第五話 スーパードライとグリーンボーイ

 下げた頭を挙げる勇気が起きなかった。

 残忍、否、忍は右手でマスクを握り締めていたが、今ばかりは相棒のドクロも力を貸してくれそうにない。謝ろうと思っても、白々しい言い訳になりそうで言葉が出てこない。武藏原の顔を見るのが怖くて、リングシューズのつま先に視線を突き刺していた。

 悪の秘密結社とブレン・テンのリーダー同士によるユニット対抗戦は、大上剣児の勝利に終わった。試合時間、十七分四十五秒、ダイビング・エルボーからのエビ固めで3カウント。武藏原はやっとのことで起き上がったが、リングから下りるのにいつになく時間が掛かり、その間、パンツァーと団五郎が間を繋いでくれていた。

 バックヤードに戻った途端、武藏原は崩れ落ちた。腰の激痛により、立ち上がれなくなってしまった。すぐさまスポーツドクターに診てもらい、近隣の病院に搬送された。大会が終わるや否や病院に駆け付けた残忍は、武藏原の病室に入ったはいいが、それきり硬直してしまった。彼の腰にとどめを刺したのが何なのかは、考えるまでもなかったからだ。

 スポーツに事故は付き物だ。プロレスは尚更で、それ故に安全に配慮している。だが、時として事故が起きる。三年前、残忍が右膝の半月板を割ってしまったのは、断崖式ムーンサルトプレスを仕掛け損ねて場外で自爆し、強かにコンクリートに膝をぶつけたからだ。だが、今回は訳が違う。

「シノブちゃん、お前の次の試合は三日後か」

 点滴に入れられた鎮痛剤が効いているのか、武藏原の語気は覇気が失せていた。

「……はい」

 忍が弱く答えると、武藏原は点滴が刺さっていない左腕を挙げる。

「俺の代わりにパンツァーに試合に出てもらうように、社長に掛け合ってみる。抗争はこれからが本番なんだ、しっかりやれ」

「ですけど、俺は」

 忍が目を彷徨わせると、武藏原は嘆息する。

「ヒールのくせに、この程度のことでビビッてんじゃねぇ。箔が付いたと思えねぇのか、それだからいつまでたってもシノブちゃんなんだよ。もういい、とっとと宿に帰って休め。傍にいられたところで、鬱陶しいだけだ。今は俺の付き人じゃねぇ、一人前のプロレスラーなんだ。次の試合のことだけを考えてりゃいい」

 武藏原はぞんざいに手を振り、追い払う仕草をした。

「残忍。復帰戦でボッコボコにしてやる。それまでは故障するな」

「…………はい」

 忍は喉の奥から声を絞り出して返事をしてから、病室を後にした。社長の小倉と入れ違いになったが、後で話そう、と擦れ違い様に言われた。忍も曲がりなりにもプロレスラーなので、武藏原の気持ちもよく解る。解るのだが、だからこそ居たたまれない。もしかすると、引退を勧告されるかもしれないのだから。

 呆然としながらタクシーに乗り、宿泊先のホテルに戻った。



 ホテルに戻ると、超日本プロレスのレスラー達はざわついていた。

 良くも悪くも、武藏原を中心として成り立っている団体だからだ。団体がここまで大きくなれたのも、それはひとえに武藏原厳生というスターがいたからだ。昭和のストロングスタイルを貫きながらも、時代の流れには抗わず、彼らしいやり方で愛して止まないプロレスを盛り立てていた。そんな男が去ってしまったら、超日本プロレスは地盤を失ってしまう。今になって事の重大さが身に染みてきて、忍はマスクを被ることすら出来なかった。

「シノブちゃん」

 ロビーの片隅で突っ立っている忍に声を掛けてきたのは、アギラだった。こんな時によくも抜け抜けと。

「ちょっと飲もうか」

 あんたは酒なんか強くないだろ、この状況で酔える奴がいるか、と忍は言い返したかったが、口を開けば嗚咽が出てしまいそうだったので言い返せもしなかった。他のレスラー達が様子を窺っていたが、止めようとはしなかった。アギラにも、先輩らしいところがないわけではないようだ。

 アギラが忍を連れていった先は、彼の泊まっている部屋だった。手狭な空間にシングルベッドが押し込められている、窮屈な一人部屋だ。アギラは忍にマスクを被せてやってから、備え付けの冷蔵庫に入っていた缶ビールを渡してきた。

「これ、高いッスよ」

「外に出ても、買い出しに行けるような店がないだろ?」

「そりゃ道理ッスけど」

 キンキンに冷えたスーパードライを一口飲んだが、ちっとも酒精が感じられない。残忍は缶を両手で挟み、項垂れる。

「俺のせいで武藏原さんが引退したら、その時はどうすりゃいいッスかね……」

「どうもしなくてもいいよ、あれはシノブちゃんのせいじゃない」

「半端な慰めは余計に傷口を広げるだけなんスけど」

 残忍が毒吐くと、アギラはぐいっと缶ビールを飲み干した。が、炭酸で盛大に噎せ返った。どうにも締まりがない。

「じゃあ、言わせてもらうけど」

 げほ、ともう一度咳き込んでから、アギラは残忍に迫る。

「シノブちゃんは自分がどれだけ偉いと思ってんのさ?」

「は?」

「武藏原さんが引退するかどうかは御自身で決めることだし、そればかりは社長だって命令出来やしない。シノブちゃんが振り下ろしたパイプ椅子は武藏原さんの腰に命中したけど、それをやれと命じたのは大上君で、大上君は社長がある程度作ったブックに沿った行動を取っていたわけであって」

「でも、武藏原さんの腰が悪いって知っていたのに、俺は」

「自身の不調をドクターに申告しなかったのは武藏原さんであって、我慢すればどうにか出来るだろう、イケるだろう、って判断して試合に出たのも武藏原さんだ。で、シノブちゃんのパイプ椅子を受けたのも武藏原さんだ。大上君のスピアーでエプロンに突っ込まれた後、少し間があったのに避けようとはしなかったからね。愛弟子に見せ場を作ってやろう、って思ったからだろうけど」

 それはその通りなのだが、だが。残忍が口籠っていると、アギラは二本目の缶ビールを開けた。

「俺はね、シノブちゃんのそういうところ、好きだけど嫌いだな」

「は、ぁ?」

 残忍が面食らうと、アギラは冷え切ったビールを傾ける。

「技術も経験もあるのに、いちいち悩んじゃうから動作が遅いんだよ。トップロープを踏み切る時の勢いはいいのに、空中に出た途端に体の捻りが甘くなっちゃって。そりゃ確かに、試合中は頭をフル回転させなきゃ面白い試合は出来ないけど、考えている暇はないんだよ。相手がこう出たらこう動く、あの技を掛けられたらこう反撃する、反撃出来る隙がなければこうやって作る、って体に覚え込ませておかないと。シノブちゃんがどれだけ努力しているかは知っているけど、それを生かすためにはどうすればいいのかをじっくり考えないと。もちろん、リングの外で」

 何を言い出すかと思えば、説教か。残忍は腹の底で炭酸とは異なるものがごぶりと泡立ち、冷えた缶を握り締めた。

「そんなん、言われなくても解ってらぁ」

「だったら、実行すればいい。シノブちゃんなら出来るんだから」

 無責任な言葉を吐くな、それ以上喋るな。一口しか酒を飲んでいないのに、全身に嫌な熱が回ってくる。残忍は息を深く吸い、吐き出したが、その拍子に胸中に燻っていた激情まで外に出た。

「そりゃあんたが出来ることであって、俺が出来るってことじゃないだろ! 俺はあんたとは違うんだよ、自分の目線の高さからモノを言うんじゃねぇよ!」

 同じ高さのポールから飛んでも、アギラと残忍では高度がまるで違う。飛距離も違う。技の威力も、見栄えも、何もかも。

「だから俺はあんたが嫌いなんだよ! いっつもいっつもいっつもへらへらしやがって、腹の底からムカつくんだよ! 女みたいな腑抜けた喋り方でよ! そのくせ、偉そうに説教までかましやがる! いつまでたってもグリーンボーイ扱いかよ、クッソウゼェんだよ! 俺だってな、俺だってなぁ、どうにかして這い上がろうとしてんだよ! けどな、勝てないんだよ! どうやったら勝てるのか考えても考えても考えても、負けちまうんだよ! 俺は強い、俺は勝てるんだよ!」

 缶ビールを一気に呷ってから、残忍はアギラに詰め寄る。

「ああそうだよ、シノブちゃんは勝てる! 勝てるのに、勝てるはずの試合を捨てて負けに逃げる! 見せ場を作ることばかりに拘って、技の切り返しが遅い! スタミナが足りない! ヒールのキャラを保とうとしすぎて、技を選り好みする! リングで突っ立っている時間が長い! フォールを取られるのが早すぎる! 凶器に頼り過ぎる! 言いたいことはまだまだある!」

 アギラも負けじと残忍に詰め寄り、Tシャツの襟元を掴む。マスクを被った額と額を突き合わせると、荒鷲と目が合った。 

「ンッダトゴラアアアアアッ!」

 酒の勢いも手伝って、残忍は試合中と同じように凄んだ。

「俺なんかに指摘されて腹が立つだろ、だったらもっとリングで踏ん張れよ! 喰らい付いてこいよ! 残忍!」

 言われなくても解っている。解っているから、余計に苛立つ。

「だったら、俺と対戦しやがれ! 引き摺り落としてやる!」

「だったら、引き摺り下ろせるほどまで這い上がってこいよ! 這い上がってきやがれ!」

「言ったな、言いやがったなぁ?」

 残忍はアギラの襟首を掴んだまま首を反らし、半ば条件反射でヘッドバットを繰り出そうとした。が、唐突にドアが開いて野々村速斗が入ってきた。作りが古いホテルなので、オートロックではないからだ。呆れ顔の野々村は二人を引き離すと、残忍を引き摺って廊下に連れ出した。アギラもぽかんとしていたが、野々村は早々にドアを閉めた。

「ケンカするのはいいけど、外でやってくれ。眠れない」

 野々村にじっとりと睨まれ、残忍は酔いが醒めた。

「……すまん、ノノ」

「武藏原さんのことだけど、シノブちゃん一人の責任じゃないってことぐらい、俺達は解っている。皆、見た目ほど脳筋じゃないからな」

「……すまん」

「技を選り好みするのはよくない。それは俺も前から思っていた」

「あ、やっぱり?」

「もう寝る。朝まで起こすな。眠いんだよ俺は」

 苦々しげに言い捨て、野々村はふらつきながら自室に戻った。そういえば、彼は乗り物に乗っている間は全く眠れない性分なのだ。だから、遠征中はトレーニングの合間によく居眠りをしている。難儀な性格だよな、と残忍は内心で呟いたが、それは自分も同じなのだと思い直した。

 時間が経つにつれ、アギラの言葉が容赦なく突き刺さってくる。そのせいで、今や残忍の心はイガグリの如しだった。これで落ち込めればまだ楽になれるのだが、負けず嫌いなのでそうもいかず、無数の棘のせいで気が立っていた。こんな時は筋トレするか、いやデリヘルだ、と思い立ったが、近所にトレーニングジムもなければ風俗店もないのでどちらも実行出来ない。田舎とは実に不便だ。

 怒りと陰鬱が混在した気持ちを抱えながら、残忍は自分の部屋に戻ったが、ぎょっとした。見覚えのあるぬいぐるみが入った巾着袋が、ドアノブに掛かっていたからだ。夕子にお供えした白いウサギのぬいぐるみが収まっていて、恐る恐る袋を開くと、いつものメモ用紙が入っていた。

【試合、お疲れ様でした。今日もとっても素敵でした。 夕子】

「嘘吐くんじゃねぇよ!」

 あんなもの、試合ですらない。残忍は怒りが再燃してドアノブを回し、再度ぎょっとした。施錠し忘れていたのか、呆気なくノブが回ったからだ。ぬいぐるみを握り締めながら部屋の中を窺うと、カーテンが閉められ、明かりも落ちていた。一歩踏み込んだところで、つま先に何かが触れた。二枚目のメモ用紙だった。

【横断幕、気に入ってもらえましたか? 夕子】

「…………おう」

 ドアの隙間から入り込んでくる細い光を頼りに文字を読み取り、残忍は頷いた。

「すっげぇ感動した」

 こんな自分でも応援してくれる人間がいる、勝ってほしいと信じているファンがいる、と実感したからだ。たとえ、それが幽霊のように姿が見えない妻であろうとも。いつもは乱雑に握り潰してしまうメモ用紙を丁寧に折り畳んでから、財布に入れ、残忍はベッドに倒れ込んだ。明日の朝、アギラとはどんな顔をして会えばいいのだろうか、と懸念したが、そんな時こそマスクを被ればいいのだと気付いた。きっと、アギラもそうしてくるだろう。

 今頃になって酔いが回り、眠りに落ちた。



 温かなものが傍にある。

 暗闇の中、薄く目を開けた残忍は、右腕に寄り添っている熱源に手を伸ばした。滑らかで柔らかな、人間の皮膚があった。骨の形からして、これは肩か。あれ、いつのまにデリヘル頼んだっけ、と訝りつつも、本能に身を委ねた。

 さらりとした髪とまろやかな曲線の頬、華奢な首筋から鎖骨、背中から腰、それから尻と太股、と触れていくにつれて心の棘が抜けていく。女の肌に吸い付くと、小さな声が漏れた。

「……っ」

「騒ぐなよ」

 野々村に邪魔をされたら気分が台無しだ。残忍は女の唇を探り出すと、塞いでやった。だが、舌を入れ返してくる気配がなかったので、顎を押して歯を開かせてから吸い出し、粘膜を重ねた。

 まともなセックスをしたのは久し振りだった。



 ふと気付くと、夜が明けていた。

 床に脱ぎ捨てたズボンからはみ出しているスマートフォンを拾い、時刻を確かめると、出発時間まではまだ余裕があった。朝飯喰ってから軽く筋トレしてそれから荷造りして、と考えながら身を起こし、残忍はマスクを剥いだ。

「…………いい夢だったなぁ」

 あんなに都合のいい出来事が、現実であるはずがない。下半身の怠さは、試合の疲れが出たせいだろう。ズボンだって、無意識に脱いだだけであって。などと考えながらユニットバスに入り、用を足そうとしたところで我に返った。

「うおっ!?」

 使用済みのコンドームが被さっている。

「おお、おぉ……?」

 では、あれは夢ではなかったのか。忍は己の体液が詰まった薄いゴムを眺めていたが、半笑いになり、口を縛ってからゴミ箱に突っ込んだ。物的証拠があるなら現実だが、しかし、男の願望を煮詰めたかのような出来事はやはり夢だとしか。いや、でも、けれど。

「――――ッシャアオラアアアアア!」

 不意に、悩んでいるのが面倒臭くなった。武藏原のこともアギラとのことも、ついでに謎の女のことも頭から振り払うために雄叫びを挙げてから、忍はシャワーを浴びた。

 どうせ考え込むなら、建設的なことを考えよう。次の試合で勝つためにも、アギラを見返してやるためにも、武藏原の気持ちを無駄にしないためにも。地方巡業で勝てなくとも、秋季大会であるハードコア・マニアックスに焦点を合わせて体を鍛え直そう。

 残酷上等。

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