第七話 ブーイングとハードコアマッチ

 ハードコア・マニアックス。

 過激な演出と過剰な凶器が飛び交う、ハードコア・マッチオンリーの大会である。それ故に、いつもの大会よりは客の入りは少ないが、血みどろの試合を好むコアなプロレスファンが観戦してくれる。会場のハコは地方巡業の体育館よりも小さめだが、チケットを捌き切るにはこの程度が丁度いい。ついでに言えば、壁も床も傷つけかねない試合の開催を許可してくれる施設は、横浜の片隅にある古びた体育館ぐらいしかないからでもある。

 会場入りした残忍は、意気揚々とリングをチェックした。ロープの締まり具合、マットの加減、パイプ椅子の配置、それからリングの下と周囲に山ほど用意されている凶器の数々。

「げへへへへへ」

 変な笑い声を漏らしながら、残忍は廃材の蛍光灯をうっとりと眺めた。これをロープに付け、マットに並べ、粉々に砕けたガラスにまみれながら戦うのだ。今回は野外ではないので火薬や電流は使えないが、それでも充分盛り上がる。

「うひょひょひょひょ」

 釘バット、五寸釘がみっちりと打ち込まれた板、カミソリが貼り付けられたカミソリボード、脚立、テーブル、ビール瓶、剣山、画鋲、有刺鉄線が仕込まれた板、スレッジハンマー、鎖鎌、その他諸々。残忍は凶器という凶器を確かめては、笑い続けていた。

「ふひひひひひひひひ」

「毎年のことながらキモいですよ」

 そろそろスパーリングしましょうよ、と鬼無里が声を掛けてきたので、残忍は我に返った。

「おう、そうだなスパーしねぇとな」

「その前に先輩のキモさをツイートしときます」

「やめろや」

 鬼無里を引っぱたいてから、残忍はバックヤードに入った。全試合がハードコア・マッチであるとはいえ、やることは普段とそれほど変わらないので、裏方はいつも通りだ。違いがあるとすれば、ドクターが持ち込んだ医薬品と器具の量である。

「おっ」

 前年のハードコア王者であるブラッド・ブラッドリーがベルトを取り出したので、残忍は思わず振り返った。

「シノブちゃん、触る?」

「いや、遠慮するッス。自分の力で勝ち取らないと嬉しくないッスから」

「んじゃ、頑張ってくれよな。俺も頑張るし」

 ブラッドは人好きのする笑顔を浮かべ、無遠慮にベルトを振り回しながら控室に向かっていった。“吸血鬼”との二つ名を持つブラッド・ブラッドリーは、金髪碧眼の生粋のイギリス人なのだが、来日してから十年以上過ぎていて日本語が上手過ぎるので、エセ外人の如しである。俳優顔負けの美形でありながらもデスマッチが得意で、二つ名はそれに由来する。身長は大上よりも更に高く、二メートル近い。手足の長さを存分に生かした高度な技を繰り出せる技術と抜群の身体能力を兼ね備えているので、真っ当なプロレスをしてもイケる。だが、ブラッドはデスマッチが好きで好きでどうしようもないのだ。残忍と同じか、それ以上に。

 プロレスラーは頭がおかしい。最上級の褒め言葉だ。



 午後六時、観客の入場開始。午後七時、試合開始。

 心身のピークをその時間に合わせるため、逆算して食事を摂っておく。それが済んだら、体を入念に解しておき、試合直前には激しく体を動かして心拍数を上げておく、そうしておかなければ、途中でバテてしまうからだ。デビューして間もない頃は調整が上手くいかなくて、危うい場面が何度もあった。だが、今は違う。

 自分の出番が来る前に、残忍はバックヤードと会場を隔てるカーテンの隙間から、試合を覗き見していた。武藏原の付き人だった時代も、練習生だった時代も、プロとなった今となっても、他人の試合を見ることは欠かさない。いずれ対戦相手となるかもしれないレスラーの動作や技を出すタイミングを知っておいて損はないからだ。

 第一試合はブレン・テンに所属する“バンカー・バスター”KOMATSUと、正規軍である“へヴィメタル”虎徹が対戦した。虎徹は今でこそヘビーフェイスに転向したが、若い頃はバリバリのヒールだったので申し分のない組み合わせだ。

 リング内とリングサイドには長机が持ち込まれ、二人は互いにボディスラムを繰り出しては長机を真っ二つにへし折っていった。豪快なスープレックスの掛け合い、強烈な逆水平チョップ、ショートレンジ式ラリアット、エルボーの連打、張り手、とパワーを生かしたプロレスをしながらも、惜しみなく凶器を使いこなしていく。場外に転げ出た両者は、最前列の客席を蹴散らしながら罵倒し合い、スレッジハンマーやらビール瓶やらを振り回し、観客を大いに沸かせた。ハードコア・マッチは、観客一体型のアトラクションなのだ。

 虎徹がKOMATSUに打点の高いドロップキックをお見舞いするが、KOMATSUは立ち上がってパイプ椅子を叩き付け、虎徹を沈めた。KOMATSUは虎徹をリングに戻し、フォールを取ろうとするが、虎徹はカウント2.8で切り返し、KOMATSUに延髄切りを喰らわせて脳を揺さぶってからツームストン・パイルドライバーを決め、片エビ固めで勝利した。この時点で、既にリングは血にまみれている。試合時間、十六分五十八秒。

 第二試合は、“猛牛”牛島実と“摩天楼の荒鷲”アギラの対戦だった。アギラはデビューして以来ベビーフェイスを貫いているのだが、タッグ王座を勝ち抜いてファルコと共にベルトを手にしたことをきっかけにブレイクしても尚、生傷と血飛沫の絶えないハードコア・マニアックスの出場を止めようとはしなかった。小倉は難色を示していたが、押し切ってしまった。

 本当になんなんだろうこの人、と思いつつも、残忍は俊敏に動き回るアギラから目が離せなかった。今回の試合形式は画鋲&ラダーマッチなので、リングの中央には天井に届きそうなほど高い脚立が設置されており、マットにばらまくための画鋲もたっぷりと用意されていた。学生時代は相撲をしていたこともあり、牛島は足腰が頑丈で、滅多なことでは押し負けない。半端な力で突っ込んでは、逆に弾き返されてしまう。アギラもそれを解っていて、敢えて牛島にショルダー・タックルを仕掛けていくが、牛島は微動だにしなかった。そうやって牛島の大きさと迫力を存分に観客に見せつけた後、今度はアギラが攻勢に入った。

 アギラは脚立の最上段まで登り、そこから鮮やかな伸身ムーンサルトを繰り出した。つま先から指先までぴんと伸ばし、白い照明を切り裂きながら肢体が回転する様には美しささえあり、会場はどよめいた。アギラが踏み切ったハシゴが倒れ、ロープに引っ掛かった。鮮やかに宙を舞った荒鷲は牛島の肩に足を掛けて押し倒し、フランケン・シュタイナーを決めた。アギラのオリジナルの魅せ技、ホワイトバードである。

 が、しかし、牛島の背中の下に散らばっていた画鋲がいくつか脛に刺さったらしく、アギラは牛島から足を外してしまい、フォールし損ねた。その隙に、牛島は釘バットを取り出してアギラを滅多打ちにして血まみれにして、その上でラリアットを喰らわせて倒れ込んだアギラが起き上がる前にフォールし、エビ固めで牛島が勝った。試合時間、十八分三十一秒。

 第三試合、“コード・レッド”赤木進と“暗黒総統”大上剣児による蛍光灯マッチ。ロープに蛍光灯が縦に括り付けられ、ぐるりと囲んでいる。床にも蛍光灯が横たわっていて、コーナーにもやはり蛍光灯が付けられている。ロープワークや投げ技を用いれば、一発でガラスの破片にまみれることになる。だが、元来過激な性格である赤木と、ヒールとしての在り方を理解している大上は、蛍光灯をこれでもかと割りまくった。大上がロープに振られてガラスの破片を背中に喰らえば、赤木はパワースラムを受けて背中で蛍光灯を粉砕し、まだ割れていないものがあれば互いの頭に叩き付けて白い粉塵を撒き散らす。両者は額も背中も上腕も切り傷だらけで、幾筋もの血が額を額から流していたが、どちらも決して躊躇わなかった。大量のアドレナリンが全身の激痛を忘れさせているからだ。

 蛍光灯が一つ残らず割れてしまうと、大上が赤木を場外に叩き落としたが、その下には有刺鉄線が張られた板が待ち構えていた。大上は赤木が板の上から抜け出すまで待ってから、トップロープからのボディスラムを決めた。それから、大上が赤木をガラスの破片の海と化したリングに戻し、スープレックスを立て続けに三回喰らわせた後に体固めでフォールを取った。試合時間、二十二分十三秒。

 第四試合、現ハードコア王者である“吸血鬼”ブラッド・ブラッドリー、“重戦車”パンツァー、“ハードコア・ジャンキー”残忍のトリプルスレット形式による王座戦。

 王座戦を組んでもらえたのは一年半振りか、いや、もっと間が空いていたか。ウォーミングアップとスパーリングを終えた残忍は、新品のマスクの下から流れ落ちてくる汗を拭った。控室には、先の試合に出場した選手達が戻ってくる。皆、満身創痍ではありながらも達成感に満たされた顔をしていた。

 会場内は割れんばかりの大歓声で、大上へのチャントが繰り返されている。ヴェアヴォルフ、ヴェアヴォルフ、ヴェアヴォルフ。興奮の坩堝から戻ってきた大上と赤木は、戻って来るや否や座り込み、激痛に悶え苦しんだ。すぐさまドクターが二人を助け起こし、体中に刺さった蛍光灯の破片を抜き始めた。まるで野戦病院だ。

「そろそろ俺らの出番だ、行こうぜシノブちゃん!」

 にいっと口角を上げてみせたブラッドは、獣の牙を思わせる八重歯を剥き出しにすると、力一杯残忍の背を叩いた。ハードコア王座のベルトを肩に掛けると、意気揚々と控室を出ていった。

「むっさんがいねぇのが物足りねぇが、やることはやらねぇとな」

 見上げるほど大柄で肉厚な体形であるイギリス系アフリカ人のパンツァーは、肩をぐるりと回してから、残忍を見据えた。

「お前はむっさんの穴を埋められるたぁ思っちゃいねぇし、俺だってそこまで思い上がっちゃいねぇ。けどな、シノブちゃん。これはチャンスだ。向かい風じゃねぇ、追い風だ。解るな?」

「ウィッス」

「解ってんなら、思いっ切りやらかせ。お前らしくぶちかませ。俺とブラッドが出た後、ちょいと時間をくれてやる」

 つまり、マイクパフォーマンスをしろということだ。

「但し、試合は俺が勝つ」

 低い天井に頭をぶつけかけながらも、パンツァーはのしのしと歩いていった。ブラッドにも話を付けてくれたらしく、いい返事が聞こえてきた。リングの外に限っては、パンツァーも気のいい男だ。

 入場する順番は、ブラッド、パンツァー、そして残忍だ。花道に通じる出入り口で、残忍は《残酷上等》のガウンに袖を通してからトレードマークであるケンドースティックを握る。プロレスの試合は、ゴングが鳴る前から始まっている。花道はただの通路ではない、己の魅力を最大限にアピールするための舞台だ。

 照明が暗転し、コウモリの羽音に似た効果音が入ったデスメタルが始まると、襟の立ったマントを羽織ったブラッドが入場する。その場で一回転してマントを広げてみせてから、吸血鬼の餌食となる美女を抱くようにハードコア王座ベルトを抱き寄せ、キスをする。花道の両脇から突き出してくる無数の手とハイタッチしてやり、妙齢の女性客がいればその手を取って手の甲にキスをする。そして、リングに上がる。

 キャタピラの音と空砲の音が轟き、パンツァーの入場曲が始まる。迷彩柄のガウンを脱ぎ捨ててから、パンツァーは一歩一歩踏み締めていき、咆哮する。ブラッドのような派手さには欠けるが、パンツァーという男の肉体をこれでもかと見せつけてから、トップロープをまたいでリングに上がった。

 照明が紫に変わった途端、場内でブーイングの嵐が起きる。残忍の入場曲が流れ出すと、帰れ、帰れ、帰れ、とのコールが始まった。武藏原を負傷させて欠場に追い込んだのは残忍だ、との情報がSNSなどで出回っているので、こうなることは予期していた。

「うわあお」

 気の抜けた声を漏らしたのは、今回は出場しない鬼無里だった。衣装ではなく、超日本プロレスのTシャツを着ている。

「たっまんね」

 残忍が身震いすると、鬼無里はにやつく。

「ヒールですもんね、俺ら」

「ヒールだからな」

 んじゃ行ってくる、と鬼無里を小突いてから、残忍は入場口を抜けて花道に足を踏み入れた。スポットライトが当たり、視界が白み、高熱がガウンとマスクを通り抜けて肌に突き刺さってくる。既に汗の浮いた肌に更なる汗が浮き、深く息を吸い込んでから叫んだ。

「ッシャアアアアアオラァアアアアアアアアアッ!」

 残忍がケンドースティックを突き出して睨みを利かせると、すぐさまヤジが飛んでくる。四方八方から。

「どのツラ下げて出てきやがった!」

「武藏原殺し!」

「恩を仇で返しやがって!」

「負け犬の腰巾着!」

「童貞!」

「ろくにレスリングも出来ねぇ下手くそが、引退しろ!」

「ダッセェんだよその衣装!」

「つまんねー試合すんじゃねぇ、金返せ!」

「ブラッド様に傷付けないでよ!」

「帰れ! 帰れ! 帰れ!」

「パンツァーに潰されてクソでもゲロでも漏らせ!」

 悪意、敵意、害意。――――最高の応援だ。

「ん」

 どこからか飛んできたペットボトルが、水を撒き散らしながら残忍の後頭部に直撃した。それを拾ってぐしゃりと握り潰し、花道にいた手近な観客に押し付けてから、残忍はテレビカメラを掴んで顔を寄せる。両目を限界まで見開き、マスクの口元をずり上げて舌を突き出し、見る者全てを苛立たせる表情を作る。リングサイドに控えているプロレス雑誌の記者のカメラにもケンドースティックを向けてやると、バシャバシャバシャッと連続してシャッターが切られる。ああ、ぞくぞくする。

 花道を通る最中にもブーイングは止まず、それどころかヒートアップしていく。既にリングインしているパンツァーと目が合うと、巨漢は僅かに苦笑した。ベテランのヒールであるパンツァーが辟易するほどのひどさということだ。残忍が歩いた後には、無数のゴミが散らかっている。ペットボトル、屋台で売っていた焼き鳥の串、ポップコーン、紙コップ入りのビール、中には残忍の意匠のTシャツも混じっていた。すかさず鬼無里を始めとしたスタッフが出てきて回収するが、それでも追い付かない。

 リングに上ってからも、ブーイングとヤジは止まらなかった。ブラッドはベルトを実況席を兼ねた本部に預け、パンツァーもロープに背を預けて臨戦態勢であることを示すが、まだまだ止まらない。それだけ、武藏原がファンに愛されている証拠だ。こんな状況でも平静を保っているレフェリーからマイクを渡してもらうと、残忍はケンドースティックを振り上げて再度叫んだ。

「ダァラッシャアアアアッンダトテメェゴラアアアアアアアッ!」

 スピーカーが音割れするほどの雄叫びを挙げると、さすがにブーイングとヤジは少し収まった。だが、完全には消えていない。いや、それでいい。残忍は深呼吸してから、観客一人一人の目を見返すつもりで睨み付ける。その際にリングサイド席に目をやるが、夕子のために買った席には誰も座っていなかった。少し落胆したが、そのことを思い悩むのは後だ。

「んだとてめぇら、言わせておきゃあ好き勝手言いやがって。どいつもこいつもムサシバラムサシバラムサシバラって、それしか言えねぇのかよ。ヤジを飛ばすにしたって、もっとマシなのがあんだろ? あん? 恩を仇で返す? 馬鹿言え、むしろ感謝してほしいぐらいだぜ。俺が本気出したら、あんなもんじゃ済まねぇんだからな。大体なあ、武藏原のクソ親父がいつまでも超日のトップに居座っていやがるから、俺らみてぇな若いのがトップに立てねぇんだよ。厄介払いが出来て結構じゃねぇか、なあおい?」

 語り終えた残忍が客席にマイクを向けると、ブーイングは先程以上に激しくなり、マイクを通じて増幅されたブーイングがスピーカーを荒々しく揺さぶった。

「正規軍共のお上品な試合に飽き飽きしてんだろ? 棺桶に片足突っ込んだおっさん共の古臭いプロレスにうんざりしてんだろ? だから、わざわざチケットを買ってハードコア・マニアックスを見に来たんだろ? だったら、俺が最高のプロレスってのを見せてやろうじゃねぇか! 俺が負け犬の腰巾着? はっ、アホ抜かせ、イケメンのワンコロの方が俺にくっついてんだよ、勘違いすんじゃねぇぞコラ! パンツァーを潰すのはこの俺であって、潰されるわけねぇだろうがコラ! ンダトゴラァアアッ!」

 残忍が言い切ると、観客達は更に過熱する。いいぞ、このままもっともっと興奮しろ。己の一挙手一投足、一言一言で大勢の人間の感情を揺さぶれる万能感は何物にも代えがたい快楽だ。

「お前ら、俺を見ろ」

 声を低め、ドスを効かせる。

「俺は負け続けていたんじゃねぇ、こいつらに勝たせてやってんだよ。だが、これからはそうはいかねぇ。なぜならば、超日本プロレスは俺の時代になるからだ! 悪の秘密結社の天下でもねぇ、ブレン・テンの支配下でもねぇ、この、残忍様の時代よ!」

 更に、更にブーイング。

「全くよう、呆れるほど見る目のねぇ連中だ。それでもプロレスファンのつもりか? いいか、馬鹿野郎共。プロレスってぇのはな、強い奴が凄いんじゃねぇ。勝てる奴が凄いんじゃねぇ。――――ヤバい奴が凄ぇんだよ! ッシャアオラアアアアアアッ!」

 残忍はマイクに噛み付かんばかりに叫んでから、レフェリーにマイクを投げ渡し、ガウンを脱ぎ捨てた。リングシューズの靴底で、掃き切れなかった蛍光灯の破片がかちゃりと割れる。ロープに立てかけられている有刺鉄線を張った板とカミソリボード、五寸釘の板を一瞥し、残忍は拳を固めた。今年こそは、ハードコア王座を掴み取ってやる。

 ゴングが鳴り響き、試合が始まった。

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