第20話 ~フィリピン~ 一九八四年九月 <20>

  (このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)



       〈二〇〉



  「僕は翌朝早く、矢部に電話をかけた」。高野さんは話をつづけた。「彼の話というのは、要点を手短にまとめると、彼の長いあいだの友人で、小林という名の男がフィリピンで事業を始めようとしていて、その件で調査をしたいから、僕に手伝ってほしいといっている、という内容だったよ。…僕みたいな男がフィリピンにいるという話を矢部は、前に、世間話のついでに、小林にしたことがあったんだって。

  「小林は三重県の四日市市でボタン工場を経営している人物で、その工場では、高級衣類用にいろんな種類の貝殻ボタンを製造しているということだった。

  「正直に言うと、トゥリーナ、貝殻ボタンを製造しているところがまだ日本国内にあるなんて、僕は知らなかったよ。矢部が説明してくれたところによると、この分野で生き残っている工場はもう、小林のところを入れても日本にはほんのいくつかしかなくて、ほかはみんな、低い労賃を活かして操業できる外国の競争相手に駆逐されてしまったらしい。

  「だから、小林は常々、自分が生き残るためにはもっとコストを下げなければ、と考えていた。特に、貝殻の買いつけと輸入のコストをね。これまで小林は、ボタンの原料の貝殻を赤道近くの―フィリピンを含めた―いくつかの国から、神戸にある小さな貿易会社を通して輸入していたんだ。     「そんなある日、彼ははあるフィリピン人と知り合った。そして、その人物と、貝殻をフィリピンから直接安く入手するための輸出入事業を共同経営しようという契約を結んだ。それが小林がフィリピンで始めようとしている事業だってわけ。契約では、このフィリピン人は原料用貝殻の買いつけ・輸出システムをフィリピン国内につくりあげ、それを運営することになっていた。

  「契約から数か月が経ったころ、そのフィリピン人から、貝殻買いつけシステムが計画通りにできあがったという報告が小林に届いた。小林が自ら最終的にそのシステムをチェックするときが来たわけだね。

  「だけど、困ったことに―と矢部は言ったんだけど―小林は、話せる言葉は日本語だけで、外国語はまったくだめ。外国に足を運んでビジネスの話をする自信なんかまったくなかった。〔フィリピンでぶらぶらしている〕友人が矢部にいることを小林が思い出したのはそんな状況下でだったらしいよ」

  高野さんはほほ笑みながら、ちょっと唇をゆがめた。

          ※

  「小林は矢部に電話をかけた。それを受けて、矢部が僕のホテルに電話をかけてきた…」。高野さんはゆっくりとしたペースを守って話していた。「矢部のおおまかな説明が終わると、トゥリーナ、僕はためらわずに、小林というその人物がマニラにやって来たらいつでも手助けする、と返事をしたよ。矢部の昔からの友人の依頼なんだから、ここはなんとしても引き受けてやらなくては、という感じでね。手助けの内容も、案内・通訳というところですみそうだったし…。

  「ところが、矢部は〈いや、そうじゃなくて〉と僕に言った。小林自身はこちらにやって来られない、と言うんだ。来られないから、小林は、フィリピン人パートナーがつくりあげたというその貝殻買いつけ・輸出システムが実用的なレベルでできあがっているかどうかを僕に確かめてほしいと言っている、と言うんだ。…経費は当然のこととして、ほかに、かかった日数に応じて謝礼金を小林が僕に払う、という条件で。

  「謝礼金の有無はともかく、〈いいよ〉と僕は思ったよ。〈その小林という男も、いつも忙しく働き回っている、勤勉な、典型的な日本の小企業家の一人なんだろうから〉〈日々の操業の忙しさに追われていて何日間も工場から離れてはいられないってこともありえるだろうな〉ってね。

  「僕が承諾すると、矢部はまず、僕がこちらで会うべき数人の名前と、訪ねるべき数か所のアドレスを僕にくれた。そして、トゥリーナ、たぶん、いま君が推測しているように、そのアドレスはすべてセブのものだった。

  「矢部によると、小林が僕にしてほしいと考えていたのは、第一に、彼らの貝殻買いつけと輸出のシステムが彼のパートナーが報告してきたとおりにできあがっているかどうかを見ること、第二には、できれば、そのシステムが〔パートナーが言うとおりに〕実用的なものかどうか、信頼できそうかどうかを判断、評価することだった」

          ※

  「そうだな」。高野さんは言った。「いま思えば、その調査は〔こっそりと〕、つまり、僕が何者が何者であるかとか、何が目的でそこを訪ねているのかとかを、だれにも明らかにしないでやってほしい、と小林は望んでいる、と矢部に言われたときに、僕はもう少し怪しんでおくべきだったんだよね。小林が矢部に、そのフィリピン人パートナーの名前さえ知らせていなかったことについてもね。

  「いや、矢部には、なぜ〔こっそりと〕なんだろうと、いちおう、たずねてはみたんだよ。矢部の答えは〈そこは聞き漏らしたけど、小林はたぶん、自分がそのパートナーを疑っているのではないかと、そのパートナーに疑われることを危惧しているんじゃないかな〉というものだったよ。

  「僕は〈なんとアジア的な、すっきりしないビジネス関係だろう〉と思ったな。だって、そうじゃない?小林は率直に〈この事業を正式に開始する前に、君が準備したシステムについて必要な調査を僕の方で行なうから、そのつもりでいてほしい〉とそのパートナーに告げることもできたはずだろう?

  「そんなふうには告げられない事情が小林にはあった。いや、彼らの関係は実際にすっきりしてはいなかったけども、それは〔アジア的なビジネス慣行〕などとは無関係だったんだ」

          ※

  「セブ市内のオスメニャ・サークルに面したところにある[ラジャーホテル]に部屋を取って」。高野さんの話はセブでの出来事に移っていた。「僕は翌日、セブ本島と橋でつながっている、セブ国際空港がある島、マクタン島の、その東北端にある[セブ・マクタン・シェル・インダストリーズ]を訪ねた。酋長ラプラプの像とマジェラン記念碑があるところから、トゥリーナ、さらに少し東北に行ったところにある貝殻細工の工場だ。その工場の近くに、フェルナンデスという人物がオフィスを構えているから、見てきてほしい、というのが小林の希望だったからね。

  「このフェルナンデスという人物は、小林のパートナーが小林に送った報告書では、〔ボタン製造のために小林が必要としている貝殻をすべて供給できる人物〕とされていたそうだ。僕は、貝殻細工がどんなものかをちょっとは知っておこうと工場をひとあたり見物したあと、もらっていたアドレスをたよりに、この人物に会いに行った。

  「アドレスどおりの場所に、フェルナンデスは小さなオフィスを構えていたよ。オフィスの殺風景な感じから判断すると、大きな商売をしているようには見えなかったけれども、とにかく、あるべきものがあるべき所にあったわけだ。小林の貝殻買いつけ・輸出システムの、少なくとも一部は確かに存在していたわけだ。…僕のセブでの任務は、トゥリーナ、その調子で、簡単に終わりそうに見えていたよ。その時点ではね。

  「僕は、東京の小さな貿易会社の仕入れ担当者を装って、彼に話しかけた。ミスター・フェルナンデスは…。年齢は五十代の半ばぐらいかな。[セブ・マクタン・シェル・インダストリーズ]と契約して、ふだんはその工場のために、貝殻細工製品の買い手を探したり、原料の買いつけを行なったりしているということだった。…貝殻細工とボタン製造?どこかが違っているように思えたから、僕は単刀直入に、ボタン用貝殻を日本に輸出できるか、と彼にたずねてみた。彼は間を置かず〈セブのどこで採れる、どんな種類の貝殻でも、いくらでも日本に輸出できるよ〉と自信満々で請け合ってくれた。

  「だけど、その〔自信満万〕は長くはつづかなかった。原料の貝殻を、市場向け製造に支障をきたさないように、定期的に、決まって一定量買いつけることができるか、と念を押すと、彼はすぐには答えられなかったんだ。

  「彼は、貝殻ボタンの分野ではそれまで本格的な商売をしたことがないことを素直に認めたよ。もっとも、一方で、彼は〈とにかく、実際に具体的に注文を出してみてくれ。自分に貝殻を供給している業者や猟師を総動員して、日本の会社が必要としている貝殻はどんなものでもすべて集めて見せるから。中に入るあなたには迷惑をかけないから〉と力説することも忘れなかったけどね」

          ※

  「ミスター・フェルナンデスが貝殻ボタンのビジネスに詳しくないという事実、欠点を、だけど、トゥリーナ、僕はあんまり深刻には受けとめなかったよ」。高野さんはつづけた。「なぜといって…。第一には、彼は、貝殻供給者として信頼できると、すでに、ほかならない小林のパートナー自身が判断していた人物だったし、第二には、彼が〔報告書に記された〕場所で実際に商売をしているという事実に僕は満足していたからね。それに、貝殻のビジネスについては、僕自身もまったく知識がなかったわけだから、彼の〔欠点〕がどれほど大きい意味を持つのかが僕にはよく分からなかったんだ。

  「そんなふうだったから、僕が出した結論は単純なものだった。〔小林のシステムの、フェルナンデスに関する部分は、小林のパートナーが報告したとおりに存在していた〕〔フェルナンデスは貝殻ボタンのビジネスについてもっと知識を増やすべきだが、彼のシステムが実用的であるかどうか、彼が信頼できるかどうかについては、会話からは判断できないから、とにかく一度、試験的に発注してみること〕」

          ※

  「ミスター・フェルナンデスに一つ、困った質問をされてしまったよ、トゥリーナ」。高野さんは苦笑した。「貝殻ボタンのビジネスがいま日本ではかなりなブームなのか、とたずねられたんだ。いうまでもないことだけど、僕はそんなことは知らないし、彼が何を根拠にそうたずねてきたのかが分からなかったから、僕は〈なぜそんなふうに思うんですか〉と彼にたずね返した。彼は〈というのは…。さっき、本格的な商売はしたことがないと言いましたね。そして、それはそのとおりなんですけども、日本との貝殻ボタンのビジネスのことで僕に人が会いに来たのは、実は、この半年間で、あなたが二人目だものですからね〉と答えたよ。

  「六か月のあいだに日本に絡んだ貝殻ボタンのビジネスの話が二件、というのは、トゥリーナ、ほら、ふだんはあまり忙しそうじゃない彼にとっては大変なことらしかったな。ある日本の工場にすでに見本を一セット送ったことがある、と言ったときの彼はずいぶん誇らしげな表情だったよ。…その工場の名も、彼に会いに来た人物の名も、彼は口にしなかったし、僕の方からもたずねなかったけども、見本を送った相手というのが小林だったこと、会いに来たというのが小林のパートナーだったことは、間違いないはずだった。

  「だけど、そんなふうに誇らしげだったミスター・フェルナンデスには一つ、あまりおもしろくないことがあった。彼は、日本の工場は見本に満足しているようだという知らせを、彼を訪ねてきた人物から受けていたにもかかわらず、その工場からまだ何の注文も受けていなかったんだ。それが不満だったんだ。

  「僕は〈彼の顧客になるかもしれない日本人、小林は、自分の貝殻買いつけシステムが―あとで話すセブ港のオフィスなどを含めて―完全にできあがるまでは、最初の注文をしたくなかったのではないか〉あるいは〈小林は、ミスター・フェルナンデスが供給業者として信頼できるかどうかを調査してくれる、つまり、僕のような人物を見つけ、調査をすませてから注文を出そうと考えていたのではないか〉そうでなければ〈ミスター・フェルナンデスは、セブ港などのシステムがうまく動かないときに備えた、非常事態用バックアップとして考えられていたのではないか〉などと考えたけど、もちろん、そんなことは口にしなかったよ。…ほかにも、トゥリーナ、小林のパートナーは初めから、ミスター・フェルナンデスを、見本を集めて日本に送らせるだけの人物と考えていた、という可能性もあったわけだけど」

          ※

  「とにかく、トゥリーナ、ミスター・フェルナンデスには何の問題もなさそうだった。話し方も率直だったし、他人をだますような人物には見えなかった。…だから僕は、セブでの三日目は、せっかくやって来たんだからというので、一日中セブ市内を見物して回ったよ。サンペドロ要塞やマジェラン・クロス、サントニーニョ教会堂など、よく知られたところをね。

  「ところで」と高野さんは言った。「これを先にたずねておくべきだったな。…君はセブ島に行ったことがある?」

  「残念ながら、まだ」。わたしは答えた。「そういう名所のことは歴史の本だとか旅行ガイドブックだとかを読んで、知ってはいますけど。…これまで、わたし、ルソン島を離れてどこかに出かけたことはないんです。…すでに二度訪れている日本を除けば」

  「そうか」。高野さんはしばらく言葉をとめてからつづけた。「いつか君にもあそこに行く機会がやってくるといいね、トゥリーナ。興味深いところだから」

  高野さんがそう言うのを聞きながらわたしは、夫セサールがかつて、二人の〔次のハネムーン〕としてわたしをいつか必ずセブ島に連れて行ってやると約束してくれたことがあったことを思い出していた。フィリピン随一の避暑地、バギオへの二日間だけの〔最初のハネムーン〕から戻って二週間ほど経ったころ、旅行中に撮った写真のアルバムを見ながらのことだった。

  「ええ」。だれと、いつ、どういう形でそうなるのかの想像さえつかなかったのに、わたしはあの人に言った。「本当に、そうなるといいですね」

          ※

  「ツギハ たかのサン」。スピーカーから突然、ステージで歌う番がきたことをあの人に告げるマヌエルの声が聞こえてきた。「[フタリノ オオサカ]デス」

  高野さんはマヌエルに〔そんなリクエストをした覚えはない〕と仕種で伝えた。

  マヌエルは高野さんにうなずき返し、マイクロフォンに口を当てた。「りさサント イッショニ ドウゾ」

  「ああ、そうか」。高野さんはそうつぶやくと、リサの方に視線を向けた。「彼女がリクエストしたのか」

  リサはその夜三番目の―日本人とフィリピン人の老若の男女が十人以上という店にはめずらしい構成の―グループ客の相手をしているところだった。

  高野さんの視線に気づいたリサが心得顔であの人に手を振った。

  高野さんは立ち上がってステージに向かった。リサが高野さんの横に立ったのは、あの人が歌詞の自分のパートを歌いだそうというころだった。

  デュエットしている高野さんはとても―リサに負けないぐらい―幸せそうに見えていた。

          *

     <二一>につづく

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