第9話 カペルマン刑事の報告
オスターホルツァー墓地公園からブレーメンの中心街に向かう道路は、やや混雑していた。自動車と馬車と人が混在している状態では最高速度など簡単に出せるものではない。エンジンがかからず立ち往生している車をよけながら、ベーレンドルフ刑事は話しかけた。
「もう何年かもすれば、自動車の専用道路が建設されるだろう。それまではスピードよりも安定性が重視されるのさ」
アーノルト刑事は、エンストしている車を眺めながら答えた。
「同じ自動車でも性能差がまだまだありますからね。自動車が道路の主役になる日が来るのは間違いないでしょうが、今日明日というわけにはいかないでしょうね。で、どこに向かっているんですか。このまま署に向かえば、あと5分か10分で着くと思うんですけどね」
ベーレンドルフは忙しく車の左右を確認しながら、ブレーメン警察に向かう十字路を左折した。
「なーに。ちょっとした寄り道さ。ヴィルマー・リッツの事務所の前をちょっと通るだけだよ」
「そんなことしたら部長にどやされますよ」
「いや、別に直接あって話をしようというわけじゃない。ただ、前を通るだけさ」
「会いもしないで、事務所の前を通る意味があるんですか?」
「どうかな。運命ってやつがあるとして、その歯車が何らかの力によって動き出したっていうのなら、何か起きるかもしれないな」
アーノルト刑事は、首を横に振り、もう話はしたくないという態度をとった。ベーレンドルフは胸のポケットにしまってある懐中時計を取り出して、時刻を確認した。時刻は12時を回ろうとしていた。
「ちょうどいい時間だな」
二人を乗せた車は、正午過ぎ、ブレーメンで金融行を営むヴィルマー・リッツの事務所の前にたどり着いた。
「どうするんですか? こんなところに車を止めて」
「いや、別に何もしない」
「どういう魂胆です?」
「ちょうど昼時だから、昼食を取りに外に出るヴィルマー・リッツの顔が拝めればいいなと思ってね」
「それってまずいんじゃないですか。相手に気づかれますって」
「そう。それが狙い。もし奴が何か知っているとしたら、どんな顔をするかなぁってな」
アーノルト刑事は、何か言おうとしたがベーレンドルフに遮られた。
「やはり、運命の歯車は動き出したようだな」
ベーレンドルフの視界の先、ヴィルマー・リッツの事務所の扉が開き、そこからヴィルマー・リッツ本人が姿を現した。扉を閉めて出かけようとしたその瞬間、リッツは事務所の前に止めてある車の中に、見知った顔を見つけ、その場でじっと車の中の様子を伺っていた。
身長は170センチに満たないやや小柄で、中肉中背。黒く太いフレームの眼鏡が印象的で、帽子を深くかぶり頭は見えないが、もみあげにはやや白いものが混じっている。60歳という年齢にふさわしい口ひげを蓄え、グレイの高級そうなスーツに身を固め、左手には革製の書類入れを抱えている。リッツはやや険しい表情を浮かべながら二人にあいさつをした。
「これは、これは、ブレーメン警察の確か……、ベーレンドルフ刑事でしたかな」
「お久しぶりです。リッツ卿。こちらは同僚のアーノルト刑事です」
「初めましてアーノルトです」
リッツとアーノルトは軽く握手を交わした。
「今日は何か御用ですか? ベーレンドルフ刑事」
「いえ、近くでちょっとした事件がありまして、次の予定まで時間があったものですから、これからランチをどうするかって、車を止めて相方と相談していたところで、偶然お出かけになるところに出くわしただけです」
「そうですか。私はこれから仕事の打ち合わせで」
リッツは左脇に抱えた鞄を右手に持ち直した。
「それではこれで失礼するよ」
リッツは帽子のつばに手御掛け、軽く会釈をして、車を離れた。そのまま振り返ることなく、人波に消えていった。
「どう見る?」
「どうって、苦情を言われなくてよかったとしか」
「まぁ、そうだな。普通なら、嫌味の一つでも言うだろうがね。何も言わないってことは、何か隠し事があるってことじゃないかと、俺は思うね」
アーノルト刑事はややしばらく黙って考え込んだが、その是非には言及せずに早く署に戻るように促した。
署に戻ると相変わらず機嫌の悪いブランケンハイム刑事部長に別件で怒鳴られたおかげで、墓荒しの件は「余計なことはしていないだろうな」という言葉に「余計なことはしていません」と答えるだけで済んだ。ベーレンドルフは同行したのがカペルマン刑事でなくてよかったと胸をなでおろし、アーノルト刑事に借りを作ってしまったことを悔しがった。
午後、アーノルト刑事が担当している強盗事件の聞き込み調査を夜まで手伝い、翌朝、カペルマン刑事から報告を受けた。
「どうだ。何か分かったか。ダミアンやその家族のこと」
カペルマン刑事は、手帳を取り出し、メモをもとに話し始めた。
「ダミアンの母親、ミサ・メルツェルは、日本ではミサ・クロキという名で、夫、ダニエルと出会った時は、日本の医療機関に勤める研究生だったそうです。また、彼女の実父は日本の宗教の神官だったそうで、ミサもシスターのような活動をしていたそうです」
「ほう。医者の父親と医学を学ぶ宗教家の娘というわけか」
ベーレンドルフは、机の上に散乱している書類の山から一枚紙を取り出し、その裏にメモを書き始めた。
「父親のダニエルは、近所でも腕がいいと評判の医者だったのですが、日本からこっちに来てからは夫人も助手として病院を手伝っていたそうです。東洋の女性が物珍しいということもありましたが、たびたび東洋式の医術を施すことがあり、これがまたなかなかに評判だったようです。ですが、慣れない土地での暮らしは彼女に少なからず負担を掛けたようで、体調を崩してあまり人前に出なくなったそうです。おそらく再び日本に帰ったのはミサのためだったのでしょう」
「すると、ダミアンの母親はすでに日本で亡くなっているというわけか?」
「それについてはなんとも。一応、大使館を通じて調べてはもらっているのですが、単純な書簡のやり取りでも2週間はかかりますからね」
ベーレンドルフは、メモのミサとダニエルの名前のところにクエッションマークを書き込んだ。
「で、ダミアンについてはどうだった」
「あっ、その前にダミアンの母親についてひとつ」
カペルマン刑事は大きな体を屈めて小さな声で話した。
「ミサにはかわった噂もありまして、『東洋の魔女』だという話をいくつか聞けました」
「魔女だと? そりゃ、異教徒の、それも東洋の女となれば、そういう見方をする奴もいるだろう」
「いえ、それが、単に東洋の医術というだけではなく、人の未来、たとえば怪我や事故、死に至るまで、予言をしたとか、知るはずもない遠くのことを言い当てたとか、いろいろありまして」
ベーレンドルフは持っていたペンを置いて、カペルマン刑事を正視した。
「それじゃあ、何か。ダミアンは魔女の子供とでもいいたいのか。お前さんは」
「いえ、そういうわけではないんですが、なんとも薄気味悪い話が多くて」
ベーレンドルフは首を横に振りながら煙草に火をつけ、話を続けるように促した。
「それで、ダミアンについては、もっと奇妙な噂がありまして、いや、これはそういう話があったというだけで、僕がそれを信じているわけでは……」
「わかった。わかった。いいから話を続けろ」
「は、はい。ダミアンは両親が仕事で忙しく、よく一人で人形と遊んでいたそうです。とくに仲がいい友達はいないようで、いつもぶつぶつと人形に話しかけていたそうです」
ベーレンドルフは考えた。異国の地で、父も母も面倒を見てもらえず、人形と遊ぶしかなかった幼少のダミアン。どんなに評判のいい医者の息子でも、母親が東洋人であれば、周りの反応がどんなものであったか、容易に想像ができる。ダミアンのあの黒い瞳は、いったい何を見ていたのだろうか。
「ダミアンは日本から持ってきた東洋の人形がお気に入りだったらしく、他の子供たちにとってはそれが不気味に見えたそうです」
「なるほどな。ダミアンの育ってきた環境と人形は深く関わりがあるということか。人形を愛で、いつしか自分で作るようになった。まぁ、わからない話じゃない。おそらくあの独特な人形は、東洋の技術を取り入れているということか」
「それで、その人形についてなんですが、ダミアンが人形と実際に会話をしているところをみたという話がいくつかありまして……」
ベーレンドルフは再びペンを手に取り、『人形』という文字を書き込んだ。
「人形の不気味さとダミアンの奇行を覚えている者は少なくありませんでした。日本から単身戻ったダミアンは、いくつかの工房を訪ね渡り……」
カペルマン刑事が手帳を何ページかめくり、数を数えた。
「ドイツ国内だけでも7か所。その他近隣諸国を転々と回っていたそうです。これは昨年、ダミアンが昔住んでいた家を訪ねてきたときに、家主に話したことで、実際に裏は取れていません」
「まぁ、それは仕方がないだろう。こっちもそれほど人手はかけられん。ダミアンが作った人形についてはどうだ?」
「それについては、早ければ昼くらいまでに何か情報がえられるかもしれません。昨日朝一番で人形の工房に手当り次第にダミアンという男が訪ねてこなかったかという電報を打ちました」
「よし、上出来だ。よくやってくれた。あー、それから部長には俺から報告しておくから、お前さんは部長に何か聞かれても余計なことしゃべるなよ。まぁ、部長も今はそれどころじゃないから、何も聞いてこないとは思うがね」
「そういえば、朝から姿が見えませんけど、何かあったんですか?」
「ああ。ちょっとな。あのデスクにいつまでも居座られるとこっちが動きにくいもんでね。ちょっとした仕事を作ってやったのさ」
「えっ、どういうことです」
ベーレンドルフはカペルマン刑事に近づくように合図をした。カペルマンが耳をそばだてると、こうささやいた。
「お前は聞かないほうがいいぞ。聞けばきっと後悔する」
カペルマン刑事は狐につままれたような表情を浮かべ、しばらく上司の顔を見ていたが、首をかしげながらどうしても確認したいことを訪ねた。
「それで、今夜、行くんですか。そのダミアンのところに」
「嗚呼、もちろんだ」
カペルマン刑事は不安げに自分の顔に右の人差し指を向けながら、行きたくはないという気持ちを上司に伝えた。
「大丈夫だ。お前さんは車の中で待機だ」
カペルマン刑事は天を仰ぎ神に祈った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます