勇者になりたかった僕は英雄になった

佐々木 篠

第1話 繰り返しの日々

 頼もしく思えた屈強の兵士が、切り結ぶ事もなく絶命した。


 寝食を共にした年の離れた友が騎兵に蹂躙される様を、僕は遠くで見ていた。


 息遣いが聞こえる。雄々しき声は悲鳴に変わり、そこかしこで女の名前が聞き取れた。


 サラ、サラ。


 右に倣えと僕も幼馴染みの名前を叫ぶべきだったのかも知れないが、漏れ出る音は否定だった。


「いやだ……そんな」


 目前に王国の兵士が居る。剣を振り上げた。


 僕は帝国から支給された長剣を抜く事すらせず無様にも尻を地に付けている。こんなはずではなかったのだ。勇者に憧れ、王女との恋物語を期待し、幼馴染みのもとに戻る事を誓った。だけどそれは叶わない。


 敵が剣を振り下ろした。


 遠い。どこまでも遠い。こんなにも身近な出来事だというのに、僕には迫りくる死がとてつもなく遠いものにしか思えない。




――――そうして僕は、初めての死を経験した。








「クレール、そろそろ支度しないと遅れるわよ!」


 ばしん、と胸に衝撃が走り、僕は飛び起きた。心臓が止まったと思った。いや、止まったとしか思えない。そもそも脈動している事自体が異常で、目の前の幼馴染みは幻にしか過ぎない。


 夢だ。走馬灯か、それともこれが死後なのか。何れにしろ泡沫の夢でしかない。浮かび上がった泡は消える定めにある。それは神様が設計した世界で、僕の常識でもあった。


「何呆けてんのよっ。初陣でそんなんじゃ、流れ矢に当たっても知らないんだからね!」


 辛辣な言葉だ。でもそれは言葉を鵜呑みした場合のみに適用され、つい昨日まで号泣していた姿を知る者にはそれがただの強がり、心配の裏返しだという事が分かる。サラはそういう人間だった。


「ちょっと、聞いてるの!?」


 頬を両手で挟まれ、強制的に面と向かう形になる。透き通った碧眼が燭台に照らされた部屋の中で煌めいた。


 僕はその段階になってようやく、まじまじとサラの顔を見つめた。


 両親の手伝いとして弟たちに混じり農業を営んでいるというのに、その肌は病的なまでに白い。肩で切り揃えられた金髪が動きに合わせてさらりと音を立てる。……紛うことなき美人である。まだ美少女といった方が適切かも知れないし、以前の僕は認める事はなかったが確実に村一番だと言える。




「サラって……かなりの美少女だよね」




 瞬間、衝撃が頬で炸裂した。


 強制的に右を向かされた首の筋が少々のダメージを残している。


 僕は死後も痛いんだ、とどこか見当違いの感想を頭の中で述べながら、首を労わるようにそっと正面を向き直した。……そこには雪のように白い肌を鮮血のように赤く染めるサラが居た。耳まで赤くなっており、毛はどことなく逆立っているような気がした。


「ば、馬鹿にしてるのね!? そうね、そうに違いないわ! クレールの癖に生意気!!」


 彼女は喚くだけ喚くと、凄い勢いで部屋を出ていった。


 ぽつんと一人自室に取り残され、僕はする事もないので辺りを見渡した。僕の部屋だ。昨日脱ぎ散らかした服も、読みかけの羊皮紙もそのままにしてある。


「……昨日?」


 昨日とは死の数日前、初陣による興奮でなかなか寝付けなかったあの日の事だ。あの日置き去りにし、そして失われてしまった世界が広がっていた。


 司教様は死後、魂は善道と悪道に振り分けられると仰っていた。善道を進む魂は肉体が消滅したあとも、同じく善道を進む愛すべき人との再会が約束されているらしい。となるとこれがその再会なのか。しかし僕は確かにサラを好いてはいたが、サラも同時に僕を懸想していたとは考えられない。それは希望的観測でしかない。


 愛すべき者が居て、その愛すべき者には別の愛すべき者が居る……この場合、天はどういった処置を施すというのだろうか。もしかすると都合の良い愛すべき者を創ってしまうのでは……そう考えてしまい、ぶるりと身を震わせた。


 人の創造は禁忌だ。昔あらゆる病や怪我を治す聖女は、神を語る魔女として火刑に処された。


 しかし……神であれば赦されるのだろうか。僕は偽りのサラを前に、笑う事は出来るのだろうか……いや、出来るのだろう。だから寒気を感じたのだ。外見は寸分狂わず一致して、自分に好意的な者であればきっと思考を停止してしまうだろう。だけれどそれは、考えられる限り最大で最低の冒涜に思えた。


「これは夢なのか?」


 自問する。答えは出ない。それどころかぐぅ、と腹の虫が鳴く始末。


 死んでも腹は減るのか、と我ながら妙なところに関心を覚え、朝食を取るために自室を出た。


「お腹空いた」


「うっさいわね! 座って待ってなさいっ」


 サラはこちらを一瞥すらしなかった。しかし耳の赤みは取れていなかった。


 彼女が温めているのはスープだ。名前も無いし具材も毎日変わる。たまに豪勢な日は一欠片の肉が入っており、今日は――――かなりの量の肉がスープの中に隠れていた。記憶の中での今日は、という注釈が付くが。


「お待たせ」


 照れ隠しか少々乱雑に置かれた皿にはなみなみとスープが入っており、記憶と寸分違わず肉も入っていた。香辛料は高価なので少量の塩で味付けされたそれは決して美味しいものではないのかも知れないが、いつも食べているものなのでよく分からない。ただ言えるのは、今日は肉が多い分味も良い。これに固めのパンを付けて食べれば農作業も捗るというもの。ただし今日はその作業はなく、僕は領主様の元へ参上しなければならない。


 それは冷害があったとはいえ、規定分を献上出来なかった事に対する罰であった。


 本来なら献上分は足りていたのだが、サラの家が足りなかった。弟たちもまだ若く、反対に親父さんはもう年だ。戦争に耐えられるとは思えない。だから僕が犠牲となった。


 どちらかといえば本を読む人間なので戦争に不安を感じないわけでもなかったが、一応農作業もこなしていたのでまあなんとかなるだろう、くらいにしか考えていなかった。活躍すれば少額だが報奨金も出るため、新しい本が買える! なんて夢を見ていた。


 夢を見た結果、今夢を見ている……なんともいえない皮肉だ。


「美味しくない……?」


 サラが不安そうに小首を傾げる。そりゃそうだ。こんなにも豪勢で、肉たっぷりで……美味しくないわけがない。もう会えないと思ったサラが目の前に居るのだ。あの死が自分の内側に潜り込んで来る感覚を味わってから、妙に身体が冷える。その冷たさを、このスープは和らげてくれている。


 だがどうしろというのか。「僕は死にました」とでも言うのか。


 何も言えない。何も伝えられない。これが夢なのか現実なのかも分からなくなった。


 今が夢で、あれが現実。それともあの死はただの悪夢なのか。何も分からない。上か下かも定かではない。ただ溢れる涙が、こぼれ落ちる方が下だと教えてくれていた。


「クレール!?」


 僕の涙を視界に収めた彼女がおろおろと、お玉を持ったまま右往左往する。


 悲しかった。でもその姿は面白くもあった。


 その所為か気付けば僕の涙は笑いに変わっていて、サラを取り残したまま笑っていた。死んだあの時、僕は心にも傷を負ったのかも知れない。


「ご馳走様!」


 僕は一気にスープを平らげ、固いパンをふやかす事すらせず口に詰め込んだ。


 逃げよう、とサラの手を取ればあれは回避出来るかも知れない。でもサラは困るだろう。両親を、弟たちを残して逃げようとはしないだろう。


 ……だったら、生き残るしかない。夢かも知れないが――――いや、夢だからこそ生き延びよう。これを神様がくれた奇跡と思い、繰り返さないようにしよう。


「待ってクレール! 待ちなさいよ!」


 家を飛び出した。家族はみんな畑だろうから、寄っている暇は無い。


 領主様の家までは半刻もかからないし、武器などは全てそこで支給される。だから荷物も何もかもを置いて、僕は走った。


 不思議と上手くいくような気がした。あの日のように気分が高揚している。神様の奇跡を以て、僕は勇者になるんだ!






 ◇






「あのー……、クレールと言います。どうぞよろしく」


 返答は無い。たらい回しにされた挙げ句この遊撃部隊に配置されるのは二度目なので、僕も対応というものは分かっていた。何もしないのが正解だ。


 最初は私語を嫌う屈強な戦闘集団と思っていたが、ただ意思疎通の取れない弱卒である。前回は真っ先に逃亡していた、いわば僕を見捨てたくそったれなやつらだ。本当にただの寄せ集めというか、ごみの溜まり場みたいなものだ。遊撃部隊と言えば聞こえは良いが、ただの孤立した部隊と言えばそれで終わりだ。誰も僕たちに戦果を期待しちゃいない。


 だが好都合だ。僕が逃げても誰も気にしない。生き残れる。今度こそ家に帰る事が出来る。


「くそ、報告はまだか!?」


 僕は希望に満ち溢れているが、周りはピリピリとしていた。


 今回僕がここに居るのも緊急の招集なのだ。本来はのんびりと領主様の家の警備をしていれば終わる仕事だったのが、何故か王国の兵士に襲われて死んだ。理由こそ分からないが、王国の兵が来る事自体は分かっていたようだ。


 今も斥候が戻って来ないと騒ぎになっている。


 前回は緊張とか興奮でそんな騒ぎを気にしなかったが、今なら少しは気持ちが落ち着いている。


 もう少し、あとほんの少し。


 太陽が分厚い雲に遮られ、雨が降るより早く敵はやって来る。


 領主様の元へ参上してから二日目。この日、敵が来た事に間違いは無い。だから敵は来る。……いや、来てくれ。来て欲しい。早く帰りたい。




「敵襲ッ!!」




 来た!


 僕は急いで逃げようと足を動かし――――転けた。すてん、と。


 頭の中が疑問符で埋め尽くされる。


 わけの分からないまま見た自分の手は、驚くほど白くなっている。力を入れすぎていたのだ。


 足はがくがくと震えている。身体が言う事を聞かない。僕の心は、未だあの時の死を乗り越えていなかったのだ。身体は生き返ったけど、心はまだ死んでいた。


「いやだ……そんな」


 気が付いたら王国の兵士が目の前に居た。


 否定の言葉が口から出た。自分は勇者では無かったのか? あの奇跡はなんだったのか?


 答えは出ない。出ないまま懸命に身体を動かそうとする。死にたくはなかった。


「――――け。……動けえええええ!!」


 敵が振り上げた剣を振り下ろした。


 僕は絶叫しながら支給された剣を抜き放ち、気が付いた時には地面に佇んでいた。


 下を見る。


 首から血を流す王国の兵士が居た。


 かひゅ、と穴から空気を漏らしながら懸命に両手でそれを塞いでいた。しかし血は止まらず、やがてびくんびくんと痙攣しながら絶命した。


「……死んだ?」


 いや、殺した? 僕が?


 その疑問に答えが生まれるより早く、僕の首は胴体から離れた。






「クレール、そろそろ支度しないと遅れるわよ!」


 ばしん、と胸に衝撃が走り、僕は飛び起きた。

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