第6話 ACT2 綾子 1
何かが始まる事を望み、信じてはいたが、このまま終わってしまうかもしれないという懸念はぬぐい去れなかった。
玄関に背を向けて立ち、手入れの行き届いた庭を眺めながら、綾子は何遍もそのことを考えた。ぎゅっと封筒を持つ手にチカラが入る。
意を決したように踵を返して振り向いたとき、タイミング良く扉が開き、メイド姿のあの娘が出てきた。
先ほどの彼女の態度からして、自分があまり歓迎されていないようだと悟った綾子は、精一杯の笑顔を作って姿勢を正す。
「姫さまがお会いするそうデスよ、中ヘドウゾデスヨ」
メイドは、綾子にそういって微笑みかけると、踵を返し、家の中へ戻ろうとした。
「あの……」
そんな後ろ姿に綾子が声をかける。メイドは笑顔のままで振り向いた。
「何でしょうか?」
「いえ、もしかしたら……、風小さんですか?」
綾子は『ねじまき屋』のホームページを思い出していた。
「はい、そうですが。何故……」
メイドの顔が、問いたげな表情に変わる。
「あの、ねじまき屋さんのホームページで……」
綾子がそこまで言って口ごもる。
確か、ねじまき屋のホームページを閲覧した際に風小という娘の事が書かれているのを読んだ記憶がある。
それによると、その娘は『姫緒(きお)』と呼ばれる退魔師の助手で、ねじまき屋に幾つかの奇譚の顛末を語ったと書かれていたと記憶する。 そんな気がするが、定かでない。
万が一に、書かれていたのが事実だったとしても、何故、自分がこの娘を風小であると結論するに至ったのか?
自分でも、うまく説明できない。
「いえ、なんだかそんな気がしたので……」
だからそれは、綾子にとっては素直すぎるほどに素直な言葉による答えだった。
しかし、そんな傍からみればあやふやとしか取れない綾子の答えに、メイドの顔がびっくりするほど明るく輝いた。
「そうですか。『そんな気』がしましたか」
メイド、風小は、さも嬉しそうにそう言うと、「さあ、どうぞ」と言って綾子を家の中に招き入れたのだった。
綾子が通された部屋は応接室のようだった。
ようだったと言うのは、つまり……。
部屋の中の壁には造り付けの飾り棚が数カ所設けられており、恐ろしげな表情や、穏やかな慈悲深い表情の木彫りの仮面、素朴な石の彫像やら、何物かの原石の様なものやらが数種類飾られるなど、一見、コレクションルームであろうかと戸惑う様相を呈していたのだが、部屋の奥に配置された、しっかりとした革張りの椅子とアンティークなテーブルの応接セットによって、『たぶん』ここは応接室なのだと理解することが出来たということだった。
壁の数カ所と応接セットの近くに間接照明が設置されていたが、今は、大きな窓から差し込む、光のカーテンが部屋に満ち、全く必要を感じない。
かなり異様な雰囲気の部屋ではあったが、その中で、一際、綾子の目を引いたのは、部屋の入り口近くに、何か巨大な生き物がうねるかの如く、下の階からこの部屋を貫き、上の階へと続いている螺旋階段だった。
(この部屋は1階にあるはずなので、この建物には地階が存在するのだろう)
その独特な雰囲気は、上階へ引き上げられるようにも地下階へ引き込まれるようにも感じられる強い力が漂う、目眩を起こしそうになるほどの重々しい存在感だった。
「こちらにどうぞデスよ」
風小は綾子を応接セットの椅子に誘った。
綾子は慌てて、風小に指示されたテーブルの向こう側になる革張りの長椅子に腰を降ろす。
部屋の入り口と螺旋の階段が、何かの意義をもつように自分の視界に入り込む位置。
風小は、彼女が椅子にかけるのを見て取ると、一礼し、にこにこしながら螺旋階段を二階へと上がって行ってしまった。
綾子はひとり、部屋に残される。
ややあって、コーヒー豆をローストする香りがし始める。それから、さほど立たない時間で、風小がお盆(トレンチ)にコーヒーカップを乗せて下りてきた。
「豆のブレンドからローストまで、全てワタクシ特製の『スペシャル』デスよ」
そう言いながらテーブルに無地のカップソーサーを置き、白地の縁に青のラインが入ったデザインのコーヒーカップを重ねた。
カップからとても魅力的な香りが立ち昇る。
コーヒーカップは手に取ると驚くほど軽く、指先に吸い付くようにしっとりとした肌触りで、磁器の無垢な白さがコーヒーの褐色に、深みと広がりを与えていた。
綾子はカップを持ったまま、思わず、この蠱惑の飲み物に魅了される。
そのとき。
階段を小気味よいリズムで降りてくる、ハイヒールの音が聞こえた。
「あっ姫さま!」
風小が声を上げる。
綾子は持っていたカップを机の上に戻し、立ち上がって螺旋階段の方を見やった。
濃紺のスーツ姿のその女性、姫緒は、窓から差し込む暖かな光を巨大なベールのように羽織り、天上から地へ下る女神ように、竜の背のような青銅の螺旋を伝わって、ゆっくりとこの部屋へ降臨したのだった。
あまりの神々しさに、綾子は一瞬息を呑む。
女神の、腰まである濡れ羽色の黒髪は、さらさらと流れる。
どこか闇をまとう切れ長な瞳。
先ほどの磁器よりもなお、無垢な輝きを燻す白い肌。
艶やか唇は知的に赤く、愛嬌のある口元をしていた。
姫緒がテーブルを間にして綾子の向かいに立ち、スーツの内ポケットから無垢の金属製のケースを取り出すと、その中から、一枚の名刺を差し出した。
「こんにちは綾子さん。私は、この霊査所の所長を務める姫緒と申します」
綾子は恐る恐る、慣れない手つきで名刺を受け取る。
そのあまりに不慣れな態度から、人から名刺を貰うのが初めてらしいことは容易に感じ取れた。
「名字はありません。姫緒(なまえ)は『きお』と読みますが、それも便宜上のものです。我々、呪詛を行うものは、呪詛によって呪われないように真名を明かさないのです」
「はぁ……?」
名刺と姫緒の顔を交互に見ながら、綾子は戸惑うように返事をした。
その姿を見て姫緒が小さく微笑む。
「良く判らなければ、忘れて下さって結構です。何の問題もありませんから」
そう言われて、綾子はもう一度、「はぁ……」と、気の無い返事を返す。
姫緒が椅子を勧めると、綾子はようやっと自分を取り戻し、ソファーに腰掛けて小さくタメイキをついた。
「あっ、姫さまにもコーヒーをお持ちしますね」
風小がそう言って引き下がろうとする。
「いや、私はいい」
姫緒はソファーに深く掛け直し、綾子に何事かを話し始めようとした、そのとき……。
部屋に漂う、些細な違和感に気がついた。
風小の『とっておき』。
よほど機嫌の良いときにしか淹(い)れない、特別中の特別なコーヒーの香り。
姫緒は、自分の脇に立つメイド姿の娘へ首を巡らす。
風小が、極上の笑顔で訪問者を見ていた。
「何か、あったの?」
風小に尋ねる。
風小は、にこにこした視線を綾子に残したまま、姫緒の顔の位置へ屈んで答えた。
「ええ、姫さま。綾子さんは私を見て『風小』と言う感じがしたらしいのデスよ」
姫緒は「そうか」と言って、納得いったというように、正面に向き直った。
綾子は、今の短い会話がいったいどういう意味なのか考え、戸惑っていた。
今、自分はこの場に置いて、どんな立場にいるというのか?
もしかしたら、自分は気づかぬ内に、何か取り返しのつかない、失敗をやらかしているのだろうか?
自分はもしや『招かれざる客』?
「あの!私、何かいけないことをしましたか?」
気がつけば、綾子のそんな心の焦りが、ストレートに言葉になっていた。
突然の綾子の問いかけに、姫緒と風小は一瞬、面食らったような顔をしたが、やがて小さく笑った。
「あのう……」
恐る恐る、綾子が声を掛けると、姫緒は微笑みながら綾子と目を合わせる。
はッと、綾子は自分の手に握られたままになっている封筒に気づく。
「これっ!これを。紹介じょう……」
そう言ってテーブルの上に置いた封筒を見て、誰あろう綾子本人が一番狼狽えた。
綾子の手に握られたままになっていた封筒は、彼女の感情の余波をもろに受け、グシャグシャに握り潰されていたのだった。
「あっ、ぁ、あ、……」
綾子は、痴呆のような声を上げながら、必死になって封筒の皺を延ばそうと、テーブルの上でシゴいた。
そんな綾子を、姫緒は片手で制し、テーブルから身体を引かせる。
そうしておいて、軽く目を閉じ一呼吸置き、右手の人差し指と中指を唇の前に立てて何事かを呟いた。
すると。
テーブル上の白い封筒は、生き物が身悶えするようにガサガサと音をたてて蠢きだし、数秒の内に厚みを持ち出したかと思うと、一羽の鳩ほどの白い鳥になった。
鳩と呼ぶには精悍な面もちと身体つきで。何より普通の鳩と、いや、普通の『鳥』と『これ』の違うところは、てらてらと光る目までが真っ白い真珠のようであったということだった。
『鳥』は大きく伸びをするように何度も羽を閉じたり開いたりしたが、やがて飛び立ち、ふたりの頭上をくるりと8の字を書くように回ると、大きな窓の方へとゆっくり滑走する。
いつの間にか窓の脇には風小が移動しており、カラカラと窓を開けた。
初夏のうっとうしさの少ない暑さが、空調の利いた部屋の中にじわりと進入してくる。
『鳥』は開けられた窓からスイと外に飛び立つと、暫くグライダーのように羽を動かすことなく、低く水平飛行していたが、やがて、力強い羽ばたきを起こし急上昇し、そのまま、青い照りつく空へと消えて行く。
風小は、静かに窓を閉め、無言のまま姫緒の席に近づいて行き、脇に立った。
「気になさらないで」
鳥の飛び去った先から視線を外せずに立ち尽くす綾子に、姫緒がそう言って声をかける。
「は、……。はあ……」
呆けたように返事を返す綾子に、姫緒は席を勧めるように手を差し出しながら続けた。
「さあ、それではお伺いしましょうか。貴女がここに来たわけを。貴女がお困りになっている件(くだん)について」
闇を纏う切れ長の瞳が、悪戯っぽく笑ったような気がした。
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