ボクの翼

言無人夢

1

 ボクはその日の放課後、こっそりと誰にもバレずに音楽室への侵入に成功したのです。夕日の差し込む真っ赤な廊下を往復すること十七回目。ようやく人のいないチャンスを見つけて、するりと防音扉の隙間を抜けました。えっと、閉める時に思ったより大きな音がして心臓が止まるかと思ったのもご愛嬌。

 流れ続けるピアノの音は止まなかったので良しとしましょう。ボクは自分を納得させるように頷きながら、廊下よりよく聞こえるようになったその音に耳を傾けました。

 スカートのポッケから取り出した携帯で現在時刻を確認しました。もう少しで定められた下校時刻ですから、少しギリギリだったみたいです。十七往復なんてしてる場合じゃなかったかな。間に合ったから万事オーケーだと思うけど。

 音楽室を隔てる防音扉は二つあって、ここは靴箱だけのある二つの扉に挟まれた薄暗い小さな空間です。その靴箱に収まる靴は私のものを除けば一つだけ。

 手がむずむずしてきますね?

 誘惑に負けてその靴へと手を伸ばしかけたところで、ピアノの音が止まりました。彼の靴に触れて、どうするつもりだったのかはさてはて、ボクにもわかりません。

 そんなことよりもスゴいことを、今からしようとしているのにね。

「失礼します」

 ボクは重い扉を開け、ピアノの前から立ち上がりかけていた彼に声をかけました。その老教師はボクがそこにいることに驚いたように目を細めて、楽譜を片手に持ったまま立ち上がり、ボクの名前を呼びました。

「あまり遅くまで残っていないで、早く帰りなさい」

 しかし続く言葉はつれない反応でした。名前を覚えていてくれたのは合格ですが、この反応はいただけません。私はそれが可笑しくってクスクスと笑いながら、扉を背中で閉めました。

「ねぇ、高倉先生。先生は」

 音楽の高倉ってあの年でずっと独身らしいよ。

 そんな噂を聞いたのは陸上部の子からだったかしら。ボクは先輩方に嫌われているらしいから教えてもらえなかったけど、その噂は結構有名らしいのです。

 それって負け組じゃん。

 一応言い訳させてもらえるなら、そう笑ったのはボクだけではなかったのですよ?

「理事長先生のお部屋に帰るんですか?」

 先生の顔は一層険しくなりました。あぁやっぱり。理事長先生のことは触れてほしくなかったみたいです。ボクたちが高倉先生のことを噂するのに大した理由は必要なかったのです。

 だってその想像はとても愉快でしたから。彼はいつも難しい顔をしていながら、誰も彼もに無視されている音楽教師でした。授業中に生徒が騒ぐのは当たり前で、それを注意もせずにただクラシックを流して感想を書かせるだけが彼の仕事です。

 何を楽しみに生きているんだろうねって、ボクたちはその哀れな老人を嘲笑いました。毎日何かに怒っているような顔をしながら、結婚もできずに生徒に馬鹿にされる毎日をやり過ごしているのです。

 音楽の高倉ってあの理事長の――

 でもだからこそ、ボクは彼を選びました。

「ねぇ、先生。ボクを抱いてくれませんか?」

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