九頭龍不人は勇者だった。

Suzukisan

Prologue.九頭龍不人は勇者だった。

 灰色の空がまるごと落ちてくるような豪雨の中、おれ達は戦っていた。足首まで泥濘ぬかるみにつかりながら、対峙する黒衣の騎士を斬り付ける。


 刃先は紙一重でかわされ、鉛色の金属胸甲を掠めた音がヂンと鳴った。一合を打ち込むたびに敵はひらりと距離をとり、こちらの様子を伺ってくる。まるで値踏みされているようだ。


 周囲の喚声は爆雷のような雨音にかき消される。無限に流れ落ちる墨染めの滝の向こうで、仲間もまた戦っているに違いない。


 対峙する騎士と数合打ち合って、おれは敵の技量を感じ取っていた。背丈は変わらず膂力はわずかに勝っているものの、剣の腕前では大きく負けている。

 おれの打ち込みは尽く、片手剣で受け流されるか、先ほどのように鎧を掠めるに留まっていた。

 この乱戦では味方の助勢を期待することは難しい。なにより、ここは敵陣の内となれば、長引けば相手方の応援が来る可能性が高いだろう。


 一対一ならまだしも、長引けば状況が悪化する可能性は高い。

 意を決して、左脇に構えていた小盾を振りかぶり相手の視界を防ぐように投擲する。振りぬいた勢いで、前のめりに倒れこみながら、腿を強く振り上げ、足首を掴もうとする泥中を前進する。

 投げつけた円形の金属盾は、見惚れるほど流麗な動作で半身となって回避された。

 だが、その兜鎧で半身になった姿勢からでは十分な視界が確保できまい。奇手の生んだ活路にのせて、剣柄を両手で握りこみ、大上段に振り上げる。渾身の気合とともに喚声を吐き、黒兜ごと叩き割らんと、振り下ろした剣は空を切った。


 同時に爆発するような痛みが腹を突き抜けた。無防備に晒された胴の空隙に、容赦ない前蹴りが飛び込んできたのだ。

 体重と脚甲の重みを乗せた組み打ち術である。みぞおちから吐き出された空気とともに、醜い太刀筋は地に刺さる。痛いほどに握り込んだ掌は痺れ、刀身越しに泥濘ぬかるみの重みが這い上がってくる。


 衝撃から立ち直るのを待つことなく、無防備な鼻先を剣柄の尻で殴られた。奥歯を噛み締めて連撃に耐えようとするものの、打ち据えられた勢いに顎先から脳天までガクガクと揺れて視界が定まらない。

 何とか剣を構えようと腕を振り上げるが、騎士は見逃すことなく、剣の腹を踏み折った。汚泥に沈む刃先が、己の運命を暗示する。


「■■■■■■。」


 そのとき、何かの聖句めいた言葉が騎士の口から吐き出され、雨に融けた。


 顎下に熱が飛び込み、次の瞬間、おれは宙を舞った。口の中に熱いものがこみ上げ、鼻腔に粘りつくような死の匂いが流れ込んできた。

 重力が解け、乱回転する視界の下、自らの四肢が力なく崩れ落ちていく。

 鈍化した時間の中で、微かに残る剣閃の軌跡を目で追いながら、おれは自らの首が跳ね飛ばされたことを悟ったのだった。



 prologue. 「 九頭龍不人は勇者だった。 」



 夢を見ていた。あまりの生々しさに、おれは首筋を撫でる。身を起こして、壁際に置かれた洗面用の水盆を覗き込む。黒髪黒眼の三十路前の男が映っていただけだ。


 どうも一服している最中に眠っていたらしい。銀皿の上に掛けた鉄煙管からは、未だに紫煙が昇っている。ほんの数分のまどろみは、睡眠というよりもトリップと呼ぶべきなのかもしれない。


 そこに室(へや)の扉を開けて、栗毛の童女が入ってきた。


「あー、また寝タバコしてましたね?会長。」


 会長、と呼ばれ慣れてはきたのだが、未だに、この幼い声で呼ばれるとくすぐったい。童女は背伸びをして木窓を開き、外の陽光と空気を取り入れると、執務机の上には触れることなく、周囲の掃除を始めた。


「九頭龍商会、会長の寝タバコで失火!なんて笑えないですよ。」


 彼女の言葉に苦笑いしながら、首肯する。


「気をつけるよ、ホルン君。」


 おれが水盆の脇で無精髭を剃るのを見計らって、ホルンが綿タオルを持ってきた。ホルンの背丈はおれの腰ほどしかない。

 知らない者からは幼子にしか見えないが、これは複数種族の混血であるためだ。商館を開く際の事務員に応募してきてくれたときは驚いたが、実務能力は高かった。今ではおれの個人付秘書として手離せず、この商館の実務面を支えてくれる立派な商人でもある。


「そもそもきちんとお休みを取ってください。連日徹夜なんてしたら、お体に障ります。」


 秘書然とした彼女の小言を聞きながら、窓から入り込む新鮮な空気を吸う。

 執務室は商館の二階に位置している。窓枠の向こうに伸びる狭い路地には朝焼けが流れ込み、花街が明かりを落とす頃合いだった。視線を上げると向かいの建物の窓から、最近馴染みになった娼婦、ミランダが視線を寄越している。

 愛想に手でも振ろうとしたところ、すかさず目の前の窓絹カーテンを引かれてしまった。

 ぐい、とシャツ裾を引かれ、ホルンと正対する形に直される。ぷうと膨れ面をする姿は愛らしい童女そのものにしか見えないのだが。


「こう見えて私も開店準備で忙しいんです!何が嬉しくて色魔の会長の身の回りのお世話をしていると思ってるんですか。」

「ホルン君、それを言うなら『何が悲しくて』だよ。あと人を色情狂のように呼ばわるのはやめてくれ。」


 指摘するとホルンは顔を真っ赤にして部屋を出て行ってしまった。馬鹿だのアホだの聞こえた気がするが、気のせいだろう。

 実際のところ、おれが娼婦を買うことは無い。ミランダとは商品の売買で知り合ったに過ぎない。


 ゆるい風が窓絹を揺らす。朝日の漏れ入る薄暗い部屋で、おれは一人、今朝の夢を反芻していた。

 ホルンが用意してくれた朝食は、薬膳仕立ての粥である。添えられたメモには、『きちんと寝てください。』と、達筆な文字で書かれていた。


「健康ね…。」


 銀皿の上に燻っていた煙管は、まだ煙を吐いていた。おれは煙管を手に取り、一口吸い込むと、じっと目を閉じる。

 目蓋の裏で繰り返される、断頭の瞬間。本来であれば、そこで終わるはずだった、おれの生は、今もこうして続いている。

 ぷかり、と紫煙を吐き出して、世の諸行無常を想う。


 東方宣教軍クルセイド

 42名の現代日本より渡った勇者を旗印として、かつて人類の生存圏だった東方領域の解放を目的とした一万人の軍勢の名である。おれ達の参加した第十七次遠征は、緒戦に二名の勇者を失いながらも、亡国セレファイスの解放を果たした。


 神より授かったギフテッドを遺憾なく振るい、戦場を駆けた勇者達。

 剣と魔法、槍と弓、獣と罠、火薬、銃、自然毒、果ては化学兵器まで、おれたちは容赦なく使い尽くした。ある者は軍制を改革し、ある者は魔法の深淵に至るべく学院を探索し、ある者は流通に革命をもたらした。

 生き残るため、自分たちが持つ現代の知識を絞り尽くし、機知と狡猾を以て敵を打倒した。向かい合った敵が、自分達と同じ理性を持つ存在だと知った後も、血で血を洗う戦いを続けた。

 そして、おれ達は望まれた戦果を手にした。武勲を立てた彼らは英雄として、その名を世界に刻み、平穏な余生を過ごす、はずだった。


 しかし現実は違った。

 東方宣教軍クルセイドの旗振り役は、この世界の中央大陸で支配的な宗教、拝陽教を統括する教皇庁だ。

 そもそも、おれ達は出身も、経歴も、現代日本での死亡理由もバラバラの魂を、「ただ同じ時間帯に死んだ」という理由で寄せ集め、妊婦の腹に祝祷を通して降臨させるという方法で生まれてきたらしい。

 らしい、というのは、皆前世の『個人的』な記憶を忘れてしまっていたからだ。名前すらも後から知らされたに過ぎない。

 ただ、おれ達は現代日本で日本人だった、という記憶だけは共有できていた。中には自分が医師だった、とか、学生だった、とか後から思い出す者もいたが少数だ。

 

 少なくとも、おれは未だに何も思い出すことはできていない。

 母体となった母親と会ったこともなく、物心ついたときには勇者として訓練を施されていた。そして教皇庁が管理する教育施設で純粋培養されて、一万人の狂信者を率いる精鋭へと成長したのだ。


 十六歳になった日、おれ達は教皇猊下から直々に油を注がれ、東方へと出立した。セレファイス戦役の終結までに九年の歳月を要した。聖都への帰路までに一年。

 

 十年の月日が流れようとしたある日、五名の仲間が突然死した。翌月には十二名が亡くなった。三か月後、残っていたのは僅かに三名、凱旋の栄誉を讃える式典に出席できたのは、たった一人だ。


 おれ、九頭龍不人くずりゅうふひとだけだ。


「なんでおれが生きてるんだろうな。」


 ふと、口をついて出た言葉に、我ながら自嘲する。剣の才も無く、超常的な現象を起こすこともできない。そのおれが今生きて、綺羅星の如く活躍した仲間たちは次々と倒れていった。


 この世界ではヒトは短命種なのだ、と言われている。

 

 教皇庁は、前世の記憶を残したおれ達に隠していたのだろう。大気中に含まれる魔素を分解する臓器、霊腑レイフを持たないヒトは、どう足掻いても短命であることを。

 戸籍も統計も普及していないために、正確な数字はわからないが二十代で亡くなるのが一般的とされる。だからこそ、東方に広がる清浄の地を取り戻すべく、ヒトが生きることのできる大地を取り返すために戦っているのだ、と言い訳がましく凱旋後に聞かされた。

 

 救世の英雄は、神にも等しい超常の力を揮いながら、ヒトの身を超えることはなかったのだ。今や行方の知れない≪神託オラクル≫の力を持つ彼女は、この結末を知っていたのか。


 ただ、才も無く、と言ったものの、おれがこうして生きていられるのは与えられた力に寄るものだ。おれに授けられた力は≪健康ヴァイタリティ≫だった。

 あらゆる毒、あらゆる呪詛、あらゆる病はおれを蝕まない。精神的疾患を患うこともない。獣の咆哮、戦場の鬨の声、秘密を暴かれる恐怖、仲間の死…。精神的負荷ストレスは「ほどほど」に軽減され、命を脅かす存在に対しては耐性が生まれる。

 だからといって、おれ自身は人並みの剣の訓練を受けただけだ。当時は毒沼に橋を架けるだの、未確認の動植物の味見をするだの、碌でもない役回りだった。


 因果の深いことに、おれはこうして生きている。得体の知れぬ薬草を乾燥させたタバコを呑みながら、現世を煙越しに眺めている。徹夜明けの気怠さが懐かしい。栄養バランスも睡眠不足も、異界の環境ストレスも、戦場のPTSDも、全て帳消しにされて生きている。

 やがて、この些細な虚無感にも、じわりと免疫が生まれるのだ。


 朝日が昇る中、黄昏の紫煙が流れる。それでも今日は始まり終わっていく。今のおれは小さいながらも農園と商館を持つ九頭龍商会の会長である。「ほどほど」の日常を守ることが、今のおれの生きている意味だ。


 広場から、大鐘を鳴らす音が響いてくる。朝市が開く時刻を告げているのだ。

 おれは商館主として濃紺に金刺繍を施した外套を羽織り、店の様子を見るために階下へ下りる準備をする。


 開店準備と言っても、九頭龍商会は一見相手の小売は行なっていない。当日分の荷受けと配送の確認をして、出勤してきた従業員に割り振る仕事を確認するだけだ。そもそも商館の位置する通りは色街で、自分たち以外に商店を営むものはいなかった。

 九頭龍商会が主に扱う商品は、直営農場で生産された薬草を原材料とする自社ブランドのタバコだ。

 会長職のおれの下に、番頭のホルンと農園の管理者として森に引きこもったきりの爺さんがいるだけだ。


 商館一階は売り場と帳場を兼ねている。店の手前側から、刻み葉、粉末状の商品が並び、奥の温度管理された木製棚にはシガレットが陳列される。帳場を更に進むと、上客との商談用の個室と、従業員用のバックヤードが広がり、そのまま裏の搬入口と、地下の倉庫へつながっている。

 二階はさながら奥の院だ。上がることがあるのは館主であるおれと、ホルンだけ。執務室と商品開発部が存在する。開発部、と言ったものの、商品開発はおれが一手に行なっており、新種の薬草の毒性や、調合に伴う副作用、トリップ効果の強度を、自分自身でテストしている。ここで開発されたサンプルを農場に送り、試験生産に入るわけだ。


 この世界には薬草を煎じた飲料はあったが、薬効成分を粘膜から摂取する習慣はなかった。そこにおれが新たに持ち込んだのだが、今やタバコは貴族ノーブルにとって嗜好品の域を越えて、生活必需品に近い。多幸感や沈静効果以上に、植物の含有する魔素を手軽に摂取し、魔法現象を行使する際のドーピング剤として用いることが多いのだ。

 後追いの業者が参入してきてはいるものの、販路開拓するまでもなく、元勇者、というプレミア感だけで十分商売は成り立っている。


 そもそもタバコに用いる薬草は、魔素の分解機能を持たないヒトには毒性が強すぎる。≪健康ヴァイタリティ≫を持つおれだから安定生産までこぎ着けたものの、市井の業者に手が出せる代物ではないだろう。

 多幸感をウリにした粗悪品が花街で流行した形跡もあったが、領主に通報したところ、すぐに業者は捕縛された。もっとも押収品を見せしめに広場で焚き上げて、煙が町中に広がり、住民が盛大に乱れるという失態を犯すあたり『ほどほどに有能だが素朴で間抜け』というのがおれの官憲への評価だった。


 と、階段を下りたところへ、ホルンが小走りに駆けてきた。玄関先を掃いていたと思ったのだが、慌てた様子である。


「あの会長、領主様の使いの方がご面会をと…。」


 噂などするものではないらしい。店先に目をやると、二頭立ての豪奢な箱馬車が止まっている。

 側面に掲げられた、薔薇に絡みつく赤竜の意匠の紋章こそ、当地アーカムの領主、ヴァレンタイン家の家紋である。領主家にも商品の納入はしていたはずだが、何か間違いでもあっただろうか。

 いや、そもそも箱馬車の中にいるのは誰だ、まさか領主本人ということはあるまいが。


 馬車を御する二名の従者は、山羊頭の獣人だ。正真正銘、混じりっ気のない二足歩行の白山羊が燕尾服を着て立っている。商会との商談を行う際にも使者として遣わされる「ル」兄弟だ。

 顔なじみ、なのだが、未だに兄弟の区別がつかない。一応、胸元のリボンタイが朱色が兄のル・ゲーリックで、紺色が弟のル・シャールだとは聞いている。


 迎えにあがったおれに対し、箱馬車の扉を守るように立つゲーリックが、恭しく礼をする。ヒトの声帯を潰して、涸らしたような声音だ。


「突然の訪問、ご容赦願いたい。フヒト殿に折り入っての頼みがあって参ったのだ。」

「これはゲーリック様、このようなお早いお時間にお越しになられるとは珍しいですね。とはいえ貴人をお待たせするわけにも参りません。さっそく中でお茶でもお出しいたしましょう。」


 フヒト殿に頼み?

 商会ではなく、おれ個人ということか。山羊従者は頷くと、箱馬車の扉に手をかけた。


 開かれた扉から降りてきたのは、予想外の人物だった。

 

 肩までの燃えるような赤毛。褐色の肌。神話題材の女神彫刻のごとく整った顔立ち。吊り上がった眉目は彼女の苛烈さと、意思力を象徴している。濃紫のルージュが引かれた唇は艶めかしく、前世に見たコレクションモデルもかくやという抜群の肢体。胸元を大きく割いた煽情的な赤いドレスを、上品に着こなしている。


「久しいな。」


 その一言で、おれの胸はかき乱された。さっさと機能してくれよ、≪健康ヴァイタリティ≫と、必死で平静を装う。


 降り立った女の名は、フランベルジェ。

 南方貴族サーブル家より、中央大陸の重要交易地アーカムの領主、ヴァレンタイン家に輿入れした令嬢である。多忙な領主に代わって領地経営を行う才女とも、老翁に取り入って差し出がましく蠢く毒婦とも、毀誉褒貶の噂をされる女傑である。しかし彼女の手腕が確かなのは間違いない。婚姻に際してヴァレンタイン家は家紋に描かれた薔薇の花弁を一枚増やしたというのだから、並々ならぬものがある。


 そして、おれが貴族学院に在籍していた頃の同窓生でもある。当時の優等生然とした生真面目さを、そこはかとなく残しながら、齢を華やかに纏っている。


「老けたんじゃないか、私の恋人よ。」


 平静を取り繕うおれの頭上に、領主夫人から特大の爆弾が落とされていった。

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