としても大須賀を守らねばならない。喩え、自らの命に代えても。
「それと、君には離れで寝起きしてもう。それは承知してくれるかね?」
最後に、大須賀が付け加えるように言った。
「はい。その件は父に言われています」
「よろしい。身の回りの世話は、娘の
そう言うと、大須賀は紀和の名を叫んだ。
「あなたは」
暫くして現れたのは、睦之介を出迎えたあの娘だった。
紀和は、指を着いて平伏した。笑顔は人懐っこく、どこか子犬のような印象を受ける。
「紀和という。我が娘ながら面倒見はいい方だぞ」
大須賀は娘と二人暮らしだった。妻は五年前に亡くなり、子も紀和しかいない。あとは住み込みの下女と下男、中間が一人ずついるだけだ。
それから紀和の案内で、屋敷内を見回った。護衛をする以上、構造は頭に叩き込んでおく必要がある。また、退路になる正門以外の出口も確認した。
全て見終わると、睦之介の部屋となる離れに案内された。八畳の思ったより広い部屋で、寝具などの一式は既に用意されている。
「紀和殿、ご面倒を掛けるが頼みます」
睦之介は、一つ頭を下げた。
「ふふ。紀和と呼んで下さい。私は睦之介さんより随分と年下ですもの」
確かに、並んでみるとまだ身体つきは幼い。まだ十五にも満たないのかもしれない。
「そうはいきませぬ。上役の令嬢ですので」
「いいのいいの。どうせ元は無足組の下士ですもの。大組の姫様のように気取ったりしたら、父に叱られるわ」
「判りました。しかしお父上の手前もありますので、『紀和さん』と呼ばせて頂きます」
「堅いなぁ。ま、何かあれば、気兼ねなく私に申し付けてくださいね。家中の事は一切私が取り仕切っていますので」
「凄いな、紀和さんは」
「父が後添いを貰わないから。かと言って下女も雇わないんです、ケチだから。でも、花嫁修業になるからいいかな? 大変ですけど」
そう言うと、紀和は舌を出して一笑し、母屋に引き返していった。
気立てがいい娘だ。いずれは婿養子を取り、大須賀家を継がせるのだろう。そんな事を、去りゆく紀和のまだ薄い尻を眺めながら思った。
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