第14話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <14>
〈一四〉
「もう一度、すごく―これまで話してきた〔申し出〕以上に―驚かされることがあったんですよ」。メルバは話しつづけた。「ミスター高野がついにお店に戻ってきた夜のことです。わたし、自分に起こっていることがなかなか信じられませんでした。まず、あの人のテーブルにまた呼ばれることが、わたしが想像していなかったことでしたし…。ですから、わたし、ひどくぎこちないあいさつしかできませんでした。あの人はそんなこと、少しも気にしなくて、以前とおなじように、ただ優しくほほ笑んでいました。
「タバコをひと息吹かしたあとにミスター高野が口にした言葉も想像外のものでした。あの人、こう言ったんです。〈ごめんね、メルバ。学校に戻れるようにしてやれなくて〉って。あの人、ここでもちょっと悲しそうでした。…わたし、そんなふうに謝られるなんて考えていませんでしたから、どう応えていいかが分からず、思わず〈それでいいんです〉って答えてしまいました。ばかな対応でしょう?…〈わたしの方こそ〉と、数日前の自分の無作法を詫びるいいチャンスだったのに。
「ミスター高野はなんで〈ごめんね〉なんて言ったんだろうと考えているときでした、あの人が〈だけど、君のために僕がしてやれることがまだ一つあると思うから…〉と言ったのは。何を言われているのか、わたし、分かりませんでした。…ミスター高野は、とまどっているわたしの目を見つめながら、ひざの上に置いていたわたしの手を取ると、てのひらを上に向けさせ、その上に封筒をのせました。〈これをお母さんために使ったらいい〉と言いながら」
※
「そうなんです。それ、お金だったんです」。いまでも信じられないといった表情でメルバは言った。「封筒の厚さから、それが大金だってこと、わたし、すぐに分かりました。でも、わたしは頭が混乱してしまいました。母の病気のことは、わたし、ミスター高野には話していなかったからです。わたし、考えました。考えて、ミスター高野はそのことを〔ママ〕リサから聞いたのに違いないと思いました。バタンガスから戻ったあと、〔ママ〕だけにはそのことを聞いてもらっていましたから。〔ママ〕から話を聞いて、ミスター高野は数日間考えてくれていたんですね。わたしのためにしてやれることがまだ何かあるのではないかと。…ショックでした。すごく恥ずかしいと思いました。だって、バタンガスからの帰りのバスの中で、あの人のことを、わたし、どんなふうに思っていたでしょう?あの人のことを両親はどう考えていたでしょう?…わたしをだまして売春婦にしてしまう?
「ミスター高野はつづけてこう言いました。〈これを使いながら、日本での仕事はゆっくり探したらいいよ。急ぎすぎて、君のような経験の浅い女性をだますことばかり考えている悪いプロダクションに引っかからないように。本当にいい機会が見つかるまで気長に待っていた方がいい。…いまの僕はこれぐらいしかしてやれないけど〉
「ミスター高野に〈ありがとうございます〉と言うまでにずいぶん時間がかかってしまいました。本当に、死ぬほど恥ずかしかったんです。…前の申し出を受けていたら、ミスター高野は、間違いなく、約束どおりに、わたしをカレッジに行かせてくれていただろうと思うと、その恥ずかしさがいっそう大きくなりました。
「数日後には、わたし、こう考えるようになっていました。あの人の〈ごめんね〉という言葉は、わたしの家族の状態がそんなに―お金を稼ぐ責任がわたしの肩だけにのしかかっているというほど―悪いということに思いいたらなかったこと、そんな家族全体を救うだけの財政的支援をすることが自分にはできないことを詫びるものだったんじゃないかって。…詫びる理由なんかなかったのに。
「そうでなければ…。結局はカレッジに戻れないことがはっきりして、わたしがどんなに落胆しているか、心がどんなに傷ついているかを、ミスター高野は感じとって、自分も傷ついていたのかもしれません。いえ、きっとそうだったと思います。あの人はそんな人なんです。いまのわたしはそう思います。…あとで、胸の動悸とたたかいながら寮の浴室でこっそり数えてみたら、封筒の中のお金の額は母のお給料の一年分に近いものでした。その額は、たぶん、母の入院費とその後の治療費、さらには,、そうしなければならないのならばですが、家族の生活費やそのほかのことに使うのに十分なものでした。少なくとも、数か月間は。その間、わたしの稼ぎが家族の唯一の収入源ということになっても」
※
「ミスター高野に教えてもらったとおりに、翌日、エルミタにある銀行に間に合わせの口座を開き、お金を預けておいて、わたし、次の休みの日にまた田舎に帰りました」。メルバは話しつづけた。「前回とはまったく違うバスの旅でした。母の入院治療費、いえ、それ以上のお金が〔わたしの〕銀行口座に入っていました。〔反乱〕の計画はもうありませんでした。あの緊張感、心の昂ぶりも当然ありませんでした。…一方では、もしかしたらカレッジに行けるようになるかもしれない、という大きな期待もなくなっていたんですけど。
「ミスター高野が今度は何を申し出てくれたかを知ったとき、両親はほとんど息がつけなくなってしまいました。…二人とも、ミスター高野を誤解していたことを、わたしとおなじぐらい、恥ずかしがっていたんだと思います。
「二人にそれ以上気まずい思いをさせるときじゃないって思いはあったんですよ。でも、わたし、両親に〈ミスター高野が最初の申し出のときも本気だったこと、誠実だったことが、これで分かったわね。エルミタの銀行にあるお金がそのことを証明しているわね〉って言わずにはいられませんでした。…継父が言葉をなくして天井を仰いでいる前で、母はしょげ返っていました。
「母はその夜遅く、お金は、ミスター高野の意思どおりに、自分の入院治療費として使わせてもらう、それ以外の目的には使わない、決してほかに流用しないって、目に涙をためながらわたしに誓いました。
「次の日、バタンガスから早めに戻ってくると、わたしすぐに、お金を両親の銀行口座に送金しました。母はいまごろはもう、田舎の病院に入院して治療を受けているはずです」
※
「ミスター高野はあれを最後に、わたしが最初にバタンガスから帰ってきたとき、なぜあんな態度だったのかとはたずねないし、わたしがいつかカレッジに行けるようになるといいね、みたいなことも話題にしなくなりました。
「わたし、やっぱり、おなじ夢を二度、それも二度目は、それ以上はないという確かさで、失ったって気がしてるんですよ。わたし、また学生生活を送るんだって夢はもう持っていません。でも、そのことを悔やんだりは、もうしていません。…自分の夢を実現させるために〔反乱〕まで企てて、自分にできる限りのことはしてみたのだし。それに、その夢があんまり現実的なものではないってことも、ミスター高野の申し出があったにしろ、なかったにしろ、遅かれ早かれ、分かるようになっていただろうって、そんなふうに思うようになったんです。…早く分かってよかったのかもしれません。なぜって、自分のいまの仕事にまっすぐ、迷いなく打ち込めるでしょう?
「短いあいだに、本当に、いろんなことが起こりました。みんな稲妻みたいに、大きなショックで、あっという間に過ぎ去っていって…。わたし、いまは、家族のために果たさなきゃならない大きな、大きすぎるほどの義務があるからといって、重すぎるほどの責任を背負っているからといって、そのことではくよくよしていません。ミスター高野のおかげで、大金を銀行に預けられるようにまでなって…。両親もこれまでのどんなときより心丈夫に感じていますし…」
※
「何もかも落ち着くべきところに落ち着いたようです。…そんな気がしています。一つのことを例外として…。ほら、安定した仕事がないのに継父はなんで自分の田舎にへばりついているのだろうっていう疑問。どうしてもっと働いてくれないんだろうという不満?
「実の父に似て、わたしも心が邪悪なのかもしれませんね。でも、わたしの推測どおりに、継父が教師として学校に戻りたいという夢を持っているんだとしたら、わたし、いまでも〈それ、不公平だ〉と思うような気がします」
「あなたの心はもちろん邪悪なんかじゃないわ」。わたしは応えた。それから、ブラカンの両親のもとにあずけている娘二人の姿を思い浮かべながらつけ加えた。「あなたのいまのお父さんがどんな夢をお持ちか、わたしには分からないけど、メルバ、あなたの妹たちのような幼い子供たちにとっては、父親と母親がいつもそばにいてくれるというのは、それだけで、とてもいいことだと思うわ」
「そうですね」。メルバは静かにほほ笑んだ。「そのとおりですね。そう考えると心につかえていたものがとれるような気がします。そう考えて暮らしていれば、いつか継父が違って、良いように、見られるようになるかもしれませんね」
*
<一五>につづく
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