第2話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <2>

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  メトロ・マニラのどんな場所でどんな危険が待ち受けているかをわたしは高野さんに説明しようとした。でも、すぐに、そんな説明はまるで手遅れだということが分かった。わたしが名を挙げたほとんどの場所の探訪を高野さんはすでに、どんなトラブルに出くわすこともなく、終えていたのだった。

  「それにしても」と、右手を上げ、宣誓でもするかのような格好で高野さんに言った。「高野さん、あなたほど英語が流暢な日本人には、わたし、いままで会ったことがありません」

  〈わたしのボーイフレンド、克久とその親友である富田雄三さんはめずらしい例外ですけれども…〉とは言わなかった。わたしはつづけた。「でも、忘れないでくださいね、英語がりっぱにしゃべれるから絶対にだいじょうぶ、というわけではないことを」 

  「ああ、そうするよ」。あの人はほほ笑みながらわたしの方に向き直った。あの人がわたしにちゃんと顔を見せたのは、たぶん、あのときが最初だった。

          ※

  高野さんの目には本当の誠実さがあふれていた。…わたしにはそう見えた。

  わたしはふと、高野さんに悪い、という気がした。…あの人の安全を口先でだけではなく、本気で、心底から心配いたのかどうかが自分でもよく分かっていなかったからだった。

  わたしはほかの話題に移りたかった。でも、苛立たしいことに、何も思いつかなかった。

          ※

  高野さんは、二重まぶたの、どちらかといえば小さい目をしていた。頬骨が高めで、唇が輪郭できりっとしまっていた。

  でも、克久がそうだったように、細めのあごと色白な肌が、あの人をいくらか繊細な感じに見せていたかもしれない。たぶん、三十五歳ぐらい。日本人としては背が高い方だけれども、自分の背丈は一七五センチメーターだと言っていた克久ほどではなさそうだった。

          ※

  「君が…」。高野さんの声が耳に飛び込んできた。克久のことを思い出していたわたしは、その声で現実に連れ戻された。「英語のじょうずな日本人にあまり出会わなかったとすれば、それはたぶん、君がこれまで、たまたま、そういう場所にいなかったからじゃないかな。英語をうまくしゃべる日本人は、この国にもたくさんいると思うよ。たとえば、マカティ市に派遣されてきている、世界に知られた働き者のビジネスマンたちはどうだろう?」

  確かに、と思った。フィリピン経済の中心地であるマカティには、銀行や株式ブローカー、製造業者、鉱山会社など、ありとあらゆる業種の企業が集まっていたし、外国系企業もその重要な構成要素なっているのだった。…なるほど、マカティ市内の現代的な高層ビルのうちのいくつかに足を踏み入れる機会が過去にあったなら、わたしはそこで、英語の達者な日本人にたくさん出会っていたかもしれなかった。

  「おっしゃりとおりです」。わたしは答えた。

          ※

  いったい日本の、日本人の、何がわたしに分かっていただろう。

  一九八〇年の十二月から翌年五月までの六か月間―日本を訪れるフィリピン人シンガーとしては一番歌がへたな方だったはずだけれど―福岡のカラオケの店で働いたことがあった。

  あのときは、初めて見る日本がわたしが想像していたものよりははるかに豊かだったのでずいぶん驚いたものだった。…町がすごく清潔に保たれていて、落ち着いていて、こざっぱりとしていることにひどく感心させられたりもして。

  それからほぼ一年後、わたしは東京の浅草で働いていた。二度目の日本だった。その間に、当然ながら、わたしは日本のことがもっと分かるようになっていた。…新しい知識を幅広くわたしに与えてくれたのは克久と富田さんだった。

  でも、それだけのことだった。日本に関するわたしの知識は限られたものだった。  「いずれにしても、高野さん」と、わたしは冗談めかせて言った。大仰な世辞に聞こえるのは避けたかったからだ。「今夜は、お互いの言うことがこんがらがらないで会話ができるお客さんに出会えて、わたし、本当に感謝しています」

  そう言い終えたあとのわたしの頭を満たしていたのは、けれども、もう高野さんの英語力のことなんかではなかった。克久が以前わたしに告げた言葉をわたしは思い起こしていたのだった。

  〈日本と日本人のことをできるだけ知らなくちゃね。トゥリーナ。君はこれからの人生をきっと日本で過ごすことになるはずだから>

  まだそうなってはいなかった。わたしはマニラで、克久の国で働ける次の機会を待っていた。

  胸の中でため息が洩れた。〈夫セサール。…そして、克久〉

  「〔こんがらがらないで〕か。それはよかった、トゥリーナ」。高野さんが明るい声で言った。

  克久のイメージをまた高野さんに重ねていたことに気づいて、わたしは無性に恥ずかしかった。

          *


     <3>につづく

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