第19話 ~フィリピン~ 一九八四年九月 <19>
(このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)
〈一九〉
レイモンドに自分の〔ソフトドゥリンク〕を運ばせながらリサが高野さんのテーブルにやって来た。彼女は、わたしの隣に、あの人から離れて腰を下ろした。
「さあて、何から話そうか、高野さん?」。リサはいたずらっぽく言った。「もちろん、わたしのどんな質問にも答える心の準備はできているんでしょう?」
「どうかな」。高野さんは心もとなげな表情をつくってリサに答えた。
「そうだな、まず…」。リサは長いあいだ高野さんの顔を見つめてからつづけた。「どこでそんなに見事に日焼けしてきたのか、それから話してもらおうかな。日本で、ではないと思うけど?」
「もちろん、そうではないよ。…どこで日焼けしたか、当ててごらんよ」
「尋ねるのはわたし。…あなたが答えるの!」
「分かったよ、リサ。…セブ島で、だよ」
「セブ?ほんと?」。リサは大仰に驚いて見せた。…自分にひと言も告げずにそんな所に行ってしまうなんて、とは彼女は言わなかった。代わりに、彼女は好奇心に満ちた顔であの人にたずねた。「なんであんな遠い所に行っていたのか、たずねてもいいかしら?ただの観光旅行?」
「その話、始めてしまうと、ずいぶん長いものになるよ」
「時間はどれだけかかってもいいわよ。つづきはあすにしてもらってもいいんだから。…でも、だったら、こんなふうに聞きなおそうかな。そんなに焼けたのは、セブ島のどこで?」
「ありがたいな、それ、簡単に答えられる質問で…。セブ島のすぐ隣のマクタン島の[タンブリビーチ・リゾートホテル]で、だよ。ビーチで二、三日日光浴を楽しんだんだ」
「なるほどね」。リサは大きくうなずいた。「でも、次の質問は、答えるの簡単じゃないかもしれないわよ、高野さん」。彼女は意味ありげにほほ笑みながら言った。「だれといっしょに?」
※
思いがけない質問だった。…高野さんが〔だれか〕といっしょにどこかに行っていた?
いや、リサは、たぶん、いつものように、ちょっと気のきいた会話をあの人と楽しもうとしていただけ違いなかった。彼女も本気でそんなことがあったのではないかと疑ってはいないはずだった。
でも、わたしの心は少し波立っていた。
リサの問いに高野さんはわたし以上に驚いたようだった。あの人はすぐには返事ができずにいた。
「トゥリーナ、見た?」。高野さんの顔に人差し指の先を向けながら、リサは勝ち誇ったような表情で言った。「この人、一人じゃなかったのよ。大変だ!」
「サンダリ ラマング(ちょっと待ってよ)、リサ」。高野さんは顔を赤らめていた。「一人で、だよ。一人っきりで、だよ。だれともいっしょじゃなかったよ。それに、さっきは、タンブリビーチで日光浴を楽しんだんだって言ったけど…。いや、日光浴はしたんだけど…。本当のことを言うと、違うんだ。…楽しんだ、というのはちょっと違うんだ」
「ホントカナ?」。リサはわたしに視線を向け、とても信じられないといった表情を大仰につくって言った。「トゥリーナ、どう思う?」
わたしは答えられなかった。リサの口調をまねて高野さんに「ホントカナ?」とたずねかけるしかできなかった。
高野さんはリサに答えた。「ホントダッテ。誓うよ」
※
「イラッシャイマセ!」。新たな客を迎え入れるエドガルドの声だった。
ほとんど反射的にリサが立ち上がった。テーブルの上に置いていたタバコの箱に高野さんが手を伸ばした。わたしはぼんやり、しばらくはまた高野さんと二人きりになってしまうのだと思いながら、自分の前に置いてあった使い捨てガスライターをつかんだ。
リサはためらっていた。それに気づいた高野さんがタバコの箱を元の位置に戻し、リサの顔を見上げた。リサは上体を高野さんの方にかがめ、ひと呼吸してから早口であの人に言った。「わたしね、数日のうちに日本へ発つことになっているの」
たちまち、高野さんの表情が曇った。「ほんと?そんなに急に?」
「あとでまた話に来るから…」。リサはあの人の肩をてのひらで数度軽くたたいた。
リサの背を見送りながら高野さんは言った。「[さくら]からフィリピーナがまた一人、日本へ去って行くんだね」
「淋しくなりますね」
「そうだね。五か月ほど前に僕が初めてこの店に来たときからでも、二十人以上の女の子が日本に行ってしまって…。そのたびにどこか淋しい思いをしてきたけれど、今度は…」
※
長い沈黙のあと、高野さんは再びタバコの箱をつかんだ。
てのひらに握ったままでいたライターで火をつけてやりながら、わたしはたずねた。「セブ島に行くって、なぜ、だれにも告げずに出かけちゃったんですか」
「知らせてから行きたかったんだけど…」
高野さんの次の言葉を待たずに、わたしは言った。「リサももちろんそうでしたけど、メルバが…。アノコ トテモ シンパイシテ…。カワイソウデシタヨ、ホントウニ」。これだけはメルバに代わって言っておかなければ、と考えていたことだった。でも、その口調には〔メルバに代わって〕という以上の思い入れがこもっていたかもしれない。
「悪いことをしたと思っている」。高野さんはメルバの方に視線を向けながら言った。「セブ島行きがこんなに長くなることが分かっていたら、マニラを発つ前に何としてもここに立ち寄っていたんだけど」
「何にしても」。わたしは言った。「これからはメルバをシンパイさせちゃだめですよ。約束してください」
「約束するよ」
わたしはあの人に向かって大きくうなずいて見せた。…胸の中の安堵感が顔に表れすぎないように気を配りながら。
※
わたしはリサが残していった話題に話を戻った。「で、とにかく、高野さん、あなたはセブ島と、そのすぐ隣の小さな島、マクタン島に行っていたわけですね。でも、そんなに急に出かけたところを見ると、マジェラン記念碑を仰いだり、族長ラプラプの像に敬意を表したりするために行ったわけではないんでしょう?」
「族長の像には大きな敬意を表してはきたけど、ああ、それが目的ではなかった」
「では?…もし、かまわなければ」
「ああ。…じゃあ、そうだな、トゥリーナ、そういうことなら、最初から話すことにしようかな。なぜ、二週間以上もここに顔を出さなかったかを」
「ええ、ぜひ」
「そう?…さっきリサに言ったように、長い話になってしまうよ」
「さっきリサが言ったように、〔時間はいくらかかっても〕かまいません。…その彼女はいまここにいませんけど、わたし、あなたから聞いた話をあとで、折を見て、彼女に伝えます」
「分かった。…たまたま君と初めて話した夜のことだけどね」。高野さんはゆっくりと話しだした。「[さくら]からホテルに戻り、ロビーに足を踏み入れると、たまたま受付カウンターの中にいた、ホテルのベルボーイの一人で、いまでは僕の親しい友人でもあるティムが、待ちかまえていたかのような勢いで僕に近づいてきた。…日本からのメッセージがある、ということだった。深夜で疲れてもいただろうに、ティムはすこぶる上機嫌に見えたよ。なぜって、僕が思うに、あのホテルに何か月も滞在しているのに、それまで僕にはそんな交流が…。つまり、だれかが日本から電話をかけてくるみたいなことがなかったからね。彼は胸の中のどこかで、気づかってくれる家族とか友人とかが僕には日本にいないんじゃないかみたいに心配してくれていたんだろうね。そこへ、ついにメッセージ。彼、ほっとしたんじゃないかな。…ありがたいことだと思っているよ。
「で、そのメッセージは、僕の親しい友人―高校のクラスメイトだった矢部という男―が残したものだった。翌日にでも電話をかけてくれ、という内容だったよ。…そのメッセージで僕の忙しい二週間が始まったってわけ」 高野さんはそこで話をとめると、吸っていたタバコをみょうに時間をかけて灰皿の中でもみ消した。
「この話、君にはおかしくも楽しくもないものになるはずだよ」
「どんな話でも聞かせてもらいます」。わたしは決然とした口調で応えた。
※
店にはもう一組、グループ客がやって来ていた。その応対のために、リサはいっそう忙しく動き回っていた。メルバはまだおなじ三人連れの客についていた。
*
<二〇>につづく
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