忘却魔法使いゆゆ
石田空
初恋の忘れ方
第1話 初恋の忘れ方1
アスファルトの照り返しがじりじりと肌を焼く。何とか歩く道は急斜面で、乗ってきていた自転車でも、競輪選手でもない限りは厳しい事この上ない道だ。仕方がないから押して歩くしかないのだが、それが余計に体力を消耗させていくような気がした。
夏のせいなのか、急斜面のせいなのか、道をひたすら歩いているのは自分以外にいない。バスも確か通っていたはずだが、バスの時間から外れているんだろうか。斜めになって立っているバス停の時刻表の近くには誰一人として立ってはいなかった。
人っ子一人歩いていない一人で歩くには広過ぎる道を歩いていくと、通り過ぎる家通り過ぎる家が、変なオブジェが立っていたり、だだっ広い門が立っていたり、家の周りの植木に水をやる黒い服を着た人がいたり。この辺りはいわゆるセレブ街と言う奴らしい。なるほど、金持ちだったら自家用車で楽々とこの急斜面を往復できるのだから、こんな山の中で生活していても何の問題もないだろう。
蝉の鳴き声も、もしクーラーの効いている部屋でだったら暢気にアイスを食べつつ聞き流せるのに、汗をダラダラとかきながら自転車を押している現状だ。その命の終わりを告げる鳴き声すらも、自分を苛立たせる要因となってしまう訳だ。
本当に。
本当にこれでネットの情報が嘘だったら、何のためにこんな所に来たのか分からない。額に汗で張り付く前髪をどうにかかき分けると、すっかりと前髪は湿り、汗がボトボトと地面を濡らした。
しばらく自転車をひたすら押していくと、アスファルトではなく傾斜の道に一つ一つタイルが敷き詰められた箇所へと出る。本当に金がかかって無駄な道だな、市民の税金を一体何に使ってるんだろうと、普段は政治に対して何の文句も付けないのに、こうして我が身に降りかかってきたら出るものである。
何が無駄かと言うと、雨が降るとつるつると滑ってとてもじゃないが歩けなくなるのだ。当然革靴やヒールでなんか歩ける訳もなく、こけたら坂道をころころと転がっていくなんてマンガみたいな事になりかねない。自然、この道は景観重視で作られ、歩き安さや利便は二の次だと言う訳だ。
そして白いレーンは見え、白い建物が見えてくる。
「おっ」
思わず声を上げた。
ネット情報によると、坂道から海が見え、山が見える場所に白い建物があり、そこが問題の店だと言う。
散々頭の中で文句や皮肉を垂れ流していたそこに、思わず自転車を止めてみる。空は夏らしい入道雲のグラデーションができた、ペンキを塗りたくったような青い色。その中このタイルの敷き詰められた道が見え、その向こうには青い海が見える。点のような船が浮かんでいるのが見え、黒点みたいな海鳥が羽ばたいているのが見え、水面は夏の強い日差しを浴びて光っている。
そして。
白い店はこの傾斜にひっそりと建っていた。
さっきまで散々見てきた、金持ちみたいな圧迫感や存在感はないものの、玄関に飾られた植木は夏の日差しに負けてへしゃげる事もなくシャッキリと姿勢良くたたずみ、白いベンチに座っている白いテディベアは【OPEN】の札を大事に抱き締めている。
ここだ。ここで間違いない。
自転車を店の軒下に鍵をつけて立てると、恐る恐る店のドアノブを握った。もっとギィーとか、キィーとか、耳を引っかくような音を立てるのかと思っていたがそんな事もなく、シャランシャランと言うガラスのレーンが音を奏でて開いた。
風がするりと店の中に滑り込んだと思って中を見ると、そこには揺り椅子があった。
この中は空調が効いているのだろうか、あれだけ外は暑かったはずなのに、店の中に入った瞬間、暑さは忘れてしまった。
床板はもっとかびたようなギチギチと鳴るような物ではなく、しっかりとワックスを塗り込んで磨きあげたフローリングであった。棚に並んでいる物は雑貨。女の子がいかにも喜ぶようなそれぞれ表情の違うテディーベアに、掌サイズの鑑賞植物。瓶詰めも並んでいるが、ガラス玉がめっぱいで、これはパワーストーンなんだろうか。
呆然としながら店をうろうろしていると、きついミントの香りがし、思わず「うっ」と呻く。
「たっぷりの砂糖と一緒に煮出したミントティーだけれど、ミントはお嫌い?」
甲高い声で、思わずはっとなる。
揺り椅子を揺らしながら座っているのは、真っ黒なローブにとんがり帽子の老婆……ではなかった。
真っ白なノースリーブのワンピースは端の方にオプションとしてレースがある位の清楚なもの。履いているのは皮のサンダルで、皮で作ったハイビスカスの花が足下を彩っていた。
真っ白な肌は日本人離れしていて、外国人の血でも入っているんじゃないだろうかと思ってしまう。髪は絹糸のように細くてツヤツヤとしたブロンドであり、目の色は先程眺めた棚のパワーストーンをはめ込んだんじゃないかと言う位、不思議な色合いをしていた。最初はエメラルドグリーンに見えていたけれど、サファイヤブルーにも見えるし、時折入り込む色は金色にも見え、一体彼女は何人なんだろうかと首を傾げざるを得ない。
そして何より。
「……俺と同い年?」
彼女は店を構えているにしてはあまりにも幼かった。自分と同じ中学生? でも彼女は学校では見た事がない。ならよその学校? 疑問は次から次へと浮かんでは消えた。
「いらっしゃい。うちの店に入られたと言う事は、あなたは願いをお持ちなのね」
「いや……その……はい」
ただ一言だけ言うのなら。
彼女は、ただただ「可愛かった」。同じ学校で同じクラスだったら間違いなく話しかけるのに勇気がいる部類だし、自分は学校での女子の評判はすこぶる悪い事位は知っている。中学卒業式で初めて話して別れる系統の可愛い子だと思った。
自分の葛藤を知ってか知らずか、彼女は「ちょっと待ってちょうだいね」と言いながら、奥からずるずると椅子を持ってきてくれて、カウンターに置いてくれた。そしてまた何か飲み物を注いでくれた。これからは先程呻き声を上げてしまったミントのきつい匂いではなく、ふくよかなレモンの薫りがする。
「自転車で来たのね。この辺り、学校の季節でもないとバスに誰もいないものだからバスも時刻通りに来なくっていい加減な所でね。ごめんなさいね、苦労させちゃって」
「い、いえ……」
「ここまで来るの、暑かったでしょう? これは特製レモネード。疲れが取れるわよ」
彼女の気遣った言葉は、とてもじゃないが自分と同い年には思えなかった。しかし、今自分に飲み物を勧めてくれる女の子は、紛れもなく可愛かったので、細かいツッコミを入れるのはやめようと思った。
コクン、と飲むともっと酸っぱいと思っていたのに、程良い酸味と甘酸っぱさ、そしてやっぱりふくよかな匂いが鼻を抜けていって、かなり美味しい飲み物であった。何よりもさっきまでさんざん熱かった身体の火照りが取れたような気がした。
「美味しい……です」
「そおう? よかった!」
彼女がパフンと手を叩いて喜ぶ。
窓際には白いレースのカーテンがかけてあり、そこ越しで外を眺めるが、あいにくこの辺りは出歩いている人が本当にいない。彼女の言う通り、わざわざ「出歩く」人間がこの辺りにはいないのだろうと思った。
「それで、うちには一体何をしに来たの?」
「ネッ……」
「ねっ?」
「ネット情報を、見ました」
「あらあら……最近皆本当にインターネットなのね」
彼女がぱちぱちと瞬きをするのは、どうも自分以外にもネット情報を頼りに店を突き止めた人間がいたらしい。彼女は慣れきった態度をしながら、自分のミントティーに軽く口付ける。とろりと甘い匂いがミントのきつい匂いと一緒にかすめるのは、彼女の言った通り砂糖と一緒にとろとろに煮出したせいなんだろうか。
そんな事を思いつつも、言葉を重ねる。
「山の上には、何でも願いを叶える店があると」
「あら、私誰にでも言ってるけれど」
彼女は頬杖をついて、コテリと首を傾げた。そしてピンと人差し指を上げる。
「私が使える魔法は一つだけよ。何でも願いを叶えるなんて言う事は、できないわ」
「へっ……!?」
思わず間抜けな言葉を吐き出したが、次に何を続ければ間抜けなだけで終わらないのかが分からなかった。魔法が使える……確かにそう言った。
ネットの眉唾情報、割と当たってるじゃねえか。思わず見た事もない口コミ情報を書いたネットユーザーに感謝しつつ、言葉を続ける。
「じゃあ、あなたは本当に魔女……」
「魔女と言うか、魔法使いかしらね? でも……この店には私じゃなかったら願いを叶えられない人しか入ってこれないから」
そう言われてズキリ。と胸が軋んだ。
彼女はすとん、ともう片方の手も頬杖をつき、二つの手の甲に自分の顎を乗せてみた。
「あなたの願いは一体何かしら? 私じゃなかったら叶えられない願いだと言うのなら、話してちょうだい。
ただし、一つだけ。これはどうしても言っておかないといけない事だから。私の叶えた願いは、絶対にクーリングオフはできないわ。ドミノって一つのピースを外したら、全部前倒しになって倒れてしまう。もう一度ピースを付けたからと言って、一度倒れてしまったドミノを元に戻す事は絶対にできない。この事だけは覚えておいて」
思わず呆気に取られてしまった。まるで心の中を全部読み取られてしまったかのように、彼女の言葉は的確に自分の「願い」を言い当てている。
でも……。
ここに来たのは、自分だと場違いな店で、ただレモネードを飲みに来たわけではない。レモネードに浮かべたミントがぷかぷかと浮かんでいるのを眺めながら、意を決して口を開いた。
「……俺の事を」
「はい」
「特定の人に忘れさせるって言う事はできるのか?」
「答えだけだったら、できます。でもさっきも言ったでしょう? 私の魔法はクーリングオフできないから、使ったら最後、元には戻らないの。
……本当に私が願いを叶えるべきかどうか、話を聞かせて下さる?」
まどろっこしいとは思ったものの、これだけ説明受けているのに、何も言わないのは卑怯な話だ。俺はゆっくりと、口を開いた──。
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