第20話 ACT7 ほんとのこと1

「女性専用ぉ?」


 リビングのソファーに腰掛けた北條が声を上げた。


 マンション、『ジャンヌ・ボウ』707号室。

 綾子の部屋に上がった北條は、一番奥のリビングルームにとおされた。

 部屋に入って正面が、南向きのテラスになっており、今は連なる夜景の建物達を大きなガラス戸一杯に映し出しているが、夜が明ければサンルームとして、一杯の日光を部屋に取り入れることになるのだろう。


「ええ、そうなんですよ。ここに住んでいるのは独身の女性だけなんです」


 白地にイルカのプリントがされたTシャツに、白のロングパンツ姿の綾子が、北條の前にコーヒーカップを置きながら答えた。


「だから……、そのう……。霊査所から来る方は、私……、女性の方だとばかり思っていたので、管理人さんにもそう話していたんです。何か気に障るような事がありましたか?」


 なるほど、それで当初の綾子が戸惑うような態度を取っていたことも、管理人の「話が違う」の意味も北條には合点がいった。


「いや、非常に話のわかる管理人さんでしたし、申し訳ないほどすんなり入れましたし、特に困ったことはありませんでしたよ」


 そう言って、北條は軽く会釈し、コーヒーカップを手に取ると口に運んだ。


「でも、それじゃあ俺がここに泊まるのは不味いんじゃないですか?」


「ああ……、それは……」


 綾子はそう言ってくすくすと笑うと、わざとらしい真顔を作って言った。


「紳士協定です」


「は?」


 北條が怪訝な表情を返す。


「確かに、ホントは男の方を泊めるのは禁止なんです。ただ、やはり独身の女性ばかりですから……。今の管理人さんはその辺を良くしてくださっていて、なにも問題を起こさないと言う暗黙の了解のうちに、特に住人のプライベートには口を出さないと言う協定が……」


 綾子はそう言って、感じの良い笑顔でくすくすと笑った。


 『ここではそう言う規則だ』


 北條は管理人の言葉を思い出していた。なるほど、あの言葉は『プライベートな面倒はごめんだ』と言う意味合いがあったわけだと理解した。


「私が規則を破ったのはこれが初めてなんですけどね」


 綾子はそう言ってくるりと踵を返すと、そのまま部屋から出ていった。後に残された北條は、何故か自分の頬が熱くなるのを感じ、誰に聞かせるでもなく、一つ、乾咳をして体裁を整える。

 可愛らしい娘さんだった。素直そうだし、会話も声も心地よかった。悪い気はしない。


「案外いい仕事かも知んないな……」


 そんな言葉が自然と口をついて出る。引き受けて良かったかも知れない……。心からそう思い始めていた。


 時計を見ると19時を少し回った所だ。留守番の約束は明日の朝まで……。あと、2、3時間こうして他愛ない会話をした後、彼女が寝床に入ってしまえば、明日起きて身支度を整えているうちに鬼追師の仲間が交代に来るのだろう。腹でも痛いと言って一日仕事を休んでしまえば、午後からは久しぶりにゆっくりする事も出来る。臨時収入も入る事だし映画でも見に行くのもいいかも知れない。


 アワヨクバ……。


 ふと、或いはこのまま綾子と気が合えば、などと言う不埒な考えが過ぎったが、これはすぐに思い直した。理由がどうあれ、『あやかし』に関わりのある娘である。不幸な可能性は間違いなくついて回る。触らぬ神に祟りなしである。

 そんなことを考えながら、自分が無意識のうちにタバコの箱をワイシャツの胸ポケットから探り当てているのに気づいた。100円ライターをズボンのポケットから取り出し、タバコを箱から直接くわえると、火を付けようとして手を止めた。

 テーブルの上に眼を泳がせ灰皿を探す。目当ての物が見あたらない。次いで部屋の中を見渡してみる。灰皿の影すら見つけられ無かったが、自分の後ろに、バルコニーへ出る掃き出し窓があった。初夏の夜風に当たるのもおつな物かも知れないと自分に言い訳する。これだけ眺めが良く高い場所ならなおさらだろう。何よりタバコを吸いたいと思う気持ちは最早限界に近い。

 北條はゆっくりと立ち上がるとバルコニーに出る窓を開けた。


「あっ!」


 丁度その時、部屋に戻ってきた綾子が、北條の後ろから驚いたように大きな声を上げた。 北條は舌打ちして振り返ると、くわえていたタバコを左手で口から外し、愛想笑いを浮かべながら口を開いた。


「いや、申し訳ない。すぐ済みますから……」


 そう言って綾子を見た北條は、彼女の表情がただならぬ様子なのに少々戸惑う。


「あの……。何か?」


 北條が尋ねると、綾子の戸惑いの表情は、まるで彼を尊敬するような表情にかわり、小さく首を振って言った。


「あの、バルコニーへ出るのですか?」


「え、ええ……」


 北條はそう答えながら、一連の綾子の行動の意味を考えていた。

 タバコを吸う人間を尊敬している。

 綾子の戸惑いながらの言動はそんな印象を北條に与えた。聞けば長いこと姉と二人暮らしだったらしいし、擦れた様子も無いことを思えば、男友達も少ないのだろう。

 きっと喫煙する男性が珍しいのだ。北條はそう解釈した。それ以外には考えつかなかった。


「お気をつけて……」


 綾子が北條を気遣うように言う。


「?」


 何か釈然としない物を感じながらも、北條は外へと出ると、後ろ手に窓を閉め、手すりに近づきタバコに火を点けた。

 大きくひと息、煙を吸い込むと、ゆったりと燻らせて人心地着く。心地よいひんやりとした風が渡って行く。周りにこの建物の他に高い建造物が無いせいか、思った以上に強い風が、時折タバコの煙を吹き払う。遠くの空に映える街の赤い明かりが不気味なようでもあり、美しくもあった。

 不意に、部屋の中にいる綾子の視線が気になって振り返る。ガラスを挟んだ向こう側では、綾子が窓から距離をとって立ちつくし、心配そうな面もちで真っ直ぐこちらを見ていた。違和感。と言うようなハッキリした物ではない、ぼんやりとした不安を感じて、視線をまわりに巡らせてみる。すると、バルコニーが隣の部屋の前に繋がっていることに気づいた。部屋の窓にかかる、やわらかい黄色のカーテンは、左右から窓を覆うタイプの物だったが、左右とも中側から三分の一ほどが開かれて、中を覗き込むことが出来た。

 ほんのチョット意識を隣の部屋の中に集中する。そして、納得した。其処は寝室だった。

 部屋の中こそ片づいているようではあったが、窓際に置かれたベッド上の寝具は、乱雑に乱れている。この時間にこの状態と言うことは、ベッドは朝からずっとこの有様と言うことだろう。北條は綾子がこの寝室を見せたくなかったのだと言う結論に達し、思わず苦笑いした。


「悪いコトしちまったなぁ」


 彼はそう呟くと火の点いたままのタバコを、親指と人差し指を使って弾き、手すりの外へ放り投げ、そそくさと部屋の中に戻った。

 愛想笑いを浮かべながら綾子と目をあわせる。

 意外にも綾子の反応は、恥じ入るとか、気分を害するというような類の物ではなく、相変わらず尊敬の眼差しと呼べるような真摯な色を浮かべていた。

 そして、彼女の口から出た言葉はもっと意外な物だった。


「怖くないんですか?」


「怖い?何故?」


 北條がそう答えると、綾子はフーっと大きく息をつき、目を輝かせながら口を開いた。


「凄いですね。やっぱり本職の人は。私、もう、怖くて怖くて。今朝からバルコニーはおろか、寝室にさえ近づけないんですよ」


 そう言ってぎこちなく微笑んで見せる。

 『怖い』『本職』『寝室』幾つかのキーワードにより、北條の思考が一つの結論を導き出そうとしていた。


「ちょっとまて。バルコニーで何かあったのか?」


 反射的に尋ねていた。


「えっ?」


 綾子は小さく叫ぶと、オズオズと言葉を繋ぐ。


「今朝、姫緒さんにはお話ししたんですが……」


 『姫緒』という新たなキーワードを受けて、北條の思考は急激に収束していった。

 つまりそれは『鬼追師』と言う人種。その行き着く結論は……。

 北條は全身に鳥肌がたつのを感じた。寒い感覚と裏腹に、大粒の汗が額にじわじわと噴き出して来る。


「ひょっとして、何も聞かされていないとか……」


 前にも増しておずおずとした口調で、綾子が北條に尋ねた。

 自分の正気を保つために、ブレーカーが落ちるようにして停止した北條の思考が、のろのろと再起動し、ひとつの単語を浮上させる。つまり、それは……。『あやかし』。


「何があった?何があったんだ!話してくれ、ここで起こったこと、すべて!」


 泣き出さんばかりの勢いで声を裏返し、北條が叫んだ。

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