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 にぶい天村あまむらにはそんなこと思いつけないだろうけど、わたしはいぐるみから針桐はりぎりが悩んでいることを聞き、しめた、これはいいことを知ったぞ、と思った。彼女の抱えているらしき問題の解決にうまいこと関与できれば、わたしの目標は完遂したも同然である。

 実際に手助けをする必要はまったくないし、するつもりもない。偶然悩みを知ったわたしが、解決しようと頑張っていた、という情報が針桐に伝わりさえすればよいからである。問題解決のため本当に奮闘してしまうのは、労力の無駄な消費にしかならない。

 それでも最低限、問題とは何か、ということは突き止めなければいけない。わたしはこの必要条件を胸に留めつつ、駅のロータリーに到着したバスを降りた。コインロッカーに鞄を入れる。チケットと、小銭入れと、少し迷って、タオルを持っていくことにした。頭を振り回したり拳を突き上げたりおしくらまんじゅうをしたりする予定は全然なかったけど、熱気で汗をかくかもしれない。ライブに行く事自体が生まれて初めてなので、こういう用意の加減がよくわからない。

 チケットに記された地図にしたがって歩き、特に迷うことも無く開演十分前に目的地のライブハウスにたどり着いた。

 すぐに目に飛び込むのはライブの予定日を示すポスターやちらしの数々である。YouTubeで見たことのあるミュージシャンが夏休みにここへ来ることを知り、そんなにこのライブハウスは偉いところなのかと感心すると同時に、嫌な気分がこみあげてきた。いつもの風景、いつもの時間の中へ不意に異物が侵入してきたときの、あの目眩に似た感覚を思い出したからだ。

 非日常。わたしの嫌いなもの。

 そうか、ここはなのか、と今更身構える。

 入り口をくぐり、チケットを切ってもらおうとしたときだった。受付で、スタッフが客とおぼしき人ともめている。

「当日券は無いんです。事前に買った人しか入れません」

「なんとかならないんですか」

 背の低い男子だった。服のセンスはあどけないし、声変わりすらまだ終わっていない。二つか、あるいはもっと年下だろうと推測できる。

 受付の人がわたしに気づく気配が無いので、わたしは「すみません、入ってもいいですか?」とこれ見よがしに声をかけると、その男子はぐるりとこちらに振り向き、ずかずかと歩み寄ってきた。勢いに気圧され、思わず後ずさる。

「あのお」声には必死さとも微妙に異なるうっとおしい熱量がこもっていた。ヘアアイロンをかけているのか、前髪だけが他の部位に比べ極端にピンと伸びている。瞳孔が開いていて、こいつはやばいとわたしは心のバリアーを張った。それを悟られないよう、慎重に応対する。

「なんでしょうか」

「チケットを譲ってくれませんか?」

「はあ」

「ダメなんですか?」

 ちらりと受付に目をやったら、スタッフは我関せずといった面持ちで爪をいじっている。まことに懸命な判断である。

「申し訳ないんですけど、チケットはお譲りできないです」

「それじゃあ、買います。いくらで、売ってくれますか?」

 前髪くんはバッグから財布を取り出す。ふっかけて高値で売れば得だぞとわたしの中の悪魔が囁いたが、ここに来た目的を思い出し、踏みとどまる。

「そんなこと言われても、困ります。後から来るお客さんがもしかしたら売ってくれるかもしれないので、そちらを頼りにしたらどうですか?」

 わたしははた迷惑な他力本願によって強引にこの関門を突破した。うちの軽音部は実力があると聞いてはいたが、ああいう年齢層の低い、しかも熱狂的なファンまでついているとは驚いた。

 ますますひどくなる目眩を我慢しながら狭い通路を抜け、壁一面ステッカーだらけのロビーに出ると、予想よりも人がうじゃうじゃといた。浮ついた雰囲気が、今度はわたしの体をこわばらせる。大体がわたしと同じ高校生だということは見た目から判断するまでもなく今日のライブの主旨からして明らかなのだが、制服を着ていないため、他の学校の生徒がどれくらい混じっているかまではわからない。壁際で話し込んでいる人もいたが、ほとんどはいい位置取りを確保するためなのか、徐々にフロアの方へ移動し始めていた。

 ドリンクをもらって、わたしもフロアに入る。前方のガヤガヤとした群衆からは距離を置き、一番後ろの壁にもたれかかった。左右を見渡すと、他にもわたしと似たスタンスでこの場に臨む人たちがぽつぽつといる。もっとも、彼らの目的はライブをじっくり鑑賞することであり、ステージに立つ人間をじっくり観察するためではないとは思うが。

 その最後列にポジションを構える人たちの中に、見たことのある女子がいた。

 彼女を見たのは今回で三度目だった。一度目は火曜に、駅ビルのカフェ。針桐と一緒だった。二度目はつい昨晩。やはり針桐と一緒に、バスロータリーのベンチに座っていた。

 栗色の髪に白いブラウス、水玉模様のミニスカートを履いたその女の子は、ひとりの男子に話しかけられている。男子の方が積極的にコミュニケーションを図ろうとしており、女子は明らかに警戒していた。フロアの暗がりの中でも記憶と照合できるくらい華やかな雰囲気をまとった子だから、こういうところでナンパされていても不思議ではない。一方ナンパをしている方はと言えば……よく見るとこちらも、見覚えのある顔だった。

 わたしの視線に、男子の側が気づく。

「あれ、潤朱門うるみかどさん?」

 爽やかな笑顔でこちらに駆け寄ってきたのは青柳簾あおやぎすだれ、水泳の授業を天村と一緒に見学している子だった。クラスの女性陣から上がる、なぜ水着になってくれないのかという欲望むき出しの声から、彼がたいそうモテていることが伺える。

「俺、五組の青柳っていうんだけど、わかる? 素雄もとおから何か、聞いてたりしない?」

 当たり前のように天村の名が出てきたのでわたしは驚いた。わたしと彼の関係を虚実含め知っているのは、高校では針桐と弋だけのはずだからだ。

「君のことは有名だから知ってるけど、何で天村くんからってことになるの?」

「なんかあいつ最近、潤朱門さんのこと気にかけてるんだよ。知らなかった?」

「そうだったんだ」

 天村はもしかしてこいつにも秘密をばらすようなことをしてしまったのだろうか。週明けに会ったら問いただそうか。

「それにしても、こういう形で話せる機会がやってくるなんて思わなかったな。潤朱門さん、美人で性格も良さそうだから、いつか仲良くなりたいと思ってたんだよね」

 さらりと褒め言葉を挟んでくる。初の会話で「仲良くなりたいと思ってた」と完了形にしてしまうあたり、距離の詰め方が尋常でない。今はもう仲が良くなっているということを既成事実にしてしまっている。けれども嫌らしさは感じられず、こういうことを言い慣れているのだなと思う。コミュニケーション能力を研ぎ澄ましているという意味では、わたしに近しいところがあると言える。

 わたしは目線を彼の後方に向け、

「さっきまでナンパしてたあの子はもういいの?」と青柳に聞くと、

「え? ああ、ちょっと待ってて」

 と頼みもしないのにその女の子を連れてきた。女の子はおずおずとわたしたちの顔を交互に見比べた。

「この子ね、鶸沢ひわさわ沙綾さあやさんって言って、針桐さんの後輩なんだって。可愛いでしょ?」

 青柳がそう紹介すると、鶸沢と呼ばれた女の子はどうもと言ってぺこりとお辞儀をした。

 この子が針桐とつながりがあることはもちろん知っている。

 これはチャンスだ。スイッチが切り替わる。あくまで青柳の慣れ慣れしさに追従するかたちを保ちつつ、わたしは自然と彼女の懐に入る。

「青柳くん、可愛い沙綾ちゃんに、わたしのことも紹介してよ」

 そうでした、と青柳がわたしの横に仰々しく並ぶ。

「この美人様は、潤朱門茜さんと言って、針桐さんと同じクラスなんだ」

「君はいちいちそういう形容を織り交ぜないと話せないの?」

「事実をそのまま述べているだけのはずなんだけどな」

「聞いた? 沙綾ちゃん。この人はお世辞じゃなくて、事実としてあなたのこと、可愛いって言ってるんだってさ」

 鶸沢は、ふふ、と照れ笑いを浮かべる。

「おふたりは、仲がいいんですか?」中学生にしては礼儀正しすぎる気もするが、距離を置こうとしているわけでもない。好意的にすら聞こえる口調だ。しっかりした子、という可能性もあるが、単純に媚びるのが得意なのかもしれない。

「まあね」

「嘘つかないでよ。今初めて会話したばっかなのに」

「そのことと、仲がいいことは、矛盾しないでしょう?」

 わたしは鶸沢の後ろ側にまわり、天村との事件のときみたいに、彼女の左腕をナチュラルに抱えた。

「沙綾ちゃん。この人、誰にでもこんな感じなんだよ。わたしたちは騙されないように、気をつけようね」

 そんなあ、と青柳がわざとらしくべそをかいてみせる。それを見て鶸沢はもう一度笑った。わたしも内心ほくそ笑む。

 青柳が期待以上に上手い受け答えをしてくれたおかげで、彼女を手中に収めるというタスクは難なく達成できそうだった。最近の針桐が悩みを抱えており、かつこの子とよく一緒にいるということであれば、彼女から針桐の悩みを聞き出すことができるかもしれない。

 いきなり無重力の空間に放り出されたかのように、ふっと会場が静かになった。フロアに流れていた音楽が止んだのだ。次いで、照明が一段階落ちる。足下が覚束なくなり、少し足の間隔を広げて体勢を整えた。

 とうとう始まるのだ。

 前方から、外国語めいた言葉がステージに向かって飛んでいる。わたしは青柳に訊ねた。

「あれ、何て叫んでるの?」

「潤朱門さん、もしかして今日のライブの詳細を知らない?」

「選抜バンドのお披露目だってことだけ」

「その選抜バンドの名前が、『プリオシン』って言うんだ」

「ぷりおしん?」

「そう、『鮮新世プリオシン』」

 わっと客が湧いた。ステージ脇から、針桐がやってきたのだ。センターで分けられた黒髪はいつものままに、グレーのカーディガンと、黒のカーゴパンツ、それにヒールの低い赤のパンプス。あまり夏っぽい出で立ちではないが、それが逆に会場内外の断絶、フロアの非日常感を強調しているかのようだ。

 なかなか、他のメンバーが出てこない。そのまま針桐はあらかじめステージ上に立てかけられていたアコースティックギターを手に取り、ひとりでギターのチューニングを始め出した。それでもまだ残りは現れない。

 声を落として、もう一度訊ねる。

「これどういうこと」

 青柳は人差し指を振る。

「毎年このライブの一曲目は、ソロって決まってるんだ。そこでボーカルは、自分自身で作詞・作曲した歌を披露する」

 わたしは率直な感想を述べた。

「ボーカルだけ、負担が大きい」

「バンドの花型だから、しょうがないね。まあ、作詞に関してはあらかじめテーマが与えられてるし、そこまで困ることはないんじゃないかな」

「テーマ?」

「バンドの名前にちなんだ歌詞にするんだよ」

 そのようなことを言われても、そもそも「鮮新世プリオシン」とはなんなのか、そこがわかっていない。

「『銀河鉄道の夜』に、そういう名前の海岸を訪れる章があるんだ。だから、その章で出てくるワードとかを、詞に引っ張ってきたりするってこと。でも、作品自体のことを、歌ってはいけない。それだと毎年似たような歌詞になっちゃうからね」

 テーマがあるからあまり困ることはないと青柳は言ったけれども、それは逆に難易度が高いのではないだろうか。わたしは、針桐が悩んでいた原因とは案外こういうところにあるのではないかとも考えた。ただもしそうだとしたら、今日のライブが終わってしまえばその悩みは解消されてしまうわけで、そうなるとわたしの目論見は失敗に終わるのだが。

「青柳くん」

「なに?」

「詳しいね。毎年このライブ見に来てるわけでもないでしょう」

 いや、というか、と青柳は自分を指さした。

「俺も、軽音部だからね?」

 こんばんは、と言う針桐のマイクにより増幅された声がフロアを縦断した。こんばんは! だとかいぇーい! だとかいったレスポンスが群衆から上がる。

「第八八期『鮮新世プリオシン』のボーカルを務めさせていただきます、針桐きさぎと言います」

 はりぎり! きさぎ! と再びレスポンス。部員かOBがサクラとして叫んでいるのかもしれない。

 針桐は右耳に髪をかける。仕草がいちいち、艶っぽい。

「伝統というのは恐ろしいもので、わたしはその伝統によって今ひとりでこの場に立たされています。度胸試しということだそうです。とても緊張しています」

 リラックス! 頑張れ! と微妙に矛盾したアドバイスが飛び交う。

「僭越ながら、自作の曲を披露させていただきます。短く拙い歌ですが、どうか温かい気持ちで聴いてやってください」

 そこで針桐は一旦口をマイクから遠ざけるために横を向き、ふう、と大きく息を吐いた。そして前に向き直る。

「それではライブ、スタートです。一曲目は、『水源』というタイトルです」

 弦をいたわるかのように丁寧なアルペジオが奏でられ始めた。ゆるやかな曲調である。それに釣られるようにして観客の立てる音の波が遠くへひいてゆき、夜の海のような暗い静けさの中で針桐のたっぷりと息を吸う音が響いた。


 

君のためにわたしのすべてを捧げる

それにまさる喜びなんてないけれど

そんなことがもし言えてしまったのなら

これほど楽なことはないだろう


わたしの世界に君が存在している

それにまさる幸せなんてないけれど

そんなことをもし知られてしまったのなら

これほど怖いことはないだろう


遡る途中で川底をのぞけば

とりとめもなく水が化石を洗うばかり


大事なことを言い忘れたまま

よどみなく時が流れてほしい

水源からとおざかる君の心に

声のとどかないことを祈って歌う



 アウトロの最後の一音が鳴り止み、ありがとうございましたと針桐がお辞儀しても、会場はしばらくの間静寂のままだった。やがて誰かが思い出したように拍手をすると、まもなくフロアは割れんばかりの歓声に包まれた。

 隣のふたりも拍手をしていた。青柳は「これはとんでもないね」と唸り、鶸沢は黙ってステージ上の針桐を見つめている。

 いや、違う。鶸沢は、針桐を見つめているというより、睨んでいるのに近かった。目は潤んでいるが口は固く結ばれていて、半分泣いているような、半分怒っているような表情だ。拍手はしているので、歌が悪かったとは思っていないのだろうけど。

 そして、わたしはどう感じたと言えば。

 正直、参った。

 歌詞の良し悪しまでは、さすがにわからない。おそらく「川」だとか「化石」だとか言った少々浮いている単語が『銀河鉄道の夜』からとられていて、そこから連想的にラブソングっぽい歌詞を構築したのだろう。それ以上のことは、思い浮かばない。

 ただ、その歌声や演奏である。人の心がわからないわたしにも、美しさという観念は備わっている。その観念をそっと取り上げて直接ゆすぐような歌声と、棘やささくれを丹念に取り除いた音色によって優しく慎重に仕立てあげられた演奏だった。

 わたしが避けてきたものが、針桐に集約されているような気がした。

 あらゆる意味での「ひとつ」が、そこにはあった。

 彼女にしかつくれない歌詞、彼女にしか出せない声、彼女にしかできない表現が、彼女にとっての最初のライブで混ざり合う。そしてわたしはそのような一回限りの場にたまたま居合わせてしまった。

 わたしの「論理」にとってこれは、頑として否定し、拒絶し、嫌わなければいけないものだった。

 それでもわたしは、針桐を手に入れなければいけない。彼女に警戒されたままでは、いけない。それは観客の反応を見れば一目瞭然だった。いくら針桐のわたしに対する態度が警戒にとどまっていたとしても、それだけで彼女を慕う者達は明確な敵意をわたしに向けかねない。

 弋を味方につけることができて、本当によかったと安堵する。天村が先走ったときはどうしようかと思ったが、予想以上に功を奏していたようだ。

「潤朱門さん、大丈夫?」

 顔を上げると青柳が心配そうにこちらの様子を伺っていた。ステージには他のバンドメンバーがあらわれ、それぞれ自己紹介をしている。

「いや、ちょっと針桐さんのすごさに、びっくりしただけ」

「そうでしょう? 俺も選抜オーディションで演奏を聴いたとき、度肝を抜かれたからね」

「それじゃあ、青柳くんは針桐さんのことも当然のように狙ってるんだ」

 からかうつもりで言った。そして実際に青柳は、彼女にもアプローチをしてるものだと思っていた。

 ところが青柳はこめかみを掻くと、

「いやあ、針桐さんは、どう考えても脈が無さすぎるでしょう」

 意外な答えだった。

「熱狂的なファンが増えそうだから?」

 そんな理由で青柳が自身を失くすとも思えなかったけれど、一応そう聞いてみる。案の定、違うよと答えられた。

「歌詞。わからなかった?」

「わたし、『銀河鉄道の夜』読んだこと無いから」

「針桐さんの歌詞は、ほとんどオリジナルみたいなもんだよ。ほんとにわからなかった? 潤朱門さんなら、もしかして気づいたかもしれないと思ったんだけどな」

「期待に添えなくて申し訳ない。答えをお教え下さい」

 青柳は腕を組み、悔しそうな表情をした。

「あの切実な歌はね、多分、素雄に向けられたものだ」

 次の曲がスタートする。ドラムもベースもキーボードも入った、まさしくバンドの音圧だ。観客がわっと歓声を上げ、フロアは厚くて重たくて鋭い大音量に満たされる。

 わたしは思い返した。

 天村や弋が、針桐から今回のライブに来るのをとめられていたということを。針桐の目の前で、わたしと天村が付き合っていると公言してしまったことを。それを聞いた針桐の、何の変哲もなかったの表情を。

 体の芯から小さな穴のいくつも空く音がした。それらから次々と糸のように立ちのぼる、濁った空気の流れを感じる。空気は熱を帯びている。

 熱に飲み込まれないよう、理性を働かせようと努める。もう一度、自分がここに来た根っこの目的を振り返る。その目的が、現在どれくらいの難易度をもってして目の前に立ちふさがっているのかを、再計算する。

 もしかしたらわたしは、あのときと同じように、とりかえしのつかないことをしてしまったのかもしれない。

 音の壁が空間を衝いた。その拍子に空気の糸がぶつかり合って強烈な熱風の束と化し、火の粉をまき散らしながら足から頭まで一気に駆け巡る。

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