第128話 親愛なる友へ
早朝。
歩は目覚ましの音を介することなく、スッと目が覚める。隣で寝ている椿を起こさないようにベッドを出ると、すぐさまシャワーを浴び身支度を整える。
「……行ってくるよ」
軽く椿の前髪を撫でると、歩は目的地に向けて家を出て行った。
吹き抜ける風が心地よい。なんだか、いつもと違うような世界が見えている気がする。歩は自分の認識の拡張に驚きを感じていた。クオリアネットワークは閉じてはいるものの、覚醒に際して歩の中に存在はしている。そのため、クオリアネットワークのほんの少しの恩恵を得ることはできている。
(……脳内に広がる世界が段違いだ)
クリアに広がるのは目の前の、視覚の情報だけではない。五感すべての情報が研ぎ澄まされ、今の歩ならば後ろから狙撃されたとしても避けることは容易だろう。言うならば、
「……行こうか」
そうして颯爽と彼は進む。
§ § §
「……やぁ、待ってたよ」
「紗季、お待たせ」
そう、やってきたのはICHにある紗季のラボだった。これは紗季から誘ってものである。もちろん、歩もそれに応じた。二人には話すべきことがあるからだ。
「……歩、君が僕の求めていたものだったのか」
「そうだよ……紗季。俺がクオリアそのものだ」
「なんて言うか……灯台下暗しとはこのことかと痛感したよ」
「その正直、紗季の研究には協力したい……でも」
「分かっているよ。君、死ぬ気なんだろ?」
「ははは、さすがだね。よく分かっている、よく……分かっている」
乾いた笑いが室内に響き渡る。紗季は知っていた。クオリアネットワークがどのようなものか、おおよその予想がついていた。そして、歩がそれをどうしようと言うのかを。
「僕の予想だけど、君は一ノ瀬詩織とD-7を殺した後に自殺するつもりだろう? そうして、クオリアネットワークの全てを閉じる。現時点で、その能力は人類の手に余るものだ。ならば残して置くわけはない。君ならば、きっとどうするに違いない……」
「……紗季、本当によく分かっている。レヴィナスの他者論によれば、他者は理解できないからこそ他者であると言う考えだが……紗季はどうやら例外のようだ」
肩をすくめながらそう答える。そう、紗季の答えは的を得ていた。歩は自身の持ちうる知識ではこのクオリアネットワークという代物をどうにかできるとは思っていない。さらに、彼はこの力を今後も使おうとは思っていなかった。使ってしまえば、この世界を支配することはできる。しかし、誰かを縛り付けるために力を使いたいわけではない。そして、きっと……このままいけば歩は自分の自我を失うと予感していた。
奇しくもそれは的中している。
クオリアネットワークはそれ自体に意識を持っており、歩を核としているものの独立した統合思念のようなものが存在している。
そこにあるのは、全人類の意識統合。七条総士によって組み込まれたそのプログラムは確実走る運命にある。歩はそれを漠然と予感していた。記憶にうっすらと残るあの時の感覚。まるで自分ではない何かに、体を意識を乗っ取られる感覚。全クリエイターのクオリアにアクセスし、意識を無理矢理に一つに強いる能力。その恐ろしさを知っているからこそ、これは無くさなければならない。人間とは常に他者とコミュニケーションを図ってきた生き物である。それを誰かの意志で無理やり何かを強いるなど、道理が許さない。七条総士の最大の誤算は、確たる歩の意識が良心的なものだったと言うことだ。
そして、その誤算のおかげでこうして歩はここに立っている。
もし、彼が迷わずクオリアネットワークを行使する人格だったならば、すでに世界は彼の手中に収まっていただろう。
だが、そうはしない。彼には、彼の想いが……理想があるのだから。
「……本当に死ぬのかい?」
「あぁ……詩織さんを殺して、D-7を殺して、俺自身を殺して、この忌まわしき能力を無くすよ。世界から完全に……」
「そうか……そうなのか」
紗季は彼を止める術を知らない。こうなった彼を止めることはできないと知っている。その双眸が、その体躯が、その雰囲気が如実に物語っている。彼の決意の大きさと言うものを。
悲しい……のだろうか。しかしきっと、喪失感は大きなものになるに違いない。そう思うと、一筋の雫が彼女の頬を伝う。
「紗季……」
「歩、僕は君に懸想してるわけじゃない。恋愛的な感情ではなく、この世界での唯一無二の親友だと思っている。そんな友をみすみすと死なせるわけにはいかない。絶対に……絶対にだ」
「……」
その言葉には様々な感情が混ざり合っていた。左目から流れる
歩は知らない。いつも気丈に振る舞っている彼女がここまで感情的になるなんて。彼女なら理解してくれる。彼女なら自分の死を受け入れてくれる。そう、そう思い込んでいた。いや……そう信じたかった。彼女なら笑って送り出してくれると。でも現実は違う。彼女だって普通の人間で、普通の少女の感性を持ち合わせているのだ。友が死ぬなど、悲しいに決まっている。仮に紗季がこれから先に死ぬと分かっていたら、彼は全力で止めるだろう。彼女がそれを容認していたとしても、彼はそれを許さないだろう。
そうだと分かっているに、自分は何も理解できていなかった。
そうだ。自分が死ねば悲しむ人が、悲しんでくれる友人が今の自分には沢山いる。歩は追い詰められていて、諦めることを許容していた。死という道を辿るべきだと、それこそが人工的に生み出された自分の運命なのだと思っていた。いや、というよりも彼は詩織の後を追いたいという気持ちもあるには在った。そうすれば、彼の意識はなくなるもこの世界の残滓として、彼女とともに生きることができるかしれないのだから。
未練。
歩は詩織の死に対して、まだ真正面から受け入れることはできていなかった。まだ彼女はこの世界に生きている。スワンプマンだとしてもそこに存在している。記憶を共有しているのだ。ならば、今までの詩織と何が違うのか。しかし、あの一ノ瀬詩織はもういない。あの心を持ち、あの容姿をして、優しく語りかけてくれた一ノ瀬詩織そのものはもういないのだ。
「……俺たちは生まれるべきではなかった。そう思っていたよ。でも、紗季はそう思わないみたいだ」
「当たり前だろう。生まれるべきかどうかなんて、そんなものは知らない。だって、僕らここに存在して少なくとも僕は君に生きていてほしいと思っている。これで十分じゃないか。歩、最後まで諦めないでくれ。そうさ、君と僕ならこの試練も乗り越えることができる。そう思わないかい?」
「……そうだね。いや、きっとそうだ」
すでに彼は意味を得ていた。答えを得ていた。やるべきことは決まっている。それをただこなせばいいだけだ。今までとなんら変わりない。葵の時と、華澄の時と変わりない。やるべきことを成せばいい。今回はそのスケールが違うだけだ。その本質に変わりはない。
「はぁ……全く紗季には敵わないなぁ。流石、俺の親友だ」
「当たり前じゃないか。親友は決して裏切らないし、諦めない。君の命を繋げてみせる。まだ方法はある。あと1日だが、諦めはしない。きっと今までの研究は今この時のためにやってきたんだ。僕はそう意味付けをするよ。歩も、自分の生に意味を見出してくれ。生きる理由を探してくれ。その力に負けないような、ね」
「あぁ……そうだね。そうすることにするよ」
人に意味はない。しかし、意味を見出すことはできる。その決意を胸に彼はまた進み始める。
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