昔の痛みの忘れ方
第4話 昔の痛みの忘れ方1
ホースの先をきゅっと握って蛇口をひねると、水しぶきが綺麗に弧を描いて道を濡らしていく。本来ならば今は通学通勤時間のピークではあるが、人をみっちりと乗せた通学バスが通り過ぎるばかりで、この時間帯は滅多に人が歩く事はない。
この辺りの区画はいわゆる富裕層ばかりが住まう住宅街であり、車がなければ移動が不自由である。店だってこの風変わりな店が一軒あるだけで、スーパーもなければコンビニだってない。当然のように個人商店も見当たらないのだから、この不自由な坂を下って買い物するしかないのである。この時間帯でも見当たるのは犬の散歩をしている人だけで、一目見ても犬種の分からないようなふかふかとした犬が通り過ぎていくのは、何だかとても暑そうで、毛を刈ってあげた方が涼しいんじゃないかしら、といらないお節介が頭の中に浮かぶのは仕方がない。
「おはよう、ゆゆ君。今日も忙しいね」
「あら、おはようございます、教授!」
と、ゆゆに声をかける物珍しい人が現れたのに、慌ててゆゆは蛇口を締めた。ホースからはまだポロリと水が零れ、道を濡らした。
少しくたびれた背広に杖、使い続けてすっかりと傷がついてしまった革鞄を携えた男性は、被っている帽子をひょいと取ってゆゆに挨拶してくれた。
灰色の髪に灰色の目、たっぷりと蓄えたヒゲもまた灰色で、ナイスミドルと言うのはこう言う人の事を言うのだろうと言う男性であった。スーツも鞄もすっかりとくたびれてしまっているのに履いている革靴だけがピカピカしているので、彼をくたびれた老人にしてしまわないのである。杖をついているにも関わらず、背筋もピンとしている様が、より一層若い頃は美丈夫であった事を物語っている。
ゆゆは笑顔で教授に答える。
「今日も大学ですか?」
「ああ、そうだね。年々生徒が減っていくのが世知辛いがね」
「少子化ですものね」
「悲しい話だね……私は無駄な事を「無駄」と切り捨てる考え方は好きではなくてね。無駄な事を無駄じゃないと教えるのが学問ではないかね。無駄な事を無駄じゃないと説き続けた結果、世があると言うのに嘆かわしいよ……」
「でも私、教授の話大好きですよ?」
「うちの教え子達も、君みたいに生きられたら素敵だね」
教授は星占術を学術的に研究しているのだが、昨今は「就活最優先」「就職に強いゼミ」と言うものが持てはやされてるがため、ゼミにもいまいち人が集まらないらしい。授業自体は単位目的の学生達が集まるらしいが、これも必修ではなく選択科目なものだから、真面目に勉強しようとする学生はやはり少ないと言う。
しかしゆゆは魔法使いである。世の中に無駄なものは一つもないと言う考え方なのだから、自然と教授の授業を楽しいと思えるだけの心持ちが存在している。
「さて……今日も授業に行って来るよ。またお茶に伺うよ」
「お待ちしていますわ」
そう言いながら教授は再び帽子を軽く脱いで挨拶すると、石畳をカツリカツリと小気味いい足音を立てて去っていった。
この坂を少し歩いた先に大学が存在する。通学バスでの通学通勤が多い中、教授のようにこの異国情緒溢れる外観に溶け込みながら歩いて通学する人は貴重ではあった。
ゆゆは少しだけ微笑みながら、教授にお辞儀をしつつ、再び朝の水撒きに精を出し始めた。
自分の店にはあまり人が来ない方が嬉しいけれど、お客様が来るのはやっぱり嬉しい。とても矛盾する事を思いながら、店のプレートをくるりと回転させた。
【CLOSE】から【OPEN】に。
****
店はいつもワックスがかかってピカピカとしたフローリングに、白い棚には雑貨が並べられている。時折近所の学校の生徒や学生がやってきて覗く事もあるが、この店には用事がある人以外は滅多に気付かないよう結界が張られている。
店の外に出ている時にゆゆに出会うならいざ知らず、中に入っている時に店にわざわざゆゆに会いに来るような物好きは、少なくともゆゆは教授以外に知らない。
わざわざそんな結界を張っているのは他でもなく、この店にすがらないといけない人達は皆心に繊細な棘が刺さっている。それらを細心の注意を払ってピンセットで抜くのがゆゆの仕事であり、接客中に邪魔が入って、手元が狂って棘を抜くどころか致命傷にまで至らしめないように、人避けをしていると言う次第であった。
今日は一体どう言った飲み物を作ろうか、と考える。
ドライジンジャーにシナモン、カルダモン、ブラックペッパーにナツメグ。これらを温めたミルクに紅茶の葉と一緒に入れて、ことことと煮出す。
夏でも冷房がきつい場所にずっといたら温かい物が欲しくなる。網でしっかりと越したそれに砂糖をたっぷりと溶かせば特製チャイの完成だ。ミルクにくるまったスパイスの優しい香りに自然とゆゆが目尻を緩ませた時。
カランカランとドアベルが鳴るのに気が付いた。
今日は随分と早い。窓の向こうをちらりと見ると、大きな黒いベンツが停まっているのが見えた。
「はーい」
ゆゆがカップに出来立てのチャイを注いでそれを持って出かけると、入ってきた女性は随分と世間から離れている印象があった。
化粧一つを取って見てみても流行から大きく外れて、ただ下地を塗ってファンデーションを塗ってルージュを引いただけのように見える。服もシンプルが過ぎる水色のワンピースで、飾りは胸元を彩る青い唐草のような刺繍のみだ。
女性とゆゆの目が合うと、女性はきょとんとした顔をしてみせた。
「まあ……店長さんはいらっしゃる?」
「いらっしゃいませ。店長は私です」
「あら……子供?」
動作一つ一つがスローモーションで、外の車と言い、彼女の服と言い、この辺りに住んでいる富裕層の人なんだろうか、とゆゆは思った。お金持ちは時折とても深い場所を抉る棘を隠し持っているものだからと、ゆゆは密かに気を鎮めつつ、笑みを深めた。
「よろしかったらこちらの席へどうぞ」
「ありがとうございます」
「チャイになりますが、よろしかったらどうぞ」
「まあ……ありがとうございます」
カップを取る手は洗練されていて、カタリとも音を立てずにカップを手にすれば、チャイをすする音すらも立てずにゆっくりとチャイを飲み始めた。
年は二十代前半、あまりにも世間擦れしていない雰囲気から察して、学校を卒業してからは実家住まいと言った所だろうか。そうあまりじろじろと見ない程度に見ながらゆゆが判断をしていると、ゆっくりとチャイを飲んでいた女性がようやく顔を上げる。
ゆゆは微笑んだまま、女性に声をかける。
「今日は一体どうなさいましたか?」
「ここは、魔法を使う店だとお伺いしました」
「最近は噂でそんな事を言う人もいらっしゃいますね」
ゆゆはそうやんわりと答えると、女性は長いまつ毛を少しだけ伏せる。やはり彼女もまた、棘が刺さったままの人なのだろうとゆゆは少しだけ目を細めた。
女性はぽつりぽつりとゆゆに呟く。
「あの、忘れたい物をどんな物でも忘れさせられると、そう伺いました」
「はい。できます」
「……どんな物でもって言うと、トラウマでも、でしょうか?」
「状況に寄りますね」
女性はまつ毛を再び伏せた。長いまつ毛は緩くカーブがかかっている。つけまつ毛ではないと言う証拠に、つけまつ毛にしては彼女のまつ毛は短いのだ。つけまつ毛は漫画のように嘘くさい程に長い。
しばらく女性は目を伏せた後、ようやくゆゆと目を合わせた。
「……私、もうすぐ結婚するんです。結婚する前の事を、どうしても忘れたいんです」
富裕層の家だとありがちな話である。
娘が適齢期になったら、いい縁談を選んで嫁がせると言う。ゆゆはチャイを勧めつつじっと女性を見る。
「よろしかったらお聞かせ下さい。あなたの忘れたいと言う話を。魔法を使うか否かは、それで判断させて下さいませ」
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