第五章 ~指輪と首輪~

 負けた後のことはよく覚えていない。

 城に連れ帰られ、冷えた身体を風呂で温めて、お父様とロイドと二、三の事を話して、それからぐっすりと眠った。朝起きて薬指にはめられた指輪を見てようやく実感がわいた。もう子供の時間が終わったことを、自由が失われたことを。

 それからは、結婚式に向けてのめまぐるしい日々が待っていた。ドレスの仕立てに始まり、式の手順の確認、連日訪れる来客とのお茶会、花嫁としての知識を詰め込まれたりだ。

 さらにその合間には、王家に伝わるしきたりをこなさなければならなかった。夫に送る肩布を縫ったり、聖廟に安置する書簡を模写したり、身を清めるために食事を野菜や果物類に制限したりと休まる暇がなかった。ただそれぐらい忙しく、考える時間が無いのはエクセラにとっては良かった。

 肝心のロイドはというと、結婚の報告と二国が同盟を結ぶ準備のために、一度クロディウスに戻っていた。これから結婚する人間として問題だろうが、毎日顔を合わせないで済むのは正直助かった。慣れない行事や宮廷作法をこなすのに精一杯でロイドの相手をしている余裕はエクセラには無かった。結局、ロイドがクロディウス側の参列者や同盟締結のための使者を連れて戻ってきたのは、式の二日前だった。

 式を取り仕切るマラドの計らいで、エクセラとロイドが条約にサインすることで結婚と同盟が締結されることになった。国内外に結婚と同盟が不可分で、ともに円満であることを示すのが狙いだった。マラドはエクセラの結婚がよほど嬉しいのか年に似合わぬ溌剌さで、逆にお父様に心配されるほどだった。

 王として父として思うところはあるだろうけれど、お父様は二人の結婚を祝福してくれた。ロイドは礼を言い、エクセラもその祝福を素直に受け止めた。

 ただ妹のイランジュアだけは未だ納得していないようだった。ほとんど顔を合わせることもせず、側近のルークや部下と何やら忙しそうにしていた。無理に祝ってくれとは言えないけれど、いつかはイランジュアにもこの決断を分かって欲しかった。

 結婚式を明日に控え、城中が慌ただしさの最高潮を迎えていた。式が行われる城内の大広間には国内外の有力貴族の席が用意され、彼らに饗される料理の最終準備が厨房で行われている。客室から普段は使われない部屋まで、メイド達は髪の毛一本すら見逃さないように徹底的な掃除を続けていた。耳にした話では、城下町でもエクセラとロイドの結婚を祝い、連日お祭り騒ぎになっているらしい。

 大きな流れはもう変えられない。もう流されるだけのエクセラだったが、一つだけどうしても自分の手で終わらせなければならない事が残っていた。

 膨れ上がった爆発寸前の忙しさにお付きのメイド達の注意が逸れたのを見計らい、エクセラは城を抜けだした。

 林道は深まる夏の陽に応えるように木々が青々とした葉を茂らせていた。その庭園までの短い道を、エクセラは一歩一歩を確かめるように歩いた。ヒラヒラと揺れる葉影から覗く光が、まるで戻らない日々を一瞬でも垣間見せてくれるように感じられた。

 この世界のどこかに時間を戻せる魔法があるなら、躊躇なく唱えよう。

 十年前にガルディと歩いたこの道を、もう一度ガルディと一緒に歩きたい。喧嘩して、遊んで、笑って、泣いて、また一から剣を習って、冒険にも行くんだ。十年一緒に。そしてまた今日という日がやってきたら時間を戻すんだ。

 ずっとずっと、このままでいたかった。

 月日が過ぎるように道は終わり、夕陽に映える庭園が見えてくる。失ってしまった何かのようにキラキラと輝いて見えた。

 十日間も来なかったうちに花壇には、赤や黄色の新しい花が咲いていた。見回すと新しくなったのは花や草木だけではなかった。エクセラが壊した柵が新しくなっていた。花壇の欠けた縁石が取り替えられていた。踏み石についた苔が綺麗に落とされていた。普段はそのままにしてある修繕や掃除が、他にも数えきれないぐらいされていた。その一つ一つがまるで終わりを告げているようだった。

 生け垣を回り込み、花壇に緑の影を見つけた時、エクセラの脚は動かなくなってしまった。

 たとえドラゴンを前にしようと、剣を向ける自信があった。たとえ大陸一の剣士が相手だろうと、戦いを挑む覚悟があった。それなのに、今はすぐにでもこの場を逃げ出したくてしょうがなかった。

 しかし、緑の影は待ってはくれなかった。腰を落としたままゆっくりと振り向いた。

「あっ……」

 目と目が合いエクセラの口から不意の吐息が零れた。すると、不思議と金縛りが解け脚が動いた。背負っていたものがふっと軽くなったような気がした。

 エクセラが近づくと、ガルディは花壇の隅にかけてあった布を開いた。

「明日にはアデルニアが咲くな」

 布の下では二十株ほどの花が白い大きな蕾のまま、開花を待っていた。

 何も言えなくてエクセラは小さく頷くしかなかった。ガルディはエクセラから視線を外すと、ナイフを抜きアデルニアの茎を一本一本、丁寧に切り始めた。

 エクセラはしゃがんだまま作業を続けるその背後に回った。

 頼もしい背中はエクセラぐらい軽々と背負えるのに、今は小さく丸まっている。

 逞しい腕は大木でもなぎ倒せるのに、今は小さな花を切り揃えている。

 太い足は馬と力比べをしても負けないなのに、今は耕した地面を踏みしめている。

 他人から見たら不自然な事なんだろうけれど、エクセラにはそれが自然なことで、一番しっくり来る姿だった。

 知らず知らずのうちに跡が残るほど握りしめていた掌を開き、エクセラはガルディの首元に手を伸ばす。指先が首輪に触れた所で、エクセラの動きがまた止まってしまう。

 エクセラは一度だけ左手の薬指を見た。銀の指輪が夕陽で茜色に染まっていた。外すのはこっちじゃないと、自分に言い聞かせた。

 十年も締められたいた首輪の金具は、その歳月を吸収したかのように固くなっていて、震える指先では上手く外せない。ガルディはアデルニアの花を切り落としながら辛抱強く待ってくれた。

「む、昔は……よくこうやって、ガルディに肩車してもらった……」

 沈黙に耐え切れなくなったエクセラは咽ぶように話し始めた

「ついこの前もしたな」

「そんなことない」

「拐われた女を助けるのに山小屋を覗きこんだ時だ。もう忘れたのか?」

「あ、あれは……肩車じゃない。担いでもらったんだ」

 認めるのが悔しくてエクセラは意固地になって否定した。

「まったく、図体ばかりでかくなって、中身は変わらねえな」

「そんなことはない……私は大人になった……」

 だから自分のしなければならないことが分かっている。

「大人なら泣くな」

「ガルディが……どこにも行かないなら泣かない……」

 もうガルディを自由にしてあげると決めたはずなのに心が拒絶していた。

「大人なら我儘を言うな」

「……だったら子供のままでいい」

 五年も、十年も前に戻ったかように駄々をこねる自分がいた。そんなエクセラにガルディは諭すように言った。

「人間は変わる。変わらなきゃならん。オークとは違うんだ」

「オークでも何でも良い……、ガルディはこの十年間ずっと一緒にいてくれて、いつも我儘を聞いてくれて……た、楽しかった……わ、私、幸せだった……」

 思い出も伝えたいこともいっぱいあるのに、息ができないぐらい言葉が上手く出てこない。

「ああ、俺も楽しかった。幸せだった」

 こんな言葉がガルディから聞けるなんて思っていなかった。

「……本当に? い、嫌々付き合ってくれたんじゃないの?」

「本当だ。俺の人生の大半は戦いの中だった。明けても暮れても血まみれの日々だ。そんな俺が誰かに幸せだったなんて言われるなんて思ってもいなかった。だから、付き合ってもらったのは俺の方だ。俺を救ってくれて、ありがとうな」

 それは初めてガルディから貰った感謝の言葉。エクセラはもう耐えられなかった。

「もっと……もっと、ずっと……ガルディと一緒にいたい……」

「俺はもうお前に何もしてやれない。邪魔になるのは御免だ」

「……ここは……この庭園はどうする……呪われた斧があるから普通の人間には無理……ガルディがいないと……」

 エクセラはガルディの肩越しに震える手を伸ばし、庭園の中央の岩に刺さった斧を指さした。魔王の遺品だという斧のせいで、並みの体力ではこの庭園に長くはいられない。

 脅しとも言える切り札だったけれど、ガルディは首を縦には振らない。

「お前も気づいてるだろ? あの斧は周りの植物から吸収する分で満足してる。もう普通の人間でも、何の問題もない」

 エクセラは黙って俯いた。始めこそ草一本生えなかった庭園だけれど、植物が増えるに従い身体の負担は減っていった。今では斧の影響をほとんど感じないほどだ。

「…………じゃあ」

 それでも諦めきれなくてエクセラは、ガルディの背中に抱きついた。

「一緒に来いって言って! 今度は私がガルディの冒険に付き合う!」

「十年一緒だった。それで十分だろ」

 例えどんなに惨めでも、すがりつくしかなかった。

「もっと……あと十年だけ……」

「もう聞けない願いだな」

 外れた首輪がエクセラの手から滑り落ちていく。ガルディはそれを受け止めると、そっとエクセラの手に返した。

 最後に残っていた繋がりは断ち切られてしまった。

「…………そうだな、首輪がなければもう我儘は言えないな」

 分かっている。もう何を言っても無駄なことを。自分を想ってくれるガルディをこれ以上困らせてはいけない。

 エクセラはガルディの背中に鼻を擦りつけて涙を拭った。

「……これからどこへ?」

「そうだな……、お前の代わりに山を越えて北へでも行くか」

 幼かった頃、エクセラが魔法の国ルーランに行きたいと駄々をこねた事をガルディは覚えていてくれた。

 胸の奥から嬉しさと悲しさと、愛しさが溢れてもうどうしようもなかった。

「山道は危険だ。だ、だから……お守りをやる」

 エクセラは意を決してガルディの横顔にグッと近づいた。

「お守り? 旅道具なら間に合っ――」

 言葉が止まった時、夕陽を浴びて紅に染まるガルディの横顔がすぐ眼前にあった。

「ふふ、初めて驚かせたぞ」

 ガルディの頬から唇を離したエクセラは、恥ずかしさを隠すように得意気に言った。ガルディはまだ混乱しているのか、動きが完全に止まっていた。

「首輪は私が貰っていく」

「まったく……」

 外した首輪を目の前に持って行くと、ガルディがいつもの苦笑を浮かべた。

「ついでだ、これも持っていけ」

 ガルディは切り落としたアデルニアの花を無造作に紐でまとめると、束にしてエクセラに渡した。

「俺にはこれぐらいしか、お前にやれん」

「これぐらいじゃない。これもだ。ガルディには今までいっぱい貰った」

 エクセラは受け取った花束と首輪を一緒に抱きしめた。

 ずっとこうしていたい。

 ずっとこの幸せの中にいたい。でも――。

「さようならだ、ガルディ」

「ああ、幸せになれよ、エクセラ」

 エクセラは踵を返し、庭園の道を戻っていく。ゆっくりとした歩きは、やがて早足に、庭園を抜ける頃には涙を置き去りにするように全力で走っていた。

 そんな自分の背中をガルディがずっと見送ってくれているのが分かった。

 もう振り向かないように。



 涙で濡れた背中が、不意の風を受けて冷えていく。

 エクセラが去って行くのを待ち構えていたかのように、夜の帳が降りてきた。随分と前から暗くなっていたはずだが、蝋燭が消えかけているかのように闇が這い寄っていた。

「……いつまで隠れてるつもりだ」

 黒に染まった森からは答えとばかりに、風切り音が聞こえた。ガルディは大きく飛び退る。放たれた矢が地面に刺さり、下草がカサッと乾いた音を立てた。

「へへへ、面白いもんが見れましたねえ。あの人の心配もあながち間違っちゃいなかったってことですか」

 風に乗り聞こえてきたのはザジの潰れた声だった。ガルディは声の聞こえ方から相手の位置を探りつつ、庭園の端にある小屋に向かって移動を始めていた。幸い今日の月は細く、遠目なら庭園の植物に隠れて動くガルディを捕らえられないだろう。

「今更、俺に何のようだ? 昔の意趣返しか?」

「いえいえ、隊長には深~い御恩がありますよ。でもねえ、依頼人があんたを処分しろってうるさいんですよ。一応、ほっとけって言ったんですがねえ、御仁は聞き入れちゃくれない。嫌になるほど完璧主義でさあ」

「……なるほどな」

 ザジの口ぶりから、心当たりは一つしか無かった。

「よくまあ、べらべらと喋ってくれるな」

「ケジメですよ。あんたを絶対に殺すってね」

 位置を探りつつ、見えない牽制が続いているが、ガルディは庭園を抜けた。小屋まであと少しだ。

「ふん、お前が俺に勝てると?」

「あの頃なら無理でしょうけど、今はどうですかね? 色々と強くなったんですよ」

 向かっている小屋の方からガラスが割れ何か液体が飛び散る音が聞こえ、それに続き一条の火線が夜の闇を駆け抜ける。小屋は一瞬にして炎に包まれてしまった。

「ほら、これで丸見えだ!」

 滾る炎に紛れ幾本もの矢が放たれるのを耳が捉えると同時に、ガルディは燃え盛る小屋に向かって走った。逸れた矢が、連続して背後の地面に突き刺さる。間一髪、戸をぶち破るようにしてガルディは小屋の中に転がり込んだ。

 旅支度をした袋と愛用の大鉈を引っ掴むと、裏口の戸を蹴破って反対側から小屋を出る。敢えて火中に飛び込むことで完全に虚を突いた――はずだった。

 風切り音が同時に三つ。一本を斬り払い、一本をずた袋で受け止めるが、背後からの一本が間に合わない。

 鋭い矢尻が右肩に近い背中に突き刺さる。人間なら肺に達するはずだが、分厚い筋肉に覆われたオークの身体には通じない。

 ガルディは熱い痛みと矢をそのままに、二の矢を継ごうとしている人影に向かって走る。まさか突っ込んでくるとは思わなかったのか、男は慌てて矢を放つがそんなものは鉈を突き出すだけで弾いた。勢いそのままに急接近したガルディは男に斬りつける。

「ひっ!」

 男は三の矢に触れることなく地面に倒れ伏す。ガルディは男の弓を奪うと森の奥に向かった。

 すぐ傍で十年暮らした森だ。どこになにがあるのか分かっている。例え暗闇とかわらない僅かな月明かりでも苦もなく進めるが、ガルディは敢えてまっすぐ走らず、右に左に蛇行するように進んだ。

 追手との距離は離れない。しかし、それで良かった。

「うわあああああああ! あ、足が! 足が!」

 背後から追手の悲鳴が轟いた。間抜けが一人、罠にかかったようだ。この森には獲物を捕るために無数の罠が仕掛けられている。もちろん、ガルディはその場所を全て覚えていた。

「まさか、こうなると読んで備えてたんですか?」

 ザジの驚く声が木々を伝わってきた。

「獣を捕まえるのも俺の仕事だ」

 大樹の裏に隠れたガルディは、刺さったままだった矢を引き抜く。矢尻を鼻の前に持っていくと、血の鉄臭さにまじり僅かだが別の臭いがした。

「逃げきれると思ってるんですかい?」

「勘違いするな、お前らは誘い込まれたんだよ」

 庭園を荒らしたくないのはもちろんだが、数と状況の不利を埋めるには仕掛けてある獣の用の罠を利用する他はない。

「良いでしょう。俺が隊長のトラップを崩してやりますよ。こっちには時間がたっぷりとありますからね。そっちは、いつまで保ちます? いくら頑丈なオークの身体だって、毒は効きますよね?」

 やはり矢尻の異臭の正体は毒だった。種類まで特定できないが、毒の効果が現れるには、体重に応じて摂取量とかかる時間が増えるものだ。人間の三、四倍あるこの身体なら効き目がでるまでかなり猶予があるはずだ。

「お前らを倒すぐらいには十分過ぎるな」

「へへへ、そうこなくっちゃ。おれが忍耐強いから狙撃手やってたの知ってますよね? 隊長がぶっ倒れるなら、朝までだって付き合いますよ!」

 罠の存在に気づき慎重になっていた追手だが、再び暗闇に目が慣れてきたのだろう動き出すのが分かった。

「ああ、望む所だ」

 ガルディは大樹の影から身体を出すと、上腕から引きぬいた矢を奪った弓につがえ追手めがけて射る。

 震え始めた指先で放った矢は、追手の肩を逸れ樹の幹に刺さってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る