第10話 ACT3 ネモ・レンレン 1

綾子がガッカリしているのが判る。


「ところで綾子さん」


 姫緒がきりだす。


「この仕事は、『常ならざる物』との駆け引きになることが常です。いかなる事態が起こるのか。正直、わたしにも予想すらできません。細心の注意を払いますが、もっとも重要なのは現場での、一瞬一瞬の判断です」


「行き当たりばったりとも言いますデスよ!」


 風小がそう言うが早いか、姫緒の裏拳が彼女のミゾオチに炸裂した。

 静かにその場に崩れる。


「従って、どんな些細な事でも我々の指示に従っていただかなければ、双方にとって、非常に危険な事態を招くことになってしまいます」


 両手で口を押さえ、驚いている綾子を無視して何事もなかったように姫緒が続けた。


「綾子さん、あなたにそれができますか?」


「もちろんです!」


 綾子は、自分の決意が見くびられたことに、少し腹を立てて声を荒げた。


「姫緒さん、私はこの4年間、姉を探すことだけを考えてきました。考えていただけではありません。私個人の社会的なしがらみを抜け出すために必死に努力してきたつもりです。わたしは、姉のためなら何だってします。何だってできます!」


 その言葉に偽りはない。だから、誠意は姫緒にも伝わったはずだと綾子は思った。


「『何だってできる』?」


 姫緒が尋ね直す。


「はい!」


「『従って』いただけるということですね?」


「そうです!」


 綾子が力強く答える。


「なぜそんなことを聞かれるのでしょう?何か私は……」


 そこまで言って『ハっ』とする。

 ここに至るまでの行動。

 その善し悪しについては、まだ何一つ答えが出ていないではないか。

 意を決したように顔を上げると、悲痛な面もちで、綾子が叫んだ。


「私が失礼な事をしたのなら誤ります。でも、今日はっきりと判りました。姫緒さん!あなたでなくては駄目だということが。だから!」


 姫緒は沈黙のまま、綾子を見つめている。


「私を助けてください!」


 体裁構わずといった様子で、綾子が絶叫する。


「風小」


 姫緒に呼ばれると、床で呻いていた風小は、何事もなかったようにスッと立ち上がり、大きくハイと返事をする。


「レンレンを呼んできて頂戴」


「えーっ!」


 あからさまな嫌悪を込めて、風小が声をあげた。


「レンレンさん、昨日も明け方までガレージで飲んでましたデスよー。部屋にも居なかったし、また『ジム』の『指定席』で寝ているのデスよー、きっと」


 姫緒からの反応がない。


「寝起きが悪いデスし……、お酒臭いし……。」


 風小がそう言い終えたとき、姫緒は手招きして風小を呼ぶ仕草をした。

 反して風小が一歩身を引く。


「風小。レンレンを呼んできて」


 沈黙。


「くれるわよねえ」


 ピクリ、と姫緒の指先が僅かに動いたその瞬間。

 風小は脱兎のごとく螺旋階段めがけて駆けだし、そのまま地下階へと転がるように消えていった。

 そのやり取りを見ながら、あまりの間の良さに、綾子は噴き出してしまった。が、すぐに罰悪そうに取り直して、姫緒の顔を見る。

 姫緒は、風小の消えた辺りに目を向け、ひとつため息をつくと向き直り、綾子に語りかけた。


「綾子さん」


「はい!」


 突然、姫緒に名前をよばれ、綾子は自分でも恥ずかしく思うほど、必要以上に大きく驚いた口調の返事をしていた。


「先ほどの質問が気に障りましか?ならば、謝ります」


 穏やかな調子で姫緒が続ける。


「ただ、この仕事をお引き受けする以上、わたしはあなたを絶対に護らなくてはいけない。そういうことなのだとご理解ください」







 ドレスの裾を踏みつけそうになりながら、螺旋階段を踏み破る勢いで、ガタガタと転がるように風小が降りて来る。

 地下階に着くと目の前のドアを開け、内へと飛び込んだ。

 そこは、白い壁に全面フローリングの床といった出で立ちのジムになっていた。

 かなり本格的なトレーニングマシンやベンチが置かれており、マシンの脇にはダンベルやら、細々したものがきちんと整理されている。

 ダンベルは、重さを変えられる物とそうでないもの、色や大きさも数種類あり、実用性だけでなく部屋のインテリアも兼ねているかのように見えた。

 天井の端一列に、採光のための天窓があり、今は、真上に近い太陽の光が燦々と降り注いでいて、地下というイメージが全く無いほど明るい。

 だが、そんな清々しい部屋の有様とは裏腹に、室内は重くどんよりとした空気が漂っていた。

 内に入るや否や、風小は『うっ』と呻いて、右手で口と鼻を押さえる。

 部屋の隅に備え付けられている、換気を兼ねた大きな空気清浄機に目をやった。

 全力で作動中……。

 一晩中動いていたのだろうが、この澱みまでを完全に消滅させる事は不可能だったようだ。

 バーボン、日本酒、ウオッカにビール……。アルコール個々のすえた臭いであれば、こんなに酷いことにはならない。それら全てを飲酒し、身体の中で混合、再発酵させた本人がここに居ればこその所行である。

 風小が、鼻と口を押さえたまま辺りを見回す。

 朝、部屋の掃除をして回った時、上の階にレンレンの姿は見あたらなかった。

 だが、外へ出た形跡は感じられない。

 と、なれば……。

 いや、そんな推理をするまでもなく。

 この最悪な状況からして、彼女がここにいるのは間違いなかった。


「レンレンさん!姫さまがお呼びです。さっさと出てきてください!」


 返事が無い。とすれば、彼女はまず間違いなく『指定席』にいるはずだ。

 風小は、数秒の間、返事の返って来ないことを確認した後、意を決したようにツカツカと、部屋の片隅にある小さな木製の扉の前まで歩いて行き、その前に立つと、ノブを回して、一気に引き開けた。

 そこはユニットバスになっており、手前側に洋式の便座が設置されていて、その奥には、仕切り用カーテンの裏にシャワー室が控えている。

 目の前のトイレスペース、そこに展開している壮絶間抜けな光景。

 ライトブルーのインナーを着けただけのあられもない姿で、ライムグリーンのカバーがかかった閉じた便座の蓋に、オレンジ色に染められたセミロングの頭髪を乗せ、トイレ本体を抱え込むようにうつぶせてすやすやと寝息を立てる女性の姿。

 良く鍛えられ、均整の取れた肉体は猫の様にしなやかで、そして、媚びるようになまめかしかった。

 それにしても。

 酔ってトイレに行こうとしてそうなったものなのか。それとも奥のバスルームへ行こうとし、酩酊の末になった所行か?

 熟睡する残念美女、レンレンは、風小曰く『指定席』に居た。

 いつものこととはいえ、風小はそのオゾマシキ光景に頭を抱える。


「どーして、いっつも、いっつも、ここで寝ているのデスか!」


「はにぁ……ん」


 言葉なのか、寝息なのか解らぬ回答がレンレンより帰ってくる。


「起きてください!レンレンさん!お仕事らしいデス。姫さまがお呼びです」


 早く連れて行かなければ、姫緒に自分が大目玉を喰らうことは明白だ。

 風小はレンレンの脇にしゃがみ込むと、必死に彼女の身体を揺すって、起こしにかかった。これにはさすがにタマラナイといった様子で、レンレンが歪めた表情のまま、便座より顔を上げ『うぅーっ』と唸りを上げる。


「起きて下さい!早く!はーやーくー!」


 なおも必要に、風小が責め立てた。


「うぅ……。うぅるぅさぁいぃィん……」


 ついに、レンレンはへたり込んだ姿のまま上半身を起こすと、寝ぼけ眼(まなこ)で不満げな声を上げる。


「おきてー!」


 風小は、責め立てる手を休めようとしない。


「うう……」


 一唸りして、うっすらと、たれ目ぎみの目を開けた。そして、眉間に皺を寄せ、確かめるように風小の顔をジト目で見つめる。そんなレンレンに、やっと目を覚ましたという安堵から、風小は小首をかしげ、晴れやかな笑顔を作って応えた。

 渋顔のレンレンと、満面に笑みの風小が一瞬、見つめ合う。

 殺気。

 一瞬凍り付いた空気の中、レンレンは何も無かった空中に、長方形の御符を一枚出現させ、おもむろに風小の額に貼り付けた。


「殃禍スル物、此処ヨリ退キ散レ」


 レンレンがそう言って、印を切った次の瞬間。


「ぎぃぇぇぇぇぇー」


 風小の叫びが響き渡り、お札を貼られた額の辺りから、ちりちりと白い煙が立ち上る。


「あつ、あつ、あっついー!あついー!」


 急いで額の札を剥がそうとするが、触れようとすれば、今度はその近づく指先から白い煙が立ち上がる。


「いやあぁー!とって!とってー!」


 あわてて立ち上がり、部屋を飛び出す。


 トレーニングルームを横切って階段の方へ逃げようとするが、目の前にひらひらするお札に視界を遮られ、ふらふらとトレーニングマシンの置いてある一帯へと走り込み、足を取られ、マシンの中へと突っ込んだ。

 雷鳴のような音を立てて崩れるトレーニングマシン。

 少しの間をおいて。

 折り重なる障害物をどかしながら、風小がそこから這いだしたとき、突っ込んだ拍子で剥がれたらしく、額のお札は無くなっていた。


「お、の、れーっっ!レンレン」


 風小の瞳が真っ赤に輝く。瞳孔はもはや、人のそれとは違う縦長の形状に変化し、『ふう、ふう』という荒い息づかいに呼応するかのように収縮を繰返した。

 最後の障害だったマシンのシートを、片手で放り投げ壁に叩きつけると、獣のような身のこなしで、一気にバスルームまでの間合いを詰め、肩で息しながら中腰で中の気配を伺う。

 シャワーの音がする。

 微かに鼻歌も聞こえてくる。

 風小の気配を感じ取ったか、鼻歌がやんだ。


「風小ぉ?」


 レンレンの声。しかし、今の風小には『獲物』の声。

 体制を低く構え、一気に飛びかかろうとしたそのとき。


「着替ぇ、持ってきてくれるぅ?」


 レンレンの声に一瞬ためらう。


「早くしなさいよん~。姫緒を待たせるとまずいっしょ?」


「ぐッう……」


 姫緒の顔を思い出す。

 しなやかだった風小の身体が硬直する。

 みるみる、赤かった瞳の色が緑へと変わる。


「も、もも、持ってきます!持ってきますデス!持ってきますから!だから、お願いです!早く!早く姫さまのところへ行ってくださいー。懇願致しますデスよぉ!」


 今にも泣き出しそうな声でそう叫びながら、何度も何度も、姿の見えない相手に、念を押すように後ろを振り返りつつ、螺旋階段を駆け上がる。


「服はチャイナよん。あのシルクの、白い奴よぉ」


 レンレンは熱めのシャワーを浴びながらそう言うとペロリと舌を出して微笑んだ。


「はぁーい!わかりましたぁ!」


 覚醒し始めた彼女の頭の隅で、風小のそんな声が聞こえた。


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