ののみちゃん・フライ・ハイ

 春なんですよ。

 ののみちゃん・フライ・ハイ。

 そういう時期なんですから。


 ののみちゃんは衣装箪笥の上に立っているんです。

 足を肩幅に開き、腰を軽く落として、後ろに尻を突き出し、目に見えない対戦相手に向かって「どこからでもかかって来い」と両手を広げているのです。


 その体は左右に規則正しく揺れているのです。

 ダウンタウンDXを観ている人ならば、その揺れのリズムが遠藤斉唱の「サンバのリズムを知ってるかい?」のリズムと完全に一致していると気がついたでしょう。

 ホホホーイホホホーイまではいきません。

 「サンバのリズムを知ってるかい?」をリピートです。


 イトーヨーカドーで買った3足500円の靴下がミルクパンみたいに丸くなって衣装箪笥の側に落ちています。脱いでから時間が経ちましたのでののみちゃんの体温は失われていますが、臭さは健在です。

 ののみちゃんはウェスト部分にゴムの入ったスカートを履き、ブランケット素材でできたトレーナーを着ています。

 全体的に冷えた筑前煮みたいな色味です。

 そんなののみちゃんの顔はミル・マスカラスモデルのマスクですっぽりと覆われています。

 この静かな部屋でマスクだけが色鮮やかです。


 ののみちゃんは今年で57歳になりました。還暦まであと3年です。

 世間一般の57歳は眠っているお母さんの部屋にこっそりと忍び込んで、ミル・マスカラス風のマスクをつけて、衣装箪笥の上で体を遠藤斉唱のリズムで揺らしたりはしません。

 少なくとも大多数の57歳はそんなことはしません。これが60代半ばを過ぎるとまた話は変わってきますけれども。

 ミル・マスカラス風マスクからのぞく、ののみちゃんの目は介護ベッドで寝ているお母さんに釘付けです。

 お母さんの体は薄手の布団に覆われています。

 その体はゆっくり、ゆっくり、動いています。

 お母さんが自分で動いているのではありません。

 介護ベッドのマットが右に傾いたり、左に傾いたりしているのです。

 お母さんの体に床ずれができないように。

 それはとても素晴らしい介護ベッドです。

 ベッドの高さも、マットの角度も調整できますし、付属のリストバンドは常にお母さんの血圧、脈拍、体温などを計測していて、異常があればすぐに近隣の病院ないし、登録済みのメールアドレスに連絡が行くようになっています。

 10年前にくも膜下出血がお母さんの脳みそを殴りつけて以来、この介護ベッドはお母さんの生活を支えつつ、ののみちゃんのお財布から月々3,468円を吸い取ってゆくのです。

 年間総額416,160円。プラス電気代。

 けれどもののみちゃんにミル・マスカラスのマスクをかぶらせるに至ったのは、そんなチンケなお金が原因ではないのです。

 

 ののみちゃんのお姉ちゃんはとても困ったお姉ちゃんでした。

 ののみちゃんより6歳年上で、ののみちゃんが物心つく頃には反抗期の真っ只中でした。

 定番の「お父さんの服と一緒に私の服を洗わないで」「私のヘアブラシを使わないで」「私のシャンプーを使わないで」から始まり、「自分の部屋が欲しい」「友達の家に泊まってるから土日は帰らない」「朝ごはんいらない」「お母さんのお弁当はダサいからいらない」「お母さんと買い物に行くのいやだからお金だけ頂戴」になり、最終的には「こんな家、とっとと出てってやるから! バーカ!」で締めくくります。

 ののみちゃんのお姉ちゃんが部屋に閉じこもってしまったり、あるいは化粧をして夜中に出かけてしまうたびに、ののみちゃんのお母さんはののみちゃんにこう言いました。


「ののみちゃんは本当に良い子ね。お姉ちゃんみたいになっちゃダメよ。ああいう子は大人になったら酷い目にあうんだからね」

「ののみちゃんは手がかからないけど、お姉ちゃんは本当にどうしょうもない」

「ののみちゃんがいてくれてよかった」


 ののみちゃんはそう言われて悪い気はしませんでした。

 だってののみちゃんのお姉ちゃんは人気者でした。

 学校の先生達はののみちゃんに「お姉ちゃんには手を焼かされたよ」と嬉しそうに言いました。

 そしてののみちゃんがお姉ちゃんとは苗字以外には共通点がないことを悟ると途端に石ころを見る目でののみちゃんを見るようになるのです。

 全然知らない学校の、全然知らない子供達に「渡部先輩の妹さんでしょ? これ、先輩に渡しといてくれる?」とチョコレートやぬいぐるみやラブレターを渡されることもありました。

 全然知らない学校の、全然知らない子供達がののみちゃんをチラチラ見ながら「本当にアレなの?」「苗字が同じだけじゃないの?」「お前、聞いてこいよ」「じゃんけんで決めれば良いだろ」とブツブツ言うのも度々ありました。

 ののみちゃんのお姉ちゃんを知っている人は、ののみちゃんにがっかりするのが常でした。

 ののみちゃんはATARIで、ののみちゃんのお姉ちゃんはX-Boxでした。シーローグリーンの歌みたいに。ナウベイベーベイベーベイベーワイワドユワナワナハトミビソバーッ(ソーバッソーバッソーバッ)。


 ののみちゃんの事をののみちゃんのお姉ちゃんよりも上に扱ってくれるのはお母さんとお父さんだけだったのです。

 ですからののみちゃんは良い子であり続けました。

 お母さんのお弁当を美味しく食べ、家事を手伝い、夕食までには家に帰り、お父さんが商店街で買ってくる変な服も喜んで着ました。

 お父さんの下着と一緒に自分の下着が選択されても平気でしたし、ヘアブラシも自分の物を持ちませんでしたし、シャンプーも家族共有の(お姉ちゃんは除きます)物を使いましたし、お友達の家にお泊りにもいきませんでした。


 ののみちゃんは安全な子でした。

 手のかからない子です。良い子です。

 

 それもののみちゃんが大学生になる頃には終わってしまいました。

 今思えば短い春でした。

 でも春はいつだって短いものなのです。


 お姉ちゃんは高校を卒業すると同時に家を出て、ちょっと良い感じのアンティーク家具屋で働き始めました。

 家を出るとお姉ちゃんが決めた時、お父さんもお母さんもいい顔をしませんでした。


「家賃がバカにならない」

「実家の近くで働けばいいじゃないか」

「ののみちゃんと違って本当にあんたは計画性がない」


 お父さんとお母さんはやいのやいの言いましたが、お姉ちゃんはもう住む場所を決めていましたし、当分の生活費用も貯めていたのです。

 こうしてお姉ちゃんは家を出て行きました。


 お父さんとお母さんはお姉ちゃんがいなくなってからしばらくの間はいつも通りお姉ちゃんを「ワガママでどうしょうもないバカ娘」だと言っていましたが、お姉ちゃんがどうやら本当に家に帰ってくる気がないとわかってくると、段ボール箱に野菜やらお米やら親戚からもらった詰め合わせのお菓子やらを入れて送るようになりました。

 時々は電話をかけて楽しげにお喋りするようにもなりました。

 お姉ちゃんが家にいた頃よりも、お父さんもお母さんもお姉ちゃんが好きになったようでした。

 ののみちゃんの大学生活には関心がなくなってしまったようでした。


 そしてある朝、お母さんはののみちゃんの姿をしげしげと眺めました。

 その目つきときたら。

 押入れの奥に隠れていた古い服を見る目つきでした。

 「こんな服、いつ買ったのかしら? これまだ着れるかしら? 無理かしら。でももったいないから何か使い道探さなきゃね。雑巾なんかどうかしら?」

 そんな目でした。


「ののみちゃんももう大学生なんだから、ちょっとお洒落してみたらどうなの? お姉ちゃんみたいに」

 お父さんが続けました。

「お前もバイトとかしてみたらどうだ? ずっとこの家にいるわけでもないんだし。そんなんじゃいつまでたっても彼氏ができないぞ」

 その後、2人の関心は朝ドラに移ってしまいました。

 2人とも、自分達がののみちゃんに何をしたのかまるでわかっていませんでした。


 ののみちゃんは呆然と立ち尽くしていました。

 それはサッカーの試合中に突然、キックボクシングが始まったようなものでしたし−−机の引き出しに入れられていた封筒を開けるとそこには「ののみ、タイキック」の文字が! 的な−−国語のテストに因数分解の問題が出たようなものでした。


「オシャレすんなって言ったの、あんた達じゃん。彼氏作るなって言ったの、あんた達じゃん」


 ののみちゃんのお姉ちゃんだったらそう言ったでしょうが、ののみちゃんにはそれができませんでした。

 だってののみちゃんのお姉ちゃんみたいな行動は「悪いこと」ですから。

 ずっと、そう言いつけられてきたのですから。

 ののみちゃんにできたのは何も聞かなかったふりをして、トーストにバターを塗ることだけでした。


 時間だけは過ぎて行きました。

 みんなが前に進んで行きます。

 高校時代はののみちゃんと同じような冴えないぼんやりした子だったルミッチやマヤボンや星ちゃんは綺麗なお姉さんになって、そしてお嫁に行きました。


 お姉ちゃんは年に何回か帰ってきて、やがて爽やかな男の人を連れてきて、そして結婚して、子供ができて、やがて爽やか君の仕事の都合で九州に行きました。


 ののみちゃんはずっとののみちゃんでした。

 家の側の会社に行き、家の側のショッピングモールで買い物をし、東京にはあまり出かけません。

 電話の着信履歴は親のみです。

 友達とは繋がってはいますが、ののみちゃんが「大事な友達」だと思っていた相手にとって、自分が「大勢いる友達の1人」でしかないというのを思い知るのはののみちゃんには酷でした。


 「このままではいけない」

 ののみちゃんはそう考えるようになりました。

 ののみちゃんはその時32歳。

 「まだなんとかなる」

 ののみちゃんはそう感じました。

 全てを変えなくてはいけないという思いつきは、ののみちゃんを突き動かしました。

 ののみちゃんは今まで行ったことのないオシャレな美容室に行き、思い切って髪を切りました。

 ののみちゃんは初めてケサランパサランに行って、まつげエクステを試してみました。

 銀座に行きました。可愛い服を買いましたし、可愛い靴も買いました。


 ののみちゃんは思いました。

「なんとかなるかもしれない」

 ののみちゃんの言う「なんとか」というのは彼氏が欲しいとか、友達が欲しいとかではありません。

 もっと切実なものです。

 今日とは違う明日を歩くことができるのではないかという希望です。

 ののみちゃんは生まれてはじめて、自分で自分の人生のハンドルを握ろうとしたのです。

 と言うか、ハンドルがあることに気がついたのです。わーい。このハンドル、ずっごい動くー。すっごーい。わーい。


 その時、ののみちゃんの人生はキラキラハイパーシャイニングスーパーウルトラアルティメットライトニングダイアモンドアンストッパブルアメージングでした。

 しかし初めてのドライブでは事故は起きるものなのです。


 ののみちゃん、クラッシュ。


 ののみちゃんはいつもの時間に家に帰りました。

 お父さんはお仕事でしたし、お母さんは買い物でしたので、お家はお墓みたいに静かでした。

 ののみちゃんは5種類のおしっこが染み込んだワンピースを誰にも見られずに捨てることができました。

 ののみちゃんはお風呂に入り、体を洗い、お風呂から出て、歯と舌を歯磨きで擦り、イソジンでウガイをし、もう一度お風呂に入り、体を洗い、そのままパジャマに着替えてベッドに倒れました。

 以降、ののみちゃんは筑前煮として生きることになります。


 妊娠はしていませんでした。


 ののみちゃんがお母さんにソレについて打ち明けたのはソレから3ヶ月後のことでした。


 はいはーい。

 その時のののみちゃんのお母さんのモノマネをしまーす。


「どうしてすぐに警察に行かなかったの! あんた、あんた、なんてバカなの! おとーさん! おとーさん! ちょっと来てちょうだい!」


 はいはーい。

 警察に行ってからの、ののみちゃんのお母さんのモノマネをしまーす。


 「もう本当にこの子ったらバカで、本当にすいません、今更ご迷惑ですよね。だってね、3ヶ月も、3ヶ月も前ですから。どうしてすぐ来なかったんだか! この子が言ってくれればよかったんですけど、この子ったらずっと黙ってたもんで。3ヶ月も。すぐ来てたらねぇ! すぐに来てたらなんとかなったかもしれないけど、本当にこの子は。夜中にね、女の子がね、1人で出かけたりするからこんなことになるんですよ。犯人は5人組で、場所はほら、あの道ですよ。ほら、うちからずっと喫茶店の方に歩いていくと市役所があるでしょう。地図、地図ないの? 地図。ほら、ののみちゃん。どこでされたのかちゃんと刑事さんにお話しなさい。あんたがしっかりしないと犯人捕まらないでしょ。ほら、しっかりしなさい。自分のことでしょ。どこなの。場所くらい覚えてるでしょ。ここなの? ここ? それともここ? 黙ってたらわからないでしょ! 3ヶ月も黙ってるから! だからわかんなくなるのよ! 本当にあんたは昔からぼーっとしてるんだから! お姉ちゃんはあんなにしっかりしてるのに! 真夜中ならわかるけど、ほとんど昼間じゃない! どんだけぼーっとしてたらあんな場所で襲われるのよ! どうせまたぼーっとしてたんでしょ! 犯人捕まえたいんでしょ! 辛くてもはっきりしなきゃダメでしょ! ねぇ、刑事さん、犯人捕まえるにはしっかりしなきゃダメですよね? ねぇ? だって3ヶ月も前の話なんだから! ほらほら、泣かないの。ののみちゃん。お母さんだってののみちゃんをそんな目に合わせた連中は許せないよ! ののみちゃんは悪くない。ほーら、全然悪くないの。だから泣かないで。他の人の迷惑でしょう。ほら、どんな相手だったかを刑事さんにお話しして。刑事さんがなんとかしてくれるから。だってねぇ、刑事さん、ののみちゃんは処女だったんですよ。処女だったんです。それなのにこんな目に合うなんて。ねぇ、大事なことですからきちんと書いてくださいね。娘はバージンだったんです。これって犯人が捕まって、裁判になった時に有利ですよね? ね? 終身刑とかにできるんじゃないですか? だって娘はこれから辛い人生を送らなきゃいけないし、もう元には戻れないんですから。もちろん親としてはあんなことがあっても大事な娘ですが、世間がね。世間がそうは思わないでしょう。トラウマとかもあるんでしょ? これから? 私も主人ももう年なんですよ。幸せな老後が台無しになったんです。娘の人生も台無しです。取り返しがつかないんです。だって、処女だったのに。もうまともな女じゃなくなっちゃったじゃないですか! ちょっと! ののみちゃん! 吐くなら吐くって先に言いなさい! 刑事さんに迷惑でしょう!」


 それから2週間後に犯人は捕まったんです。

 ののみちゃんの証言が役に立ったわけではありません。

 犯人達の1人が犯行の写真などが丸ごと残った8mmハンディカムを落とし、たまたまそれを拾った小学生のヒロが「拾った! 中身見ちゃおうぜ!」と教室に持ち込み、そして……と言うわけでした。


 はいはーい。

 犯人達の情報を知ったののみちゃんのお父さんのモノマネをしまーす。


 「中学生相手に……お前の方が大きいじゃないか……」


 あーあ!


 ののみちゃんが東方不敗マスター・アジアだったらなぁ!

 ののみちゃんのお父さんもお母さんも丸めてポイですよ!

 あーあ!

 ののみちゃんが東方不敗マスター・アジアだったらなぁ!

 ののみちゃんが東方不敗マスター・アジアだったらなぁ!

 そうだったらどんなに良かったことでしょう!

 ののみちゃんのお父さんもお母さんも丸めてポイですよ!


 でも思い出して欲しいんです。

 ののみちゃんはお父さんとお母さんに頭をなでなでされながら「いい子いい子」されて育ったんです。

 ののみちゃんは「いい子いい子」されるためにはお父さんとお母さんの言う通りにすればいいんだっていう世界でずっと生きてきたんです。

 魂に染み付いているのです。

「お父さんとお母さんの言う通りにしていればいい子いい子してもらえる」


 ののみちゃんは一度、そこから飛び出そうとしてクラッシュしてしまいましたので、より熱心にお父さんとお母さんの言うことを聞くようになりました。

 お父さんとお母さんの言うことは絶対。

 お父さんとお母さんの言うことは真理。

 お父さんとお母さんの言うことは事実。

 お父さんとお母さんだけがののみちゃんをいい子いい子してくれる存在。

 ののみちゃんの宇宙は、そういった法則の元で膨張を始めたのです。

 今更、彼女に何ができます?

 もちろん。

 何もできませんとも。

 いい子のののみちゃんとして生きる以外に。


 ののみちゃんはそうして歳をとりました。

 35、40、45、50、55と。

 歳だけをとりました。

 35、40、45、50、55と。

 いい子の、いい子の、ののみちゃん。

 35、40、45、50、55と。


 ののみちゃんは時々、お風呂の中に体育座りして、顔を膝の間に入れるようにお湯に沈めて、そして叫ぶんです。

 ボゴボゴボゴボゴって空気がお湯を泡立たせます。

 肺が空っぽになったら顔を上げて、息を吸い込んで、また顔をお湯に沈めて、叫ぶんです。


 何を?

 思い通りにならない人生が続くことを?


 いいえ! まさか!

 人生が続くことそのものをです!


 そして遂に、ののみちゃんは聞いてしまったのです。

 バタートーストの美味しい地元の喫茶店ルーブルで。

 遂に、聞いてしまったのです。

 お父さんとお姉ちゃんと義理のお兄ちゃんが同居の話をしているのを。

 打ち解けた様子から、3人はもう何度も何度もののみちゃんに隠れて会っていたようでした。

 3人は喫茶店ルーブルの窓際の「コ」の字型の席に座っていて、ののみちゃんはそこからすこーしだけ離れたカウンター席にいました。

 ののみちゃんの姿はちょうどテーブル席からは観葉植物に阻まれてよく見えないのです。

 3人はののみちゃんには気がついていませんでした。

 そんなにお客さんがいない時間でしたから3人の声はよく響きました。


 はいはーい。

 3人のモノマネをしまーす。


「もしお母さんに万が一のことがあったら、いつでも引っ越してきて平気だからね」

「お前達だって子供達がやっと巣立って、これから夫婦仲良くゆっくりしたいだろうっていうのに、こんな年寄りを背負わせってしまって本当にすまない」

「頭をあげてくださいよ、お義父さん。子供達が全員独立して、僕も花乃も寂しいなって思っていたんですから。豪邸とまではいきませんけど、部屋数だけはたくさんあるので、気にしないでいらっしゃってください」

「そうだよ。お父さん。それに乃々美ももういい年なんだからさ。お父さんの介護まで任せるわけにいかないでしょ。そろそろあの子も自由にさせてあげなくちゃ」

「そうですよ。乃々美さんまだ50代でしょう? 今の50代なんて40代と変わんないんですから。全然1人でもやっていけますよ。乃々美さん、お義母さんの介護で退職するまではヘルパーさんでしょう? 人気職業なんだからすぐに復職できますよ。乃々美さんならあと10年は社会で活躍できますって」

「乃々美とお父さんが家を出たらあの家はあのまま賃貸にしてもいいし、駐車場にしてもいいじゃない? そりゃ、お父さんにしてみたら大事な家だからそう簡単には決められないだろけど、ほら、今後ね、お父さんの方もお母さんみたいに何かあるかもしれないじゃない。そうなった時のために色々前もって決めておかないと……ちょっと、お父さん、大丈夫? 泣いてるの?」

「お義父さん、大丈夫ですか? おい、誰か。水を持ってきてくれ」

「花乃、お前は最初の子どもだったから私も母さんも随分お前には厳しくしてしまった。今思えば本当に子どもの時のお前には悪いことをした。馬鹿な話だが、お前が家を出て行ってからようやくお前が私たちに取ってどれだけ大事な存在だったのかに気がついたんだよ。お前は本当に、本当に立派だよ。花乃。お前はいい娘だ」

「お父さん……色々あったけどお父さんとお母さんには感謝してる。私も馬鹿だったの。いつもお父さんとお母さんに心配かけてばかり居たんだから。今からでもこうやって、恩返しできる機会ができてよかったって思ってる」

「そうですよ。お義父さん」

「涙が出そうだ。ありがとう……お前はまともに育ってくれて本当に嬉しいよ。たった一人の自慢の娘だ」


 ののみちゃんは3人がいなくなってから喫茶店を出ました。

 家に帰り、お母さんの世話をし、それからとても体調が悪いと言って部屋に閉じこもりました。

 お父さんが「じゃぁ夕飯は?」と聞いてきましたが、ののみちゃんは答えませんでした。

 お父さんは大げさにため息をついて、部屋のドア越しにも聞こえる声で「お前は何にもやらないんだな! お母さんが可哀想だと思わないのか。あんなに大事に育てたのに、結婚もしないで親に頼って。誰の家に住まわせてもらっていると思っているんだ。俺を餓死させる気か」

 ののみちゃんがお母さんの介護のために仕事を辞めたことも、お母さんが元気だった頃から家事を全部ののみちゃんがやっていたことも、生活費の大多数がののみちゃんの貯金から出されていることも、お父さんは忘れてしまっているようでした。


 ののみちゃんは全身鏡を見つめます。

 疲れた老婆がそこにいます。

 ほとんど57年間全て。

 他の誰でもない、ののみちゃん自身にほったらかしにされてきた「ののみちゃん自身」が、暗く濁った目でののみちゃんを見つめていたのでした。

 ほとんど57年間。

 ののみちゃん、何やってたの。

 ほとんど57年も。

 お父さんお母さんと一緒になって、ののみちゃんをほったらかしにしてきたの? 

 ののみちゃん、本当に何やっちゃってんのよ。


 「ポクエレヌンチャ!?」

 突然聞こえた男の声にののみちゃんは振り返りました。

 するとどうでしょう。

 ののみちゃんの机の上にプロレスラーが立っていたのです。

 顔には覆面。

 下半身はぴったりしたスパッツ。

 編み上げブーツ。

 鍛え上げられた肉体。

 そう。

 間違いなく、それはミル・マスカラスだったのです。


「ポクエレヌンチャ!?」

 もう一度、ミル・マスカラスは言いました。少し怒っていました。

 彼は両腕を胸の前で組み、鼻をつんと上に向け、ののみちゃんを見下ろしています。

 ものすごく偉そうですし、物理的にも上から目線でしたが相手はミル・マスカラスですから仕方がありません。

 その体はつい数秒前まで試合をしていたかのように汗ばみ、湯気が出ています。

「ポクエレヌンチャ!?」

 その声の強さにののみちゃんは身をすくめ、飛び上がります。

「どうしてプロレスラーが部屋に!?」

 当然の疑問でしたが、ミル・マスカラスは「バカなことを聞くな」というように鼻を鳴らしました。

 それから、彼はうっかり見落としていた何かに気がついたような顔をしました。

「エルアジャステエスデッファレンテ!」

 彼は窓に顔を向け、外に浮かぶ月に向かって叫びました。

 するとどうでしょう。

 月が開いたのです。まるで丸窓が内側から外に向かって開け放たれるように。

「うっせぇな、馬鹿野郎が! 怒鳴らなくったって聞こえてるよ、馬鹿野郎が! 落ち着いて一服もできねぇじゃねぇかよ、馬鹿野朗が!」

 頭にタオルを巻きつけた男が月の窓から顔を出しました。まだ火をつけたばかりのタバコを口にくわえています。

 窓から見えるのは所々ペンキのついた白いシャツと、日焼けした首と二の腕まででしたが、ののみちゃんは「絶対に裾の膨らんだ紫色のズボン履いてる」と思いました。

「エルアジャステエスデッファレンテ!」

「あぁ? 馬鹿野郎、間違ってねぇよ!」

「エルアジャステエスデッファレンテ!」

「どなんじゃねぇねぇよ、馬鹿野郎! うっせぇぞ、馬鹿野郎!」

 男は窓から離れ、姿を消しました。

 月の窓の奥にベニヤ板の壁が見えました。

 舞台のセットの裏側のようです。

 男が戻ってきました。折れ曲がった大学ノートを手にしています。

「おい、婆さん!」

 男はののみちゃんに向かって叫びます。

 ミル・マスカラスの出現、開いた月、そこから顔を出したテキ屋風の男。

 次々と訪れる意味のわからないものを前に、ののみちゃんは床にへたり込んでいました。

「婆さん! おい、ババア! ボケてんじゃねぇぞ、テメェだよ!」

 とうとう頭がおかしくなったんだ、とののみちゃんは思いました。

「ババァ! オバァーチャーン! もしもしー? 聞こえますかぁー?」

 男はくわえていたタバコをののみちゃんの方へと投げました。

 タバコは月の下の町へ落ちて消えましたが、数秒後にタバコの落ちたであろう場所の空が赤くなり、煙が上り始めました。

 「あれは図書館の方だな」とののみちゃんは思いました。

 男は窓から身を乗り出して自分の捨てタバコが原因で起こった火事を見下ろし、ゔわっはっはっはっと笑いました。

 傾いていた機嫌はなおったらしく、彼は笑い涙を指で拭いながら先ほどより穏やかに言いました。

「お婆ちゃん、あんたの右手の手のひらにボタンがついてるだろ」

 ののみちゃんは自分の手のひらに目を向けました。

 テレビのリモコンについているようなゴム製のボタンが10個程、規則正しく並んでいました。

 手のひらにボタンが貼り付いているのではなく、埋め込まれているのです。まるで生まれつきののみちゃんの手はこうだったのだと錯覚してしまうような、自然さでした。

「一番右下の青いボタンが字幕ボタンだから。それ押してみ」

 言われるがままののみちゃんは青いボタンを押しました。押した感触までテレビのリモコンと同じでした。しかし特に変わったことはありません。

「アステド・エンテンデール・ミス・パラボラル?」

 ミル・マスカラスの声に顔を上げると、ちょうどミル・マスカラスの胸の前あたりに何かが浮かんでいるのが見えました。しかしそれが何かわかる前に、それらは消えてしまいました。

「アステド・エンテンデール・ミス・パラボラル?」

 今一度ミル・マスカラスが言うと、またそれが現れました。

 それは字幕でした。

『私の言葉がわかるか?』

 ゴシックとも明朝とも違う不思議なフォントが、ミル・マスカラスの胸のあたりに浮いています。

「アステド・エンテンデール・ミス・パラボ」

「字幕じゃ分かり辛いか。お婆ちゃん、隣の黄色いボタン押してみ」

 ののみちゃんは言われるがままに黄色いボタンを押しました。

「ご婦人。私の言葉はわかるかね?」

 ミル・マスカラスは洋画劇場に出てくるアーノルド・シュワルツネッガーの声で喋りました。唇の開閉のタイミングと吹き替えの声のタイミングはぴったりでしたが、よーくみると唇の形と声の音がちょっとずれていました。

「喋った」

「喋るに決まってんだろ。吹き替えボタン押したんだから。おばぁちゃん、脳みそお留守ですかー?」

 ののみちゃんはテキ屋風の男をちょっと不愉快に感じ始めていました。だって、随分と無礼でしたから。

「かーっ! ぺっ!」

 それに下品です。燃えてる図書館に向かってツバを吐いています。

「私はミル・マスカラス。優雅に舞い、苛烈に戦う、右に出る者なしのエアマスター。切れ味は淡麗辛口。メキシコの勇者。真の英雄。そう。あのミル・マスカラスだ」

「よっ! みっちゃん、格好いい!」

 テキ屋が合いの手を挟みます。

 ミル・マスカラスは両手を腰にあてて、胸を反らします。

 両方の胸筋がぴくんぴくんと動きました。どうやらご機嫌なようです。

「どうして、プロレスラーが、部屋に?」

 ののみちゃんはもう一度言いました。

「それに、どうして、月の中から、人が?」

「それはあなたの脳みそが壊れてしまったからだ。ご婦人」

 ミル・マスカラスはなんてことないような口調で、ののみちゃんの立場にしてみれば結構深刻なことを言いました。

「私はあなたの頭の中にある感情が、ミル・マスカラスの姿をして現れたものだ。つまりはこの私は、あなた自身が気がついていないあなたの姿と言える」

 胸筋がまたしてもぴくんぴくん。

「どうしてそんな、私が、そんな」

 覆面レスラーなんかに、とののみちゃんは言いかけました。

「高校生の時、あなたは私が舞うのを観た。深夜のテレビ番組『偉大なプロレスの歴史スペシャル海外編』で。たった一度だけ。ほんの1分だけ。あなたは私が空中で回転するのを観た。重力から解放された私の舞いを観た。あなたの人生の中で、この私こそが、自由に飛ぶ鷹であった。あなたにとって私はヘレン・ケラーにとってのWater。たった一つ、暗闇から抜け出す光への道しるべとなる単語だ。私は戦い方を知っている。だから今、こうして現れたのだ。あなたの心がようやく、戦おうとしているからだ」

「戦う、戦うって?」

 ののみちゃんはうろたえます。

「一体、誰と戦えっていうの? 私、こんなおばあちゃんよ?」

「決まってんだろ、お婆ちゃん。あんたの親とだ」

 月の男が言いました。

「それからあんた自身とだ。こんなの、本当は遅くても大学卒業する頃までに済ませとくもんだぜ」

「親? 親と戦えるわけないでしょう。お母さんは寝たきりだし、お父さんは自分じゃカップ麺だって作れないんだから。私が2人を守ってあげなきゃ」

 月の男がぎゃははははははっと大笑いしました。

 男は新しいタバコに火をつけ、深く吸い込み、それからまた笑いました。

 まだ一口吸っただけのタバコをまた外に投げます。

 今度はスーパーマーケットが燃え始めました。

 男は自分が引き起こした火事を見下ろし、うーひひひひひと笑います。

 この人は悪魔なんじゃないかしら? とののみちゃんは思いました。

「今があなたのラストチャンス。今、戦わなければ、あなたは一度として自分のために立ち上がらなかった者となるのだ。ののみ。戦うのだ。両親と。そして自分と。簡単なことだ。ほんの少し勇気を出して踏み出せばいい。重力から解き放たれるのだ。ののみ」

 ミル・マスカラスはマスクを脱ぎ、それをののみちゃんに手渡しました。

 ミル・マスカラスの素顔は見えません。

 だってミル・マスカラスはマスクの下にさらにマスクをつけていたからです。

 さすがはミル・マスカラス。

 真の戦士は全てにおいて万全です。

「戦うのだ。自由になれ。重力を引き剥がし、華麗に飛ぶのだ」

 ミル・マスカラスはそう言うと、高くジャンプし、空中で膝を抱えてくるっと回転しました。

 そして、最初からそこには何もいなかったように、跡形もなく消えてしまったのです。

 マスクだけがののみちゃんの手の中に残されていました。

「お婆ちゃん、ちょっと高いところから飛んで、エルボーだよ、エルボー」

 月の男はまだそこにいました。

「な? エルボーだよ」

 男は肘で何かを殴るようなそぶりをしてから、月を閉じました。


 あとに残ったのは、大きくて綺麗な満月と、大火事になりつつある街の風景、そして例のマスクです。


 それで。

 ののみちゃんは「どうしようかしら」とおろおろしていました。

 腕や目の下をつねったりして、これが夢ではないことを確かめました。

 マスクを引っ張ったり、裏返したり、戻したり、折ったり、丸めたり、たたんだりしてみました。

 マスクは完全に手の中にありましたし、嗅いでみると少し、いいえ、かなり汗臭かったのです。

 ののみちゃんはまだ迷っていました。

 だってそんな、ねぇ?

 ののみちゃん、一度も自分のために生きたことがないんですから。

 あまりにも自分のために生きたことがないから、逆に自分のためにしか生きてこなかったって言えるくらいなんですから。

 つまりね、自分の人生の責任を全部自分以外に投げていたわけですよ。

 そういうののみちゃんだったわけなんですよ。

 極端から極端へ走っちゃうんですよね。ののみちゃんみたいなタイプは。

 だって中間ってものがわからないから。

 だからやるとなるととことんまでいくわけなんですよ。

 迷っちゃうんですよ。

 中間ってものが、わからないんですから。

 隣の部屋からお父さんの嫌味ったらしいため息と「どうしてこんな子に育ったんだか」という独り言の振りをした声が聞こえてきました。

 独り言ではないんですよね。

 だって、壁はとても薄くて、あれくらいの声で話せば筒抜けなの、この家に住んでいれば誰でもわかるんですから。

 聞かせたいんですよね。ののみちゃんのお父さんは、そういう人なんです。

 それで、ののみちゃんは決めたんです。

 これは「とことん」の方のルートだなって。

 コールアンドレスポンスは「やっちまうかい?」からの「デストロイ!」。

 そういうことなんです。


 だから今。

 ののみちゃんは衣装箪笥の上に立っているんです。

 足を肩幅に開き、腰を軽く落として、後ろに尻を突き出し、目に見えない対戦相手に向かって「どこからでもかかって来い」というように両手を広げているのです。

 ののみちゃんの体が刻むビートはやはり「サンバのリズムを知ってるかい?」でしたが、ののみちゃんの心が刻むビートはミル・マスカラスのテーマなんです。これが以外とシンクロしているのです。

 虫の知らせというのがあるのでしょうね。

 ののみちゃんのお母さんは目を醒ましました。

 知ったことではありません。

 その驚愕の顔。

 その怯えた目。

 知ったことではありません。

 ののみちゃんの、知ったことではないんです。

 お母さんは割とすぐに、そこにいるのがミル・マスカラスではなく、ののみちゃんなのだと気がつきました。


 そりゃそうですよね。

 ののみちゃんの体がミル・マスカラスになったわけじゃないんですから。

 それに毎日顔をあわせてるんですから。

「あんた、なにバカなことやってんの」

 もうそこには驚愕はありません。

 怯えもありません。

 ののみちゃんを脱ぎ捨てた臭い靴下そのものだと思わせるような、そんな目です。

 敬意のかけらも、親しみのかけらも、全くない目です。

「あんたが変なことやってるから目が覚めちゃったじゃないの。一度起きちゃうと中々寝られないのに、本当に、あんたは」


 −−戦うのだ。自由になれ。重力を引き剥がし、華麗に飛ぶのだ。

「いいからさっさと出てって、あんた」

 −−重力から解き放たれるのだ。ののみ。

「鬱陶しいのよ」

 −−ののみ、解き放つのだ。


 ののみちゃん、フライ・ハイ。

 飛び上がって、フライ・ハイ。

 伸び上がって、フライ・ハイ。

 曲げた右肘を、フライ・ハイ。

 叩きつける、フライ・ハイ。


 こうして。

 ののみちゃんは。

 ののみちゃんは、今。


 歓声と熱気で蒸し風呂みたいになった後楽園ホールにいるんです。

 この世に食べ物は三種類。ラーメンか焼肉かチャーハンだけだ--そういう宗教に入っていそうな、実にほどほどにいい感じの男達が後楽園ホールに満ちているんです。

 そして全員が、ホール中央でキラキラと眩しく輝いている四角いリングに顔を向けているんです。

 ののみちゃんはそんな男達の中にいるんです。

 黒字にショッキングピンクでミル・マスカラスの勇姿が印刷されたTシャツを着ているんです。スニーカーにジーンズです。

「お姉さん、見えますか?」

 前に立っているムキムキがマッチョマッチョした男が振り返ってののみちゃんに聞きます。

 どうみてもおばあちゃんなののみちゃんをお姉さんと呼ぶのですから、ムキムキがマッチョマッチョした彼は、大変きちんと育てられた立派な青年のようです。

 ののみちゃんは「大丈夫ですよ」と答えます。

「時々、悪い顔した選手がこっちまできますけど、怖い顔してても殴られたりしませんから」

「そうそう、びっくりしますけど」

 左右のムキムキがマッチョマッチョした男達が言います。

 みんなとても親切です。

 ののみちゃんが初めてプロレスを観にきたと知るや、色々なことを教えてくれるのです。

「あ、ほら! 始まりますよ!」

 あの曲が流れ始めました。

 そう。

 ミル・マスカラスのあの曲です。

 ののみちゃんはポケットからあの日、幻想のミル・マスカラスから貰ったあのマスクを取り出し、それを被りました。

「すごい! 気合バッチリじゃないですか!」

 隣のムキムキがマッチョマッチョした男が手を叩きながら言います。


 あの日。

 ののみちゃんの放ったエルボーは、ののみちゃんのお母さんの顔の横、ふかふかの枕に沈みました。

 ののみちゃんは吃驚しているお母さんを置いて、スタスタと部屋を出ました。

 月にいるみたいでした。

 こんなにも体が軽いなんて、ののみちゃんは知りませんでした。

 ののみちゃんはスタスタと廊下を歩き、スタスタと自分の部屋に戻りました。

 お母さんの金切り声と、その金切り声のせいで目を醒ましたお父さんの怒鳴り声がデュエットしています。

 ののみちゃんの知ったことではありません。


 ののみちゃんはショルダーバックに必要なものを詰め込みます。

 通帳、現金、カード、ハンコなどなど。

 持って行こうと思うような個人的なものはありませんでした。

 お気に入りの本も、服も、お人形も、なにも。

 ミル・マスカラスのマスク以外は。


「おいおい、ばあーさん。マジかよ、おい」

 窓の外で月が開いて、あのガラの悪い男が顔を見せました。

「バカなのか? なぁ? やっちゃえばよかったろ? びびったの? かぁーっ! 意気地なしだなぁ! ここまできて」

「びびってなんかいませんよ」

 ののみちゃんはぴしゃりと言いました。

 これが私の声かしら? とちょっと不思議に思うくらいしゃんとした声でした。

「私は飛んだんです。飛べたんです。だからもう、他のことなんかどうだっていいの。エルボーが当たろうが、当たるまいが、もう、あの人たちは、私にはなんの関係もないの。あの人たち、あの重力は、もう、私には何にもできないんだから。私がそうさせないんだから」

 ののみちゃんはいつのまにか部屋の中に両腕を組んで立っていたミル・マスカラスにも言いました。

「私、完全に自由よ。だって、戦えるってわかったから。飛べるってわかったから。そういうことなんでしょう? あなたが伝えたかったのは」

 ミル・マスカラスは満足げに頷いて何かをいいましたが、吹き替えボタンも字幕ボタンも押し忘れていたので、彼がなにを言ったのか、ののみちゃんにはわかりませんでした。

 月の男はまた月を閉じてしまいましたし、ミル・マスカラスも消えてしまいました。


 ののみちゃんはキビキビした足取りで家を出ました。もう戻りませんでした。

 ののみちゃんの家族はののみちゃんがいなくなってすごく困っているかもしれませんし、全然困っていないかもしれません。

 どちらでもいいのです。ののみちゃんの知ったことではありません。

 行くあてはありませんでしたが、なんとかなりました。


 今、ののみちゃんは栃木で介護の仕事をしていて、そこで友達を4人作って時々ドトールでお茶を飲んだりして、ささやかなお庭のある部屋を借りていて、時々遊びに来るご近所の小学生のよくわからないスマホゲームの話に付きあってあげたりしています。

 上々の生活です。


 ののみちゃんは思います。

 これからはなにも失うことはないし、仮に失ったとしても、それで倒れてしまうことはないだろうと。

 だって、ねぇ。

 ののみちゃんは、戦えるんですからね。

 自分のために。


 本物のミル・マスカラスがリングの中で舞います。

 ののみちゃんは四方をムキムキがマッチョマッチョした男達に囲まれながら、本当のミル・マスカラスを応援します。

 たった一度、テレビで観ただけの、ののみちゃんのWater。


 


 どこまでも、華麗にフライ・ハイ!

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