裁判へ行こう!

空っ手

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 まず簡易裁判所に辿り着くまでが難儀だった。

 テロ対策というわけでもなかろうが、あの近辺は似たような建物が多いくせに、表札らしきものは小雨にけむる塀のどこにも見当たらない。

 おかげで門番をしている護衛の人に要らぬ道案内をさせてしまうことになる。ここかと思って声をかければもっと先だと言われ、次の通用口で確認すると更に向こうと言われ。

 延々と続く無骨な塀のフラクタルさに、いつしか元の地点に戻っているかのような陳腐な強迫観念に囚われつつ、さりとて足を止めるわけにもいかず。

 漸く着いた簡易裁判所前。

 思ったより小振りな玄関ドアの脇に控え目に姿を覗かせる看板は、およそその主要な役割を果たしているとは思えない。傘の露を適当に払いドアを潜る。

 言われるままに黒のショルダーバッグと外した腕時計を手渡し、番号付きの鍵を受け取りゲートを通過。

 鍵と引き換えに手荷物を受け取り、横手の黒革ソファーに腰かけた。何度も見て文面をほぼ憶えてしまった口頭弁論期日呼出状及び答弁書催告状を改めて取り出す。

 時間はまだあるが、早目に行ったとて不都合はない。

 四階にある法廷までエレベーターで向かう。乗り合わせた初老の男性は一つ下の三階で降りた。そこも法廷なのだろうか。気にはなったが確かめるほどの心の余裕はない。

 四階のエレベーターホールに降り立ち、左右に木製のドアが並ぶ明るい廊下に出た。

 奥行きはそれほどでもないが、スーツ姿の男性がここそこに見受けられた。中には談笑している五人ばかりの集団もいたりで、不思議と活気がある。全員が弁護士のようだ。いちいち襟元を覗き込んだわけではないが、視界に映った数人は例外なく金バッジを閃かせていた。

 少なくともこの廊下空間に、裁判所の名称が醸し出す粛々とした荘厳さは皆無だ。取り敢えず目的の四◯六号法廷を目指して手近のドアに足を向ける。

 扉は左右に二箇所あり、間に四◯一号法廷の文字。その下に紙片が留めてあり、原告と被告の名前がずらりと明記されていた。開廷表らしい。

 どの事件にも判で押したが如く「求償金請求(信販)事件」の文字。

 原告は凡て信販会社で、見憶えのある名前が大半を占めていた。

 対する被告は赤の他人と思しき個人名のみ。三十分単位のスケジュール管理がなされているらしく、それぞれの時間割には十近い事件が割り当てられていた。

 どの法廷のドアにも似たような内容の開廷表が掲示されていた。

 こんなに多いのか。分刻みの過密スケジュール。これだけの案件を短時間で捌く――いや裁くというべきか――には相当なスピードが要求されるだろう。

 漠たる感想を抱きつつ、法廷の並びと部屋番号の法則を掴んで四◯六号法廷の前へ。

 十時三十分のところに自分の名を認め、俄に緊張が戻ってきた。

 腕時計に眼をやる。午前十時十分。入廷にはまだ早い。

 入廷、か。

 裁判員に指名でもされなければ、一生縁のない語句だと思っていた。よもや己がこんな場所に来る羽目になろうとは。それも紛れもない事件の当事者として。

 被告人として。

 入廷時間までの間、廊下の片隅で木偶でくのように佇むのは本意でない。エレベーターホールに戻って革張りの長椅子に座した。

 周辺に座る人らは悉皆しっかい自分の手許の資料やらモバイル機器にしか興味がないようで、その周囲への無関心ぶりが今の心境にはむしろ心地好く感じられる。


 ……同僚の顔に浮かんだニヤニヤ笑い。

 ……炎天下の週末。

 ……規則的に吐き出されるコピー用紙。

 ……カードローン会社からの電話。


 膝に乗せたバッグから分厚い封筒を出し、更に中身の一部を引っ張り出す。

 忌々しいの一言に尽きる。

 これを受け取ったときのことを、今度は意識して思い出しながら、訴状の文面に視線を落とした。

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