第15話 ACT5 北條1

 暮れなずむ街並みに、ダラダラと目的地に向かう男の歩く姿があった。


 赤いネクタイと、しっかり糊の効いた青いワイシャツの着こなしは、時節柄の爽やかな装いだが、縁の上部がない銀縁眼鏡の奥の目は、今、自分がおかれた立場への恨み辛みを力強く主張していた。

 この男。

 北條隆郎は、この時期の街並みが嫌いというわけではない。

 雪のない都会の、永く寒いだけの冬が終わり、街路樹や公園の植物たちの息吹が、殺伐としたコンクリートの街並みを、まるで浸食するかの勢いで埋め尽くし始める。

 この時期だけが、カラカラのジャングルに、生命の胎動を感じさせてくれる。

 やがて来る澱むような夏の暑さで、人らしい思考が閉ざされてしまうまでの間。

 ほんの一瞬のこの初夏という季節が。この時期だけが、都会で自分を自分として維持できる貴重な瞬間に思えた。

 だから、この……。

 この、何とも煩わしいすっかり凹んだ気分は、つまり、陽気の所為とか、日々の鬱憤といったものでは決してなかった。


 話は昼に遡る。


「北條さーん。お電話です、内線の一番お願いします」


 会社のオフィス。

 同じフロアの女子社員が叫んでいる。

 資料のチェックをパソコン画面で行って、しかもそれが手詰まり気味だった北條は小さく舌打ちし、転送電話のボタンを押して受話器を取ると、肩と顎の間に挟み込んでパソコンのモニターから目を離す事無く電話に出た。


「はい。北條ですが」


 隠そうともせず、不機嫌そのままの声で答える。


「ご機嫌麗しゅう。北條さん」


 受話器の向こうから聞こえる女性の声に、寒気が走った。


「おまえ……」


 声に詰まる。


「あら、覚えていていただいたのかしら。光栄ですわ」


 間違いなかった。


「鬼追師!」


 北條は、思わず大声を上げて席を立ち上がりかける。

 受話器が肩を滑り落ち、ガタガタと乾いた音を立てて机の上に転がった。

 一斉に周りの視線が北條の席に注がれる。


「あ……、へへへへへ……」


 照れ笑いをしながら受話器を拾い、何でもないということを必至にアピールする。

 やがて、巻き込まれても得はないと悟ったフロアの視線が、持ち場に戻り出す。

 北條は、あらかた視線が自分から離れると、机上に伏せ、受話器にしがみつくように話し始めた。


「何の用だ。鬼追師」


 押し殺した声。


「取り敢えずお会いしたいのです。お話はその時ということで。それとも。このままお話を続けますか?」


 それは不味い気がする。

 北條は辺りを見回し、こちらの様子を再び気にしている幾つかの視線を感じてそう思った。

電話の相手は『あの鬼追師の女』姫緒だ……。


 北條は半年ほど前に、この鬼追師に命を助けられていた。だが、それはまがりなりにも大団円と呼べるような、納得のいくエンディングではなかった。多額の報酬を請求され、挙げ句の果てには、脅しまがいの口上で支払いを承諾させられ。その多額の報酬の支払いは、今も借金として彼の身の上に暗く影を落とし、華麗なる独身貴族の生活を脅かし続けていた。


「時間が無いのです北條さん。本日中に時間を取っていただけるなら、場所と時間はそちらの都合に合わせます。もし、北條さんが時間を取れないというのでしたら」


「でしたら?」


「これから職場にお伺いし、非常に私的なおつきあいに関しての客として、面会を申し出ます」


「ふざけるなっ!」


 声を荒げてしまう。

 慌てて周りを見渡し、愛想笑いをふりまくと、再び机に伏せる。


「わかった、わかったから会社には来るな!話がややこしくなる」


 北條はそう言ってひと息つくと、わずかの間詮索し、再び受話器に向かって話し始めた。


「えーと、うちの会社の場所は知ってるよな。会社の正面、大通り沿いを、公園の方へ歩いていくと、並びに『シリカ』っていう喫茶店があるんだ。そこで昼休み12時15分頃待っている」


 北條は、周りに聞かれぬよう細心の注意を払い、出来る限りの小声で伝え、姫緒の返事を待った。


「わかりました、北條さん。それではそのように。それと、もう一つお聞きしたいことが」


「……?なんだ?」


「そこの喫茶店、何がお勧めかしら?」


 何故か、北條の頭の中の『危険』の文字が一際大きく警告を発した。

 こういう女なのだ。何を考えているのかも、何を言い出すのかも完全予測不能。

 危険だ。危険すぎる。

 だが、自分は、その危険な女の策略に、着々と嵌められていっているのだ。

 解っている。

 解っているが、いくら身体が警告を発しようとも、術もなく絡め取られていく。


「……。ミックスサンド……、かな……」


 なにかを諦め切ったように、力無く北條が答えた。



 それから昼休みまでの数時間、北條は戦々恐々のうちに時を過ごした。

 仕事どころではない。いつ気まぐれに、あの『鬼追師』が事務所に現われるとも限らない。

 また、万が一にも時間に遅れるような事があっては、一体どんな事態が起こるのか、想像もつかない。

 昼休みに少しでもずれ込みそうな仕事は全てキャンセル。

 細心の気遣いで昼を待つ。

 その姿があまりそわそわしていたのだろう。同僚の長瀬が声をかけてきた。


「なんだよ、北條。飲みの約束でもしてるってか?それにしたってまだ昼前だぜ」


(そんなんじゃねぇ)


 昼を告げるチャイムと共に、北條は過剰なまでに普通を演出しながら、それらをすべて台無しにするような、競歩並の歩きで事務所を出ると、待ち合わせの喫茶店へ向かった。

 オフィス街の大通り沿いには不釣り合いともとれる、木造の暖かい雰囲気の店構えが見えてくる。引っ込んだ店先に下がっている、焼き跡のついた木製の小さな看板に、赤い太文字で『シリカ』と彫られているのが見える。。

 店の前には車が4、5台駐車できるスペースがあり、すでに2台分は埋まっていた。

 どっしりとした木製の扉を開けて中に入ると、カラカラという真鍮のチャイムの音が心地よく店内に鳴り響く。


「いらっしゃいませ!」


 奥から小気味よい滑舌の女性の声が出迎えた。

 薄暗く、こぢんまりとした雰囲気の店内を見渡す。

 『鬼追師』の姿はない。

 店内は、香ばしいトーストの香りと、午前中の仕事で憤った頭をリフレッシュさせるかのような刺激のあるコーヒー豆のローストした香りに満ちており、昼休みも始まったばかりだというのに、常連客を中心にそこそこの賑わいを見せていた。

 何でも、珈琲通を気取る者達の間では、ナカナカ評判のある店らしく、北條の知る限り、閑散とした店内というものを見たことがない。

 近くのオフィスの連中もその事を知ってか知らずか、あまりこの店に昼食を摂りに来ることは無く、『特別な店』として扱われていた。

 まるっきりというわけにはいかないが、ここならば会社の連中と顔を合わせる可能性が低く、移動に時間もかからない。そう読んだ上での北條のセッティングだった。

 北條は、窓際の二人掛けの席が空いているのを確認すると、そこに腰を下ろす。

 ここからなら駐車場や出入りする客の姿を認める事が出来るため、最悪、行き違いになる事は防げるだろう。

 程なくして店の娘が、注文を取りにやってきた。


「お久しぶりですね。何になさいますか?」


 ジーンズ地のロングエプロンに白いパンツ姿の娘が、言葉の最後にハートマークでも付きそうなテンションでそう言うと、北條の前に水の入ったグラスをそっと置いた。

 どこか、人種というものを越えた神秘さの漂う顔立ちの娘……。茶色かかったショートカットの髪も清潔感を漂わせて非常に好感がもてる。

 北條は長瀬から、この店はこの娘、シリカとマスターの二人で切り盛りしていると聞いたことを思い出していた。常連の中には、この娘のファンも多いと聞いたが……。まぁ、それも頷けた。だが、マスターとこの娘の関係については尋ねる機会をつかめずにいて謎だった。


「ブレンド、ホットで」


 メニューも見ずにそう注文する。煩わしさがないため、人との待ち合わせに店に入った際の、北條の常套句となっていた。


「ブレンドですね?」(ふーん、今日は待ち合わせなんだぁ)


 娘は注文を繰り返すと、くすくすと笑いながら奥へ引っ込んでいった。

 窓の外を眺めながら、北條はやっとひと息つく。

 だが……。

 思考の中に余裕が生まれ出すと、言いしれぬ不安がじわりじわりと浸食をし始めた。


『取り敢えずお会いしたいの。お話はそのときということで』


 鬼追師の言葉を思い出し、一抹の不安を覚える……。


「やばいよなぁ……」


 料金の支払いに滞りはない。とすれば、やはり『あやかし』関係か?

 北條は、自分の身に降りかかったこの世のものとは思えないオゾマシイ体験を思い出していた。

 言霊、呪詛、あやかし、携帯電話に宿った化け物!!

 彼は思わず、ベルトの専用ホルダーに収まっている、中折れ式の携帯電話を取り出すと机の上に投げ出していた。


「まさか、まだいるってんじゃ無いだろうな!」


 独り言にしては大きな声で電話に怒鳴りつける北條に、回りの目が注がれる。

 『やばい……』と、心で舌打ちしながら、素知らぬ振りを決め込が、 それでも携帯をベルトに納める気にはならず、机の真ん中にほったらかしたまま睨んでいると、その視界の脇に、突然コーヒーカップが置かれた。

 慌てて顔を上げる。


「えっと、あの……。おまちどう……さ……までした」


 注文を運んで来た店の娘が訝しげな顔をし、しどろもどろに言ってそそくさと奥に引っ込んでしまった。

 帰りたくなった……。思わず頭を抱える。

 と、そのとき。

 地鳴りを思わせる、渇いた排気音と共に、一台の車が喫茶店の駐車場に滑り込んで来た。

 超重低音のエンジンの唸りが、喫茶店全ての窓ガラスをビリビリと共鳴させる。

 店内の会話が、BGMが、その共鳴にかき消され、何事かと驚いた客達の視線が、窓ガラス越しの駐車場に注がれた。

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