第13話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <13>
〈一三〉
メルバはしばらく口を開かなかった。
わたしは黙って彼女の顔を見つめつづけていた。
「わたし、継父のことであれこれ考えていましたけど、そんなことはもう問題じゃありませんでした」。メルバは、言葉を選びながら、ゆっくりと話しだした。「そうでしょ?わたしたちの家族は、何が何でも、とにかくすぐに大金が必要だったんです。わたしのカレッジ進学のことをのんびりと話し合っている状況じゃなかったんです。継父がどこかで働いてくれているあいだに、田舎に戻って、何か手仕事みたいなことをしながら自分で勉強をつづけ、一年後の受験に備えるというような図を描いているゆとりは、わたしにはなかったんです。[さくら]で懸命に働いて、それでも間に合わないでしょうから、一日も早く日本に行って、できるだけたくさんお金を稼ぐしかなかったんです。…催眠術をかけられたみたいに途方もないことを空想している余裕なんか、もう、わたしにはなかったんです。
「翌日、マニラに戻るバスの中で一人きりになると、わたしの胸にいろんな怒りが込み上げてきました。まずは、いくら家族の財政状態が悪いといったって、わたしの夢にほとんど理解を示してくれなかった両親に対して。…わたし、〔メルバ、カレッジに進みたいというあなたの望みは十分に理解している〕〔カレッジ教育を受けさせることができなくてわたしたちも心底から悔しい思いをしている〕というような言葉を両親から聞きたかったんだと思います。
「次には、カラオケホステスとして働きつづけてくれとわたしに言う以外には選択の余地がなかったはずの両親に、まるで、家庭の実情を知らない幼い子供のわがままみたいに、ミスター高野の申し出のことを告げてしまった自分に対して。
「それから…。カレッジで勉強したいって夢は捨てるしかない運命にあるんだと覚悟していたわたしにまたおなじ夢を抱かせ、その夢がまた―今度は最終的に―粉々に壊れるところをわたしに見させたミスター高野に対して。
「いえ、もちろん、そうじゃなかったんですよ。わたしの夢が壊れたのは、わたしの家庭の事情からで、ミスター高野の申し出が原因じゃなかったわけでしょ?でも、あのときのわたしはすっかり気落ちしていましたし、頭の中が混乱していましたから、〈もしミスター高野があんなことを言い出していなかったら〉って考えてしまいました。〈言い出していなかったら、わたしはもっと長いあいだ夢をみつづけていられたのに〉〈その夢にすがって、励まされて、もうしばらくは、いくらかましな未来像を胸に思い描きながら、カラオケのホステスとして働いていられたのに〉って。〈あの人のせいで、これからの人生を、わたしは何の夢もなしに生きていかなきゃならないんだ〉って。
「バスがエルミタに着いたときには、わたしの心の中の暗いところで、ミスター高野はすっかり悪者、邪悪な人になっていました。わたしの小さな、最後の夢を打ち壊した張本人になっていました。
「あれは本当にどうしようもない、最低のバスの旅でした。…疲れきって、寮の自分のベッドに腰を下ろしたとき、わたし、自分がまるで失望のどん底を見てきた人間であるかのように感じていました」
※
かけてやる言葉など何一つ思いつかなかった。…わたしは〈メルバが見てきたものは本当に失望の〔どん底〕だったのだろうか〉と訝っていたのだった。そんな底の底を見てしまったというには、彼女はやはり若すぎるように思えてならなかったからだった。
「そんなわけで」。メルバはつづけた。「バタンガスに帰る前とおなじようにミスター高野に親しく振る舞うことなんか、もう、わたしにはできませんでした。…その夜も、お店はいつもどおりに夜七時にオープンしました。時間の経つのが速かったこと。田舎に戻ったときのバスの中でみたいに、だんだん神経が昂ぶってきて…。ミスター高野が現れたときにへまをしちゃいけないから、わたし、できるだけ平静でいなければって、懸命になっていました。
「ミスター高野は九時半ごろやって来ました。表情を少しこわばらせながら…。〔ママ〕リサと短い会話を楽しんだあと、あの人はわたしを指名しました。わたし、あの人の顔を見ることができませんでした。〔コンバンハ〕という言葉は何とか口に出しましたけど、わたし、視線はミスター高野からそらしたままでした。〈この人にあれだけははっきり伝えなくっちゃ〉という思いで、頭がいっぱいになっていたんです。だって、バタンガスの実家でやったのとおなじ―言いたいことが言えないという―失敗をまたするわけにはいきませんでしたから。
「ですから、簡単なあいさつの交換が終わると、わたし、いきなり、ミスター高野からどうだったかときかれる前に、強い調子でこう言ったんです。〈あの申し出では受けられません〉」
※
わたしはたずねた。「高野さんの反応は?」
「とてもがっかりしたようでした。…とても。悲しんでいるようにさえ見えました。本当に悲しんでいるように。ミスター高野がそんなふうに反応するなんて想像していませんでしたから、わたし、少し動揺してしまいました。両親に言われたことで頭がいっぱいになっていて、わたし、わたしが断ればあの人はきっと怒りだす、怒ってわたしをテーブルから去らせる、去らせて、代わりにほかの女を二、三人テーブルに呼ぶ、そうでなければ、急に席を立ってお店から出ていくかもしれない、と考えていたんです。…わたしを惑わせようという企て?そういうのが失敗したことを知って。
「ミスター高野は数分間黙り込んでいました。それから、ぽつりとわたしにたずねました。〈何をそんなに怒ってるのかな、メルバ?〉。自分がミスター高野の目にどう写っているかなんて、わたし、まるで気にしていなかったんですね。そうたずねられて初めて、自分がどんなに険しい表情でいるかに気づきました。
「わたしは〈なんにも怒ってなんかいません〉って答えました。でも、その声はやはり、ふだん友だちやお客さんに向かってしゃべるときみたいには優しくはありませんでした。…いま振り返ってみれば、あれ以上無礼になろうとしたってなれなかったほど、わたし、無礼な態度を取っていたんです、ミスター高野に対して。
「そんな状態でしたから、ミスター高野に、前とおなじように優しい口調で〈ところで、お母さんや妹さんたち、元気だった?〉とたずねられたときには、わたし、いっそうとまどってしまいました。そんなとまどいを押し殺し、母の病気が悪化していることを隠して、わたし、とにかく〈みんな元気でした〉って答えたんですけど、隣に座っているミスター高野は、バタンガスからの帰りのバスの中で考えていたのと違って、〔邪悪な人〕にも〔悪者〕にも見えませんでした。というより、あの人は以前と変わらず、悪意なんかまるで感じさせない、ただただ善良な人に見えていました。…わたしの頭の中は整理がつかなくなり始めていました。
「黙り込んでしまったの、今度はわたしでした。わたしが思い込んでいたことと違って、ミスター高野はわたしのことを怒りもしなければ、だれかと交代させようともせず、そのままそこにいて、タバコを吸いつづけていました。…それ以上は何もわたしにたずねようとせず。
「そろそろ帰る、と言われたとき、わたし、すごくほっとしました。でも、ほっとしたのはつかのまのことでした。ミスター高野がお店を出ると、わたし、たちまち心配になってきたんです。…自分がとんでもない失敗をしでかしたんじゃないかって。あの人にあんな態度を取ったのは間違いじゃなかったのかって。
「それからしばらく、わたし、なんだかぼうっとしていました。…やがて、お店が閉店するころには、ミスター高野について両親がわたしに言ったこと、しまいにはわたしも信じてしまったことが、わたしの耳にまったく違って聞こえるようになり始めていました」
※
「ミスター高野は数日間、いえ、正確に言えば、四日間、お店に顔を出しませんでした。そんなことって、それまで一度もなかったのに」。メルバは言った。「気が気じゃありませんでした。…あの人、あの日はあんなふうに静かに帰っていったけど、胸の奥ではやっぱり怒っていたのか、ななどと思い悩んで。
「ミスター高野がどうしているか、あの人に何が起こっているか知らないかって〔ママ〕リサにきかれたときは、返事の言葉がすぐには見つからなくて、わたし、途方に暮れてしまいました。何とか〈知りません〉って答えましたけど、あの人がそんなに何日もお店に来ないのはわたしがあの申し出をあんな形で断ったからだ、としか考えられませんでした。そうでしょう?
「わたし、時間が経つにつれ、ミスター高野があんなに、ですから、悲しんでいるように見えるほど、がっかりしたのはなぜだったんだろうかって考えるようになりました。それから、そもそも、わたしを学校に行かせてやろうと言い出したのはどういう理由からだったんだろうって思案するようになりました。…あんなに優しげで悪意のない表情の人に他人をあざむくことなんかできないはずだ、という思いがますます大きくなっていく中で。でも、答えは簡単には見つかりませんでした。
「間もなく、わたし、あれ以上のこと―ミスター高野について両親が言った類のこと―をあの人に言わなかったのは幸運だったと感じ始めました。…間違いばっかり。何か新しいことが起こるたびに、ある考えからまた別の考えに大きく揺れ動いて。ほんのちょっと前のことなのに、わたし、あのころのわたしは本当に幼稚で愚かだったと思います」
*
<一四>につづく
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