少女たちのしおり
東里あずま
第1話 雨空の下の星空
今日という日は、ことごとく上手くいかない日のようだ。まず、目覚まし時計がいつもより早く鳴った。二度寝するわけにもいかず、ぬくい布団の誘惑を断ち切って起きたら、目ざとい母につかまり冷たい空気のなかゴミ出しに行くはめになった。登校するときも、靴紐が自転車のギアに絡まって転ぶかと思った。転ばなかったけど。授業中も、一ページだけ見落としていた教科書の問題に限って指名された。心臓がはちきれそうだった。昼だって弁当をひっくり返して、購買まで走った。今月も絶賛金欠病だっていうのに、まったくもってついてない。
そして最後の最後、こんな日はさっさと家に帰って雑誌でも読もう。そう思った矢先、気分をどん底に叩き落とす雨だ。昇降口まで出て途方に暮れる。家に持ち帰りたくなかったからって居残ってまで課題をやってたのが悪いのか? 明日の朝が期限なんだ、どうしようもない。確かに天気予報でも降るといっていた。でもここまでひどいなら、そうと教えてくれればよかったのに……。そもそも合羽が嫌いだから、合羽を着て自転車に乗って帰るって選択肢はない。小雨くらいなら濡れて漕ぐのもありだけど、「バケツをひっくり返した」がぴったり合ってしまうこの悪天候の中、この身ひとつ自転車で、もなかなか馬鹿らしい。バッグを漁っても当然のように折り畳み傘はない。今日はそういう日だ。今更がっかりもしないさ。
「あ、そうだ。置き傘」
小学生か、と我ながら思うし友人たちにも言われるけれど、狙って置き傘しているわけじゃない。簡単なことで、登校時には雨が降っていたから差してきたが、下校時には止んでいて、荷物が増えるのが面倒だから置きっぱなしにしていただけだ。最初からこうすれば良かったんだ、と気づかなかった自分にほとほと呆れながら傘置き場を見る。
…………。
「え? なんで」
なんで折れてるの、マイ・スウィート・アンブレラ。そのセリフだけは、飲み込んだ。
そもそもおかしいだろう、傘の骨が一本折れた、とかならまだ百歩譲ってあり得る。決してそんなに広いスペースじゃないから、他のやつが傘をいれる時にうっかり引っかかってしまった、なんてこともあるだろう。気付かなくてもおかしくない。でも、ほとんど折れてるなんてことあるのか……? 好きな柄だったから気に入ってたのに。なにせ、知ってる限りじゃ同じ色の傘を持ってる人がいないようなシロモノだ。絶対持ち主はわかったはず。急いでいて壊したことが分からなかったのかな。
「信じられない……。もう駄目だ、きっと帰宅途中に車に撥ねられて死ぬ」
親に感謝のメールでも送っておこうか、友人に借りたDVDも見終わってない。あー、こんなことなら昨日も課題なんてやらないで、好きなバラエティでも見てけば良かった。
「歩くか……」
バスがあれば飛び乗ろう。そう思って財布を確認して思わずしゃがみ込む。購買のパンのせいで残金わずか63円。面白いほどについてない。調子に乗ってコロッケパンなんて食べるんじゃなかった。せめてカバンを頭にのせて走るか……。どこまで? 家まで? 30分はかかるぞ。
雨は止むどころか、いっそう強くなり、空だけじゃなく目の前も真っ暗だ。
とりあえず、一番近いバス停まで行こう。そこで、走るか、それとも誰かにヘルプを求めるか決めよう。
信号すらも意地悪く、赤い光にめまいを覚えつつ土砂降りに打たれる。青色に変わってすぐに駆け出して、屋根のあるバス停を目指した。水分を吸った制服が重い、張り付いて気持ち悪い、前髪から滴る雫と雨粒が目に入って痛い。きっとカバンのなかまでびしょ濡れだろう。……身も心も凍える。
5分くらい駆け足と早歩きを繰り返してたどり着いた目的地には、一人の女の子が立っていた。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。だとしたら相手に少し腹が立つ。こんなに強い雨と風のなか、放置するだなんて。連絡のひとつでも寄越せばいいのに。人のことは言えた状況じゃないが、横を向く彼女の黒髪は吹き付ける風と雨で顔に張り付き、本来は年頃らしくつややかであろう唇はうっすらした紫色になっていた。紺のコートも色が変わっていたし、この様子じゃ靴だって浸水して気持ち悪いだろうに、健気なんだなあ。今日初めて、自分以外のことを可哀想だと感じた。
「あの、待ち合わせですか?」
そう声を掛けてから、これはもしかして通報されたりするのか? と不安に襲われた。いやいや、これで無視するのも情がない、と自分を正当化しつつ、相手の反応をうかがう。ゆっくりとこちらに向いた顔を見て、ようやく同じくらいの年だろうと分かった。今日は洞察力のカケラもないな。
「ええ、人を待っていたんです。私、馬鹿ですよね。こんな雨の日にわざわざ、会えるかもわからない人を待っていたなんて」
降りしきる雨の中で、やけにはっきり聞こえた彼女の声は落ち着いていて、なおさら来ない相手を待ち続けるような人には思えなかった。よっぽどの理由があるのだろうか。音信不通の彼氏を待っているとか、まさか安っぽいドラマじゃあるまいし。
「い、いや、馬鹿とまでは言いませんが、風邪をひいてしまいますよ? 明日はきっと晴れるでしょうし、待ち合わせを明日に延期とか、しないんですか?」
彼女は、少し目を伏せて微笑んだ。その濡れた頬をポケットに引っ込んでいるこの手で温めてやりたくなったけれど、それは彼女の待ち人がするべきことで、自分の仕事ではない。
「いえ、実を言うと、待ち合わせというのも少し違うんです。私が一方的に、ある人に会いたくてここで待ち伏せしてる、って言ったほうがいいのかな。……とにかく、雨の日にしか見かけたことがないから。私はここでこうして、通りすがってくれないかって、待っているんです」
「会えるかわからない? 連絡先も知らないんですか? 会社とか……学校とかも?」
「連絡先なんて知りません。制服は……、あなたと同じものでした。もしかしたらお知り合いかもしれませんね」
「……その、あなたはその人のことが」
はにかんで、彼女はうなずいた。その拍子に髪から水が滴り落ちて、またコートに新しい染みが生まれた。ああ、本当に風邪をひいてしまう。
「ええ、一目惚れってやつです。雨の日にロマンスが始まるって、なんだか素敵じゃありません? まあ、あの人はきっと私のことは顔も知らないんでしょうけど」
「顔も知らない? どういうことです?」
「以前、というか最初にお見かけしたのも雨の日で、私はあの人の顔も知りません。傘に隠れてしまって。傘と、その下に見えた制服しか知らないんです。でもね、きっと素敵な人なんですよ、だって今のあなたみたいに、バス停で長い間待っていた私に、タオル使いますか? って声を掛けてくれたもの。さすがに悪いと思って断ったら、あの人は急いでいたのかすぐに走り去ってしまいましたけど、すごく嬉しかったんです。どうしても、一言、お礼だけでも言いたかった」
それで、雨の日はここに。そう付け加えた彼女は、幼い少女のようにいじらしかった。いまどきロマンスって、なかなか古めかしいですね、なんて言えるような雰囲気じゃない。思わず黙り込んだこちらを気遣ってか、彼女は気丈に続けた。
「必ず会えるって信じてました。なかなか見かけない、珍しいデザインの傘でしたから。すぐに気が付きます。……なんたって、好きな人ですからね」
彼女のこの言葉が、本当に恋心から芽生えたものなら、なんて純粋で、儚いのだろう。傘なんて、買い替えてしまえばもうわからなくなるのに。引っ越してしまえば、通りすがることもなくなってしまうのに。
「でも、これも今日で終わりです。ごめんなさいね、急いでいたんでしょう? お話に付き合わせてしまったわ。……ありがとう」
「急いでたわけじゃ、ないです。ただ、今日はすごく運が悪くて、傘もバス代もないから走ってただけで」
「あら、そうなの?」
目を丸くすると、大人っぽさより、あどけなさが増した。そして、そのままなんてことないように続ける。
「せっかく、素敵な星空柄の傘だったのに。残念ですね」
「え?」
どうして、あなたが傘の柄を。
ようやく止まっていた脳回路が回転を始める。今日に限って使えない傘、約束のない待ち合わせ、以前差し出されたタオルと駆け出した相手。……その相手は、もしかして。
喉に声が張り付いているうちに、彼女は軽く会釈をして、やって来たバスに乗り込んでしまう。どうしたらいい? 追いかける? 追いかけて何と言う? あなたが探していたのは、あなたが一目惚れしたのは僕ですかって聞くのか?
絡まった思考の糸がほどけないうちに、彼女を乗せたバスは飛沫を上げて走り去ってしまった。雨のカーテンの向こうにテールランプが消えてから、彼女の名前も学校も連絡先も聞いていないことを思い出した。運だけじゃなくて、今日は機転もきかないのか。
結局、雨が止むまでの数十分、僕はその場に立ち尽くしていた。
今日は所謂、「あいにくの雨模様」だ。お気に入りの星空の傘は、新しいのを取り寄せた。毎朝天気予報をチェックして、どれくらい経ったのか、何度雨の日にありもしない待ち合わせを期待したのか、恥ずかしくて数える気にもならない。
一目惚れではないけれど、似たようなものだ。こうして、この傘を差していれば、きっといつか。
「タオル、使いますか?」
雨降る偽物の星空の下、ロマンスが始まる。
あの日初めて聞いたけど、結構いいじゃないか。
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